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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第三章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第3章 アルマゲドン


これ等のカルナックにおける様々な戦争の記録は、その軍事活動において同行した書生達の日々の記録から複写され、歴史的なデーヴィッドの正体と、彼の統治時代の出来事が、どの様にして、5世紀後に生きた、部族的な首長の統治における出来事が、ヘブライの書生達によって応用されたのかに、多大な光を当てます。それらに含まれるのは:アルマゲドンの戦地の重要性で;どの様にしてエルサレムが、「王族」のデーヴィッドの街として知られる様に成ったかで;どの様にしてデーヴィッドと、イスラエルのその他の支族達が、トランペットの音と共に(2サミュエル6:1)、叫びと共に、主のアーク[ボート]を[エルサレムに]もたらしたかで;そして歴史的な記述のいずれにも見つけられないシオンと言う名前は、デーヴィッド王がエルサレムに入ったと私達が学ぶと直ぐに、聖書の中に現れ;「デーヴィッドは、シオンの統治を固め;それは「デーヴィッドの街」と同義です(5:7)。私は此処で、これ等の重要な要点をより詳細に検証しましょう。

エジプトの(歴史的な)説明は、彼の統治22年目の終わりの間の、要塞化された国境の街、ザレウからの、彼の軍隊の先頭をきった、トトメス(トート・モーゼス)3世の出発と共に始まります。その10日後に、彼はガザ(パレスチナ)に到着し、其処で彼は、彼の「父」、アムン・ラーへの尊敬における祭事と共に、彼の即位23年目を祝い、行進する軍隊の先頭において、彼は(アムンの像がその中に座っているボートを表す)アークの中に(そのアムン・ラーの)イメージを運びました。彼は其処で、北方のカナーン(パレスチナ)の中心に向かう前に、クァデシュ族の敵が集まっている街、メギドに行くためには、彼が渡らなければならない山脈の南の、イェヘムと呼ばれる街に一時停止し、一夜を過ごしました。

イェヘムにおいて、彼は3つの通り道に面していましたが、その最も短い道、アルナの通路と呼ばれるものは、細く危険で、そして彼は故に、彼の軍士達を招集しました。

彼の軍士達はアルナの道を選択する事に反対しました。彼等はこの様に言いました:「この様に狭い道の上で、人(軍隊)はどの様に行けるのですか?敵は数多く、その外で待ち受けていると報告されています。馬は、馬の後ろに続き(一列に成り)、兵士達と人々も、同様ではありませんか?私達の先鋒が敵と戦って入る間、(狭い道の出発点である)アルナにおいて、後鋒が立ち尽くし、戦わないのですか?」しかしながら、使者によってもたらされた新鮮な情報を元に、トトメス3世は、好ましくはありませんが - 敵が予測していないであろう - 細い道を選択し、それに対して、彼の軍士達はこう述べました:「貴方の父、アムンが、貴方の軍士達を栄えさせます様に・・・従者(部下/奴隷)は、彼の主人に続きます。」故に、アルマゲドンの、最初の戦いの場面は設定されました。

(注:アルマゲドン(Armageddon)=メギド(Megiddo)の合戦)

メギド
1deuteronomy.jpg

エルサレム、「デーヴィッドの街」の、聖書におけるその重要性と、今日の、信心深い巡礼者達の場所としての名声は - メギドに対する、トトメス3世の長い軍事活動の最初の行動において、それが果たした役割に起因し、それを彼(トトメス)は、彼が戦った、最も重要な戦争として、常に振り返りました。

その聖地における考古学的な発掘の大辞典は、メギドの軍事的な重要性と、国際的な戦場としての、その長い歴史は、「日々の終わりに、世界の王達の全てが、神の勢力に対して究極の戦いを戦う場所として、ジョンのアポカリプス(世紀末/啓示書 16:16 ff )の中で、アルマゲドン(ハル・メギドン/ Har Megiddon、メギドの山/丘)と指定され、相応しく描写されました。

これは、デーヴィッドの一族の生まれのメシア(救世主/救いのキリスト)が何時の日か、メギドを征服した彼の偉大な先祖の戦いを再演し、其処で善悪の間の、最終的な戦争が起こると言う、キリスト教時代までの信仰を強調しました。

現代のパレスチナのテル・メギドである - メギドの外で、トトメス3世に対峙した、シリア人とカナーン族の連合は、2つの軍隊へと分離されていました。勃発した戦において、その王(トトメス)は彼等を打ち負かしましたが、その敗れた敵は、(要塞)都市の安全へと逃げ込み、其処でその(街の)門は閉ざされ、彼等(残党)は、「彼等を持ち上げるたらされた布」で、それをたらした市民達によって、安全へと持ち上げられました。

その戦いの記録は、その敵が「彼等の馬と、金銀の彼等の二輪馬車を見捨て」そして「もし、陛下の軍が、敵を捕える事を、心の中で諦めていなければ、彼等はこの時点で、メギドを[攻略]出来ていたであろう」と、不平を述べます。代わりに、その7か月後に、最終的に其処が攻略されるまで、彼等は兵糧攻めを行わなければなりませんでした。しかしながら、トトメス3世は、この期間に彼の軍隊と共にとどまらず - 「陛下自身は、この街の東の要塞におられた」とされますが - 最終的な攻撃を指導するために戻りました。この要塞の実際の名前は、その出来事のエジプト版には現れないのは、疑う余地無く、その公式な書生(歴史家)が、その王に追随するのでは無く、兵糧攻めをしている軍隊と共にとどまったためでしょうが、それらの比較的な位置、そしてそれに続く証拠は、その要塞が、メギドの南東に位置するエルサレムであった事を示唆します。

「エルサレム」と言う名前は、トトメス3世の西方のアジアの街のリストにも、彼の直ぐ後の後継者達のいずれ(のリスト)にも現れません。これは、今の処、説明されていません。私自身の見解は、当時のエジプト人達は、エルサレムを、もう一つの名前 - セム語で「神聖」を意味するクァデシュ* で認識していたのであろうと言う事です。

カルナックにおいて発見されたトトメス3世の歴史的な記録の中に、彼の最初のアジアにおける軍事活動の後に、エジプトの支配下に置かれたパレスチナ地域の100以上の地名を含むリストがあります。ですが、このパレスチナ(またはメギド)のリストの一番上に、私達はクァデシュと言う名前を見つけます。エルサレムのための現代のアラブ語の名前が示唆するのは、パレスチナのリストの1番上の街が:アル・クッズ(al-Quds)で、それはヘブライ語においてハ・クデッシュ(ha-Qudesh)に成り、アラブ語とヘブライ語の両方において、神聖(な地)を意味し、そして「神聖な街、エルサレム」(ヘブライ語で、Yurushalayim ha Qudesh)を語る処で、ネメミアの書の第11章の1行目において使用されました。

エジプトとの、これ等の平和的な関係の証拠は、第18王朝の外交の記録である、テル・エル・アマルナ(Tell el amarna)の手紙によってまた、供給されます。当時の外交的な言語であるアッカド語** で、紀元前14世紀にエジプトの王に宛てて送られた6つの手紙は、それらの送り元をクァデシュでは無く「エルサレムの地」、マト・ウルサリム(mat Urusalim)とします。それらは、トトメス3世以来、エルサレムがエジプトの指揮下にあり、エジプト軍が地元に駐屯していた事を鮮明にします。

更に加えて、テル・エル・アマルナの手紙の中に見つけられる、エルサレムのためのアッカド語の名前は、2つの単語、ウルとサリムに分離出来ます。最初の単語、ウルは、ヤラ(yarah)と言う動詞から派生し、「見つける」、または「確立する」と言う意味です。2番目の単語は、しかしながら、幾らかの間違いの原因に成りました。多くの学者達は、これが西セム語族、またはアモリテ族の神、シュルマヌ、またはシャリムへの言及であると主張しました。故にウルサリムは、彼等の見解において、「シャリムが確立された」を意味します。しかしながら、エルサレムにおいて信仰された神が、アモリテ族のシャリムであったと言う、直接的、または間接的で、文献的、または考古学的な証拠は全く無く、もし、その街の実際の確立が彼に関連していたなら、実に不自然です。

ウルサリムと言う言葉における、2番目の単語の、この証拠の無い説明を私達が否定した時、私達はサリムが - タルムードの伝説的な部分、ハガダにおいて - 「平和」(ヘブライ語のシャローム/ shalom そしてアラブ語のサラーム/ salam )を意味し、その非法的な要素を表すと、早期のユダヤ人のラビ達に、正しく理解されていた事を見つけます。故に、ウルサリムの意味は、「平和の基礎」、または「平和の確立」で、歴史的な証拠によってサポートされた解釈で:テル・エル・アマルナの手紙以外のエジプトの文献においてウルサリムの記述が全く無いのは;実際にクァデシュが、聖書と、後のアラブ語の文献の両方の中で、エルサレムのための同義語として使用されたためで、この時代のエジプトの王達の殆どの、支配下に置かれたアジアの街々のリストに記述され;そして問われているクァデシュは、オロンテス川の傍の同じ名前の街である事は出来ません。

トトメス3世が、メギドにおける、カナーン族とシリアの王子達の連合に対する戦争に出向いた時、エルサレムは、その反乱に参加しませんでした。その王は、その要塞の操作を取る必要は無く、そして代わりに、軍事行動を行う必要無く、ガザからメギドへ、直接行く事ができ、メギドが兵糧攻めに置かれた長い月々の間、エルサレムにおいて安全な避難場所を求める事が出来ました。故に、エルサレムは、デーヴィッド(i.e. Dwd/ドヴド/トート)の街と証明されます。

* メギドが征服された7年後まで、征服されていなかった、オロンテス川近くの北クァデシュと混同されてはいけません。
** アッカド語は、紀元前3000-2000年に、メソポタミア北部において現れたセム語の一種で、その後、紀元前9世紀に、アラマイック語に入れ替わられるまで、紀元前2000-1000年の間、メソポタミアとレヴァント全体の、一般的な(外交の)公式な言語に成りました。

トトメス3世の長い軍事的なキャリアにおける3つの主要な勝利は、彼の即位23年目(紀元前1469年)の、彼によるメギドの制圧;メギドから逃亡する事が出来た彼の執拗な敵の首都と成った、オロンテス川近くの(北)クァデシュの、彼の即位30年目(紀元前1461年)の制圧;そして彼がユーフラテス川を渡り、ミタニ族の王を打倒し、そして彼の達成を記念するために、彼の祖父、トトメス1世の石碑の隣に石碑を建てた、彼の即位33年目(紀元前1458年)の、彼の帝国の、究極的な再建でした。

聖書的な書生達は、これ等の出来事をどの様に見解したでしょう?旧約聖書は、名前や出来事の年代的な順番に関して、信頼出来無いのは有名ですが、間違い無く、長い世紀の間に、それに含まれた逸話が、口述で伝え続けられた結果です。しかしながら、それらが起こった順番は、所々、頼りに成りませんが、2サミュエルの書の中に私達が見つける説明は、カルナックにおける年代記の中に描写された出来事と同じものを明らかに扱っています。

2サミュエルは、メギドを、(「女神」を意味する)ラブバの名前によって認識します(11:1)。(ヨルダン東部の、非ユダヤ人で、セム語的な)アモン族は、「シリア人達を雇った」(10:6)と、私達は伝えられ、そしてそれに続いたデーヴッドの軍隊に対する戦いにおいて、アモン族とシリア人達が、別々の部隊として機能したのはとても鮮明です。これは、メギドに対する彼の攻撃の前に、彼が裏をかいてアルナの道によって到着した際に、トトメス3世が対峙した、分離された勢力の描写をエコーしています。更に後日戦うための、クァデシュの王と彼の軍隊の撤退は、その戦いの聖書的な説明の中でこう反映されています:「そしてアモンの子供達(アモン神の信者達)が、シリア人達が撤退するのを見た時、彼等もまた撤退し・・・そしてその街に入りました・・・」(10:14)。どの様にしてトトメス3世がその戦場を離れ、「東の要塞」に行ったかの説明と照合し、引き続く兵糧攻めの間、「デーヴィッドは、エルサレムにおいて滞在した」(11:1)と、私達は伝えられます。

デーヴィッドの到着の直後、私達は、イスラエライツがどの様にして、「主のアークを運んできて、デーヴィッドがそのために建てたターバナクル(ユダヤの移動式の神殿/テント)の真ん中の、彼の場所にそれを設置した・・・」(6:17)と言う描写を有します。もしデーヴィッドとトトメス3世が同一視されるなら - 後にイスラエライツに紹介された、エジプト的なアイデアである - そのアークは、モーゼスが十戒を入れたと言われる契約のアークでは無く、アムン・ラーのアーク(ボート)であったはずで、何故ならモーゼスは、私達が(これから)見る様に、これ等の出来事の1世紀後まで、生まれていなかったためです。サポートする証拠は一つもありませんが、メギドに進行する際に、彼の軍隊の先頭で、彼の神、アムン・ラーのアークによって、エルサレムまで随行されたと推理するのは論理的です。私達は、エジプトの宗教において、王と高神官達だけが彼等の神の前で行える、幾つかの儀式があった事を知っています。また、推理するのが論理的なのは、そのアークの設置の場所が、その街の北に位置する高い神聖な場所、モリア山で、アブラハムの時代から神聖な場所として認識されており、そして今日では、イスラムの2つの最も神聖な社(やしろ)、岩のドームとアル・アクサ・モスクの場所であると同時に、ユダヤ人の嘆きの壁の場所でもあると言う事です。

私達はその後の2サミュエルの中で、デーヴィッドが祭壇を建てるために、「銀の50シェケル」で脱穀場を買った時、(当時のエルサレムの、カナーン族的な住人達であったジェブ族の)ジェブ族の王、アラウナが、モリア山の支配を取っていたと言う、この取引の詳細を見つけ - そしてエジプトとエルサレムの間には、平和的な関係が存在していたと言う、更なる確認を見つけます。これらの取引の間に、アラウナはデーヴィッドにこう言ったとされます:「見よ、これが焼かれた生贄のための雄牛で、そして脱穀の道具と、木のための雄牛のその他の道具です。これらの物事の全てを、アルウナは王として、その王(デーヴィッド)に与えました・・・」(24:22-23)。祭壇の場所としての、モリア山の上の脱穀場の選択は奇妙かも知れませんが、街々の近くの高く露出された土地は頻繁に、カルト(宗教)的な儀式の場所でした。

トトメス3世が行った様に、デーヴィッドは、2サミュエルによると、ラブバ(メギド)の陥落が明らかに成った時、彼の軍を合流させ、彼は最後の攻撃において彼等を勝利に導きました。その後彼は、「彼等の王の冠を彼の頭から取り・・・そして大いなる豊富さにおいて、その街の戦利品をもたらしました。」デーヴィッドはまた、彼のために労働させるために、大規模な戦争捕虜を取り、そして、最終的にエルサレムに戻る前に、残りのアモン族の街々を制圧しました。ですがデーヴィッドは、彼の執拗な敵、クァデシュの王を倒すまで、シリアを制圧する事は出来ませんでした。これは、彼の成功的なメギドに対する軍事活動の7年後に、彼が達成しようと行った事でした。

その出来事について、幾らかの学術的な論議はありますが、最終的に制圧されたクァデシュの街は、通常、聖書的なゾーバに一致させられます。2サミュエルの中の関連する言及は、デーヴィッドが、「ユーフラテス川における彼の国境を回復しようと行った際に、ゾーバ[クァデシュ]の王・・・ハダデザル」を打倒した事を示唆します(8:9)。2サミュエルの書は、この出来事の日付けを供給しませんが、私達は、カルナックの文献から、クァデシュの兵糧攻めと制圧から、更に3年が過ぎ、トトメス3世が - 彼の帝国を再建する継続的な軍事活動の一環として - 彼の即位33年目に、ユーフラテス川を渡り、ミタニ族の王を倒した事を知っています:「我が陛下は、アジアの最も遠い国境を渡りました。ビブロスの女主人* の近隣の神の地(フェニキア)の丘の上で、私は沢山の杉のボートを造りました。それらは二輪馬車の上に置かれ、雄牛達がそれらを引き、我が国とナフリン(ミタニ)の間に流れる大いなる河を渡るために、それらは我が陛下の前で旅しました・・・その後、我が陛下は、ユーフラテスの西側の山の上から取られた石碑を、ナフリンの山の上に設置しました。」

* 私はこれが、フェニキアの女神、アシュタロス(i.e. アシュターテ/イシュタル/イシス、etc.)であろうと信じます。

考古学的な証拠は、メギドとクァデシュの街々に対する戦いが、紀元前15世紀において、トトメス3世によって戦われた事を疑いの余地の無いものにし、その5世紀後の部族的な(第2の)デーヴィッドでは無かった事を証明するのは、何故ならメギドとクァデシュの街が、それ以前にすでに破壊されていたためです。メギドの街は、紀元前12世紀の後半の1/3において、「海の人々」であるピリシテ人達の侵略によって、突如、完全に崩壊させられたと証明されました。この地域が、その後、ピリシテ人達によって住まわれたと言う証拠は存在しますが、これもまた紀元前11世紀の後半に、破壊に苦しみ、そして「その街の門は・・・(当時)明らかに存在せず・・・実際に、その街はこの時代の間、全く要塞化されていなかった、」と、考古学者達は、結論に至りました。これは紀元前10世紀の前半において、デーヴィッドとして確認される(2人目の)部族的な首長が住んだ - 要塞化も、制圧するための兵糧攻めも必要としなかった - 街でした。

同様に、クァデシュにおいて考古学者達によって発掘された様々な戦争の証拠は、このシリアの拠点の最終的な破壊は、メギドの様に、紀元前12世紀に、ピリシテ人達の手によってもたらされた事を証明します。

私達がこの章の初めに見た「シオン」と言う名前は、デーヴィッドがエルサレムへと入ると、直ぐに聖書の中へと初めて現れますが、あらゆる歴史的な文献の中では見つかっていません。しかしながら、その示唆の全ては、Zion (ザイオン/ヘブライ語でシオン)は、モリア山の古代の神聖な地のための、別名として使われ、その起源をエジプトに関連させます。それはヘブライ語独自の起源では無く、2つの要素(単語)によって構成され、その一つはヘブライ語の一般的なセム語で、「サハラ」が派生した単語で、もう一つはエジプト語です。ヘブライ語の最初の要素、「Si/シ」は、「干ばつの地」、「不毛の地」を意味します。今まで理解されていなかったのは、その(2番目の)エジプト的な要素です。

「オン」は、聖書的な名前で、ギリシャ語では、太古のエジプトの神聖な街、ヘリオポリスでした(へリオ=オン=太陽/ポリス=街)。上エジプトのテーベがその帝国の新たな首都に成り、国家神、アムン・ラーの神聖な街に成って以後の、その衰退の時代から、テーベを「南方のオン」そしてヘリオポリスを「北方のオン」と呼ぶのが習慣と成り、「オン」と言う単語は、「神聖な街」と言う感覚で使われる様に成りました。故に - 砂漠の神聖な街 - を意味する「シ・オン」と言う正にその言葉が、エルサレムの北の地を、聖地と指定するために、デーヴィッド王(トトメス3世)が入って以後のその使用自体が、そのエジプトにおける由来を明かしています。

正しい出来事の成り行きは、それまではエルサレムの住人達にとって神聖だった、モリア山が、メギドの兵糧攻めの期間にトトメス3世が彼の本拠地とし、彼の神、アムン・ラーを信仰した後、エジプトの帝国の、全てのアジア(中東)的なそれぞれの王国にとって、神聖に成ったと言う事です。何であれ、彼(アブラハムでは無く、トトメス/デーヴィッド)の子孫達は、サラとアイザックを通して、彼等の偉大な先祖を決して忘れず、そしてエジプトを離れ、最終的に、1世紀半後にカナーン(パレスチナ)に定住し、彼等は、彼(トート/デーヴィッド)の聖地を、最も崇高なもので、彼等の新たな故郷の神聖な場所とし、それをシオン(モリア)山と呼びました。

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