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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第9章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第9章: 一人/一つの神と、彼の預言者


アケナーテン(モーゼス)が、紀元前1378年に、テーベに姿を現したのは、彼がまだ10代の頃であったと、学者達は一般的に同意* します。この年代測定は、彼が紀元前1394年に、ザルウで生れた事と合意します。彼がテーベに登場した当時、彼は未だ、彼の誕生において与えられた名前、アメンホテップ** として知られていました。私達は、彼の幼少期/青年期について、殆ど知りません。彼の幼少期に、彼の父、アメンホテップ3世の主要な住居で、王位後継者が通常、貴族の息子達と共に訓練され、教育されたメンフィス(の街)で過ごしたと言う証拠は全くありません。彼の振る舞いと、彼が得た知識の種類は、ザルウにおける彼の幼少期の後に彼は、エジプトにおける早期の宗教的な中心地であり、太陽神、ラーの信仰の中心で、その寺院が其処に建てられた、現代のカイロの北東に位置する、ヘリオポリス(聖書的なオンの街)において教育されるために送られた事を示唆します。ユヤ(ジョセフ)の義理の父は、ヘリオポリスの祭司で、そしてユヤの長男で、アケナーテンの叔父にあたる、アネン(マナセ)によって引き継がれたのは、同様な祭司的な役割でした。

アケナーテンは、高度に発達させられた、神、アテンについての見識と共にテーベに現れ、それが示唆するのは、彼が幼少期の間から、ザルウにおけるアテンのカルト(信仰)に拘わっていたはずであると言う事です。その様な信仰が、その地域で、その若い王子の祖父、トトメス4世(紀元前1413-1405年)の時代から現れ始めたと言う多くの示唆を私達は有し、彼(トトメス4世)は、私達が見た様に、ユヤ(ジョセフ)を彼の大臣として任命したと信じられます。アテンのための、一番最初の寺院は、このザルウの街に現れた様です。トトメス4世の統治の時代のザルウの知事、ネビーの称号の一つは、「アテンの寺院の hnt (湖、または湖のエリア)の主要な水の管理者」でした。アケナーテン(モーゼス)が生まれる以前でさえ、私達が前に見た様に、ザラウの娯楽の湖において、彼の父と母が乗った船は、アテンは輝と名付けられていました。聖書が「ゴシェンの地」と呼ぶ - (ナイル川の)三角州の東部の地域のザラウ湖における信仰の長く続いた本質は、アケナーテン(モーゼス)の王座を後継したツタンカーメン(トゥット・アンク・アメン)のお墓の中に置かれたワインの甕の表面の文章によって示唆されました:「統治5年目。ザラウ[から]のアテンの館の甘いワイン。主任ぶどう酒商人、ペン・アムン。」

* 例えば、トロント大学のドナルド B. レッドフォード博士です。

** アメンホテップは、彼の父との合同統治の5年目まで、彼の名前をアケナーテンに変更しませんでしたが、私はこの時点以後、彼をアケナーテン(モーゼス)と言及します。

彼の統治の20年目(紀元前1386年)、その若い王子が場面に登場する8年前に、アメンホテップ3世は、彼の主要な居住地を、メンフィスから、高エジプトのテーベ、現代のルクソールに変更する事を選択しました。紀元前16世紀に、小規模な村々の集まりであったテーベは、その後、巨大な国際都市へと成長しました。それはまた、国家的な神、アムン・ラーの座でした。その街の名声は、部分的に、紀元前16世紀の初頭に、三角州東部からの、ヒクソス族の侵略者達を打倒し、追い返すために結束したのは、テーベの王子達であったと言う事実に起因しました。その宗教的な重要性もまた発達したのは、何故なら、アメンホテップ3世の祖父、アメンホテップ2世(紀元前1436-1413年)の統治から、ラーの太陽カルト(信仰)と、アムンのカルトの間の、徐々にではありますが、発展していった融合が起こったためです。これは融合された神の地位を、大いに増大させました。その他の神々の太古の信仰が、地域的に繁栄し続けた間、アムン・ラーの信仰は - 気前の良い寄贈、土地、黄金、そして奴隷の豪勢な贈り物の様な - 王族の加護を受け、そして受け続け、とても好意的だったので、それは国家の執行部の片腕に成りました。

アムン・ラーはまた、テーベの建築を圧倒しました。ルクソールの寺院は、主に、アムンの信仰的な像が、カルナックのアムンの寺院からルクソールまで、スフィンクスの通りを通って運ばれる、毎年のオペットの祭事の舞台として、アメンホテップ3世によって創立されました。テーベ(ルクソール)の北2マイルに位置するカルナックは、100ヘクタール以上を覆った宗教的な建物の巨大な複合体でした。3つの主要で神聖な地区は、アムン、ムット(ハゲワシの女神でアムンの配偶者)、そしてモントゥ(隼の頭をした戦争の神)の神々に奉げられていました。

そのナイル川を挟んだ対岸の土手に、アメンホテップ3世は、彼自身のための豪勢な家 - マルカタの宮殿複合体を建てました。彼自身の宮殿は、私達が見た様に、彼の統治8年目(紀元前1398年)に完成しましたが、恐らく4つの宮殿と同時に、調理場、貯蔵庫、居住区域、そして王の死後に、彼のスピリットに奉仕するための、霊安的な寺院を含む、その複合建造物の全体は、彼の統治の30年目(紀元前1375年)近くまで、完成されませんでした。アケナーテン(モーゼス)がテーベに到着すると、彼はマルカタの宮殿複合体に入居しました。彼の母親は、彼を待っていた、子供の頃から親しみのある唯一の顔ではありませんでした。その宮殿のその他の入居者達に含まれていたのは、その若い王子の叔母で、彼の父の妹/妻であるシットアムン、そして彼の腹違いの姉である彼女(シットアムン)の娘、ネフェティティでした。ですが彼は、彼の命に対する危険無しで、テーベに落ち着く事が許されましたが、アケナーテン(モーゼス)が容認された/お気に入りであったと言われる事は出来ません。紀元前1378年に、彼の父と共に、共同統治者として、彼が王座へと昇進する前の、彼の唯一の記録は、「真の王の息子、アメンホテップの所有物」と記載された、マルカタにおける、年代鑑定されていないワインの瓶の印に見つけられます。「真の王の息子」と言う表現の使用が示唆するのは、王座を継承するために、彼の究極的な権利に対する - 疑う余地無くアムン派の神官達からの - 当初の挑戦でしょう。

アケナーテン(モーゼス)がテーベに到着した当時、老年と共に王が健康を損なっていたので、強力な個性を持つとして知られている女王ティエが、王座の背後の、益々影響力を増す存在に成っていました。この増大した影響力は、彼女の名前が、それ以前の女王達とは異なり、以前は統治している王に限られていたカートゥーシュ(印)に、頻繁に現れる様に成り、そして王族の法的/名義的な権利にも含まれたと言う事実に反映されています。更に加えて、彼女は王と同等の地位を持つ存在として表されました。

彼女の息子が最終的に王座を継承する事を確かにするために、彼が、(正当な)後継者である、彼の腹違いの姉、ネフェティティと婚姻する様に計らったのは、彼女の様です。モーゼスを、王の共同統治者として任命する様に、彼女の夫を説得したのもまたティエのはずで、敵対的な神官達と貴族達を懐柔するために、ネフェティティの役割が特別に強調されました。

アケナーテン(モーゼス)が、彼の父と共に合同統治者だったか否かは、学者達の間で限りない論議の題材でした。ある人達は、彼はそうでは無かったと言いますが:私は彼が - 12年間、そうであった - と主張します。提示された証拠には、ワインの瓶の明細、浅浮彫、カルト(信仰)、カートゥーシュ(印)、寺院、パイロン(塔/門)、石碑、石棺、石像、壁画、手紙、ノーメン(誕生時の名前)、パラエノーメン(即位時の名前)、そして王達の統治の長さが含まれます。私の見解において - 紀元前1378年から、アメンホテップ3世が亡く成る紀元前1367年までの - 12年間を示す証拠は圧倒的です。読者に、(私がその他の場所で扱った)これ等の様々な観点についての、長い論議の重荷を乗せないために、その証拠の主要な部分の幾つかをまとめる事で十分でしょう。

アメンホテップ3世の名前が記載された数多くの遺物は、アケナーテン(モーゼス)の統治の4年目(紀元前1375年)に始まり、テーベと現代のカイロのほぼ中間に、アケナーテンによって建てられた、新たな首都、テル・エル・アマルナにおいて発見されました。アメンホテップ3世は、女王ティエと共に、アマルナで見つけられた多くの貴族達のお墓や小さな石碑に、彼(アメンホテップ3世)が生きて健在であった事が、全て特徴的なアマルナの芸術スタイルにおいて彼を体現し、表されています。これは、数多くのエジプト学者達によって、新たな都市が建設されていた時に、アメンホテップ3世は生きていて、其処に訪れさえしたかも知れない証拠として受け取られました。

例えば、アマルナのアテン寺院の主任監督者、パネヘシーの家の中に見つけられた石碑は、アメンホテップ3世と女王ティエが、山積みにされた捧げ物の前に座しているのが表現されています。アテン(太陽)神が、彼等の上で、彼の後期の形状で、輝いているのが描写されているので、それが、アケナーテンの統治8年目の後半よりも以前である事は出来ません。此処においてその年老いた王は、太い首と、もたれた頭と共に、現実的なアマルナ・スタイルで描写され、当時の彼の老年が示唆されています。その場面自体と、付属する文献のどちらにも、その王が既に亡く成っていた事を示すものは何もありません。彼は、通常、亡くなった王を表すオシリスの形状では描写されていません。対照的に、その女王は、彼に面せず隣に座っていて、そして彼女がまだ生きていた事が描写され、そして彼女が、彼女の息子の統治、12年目の前に、アマルナを訪問したと言う別の証拠があります。更に加えて、此処において使用されたアマルナ・スタイルの芸術的な本質は、アテンの光線の下の、アマルナにおけるそのカップル(アメンホテップ3世と女王ティエ)の現実的な描写を与え、10年、またはそれ以上前に、テーベにおいて亡く成った王の、記憶から引き出された抽象的、または理想的な場面ではありません。

アマルナにおける、(女王ティエの執事だった)フヤのお墓の中の場面と文献のもう一つのコンビネーションは、アメンホテップ3世がまだ生きていて、アケナーテンの統治、8年目の後半のやや後に、アマルナを訪れたと言う主張を強調します。その場面は、そのお墓の最初のホールから、内側の室へと入る、入り口の門の横木の、2つの半分に描写されています。

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左側の場面は、アケナーテンと彼の妻、そして彼等の4人の娘達を描き、右側は、アメンホテップ3世と彼の妻、そして彼の末っ子であるバケットアテン姫を描きます。ツタンカーメン(トゥット・アンク・アメン)のお墓を発見した、英国の考古学者、ハワード・カーターにとって、これはアケナーテンと彼の父との間の合同統治の強い証拠でした:「この2つの家族の平衡は、2人の王達の合同統治を確認するだけでは無く、少なくともアケナーテンの4女、ネフェルネフェルアテン・タシェリの誕生の1年少々後まで、アメンホテップ3世が、生き続けたと推測する理由を与えます。」(ツタンカーメンのお墓、5ページ)。

アメンホテップ3世の名前を印す2つの遺物もまた、アマルナから発見されており、彼が未だ健在であった事を示唆するだけでは無く、彼がまた、アマルナの街を訪問した事を示します。その一つ目は、アテンの後期の名前、アメンホテップ3世の名前、そして「アケターテン(アマルナ)において」と言う文章のある、花崗岩製のお椀の欠片です。2つ目は、捧げ物のおぼんを持って、膝まづいている人の像の一部です。彼の伸ばされた両腕の間の記述は、アメンホテップ3世の名前に続かれる、アテンの後期の名前を印します。

1957年に、エジプト考古学のジャーナルに公表された記事の中で、スコットランド人のエジプト学者、シリル・アルドレッドは、彼の統治12年目(紀元前1367年)に、国外の国々からの貢物を王が受け取っている場面を表す、2つのアマルナのお墓の壁画は、彼が単独統治の昇進した、お祝いの一部であると主張しました。これは、可能性が高い様です。当時、その様な貢物を説明する軍事活動は無く、そしてもし、それらが単純に、毎年の通期的な貢物なら、国外の国々の全てが、同時にアマルナに集結したと描写されるそれらの場面を想像するのは難しいです。更に加えて、その様な出来事が、アマルナのお墓において描写されているのが見つけたれるのは、これが唯一の例です。

ハワード・カーターは、アメンホテップ3世の時代に年代鑑定される、中部エジプトのメイドゥムのピラミッド寺院からの壁画の記述によって、その文献が示唆しているのは、王と彼の息子の間の合同統治であると納得させられました。彼は、彼の著書、ツタンカーメンのお墓に、こう記述しました:「その壁画の記述はこう読めます:「真実の中に休む、アムンの息子、王ネブ・マアト・ラーの英豪の下のアメンホテップ(3世)の統治30年目、テーベの王子、強力な主、喜びの王子、心の不正義を憎しむ彼を愛する者が、彼の父の座の上に、彼の息子を置き、そしてその国における彼の後継を確立しました。」この記述の中で言及された「後継者」は、後にアケナーテンと名のった、アメンホテップ4世であるはずです・・・」

アケナーテン(モーゼス)と彼の父の間の合同統治を指摘する、最も重要な考古学的な証拠は、しかしながら、1989年に、それまで知られていなかった、アケナーテンの主任大臣、アペル・エルの、カイロの南10マイルのサッカラで発見された、殆ど荒らされていないお墓において発掘されました。10年間の研究の後に、フランスの考古学者、アレイン・ピエー・ジヴィーによって発見されたそのお墓の中に見つけられた埋蔵品に含まれていたのは、アメンホテップ3世と女王ティエによって、アペル・エルに与えられた箱でした。アメンホテップ3世のカートゥーシュ(印)とパラエノーメン(即位時の名前)、ネブ・マアト・ラーが、そのお墓の中のその他2つの入れ物に見つけられました。合同統治に関連した2つの主要な点は、もしアケナーテンが統治していなかったのなら、彼は主任大臣を持っていなかったはずだと言う事と、彼(アメンホテップ3世)の息子が王座に就いた時に、彼がもう生きていなかったなら、彼(アケナーテン)の父のパラエノーメンが、そのお墓に見つけられなかったはずだと言う事です。

そのお墓がまた鮮明にするのは、主任大臣に成る前に、アペル・エルがアテンの高神官として奉仕した事です。アペル・エルと類似した名前は、歴史のこの時代のエジプトにおいて存在していた事が知られていますが、高級官僚(神官)の場合、初めてです。「アペル」は「ヘブライ」のためのエジプトの言葉に一致し、それが太古のエジプト人達に意味したのは、その国家のための毎年の重労働を行った遊牧民で、そして最後の「エル」は、「エロヒム」の短縮形で、主の名前として聖書の中で使用された言葉の一つです。アペル・エルのお墓は、ファラオと、彼の統治の間のエジプトにおいて生きていたヘブライ族の種の誰かとの間の繋がりの、私達が有する最初の証拠です。更に加えて、アペル・エルの葬式の埋蔵品に箱を奉納した、彼女の夫との、女王ティアの関連が示唆するのは、その主任大臣が、恐らく彼女のイスラエライト族の父親、ユヤ(ジョセフ)を通した親戚であった可能性です。

アケナーテンの誕生時から、彼の王座への権利を否定した、テーベの神官階級(官僚)の信仰と権威の、アケナーテンによる否定は、彼がテーベに現れた直後に始まりました。彼の、合同統治者としての昇進の際に、彼は、ネフェルケプルレ・ワエンレ・アメンホテップを名乗り - つまり、アメンホテップ4世で - そして彼の(統治の)最初の年から、神官達に対して、彼の攻撃的な態度をあらわにしました。カルナックに存在していたアムン・ラーの寺院の地区の中で、彼の父の資産の幾らかを使い、彼がアテンの寺院を建てた時、彼は、彼の新たな地位を受け継いだばかりでした。これは、彼の父によって建てられた、ルクソールのアメン・ラーの寺院の中の、第2のアテン寺院によって続かれました。彼は、彼の合同統治の初頭である、彼の4年目(紀元前1375年)に、彼がセッド、またはジュベリーのお祭りを祝った時 - 必然ではありませんが、通常、王の統治の30年目を印した、若返りのお祝いの時に、伝統的な神官達を、そのお祭りに参加させ無い事で、彼等を無視し、この機会以後、彼自身の神を除いて、その他全ての神を禁止しました。その12か月後、彼は、彼の新たな神への崇敬において、彼の名前をアメンホテップから、アケナーテンに変える事によって、伝統からの更なる決別を行いました。

アテン(i.e. アトム/アダム/原子)は、第18王朝中期まで、(絶対)神としては信仰されておらず、それ以前はエジプトの多くの神々の内の1つとしてしか考えられていませんでした。アケナーテンは、アテンを、単純に、エジプトだけでは無く、世界全体の、唯一の神として認識した、最初の人物でした。この一神教的な概念は、彼が成長する際に、段階的に発達しました.アテンの初期の表しは、エジプトの芸術において、神々が描写された通常の方法と同じ様に、太陽のディスクに照らされた、隼の頭をした人型の太陽神、ラー・ハラクティの様に体現されました。アケナーテン(モーゼス)はまた、この初期段階において、ヘリオポリスの太陽神の伝統的な儀式もまた、利用した様です。その王によって、彼の初期のカルナック寺院の与えられた名前はベン・ベン(オベリスク)で、ベン・ベン(四角い土台の、小さなピラミッド)が太陽の寺院の特徴だった、ヘリオポリスの寺院と同じでした。

その合同統治の2年目の終わり、または3年目の初めに、この表しにおいて、重大な発展が起こりました。人の姿が消えました。その光線が、王と女王と同時に、寺院、祭壇、そして宮殿に降り注ぐ、黄金のディスクだけが現れました。この黄金のディスクは、太陽を現すのでは無く、物質的なイメージ(i.e. 偶像)が無い、アテン(原子)の象徴でした。その光線は、順を追って、太陽の終わる事の無い光線ではありませんでした。それらは、手の中に集結し、そしてその手には - 生と死の象徴である、エジプトの十字架、アンクを - 王と女王の鼻の穴の前に持ちました。アテンの、王的な地位を現すために、王の額を、ウラエウス(コブラ/蛇)が装飾するのと同じように、ウラエウスが、そのディスクから垂れました。それと同時に、神の名前とあだ名は、統治している王達の、名前が記述されたのと同様に、2つのカートゥーシュ(印)の中に刻まれました。

カルナックのアテン寺院と、アケナーテン(モーゼス)が、独立的な首都として、テーベに対抗する様に設立したアマルナにおいて構築された岩のお墓の記述から、私達は彼が、彼の神をどの様にとらえていたのかの、鮮明な構図を有します:「生きているアテン、以外のものは無い」・・・「彼自身に生を与えた彼」・・・「生命を定める彼は、太陽光線の主」・・・「世界は、貴方[アテン/原子]の手から派生した」・・・「貴方は・・・月々と日々、そして時の認識者です。」

「貴方は、貴方がとても遠くの時に、地上/地球を創造し、つまり、人々、牛、全ての群れ、そして地上の上で足で歩く全て、またはその上を翼で飛ぶ全てを創造しました。シリア(北)とクッシュ(南)の外国の国々、そしてエジプトの地に、貴方は全ての人々を、彼の場所に据え、そして彼等の食べ物を造ります。誰しもが、彼等の食糧を得て、そして彼等の生涯は認識されます:そして同様に、彼等の言語は、その形状において、全く別々です。彼等の色が違うために、貴方は外人達を異なる様に造りました。」

私達は、彼が旧約聖書の中で描写された様に、モーゼスの神において、これ等の特徴のエコーを見つけます:

唯一の神として:   聞きなさい、おお、イスラエルよ、私達の神であるアドナイ(アドニス/アテン)は
           唯一の神です。今日* 、ユダヤの祈祷書に見つけられる申命記6:4の翻訳は、
           フロイドが指摘した様に、「汝、我以外の神を持つ無かれ。」
           (出エジプト記20:3)です。

偶像無しで:     貴方はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、
           また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
           (出エジプト記20:4

世界の創造主:    初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)

宇宙/統一的な王:   主は代々限りなく統べ治められる。(出エジプト記15:18)

聖父:        あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルは
           わたしの子、わたしの長子である。(出エジプト記4:22)

私達はまた、イスラエライト族の風習における、エジプトの風習の反映を見つけます。モーゼスは、旧約聖書の最初の5冊であるペンタテューク(i.e. トーラ)が入れられたアーク(小箱/小舟)である入れ物を、エルサレムの寺院に持ち込んだと言われます:「主はモーセに仰せになった・・・箱を作りなさい・・・そしてこの贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納めなさい」(出エジプト記25:1,10,21)そのアーク(箱)は、ペンタテューク自体の次に、イスラエライト族の寺院において神聖な部分と考えられ、エジプトの神聖なボートの変形で、通常、寺院に納められ、そして私達が見た様に、(祭事の)行進の間に神を運ぶ役割を果たします(御神輿です)

憤慨したエジプトの体制派(官僚)にとってアテンは、強力な国家神、アムン・ラーに入れ替わり、彼の権威を否定する挑戦者として見られました。女王ティエの息子に対して、益々敵対的に成る状況の中で、彼女がその他の神に今まで一度も奉納されていなかった、ナイル川の東の土手の上に、アケナーテン(モーゼス)の新たな首都を確立し、妥協し、テーベを離れる様に説得したのは、彼女でした。彼は、この新たな街、彼と彼の支持者達が、彼等の一神教的な神を、自由に信仰できる場所を、アテンの地平線、アケターテンと名付けました。

* Schema Yisrael Adonai Elohenu Adonai Ohod と言う言葉はまた、イスラエルの神の個人的な名前、エホヴァ(Jehovah)を使い、翻訳される事が出来ます。この翻訳の形状は、ユダヤ人達によって記述され、読まれる事は出来るかも知れませんが、声を出して読まれる時、アドナイ(アテン)は、エホヴァと入れ替えられなければなりません。この伝統のための、納得の行く説明は、未だに提示されておらず、そしてそれが何時、正確に始められたのかを知る者はいませんが、私が信じるに、それはアケナーテン(モーゼス)の時代に遡るでしょう。

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