• 2017_05
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • >>
  • 2017_07

♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓

キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第5章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第5章 家長であるジョセフ
 

聖書的であり、そして歴史的で、主要な登場人物達の関わり合いを確立しようと望み、四半世紀、聖書とエジプトの歴史を研究した後、私は、エジプト人では無いユヤは、特別な重要性では無いと言う、一般的な意見を共有していました* 。私が、私の意見を変えたのは、思い返すと、一見、インスピレーションの瞬間でした。ある夜、眠れなかったので、私はお茶を入れ、私が良く行っていた様に、旧約聖書を読もうと開きました。創世記の書の中の、家長ジョセフの彼による、彼が「ファラオの父」にされたと言う主張が、そのページから飛び跳ねる様でした。それは聖書の中において(ジョセフ以外は)誰も言わない主張で - そして、私は気付いていましたが - エジプトの歴史の中において、その同じ称号、it ntr n nb tawi 、2つの地(i.e. エジプト/ファラオの正式な称号)の神聖な父、 を主張した唯一の人はユヤだけでした。それは、(カイロ美術館のカタログにおける第51028番目の王族の葬式の像とされる)ユヤの ushabti に一度記述され、そして彼の葬式のパピルス(紙の巻き物)に、20回以上記述されます。

(イスラエライツの)家長、ジョセフと、ユヤが同一人物であると言う事は可能でしょうか?その証拠のための、私の探求は、聖書的な歴史の謎を解きほどく事でした。その他の物事の中で、鮮明に成ったのは、家長、ジョセフの聖書的な逸話が、(私達が、ユヤが生きたと知る)第18王朝に時代設定されなければならない事でした。モーゼスが約束の地に向かう彼等の旅の第一段階において、イスラエライツを導いた - 後の出エジプトについて、確立される事の出来る光の中において、イスラエライツの旅として、旧約聖書が私達に与える2つの期間(4世代、または4世紀) - 彼等がエジプトで過ごした期間 - 4世代は、正確でした。この結論はまた、証拠があるにも拘らず、多くの学者達が主張する、紀元前1683年に始まり、1世紀を超えて続いた、(ナイルの)三角州の東部におけるヒクソス族による侵略と、イスラエライツの到着が同時期であったと言う主張を論破します。更に加えて、その証拠は、エジプトに移住するために、元々、カナーンから、彼等の旅を下イスラエライツのリストから、失われている名前の正体の可能性を指摘します。

ユヤが特に重要な人物なのは、何故なら、彼のひいお御爺さん、トトメス3世(デーヴィッド)が、妊娠したサラをカナーンへと送った1世紀近く以前から、断たれていたイスラエライツとエジプト王家の間のリンクを再建したのは、(大臣として)ファラオに仕えたユヤの娘、ティアと、アメンホテプ3世との婚姻であったためです。

* 何人かの学者達は、彼がマリアヌ族の戦士であったと信じます。

ユヤと、彼の妻、トゥヤのお墓は、1905年に、王家の谷において発見されました。彼等のお墓自体が、驚きであると考えられました。ユヤとトゥヤは、エジプトの記録的な源泉から知られてはいましたが、どちらも、特に、重要人物とは考えられていませんでした。それ処か、もし彼等が、王家の谷に埋葬されたのであれば、彼等は王族の血族であると、当時、気付いていた人はいませんでした。

ユヤのお墓は、その後17年後に、ツタンカーメンのお墓がエジプトにおいて発見されるまで、殆ど荒らされていない、唯一のお墓でした。彼等の棺桶には、2体のミイラが横たわっていました。ユヤのミイラは、3重の棺桶に納められ、そしてトゥヤの遺体は2重の棺桶に納められましたが、昔の墓泥棒達が、内側の棺桶とそれらの蓋を外したのは明らかです。ユヤの遺体が持ち上げられた時、彼のミイラの首の背後に、大きな黄金とラピス・ラズリの玉の、頑丈な糸で造られたネックレスが見つけられました。その糸は、墓泥棒達の価値のある物への探求において、断ち切られた様でした。その発掘に拘わった考古学者の一人、アーサー・ウェイガルの見解によると、それらのミイラの両方は、とてもよく保存され、今にもその眼を開き、語り出しそうであったとします。ですが今日、90年以上経った後、ユヤのミイラは、カイロ博物館の1階に展示された棺桶の中に横たわり、毎年その博物館を訪れる数百万人の観光客達の眼には触れていません。

家長ジョセフとユヤの同一視は、その両方が「ファラオの父」と言う称号を主張した事実に留まりません。此処において、場所の幅の理由のために、主な要点(証拠)の幾つかだけがまとめられます(より詳細な説明は、私の以前の著書、エジプトのヘブライ人のファラオの中に見つけられます)。

ユヤは外国人でした。ジョセフもまた外国人でした。多くの学者達は、一般的なエジプト人の容姿の、彼の妻、トゥヤとは異なり、ユヤは、その容姿において、特に外人的な風貌でした。アーサー・ウェイガルは、1910年* に出版された、彼の著書、アケナーテンの人生と時代の中でこう指摘しました:「彼は圧倒的な存在力の人で、その強力な特徴は彼の顔自体に現れていました。人々は彼を、背の高い、白髪で、シリア人の様な大きなかぎ鼻を有し;厚く、個性的な唇を持ち;そして特徴的で顕著な顎を持った人としました。彼は、聖職者の様な顔をして、そして彼の口は、何故か私に、故教皇レオ3世を思い出させます。(血の繋がり?)

スイスの考古学者、ヘンリー・ナーヴィルは、ユヤの「とても堀の深い顔は、セム語族的な由来」かも知れないと言う意見を主張しました。特定の専門学部のその他の学者達と専門家達は、見た目だけに基づいて、外人であると特定する事が可能であろうかと、異論を声にしました。しかしながら、その他の証拠もあり - 例えば、彼の名前は、彼の時代の以前には知られておらず、そしてヒエログリフ(象形文字)で書く事が難しいと証明され - 彼が外国人であった事を示唆します。

ユヤの名前のヒエログリフ
1yuya1.png


ユヤの3つの棺桶と、その他の家具には、Ya-a, Ya, Yi-Ya, Yu-ya, Ya-Yi, Yu, Yu-Yu, Ya-Ya, Yi-Ay, Yi-a, Yu-y, と言った11の異なった綴りが見つけられます。ですが、職人達が彫刻しようと試みていた名前は何だったのでしょう?エジプト人達の名前は、通常、ラー-モス(ラムセス)、プター-ホテップ、ツタンク-アームン(ツタンカーメン)等々の様に、個人の守護神の名前によって示唆されます。エジプトにおいて過ごした年月、そして彼が司った高い地位の役職にも拘らず、ジョセフは、エジプトの宗教には関心を示さなかった事を示唆する証拠があります。故に、推理するのが妥当であると考えられるのは、ジョセフが死んだ時に、エジプト人達は、彼がエジプトの神々の保護を受け入れず、彼自身の神、ヤーウェイ(Yhwh)、またはヤーワ(Yhwa)だけを受け入れるであろうと気付き、彼等が記述しようと試みていたのは、エジプトの伝統に従い、彼の(守護)神の名前でした(ヤーウェイの最後の h は、ヘブライ語において a と読まれます)。

* アケナーテンの人生と時代、アメンホテップ3世と、ユヤの娘、女王ティィエの国の、私自身の説明が、今後の章の土台を形成します。

ユヤ:
ユヤとトゥヤ
9Tuyayuya

一般的に言うと、古代のエジプト人達は、幾つかの子音を、長い母音として使用しましたが、母音を(記述に)使いませんでした。ユヤの名前の場合に、長い母音が使用されたのは、何故なら外人の名前の正確な読み方を誰も知らなかったためです* 。

ユヤの埋葬。ユヤが埋葬された方法は、彼がエジプト人では無かった事を指摘します。彼の耳は、第18王朝の殆どの王族のミイラとは異なり、ピアスされておらず、そして彼の手の位置は、手のひらが顎の下の首に向いており - 黄泉の国の神で、死者の裁定者であるオシリスの - それにおいて、死者の手が、胸の上で交差させられる、通常のオシリスの形状とは異なっていました。ユヤは、私が知りうる限り、彼の手が(通常とは)異なった位置で発見された唯一のエジプトのミイラです。

ユヤのオフィス(役職)の紋章。ユヤのお墓は、ファラオの指輪と黄金の鎖を含んでいました。ファラオは、彼の役職の証(サイン)として、3つのものをジョセフに与えました:「そしてファラオは、彼の手から彼の指輪を取り、そしてそれをジョセフの手の上に置き、そして彼に高級な布の衣服を盛装させ、更に彼の首の周りに黄金の鎖を着けました(創世記41:42)。ユヤのお墓から小さな遺品を盗もうと言う試みは2度行われ、1度目は埋葬の直後の太古の時代で、そしてもう一つは1905年に、お墓が発掘された直後でした。その指輪は、どちらかの窃盗において消失されていたかも知れませんが、私達はそれがそのお墓の中にあったと言う記述された証拠を有します。ユヤは、その他の多くの大臣達と同様に、「低エジプトの王の印を持つ者」であり、「低エジプトの王の指輪を持つ者」でした。黄金の鎖を与える事によって、ジョセフに与えられた尊敬は、新王朝(紀元前16世紀から11世紀までの、第18王朝と、第19王朝)の前から、文献に記述されている風習ですが、その様な行事が、職人達によってお墓の壁に、その描写が彫り込まれて産出される様に成ったのは、アメンホテップ3世の父、トトメス(トート・モーゼス)4世(紀元前1413-1405年)の統治の後でした。ゴールドを受け取る事は、当時、最も高い名誉と考えられ、私達が上述に見た様に、ユヤは、泥棒によって糸が切られた時に、彼の棺桶の中に落ち、彼の頭の下に落ち着いた黄金のネックレスを有していました。

* ユヤの名前の2つの部分、「ユ」と「ヤ」は、両方とも短音です。エジプト語とヘブライ語の両方、そして更にドイツ語においてでさえ、「 J 」の文字は、英語における「 Y 」として読まれ、ですからそれらの部分は、「 Ju 」、または「 Jo 」、そして「 Ja 」と読まれ、それはイスラエライツの神「 Yahweh (ヤーウェイ)」、または「 Jehoveh (エホヴァ)」の短縮形です。聖書的な逸話は、ファラオが彼(ジョセフ)を彼(ファラオ)の大臣に任命した時に、彼(ファラオ)は彼(ジョセフ)に、「 Zef 」、または「 Sef 」から始まるエジプト語の名前を与えたと私達は伝えられます。これは実際に本当のエジプト語の名前で、アレクサンドリアの大図書館に納められるために、プトレミー(プトレマイオス)2世の依頼で、ギリシャ語でエジプトの歴史の記録を書いていた、エジプト人の歴史家、マネトは、ユヤを彼の大臣に任命したアメンホテップ3世は、「 Sef (セフ)」と呼ばれた大臣を有していたと確認します。ですから私達は、ユヤに関連するイスラエライツ(ヘブライ語)の「 Yu (ユ)」とエジプト語の「 Sef (セフ)」の、ジョセフの名前の2つの要素の両方を有します。ヘブライ語とアラブ語の、家長のための名前は「 Yosef (ヨセフ)」、または「 Yusef (ユセフ)」(i.e. Joseph (ジョセフ)」です。

二輪馬車。ユヤのお墓には、二輪馬車が含まれていました。ジョセフの人生の、聖書的な説明において、私達は、二輪馬車への3度の言及を有します。ジョセフが大臣として任命された当時、ファラオは「彼(ジョセフ)を、彼(ファラオ)が有していた第2の二輪馬車に乗せました;そして彼等は彼(ジョセフ)の前で、膝を曲げろ(膝ま付け)と叫びました・・・」(創世記41:43)。再び、ジョセフと彼の家族がエジプトに到着した時、「ジョセフは、彼の二輪馬車を準備し、彼の父、イスラエル(ヤコブ)に会う為に、ゴシェン(の街)に出向きました」(創世記46:29)。最後に、ヤコブの死の後に、ジョセフが彼の父をカナーン(パレスチナ)に埋葬するために行った時、「二輪馬車と騎兵が追随しました…」(創世記50:9)。

これ等の言及の最初は、ジョセフが二輪馬車軍の責任者であた事を示唆します。アメリカのエジプト学者、アラン・リチャード・シュルマンは、1963年に、エジプトにおけるアメリカの調査センターのジャーナルに、第18王朝の後期に - 二輪馬車軍と歩兵隊 - と言う、微妙に異なる技術的な2つの階級が派生した事を示唆し:二輪馬車軍の副官の、最も早期の現れは、アルマナ時代の早期から知られ、(ユヤは、二輪馬車軍の陛下の副官として任命さると同時に、馬(騎士団)の幹部として命じられ)・・・それは恐らくアメンホテップ3世の統治の初期まで遡るでしょう。」故に、聖書の中でジョセフに与えられた地位に、エジプトにおいて任命された最初の人はユヤで、アメンホテップ3世の大臣でした。

ユヤのお墓の中に、二輪馬車が見つけられたと言う事は、彼の地位のもう一つの示唆です。死者の人生における重要な意味の物を、お墓に埋葬するのは、古代エジプトの風習(しきたり)でした。この特有の二輪馬車は、ユヤの物としては小さすぎましたが、模型としては大きすぎました。それは元々、トトメス(トート・モーゼス)4世* が、まだ若い王子だった頃、または王座に就いた時に、まだ12歳位だった、アメン(アーメン)ホテップ3世に帰属していた可能性があります。これは、(その二輪馬車が)黄金で装飾されているのに、何故、(名前の)記述がされていないのかを説明します。

膝を曲げろ。ファラオは、ジョセフの前で、市民達に「膝を曲げろ(膝ま付け)」と命令しました(創世記41:43)。「膝を曲げろ」と言う表現は、ヘブライ語の abrek の英語の翻訳です。それは命令形で、「従え」を意味し、第18王朝の時代に一般用語の中に加わり、それ以前の時代には、知られていませんでした。

* 私達は、それを確認する文献的な証拠は一切所有しませんし - ユヤ(ジョセフ)のお墓には、トトメス4世の名前が全く見つけられませんが - 彼(ジョセフ)を、彼(トトメス4世)の大臣として、最初に任命したのは、この王で、そして彼の息子、アメンホテップ3世が、ユヤをその地位に認証したと言う、強い示唆があります。ジョセフに関して、創世記の書はこれをはっきりとさせませんが、タルムードは、ジョセフを任命したファラオが、彼より先に死に、ジョセフは、その後継者の統治の任期に、その役職を続けたことを明言します:「そして、ジョセフの友人であるそのファラオは亡くなり・・・彼が息を引き取る前にファラオは、彼を後継する彼の息子に、全ての物事においてジョセフに従う事を薦め、そして同じ指示を記述において残しました。これがエジプトの人々を喜ばせたのは、彼等がジョセフを愛し、そして暗黙に彼を信頼したためです。」

ユヤの妻。ジョセフの名前が何故、ユヤと表記されたのかを理解するのは簡単ですが、ユヤの妻、アセナトがトゥヤへと変形されたのかは、推理の問題でしかありません* 。しかしながら、幾つもの名前を持ち、その幾つかは秘密に保たれたと言う事実は、当時のエジプト人達にとって、一般的な風習でした。ツタンカーメンは、私達が彼を知る名前に加えて、3つの名前を持っていました。また、あだ名や、更に複雑で長い名前の短縮形を使用するのも、一般的な風習でした。その描写された出来事と、それらが聖書の中に記述された時との間には、何世紀も経っていたと言う事実にも、幾らかの考慮が与えられ無ければ成りません。簡単な類推を使うと、イングランドの歴史のテューダー時代が、実際よりも遥かにもっと古く、エジプトの場合がそうである様に、膨大な数の関連した文献が、破壊されてしまっていたとしたら、女王エリザベス1世と、善き女王べスが、同一人物である事を確立する事は難しく成ったかも知れません。

ゴシェンの牛。ユヤの更なる2つの称号は、ジョセフの聖書的な話に、更なるリンクを供給します。イスラエライツがエジプトに到着した時に、ファラオはジョセフにこう言ったとされます:「エジプトの最良の土地に、貴方の父と兄弟達を住まわせなさい;ゴシェンの地に彼等を住まわせなさい;そしてもし貴方が彼等の中に有能な男達を知っているなら、彼等に私の牛の世話をさせなさい」(創世記47:6)。ユヤのお墓に見つけられた称号の一つは、ミンの牛の管理人、(高エジプトのナイル川の東の土手の街)アクミンの主で、そして2つ目は、アムンの牛の管理人でした。

ユヤの寿命。エジプトにおけるジョセフの埋葬について、創世記の書はこう言います:「ですからジョセフは100と10歳に成り、亡く成りました:そして彼等は彼を布でまとい(ミイラ化の処理をして)、エジプトにおいて彼を棺桶に入れました」(50:26)。ユヤのミイラが発見された後、彼の遺体を検証した解剖学者、サー・グラフトン・エリオット・スミスによって行われた医学的な報告から、彼の死の時に、ユヤが恐らく60歳以上では無かった事を、私達は知っています。スミスは表情的な現れだけに頼って正確な年齢を判断する事は出来ませんでしたが、ユヤの死者の書のコピーを翻訳したヘンリ・ナーヴィルは、彼のその後のコメントを、1908年にこう書きました:「その職人は、イオウイア(ユヤ)が死んだ時に、彼がとても年老いた男であった事を示唆する事を望み:故に彼(職人)は、彼(ユヤ)に、とても白髪のカツラを造りました・・・」

当時の人々達が生きた平均年齢が大体、30歳位だったので、太古のエジプト人達は老年を英知のサインと考え、そして長い人生を得た者は、神聖な者として尊敬されました。ジョセフとユヤの両方が、ファラオによって賢者と考えられました。ジョセフについて、彼はこう述べました:「貴方程、考慮深く、賢明な者はいない」(創世記41:39)。ユヤもまた、彼の葬式のパピルス(巻物)に、「唯一賢明で、彼の神を愛した者」と描写されています。賢者に成るまで生きた者達が死んだ時に、彼等の実際の年齢が何歳であったかには関わり無く、エジプト人達が彼等に与えた年齢は110歳でした。ハブの息子、アメンホテップ、ユヤの時代のエジプトの魔術師の、私達が持つ彼についての最新の情報は、彼を80歳としますが、110歳まで生きたと言われます。1865年に、英国の学者、チャールズ W. グッドウィンが、ジョセフの死の際に、聖書的な記述者が彼に与えた年齢は、エジプトの伝統の反映でしょうと提案して以来、このアイデアは徐々に、エジプト学者達によって受け入れられました。

* ジョセフの妻のための名前、アセナテのエジプト的な起源は、「ネス・ネット」で、それは「女神ヌットに帰属する」を意味します。ヌットは空の女神でした。

お金の使用。旧約聖書の記述の中で、ジョセフの兄達は、物資のための支払いにお金を使ったと言われますが、彼等を送り出す前に、ジョセフは、「全ての人のお金を彼の袋へと入れ戻した」とされます(創世記42:25)。お金は、エジプトにおいて、紀元前950年頃まで、使用されていなかったとされ、そして創世記の逸話の著者達は、彼等自身の時代の習慣を反映させていて、物々交換よりもむしろ、お金に言及したのでしょうと、考えられてきました。しかしながら、最近の研究は、少なくとも第18王朝の、6番目の統治者、アメンホテップ2世(紀元前1436-1413年)の統治から - 固定された重さ、または価値の、金、銀、そして銅と言った - 貴金属の欠片が、交換(取引)の方法として使用されていたと言う証拠を発見しました。エジプト人の学者、アブド・エル・モーセン・バキアルは、彼の著書、ファラオ的なエジプトにおける奴隷制の中で、第18王朝の法的な文献の中において、一人の奴隷のために「2デベン(約90グラム)の銀」が、価格として支払われた事を示唆しているのを指摘します。その兄達の穀物の購買において、お金によって果たされた役割は、再び、新王朝の期間の、エジプトに置ける状況を確認します。

多くの門の街。コラーンによると、(ジョセフの弟)ベンジャミンによって追随された、彼等のエジプトへの2度目の訪問の前に、ヤコブは彼の息子達に、一つの門からその街に入ってはいけないと助言しました:

「更に彼はこう言いました:「おお、我が息子達よ!全員で、一つの門から入っては成りません:異なったそれぞれの門から貴方は入りなさい・・・」12章67

同じ話しがユダヤ的な伝統にも見つけられます:「彼(ジョセフ)の兄弟達は、邪悪な眼を恐れ、10個の異なった門から、その街に入りました(Midrash Bereshith Rabbah 89)。*

これが、その兄弟達の2度目の訪問に成るので、ヤコブが、彼の息子達の以前の訪問の詳細を通して聞いた以外、その街について何も知る事が出来ていなかったと推理するのは妥当でしょう。どちらの街に、彼等は訪れたのでしょう?彼等のジョセフとの面会は、第18王朝の王達の、高ナイルにおける首都、テーベにおいて行われた事をその証拠は示唆します。テーベは、太古の世界全体を通して、「数々の門の街」として知られていて、そしてギリシャの文人、ホーマーは、紀元前8世紀頃に、「100の門の街」と記述しました。これは街の城壁を通った入口に言及するのでは無く、その寺院と王宮に帰属する門の事です。

ジョセフをユヤとする同一視は、トトメス(トート・モーゼス/トート→Dwd→ドヴド→デーヴィッド)3世をアイザック(イサク)の父とする、私の前述の同一視のための、年代表的な形状において、更なる補佐を供給します。ジョセフは、トトメス4世(紀元前1413-1405年)の短い統治の期間にエジプトに到着し、大臣としての彼の最初の役職に任命されたと考えられます。彼の父、アメンホテップ2世(紀元前1436-1413年)は、もう少し長く統治しました。ですが彼等の統治を合計した31年間でさえも、アイザックが双子、エサウとヤコブの父と成り、ヤコブがジョセフの父に成り、そしてジョセフが10代、または成人のどちらかとして、エジプトに到着するのに、十分な時間を供給しません。その問題は、しかしながら、54年間統治したトトメス3世(デーヴィッド)がその方程式に入れられさえすれば、解決します。

* これらの伝統は、記述される以前に、口述で伝達されました。聖書的な記述者は、彼がそれを知らなかった、または重要でも、相応しくも無いと考えた、のいずれかの理由で、それらの幾つかを省きました。

目次:
  1. Category: None
  2. / trackback:0
  3. / Comments:0
  4. [ edit ]


Only the blog author may view the comment.

Profile

Songcatcher

Author:Songcatcher
現在地:ルネッサンス2.0









鼓動と呼吸:緊縮と拡張・・・

songcatcher@mail.com

Latest trackbacks

Search form

QR code

QR

« 2017 06 »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -