• 2017_04
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_06

♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓

キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第6章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第6章 ファラオの女王


創世記の書は、ジョセフが一人の娘の父に成り、イスラエルの部族がカナーンからエジプトへと、彼と合流するために旅した時、既に彼と共にあった2人の息子達、マナセ(アネン)とエフライム(アイ)の父に成ったとは、記述しません。これは、彼が娘を持っていなかったと言う事ではありません。彼女は創世記の書においてイスラエライトのリストから欠けている7番目の名前ではないかと提案されました。

彼女の名前がそのリストから欠けているのは、その逸話の中で女性が重要な役割を果たさないのなら、女子の名前を削除する、聖書的な著者達の習慣によって単純に説明されますが、ヘブライ人達が、男子の後継者しか授からない風習と言う提案が、頻繁に成されました。ジョセフとユヤの同一視が受け入れられさえすれば、更に可能性が高い説明は、ジョセフの娘は、順を追って、イスラエライト族のハーフにも拘らず、エジプトの女王に成った、ユヤの娘、ティアと同一視され、そしてそれは、イスラエライトとエジプトの関係を隠すために、それが描写する出来事の何世紀も後に記述された時に、彼女の名前は出エジプトの苦い思い出として、旧約聖書から削除され - その苦い思いは現在の政治においても未だに健在です。

もし、私達が以前に見た様に、元々、ユヤ(ジョセフ)を大臣として任命したのがトトメス4世であったなら、アメンホテップ3世が、たった12歳の時、紀元前1405年に、アメンホテップ3世の父が死んだ後に起こった出来事の順番に納得がいきます。エジプトのしきたりにのっとって、彼は王座を継承するために、彼の妹、シットアムンと婚姻しましたが、そのすぐ後に、ユヤとトゥヤの娘であるティアと婚姻し、シットアムンでは無く、彼女を彼の大いなる王家の妻(正妻/女王)としました。それらの婚姻の当時、シットアムンは3歳位で、ティアは8歳だったと考えられます* 。

アメンホテップ3世とティアの間の、子供の頃の恋愛は、彼女の両親によって勤められた役職によって説明され、それが意味するのは、その2人の子供達が一緒に育ったと言う事です。二輪馬車隊と、王の警備の類似した部隊の責任者で、両方のファラオ達の大臣として、ユヤは、王族の宮廷に住む事が必要とされたでしょう。これは王の「装飾」(khrt nsw)だった彼の妻、トゥヤにも当てはまり、その地位は、現代の執事と従女の任務を融合させた様なもので、そして更に示唆するのは、彼女がその王の乳母であったかも知れない事です。また、既に提案されたのは、ティアが、若き王の花嫁として受け入れられる事が出来たのは、彼女の母親、トゥヤ自身が、王族の血筋であったためと言う事です。アーサー・ウェイガルは彼の著書、アケナーテンの人生と時代の中で、彼女が「トトメス3世[デーヴィッド]の孫かも知れず、彼女の顔は似ている」と述べます(ウェイガルは此処で、トゥヤのミイラに言及しています)。この見解は、彼女のお墓の中で見つかった3つの称号 - 「彼の家のホルス(彼の王宮の王)のお気に入り」、「善き神(王)のお気に入り」、「この国の主、ホルスのお気に入り」によって補佐され - そしてユヤとの婚姻からの娘、ティアが、「王族の娘」と頻繁に言及される事実にも、補佐されています。これは、彼女とユヤが、何故、王家の谷においてその様な立派なお墓が与えられたのかを説明するための手掛かりに成ると、ウェイガルは主張します。

* 幾人かの学者達は - 私の考えでは、誤って - シットアムンが、彼が王座を後継するために婚姻した、幼い妹よりもむしろ、アメンホテップ3世とティアの娘であると主張しました。その詳細の全ては省きますが、ニューヨークのメトロポリタン博物館に今、納められている、恐らくテーベ(の街)のシットアムンの宮殿から出土した、コール(黒い粉)の筒の上の記述によって、後者の見解は強調されます。それは一部、「王の大いなる妻(シット・アムン)」と読め、シットアムンが、正当には彼女に帰属すると感じた称号について、ティアに挑戦していた事を示唆しています。

アメンホテップ3世とティアの婚姻が、彼の統治の初期に行われたと言う事実は、その王によって発行され、先の世紀(20世紀)の後半に発見された、5つの記念品的なスカラブ(大フンコロガシの形の彫刻)の内の2つによって確立されました。その一つは、その婚姻を報告し、部分的にこう読めます:「生命が与えられた、王、アメンホテップ3世・・・生きる、そして偉大な王の妻、ティアも生きる。彼女の父の名は、ユヤで、彼女の母の名は、トゥヤである。彼女は、その南方の国境がカロイまでで、その北方の国境がナハリンまでの、強力な王の妻である。スーダンのカロイと、イラク北部のナハランの記述は、アメンホテップ3世の帝国が、本質的に、ナイル川からユーフラテス川まで広がっていた事を確立します。日付は此処において、与えられてはいません。その婚姻が、彼の統治における初期に起こった事は、しかしながら、その王の統治の2年目(紀元前1404年)に行われた野生の牛の狩りに関して記述する、2つ目のスカラブから、明らかです。此処で、ティアは「大いなる王族の妻」と描写されています。

彼等の結婚式の後に、アメンホテップ3世は、(羊飼い/遊牧民達が当時、未だに「増悪」として考えられていたために、正式なエジプトの国教の外の)ゴシェンに住んでいた、イスラエライト族の、彼女の親戚の傍にいれる様に、夏の避暑地の一種として(現代のスエズ運河の東のクァンタラの地域の)ザルウの最前線(国境近く)の要塞を、ティアに与えました。ゴシェンは、当時、水路によって、ザルウの要塞にリンクされていました。上記のスカラブの後者は、アメンホテップ3世の統治の11年目(紀元前1395年)の、女王ティアのための、娯楽的な湖の建設を描写します。そのスカラブは、6つのヴァージョンが発見されています。それらの中には少々の違いはありますが、それらの全ては、主要な点については同意し、以下の様に読めます:

「統治11年目、氾濫の3か月目(最初の季節)、第1日目、ホルスの栄華の下・・・強力な武勇、アジア(中東)人達を討つ者、上下エジプトの王、テーベの統治者ラー・アメンホテップの息子、ネブ・マアト・ラー、命を与えられた者、そして大いなる王族の妻、ティアは生きる。陛下は、その生きる偉大な王の妻、ティアのために、彼女の街、Zarwkha (kha は街を意味します)に、湖を造る事を命じました。その長さは3,700キュービッツ(約1,020ヤード)で、その幅は700キュービッツ(200ヤード)です* 。陛下は、最初の季節の3か月目の16日目に、その湖の開口のお祝いを祝われ、陛下は其処において王族のボート、アテンは輝く号にお乗りに成りました。」

エジプト人達は、3つの季節、氾濫、冬、そして春を有し、それらのそれぞれは4か月おきで、年始は7月中旬でした。故に、最初の季節の3か月目は、その王の統治の11年目、紀元前1395年の10月にあたります。

これらのスカラブは、女王、ティアが、ゴシェンの彼女の親戚の近くに行けるように、娯楽の湖と共に、彼女に夏の避暑地を喜んで与えた、とても裕福であり、強力で、寛大な夫との田園風景的な婚姻を楽しんだ事を示唆します。しかしながら、彼等がある種の第二のハネムーンを楽しんでいた時に、その10月の日に彼女の隣にいたその男性は - 彼女が正当な後継者では無く、エジプト人(とイスラエライツ族)のハーフだったので - もし彼の妻の予定された子供が男子であったなら、彼の系統に多大な危機をもたらすと予期し、その危機はアメンホテップ3世であっても、解決する事が簡単では無い問題でした。今日、3,500年後に成っても、彼は限り無く賢明な人であったと言う評判を、今でも有します。アメンホテップ3世は、ソロモンでした。

* そのコピーがヴァチカンに納められているスカラブの一つは、その幅が600キュービッツであった事を記述し、そしてその女王の両親の名前、ユヤとトゥヤを記載し、当時、彼等がまだ健在であった事を示唆します。

旧約聖書の中で、私達に紹介される、ソロモンには、幾つもの姿があります:紀元前10世紀における、彼の父、デーヴィッドの跡を継いだイスラエルの王;デーヴィッドと、ヒッタイト人のユライアの妻、バトシェバとの不倫の息子;大規模な歩兵軍と二輪馬車隊の司令官(I キングス10:26によると、「1000と400」そして「12,000の騎馬隊」;彼の統治の間に衰退した、膨大な帝国の君主;ファラオの娘の夫;そして「ファラオの娘を含めて、多くの奇妙な(i.e. 外人の)女達の愛人(I キングス11:1)とされます。

此処において私達は、私達が以前に、旧約聖書の中で出くわした、デーヴィッドの2つの対照的な特徴 - ナイル川からユーフラテス川まで広がる帝国を創造した、強力な戦士(i.e トトメス3世、紀元前1490-1436年)と、紀元前10世紀に生きた、小規模で部族的な棟梁で - そしてそれらの出来事の間には5世紀の隔たりがあるのに、あたかも同時に起こったかの様に、一つにまとめ上げられているのと類似した状況を、私達は、この本の中に見つけます。此処で、私達は、2人のソロモン達を扱わなければなりません。簡潔に検証するために、I キングスの書の中で、彼に与えられた特徴の幾つかは、以下です:

・ソロモンが、紀元前10世紀において、彼の父、デーヴィッドを後継する事が出来なかったのは、何故ならデーヴィッド(トトメス3世)が、私達が見てきた様に、その5世紀以前に生きたためで、そして実際には、(デーヴィッドが)彼の父では無く、ひい御爺さんであったためで;
・旧約聖書の中において、人はよく、太古の時代の出来事の口伝え的な記憶が、異なった登場人物達と、異なった時代設定の、架空化された形状において、再度、伝えられる場面の説明に出くわします。私が信じるに、II サミュエルの書の中に見つけられる、デーヴィッド(トトメス3世)-バトシェバ-ユライアの逸話は、それ以前に創世記の書の中で伝えられる、デーヴィッド(トトメス3世)-サラ-アブラハムの逸話の変形として見られるべきで - その題材の記憶をリフレッシュすると - その王は、サラと婚姻しましたが、サラが、アブラハムの妻である事を発見し、2人をカナーン(パレスチナ)に送り返し、其処で、妊娠していたサラは、その王の息子、アイザック(イサク)に生を与えました。

デーヴィッド-バトシェバ-ユライアの逸話は、ハトシェップスットの死の直後に、ナイル川からユーフラテス川まで広がるエジプトの帝国を再建するための、彼の軍事活動の、最初の軍事的な衝突である、メギドの兵糧攻め(アルマゲドン)の期間に、トトメス3世が滞在していた間の、エルサレムの要塞において設定されます。バトシェバが行水しているのを目撃した後に、彼は、彼女の正体について尋ねたと言われます。彼女は、メギドにおいてその王の軍に仕えている、ヒッタイト人、ユライアの妻であると伝えられたにも拘らず、デーヴィッドは、彼女を彼の宮廷に連れて来るために使者を送り、其処で「彼は、彼女と共に横たわりました」(II サミュエル11:4)。

この接触の結果として、バトシェバは妊娠しました。彼の罪悪感を誤魔化す事を望み、デーヴィッドはユライアをエルサレムに呼び戻しますが、その戦士は、その王の軍が、兵糧攻めされているメギドの外で、テントの中で生活する難儀に絶えている間に、彼自身の家の快適さの中で眠る事を拒みます。デーヴィッドは故に、以下の命令と共に、彼を前線に送り戻します:「汝、ユライアを最も激しい戦いの、最前線に置きなさい・・・彼が討たれて死ぬ様に」(II サミュエル11:15)。ユライアが討ち死にすると、デーヴィッドは、バトシェバと婚姻し、彼女は彼に、息子を産みました。

この時点まで、両方の逸話は特に類似しています。アブラハムとユライアの両方が、外国人で、アブラハムはエジプトにおけるカナーン人で、ユライアはエルサレムにおけるヒッタイト人です。それぞれの場合において、彼等の妻達は、王によって妊娠させられ、そして息子に生を与えます。その2人の「罪の息子達」の運命は、しかしながら、異なります。アブラハムの場合、アイザックの誕生に繋がった状況の、道徳的な非難のヒントを有します:彼は、元々、神によって、アイザックを「焼いた生贄」として捧げる事を誘惑されますが(創世記22:2)、アブラハムが、その誘惑に反応した後に、アイザックの命は見逃され、そしてアブラハムは、雄羊を取り「彼の息子の代わりに、焼いた生贄として、雄羊を捧げました」(22:13)。

デーヴィッドの場合、私達は、より正確で、道徳的な判断を見つけます。デーヴィッドが、ユライアの死の原因に成り、そして彼に息子を産んだバトシェバと婚姻した後、「デーヴィッドが行った事は主を怒らせました。そして主は、[デーヴィッドに][預言者]ネイサンを送り、彼はデーヴィッドにこう述べました・・・貴方が主の掟を嫌ったために、彼の目の前で邪悪を行うのですか?貴方は剣でユライアを殺し、そして彼の妻を貴方の妻にしました・・・それ故に剣は貴方の一族から決して離れず・・・貴方に生まれた子供もまた、間違い無く死ぬでしょう」(II サミュエル11:27、12:1、9-10、14)。

これ等の非難は、その子はとても病弱で、生き残らないであろうと言う、その子供に待ち受けていた約束に続かれました。この名も無き男の子は7日目に死に、そしてデーヴィッドは「彼の妻、バトシェバを慰め、そして彼女の上に行き入り、そして彼女と共に横たわり:そして彼女は一人の息子を産み:そして彼は、彼の名前をソロモンと呼びました・・・」(12:24)。


著名なドイツ人の聖書学者、ハーマン・グンケルは、ユライアと彼の妻の逸話の全体には、歴史的な土台が無いと切り捨てます。これは正解ではありません。これらの架空の説明に使用された名前は、本当の出来事に基づいており、通常、元々の歴史的な人物を指摘し、そしてルールとして、私達が、架空として隠れ蓑された、事実を扱っていると言う証拠を供給します。ユライア(Uriah)と言う名前と共は、この場合、明らかに当てはまります。それは、2つの要素によって構成され - ユル(Ur)は、メソポタミアの言葉で「街」、または「光」を意味し、そしてヤー(イア/iah)は、イスラエライト族の神、エホヴァの短縮形です。その名前の意味は故に、「エホヴァの光」に成ります。ですが彼(ユライヤ)は、ヒッタイト人であると描写されます。エジプトとイスラエライツ族の伝統的な敵であるヒッタイト人が、イスラエライト族の神の崇拝者で、デーヴィッドの軍隊の英雄であるなどと、私達はどの様にして受け入れれば良いのでしょう?更に私達は、この外国人と彼の妻の、エルサレムにおける突然の現れと、彼等が、彼等の住居を所有していた様である事の説明の情報を一切持ちません。

その問題を、もう一つの観点から見てみると、ユライアの名前の最初の部分、Ur は、アブラハムの誕生地に彼を関連させます。聖書の中におけるこれに関する最初の言及は、アブラハムとサラが、「カナーンの地へと行くために、どの様にして、カルデアのウルから旅だったのか」を描写します(創世記11:31)。これが意味出来るのは、「カルデアの街」、または、もしウルと言う単語が、正式な名詞として使えるなら、「カルデアのウル」のどちらかです。この早期の状況への言及が何であれ、その後、ウルは、間違いなく、アブラハムの誕生の地を示唆する正式な名詞に成りました。故に、ウル-アイア(ユライア)と言う名前は、アブラハムの神と、アブラハムの生誕の地の両方の、考案された特徴に関連します。

私達は、バトシェバの名前と共に、類似した状況を有します。此処で再び、私達は2つの要素を持ち - べス(ベト)は「少女」、または「娘」を意味し、そしてシェバは、カナーンの南の地域で、その名前を地元の泉、ビアー・シェーバから取り、其処はサラとアブラハムが、エジプトから戻った後に住んだ地域でした。

ソロモンが、大規模な軍隊の指揮官で、彼の統治の間に衰退したと言う歴史的な補佐は、紀元前10世紀においてはありませんが、当時までに、アメンホテップ3世(ソロモン)のひい御爺さん、トトメス3世(デーヴィッド)によって、500年前に確立された帝国は、存在する事を終えていました。ソロモンを、ファラオの娘の夫とする描写も、真実である事は出来ません。エジプトの御姫様と婚姻するためには、ソロモンは、イスラエルの王では無く、エジプトの王族の一員でなければなりませんでした。

私達は – 大よそ、紀元前1575年から1335年まで続いた統治の期間からの、第18王朝の、外国の記録 - アマルナの手紙から、エジプトの王達の娘を、外国の統治者達に与える事は、エジプトの風習では無かった事を知っています。ファラオの娘へのその言及は、アメンホテップ3世が、エジプトの風習にのっとって、王座を受け継ぐために、幼い妹、シットアムンと婚姻した事実を反映します。

旧約聖書はまた、ソロモンがとても裕福で、極めて賢明であった事を記します:「ですからソロモン王は、富と英知において、地上の全ての王達よりも、優れていました(I キングス10:23)。ソロモンの英知について、最もよく知られた逸話は、I キングス3:16-28に見つけられる、2人の母の間の、1人の子供の親権をかけた争いです。同じ屋敷に住んでいた女性達のそれぞれが、男の子に生を与えました。しかしながら、その赤子の一人は死んでしまい、そしてその女性達の両方が、生き残った子供への親権を主張し、そして最終的に彼女達の争いと共に、その王の前まで来ました。其処でソロモンは、その子供が剣で真っ二つにされ、それぞれの片方を、それぞれの女性達に分け与える事を提案しました。これは直ぐに、その子供の命を救い、その子が相手の女性に与えられる事を訴えた、本当の母親を判断する事に貢献しました。

専門家の判事達と、役人達を有していた王が、聖書の中で売春婦と描写されるその様な2人の女性達の間の争いに、彼自身が携わったと信じる事は難しいです。実際に、私が信じるに、私達が此処で扱っているのは、異なった登場人物と共に伝えられるもう一つの話しで:その本当の逸話は、モーゼスの誕生と、彼を殺すと言うファラオの脅しにまつわる状況に関してで、それは、以下に続く章の題材と成るでしょう。

その門の英知と同時に、彼が知られている名前のための評判は、子供の母親の親権に関する揉め事だけに由来するのでは無く、彼、または、むしろ - アメンホテップ3世が - 「その(ユーフラテス)川のピリシテ人達の土地から、エジプトの国境まで広がる王国の全て(I キングス4:21)。」を含む、彼のひい御爺さん、トトメス3世(デーヴィッド)によって確立された、膨大な帝国を上手に統治した方法によって知られています。彼の統治の一つの重要な要素は、彼の「多くの奇妙な(外人の)女性達」との婚姻で - 近隣諸国の御姫様達で - それらの婚姻の御蔭で、エジプトは平和的な関係を保ち、お金のかかる戦争を避けました。


目次:
  1. Category: None
  2. / trackback:0
  3. / Comments:0
  4. [ edit ]


Only the blog author may view the comment.

Profile

Songcatcher

Author:Songcatcher
現在地:ルネッサンス2.0









鼓動と呼吸:緊縮と拡張・・・

songcatcher@mail.com

Latest trackbacks

Search form

QR code

QR

« 2017 05 »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -