• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓

神々の格子 第8章 永続的な借金/債務の中の人類

神々の格子 第8章 永続的な借金/債務の中の人類

ファレル博士&デ・ハート博士の神々のグリッド、EPUB ファイル185ページ、オン・ライン電子書籍:215ページより:

アステカとアンセルムの異例さ:
推理的な科学技術、経済学、そして物理学


「・・・要するに、(あたかも彼について何も知られていなかったかの如く)キリストを視野から外したままにすると、それが証明するのは、完全成る理性によって、彼無しではどんな人も救われないと言う不可能性です。」
アンセルム、カンタベリーの大司祭(没1081年)

この、そうで無ければ、球体の天界的な音楽には、不調和があり - 不協和音で、韻律(リズム)無しでは未解決のまま宙に浮いた停止で、結論に全く届かない、耳障りな形における終わり無き迫奏(ストレット)で - そしてそれは血塗られた生贄、またはメソ・アメリカとその他の場の場合、血塗られた人間の生贄です。

何故、この行為が、そのグリッド上の幾つかの場所と、幾つかの文化において派生したのかは、謎のままですが、私達が前章で見た様に、幾つかの手掛かりがあります。

恐らく、アステカのもの以上に、しかしながら、その行為と同一視される文化は、他には無いでしょう。それは、それ自体を、社会と文化の中への、道徳的な醜さと矛盾/不適切さとして侵入し、それにおいて - マヤ族と同様に - 場違いの様で、説明出来無い程、血塗られた醜さです。ハンコックとファイーアは、この酷い異常さを、人が出来うる限り、喚情的な言葉でとらえます:

「中央アメリカにおいて、その遺跡とその過去を探索しようと試みた旅人達は、大いなる、そして酷い謎/ミステリーの直感によって取りつかれ、帰りました。暗い悲しみがとばりの様にその土地全体を覆い、そしてその歴史の知られている部分は、説明出来無い矛盾に満たされています。

「一方で、其処には、崇高でスピリット(霊)的なアイデア、深い哲学的な伝統、そして驚く程に芸術的であり、科学的で、そして文化的な達成の、疑う余地の無い証拠があります。もう一方で、16世紀の初めまでに、メキシコの峡谷において、精神障害的な邪悪の、胸の悪く成る様な行為が制度化され、そして毎年、悪夢のような残虐性と共に、アステカの帝国は、100,000人に上る程の人々を、人間の生贄として捧げました。2つの間違いは、1つの正解には成らず、1519年の2月、海賊であり、冷血な殺人者達であった、スペインのコンキスタドール(征服者)達が到着しました。何であれ、彼等の介入は、全くもって物質的な強欲によって動機されていましたが、アステカの悪魔的な生贄の儀式に終わりをもたらす、ハッピー・エンド的な副作用を持ちました・・・

「彼等の説明/記録が明かすのは、殺人の中毒に成った精神障害的な文化の暗闇で、それはまた驚く程の偽善的で、人間の魂の不死に関する太古の教えを崇拝すると主張し - その教えは入門者/会員達に、英知を探求し、「公正で、控えめで、平和を愛し・・・そして他者に向かって同情的に成る事を強く薦めると主張しました。」

しかしながら、私達がこれから見る様に、生贄を実施した一つの文化と、行わなかったもう一つの文化との衝突と言うよりむしろ、生贄に関しては、それぞれがお互いに、膨大で概念的なパラレル(平行線)を有する2つの文化の衝突で、そしてその衝突において、更なる異例が浮上するのは、その両方の文化が、殆ど全く同じ方法において、生贄を思いついただけでは無く、同様な目的を満たすために、彼等がそれを考え出したためです。

1.ケツアコアトルの元々の教え

アステカの主要な神はケツアコアトルで、マヤのククルカン、そしてインカのヴィラコチャ同様に、白い肌で、青い眼の、髭を蓄えた、「文明化する神」で、アステカ人達に文明の基本を教えた者でした。マヤ族の「ソヴリン(主権)の羽の生えた蛇」と同じく、ケツアコアトルは、羽の生えた蛇でした。過去の黄金時代においてメキシコを統治し、彼は文明の芸術/技術を教え、そして彼がまた、はっきりと、疑う余地無く規定したのは、生き物が決して傷つけられてはいけない事で、そして更に重要なのは、人間が決して生贄にされてはいけない事でした。唯一、生贄が許されたのは、特定の時期の様々な植物、果実、そして花々でした(i.e. お供え物)。もし人が、この概念を旧約聖書の枠組みの中へ位置付けるなら、ケツアコアトルは、「より相応しい」動物の生贄を捧げたアベルとは対照的に - 神に植物の捧げものだけをおこなった - 旧約聖書のカインに相当するでしょう。カインとアベル

私達が目撃しているのは、言葉を変えると、全ての可能性において、共通の比喩で、象徴的なモチーフ(題材)で、一つの特定の地域の特徴的なものでは無く - この場合(旧約聖書の場合)、太古のヘブライ人達ですが - もっと更に広く広まったアイデアで、両方の場合において、生贄の最も初期の種は、殆ど血塗られてはおらず(i.e. お供え物)、その後、血塗られたものによって入れ替えられたためです。実際に、アステカに関して言うと彼等の文明は - 海をまたいだ古代エジプト人達の彼等の文明の見解の様に - 全てはケツアコアトルから受け取った遺産でした。

あたかも惑星上で広まり、はっきりと異なった文化の中で広まった、共通のモチーフのこのアイデアを強調するかの様に、人はまたケツアコアトルと、意外にも、エジプトの神、オシリスとの間の幾つもの奇妙な平行線を観測する事が出来ます。オシリス同様に、ケツアコアトルは棺桶の中に埋められ、その後、彼は復活し、星に成るために天界へと上昇(アセンド)します。

ですがどうして、アステカ人達は、その様な共通性から、人間の生贄の行為を派生させたのでしょう?1956年に、ラウレット・セジョーンは、残された膨大なアステカ文化の遺産から引き出し、人間の生贄の用具と実施の全体は、酷く誤って理解された隠喩で、入門/入会に儀式の隠喩がアステカ人達によって文字通りに受け取られたためであると結論しました(i.e. 宗教の原理主義過激化)。故に、「心臓の切り出し」は、死において魂が体から「切り離れる」事のための隠喩で、「心臓/こころの動揺」は、物理的な体と五感からのスピリット(霊)的な分離の隠喩である、等々と結論しました。スピリット的な行程のためのそれらの隠喩の全ては、アステカ人達によって大々的に間違って理解され、そして生贄の儀式の一部に成ったと、セジョーンは主張しました。

もしこれが事実であるなら、それはマヤ人達とインカ人達によっても、大々的に間違って理解された隠喩でした。加えて、セジョーンが完全に正解では無いのは、アステカ自体の明言が示唆するのが、もし間違った理解が含まれているとしたら、それは彼等に起因するものでは無く、むしろ、その間違った理解は、古い秩序が転覆させられ、それに入れ替えるために新たなものが紹介された際に、意図的に(正反対に)教え込まれたと言う事であるためです。再び、その年代的な進行は、文明化の神、ケツアコアトルの元々の秩序で、植物、花々、そして穀物のお供え物から、血塗られた人間の生贄への、その後の移行でした。

奇妙にも、生贄の彼等の行為はまた、洪水にも何か関係がある様で、私達が前章で見た様に、ノアが洪水の後に、血塗られた生贄を行ったためです。その洪水は、アステカの宇宙学(宇宙感)において、順を追って彼等の5つの太陽、または人が好むなら、5つの世界の時代の教義に関連しています。それらの時代のそれぞれは「太陽」で、そしてそれらは様々な大災害によって終わらされ、そしてそれぞれが生命と人類の再確立(復活/再生)を必要とします。

最初の太陽は、全ての生命と共に、文字通りそれ自体を飲み込み/消費し尽くしました。これは、太陽自体の破壊によって続かれました。二番目の太陽の時代は、による破壊によって終わり、全ての生命と太陽自体が強烈な風によって破壊されました。三番目の太陽の時代は、火の雨によって終わらされました。四番目の太陽の時代は洪水によって終わらされ、最後で五番目の太陽の時代である、現代がもたらされました。

この時点において、アステカの創造と歴史である、コーデックス・チマルポポカによると、太陽が4日間、動く事を拒否しました:

「すると、その神は、「何故、彼は動かないのだ?」と言いました。その後、彼等はつるぎの隼を送り、それは行き、それが太陽に質問しに来た事を、太陽に伝えます。それは太陽に、「その神々は、「彼が何故、動かないのかを尋ねよと言っている、」と伝えます。

「すると太陽は、「何故?何故なら、私が求めているのは、彼等の血で、彼等の色で、彼等の大切な実質であるためだ、」と言います。

・・・

その後、全ての神々は一つに集まります:Titlacahuan, Nuitzilopochtli, そして女性/女神達、Xochiquetzal, Yapalliicue, Nochpalliicue です。そして其処、テオティファカンにおいて、彼等は全て生贄的な死において、死にます。ですからその後、太陽は空へと昇りました。

言い換えると、天界的な機械(歯車)が壊れてしまい、停止し、そして - 特にテオティファカンにおいて - 神々自身の生贄によってのみ、再起動させる事が出来たと言う事です。アステカの宇宙学に関する限り、生贄は、物理学に親密に関連していました。ですが再び、何故なのでしょう?

2.奇妙な明言、人間の支払い/代償、そして2人のエリート達
a. 異例で儀式的な平行線


人が、コーデックス・チマルポポカをより詳細に読み取ると、その謎は深まるだけです。例えば、アステカ版のトゥーラ、トゥール、または彼等が其処から来た、海を渡った土地、トーランの破滅の説明の直前の、儀式的な血の生贄における、王、セ・アキャトルの寺院への奉納の説明があり、人によっては、それはとても親しみがあるものです:

「さて、400の Mixcoa であった、セ・アキャトルの叔父達は、完全に、彼の父を憎んでおり、そして彼等は彼(父)を殺害しました。

「そして、彼等が彼を殺した時、彼等は彼を砂の中に入れました。

「すると、その王のハゲワシは彼に、「彼等は貴方の父を殺害しました。彼が横たわるのはあそこで、彼等は、彼を埋めました。」と言いました。

「ですから、彼は其処に行き、彼を掘り出し、そして彼を、彼の寺院、Mixcoatepetl に置きました。

「さて、彼の父を殺害した彼の叔父達は、Apanecatly, Zolton, そして Cuilton と呼ばれ、そして彼等は、「彼はどうやって、彼の寺院を奉仕するのだろう?もし、兎と蛇しかいないのなら、私達は怒るだろう。豹、鷲、が相応しいでしょう。」と言いました。そして彼等は、彼にこれをそう伝えました。

「いいでしょう。そうしましょう、」とセ・アキャトルは、彼が、彼等に伝えたと言いました。

「その後、彼は豹、鷲、そして狼を呼びました。「叔父達よ、来てください。人々は私が貴方達を使って、私の寺院に献身しなければならないと言います。ですが、貴方は死にません。むしろ、貴方は、私が、私に寺院に奉納したものを食べ - それらは、以前に、私に叔父達でした、」と彼は言いました。そして、彼等の首の周りに縄が縛られたのは、ですから、はっきりとした実質的な目的が無いものでした。

・・・

「すると、彼の叔父達は激怒し、そして彼等は出て行き、Apanecatl が先導し、急いで登りました。

「ですがセ・アキャトルは立ち上がり、磨かれた鉢で、彼の頭を砕き、そして彼は転げ落ちました。

「すると彼は Zolton と Cuilton を捕えました。それからその動物達は、(火/かまどに)息を吹きかけました。その後、彼等は、彼等を生贄にしました。

「・・・そして彼等が、彼等を拷問した後、彼等は、彼等の胸を切り裂きました。」

もし人が、あまり詳しくないのなら、人は、フリーメイソンリーの最初の3階級の儀式を読んでいると錯覚するかも知れないのは、それらの間に私達が、以下の共通の要素を発見するためです:

1)メイソン的な儀式において、寺院を建てているのは、タイアーの王、ヒラム・アビフで、そしてアステカ版においては、セ・アキャトルで;

2)メイソン的な儀式における彼の「3人の護衛」は、ジュベロ、ジュベラ、そしてジュベルムで、アステカ版においては、Apanecatl, Zolton, そして Cuilton で;

3)寺院は、両方の場合、人間の生贄によって献身され、メイソン的な儀式においては、彼の3人の護衛による、王ヒラムの殺害で、そしてアステカの場合、丁度真逆で、彼の3人の護衛の、王による殺害で;そして

4)拷問は、胸の切り裂きによって続かれ、それは再びメイソン的な儀式を思い起こさせ、それにおいてコンパスの先が、入会のために、入門者の左乳首に押し当てられます。

メイソンリーのブルー・ロッジの儀式は、疑う余地無くとても古いのですが、そのエコーが、メキシコの峡谷のアステカの文化の中にあり、そして生贄において関連しているとは、どういう事でしょう?これと、ケツアコアトル(そしてククルカンとヴィラコチャの)オシリスへの奇妙な類似は、偶然の領域からその様な一致を外し、私達が目撃しているのは、残された文化の遺産によって、異なって理解された共通の文化的な継承の名残の、分類的な証拠へと位置付けます。

2.奇妙な明言、人間の支払い/代償、そして2人のエリート達
b. 巨人達と人食


これは、新大陸の生贄と、旧大陸の伝説の間の、唯一の奇妙な平行線であるだけではありません。其処にはもう一つの奇妙な関連性があり、今度は人食的な巨人達の伝説においてです:

「今は、トーランにおいて、人々はもう、いなくなりました。

「フエマックは統治者でした。その二番目(右腕)は Necuametl, 三番目は Tlaltecatzin, 四番目は Heitzilpopoca と呼ばれました。その4人は Topilzin が去った時に、背後に持ち上げられました。そして、Nonoalco の統治者は Huetzin と呼ばれていました・・・

「さて、其処で、ある予知が彼に訪れました;彼は巨人である、白金の髪の男を見ました。そして人々を食べていたのは、正に、その者でした。

「すると、トルテック人達は、「おお、トルテック人達よ、人々を食べているのは誰だ?」と言いました。

「そして彼等はそれを罠にかけ、それを捕えました。そして、彼等が捕えたのは、髭の生えていない少年でした。

「すると彼等は、それを殺しました。そして彼等がそれを殺した時、彼等はそれの中身を見ました:それには心臓が無く、内臓も無く、血液もありませんでした。

「そしてそれは酷く匂いました。すると、その匂いを嗅いだ誰しもがそのせいで死に、(ただ単に)通りすがりの、その匂いを嗅がなかった人も死にました。そして数多くの人々が死んで行きました。

「その後、彼等はそれを引っ張ろうとしましたが、それは動きませんでした。そしてその縄が切れた時、倒れた人々はその場で死にました。そしてそれが動いた時、それと接触した全ての人達が死にました。それは彼等の全てを食べ尽くしました。」

これは、旧大陸からの、人食を行う巨人達を指摘する記録の平行線であるだけでは無く、アステカのコンテキスト(文脈)において、その逸話は、神々のための、焼かれた生贄としての、「料理」された人々の、文字通りの試食である、人間の生贄自体の実施に、ある意味、関連していると言う暗示的な示唆で;私達に伝えられるのは、その「巨人」が開かれた(解剖された)際に、血液も、心臓もありませんでした。生きている人々を食べたその巨人は、心臓(こころ)の無い機械でした。

c. ケツアコアトル、生贄支払、そして「魔術師達」

私達は今、コーデックス・チマルポポカの中に記録された、アステカ文化における人間の生贄の問題を、直接検証します。その一部において、その記録は、1487年、またはアステカ人達が、葦8年と呼ぶ年に、アステカの首都、Tenochitlan のピラミッドの頂上において、約80,400人の捕虜が、生贄にされたと明言します。実際に、その数が驚く程大きいので、人は、アステカの侵略の計画の大部分が、生贄の被害者達を、一貫的に供給するための、知覚された「必要性」によって、本当は推進されていたのではないのかと、疑わずにはいられません。

しかしながら、その同じコーデックスは、アステカ人達自身によって、彼等の文明を基礎づけたと考えられたケツアコアトルは、それ(生贄)を禁じたと、とても鮮明に記録します。以下の話しは、その起源を伝え、そしてそれと共に人は、そのアステカ版のメイソン的な儀式と、そして寺院への献身/奉納への、更なる洞察を得ます:

「そのトルテック人達は、Netlalpan と呼ばれる場所で、(戦闘を)行っていました。そして彼等が捕虜を捕えた時、トルテック人達が彼等の捕虜の生贄を始めたので、人間の生贄が始められました。彼等の中で、そして彼等の中心に、その悪魔、ヤーオトルは一緒に続きました。そのまっただ中で、彼は彼等に人間の生贄を行う事を扇動しました。

「するとその後また、彼は人間の皮を剥ぐ行為を始めました・・・それから彼は、Ziuhcozcatl と言う名前のトルテック人に、その革を着る様にし、そして彼はトテックの皮を着た最初に成りました。

「実際に、以前に行われていたあらゆる種の生贄が始められたのはその後です。それは、その名前がセ・アキャトルであった、最初のケツアコアトルの時代と彼の権威の下では、人間の生贄を行う事を絶対的に拒否していたと伝えられ、関連されるためです。以前に行われていたそれら全ての物事が始められたのは、正に、フエマックが統治者であった時でした。それらを始めたのは悪魔達でした。ですがこれは、紙の上で、その他の処にも記述されています。そして其処において、それは聞かれます。

「・・・フエマックは、人間のストリーマー(流れ/流動)を生贄にし、故に支払を行いました。」

此処において、注目すべき3つの事があります:

1)生贄は支払と考えられ、i.e.(つまり)何らかの借金/負債で、そして故に、示唆されている概念は、その理由が何であれ、支払われなければならない借金/償いで;

2)生贄は、元々の社会秩序ではありませんでしたが、後の時代のある時点において、悪魔達によって制度化され;そして、

3)それは、ヤーオトルと言う名前の、特定的な一人の悪魔によって制度化され、その名前は「ヤー」と言う語源を含み、その名前と人物像において、生贄にされた動物の香りにとても喜ぶ、旧約聖書の最初の5冊、トーラの、「ヤーウェイ」に瓜二つです。

また、私達が続ける前に、注目されるべき最後の事は、「ケツアコアトル」と言う名前が、称号的な名前であると、アステカ人達によって理解されていた様に現れる事で、それが人の名前であると同時に「役職」的な名前で、そしてその役職が、その本質においてマヤ族の「羽根の生えた蛇」の描写に類似する事です。

「悪魔達」が生贄の制度化の背後にいたと言うアイデアは、以下に更に強調されます:

「兎年7年(1018年)。此処で人間の生贄は始められました。当時、兎年7年に、大規模な飢餓が起こりました。トルテック人達は7匹の兎にされたと言われました。それは7年間の飢餓で、その飢餓は、多くの苦しみと死をもたらしました。

魔術師達が、フエマック自身の子供達を徴用したのはその時で、そして行き、彼等を Xochiquetzal の水と、Huizco と Xicocotl の上に置き、故に小さな子供達で支払を行いました。人間のストリーマー(流れ)の生贄が行われたのはそれが初めてでした」

私達は既に、コーデックス・チマルポポカの中に記述された、アステカの王達の一人、フエマックに出くわしましたが、私達が今、此処で学ぶのは、人間の生贄の行為の背後にいるもう一つの存在で、悪魔達に加えて:魔術師達です。言葉を変えると、アステカの神話が示唆しているのは、私達が、入門したエリート達の活動を目撃している事です。そして再び生贄は、支払いとして言及されています。故に、その支払いを要求しているのが、その「悪魔達」であると言う結論を避ける事は難しいです。

しかしながら、人間の生贄に言及する、そのコーデックスの中の全ての示唆的な文章の中でも、特にある一つが、その示唆の重要性のために、その他全てを卓越します。

「さて、ケツアコアトルの人生の間に何度も、魔術師達は彼に人間の支払いをさせようと、人間の命を取らせ様と、彼を馬鹿にしたと伝えられ、関連させられます。ですが彼は、常に拒否しました。彼が同意しなかったのが何故なら、トルテック人達である、彼の人民を、彼が大いに愛したためでした。彼が殺した蛇、鳥、そして蝶が、常に彼の生贄でした。

「そしてこれと共に、彼はその魔術師達の忍耐を試したと伝えられ、関連させられます。ですから彼等が彼を馬鹿にし、揶揄し始めたのはその後で、魔術師達は、ケツアコアトルを悩ませ、そして彼を追放したいと言いました。

「そしてそれは現実に成りました。それが起こった事です。

「・・・

その後、彼等はケツアコアトルがどの様にして離脱したのかを伝えます。それは彼が、人間の支払い、人間の生贄について、魔術師達に従う事を拒否した時でした。その後、その名前が Texcatlipoca, Ihuimecatly, そして Toltecatly であった魔術師達は、彼等の間で相談しました。彼等は、「彼は、彼の街を離れなければならない。私達が其処に住みましょう、」と言いました。

この文章が重要なのは、その中に人が、浮彫に成ってきている奇妙な話の、はっきりとした概要を見つけるためです:

1)ケツアコアトルに体現される、「古い秩序」が、人間の生贄を制度化する事を拒んだ事で;

2)3人の魔術師達に体現される「新たな秩序」が最終的に、ケツアコアトルに彼の街を見捨てる事を強要し、そしてそれを乗っ取ったと言う事です。それらの3人の魔術師達は、王、ケツアコアトルと共に、生贄によって寺院に献身/奉納する、(メイソンの)ヒラム・アビフの逸話のアステカ版かも知れず、恐らく、もう一つの変形を体現するものかも知れず;

3)生贄は再び「支払」、借金として言及され、そしてその行為を制度化する事へのケツアコアトルの拒否は、恐らく、彼が始めから、借金と支払の概念全体を受け入れなかったと言う事実の示唆です。

簡潔に云うと、人が目撃しているのは、2つのイデオロギー(思想)、2つの概念で、膨大で「宇宙的な機械」の中の人類の位置で、それぞれ、ケツアコアトルと魔術師達に体現される、「より古い」ものと、「より新しい」ものです。それらの魔術師達は所々、「悪魔達」と呼ばれ、そして特にその内の一人、「ヤーオトル」は、その実施の背後にいました。

この全ては第5の太陽の、洪水後の世界に起こり、ですから最後に一つの事を注目するのは重要です。その洪水の後、その神々は、「テオティフアカンの「スピリット(霊)のオーブン(かまど)」の炎から、新たな太陽」を創造します。生贄の概念は、言い換えると、アメリカ大陸の全てにおける世界グリッド上の最も神秘的な遺跡などに深く結びついていて、それはまた、太陽と天界的な機械(歯車)自体の、再創造と再活性化の概念にも結び付いています。

ですがテオティファカンにおけるそれらのアイデアの示唆を私達が検証する前に、アステカ人達が直面した文化における、生贄、支払、そして借金の概念の、より詳細な検証が必要です。

カンタベリーのアンセルムの Cue Deus Homo

コンキスタドール(侵略者)が来た、西ヨーロッパ全土を渡って、生贄は全ての村のチャオペル(社)、教区の教会、管区、修道院、そしてヨーロッパの大聖堂において行われました:ミサ(集会)における生贄です。加えて、それらのチャペル、教会、そして大聖堂の多くが、世界グリッド上の場所に位置する、元々のペイガン(非ユダヤ-キリスト教の土着信仰)の社、または信仰の中心地の上に建てられたと証明する事は難しくありません。端的に、ミサにおける生贄は、超越的で錬金術的な行為として理解され、現世的なパンとワインをキリストの天界的な体と血へと変える全質変化で、それは磔において聖父である神に生贄にされました。それは、生贄が実際にに存在する様にした行為でした。

その2つの文化は、両方ともある種の生贄を実施し、故にお互いに衝突し合った時に、スペイン人達は実際の人間の生贄を行っていたとは殆ど言えませんが、西洋のラテン・キリスト教圏の信仰の根底にある神学的な教義を詳細に検証すると、その2つの文化を分離している、広い概念的な海(溝)など存在していない事を明かし、むしろその真逆で、両方の文化の行為と信仰の背後の言語と概念化は、同じでした。

西洋のラテン教会にとって、キリストの生贄にまつわるアイデアの布置(コンステレーション/星座/座標)は、11世紀の神学者で、カンタベリー(大聖堂)の大司祭、アンセルム(Ⅰ033-1109年)の、Cue Deus Homo、または何故、神-人と題された書において、最も完全にはっきりと明言されました。その中で、敬神の言語の表面の下に隠されている冷血さと共に生贄借金/原罪、そして支払/償いの「理論」が鮮明に述べられました。

キリスト自身でさえ、膨大で生贄的な「機械」の歯車でしか無いと言う最初の示唆は、Cur Deus Homoの最初の数行に見られ、正にその文章がこの章の題辞を形成し:「・・・結局、(あたかも彼については何も知られていなかったかの如く)キリストを見解の外に残すと、それが証明するのは、完全成る理論によって、彼無しであらゆる人が救われる不可能性です」と言う事でした。言葉を変えると、一度キリストが見解から外されると(蚊帳の外にされると)、するとそれは、それにおいてキリストが単なる「必然的な歯車」であるとされる、生贄の機械の土台を形成する「絶対的な理論」です。

幾つかの選別された文章を読むと、これを鮮明にさせます:

1.借金/償いと意志

Cur Deus Homo (何故、神-人)は、アンセルムと彼の生徒/弟子、ボソの間の対話の形に設定されています。私達は、アンセルムにとっての、生贄のロジック(論理)を、Cur Deusの第9章における、その大司祭と彼の生徒の間のこのやり取りと共に、私達の検証を始めます:

ボソ:・・・彼(キリスト)が死んだのは、彼自身の同意であったとはどう言う事で:そしてこれが意味するのは何で:「彼は死に際でさえも、従順にさせられ」;「そのために神は彼をとても高く昇進させ」;「私(キリスト)は、私自身の意志を行うために来たのでは無く」;そして:「彼(神)は彼自身の息子(キリスト)を救わず」;そして:「私(キリスト)が意志する/行う様にでは無く、貴方(神)が意志する様に」とは、何を意味するのでしょう。

アンセルム:従順の要求において彼(キリスト)が行った事と、彼が苦しんだ事、そして従順によって要求されませんでしたが、彼が、彼の従順を完璧に保ったために、彼に負わされた苦しみの間の違いを、貴方は正しく理解していない様に、私には見えます。

・・・

その人は、故に、この従順を、聖父である神に、人間性を神に、借金/借りし、そしてその聖父は、彼からそれを取りました。

ボソ:・・・彼の従順における彼の辛抱強さのために、死は彼に負わせられ、そして彼はそれに耐えましたが;私は従順がこれを要求しなかったのがどうしてか、理解出来ません。

・・・

アンセルム:・・・彼(神)が、そのために彼(キリスト)が死に出会ったそれを強いた時に、その聖父は、彼に死ぬ様に命令したと、実際に言えるかも知れません・・・そしてこれは、それを達成できる者が他にいなかったので、人の救いを心から熱望した、その息子と共にとても役に立ち、あたかもその聖父が、彼に死ぬ事を命令した様で;そして、故に、「その聖父が命令を彼(キリスト)に与えた様に、彼はそう従い、そして、死に際してでさえ従順のままで、その聖父が与えたコップから、彼は飲みました。」

注目してもらいたいのは、「それを達成できる者が他にいなかったので、」と言う奇妙な明言で、その明言を多くの解釈者達は、人間の意志の不十分さと弱さと、罪を犯さない事に対する無能力さに言及していると取ります。キリストは、「完璧な人」として、恐らく、この弱さから苦しまず、完璧な従順を提供する事が出来るのでしょう。

ですが、これがアンセルムの論議を縮小させるのは、これが、彼の考えている、「絶対的な理性/理由」だけでは無い為です。

借金/借り、支払/償い、そして満足/返済

その「完全な理性/理由」は、Cur Deus (何故、神)の第12章において、借金/借り(i.e. 原罪)、支払/償い、そして満足/返済についてアンセルムが言わなければ成らなかった事によって明かされます:

アンセルム:私達は、彼(神)から取られたオナー(誇り/敬意)の支払い/償い無しで、慈悲の身によって神が罪を取り除く事が正しいかどうか、戻って考えてみましょう。

・・・

ですが、もし、罪が償われない/支払われない、または罰せられないなら、それは法の対象では無く成ります。

此処で、支払/償い借金/原罪の概念は、更に完全に定義され:それは人によって神から取られたオナー(誇り/敬意)のための支払い/償いです。

これは、第19章の中で、更に説明されます:

アンセルム:よって、満足/返済無しで、つまり、その借金/借り/原罪の自主的な支払/償い無しで、神はその罪(原罪)を罰する事を見逃す事も、もしくは人が罪を犯す前(i.e.生まれる前)に、彼が有していた幸せの様な幸福を、その罪人(i.e.人間)は会得する事が出来ないのは;人はこの方法において立ち直せられない、または人が罪を犯す前の状態(生まれる前の状態)に戻る事が出来ないためです。

ボソ:・・・もし私達が、私達の借金/借り/原罪を支払う/償うなら、何故私達はそれを取り払う様に神に祈るのでしょう?神は、既に支払われた/償われたものを要求することによって、不公正ではありませんか?ですがもし、私達が支払/償いをしないなら、それは不作法なので彼(神)が出来ない事を、彼(神)が行うであろうと、私達は無駄に嘆願するのでしょう?

アンセルム:支払わない/償わない人は無駄に:「お許しください」と言い;支払う/償う人が嘆願するのは、何故なら、祈りがその支払い/償いに正しく関連しているからで;神は、人に何の借りもありませんが、全ての生き物達は、神に借りがあるためです・・・

此処で、「借金/借り」と「支払/償い」の言語が完全に目の前に現れましたが、注目してもらいたいのは、つまり、アンセルムの論議の暗黙的な理論(ロジック)において、神と人の両方が、より高いロジックの機械の中の歯車としてとらえられていて、それは原罪/借金/借りのための、罰と満足/返済を要求している、抽象的な正義です。この点が見誤れ無い様に言うと、アンセルムが本当に言っている事は、本質的/内在的な許しは全く無いと言う事で、血を流す事無しで、許しのフィアット(代理)は全く無いと言う事です。

この恐ろしいロジックは、第20章から23章にかけて、更により詳細にされます:

アンセルム満足/返済は罪悪に比例するべきであると、貴方は疑わないと、私は考えます。

・・・

貴方が神に借り/借金のある、あらゆるものを解釈する時、貴方の過去の罪に関わりなく、貴方はこれを、原罪のために貴方が負う借金/借りとして考えるべきではありません。ですが貴方は、貴方が口にした全ての物事の一つ、一つに対して、神に借り/借金があります。

ボソ:本当に、それらの物事の全てにおいて、私は神への私の借金/借りのあらゆる部分を支払う/償うとは、言えもません。

アンセルム:ではどの様にして、貴方は、神に、貴方の罪を償う/支払うのですか?

ボソ:もし正義において、私が罪を犯さない時に、私が、私自身と私の力の全てにおいて、神に借り/借金があるなら、私の罪/原罪のために、私が彼(神)に支払える/償えるものは何も残っていません。

アンセルム:では、貴方はどう成ってしまうのでしょう?貴方はどの様にして救われるのでしょう?

・・・

私達が、キリストの到来が人の救いにとって必要か否かを調査すると提案する時、あたかもそれらが存在しないかの様に、(私達は)キリストと彼の宗教を横に置きます。

(第21章)

・・・

アンセルム:故に、もし貴方が、その責任の量よりも大きな何かを継ぐない/支払わ無いなら、貴方は満足/返済させず、それは罪を犯す事から、貴方を躊躇させるでしょう。

此処で、暗黙のロジックはやっと明かされ、人類は、人が返済する/償う事の出来ない借金/原罪を負い、更に、その借金/借り負うのは人類なので、人は返済しなければ/償わなければ成りません

そしてこれは、アンセルムの「生贄の機械」のロジックの中心に繋がります。

無限の借金/罪、無限の支払い/償い、そしてアンセルムによる、キリストの(自己)犠牲の、内在的な理論

人類が、結果的に罪/謝金/負債を負うのは - 上記にも見られる様に - 神への冒涜として見られるためで、神自身の様に、無限であると人が崇敬するためです。

このために、その無限の借金/原罪は、人が、彼自身においてそれを負ったので、無限の支払いによって、「支払わなければならず/償わなければならず」、または「満足させられなければならず/返済されなければなりません。」そして故に、私達はCur Deus Homo, 何故、人-神の神髄に来るのは、Cur Deusの第2書の第6章と7章において明言された様に、神(キリスト)が人間に成る事によってのみ、抽象的な無現の借金/罪を支払い/償い、満足/返済させることが出来ます:

アンセルム:ですがこれは、神以外の宇宙の全てより偉大なる何かである人の罪のための、神への代価を除いて、これが効果的に成る事は出来ません。

ボソ:その様に、それは現れます。

アンセルム:加えて、神の所有における物事以上に貴重な、何らかの彼自身のものを、神に与えられる彼が基調なのは必然的です。

ボソ:私はそれを否定する事が出来ません。

アンセルム故に神以外にこれを達成出来るものはいません。

ボソ:それはそう現れます。

アンセルム:ですが、これをすべきは人以外の何者でも無く、そうで無ければ人は、満足/返済を行えないためです。

ボソ:それよりも公正なものは無い様です。

(第7章)

アンセルム:・・・神がそれを行わないためで、何故なら彼(神)には支払わなければ/償わなければならない借金/罪が無いためで;そして人がそれを行わないのは、何故なら、彼がそれを行え無いためです。故に、神-人がこれを行うには、この支払/償いを行うために、その同じ存在が、完璧な神、そして完璧な人間に成る事が必然です。

そして、これ等の明言と共に、アンセルムは、神、人、そしてキリストを、正義と犠牲の非個人的な機械における、大規模な歯車を「説明」する、ある種になぞらえます。アンセルムはその論議に「勝利し」、そして彼の弟子、ボソはその本の第2巻の第8章の中でその教義をまとめあげます:

ボソ:・・・そして貴方は、数多くの、そして肯定的な理由によって、人類の再構築は成されるべきでは無く、人が、人の罪(原罪)のために、彼が神に負った借金/罪を支払う/返済する事無しで、再構築される事は出来ません。そしてこの借金/原罪はとても大きすぎて、その借金/原罪を支払う/返済する事が出来るのは人以外にはいない間、そうすることが出来るのは神のみで、;ですからそれを行える彼は、神と人の両方でなければ成りません。そして故に浮上する必然性は、神が彼自身の person (法人)の中へと人を取り込まなければならない事で;ですから彼(人)は、彼自身の本質において、借金/原罪を支払う/償う宿命にありますが、そうする事が出来ず、神の person (法人)としてのみ、そうすることが出来ます。

これが何を意味するのかを、一時停止して、慎重に考えてみましょう。アンセルムの見解において、神は銀行家、そしてキリストは人と言うよりも、帳簿を均整させる生贄/出資の行為でしか無く;そしてキリストの人生と教えのその他の要素の全ては、実際に、この優先的で生贄/出費的な必然性の、単なる表面でしかありません。この見解において、生命自体でさえ、一つの借金/借りであり、これが明かすのはアンセルムのロジック(理論)の過ちで、もし生命自体が借金/借りであるならば、生命の借金/借りを支払う/償うために、人類は「神を讃える」事が全く出来るのであろうか?と言う事に成ります。

アンセルムには、勿論、更なる過ちがあり、そしてそれは道徳的なもので、それが聖父である神に、彼への敬意に対する無礼を満足させるために、彼自身の息子(キリスト)の、拷問による死を要求させる事で、その行為は、人間のレベルでさえ「愛の神」には公正、または相応しく無く、そしてその行為は、人間の父達でさえ行う者は殆どありません。

私達が扱っているのは、端的に言うと、神への敬意をその金利として、そして人類をその上の元金と担保にする、ある種の閉ざされた「経済的で神学的」なシステムです。

機械(歯車)における、メカニズムとしてのこの人類の見解と共に、私達はアステカの、テオティファカンに戻り、可能で物理的な関連性の更に詳細を検証してみましょう。

C. テオティファカン

テオティファカンは、アメリカ(大陸)におけるギザと呼ぶのに相応しいかも知れません。その巨大な太陽のピラミッドと、月のピラミッドは、メキシコの峡谷を圧巻し、そしてそれらの名前自体が、両方とも地元の先住民達の逸話の中で触れられ、そしてアステカ人達がその峡谷に移り住んだ時に、彼等によって取り入れられました。テオティファカン自体の名前は、「神々の都市」を意味します。実際に、皇帝モンテズマ自身が、太陽のピラミッドは、「地球の現在の時代の始まりにおいて、創造が開始された場所を印す元々の創始的な丘」と考えました。これにおいて、アステカ人達は、ギザにおける彼等のグレート・ピラミッドが、創造の創始的な丘を体現すると考えた、(古代)エジプト人達にこだまします。

言葉を変えると、テオティファカンのピラミッド、特に太陽のピラミッドは、創造自体の宇宙的な行程に、原理的に結びついていると考えられました。アステカ人達にとって、エジプト人達と同様に、それらは、何らかの基本的な感覚において、最も高い、形態的な段階において、創造と破壊の宇宙的な行程の物理学を操作している機械(歯車)であると理解されました。

しかしながら、アステカ人達にとって、エジプト人達とは異なり、その操作は人間の生贄の野蛮な行為を通して達成され、その行為は神官達によって監督され、ナフアトルの伝統によると彼等は、ピラミッドに関連した不死アセンション(上昇)の儀式の一部として、生贄を指導しました。より詳細な検証に進む前に、考えてみる価値があるのは、何故生贄が、ある意味、ピラミッド、不死、そして媒体(エーテル)の操作に関連していると考えられたかです。

私達は既に、ピラミッドがメソ・アメリカ人達によって、何らかの基本的な形状において、創造の宇宙的な行程である物理学に直接リンクした機械であると理解されていた事に注目しました。私がまた、私の著書、宇宙戦争の中で記述した様に、太古の科学技術の幾らかは、緊密な連結、またはそれらの所有者達との、実際の物理的な接触においてのみ、使用可能、または使用可能と知覚された様です。また知られているのはアステカ人達が特に、その行為(生贄)の - 知覚されたものが何であれ - あたかも、どうにかして、それら(生贄)に関連した全くの数と感情的なトラウマが、その効果を強化するかの様に、無茶な積極性としか表現のしようの無い方法で、人間の生贄を行った事です。アステカとマヤの伝説を私達の手掛かりとして取ると、そのグリッドの発達の期間のある時点において、物理的な媒体(エーテル)上の、意識への直接の効果があると理解し、そして大規模な人間の生贄の実施を通して、文字通りにそれを「トラウマ化」する、または「ショック」させようと試みていた、エリートが浮上した、または恐らく単純に、それ自体を表せさせたと、私達は結論出来るかも知れません。

テオティファカン自体に向くと、注目されるべきは、その遺跡がとても古い事で、そして構築の幾つもの時代の跡を残している事です。問題なのは、誰がそれを建てたのかを誰も実際に知らない事で、または本当に、何時建てられたのかを知らない事です。事実、コンキスタドール(スペイン人の征服者)達がその遺跡を発見した時、

「その大いなる儀式的な中心を誰が建てたのか、その建築士達は何処から来たのか、そして彼等は何処に行ってしまったのかを、彼等(スペイン人達)に伝えられる者は、誰もいませんでした。彼等が学ぶことが出来たのは、2世紀前に、メキシコ人達がその峡谷に辿り着いた時に、その神秘的な都市が、土と植物に覆われ既に放置された状態で発見したと言う事だけでした。」

テオティファカンの遺跡を覆っていたのは植物の存在だけでは無く、だった事が示唆するのは、アステカ人達がその遺跡に辿り着いた時、それがずいぶん長い間放置されていたと言う事です。

マヤの文献、アステカの神話、そして儀式的な行為から、この遺跡の古さについての大まかな協力証言的な補佐があります。ピーター・トンプキンスは、アステカ人とマヤ人達が、子供の生贄の究極的な実施者達であった、フェニキア人達との、何らかの接触から、人間の生贄の行為を受け継いだかも知れないと注目します。考古学者、ヒュー・フォックスの研究を引用し、トンプキンスは、旧大陸における生贄の行いは、大洪水の後に、神々をなだめる試みと、再びの大災害を避ける試みに関連して派生し、そのアイデアの関連性は、明らかに、マヤ族とアステカ族の考えにおいても機能していたとして注目します。マヤ族のトロアノ・コーデックスは、紀元前9937年に、「三日月型に東へ向かって、カナリア諸島まで伸びる、」大西洋の島を水没させた大いなる大災害を語ります。その日付と既に記述された、紀元前10,500年の日付けの親密な近さは、再び、人が目撃しているのは世界中に広がる共通の文化的な遺産である事を示唆しています。

テオティファカンの太陽のピラミッドがその昔、ソヴリン(主権)の羽の生えた蛇である、ケツアコアトルに奉納されていたのが殆ど確かなのは、20世紀初頭に、メキシコ人の考古学者、バトラスが、その遺跡の発掘をしていた際に、そのピラミッドの周りから数多くのが描写された貝殻を発見したためです。

しかしながら、太陽のピラミッドに関しては、更により深い謎があり、その構造が何らかの、機械-の様な機能のために考えられた事を示唆するものです:

「公表されていない第5段階(第5層)からの発見は、全く十分に説明されていません。太陽のピラミッドが、1906年に、バトラスによって最初に調査された間、彼と共に調査していた考古学者が、第5の層の上を覆っていた厚いマイカ(雲母)の層を報告しました。この物質は明らかに、その再構築の際に運ばれた様でした。

「偶然にも、「マイカの寺院」がまた、太陽のピラミッドから死者の道を通った南方、約350メートルの地点で見つけられ、其処では今でも、地元の警備が、マイカの塊に覆われた床を、草のパネルを通して人(観光客)に見せています。マイカは2つの特別な特徴を有し:高い電気的な抵抗と、速い中性子への不透明性です。故に、それは絶縁体、または核反応の調整器/減速体として機能し、それが浮上させる問いは、テオティファカンの2つの異なった部分が、何故マイカに覆われていたのかと言う事です。」

それらの特質に加えて、マイカはまた、キャパシター(蓄電器)の産出にも使用され、そして高ヴォルテージの機械の絶縁体としても利用される事です。

太古の時代においてマイカが、現代のもの以外の目的で使用されたかも知れない間、太陽のピラミッドにおけるその存在に加えて、その構造物の古さの可能性は、その存在が何らかの機能的な目的を果たしたと言う可能性を、人が簡単に否定出来ないと言う事でしょう。この場合、3つの可能な性質があります:

1)電気的な絶縁体としてで;

2)キャパシター(蓄電器)にけるダイエレクトリシティー(誘電/静電)としてで;そして

3)核反応的な調整器/減速体として、です。

それらの選択肢を与えられると、恐らく最初の2つの使用はその構造物の構築者達によって意図されていたと、人は推理するかも知れませんが、私達はこの構造と、その可能で機能的な目的についての更なるコメントは、グリッドについての未来の続巻のために、残しておきましょう。

ムンクが、テオティファカン-ギザの平行線がとても親密であると着目するのは、ギザの3つの主要なピラミッド、マイセリヌス、セフレン、そしてグレート・ピラミッド自体が、正しくテオティファカンの複合体の月のピラミッド、太陽のピラミッド、そして「ケツアコアトル」の類推であるためです。そしてそれらの3つの主要な構造物と共に、それらの場所の両方が、殆どの人達が知る様に、オリオンの「ベルト」の星座の星々のパターンに沿って配置されています。私達の目的のために、私達は一つの推理を行い、一つの事に注目します。私達が第13章において論議するその推論は、私達が、超-次元的な物理学を技術開発するために、デザインされた機械を見ていると言う事です。私達がその推理を一度仮定すると、ある事が直ぐに続き:ギザとテオティファカンは、同じ基本的な設計図に沿ってデザインされ、つまり、それらが何らかの方法で、お互いに対化されたオシレーター(振動器)であるかも知れないと言う事です。

ムンクは、テオティファカンにおける、最も大規模な構造物である、太陽のピラミッドについてある重要な観測を行い、そしてそれらは、私達が「超-次元的な技術開発」を目撃していると言う私達の推理に直接関係します。技術開発者、ヒュー・ハーレストン・ジュニアの詳細な描写を利用した、この構造の側面図の一見が必要です。

[ヒュー・ハーレストンの、太陽のピラミッドの側面図:オン・ライン電子書籍の201ページ参照。全ての寸法がメートル法である事に注目して下さい。]

そのピラミッドが、ティカルの「寺院」と同様に、意図的にずらされている事に注目して欲しいとムンクは述べます。そのずれは、しかしながら、第2テラスの段階において起こり、そして5つのテラスの全ては、下部の2つのテラスを除いて中心化(直線化)されています。面と角を数えるムンクの方法に続くと、これは以下の興味深い数字を与えます:

1)中心化されたテラス     2

2)ピラミッドの1側面の面     6

3)テラスの数     5

4)1側面のずれた面     4

それぞれの数字を取り、πで掛け算し、お互いに掛け算し合い、e.g. 2π x 4π x 5π x 6π すると、23,378.18184を産出し、一般の角度の寸法に入れ替えると、19度から41度に翻訳されます。これは、勿論、私達が超-次元的な構造を扱って入ると言う、私達の最初の手掛かりなのは、最初のプラトン的な固体、テトラヒードロン(四面体)が、球体によって周囲を囲まれ、自転的な地軸上に頂点を有し、どちらの自転的な軸に第4の頂点が位置付けられるかによって、北、または南の緯度の、19度47分において接触している、その他の3つの頂点を持ちます。そして私達が第13章において見る様に、これは超-次元的な幾何学(立体性)への、深遠な手掛かりであり、3つの空間的な次元(3次元)以上において行われる幾何学です。

テトラヒードロンと19度47分
1Hawaii195Grid.jpg

此処で私達が、しかしながら、ムンクに対して幾つかの異論を唱えなければならないのは、テラスの間には違いが無いためで、幾何学(立体性)者にとって、その両方は同じであるためです。加えて、私達が彼の数字を4によって掛け算しなければならないのは、その構造に4つの側面があるためです(テラスはその構造全体に延長するので、1つの面として数えられ、ですから私達はそれらを4によって掛け算しない事を頭に入れて下さい)。

私達は調整された数字の、以下の表を得ます:

1)中心化/直線化された面(i.e.面とテラス)     10

2)ずらされた面(i.e.面とテラス)     19

3)合計された面(i.e.全ての面とテラス) 29

私達が数えているのは、基本的な構造の面だけで、階段などから加えられる面は含まれない事に着目して下さい。此処で、2つの更なる数字がこのリストに加えられるべきで:エッジです:

4)角、または頂点の数     44

5)エッジの数     78

私達が第13章の中で見る様に、これ等の種の数字は、コンパウンド(合成/化合)と呼ばれる、超-次元的な物体の奇妙な種を強く示唆しますが、私達がまた見る様に、ある問題があります。ですがそうであれ、これ等の種の数字は、それらがどの様な種の機械であったのかについての、更なる推理をする事を私達に許し:それらの数字において体現された面、エッジ、そして頂点の数によって、それらの物体は、それらのレゾネーター(共振器)としての、より高い-次元的な物体の3-次元的な類推として構築された様に現れます。

もしこれが、純粋なサイエンス・フィクションの妄想の逃避の様に聞こえるなら、それはそうでは無く、私達が利用してきた図表を描いた数学者、ヒュー・ハーレストン・ジュニアが、テオティファカンの音楽的、そしてテトラヒードロン(四面体)的な性質と、物理的な媒体(エーテル)との、その関係について、同じ事に気付いたためです:

「テオティファカンの設計/配置における角度と遠近図は - 上の天界の大空間と共に沿った - 融合された天地の枠組みを表す様に、ハーレストンにとって現れ、卓越した数学者の仕業である様でした。ハーレストンにとってテオティファカンのメッセージ(遺言)は、時間と空間を見る新たな方法、宇宙からの何らかの新たなエネルギーの源泉、私達の科学が未だに発見していない何らかの新たなフィールド・ファーブリック(場の繊維/エーテル)を指し示していました・・・

「一度、テオティファカンにおける研究者が、1/3, 1/7, 1/9, 二乗、そして二乗根が基本的で数学的な道具であると学べば、次の段階は2つの単純で幾何学的な固体:球体四面体の関係を理解する事であると、ハーレストンは述べます。

「テオティファカンの複合体の中へと取り組まれた、四面体的な幾何学への手掛かりを、ハーレストンが見つけるまでに、少々時間がかかりましたが、彼は最終的に、太陽のピラミッドの次元においてそれを発見しました。(その頂点を北極とすると、その底辺が赤道で、そしてその周囲の長さが円弧の1/2に同等な)北半球のとても正確なスケール・モデル(縮小モデル)であるケオプス(クフ)のピラミッドとは異なり、太陽のピラミッドはその様なシステムには当てはまりませんが、しかしながら、地球の表面全体をとても正確に与えます。」

これは何故、そうなのでしょう?何故なら私達が既に見た様に、19.5の四面体的な数字が既に、面とπのその数と言った形で、その構造の中において、ほぼ正確に現されているためです。ですがそれがまた含まれている、もう一つの方法があります:

「奇妙にも、または偶然的に、四面体と球体の間の関係は、バックミンスター・フラーの研究の中心を構成し、彼は、彼の著書シナジェティクス(共同作用)の中で、四面体が宇宙のための、基本的で数学的なブループリント(青写真)を与えると主張します。

「彼が「アイソトロピック・ベクトル・マトリックス(等方性ベクトル母体)」と呼ぶものから、フラーは√9/8の定数を得て、それは1.065066で、ハーレストンの1.059の定数に非常に近く、実質的にテオティファカンの複合体にもそれは上手く当てはまります。」

テオティファカンの中へと取り入れられたこの四面体的な余剰物を、ハーレストンは見逃しませんでした:

「全ての生きている生命体の物質的な体がそれから造られている、基本的な構築の土台である - 炭素の原子は均整な四面体であり、そして水の分子が四面体的な構造に一致する特徴を指摘し、テオティファカンによって伝えたられた原理的なメッセージは、物理的な宇宙が、振動のスケールにおいて、原子のミクロ的な段階から、銀河のマクロ的な段階まで四面体的で、人がそのほぼ中央に位置すると、ハーレストンは結論しました。ピタゴラスとプラトンによって提案された様に、人は故に、宇宙の幾何学を解読し、その計画における彼の役割の知識を回復する道具が、彼の中に組み込まれています。

それらの数字、9と8、そしてそれらの神秘主義者達、ピタゴラスとプラトンに私達は次の章において再び出会い、そしてマイクロコズム(小宇宙)と、四面体的な寺院であるこの大宇宙における、仲介者としての人の特徴的な地位については、エジプトに関連した、この本の4番目の部分においてコメントする多くの機会があるでしょう。

この物理学の全ての真ん中付近の何処かにある人の地位は、しかしながら、この物理学の理解を恐らく有する何者かによって何故、人間の生贄が実施されたのかの、最後の重要な手掛かりを示唆し、それは意識自体の類推的な本質で、古代人達が信じた物理的な媒体(エーテル)の見解の類推で、とても小さなものと、とても大きなものの物理学の中間に立ち(位置し)、人自身がそれらの物事の全ての、自然的で、そして最も効率的なレゾネーター(共振器)であるためです。意識とのそのインターフェイス(接触面)を通した媒体の上に、権力と影響力を実施する事を意図する者達にとって、残忍性と生贄によってその(意識/媒体)の中に誘発させられた衝撃と感情的なトラウマの道具化を通して、人類を選択した事は、ある意味、捻くれたロジックと、捻くれた音楽の現れです。

ですが、そのロジックがどれだけ本当に捻くれているのかを見るためには、(インドの)ヴィーダから、メソポタミアとエジプトを通してエコーしてきた、元々の音楽が今、見識へともたらされなければなりません。

補足資料:オン・ライン電子書籍、239-240ページ


  1. Category: None
  2. / trackback:0
  3. / Comments:0
  4. [ edit ]


Only the blog author may view the comment.

Profile

Songcatcher

Author:Songcatcher
現在地:ルネッサンス2.0









鼓動と呼吸:緊縮と拡張・・・

songcatcher@mail.com

Latest trackbacks

Search form

QR code

QR

« 2017 08 »
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -