• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓

キリスト教: 太古のエジプト的な宗教 第7章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第7章 ソロモンの英知


(ソロモン→ソル・アムン:ソル=太陽、アムン=太陽)

歴史的なソロモンを確認しようとする試みは、私達が既に目撃した、聖書的な噂だけでは無く、私達がその名前の王の歴史的な記録を一切持たないと言う事実からも、複雑にされています。私達が、旧約聖書の中の詳細と、アメンホテップ3世の統治における彼の行いを総合した時にだけ、私達が、同じ人物を扱って入ると言う事が、鮮明に成ります。

ソロモンの実際の名前は、「安全」、または「平和」を意味する、セム語のサラームから派生します。(紀元前1401年の)スーダン北部における軍事活動を除いて、アメンホテップ3世の統治は、殆ど、全体的に平和でした。彼は西方のアジア(中東)において、軍事活動を全く行わなかったエジプト帝国の最初の統治者でした。代わりに、彼は、彼と当時の世界に良く知られていた指導者達と、友好的で国際的な関係を築くために、連合制と外交的な贈り物の交換に頼りました。彼はまた シリアからの2人の御姫様、ミタニ族とバビロニアの姫様、そして小アジア(トルコ近辺)の南西部の、アルザワ族の姫様と言った - 「奇妙な(i.e. 外人の)女性達」との正式な(司法的な)婚姻の連続によって和平の根拠を更に追求しました。当時の贅沢さは、彼のミタニ族の妻の内の一人、ギルケパが、300人以上の従女達を含む一行を従えて、エジプトに到着したと言われる事実によって示唆されています。

「奇妙な女性達」とのソロモンの婚姻についての文章は、「彼女達は、確実に貴方の心を、彼女達の神へと変えさせ:ソロモンは、愛において、それらに執着するでしょう、」と言う、主の警告に続かれます(I キングス11:2)。その直後に、「ソロモンが歳老えた時に、彼の妻達は、その他の神々へと、彼の心を変えさせ:そして彼の心は、彼の主である神と、完璧な一致ではありませんでした・・・それはソロモンがジドニア(シドニア)族* の女神、アシュタロス** (アシュタルテ/i.e. イシス)を信仰し、そしてアモン族の悪神、ミルコムを信仰したため、」と私達は伝えられます(11:4-5)。これらの出来事の連続の、アメンホテップ3世の統治に関連する、歴史的な証拠の中に、私達が見つけられる確認以上の物を、私達は求める事は出来ません。彼は、数十年後に、国家的な神としてエジプトにおいて認定される、一神教的な神、アテンの信仰に改宗したと言う、数多くの示唆がありますが、彼はまた、その他の多くの神々を信仰しました。彼の人生の終わりに向かい、彼は、彼のミイラが証明する様に、極度な歯の病に苦しみ、彼の歯はとても擦り減らされ、彼の歯茎は腫瘍に覆われていました。これは何故、アメンホテップ3世の統治35年目(紀元前1371年)に、彼の義理の兄弟である、ミタニ族のトシュラッタが - 祈りのかいも無く - イシュタルの魔法が治癒を効果する事を望み、彼にミタニ族の女神、イシュタル(i.e. イシス)のイメージを送ったかの、理由かも知れません。

巨大で、安定した帝国の所有と、殆ど戦争を戦わなくても良かった事は、ソロモン(アメンホテップ3世)が、数々の大規模な公共事業と行政改革を行う事を可能にしたと言われます。ドイツ人の聖書的な学者、オットー・エイスフェルトによると、ソロモンの統治には5つの特徴がありました:

1)彼の王国の軍事的な組織における変化で、戦争の、軍の不可欠な一部としての、二輪馬車隊の応用で;
2)新たな行政地区の応用で;
3)徴税システムの変化で;
4)司法の行程の改良と、外国の宮廷との外交的な関係の持続で;そして
5)王宮と、その付近の寺院を含む、大規模な建設活動と、北部における彼の軍のための、城壁された駐屯地の建設活動でした。

これ等の全ては、私が証明する様に、アメンホテップ3世の人生と時代に関連させられることが出来ます:

軍事組織。紀元前15世紀において、大エジプト帝国を確立したトトメス3世(デーヴィッド)は、強い、良く訓練され、良く組織化された、彼の時代の最先端の二輪馬車によって軍事補給された、軍隊を持っていましたが、そうでなければ彼は、彼の拡張された帝国を維持する事は出来なかったでしょう。しかしながら、アメリカ人のエジプト学者、アラン・リチャード・シュルマンは、二輪馬車隊が、当時の軍の一部しか、形成し無かった事を明かしました。歩兵隊と二輪馬車隊が別々の部隊と認識される様に成ったのは、私達が以前に見てきた様に、ユヤ(ジョセフ)が、二輪馬車隊における、陛下の代理(大臣)の称号を得て、最初の大臣に成った、アメンホテップ3世の早期の統治の後でした。故に、二輪馬車隊を、戦争における別部隊として組織化したのは、アメンホテップ3世(ソロモン)でした。

* またはアシュタルテで、太古のフェニキアと中近東の大いなる女神(そして天界の女王/イシス/乙女座)です。
** またはシドニア族で、紀元前3000-2000年頃に造られた最古のフェニキアの街、シドンの太古の港の人々です。

行政システム。ソロモンの時代までの行政システムの構造は、聖書によると、部族的でした。ソロモンは、部族的な分断を排除し、一つの政治的な存在として、イスラエル(パレスチナ)とその帝国のその他の部分を統一しました:「そしてソロモンは、イスラエルの全ての上に、12人の役人達(i.e. ゾディアック)を設け、それらは王と彼の宮殿のための食糧を供給し:それぞれの人が、それぞれの月事に、彼の供給を行いました(I キングス4:7)。ですが、もし私達がその題材を詳細に検証すれば、この行政のシステムは、パレスチナ的なイスラエルに帰属するものでは無く、エジプト帝国のものであると、私達は見つけます。

紀元前3000年頃まで以前に遡って、エジプトの行政は、エジプトの2つの土地の活動を操作していました。それは、その領土の全ての公式な所有者である、王の名の下に、王宮と経済を組織しました。宮廷の役人達には、それぞれの行政区域のための責任があり、其処において、もう一人の高役人(神官)が、彼の操作の下に、地方官僚を置きました。帝国時代の間 - そして特にトトメス3世(デーヴィッド)の時代 - 行政的なシステムは、時代の必要性に応じて再編成され、そしてその後、アメンホテップ3世によって、更に発達させられました。それはその後、徴税の目的のために、その帝国は12の行政地域に分割され、その分割は、世界がソロモンとして知る王の説明として、聖書的な記述者が着目したものでした。

聖書が、ソロモンによって設立されたとする徴税の仕組みは、トトメス3世が新たなエジプト帝国を確立した後に、エジプトにおいて使われたシステムと詳細に一致すると、殆ど全ての学者達が認めています* 。それぞれの12の行政地区は、高神官達の責任で、その年の1月(毎)のために必要な、十分な徴税を賄う事が義務付けられていました。

行政。巨大な帝国の行政的な責任をこなすために、高度に発達した行政が必要でした。紀元前10世紀における、「デーヴィッドとソロモンの統一された王制」の期間の、その国のそれ以前の歴史には、その根源が全く無いのに、イスラエライトの部族的な社会における、その様な示唆された行政の突然の現れと、ソロモンの死後の、突然の消滅は、学者達の困惑の源泉でした。しかしながら、旧約聖書の中で描写された高度な行政が、エジプトとその帝国の統治の、日々の行政を行うために、紀元前15世紀と14世紀において、2人の王達、歴史的なデーヴィッド(トトメス3世)とソロモン(アメンホテップ3世)によって確立されたと一致されれば、明らかな矛盾は解決されます。

ソロモンの宮廷の役人達の名前。私達は、役人達のリストの中に、神官達、書生達、軍隊の指揮官、宮殿の世話役の役人、そして貢物の管理の役人を見つけます。これらの新たな役職の全ては、アメンホテップ3世によって行われた任命に類似しています。王の建設事業のために、エジプトにおいて奉仕するための強制労働でさえ、地元のイスラエライト族と同時に外国人達に、ソロモン(アメンホテップ3世)によって、初めて強制されたと言われます:「そしてソロモン王は、イスラエルの全てからの徴収を上げ;そしてその徴収は30,000人の男達でした(I キングス5:13)。高級官僚のその人数は、更にもっと大人数の低級役人達の数を示唆します。I キングス9:23は、単純に労働を監督するために、550人と言う数字を与えます。

* 例えば、ドイツ人の学者、オットー・エイセフェルドは、ケンブリッジ太古の歴史、1975年に、この題材につて記述しました。

衰退における帝国。(旧約)聖書によると、ソロモンによって受け継がれた帝国は、彼の統治の期間に、徐々に弱体化しました。彼は、(パレスチナ南部の)エドムにおいて、問題(反乱)を目の当たりにしました。シリアにおける彼の影響力もまた、レゾンがダマスカスを制圧し、彼自身を其処の王とした後、弱まりました。

これらの反乱は、アメンホテップ3世の統治に関連した、第18王朝の国外の記録である、アマルナの手紙の中において、それらのエコー(反映)が見つけられます。それらを研究した、カナダのエジプト学者、フレデリック J. ジャイルズは、「アマルナ時代の間の、主張されたエジプトの崩壊を扱う手紙の殆どは、」彼の統治の時代から現れると言う結論に辿り着きました。故に、ソロモンの時代の間の、デーヴィッド王の帝国における変化は、アメンホテップ3世の統治の間に関連する歴史的な記録と同意すると見られます。カナーン族の王達によって送られた手紙、特にエルサレムのアブディ・クヒーバの手紙は、エドムとパレスチナ南部の地域における、継続的な問題を語ります:

「王の全ての領土は、反乱しています。」パレスチナ南部におけるこれらの問題は、それ程深刻ではありませんが、シリア北部に置ける状況は、より危険です。アメンホテップ3世がその王座に就く前でさえ、トトメス3世によって打倒された、ユーフラテス川の東の、ミタニ族のメソポタミア北部の王国が、シリア北部の都市国家において、影響力を取り戻し始めていました。アメンホテップ3世は、この危機に対応し、ミタニ族の王と和平条約を結び、ミタニ族の2人の姫様達と婚姻しました。彼はまた、帝国のシリア北部の地域をミタニの王が保護する代償として、毎年、ミタニの王に、30ユニットの黄金を送りました。

しかしながら、その地域におけるアメンホテップ3世の問題は、終わりではありませんでした。彼の統治の終わりに向かい、ダマスカスを含む、その帝国北部におけるその王の権威は、強力なヒッタイト族* の王、スッピルリウマによって脅かされました。彼はまた、その地域におけるエジプトの同盟、ミタニ族も脅かしました。カデシュ(の街)の数マイル北、シリア北部の町、カトナの統治者、アキジは、アメンホテップ3世宛ての手紙の中で、これ等の危険について語りました:「アンヌムリア王(アメンホテップ3世)、太陽の息子である、我が主へ、この貴方の部下、アキジが述べます・・・恐れながら・・・破壊者である男達が、ヒッタイト族の地の王に仕えています:彼は、彼等を送り出します・・・」

後に続く手紙の中で、アキジは、ダマスカスの西の、ウビの地が、危険にさらされていると、その王に伝えます:「丁度、ダマスカスが、敵の軍団を前にして、恐怖に脅え、そしてその王の足元における降服において、両手を上げたのと同様に、カトナの街もその両手を上げます。」

アマルナの手紙はまた、こう述べる聖書的な説明に幾らかの光を当てます:「ソロモン王は、(タイアーの王)ヒラムに、ガリリーの地の20の街々を与えました」(I キングス9:11)。これらの手紙の中のタイアーの王の名前は、ヒラムでは無く、アビミリチです。彼の手紙から:「その王、我が主は、私をタイアーの守護者として任命しました・・・」と言う事を知っています。もう一つの手紙、ベルリン博物館の番号99の中でアビミリチはその王に、「ホズの街を彼(王)の従者に与えて下さい」と求めます。大英博物館において見つけられるもう一つの手紙、番号29の中で、そのタイアーの王は、更なるエジプトの街々が、彼の支配下に置かれた事を示唆します:「そして今、ザルビツの街が、我が主、その(エジプトの)王のために、タイアー(Tyre)の街の王によって保護されます。」

デーヴィッドとソロモンの帝国
1 kings empire david solomon


* ヒッタイト族は、紀元前3000-2000年において、アナトリア(トルコ地域)に定住した、インド-ヨーロパ語を話す、アジア的な人々です。彼等の首都は、ボガージコイとして知られる、ハットゥサスでした。紀元前16世紀に、彼等はシリアとメソポタミア北部を侵略しましたが、紀元前15世紀の、トトメス3世の軍事活動の間に追い返されました。エジプトにおけるアマルナの王達の時代(紀元前14世紀)、彼等はシリア北部を制圧し、アジア西部におけるエジプトの影響力を脅かしました。エジプトとの、最も有名な軍事的な衝突は、第19王朝のラムセス2世の統治の初期に起こり、それは、紀元前1274年の有名なカデシュにおける合戦に結果しました。これは、ラムセス2世とヒッタイト族の間の和平条約に繋がり、それは彼等(ヒッタイト)が、シリア北部の操作を保つ事を許しました。ヒッタイトの王国は、紀元前12世紀に、ギリシャの島々から来た「海の人々」に侵略された時に、完全に消滅しました。

建設者。ソロモンは、華々しい建物の、熟練した建築士であったと言われます。彼は「主の館と、彼自身の家、そしてミロ(山の上のエルサレムの地表のエリアを拡大するために使われた埋め込みの物質)、そしてエルサレム、ハゾル、メギド、そしてゲゼル」(I キングス9:15)、「地下のベツホロンと、荒野のバアラテとタドモル・・・そしてエルサレムと、レバノン、そして彼の領域の全ての地において、ソロモンが建てる事を望んだ、ソロモンが有していた店の街々、彼の二輪馬車のための街々、彼の騎馬隊のための街々の全てを建てた」(I キングス9:17-19)とされます。この大規模な建設事業への更なる言及は、II 年代記8:4-6に見つけられる、「彼が、ハマテに建てた店の街々」を含みます。これらの聖書的な説明から私達が結論出来るのは、1)駐屯地と要塞;2)ミロ;3)王宮;そして4)寺院をソロモンが建てたと言う事です。

私達は、リストされた3つの場所 - ハゾル、メギド、そしてゲゼルの場合にしか、考古学的な証拠を有しません。それらの全ては、紀元前15世紀の中期に、トトメス3世によって征服された、アジア西部の街々のものです。これは、この時代のための正しい地層において、それぞれの街の破壊の証拠を産出した、考古学的な発掘によって確認されています。加えて、これら3つの全ての場合において、その半世紀後のアメンホテップ3世の統治の間の、大規模な修復作業の証拠が発見されました。新たな王宮、寺院、一般の住居、そして要塞の壁が確立されました。そのそれぞれの場合において、ファラオに貢物をする、地元の統治者が任命され、エジプト軍の駐屯の補佐を受けました。アメンホテップ3世のカートゥーシ(印)を含む、エジプト的な遺物はまた、ベツシーンやラチシュの様な、カナーンのその他の発掘された街々と同様に、この時代に帰属する地層から発見されました。その街々の豊かさと貿易の証拠が、発見されました。これらの街々が繁栄したのは、明らかにこの時代 - 紀元前14世紀の間でした。

英国の考古学者、キャサリーン・キーニョンは、東部の傾いた地に向かってその限界を延長する事によって建てられた太古のエルサレムの要塞が、その上に建てられていた、岩の上部の地表を拡張するために注入された、ミロの残骸を発掘する事に成功しました。彼女はまた、ミロの最初の構築を、アメンホテップ3世の時代、紀元前14世紀に、年代測定することが出来ました。

ソロモンに帰属させられる、主要で建築的な達成の一つは、完成するのに13年かかったとされる、新たな王宮です。この大いなる宮殿は、太古のエルサレムの街の北、そして寺院エリアの南に位置するとされますが、ソロモンの死後に続いたとされる時代の期間に、更なる聖書的な記述は全くありません。更に加えて、エルサレムは詳細に発掘されたのにも拘らず、その様な宮殿の跡は一切発見されていません。しかしながら、私達が、ソロモンの王宮の聖書的な描写と、テーベにおけるアメンホテップ3世の大いなる宮殿を比べた時に、これが聖書の記述者によって描写された王宮であった事が鮮明に成ります。

I キングス7:2-12の説明から、ソロモンの宮殿が5つの部分から構成されていた事を、私達は見ることが出来ます:1)王の宮殿;2)「ファラオが妻として娶った」ファラオの娘の館;3)王座の部屋;4)柱のホール;5)レバノンの森の館。その土台が高価な石であった間、レバノン杉の柱が、その屋根を支えていました。

アメンホテップ3世の時代まで、テーベはエジプトの宗教と行政の首都でしたが、主要な王宮は、ナイル川の西の土手の、ギザのグレート・ピラミッドの数マイル南の、メンフィスでした。彼の帝国の膨大な富を手にし、そして戦うための戦争も無く、アメンホテップ3世は、テーベにおける大いなる王宮の複合物の建設(公共事業)に着手しました。彼自身の王宮は、彼の統治8年目(紀元前1398年)までには完成していましたが、その複合物の全体は、彼の(統治の)20年(紀元前1375年)を過ぎるまで、完成しませんでした。その宮殿のエリアは、1910年と1920年の間に、ニューヨークのメトロポリタン芸術博物館の、エジプト調査隊によって、発掘されました。それらの発掘の結果から、それらは、更により大きな構造複合物の一部を形成しますが、ソロモンの宮殿に帰属させられた5つの部分が、テーベにおけるアメンホテップ3世の宮殿に見つけられる事を、私達は見る事が出来ます。

王の宮殿。これは、最も古く重要な建物で、その大いなる複合構造物の南東に位置し、その東側には台所、オフィス、そして貯蔵の部屋が連結していました。それには、王のハーレムのための部分もまたあり、王の高官、ユヤの娘である、女王ティアの住居であった、小さな宮殿と連結していました。

ファラオの娘の館。私達が以前に見た様に、アメンホテップ3世は、王座のための彼の権利を得るために、エジプトの風習にのっとって、トトメス4世の娘、彼の(腹違いの)妹、シットアムンと婚姻しました。アメリカ人の学者、ウイリアム C. ヘイズは、1951年に、中近東研究ジャーナルの記事において、こう述べました:「その大いなる北の宮殿は・・・とても重要な王族の淑女の住処であった様に現れ、恐らく、女王シットアムンのものでしょう。」

王座の部屋。その応接間は木造の多くの柱の、大きな四方形のホールによって構成され、その王座は入口の通路の軸に沿って設定され、第二の王座がその近くにある、やや小さめのハイポスタイル(多柱式)の、王座の部屋と寝室がありました。

柱の部屋。ヘイズはこれを、「その床が、周りを囲む地表よりも高くされた、王族の応接のパヴィリオンで、その北側の側面は、多柱化された中庭に深く出っ張る、バルコニーの様な突起が供給されました」と描写しました。(「そして彼は、柱のポーチを造り・・・そしてその他の柱と太い梁が、それらの前にありました」(I キングス7:61)。

レバノンの森の館。これは、ヘイズによると、「アメンホテップ3世の2度目のセッド[再活性]のお祭りを祝うために準備された、祭儀の館で」、宮殿の複合構造物の北に延長した、大きな多柱性の建物でした。その構造物はまた、その他の王族のメンバー達と同時に、宮廷の役人達や、従者達の家を含んでいました。正に聖書が述べる様に、その柱の全ては、レバノンから輸入されたレバノン杉でした。エジプト学者のアレクサンダー・バダウィーは、彼の著書、エジプトの建築の歴史の中で、そのホールの詳細な描写を行います:「公式なホールとファラオの寝室において、天井は板材の梁でラス(薄い木片)と漆喰で覆われ、守護のネクヘベットのハゲワシ* の連続、またはエーゲ海(ギリシャ)的な装飾に類似した薔薇飾りの枠組み、チェックのパターン、螺旋、そして雄牛の頭で装飾されていました。床は、パピルス、蓮、そして鳥のプールを表すために、同じ技法において装飾されました。」

バダウィーによる、その近くに王座がある、やや小さめのハイポスタイルのホールの床の描写は、ある出来事を示唆し、コラーンの中に記述されたソロモンへのシーヴァの女王の訪問は、「その床が、魚、水草、泳いでいる鴨とアヒルとその他の鳥に満たされ、そしてパピルスと植物で囲まれた・・・」この部屋の中でしかありえなかったと言を示唆します。シーヴァの女王の訪問を描写するにおいて、コラーンはこう伝えます:

彼女は、その崇高な宮殿に入る事を求められましたが:
彼女がそれを見た時、彼女は
それが水の湖と思い、そして彼女は
(彼女のスカートをまくりあげ)、彼女の素足を出しました。
彼はこう言いました:「これは、滑らかなガラスの板が敷き詰められた宮殿でしかありません。」
彼女はこう言いました;「おお、陛下!私は実に、私の魂を誤りました・・・」
蟻達 44章

* ネクヘベットは、ハゲワシ-女神で、その図像的な重要性は、エジプトの王制の2重的な本質に、しっかりと根付いていました。彼女とコブラ-女神、ワジットは、エジプトの2つの地の上の統治を体現していました。

アメンホテップ3世は、エジプトとカナーン(パレスチナ)の両方において、多くの寺院を建てたとして知られています。彼は、彼の建設の事業を、彼の統治2年目に始めました。彼自身を含む、異なった神々のための彼の寺院の場所は、(彼の息子、アケナーテンによって確立された、新たな首都である)アマルナの反対側である、ヘリオポリス(太陽の都)、テーベ(の街)の北側のカルナックの2つの寺院、テーベ自体の大いなるルクソールの寺院、ヌービアの3つの寺院、テーベ西部における彼の宮殿複合物の北の彼のお墓の寺院、そしてエジプトの軍の駐屯地を有していた、殆ど全てのカナーンの街々における寺院でした。

聖書によると、大変貴重な物資が、ソロモンの寺院の建設し使用されました。これは、アメンホテップ3世がテーベの西部に建てたお墓にも、同様に当てはまります。その王自身が、イスラエルの石碑として知られる石碑の裏側に、その描写を与え、それはこの寺院に由来し、それは後に、第19王朝の4番目の王、メレンプターによって、彼の統治、5年目のリビア戦争の説明を与えるために使用されました。アメンホテップ3世は、その寺院をこう表現しました:

「永続的な砂岩の要塞は、全体的に黄金と共に確立され、その床は銀と共に輝き、その入り口の全ては、エレクトラム[黄金と銀の合金]で輝く。それは広く、とても長く、永続のために装飾され、そしてこの例外的に大きな石碑によって、祝祭的にされた。それは、永遠に残るために、花崗岩、石英岩、そして貴重な石の王族の像と共に延長された。それらは、天界の上昇よりも高く:それらの光線は、昇る太陽の如く人々の顔を照らす・・・その作業場は、私の栄光が征服した全ての国々の部族の子供達である、男性と女性の奴隷達と共に満たされている。その貯蓄庫は、数え切れない富を蓄積した。それはシリア人達の村々に囲まれ、部族の子供達に囲まれ;その牛達は浜の砂の如く、その数は何百万に値する。」

アメンホテップ3世の寺院の建設における、彼によって使用された富の題材において、トロント大学のドナルド B. レッドフォードは、彼の著書、異教徒の王、アケナーテンの中でこう述べます:「モントゥ寺院(カルナックの寺院の一つ)の建設に使われた貴金属と宝石の記録された数字はとても驚きで:3.25トンのエレクトラム、2.5トンの黄金、924トンの銅、1,250パウンドのラピス・ラズリ、215パウンドのトルコ石、1.5トンの青銅、そして10トンを超える銅箔でした。エジプトにおけるその帝国への投資はそれ程でした!」

まとめると、私達はアメンホテップ3世の統治の間の建造物の、歴史的で、考古学的な証拠を有し、それは、旧約聖書が、私達に信じさせようとする、現在の文献の、4世紀以前に統治したソロモンに帰属されます。此処で、私達は、聖書的な学者達、歴史家達、考古学者達の熱心な努力にも拘らず、デーヴィッドとソロモンの統一的な王制の、紀元前10世紀として知られる様に成った時代を補佐する証拠が、パレスチナにおいて、一つも発見されていない事を理解します。その様な証拠の欠落は、彼等が歴史的な登場人物では無いと言う事を意味しませんが、学者達は聖書的な説明に混乱させられ、そして間違った世紀において、彼等の証拠を探してきました。

これは、エジプトにとっての黄金時代でした。外交、政治的な婚姻、そして同等に、政治的な黄金の使用は、少なくとも一時的に、エジプトと、その近隣の、ミタニ族のフリア国、ヒッタイト族、アッシリア人、そしてバビロニア人達の間の、力のバランスを安全にしました。パレスチナとシリアは、紀元前15世紀の半ばに、トトメス3世(デーヴィッド)によって制圧され、危険を体現せず;その南部の前線は、ナイル川の4番目の大滝まで、そしてそれを超えて、安全に確保されました。レヴァント(レバノン地域)とエーゲ(ギリシャ地域)の世界から、今まで以上の規模で富がその国(エジプト)に注ぎ込まれ、より多くの土地が耕され、芸術が繁栄し* 、裕福に成った国家の役人達と神官達は、より大きな土地の、新たな家や、田舎の別荘の快楽を楽しみました。一般大衆がどの様であったかは、あまり明らかではありませんが、彼等もまた、全体的な繁栄と、夏の長い干ばつの期間において、国家的な公共事業のプロジェクトに提供された雇用によって得をしたでしょう。その国の全体を通して、新たな寺院は建設され、古いものは再構築されました。モーゼスが生まれ - 私達が伝えられる様に、彼の父の命によって殺害される危機に面したのは、この平和的で裕福な世界の中においてでした。

* アメンホテップ3世の時代に開花した、アマルナの芸術のルネッサンスは、自然的、そしてロマンティック的の両方において、素晴らしい働きを産出しました。黄金のマスクを含む、ツタンカーメンのお墓の中で発見された遺物は、この新たな芸術の代表例です。

目次:
  1. Category: None
  2. / trackback:0
  3. / Comments:0
  4. [ edit ]


Only the blog author may view the comment.

Profile

Songcatcher

Author:Songcatcher
現在地:ルネッサンス2.0









鼓動と呼吸:緊縮と拡張・・・

songcatcher@mail.com

Latest trackbacks

Search form

QR code

QR

« 2017 08 »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -