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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 前書き

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著


前書き

西暦391年のある日、ローマに任命された司教、テオフィルスは、大きな荒々しい集団の先頭において、アレクサンドリアのブルケイオン王立地区にある彼の本部から行進し、ラコティスのエジプト人地区の中心にある、セラペウムに行くために西に赴きました。7世紀の間、エジプト的な信仰の中心であったセラペウムは、大規模な柱のホール、殆ど息を奪う様な石像類、そしてその他の数多くの芸術作品に装飾され、それと同時に、大いなるアレクサンドリア大図書館の場所でした。その熱狂した人々は天蓋に覆われた道を急ぎ、セラピスの寺院エリアに繋がる短い道を曲がり、司教テオフィルスによって導かれ、大理石の何段もの階段を登る前に、其処でその他の群集と集結しました。彼等は、最終的な悲劇の出来事が起こった寺院の中へと、石の土台を超えて飛び渡りました。

彼等の興奮したムードの中で、その怒った群衆は、金銀の装飾、貴重な宝石、価値の付けられない銅像や大理石の像、希少な壁画やタペストリー(壁掛け)、花崗岩や多くの大理石の、彫刻され色のぬられた柱、漆黒の香りづけられた木材、象牙とエキゾチックな家具などは殆ど心に留めず - 全ては喜びの雄叫びと共に木端微塵にされました。ですが、それが全てではありませんでした。それらの、悪魔的な喜びに満たされた叫びを上げる男達はそれから大図書館を襲い太古の英知と知識が記述された、何十万ものパピルス(紙)の巻物やパーチメント(羊皮紙)が棚から取り出され、粉々に破かれ、たき火へと投げ入れられました。

数年後、アレクサンドリアの学者達の最後の残りは、キリスト教徒の修道士達のギャングによって、粉々に引き裂かれました。西暦の414年の3月のレンテン(四句節)の日に、アレクサンドリアの哲学の教授として、彼女の父の後を引き継いだハイパティアの馬車を彼等は止め、彼女を丸裸にし、付近の教会の中へと彼女を引きずり込み、彼女を殺し、鋭いオイスター(牡蠣)の貝殻で彼女の肉の殆どをそぎ落とし、彼女の残骸を道端の上で焼きました。プラトンの哲学を教えたハイパティアに対する告発は、異端(異教)でした。

アレクサンドリアの学者達のこの野蛮な殺害と、太古の英知と知識の全ての要素のギリシャ語の文献を保存していた大図書館の破壊の結果として、キリスト教と西洋の文明のエジプト的な根源は、16世紀近くも不透明にされて来ました。この本の目的は、新たな歴史的、そして考古学的な証拠の助けと共に、それらの根源を再発見する事です。

私達が証明するのは、旧約聖書と新約聖書の両方の逸話が、古代エジプトの歴史的な事実の上で、しっかりと確立されたと言う事です。唯、それだけでは無く、私達はまた、ユダヤ教とキリスト教に起因させられる本質的な教義が、実際にはエジプトに由来したと言う事を検証します。私達は更に、一般の読者には、にわかには受け入れがたい領域まで踏入ますが、それはこの本の証拠が蓄積する度に、更に説得的に成ります。旧約聖書と新約聖書の全ての中心的な登場人物達は、私達が今まで信じていた時代とは異なった時代に生きた、実在の本当の歴史的なエジプトの人物達でした。

西洋の学者達は、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、もしくは無神論者であれ、太古の歴史の記述を解釈する時に、エジプト的な見解を無視しがちです。アレクサンドリアの大図書館の整理の責任者であった、偉大なエジプト人の学者、マネトでさえ、(古代)ギリシャ人達のために、科学的な問題について書くために不適切であると却下されました。マネトが物理的な教義の概略を記述したと言う記録にコメントする際に、W. G. ワデルはこう書きました:

「エジプト人の神官が、エジプトの歴史とエジプト人達の宗教的な信念を、彼の時代のギリシャ語圏の世界に教える事を求めたのは・・・全く驚きではありませんが、紀元前3世紀において、マネトが、エジプトの科学をギリシャ人達に教える明らかな目的と共に、物理の教義の概略を記述する必要性を感じたと言うのは、奇妙に見えます。
マネト、ロンドン、1940年、xxvii ページ

加えて、聖書的な逸話の歴史を論議する時、イスラム的な文献は、太古の伝統の源泉として、完全に無視されています。これが正当化される事が出来ないのは、コラーンの中の逸話が、聖書の本と同じ源泉から来ているためです。更に加えて、コラーンの説明は大多数の場合、聖書のものと同意していて、それは様々な分岐する点のための理由を検証するためにより重要に成ります。

エジプトの声が再び聞かれるための時は満ちました。私のイスラム的な背景のために、あらゆる源泉を検証から排除しない、バランスされた構図を提供するために、私が適任であると、私は自信を感じます。

西暦391年に、その大図書館が破壊されるまで、アレクサンドリアは、古代の世界の最も重要な文化的な中心で、4世紀にも渡るローマ(帝国)の政治的な優越性にも拘らず、キリスト教と(古代)ギリシャ主義(文化)の連結において、相互関係的な影響力を発揮しました。紀元前331年に、アレクサンダー(アレクサンドル)大王に創立され、それはマケドニア人、ギリシャ人達がエジプト人とユダヤ人達と共に一所に住んだ、歴史上最初の本当の大都会で、そして学者達は、彼等の研究のために、世界中から集いました。彼等は、イタリアとギリシャ、アナトリア(トルコ)とレヴァント(レバノン)、北アフリカ、アラビア、そして更にペルシャ(イラン)とインドからさえも来ました。彼等はアレクサンドリアにおいて共通の共住を分かち合っただけでは無く、彼等は全て、ヘルメス・トリスメギスタス*の教えとセラピスの信仰において体現された知識と、哲学と太古の英知の同じ関心のための、同じ欲求を有していました。その街はまた、ギリシャ的なユダヤ主義の中心でした。西暦1世紀において最初のユダヤ人の哲学者、フィロ(ファイロ)・ジュダエウスが、彼の38冊の本を記述したのは、アレクサンドリアにおいてでした。その街は加えて、旧約聖書のギリシャ語の文献も含めて、太古の文明の殆ど全ての文献を有する唯一の図書館を有していました。故に、アレクサンドリアが急速に、主要なキリスト教的な知性の中心地に成ったのは、驚きではありません。

セラペウム** における太古の記述された知識の豊富なコレクションは、シシリアの学者、ディォドルス・シクルスが、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエザル)と同時代、紀元前1世紀に、彼の意欲的なビブリオテカ・ヒストリカ - 「歴史の本棚」を書こうと調査を始める際に、拒む事が出来ませんでした。

* 古代エジプトの筆記の神トース(トート)はギリシャの神、ヘルメスと同一視される様に成りました。ヘルメス・トリスメギスタスは、「三度偉大なヘルメス」を意味します。
** 彼自身がアレクサンドリアを訪れた、歴史家アマニウス・マーセリヌスはこの寺院についてこう書きました:「セラペウムは、どんな描写も言葉足らずに成るでしょうが、殆ど息を奪う様な石像や、その他の数々の芸術作品と共に、大規模な柱のホールで装飾され、親愛なるローマ自体が、彼女自体を永遠に昇進させるキャピトリウム(首都)を除いて、世界全体でそれよりも素晴らしいものは見ることが出来ないでしょう。この中にあるのが、価値の付けられない大図書館です・・・(22:16,12-13)。セラピスの信仰は、この本における後で、私の主張の関連する段階において、詳細に検証されます。

(イスラム教的なスーフィ主義、ユダヤ教的なカバラ、そしてキリスト教的なロシクルシアン(ローズクロス)とフリーメイソンの教えとして今日まで伝わった)ヘルメス・トリスメギスタスの教えの熱狂者であったディォドルスは、知識の源泉としてのエジプトの重要性に納得させられました。ギリシャとローマの神々が其処で生まれ、生命の起源は其処にあり、そして其処において最初の星々の観測が行われたと彼は信じました。その破壊の前に、セラペウムに関連させられた最後の有名な学者が、そのユークリッドの要素の校訂本が、20世紀まで、この研究の唯一の文献だった著名な数学者、テオンで、その愛娘、ハイパティアは、テオフィルスの甥で司教だったシリルの手によって、悲惨な死を迎えさせられました。アレクサンドリアの大図書館が破壊された西暦4世紀の終わりまで、エジプトは、古代の世界の神聖な地で、神々が初めて知られる様に成った、英知と知識の源泉であると考えられていました。ローマの皇帝達も含めて、巡礼者達が世界中から、シナイ山の麓と同様に、イシス(アイシス)とセラピスの寺院をお参りするために訪れました。

この状況は、しかしながら - キリスト教以前の多神信仰である - ペイガニズムと - そしてオーソドックス(主流派)の教義に対するあらゆる意見の矛盾である - 異端/異教 - の両方を隠蔽する事において熱狂的であった皇帝、テオドシウス1世の統治の後年において、終わりへと至りました。東(ローマ帝国)の皇帝として(西暦379-392年)、そして東と西(ローマ帝国)の唯一の皇帝として(西暦392-395年)、キリスト教の主流派の統一的なノルマ(通説)として、ナイセアの委員会(西暦325年)の信経を強要し、そしてそのフォーミュラをはっきりさせるために西暦381年に、コンスタンティノープル(イスタンブール)において、第2回一般委員会の招集を監督しました。

「私達の対象(i.e. 一般的には「市民」の意味ですが、実際には「支配下の者」の意味)が行政長官であれ、一般市民であれ、彼等の地位、または状況がどれだけ高い地位、または低い地位にあろうとも、いかなる街であろうとも、またはどんな場所であろうとも、偶像崇拝を行わない事が我々の望みであり喜びである・・・」と、テオドシウスは彼の最後の勅令において宣言しました。教会の狂信的な集団が地を徘徊し、古い寺院を地へと取り壊し、そしてそれらの財産を略奪しました。太古の墓場は神聖さを汚され、モニュメンツ(遺跡構造物など)の壁は、神々の名前や描写が一掃され、石造は倒され砕かれました。アレクサンドリアにおいて、皇帝テオドシウス1世に任命された司教、テオフィルスは、皇帝と同様に野心的でした。上述された様に、アレクサンドリアの大図書館に納められた、推定50万の文献の焼失に繋がったのは彼の熱狂的な行動でした。

アレクサンドリアのテオフィルス(西暦385-412年)は、アレクサンドリアの教会の上に公式な主流派を強要するために、ローマから派遣された帝国政府を代理する、主流派の指導者の内の一人でした。彼はエジプトにおけるペイガニズム(多神信仰)と異教に対するキャンペーンを指導し、それに含まれていたのがアレクサンドリアの大図書館が位置したセラペウム(元々は古代エジプトの黄泉の国の神で、その後、プトレミー(プトレマイオス)1世[紀元前305-284年]によって、アレクサンドリアとエジプトの、公式な神として再紹介された - セラピスの寺院)の破壊でした。セラペウムは、古代エジプトの三重神(三位一体)、オシリスイシス、そしてホルスのための信仰の中心であったと同時に、派生してきていたキリスト教のグノーシス(神秘主義)の宗派の集中点に成り - それらの(原始)キリスト教徒達は、神秘を通してスピリット(霊)的な知識を得る事を求め、聖書を例え話的に解釈する事で、人自身を知ろうと試みました。

最初のキリスト教徒の皇帝、コスタンティン1世(西暦324-337年)は、キリスト教を帝国の公式な宗教にしました。彼はまた、教会(カトリック/ヴァチカン)に政治的な権力を与えました。司教達は国家の参事官(委員)として見られただけでは無く、法的な権利も得ました:市民的な訴えに対する彼等の解決は法的に強制されました。司教達は、彼等の新たに得られた権力を神の言葉を広げるため、そして彼(神)の敵を踏み潰すために使い、この場合、ペイガン(多神信仰者)のみならず、そして異端者/異教徒達として - ローマ(帝国)は、エジプト人のキリスト教徒達を、異教徒達として認識しました。伝統によると、アレクサンドリアの教会は、聖者ピーターにも、聖者ポールにも、設立されたのでは無く、西暦50年の、エルサレムにおける最初の使徒的な委員会であったとされるもの(使徒書15:28に述べられています)以前に、聖者、マーク(マルコ)によって確立されたとします。世界において確立された最初の神学的な学校はまた、アレクサンドリアにおいて、西暦2世紀の終わりの前に繁栄し、そしてキリスト教的な学術の影響力の強い中心地に成りました。その指導者達の中にいたのは、有名な、アレクサンドリアのクレメントと、オリゲンでした。機関/制度としての、キリスト教の修道院制は、エジプトにおいてコプト派の聖者アントニー(アンソニー)(西暦251-356年)によって主に開始され、彼はエジプト中部のテル・アル・アマルナから、あまり遠くでは無い彼の故郷、コマの村から、西部の砂漠における孤立へと逃避しました(i.e. 仙人主義)。その他の者達も彼の例に続き、紅海の山脈における彼の洞窟の周りにおいて、修道院的な入植地が派生しました。

アレクサンドリアは、最初のシステム的でキリスト教的な神学の発達に重要な貢献をしましたが、アレクサンドリアの神学者達は、新プラトン派の哲学* に、強く影響されていました。アレクサンドリアにおける聖書の解釈は例え話的であり、神秘主義的で、哲学と聖書を調和させようと試みたファイロ・ジュダエウスと同じ方法に続きました。その始まりから、アレクサンドリア的な解釈は、聖書の文字通りの感覚に固執しませんでした。彼等の主要な関心は、旧約聖書の歴史的、そして文字通りの詳細において明かされた神聖な啓示(明かし)の神秘に集中されました。それは故に、より古い啓示の中に、キリストを発見する問いでした。

* 新プラトン主義者達は、アテネ(ギリシャ)のプラトンと同じ哲学に続いたアレクサンドリアの哲学者達で;西暦3世紀のプロティヌスが最も有名です。

アレクサンドリアの著者達は、旧約聖書の中に、新たなものの象徴を求めました。早期のエジプト人のキリスト教徒達にとって、一つの神を受け入れる事は、進化的な行程で、それにおいて古いシステムは新たなものに吸収され、そして古い神々は天使的な存在に成り、人の眼に見えない主の間の仲介に成りました(これは後の章で詳細に検証されます)。偶像は、彼等にとって、神々自身を体現せず、祈りの間に、スピリット的な存在が、その中に宿れる、単なる物理的(物質的)な形状でした。グノーシス(キリスト教神秘主義派)の先生達がアレクサンドリアにおいて彼等の支持(生徒達)を見つけ、そしてこの街の聖職的な歴史の殆どは、其処に現れた異教(神秘主義)に関するものでした。

元々、プトレミー(プトレマイオス)家(アレクサンドル大王の死後、エジプトを統治したマケドニアの王族)によって確立されたセラペウムはまた、その後、ヘルメス主義(i.e. ヘルメス・トリスメギスタスの教えに続く)と、キリスト教(神秘主義)の両方の、グノーシス的なコミュニティーの中心に成りました。セラピスの信仰の中から、キリストとセラピスの間の違いを認識しない(同一視する)、幾つかのグノーシス的なキリスト教の宗派が育ちましたが - これもまた、この本が展開する際に検証されるでしょう。セラペウムの一般的な大図書館は徐々に、その見解が、教会の教えとは矛盾する、ローマ帝国中からの学者達と知性派達の集中地点に成りました。この理由のために、それは異教的と考えられる様に成り、そして破壊されなければなりませんでした。

セラペウムの破壊と共に失われたのは、エジプト的な知識だけでは無く;メソポタミア、シリア、フェニキア、ユダヤ、そしてギリシャの教養が消滅しました。太古の文明の科学的な達成の全体が、司教テオフィルスによって異教と考えられ - 天文学、人体解剖学、医学、幾何学、地学、歴史学、哲学、神学、そして文学の本、そして同等に、キリストの早期のグノーシス的な聖書が、一日にして失われました。その結果が、暗黒時代の始まりで、それはその後、10世紀以上続きました。科学の全ての分派は、教会の主流派の教えと矛盾する異教的な記述と共に、国家によって禁止されました。これは、(西暦)15世紀におけるルネッサンス(文明開化/神秘主義再発見)まで、聖書の主流的な本を、西洋の知識の主要な源泉にしました。

特に、ヘルメス主義と新プラトン主義の哲学の、古い禁止された文献の、幾らかの生き残った複写の発見が15世紀からの、芸術、科学、そして科学技術における西洋のルネッサンス時代を産出した間、歴史は、私達の記憶を取り戻すまで、近代考古学が、古い遺物とパピルス(紙)の巻物を掘り出すまで、待たなければなりませんでした。彼の著書、太古の世界における資料の中で、アメリカの歴史家、アーネスト・ポスナーは、この期間における考古学者達の集大成は「アメリカ大陸の発見と比較出来る位 - 記録的で・・・1850年時点で知られていた人類の歴史に2,000年近くの新たな次元を加えました・・・今、私達は、深遠な尊敬と共に東地中海を囲む国々の文化的な達成を見解する事ができ、そして私達はギリシャとローマの文化との、それらの相互関係と、そしてそれらの影響力の可能性を検証することが出来ます、」と述べました。

紀元前27世紀の最初のピラミッドの建築者、インホテップから、最初に一つの神を認識したモーゼスとアケナーテンまで、(エジプトの黄泉の国の神で、死者の裁定者である)オシリスの信者達まで、スピリット的な救いと永遠の生命を求めたヘルメス・トリスメギスタスとイエス・キリストまで、エジプトがどの様に私達のスピリット的な先生達の誕生の地として台頭したのかを、私は描写しましょう。近代の考古学の御蔭で、新たな時代が今、地平線の上に現れ、それと共にエジプトが、その元々の場所に再構築されます。

それは、悲劇がエジプトを襲うと預言した、古い預言の達成の様にも見えますが、それはまた、最終的に、秩序が再び再構築されるとも、約束しました。この預言は、(この本の終わりの付属文献1の中に詳細されている)、ナグ・ハンマディ文献の中で発見された、アスクレピウスのヘルメス的な文献の中で見つけられます。アスクレピウスとは、秘儀伝授者、ヘルメス・トリスメギスタスと、その弟子、アスクレピウスとの間の対話です。エジプト的、そしてイスラエライト的な平行線に対して重要なアポカリプソ的な部分において、その発言者(ヘルメス)はエジプトの衰退と、その後の再復活を預言します:

「おお、アスクレピウスよ、貴方はエジプトが天界のイメージである事に無知なのですか?更に加えて、それは天界と、そして天界にある全ての力の住処です。もし、真実を語る事が私達にとって相応しいなら、私達の国は、世界の寺院です。そしてその(私達の国)の中で、エジプト人達が、無駄に神々に使え、そして彼等の宗教における彼等の活動の全てが軽蔑される時が来る事に、貴方が無知では無い方が相応しいです。全ての神が、エジプトを離れ、天界へと昇って逃れるためです。そしてエジプトは未亡人にされ:それは神々によって見放されるでしょう。外国人達が、エジプトに入って来て、そしてそれを支配するでしょう・・・そしてその日において、全ての国々よりも信心深かった国は、不信心に成るでしょう。それはもう、寺院だらけでは無く、お墓だらけに成るでしょう・・・神を愛するエジプト、神々の住処、宗教の学校は、不信心の代表例に成るでしょう・・・[その後、エジプトは再び再構築されるでしょう。]そして、その大地の主達は・・・エジプトの一角における、日の入り(i.e. セット神/サンセット)に向かって立てられた街の中で彼等を確立するでしょう。

紀元前6世紀の旧約聖書の預言者、イサイアは、この預言を確認し、そしてエジプトにおける救済者(救世主)の現れを預言します:(現代のエジプトの人口の9割はアラブ人で、コプトは1割に満たない。)

「それはエジプトの重荷。見よ、その主は素早い雲の上に乗り、そしてエジプトへと来るでしょう:そして彼の面前においてエジプトの偶像は排除され、そしてエジプトの心はその中で溶けるでしょう。そして私はエジプト人達をエジプト人達に対立させ:そして彼等の全ては、彼の兄弟に対して戦い、そして誰しもが彼のご近所と戦うでしょう・・・そしてエジプトのスピリットはその中で倒れ・・・その日においてエジプトの地の中心に主への祭壇があり、その国境には主への柱があるでしょう。そしてエジプトの地において主へのサインと目撃者/証人があり・・・そして彼は大いなる者である救世主を彼等に送り、そして彼は彼等を救うでしょう。」
イサイア 19:1-3;19-20

マタイ書は、キリストの誕生の彼の説明において、エジプトにおいて現れるとイサイアによって預言された救世主は、イエスと同一の登場人物であると確認します。マタイは、エジプトへの、神聖な家族の避難の話しを紹介し、そして預言者ホセア(11:1)の言葉を使い、彼(イエス)におけるイサイアの預言の達成を宣言します:「エジプトの外から私は私の息子を呼んだ、と言った預言者によって、主について語られた事が達成されたのかも知れません(マタイ2:15)」。

(今まで知られていなかったキリストの発言の多くを含む)ナグ・ハンマディのトマス書を、英語に翻訳した責任者だったハーヴァード大学の太古のキリスト教の歴史の教授である、ヘルムット・コースターは、早期(原始)キリスト教の歴史の、詳細で精密な再評価の必要性について述べました。「その課題は、原始キリスト教の歴史の一般的な構図における、それらの正しい場所を再確認するための、知られている源泉の新鮮な解読と、新たな文献の詳細な検証に限られてはいません。むしろ問われているのは、一般的な構図自体です、」と彼は更に述べました。

これが、この本の中で、私が検証する事です。

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