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キリスト教:太古のエジプト的な宗教: 第二章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第2章:デーヴィッド(ダヴィデ)の一族


歴史的なデーヴィッドを発見する試みは、旧約聖書において、2人の対照的なデーヴィッド的な登場人物達が供給される事実によって、複雑化されています。その一人は、紀元前1500年に生きた戦士王で;その2番目は、一般的に、聖書的な学者達によって、紀元前1000年から、960年に生きたとされる、伝統的な約束の地 - 北部のダンから、イスラエル(パレスチナ)-ジュデア(パレスチナ)の高原の南部のビアシェバの北部を統治した部族的な指導者で、紀元前12世紀中ごろに、カナーン(パレスチナ)の海岸線を侵略した、「海の人々」である、ピリシテ(フェニキア)人達との争いにおいて、彼の人生の殆どを費やし、そして彼の領土を拡張しようと試みました。

学者達は、彼(デーヴィッド)とキリスト教時代の始まりの間の血統的な繋がりの欠如にも拘らず、この部族的な首長を、様々な隠れ蓑において、私達に現される、デーヴィッド王とし - 羊飼いで、サウル(後のポール)とその後、イシュボセットのライバルで、サウルの生き残った息子達の内の一人で、イスラエライツの指導者;上手なハープの演奏者で;「戦争の人」で;伝説的な対決に於けるゴライアス(巨人)の打倒者で;そして、彼の息子、アブサロムの怒りから逃げた弱虫とします。しかしながら、彼はまた、ナイル川からユーフラテス川まで伸びる帝国を確立した戦士王とされます。サミュエル第2書は、私達にこう伝えます:「デーヴィッドはまた・・・ユーフラテス川の、彼の国境を取り戻そうとした際に・・・ハダデザルを打倒し・・・そして塩の峡谷においてのシリア人達に対する打倒から、彼が帰って来た時、彼は名声を得ました/石碑を建てました(8:3と8:13)。この説明は、歴代史1の中で繰り返されます:「そして、デーヴィッドが、ユーフラテス川に、彼の領土を確立する際に、彼は、ハダデザルを打倒しました」(18:3)。

単なる部族的な首長であるデーヴィッドによる、一つの帝国全体の創立の話しは、学者達に幾つもの問題を定義します。それは、彼が数百人の軍隊しか持っていなかったと言う事実と一致しません。または、紀元前10世紀の前半に確立された、ナイル川からユーフラテス川まで伸びる帝国があったと言う見解を補佐する証拠は何もありません。実際に、紀元前15世紀におけるトトメス3世の統治と、ペルシャのサイラスがメソポタミアとエジプトの両方を征服した、紀元前6世紀の後半の間に、その様な帝国が創造されたとは、全く言うことが出来ません。学者達は故に、デーヴィッドの帝国の逸話は、聖書的に重要な人物について、大袈裟にいうために、単純に捏造された聖書的な語りであると説明する、または言い逃れなければなりませんでした。

しかしながら、2人のデーヴィッド - 紀元前15世紀に生きた戦士王と、その5世紀後に生きたもう一人の部族的な首長の話しの合体は、アブラハムでは無く、トトメス(トート・モーゼス)3世がアイザックの父で、故にイスラエルの12支族の始祖的な父であったと言う事実を隠す、旧約聖書の編集者達(紀元前6世紀と3世紀の間に、バビロンに住んでいた、ユダヤの書生達)による試みの一部として見られるべきです。そのファラオの名前の最初の部分、「トト」(またはトート)は、ヘブライ語において「Dwd(ドヴド)」に成り、聖書の中で「デーヴィッド」のために使用された言葉です。

デーヴィッドとゴライアスの間の、エピック的な決闘の話しは、「戦争の男」としての、デーヴィッドの、部族的な評判を強調するために合成された、とても広く知られた、エジプトの文学、その1,000年以上以前に起こった出来事を描写した、シヌヘの伝記の応用で、紀元前15世紀から14世紀の期間に、4世代に渡りエジプトにおいて過ごした、彼等の旅路の早期の段階の、イスラエライツにとって、とても親しみがあったのは、確かです。

シヌヘは、紀元前20世紀において、エジプトの第12王朝を確立した、アメネムハット1世の娘、ネフルに使えた廷臣でした。彼の、エジプトからの突然の逃避、彼の放浪、ゴライアスの様な「強力なカナーン族の男」との彼の戦い、そして彼の生誕の地に埋葬されるための、彼の最終的な帰郷の話しの、彼の伝記的な逸話の形状は - 元々、彼の実際の墓に記述されたものであるのは鮮明です。事実に基づいていると認識されている(後述参照)その逸話の多くの複写が、その後、見つけられ、(その出来事が実際に起こった)紀元前20世紀から、紀元前11世紀における第21王朝に至るまで、年代測定されています。それは、太古のエジプトにおいて、学生達に教えられた文学の代表例で、民族的な背景がどうであれ、エジプトにおける教養のある人達の全てが親しみを持って、その内容を知っていたのは間違いありません。

その2つの逸話の類似性は、多くの学者達によって気付かれました。例えば、英国のエジプト学者、ウイリアム・ケリー・シンプソンは、彼の本、太古のエジプトの文学の中で、「強者レテヌとの戦いは、度々、デーヴィッドとゴライアスの決闘と比較され、それは文学的な原型の役割を果たしたのかも知れません、」と指摘しています。その他の場所* において、彼等のエジプト人の主人達の過酷な扱いから逃れるための、紀元前14世紀における、約束の地への彼等の出エジプトを、モーゼスが導いた時、シヌヘの自伝が、イスラエライツの記憶に残っていたと言うのが、正しい結論である事を示唆する証拠のまとめを、私は提示しました。その後、紀元前6世紀に - ジュデアに侵略し、エルサレムの寺院を破壊した - バビロニアにおけるイスラエライツの70年の追放(奴隷化)の期間に、サミュエルの書を書いていたヘブライの書生達は、ナイル川からユーフラテス川まで広がった、大いなる帝国を確立したのはデーヴィッドであったと、読者達に受け入れさせる事を可能にさせるために、部族的なデーヴィッドのイメージを強調するために、シヌヘと「強力なカナーンの男」との出会いを含ませました。

しかしながら、私達が次の章の中で目撃する様に、デーヴィッドの正体を確立する事の全てにおいて、最も重要な事実は、彼の軍事活動の聖書的な説明が、トトメス(トート・モーゼス)3世によって戦われた戦争の説明の詳細に、正確に一致する事で、その詳細は、王家の谷からナイル川を挟んだ反対の東の土手の上の、上エジプトのカルナック(現代のルクソール)において、彼の統治40年(紀元前1439年)の後にその王によって建てられた、最も神聖な聖域の花崗岩に刻まれた正史の223行の文献において見つけられます。

* ファラオの宮廷の中のイエス

側室の息子であるトトメス(トート/ヘルメス・モーゼス)3世は、紀元前1490年に、奇妙な状況の下で、エジプトの王座に就きました。その第18王朝は、侵略してきたヒクソス族(紀元前1630年頃にその領域を征服し、エジプトの国境の東部の要塞都市において、彼等がアヴァリスと名付けた、彼等の首都を設立した、ある程度、セム語族的で、その他の要素も含む、アジア(中東東域)的な遊牧民)によって、エジプトの三角州の東部が、1世紀強、支配された後に、紀元前16世紀に、テーベの王子達が協力し、彼等(ヒクソス)を追い出す試みに成功した、100年近く以前に創始されました。この勝利は、アモシス1世(紀元前1575-1550年)の、第18王朝の最初の統治者としての、即位に結果し、それは、新王朝として知られるものを始めました。ヒクソス族の残党を、ガザ地域(パレスチナ)まで追いやった追撃も含み彼は、エジプトの全土のどの部分も、外国人の支配に落ちない事を確かにするために、合わせると、15年間、戦争に明け暮れました。

アモシス1世は、ヒクソス族に対して、パレスチナとシリアへと、更に押し戻す軍事活動を継続した、彼の息子、アメンホテップ1世(紀元前1550-1528年)によって後継されました。彼は、順を追って、その王が、王族の跡取り娘と婚姻させた後に、彼の共同統治者として任命した、彼の将軍達の内の一人、トトメス1世(紀元前1528-1510年)によって後継されました。彼の比較的に短い統治にも拘らず、トトメス1世は、エジプト帝国の元々も創始者でした。彼は、彼の軍隊の先頭に立ち、西方アジアに進軍し、シリア北部とメソポタミア、アナトリア(トルコ)南部の地域において、ユーフラテス川まで届きました。其処において彼等は、ミタニ族(メソポタミア北部の太古の王国)の領土へと、その川を渡り、其処でトトメス1世は、彼の勝利を記念する(まだ発見されていない)石碑を建てました。この時点において、しかしながら、エジプト人達は、彼等の敵を、単純に倒す事だけで満足で、侵略した領土の操作を確立する事は、全く試みませんでした。

これ等の出来事の後、私達は、エジプトの歴史における、奇妙な時代に入ります。次の統治者は、大いなる王族の妻(女王アモース)では無く、低級な側室との、その王の息子、トトメス2世(紀元前1510-1490年)でした。その王座を後継するために、彼は - しきたりに従って - 彼の父と女王アモースの跡取り娘であり、彼の腹違いの妹である、ハツシェプスットと婚姻しました。順を追って、トトメス2世は、イシスと言う名前の側室との、彼の息子、トトメス(トート・モーゼス)3世(紀元前1490-1436年)を、彼の跡取りに任命しました。

彼の息子の王座に就く権利を確かにするために、トトメス2世は彼の息子を、国家的な神、アムン・ラーによって「養子」にされる、事前対策を取りました。トトメス3世の神による選択の逸話は、彼が王座に就いたずっと後に記述された、カルナックの刻まれた文献において見つけられます。それは、国家神のアーク(箱)が、行進において運ばれた際に、テーベ(の街)のアムンの寺院において、どの様にして選択の儀式が行われたのかを描写し:「私に気付き、おお、彼[その神]は、立ち止まり・・・歩道の上に[私は、私自身を投げ出し]、彼の面前に、私自身を平伏せさせました・・・その後、彼等(神官/官僚達)が、人々の前で、神の御心の中の秘密[を明かしました]・・・」とあります。この時点において、その逸話は、その若い王子がどの様にして、ラーによって王に任命されるために、天界へと連れ去られたのかを描写します。:「ラー自信が、私を確立させました。私は、彼の頭の上の王冠によって威厳を与えられ、彼の蛇の王冠は、[私の頭の]上に置かれました・・・私は、私の父、アムン・ラーの屋敷において・・・ホルスの如く、その神々の評議会と共に満足させられました。

メンクヘパー・ラー(「ラーの形状において確立された」)の王名を与えられた(i.e. 彼の即位において与えられた名前で、生誕において与えられた名前と異なり;事実、王は通常4つの名前を有しました)トトメス3世は、彼の父が死んだ時、まだ若い少年で、5歳位でした。王としての、アムン・ラーによる、彼の「養子化」は、通常の風習に従えば、トトメス2世の死の直後、女王ハツシェプスットに産まれた娘で、彼の腹違いの妹、ネフェルレとの婚姻によって確証されるはずでした。この婚姻は起こらず - 私達は何故なのかを知りません。私達が知っているのは、しかしながら、彼女の母、女王ハツシェプスットが、その若い王が統治する事を、妨げた事です。代わりに、彼女(彼の叔母であり、義理の母)は、彼女自身を彼の保護者として任命し、当時の肖像において、彼が、彼女の背後に現れる事を唯一、許しました。

直ぐに、トトメス3世の即位2年目(紀元前1489年)にして、彼女は王権を分かち合う手続きさえして、男装して現れました。彼女が生きる限り、彼女はトトメス3世を背後に押しやり、彼女の娘、ネフェルレを、正当な後継者、「2つの地の淑女、上下エジプトの淑女」(ハツシェプスットの記念碑に見つけられる称号)として扱いました。しかしながら、彼女の計画は、共同統治の16年目に、ネフェルレが死んだ時に頓挫し、その時点以後、トトメス3世の重要性が増しました。彼は、若い男性としてエジプトの軍隊に入った様で、共同統治の終わりに向かう頃、ガザ(パレスチナ)の地域において戦った事を示唆する証拠があります。

彼自身でエジプトを統治する機会は、共同統治者、ハツシェプスットが死んだ、即位22年目(紀元前1469年)の中頃に来ました。彼が行った最初の政策は、彼の叔母で義母のために建てられた記念碑の多くを破壊する事だった様で:彼女の像は砕かれ、彼女の記述は消去され、彼女のカートゥーシ(エジプトの統治者の名前と称号を含んだ楕円形の輪/象形文字)は破壊され、彼女のオベリスクは幽閉されました。ですから此処で、細かい事を言うと、彼はエジプトの女王の息子でも無く、王座を継ぐために、後継者(正当な腹違いの妹)と婚姻したわけでも無く、国家神、アムン・ラーによって任命されたと言う徳においてのみ、統治しました。また、トトメス3世は、先代のアモセス王朝の法的な子孫でもありませんでした。この時代から、エジプトにおけるアマルナの統治の終わりまで - アケナーテン、セメンクカレ、ツタンカーメン、そしてアイの紀元前14世紀における統治まで - エジプトの王座に就いたのは、国家神、アムン・ラーによって正当化され、トトメス3世によって創立された王朝でした。

(王家の谷の第34番区域の)トトメス3世の、棺桶が発見された時、それは空っぽでした。テーベ(の街)西部のお墓の斜面の、掘り下げられた、幅3メートル、長さ300メートルの、細いシャフトにおいて、32体のその他の王族のミイラと共に、彼(トート・モーゼス)のミイラが、最終的に発見されました。それらは、墓荒らしの多くの出来事の後に、その安全性を危惧した、エジプトの祭司達(官僚達)によって隠され、2,000年以上も、其処に埋まっていました。

しかし、墓泥棒達は、それらの埋葬の場所を見つけました。トトメス3世のミイラは、その棺桶から取り出され、宝石類が取り外される際に、多大なダメージを負いました。体から取れてしまった頭は、彼の死の際に、その王は、左の耳の背後の少数の白髪以外、完全に、髪の毛が無かった事を証明しました。四肢もまた、同体から分離し、足は、足首で分離し、そして両腕は、肘において、真っ二つに分裂していました:

「再埋葬の前に、覆いの布のやり直しが必要と成り、そしてその遺体の各部分がバラバラに成ったので、そのミイラに必要な一体性を与えるために、その再現者達は、4本のオールの形をした木の沿え木で圧縮しました・・・幸運にも、ミイラ化の作業の時に、松脂(が湿った布)に覆われたその顔は、この乱暴な扱いから全く害されず、保護していたマスクが取り外された時、無傷の様に現れました。」

これ等の言葉の著者、(1896年)当時の、カイロ博物館の主任-館長、ガストン・マスペロは、「彼の像は、彼を男らしい美の1種として表さず、詳細で知性的な特徴を与えますが、ミイラとの比較は、その工芸者達が彼等のモデルを理想化した事を見せます。より最近(1959年)に成って、その王の容姿についてのもう一つの見解が、アメリカ人の学者、ウイリアム C. ヘイズによって供給されました:

論議する余地無く、エジプトの王座に就いた最も偉大なトトメス3世は、優れた戦士、政治家、そして外交官であっただけでは無く、また、最も洗練された馬乗りで、弓使いで、彼の時代におけるスポーツ万能だった様です・・・(ですが)身体的に、彼はあまり魅力的ではありませんでした。彼のミイラは、彼が身長において5.4フィート弱の肉付きの良い小さな男だった事を証明し、そして彼の肖像画は、殆ど統一的に、彼が全てのトート・モーゼス達の中で、最も尖った鼻を有していた事を描写します。」

ヘイズが「あまり魅力的では無い」と主張した、彼の身長や身体的な特徴は、トトメス3世の日常的な生活には、悪影響はありませんでした。彼の正妻で、彼の後継者、アメンホテップ2世(紀元前1436-1413年)の母は、彼の腹違いの妹、メリット-ラーでした。彼女については、殆ど知られていませんが、(正当な王族の血統の)後継者では無かった事は確かです。加えて、彼は少なくとも、3人のアジア的(中東よりも東の)妻達を有し、その共同の墓はテーベ西部に発見され、そして、大規模なハーレム(大奥)も持っていた様です。

私達は、アイザックの誕生に結果した、(エジプトを)訪問しているサラとの関係の証拠を見つけられません。恐らく、エジプトの書生(官僚)達は、それを重要では無い出来としたか、またはヘブライの書生達と同様の方法で、その婚姻を認める間、その間に産まれた子供の父親の正体を曖昧にする事を試み、その記憶が、公式な記録に保存される事が相応しく無い、大きな罪としたのかも知れません。

(女王)ハツへプスットの死後、彼の即位22年目に、トトメス3世が、エジプトの唯一の統治者に成った時に成ると、西方アジアにおける、大規模なエジプトの軍事活動無しで、40年が過ぎていました。此処で、その状況は完全に方向転換します。(シリア北部のオロンテス川の強固な要塞都市)カデシュの王が、エジプトに対する大規模な反乱において、シリアとカナーン(パレスチナ)の連合を導きました。その対応として、トトメス3世は、彼の祖父、トトメス1世によって40年前に平定された、ナイル川とユーフラテス川の間の領土を取り戻すために、西方アジアに進軍しました。その後の20年間、彼は西方アジアにおいて、17回の軍事活動を行い、その終わりにおいてトトメス3世(デーヴィッド)は、太古の世界における王達の全てにおいて最強の評判を得て - そして、サラの子孫達への主の約束の題材であった、帝国を再確立し、それはこの本の後において検証されます。

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