• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓

キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第一章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著


パート1

選ばれた人々(選民)


そして神はアブラハムにこう言いました、汝の妻、サライについては、汝は彼女の名前をサライとは呼ばず、彼女の名前は以後、サラに成り、そして私は彼女を祝福し、そして汝に彼女との息子を授けよう・・・そして彼女は国家の母と成り:人々の王達は、彼女の血統に成るであろう。
創世記 17:15,16

第1章: アブラハム、サラ、そしてファラオ

50世紀以上も前に、彼等の最も初期の歴史から、エジプト人達は、人間が肉体的な要素と同時に、スピリット(霊)的な要素によって構成されていると信じました。彼等は死を、肉体からのスピリット的な要素の出発として考えましたが、その肉体が安全に保たれ保護されれば、未来におけるある地点においてそのスピリットは、その肉体に戻り、その後、第2の人生を送ると信じてもいました。それは何故、彼等がミイラ化する事によって死体を保存し、それを安全に保つために、丈夫なお墓を建てたのかの理由です。彼等はまた、彼等のアノイント(オイルを塗る儀式/キリスト化)をされた王達の神聖さを信じました。エジプトのファラオ(神官王)は神、ホルス(朝日)の人格化であり、彼の父は、太陽神であるラー(真昼の太陽)であると考えられました。エジプト人達は彼等の数多くの神々のために寺院を建て、そして日々の儀式を行い、年事のお祭り/政(まつりごと)を監督するために、神官階級(官僚)の組織化を確立した最初の国家でした。47世紀の後までも、グレート・ピラミッドは、王達の神聖な権力と、統一的な宇宙に届こうとする人の試みの後世に残る象徴への目撃者として、未だにそびえ立っています。エジプト人達の歴史の早期の部分から、天文学は彼等の知識の重要な一部で、グレート・ピラミッドは、星々の観測を助ける方法を意図され、星々の運動のための解読を供給するために建てられた事を否定する事はもう出来ません。太古のエジプト人達は、特定の瞬間における星々の運動と位置が、人の振る舞いと、彼の運命に、特定の効果を持つと信じました。

ヘブライの部族は、イスラエルの12支族の創始的な父として、ユダヤ人達とキリスト教徒達に同様に考えられている、アブラハムの時代、紀元前15世紀において、歴史の中へと最初に現れました。この章の中で私は、アブラハムの家長制は実在では無く:むしろそれはイスラエライツと彼等の子孫達、そして実にキリスト教徒達にとって、象徴的な重要性であったと主張します。

アブラハムの時代の西方アジア(中東)
3genesis ur of the chaldees

(彼等の元々の名前で言うと)アブラムと彼の妻、サライは、聖書によると、現代のイラクの首都、バグダッドの南西200マイルに位置する重要な街、メソポタミア南部のウル(Ur/現代の Tell Muqayyar)から、歴史の中への彼等の旅路を始めました。その集団は、アブラムの父、テラによって導かれ、テラの孫であり、アブラムの甥である、ロットを含んでいました。創世記の書は、テラと彼の家族が、バビロンを通った北西のユーフラテスの峡谷に続いた大いなる貿易ルートを辿り、地中海東部の港に続くカナーンを通って急いだ旅の理由の説明を与えません。聖書において通常である様にまた、何時この移民的な旅が始まったのかの日付的な示唆もありません。アブラムとサライの子孫達 - ジョセフとモーゼスが - 紀元前14世紀において生きていたと確認出来るので、テラと彼の家族が、紀元前16世紀の正に終わり、または更に可能性が高い、15世紀の初めに、ウルから出発したと推測するのは妥当でしょう。

ウルから、現代のイスラエルとウエスト・バンク、そしてガザと同じエリアにあった、当時のカナーンまでの道のりは700マイル以上あります。その家族は、2段階においてその旅を行い、ユーフラテス峡谷の真ん中のハランにおいて、特定されていない期間滞在し、其処でテラは死にました。私達はその後、アブラムの家族と神の間の特別な関係の最初の示唆を与えられます。その主はアブラムにこう言ったとされます:「汝は、汝の国から出て・・・汝が確立する地に行き・・・そして貴方は汝の大いなる国家を造るであろう・・・」(創世記 12:1-2)

この約束への反応として、彼等は太古のパレスチナの地であるカナーンまで彼等の旅を続けますが、その国において見知らぬ新参者達が現れるのは、一般的な出来事でした。貿易商達はその海岸線の平野を、アラビアとエジプトの北から南への彼等の商業的な旅において利用しました。それはまた、一方ではエジプト、もう一方では、ミタニ族のメソポタミアの王国、アッシリア、そしてバビロニアの間の再発する帝国的なライバル関係の間に、軍隊の通り道としても機能しました。加えて、干ばつの時には、アマルナの手紙* によって証言される様に、近辺のアラビア砂漠からの部族達によって、その国は再三、小規模の侵略に苦しみました。

* 紀元前14世紀の間に、カナーンの統治者によって、エジプトのファラオに宛てて、アッカド語で書かれたアマルナの手紙は、部族的な集団による、彼等の街々に対する、複数の侵略の試みを語ります。

土から生計を立てようとする(農業を行おうとする)人達にとって、カナーンの丘は、威圧的な挑戦でした。其処の天候は好ましくありませんでした。その国の夏において、太陽は激しく照り、そして熱い砂にまみれたシロッコの風(北アフリカから南ヨーロッパに吹き付ける砂交じりの熱風)が襲いました。焼かれた土を耕す事を可能にする、秋の終わりの雨は、頻繁に、厳しい寒さの冬によって続かれました。その後、太陽がその強さを取り戻す際、3月と4月のより優しい雨が、更なる乾燥期が始まる前に、羊、山羊、そして牛のための、新鮮な牧草を少々供給しました。

穀物は、海岸線の平野と峡谷においてのみ収穫可能で、そしてその国の(農業に)不適切な岩っぽい丘が許す、基本的な農業の産物は、オリーヴと葡萄でした。飢餓の時は頻繁で** - そしてアブラムとサライが再び、ハラムから彼等の旅路を再開し、南に向かい、このセム語的な部族と、エジプトの王家の間の最初の結びつきを固め、世界史において、アブラムの家族の永続的な場所を確かにした旅に出向いたのは、飢餓の時でした。

** 創世記の書は飢餓について2度述べます:その最初はアブラハムの時代に起こり、そしてその2度目は、ジョセフがエジプトにいた時に起こり、太古の時代の間の移民の考古学的な証拠は、天候の本質と同様に、その様な飢餓の発生を示唆します。

カナーンと比較すると、エジプトは、豊かで先進的な国でした。その大部分が砂漠である間、ナイル川の両側の土地は(灌漑と堤防の複雑なシステムによって水が引かれ、エチオピアの高地における雪解けと、多量の雨に続く、毎年の洪水によって)その河の三角州は、非常に肥沃でした。女神イシス(アイシス)の涙の御蔭とされたその洪水は、エジプト人達の生活にとって、特に重要な特徴でした。彼女への尊敬のために、宗教的なお祭りが行われ、今日でさえ、ナイルが氾濫し始める6月17日は、「(涙が)落ちる夜」として知られています。(夏至/6月21日にも重なります。

エジプトの主要な穀物に含まれたのは、(パンのための)小麦、(ビールのための)大麦、野菜、(ワインのための葡萄を含む)果物、そして(アマの油とアマ布の糸のための)亜麻でした。その土はとても豊かで、一つの栽培の季節に、2種の穀物が頻繁に収穫出来る程でした。エジプト人達はまた、豚、山羊、羊、鴨、そしてアヒルを飼育し、そして彼等の食生活を、ナイルからの魚、湿地帯からの野鳥、そして砂漠からの獲物で満たす事が出来ました。聖書によると、アブラムとサライがエジプトに向かったのは飢餓の時と言われますが、彼等が旅する原因に成ったのは - 恐らく貿易の様な - その他の動機だったのかも知れません。確かに - 彼等が単純に、食料を求めていたのであれば、人が滞在するであろうと予測する - ナイルの三角州の東部に彼等は滞在せず、(後に立証される様に、私がトトメス/トート・モーゼス3世であると信じる)当時のファラオが宮廷を構えた処に彼等は向かいました。

この時代において、その可能性があったのは - メンフィス、ヘリオポリス、またはテーベの街の3つの内のいずれかでした。現代のカイロの南、12マイルに位置するメンフィスは、重要な貿易の拠点であり、職人と技師達のパトロンである、プターの大いなる寺院によって恩恵されていました。聖書の中でオン(On)として知られる - ギリシャ語のヘリオポリス(太陽の街)は、エジプトの神聖な街の元祖で、現代のカイロの北部の単距離に位置し、太陽神、ラーの信仰の主要な中心地でした。これらの北部の街の両方が、エジプトの夏の厳しい暑さからの避暑地として、宮廷によって使用されました。しかしながら、第18王朝の期間(紀元前1575-1335年)、ナイル川を挟んで王達の峡谷の反対の東側の土手の上、約300マイル下ったテーベ、現代のルクソールが、国家的な神、アムン・ラーの信仰の主要な中心と成り - エジプトの2つの土地* (上エジプトと下エジプト)の首都として発達したので、ヘリオポリスの重要性は弱まりました。

* エジプトは、赤い砂漠と黒いナイル峡谷の統合の結果として、2つの土地/国と呼ばれました。

アブラムとサライが何処に向かい、そして何の目的であったにせよ、私達は単純に、サライが「見るに美しい女」で、そして彼等がエジプトに近づくと、アブラムは、もしサライが彼の妻である事が知られ、そしてファラオが彼女に興味を示せば、彼(アブラム)は殺されてしまうかも知れない事を恐れ、「私(アブラム)は、貴女(サライ)に、貴女は私の妹であると言う事を願います・・・そして私の魂は、貴女の御蔭で生きるでしょう」(12:13)と述べたと伝えられます。

アブラハムの時代のエジプト
1genesis nile river

1genesis the egyptian kingdom

これは、創世記の書によると、賢明な判断と証明されました。廷臣達はファラオに、彼等の中に「美しい女」が現れたと、ファラオに助言し、そして彼は「彼女をファラオの宮廷へと取り入れ」、そして彼女と婚姻しました。アブラムは、彼の「妹」の手を、婚姻において渡したために、羊、牛、ロバ、そして従者達* で、多大に報酬されました。情事は、しかしながら、長続きしませんでした。聖書は、ファラオが他人の妻と婚姻したために、「大規模な流行病」がファラオの宮廷を襲い、ファラオは、アブラムを呼び寄せ、こう尋ねたと伝えます:「貴方は、私に対して何をしでかしたのだ?何故、貴方は、彼女が貴方の妻であると伝えなかったのだ?何故、貴方は、彼女が貴方の妹だと言ったのだ・・・今、故に、貴方の妻を見よ、連れて行け、そして貴方は出て行きなさい」(12:18-19)。

* ついでに述べると、エジプトにおいて、アブラムがサライを、彼の妹として紹介した時、彼は嘘をついていたのでは無いかも知れません。太古の時代において、エジプトの外での、妻-妹の関係は珍しかったのですが、ヌジとハランがその一部であった、ユーフラテス峡谷の中心におけるフリアンの社会において、女性が人の妻に成る事に加えて、その人の姉妹として養女にされる、妻-妹の法的な関係が存在していた事をヌジ文献は明かし、その結果として、一般的な妻よりも、より高い社会的な地位と、より大きな特権が得られたと記述します。

アブラムとサライは、寛大な贈り物と共に、カナーン(パレスチナ)へと戻りました。ファラオはまた、サライにエジプト人の従女、ハガルを与え、カナーンに彼等が安全に戻ると、サライはアイザックに生を与えました。エジプトへの旅の聖書的な説明の本質は、アブラムの妻であるサライがまた、統治者であるファラオの妻に成った事でした。これは、当時のしきたりにおいて、アブラムの「妹」の手のために、花嫁の代償を支払う事を含むだけでは無く、実際の婚姻の儀式の夜の性的な行為も含みました。ですから、ある問いが浮上します:アイザックの本当の父は誰だったのでしょう?

確認可能な証拠 - その婚姻において;アブラムはサライの兄のふりをして;サライは、彼等の王に彼女の美を薦めたファラオの王子達によって見初められ、彼女は王族の宮廷へと連れていかれ;その王は彼女と婚姻し、アブラムには(羊、牡牛、等々の)寛大な贈り物が成され/代償が支払われ;サライには従女、ハガルが与えられ;(私が後に証明する様に)聖書のナレーター(証言者)が、その夫婦のカナーンへの到着と、アイザックの誕生の間に、出来る限り長い年月を入れようとするのは;(聖書の後のユダヤ教における、最も重要な宗教的な法の文献である)、イスラエライツの早期の歴史の説明において、旧約聖書に次ぐ権威と考えられる、タルムードにおける文献的な言及と、イスラム教の聖典コラーンにおいて;アイザック以後の子孫達の歴史は - アブラムでは無く、ファラオが、アイザックの父であった事を指摘します。

(聖書の記述者の、アイザックの父親についての真実を誤魔化そうとする努力は、私が信じるに、彼が2番目の罪深い婚姻の息子であった事実を超えた、歴史的な根源を超えて向かいます。その後続いた年々の中で、イスラエライツはエジプトに戻り、約束の地への彼等の旅の第一段階において、モーゼスによって国外に導かれる、彼等の集団出国(出エジプト)まで、彼等のエジプトの主人によって、4世代に渡り(奴隷として)厳しい扱いと迫害を受けます。これらの出来事が記述されるまで、何世紀も経ち[エジプト人達は、これを全く記述しませんでした。]、その当時に至ると、エジプトとそのファラオは、イスラエライツにとっての、憎しみの象徴に成っていました。聖書的な記述者は、故に、イスラエルとエジプトの間のあらゆる家族的な関係を隠そうと努力しました。ですが、その後の話しに戻りましょう・・・)

その夫婦がカナーンに戻った後に、私達は聖書の中において、サライよりも、元々、アブラムに、より大きな主役性が与えられる、預言の連続を読みます。主は、ヴィジョンの中でアブラムに現れこう言ったとされます:「貴方の種[子孫]が、彼等のものでは無い土地において、見知らぬ人に成り、奉仕する(奴隷に成る)保証を知りなさい・・・だが、4番目の世代に、彼等は再びこちらへ来る(解放される)でしょう。」(創世記 15:13,16)神はまた、アブラムと契約し、こう言いました:「汝の種に、エジプトの(ナイル)川から、大いなる川、ユーフラテスの川まで、私はこの地を与えましょう」(15:18)。

この時点において、聖書の記述者は、サライが子供を授かる事が出来ない事を、わざわざ指摘します:「サライは・・・アブラムがカナーンの地に10年住んだ後、エジプト人である、彼女の従女、ハガルを、アブラムの妻に成るために、彼に与えました」(16:3)。その後直ぐに、ハガルは身籠り、そして主の天使が一人、彼女の下に現れ、彼女が息子を産み、そして「彼の名をイシュマエルと呼ぶ」(16:11)と言うニュースを伝えます(と私達は学びます)。

イシュマエルが生まれた時* 、アブラムは86歳であったと私達は伝えられます。再びアブラムへの - 更なる訪問が説明されるまでに、13年が過ぎる事が許され、それは彼の名前とサライの名前が変更される事に結果します:「貴方の名前は、もう、アブラムでは無く;私が貴方を多くの国々の父にしたために、貴方の名前はアブラハムに成り・・・そして貴方から王達が派生するでしょう」(17;5,6)。その主はまた、こう言います:「貴方の中の全ての男子は、割礼(奴隷の証)されるでしょう」(17:10)。アブラハムが従ったこの命令が、ヘブライの部族とエジプトの間のもう一つの関連を固めたのは、(ヨーロッパから見て)東の国々の中で、割礼の風習を採用したのは、当時、エジプトだけだったためです(その風習が、エジプトの歴史の初期に現れたのは、保存されたミイラから、確認することが出来ます)。

それと同時に神は、アブラハムにこう言います:「汝の妻、サライについては・・・汝は彼女の名前をサライと呼ばず、サラが彼女の名前に成るでしょう。そして私は彼女を祝福し、また、彼女との息子を汝に授け・・・彼女(の血統)から、人々の王達に成るでしょう」(17:15-16)。名前の変更の問題について、ヘブライ語の sar は「王子」を意味し、そしてサラ( Sarah )は、その女性形で、「女王」とさえ解釈される事が出来ます。

* その様な高齢は、全く信用に値しません。この時代に帰属する遺骨によると、当時の平均寿命は30歳でした。80歳や90歳に成れる人は極稀で、そしてもしそう成れたとしても、その歳で子供の父親に成る事は出来ないでしょう。

その後、サラと呼ばれる様に成った彼女が、終に彼に子供を産むと言うニュースを聞いたアブラハムは、「平伏し、彼の顔を埋め、そして笑い、彼の心の中でこう言いました:100歳近い彼に子供が生まれる?そして90歳近いサラが産む?」(17:17)。神は以下の言葉で、彼を安心させます:「汝の妻、サラは、実際に息子を産むであろう;そして汝は、彼をアイザック(イサク)と呼ぶであろう・・・」(17:19)。

その時点でさえ、聖書的な記述者は、アイザックの誕生を紹介する事にためらいを感じました。彼は、アイザックの父親の正体についてのあらゆる疑いの可能性を消去するために、サラのエジプトからの出発と、アイザックの誕生の間に、出来る限り長い間 - つまり、9か月以上を置くために - 更なる2つの逸話を書き入れ(改竄)しました。最初に彼は、何らかの敵に囚われた、アブラハムの甥、ロットを、アブラハムがどの様にして救出したのかを描写しました。その後、(再び、アブラハムが用心して、サラを彼の妹と主張したと私達が伝えられる)カナーン南部のゲラルへの訪問の際に、彼女の高齢にも拘らず、その王が彼女と恋に落ち、そして婚姻しようとした直前に、彼(その王)に夢の中で主が現れ、既に誰か(アブラハム)の妻である女と婚姻する事を警告しました。エジプトからの回帰から何年も過ぎた後、アブラハムへの主の約束の1年後に、私達が、やっとアイザックの誕生を知る事を許されるのは、唯一、此処においてのみです。

聖書的なナレーターによって提示された年代設定が意味するのは、イシュマエルが、アイザックより14歳年上でなければならないと言う事です。しかしながら、彼女の息子の誕生の後に、サラがどの様にして、イシュマエルがアイザックを「からかっている」のを見た後、彼女がハガルとイシュマエルを追放した事の説明と共に、その信用の出来無さの一つの要素が鮮明に成ります。その説明は、イシュマエルが、誰かをからかう処か、歩く事が出来るだけ、十分に成長していなかった事を示唆します:

「そしてアブラハムは、朝早くに起き、パンを食べ、ボトルの水を飲み、そしてそれをハガルの肩に置き、そしてその子供と彼女を送り出しました・・・彼女は・・・ビアシェバの荒野でさ迷いました。そしてそのボトルの水は尽き、そして彼女はその子供を雑草の一つの下に置きました。そして彼女は涙し、彼から矢の届く距離(少々)離れて座り込み、こう言いました:「私にあの子の死を見せないで下さい。」そして彼女は・・・彼女の声を上げ、泣きました。すると神は、その子の声を聞き;そして神の天使が、天界からハガルを呼び、そして彼女にこう言いました、「貴女を苦しめるのは何ですか、ハガル?恐れる事は無い;神は、その子の声を聞きました・・・そして神は、彼女の眼を開かせ、そして彼女は水の泉(井戸)を見て;そして彼女はボトルに水を汲みに行き、そしてその子に水を与えました。」
創世記21:14-19

この逸話は、コラーンの中には記述されていませんが、イシュマエルが、単なる赤子で、彼の母親によって抱えられ、そして彼が置かれた場所から動けませんでしたが、彼の足下に突然、水が現れた事について、イスラム的な伝統は同意します。

アイザックの誕生の前の訪問の説明の全てにおいて、サラの名前の変更と、「人々の王達が、彼女の血統」に成る約束を除いて、アブラハムは、主役として表されます。アイザックが場面に登場すると、強調の変化が起こります。アブラハムへの、主要なもう一つの現れはこう読めます:「汝に、サラが言った全てにおいて、アイザックは汝の種と呼ばれるので、彼女に耳を傾けなさい」(21:12)。この1行におけるヘブライの文献の文字通りの意味は、アイザックが実際のアブラハムの息子では無く、彼が義理の父であると言う事です。また、重要なのは、この時点から、現代に至るまで、父親が誰であろうと、母親自身がユダヤ人では無いと、その子供は、ユダヤ人として考えられる事が出来ない事です。この主の現れは、(創世記22:9-12の)どの様にしてアブラハムが、アイザックを山の頂上に連れて行き、焼かれた捧げ物(ホロコースト)として彼を生贄にする事を提案した説明に続かれますが、もしアイザックが、彼(アブラハム)自身の息子であれば、奇妙な判断です。アブラハムは、主の天使がこう警告した後に、アイザックの代わりに羊を生贄にしました:「その少年に汝の手をかけず、汝は彼に、何もしてはいけない・・・」

アイザックを、エジプト王子と同一視する事は、創世記の書の、この分析だけに頼るのではありません。非聖書的な文献は、アイザックの件に関して - 7人の息子達(ハガルの子、イシュマエルと、もう一人の妻、ケトゥラーによる6人の息子達) - を授かったアブラハムは、養父として考えられました。タルムードは、アブラハムを知る人で、アイザックが彼の実子であると信じた人は一人もいなかったと言う伝統を保存します:

「アブラハムが、彼の息子、アイザックを離乳させた日に、彼は盛大な宴会を開き、そして世界の全ての人々はこう言って嘲笑いました:「道端から子供を連れて来て、そして今、彼等の息子であると主張する、あの年老いた男と女を見ましたか・・・?(バビロニア・タルムード、イシドア・エプステイン、ロンドン、1952年。)コラーンの中の1文(預言者、[スラ]の章21-72)は、アブラハムについてこう述べます:

「私達は彼に、アイザックを授け、そして追加の贈り物として(孫の)ヤコブを与えました・・・

その文章が示唆するのは、アイザックと、アブラハムが死んだ時に、まだ生まれていなかった孫、ヤコブが、元々、彼の血筋では無いと言う事です。コラーンのもう一つの章は - モーゼス、アアロン、そしてイシュマエルの - 3人の預言者達を記述し、第19章:58、マリーの中でこう述べます:

「アブラハムイスラエル(ヤコブ)の後世の人々・・・」*

この文章の有一可能な説明は、これ等の預言者達の幾らか - モーゼス、アアロン、そしてイシュマエルが - ヤコブの子孫であり、アブラハムの子孫では無いと言う事です。この点を詳しく言うと、私達は名指しされた2人の先祖(アブラハムとヤコブ)を有し、3人の名指しされた子孫(モーゼス、アアロン、そしてイシュマエル)を有します。ヤコブがアブラハムの子孫であれば、アブラハムと共に先祖とされるよりもむしろ、子孫として彼の名前がリストに載せられるはずです。

サライと共に重婚の契約を交わし、アイザックの父と成ったファラオは誰だったのでしょう?その証拠は、そして特に、サラの子孫の年代設定(アイザック、ヤコブ、ジョセフ、そしてモーゼス - i.e. モーゼスとサラを隔てる4世代)は、太古の世界の大いなる戦士であり(そしてアケナーテン** の4世代前である)第18王朝の5番目のファラオ、トトメス(トート・モーゼス)3世(紀元前1490-1436年)を指摘し - そして、私達が次の章の中で見る様に、旧約聖書と新約聖書の両方が、私達を説得する様に、約束された救世主(救いのキリスト)が来るー族からの、王族的な先祖、デーヴィッド(ダヴィデ)と同一人物です。

* ヤコブの名前は、「王子は、神と人々と供の力を持つので:汝の名前は、もうヤコブでは無く、イスラエルである」と彼に言ったとされる主によって変えられました(32:28)。
** 更に加えて、彼は、彼の子孫達(イスラエライツ)のための遺産として、(旧約)聖書が約束した、ナイル川とユーフラテス川の間の帝国を確立した、最初のファラオでした。

目次:
  1. Category: None
  2. / trackback:0
  3. / Comments:0
  4. [ edit ]


Only the blog author may view the comment.

Profile

Songcatcher

Author:Songcatcher
現在地:ルネッサンス2.0









鼓動と呼吸:緊縮と拡張・・・

songcatcher@mail.com

Latest trackbacks

Search form

QR code

QR

« 2017 08 »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -