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進歩的な活用論

資本主義の“富の集中と貨幣の回転の阻害”の克服

サーカーによれば「資本家(ヴァイシャ)の心理は貨幣の回転から利益をあげることにあり、貨幣の投資が期待するほどの利益をもたらさないと見れば、投資を引き上げ、貨幣の回転をストップし、不活性にする。そこには、投資、生産、収入、購買力がなく、この事態は危険であり、商品の購買力が低下するほど事態は深刻なものとなる。

経済の領域においては二つのことが非常に重要である。第一に、貨幣の循環を維持しなくてはならない事で、貨幣が購買力として活用されないときや滞留したままであるとき、経済はダメージを受ける。第二は、貨幣が経済的な均衡と安定を図る能力を失うと富の不均衡を引き起こすということである。この二つの根本的な要素を少しでも忘れると、世界規模の経済恐慌が起こる。

もし国家資本主義が搾取する事を追求せず、一人ひとりの個人の収入を増加させるならば、私たちは国家資本主義を称賛せざるをえません」。

“現在の資本家”の最たる存在は、国際的な投資家、機関投資家(その実態は“投機”を行っていて、どちらも実際は“投機家”、“機関投機家”)だが、このような投機勢力がヘッジファンドなどで投機を行い、資金が供給され、バブル経済になりながらも東南アジア各国は潤っていたが、投機が儲からないと見るや、一斉に資金を引き上げ、バブルがはじけ、東南アジア各国に深刻な経済的ダメージを与えた。 また、日本も1980年代末の土地投機によるバブル景気の発生とその崩壊によって、失われた10年を経験したことなどもこれが現れた例である。

サーカーは投機の害悪性には触れなかったが、バトラは自身のいくつかの著書の中で投機の害悪性について触れ、投機を排除する政策をプラウトに加えている。

このような“現在の資本家”に富が集中する社会であればあるほど、“貨幣の回転”につながる彼らの投資や購買行為の有無の経済的影響力は大きくなっていき、彼らから投機などによって富が吸い上げられ、常に低い賃金水準に置かれている一般大衆(労働者、シュードラ)の購買の経済的影響力は小さくなっていき、“貨幣の回転”は彼ら次第という側面が大きくなるわけである。 しかも、彼らはその地域が必要だから投資をするのではなく、投機で儲かるから行うだけである。そして儲からないようになれば一斉に投資を引き上げる。それが“貨幣の回転”を不安定にさせ、不確実にする。そして、バブルや不況や恐慌の原因になる。

その解決策として、プラウトは一般大衆(労働者)の購買力の強化のために、最低限の生活必需品と最大限の快適性の保障という政策をネオヒューマニズムの観点からもおこなう。 そして、富の分配方法は必要性や福利にもとづいた合理的分配という方針の下でおこなう(プラウトの基本政策 の項で詳述)。

資本主義と共産主義の中央集権経済の問題点

サーカーによれば、「世界のほとんどの国は、資本主義国、共産主義国を問わず、経済的な中央集権政策をとってきました。資本主義諸国の経済は少数の資本家や少数の資本化団体に集権化し、共産主義諸国の経済は党に集権化しています。実は、中央集権化した経済においては経済的搾取を根絶することができず、一般の人々の経済問題を永久に解決できません」。

ここでサーカーが中央集権経済であるということの意味は、“地元の人々が経済政策の決定権を持たない”という点であるということ。また、中央集権経済が経済的搾取を根絶する事が出来ないということの意味は、“ある地域の人間が、別の地域の人間を利用し搾取する事”が無くならないからということである。 プラウトは“スピリチュアリティー(霊性的、精神的)で道徳的な哲学”を土台としている。

プラウトは、人間には“物理的な側面”と“知的な側面”と“霊的(精神的)な側面”があるとして、有限性(閉鎖系)のある物理的な側面よりも、無限性(開放系)のある知的な側面や霊的な側面を伴うことを考慮した人間社会が、真の人間の幸福(人間解放)や進歩をもたらすという人間観と社会観を持っている。

また、分権経済や均衡経済の考え方はその哲学であるプラマーを背景としている。(プラウトのスピリチュアルな哲学 の項で詳述)

プラウトのスピリチュアルな哲学
プラマー論


プラマーとは“平衡と均衡”を指し、大から小まで重層的にバランスのとれた三角状態の実現が宇宙の理にかなっているということである。

ブロックレベルから社会経済単位のレベルまで可能な限り自足的な経済にもっていくことは、小さなブロックレベルをバランスのとれた三角形として無数に作りつつ、同時にその上部の社会経済単位もバランスのとれた三角形にしていくということである。 そして最後には地球全体を無数の三角形を重層的に含む一つのバランスのとれた三角形にしていく、というのがプラマーのイメージである。 経済論だけではなく、心や精神の領域も、あらゆる領域でプラマーのある三角形を無数に作るということで、プラマーは静止的ではなく、絶えず動いている動的なものである。

サーカーの哲学では、始原の形質・属性のない純粋な根源にあるプルシャ(意識)にプラクリティー(力=エネルギー)が加わってこの大宇宙が展開する。

プラクリティー(Prakrti)には三つのグナ(形質・属性)がある。サットヴァグナ(明晰・平穏)、ラジョグナ(変化・興奮)、タモグナ(静止・鈍重)である。このグナが付与されているから天地万物として現れているのであって、微細なレベルから巨大なレベルまで三つのグナの形で力が働き続けている。

私たちが目を閉じて心を集中させようとしても、心が一点にとどまることがないのも、このプラクリティーという力の三形態が現れているからである。この三つのグナを心の池に例えるなら、池が澄み切って底まで見える状態がサットヴァグナ、嵐で池の表面が波立っている状態がラジョグナ、池の表面が凍って固まった状態がタモグナになる。

プラクリティーの力が働く時、この三つの属性全てが含まれているが、いずれかが優勢な形で影響していく。 プラクリティーのこの三つの属性による三方向の力が安定する時、プラマー(平衡と均衡)が成立する。 三方向のいずれかの力が勝る時、プラマーは崩れる。そして、プラマーを取り戻すエネルギーが働き、高次の三方向の力のバランスが回復し、またプラマー(平衡と均衡)の状態に戻るという、宇宙の意思が働いているというのがサーカーのプラマー論である。

ネオヒューマニズムの哲学と人類社会論

サーカーは、人間の理想のあり方としてヒューマニズムの理念が普及しているにもかかわらず、現実にはすべての階級、階層の人々に公平な扱いがなされてこなったと述べる。そして人類愛と生命の尊重を建前としているけれども実際には、心の内側は自国中心主義であり、人間以外の生命を軽視する思想となっていて、そのヒューマニズムはゆがめられていると指摘する。

サーカーは、このようなゆがめられたヒューマニズムをエセ・ヒューマニズムと呼ぶ。 そして本来のヒューマニズムの理念を継承し、それを極限まで拡大するネオ・ヒューマニズムを提起し、人類は、このネオ・ヒューマニズムの道を進むべきだと主張する。 サーカーの提起するネオ・ヒューマニズムは、現在のヒューマニズムの限界を乗り越え、人類を新たな知的心理的地平に導くものである。

サーカーは「あたらしい光のもとでヒューマニズムを再解釈しよう」と次のようにいう。 「ある人々が前進を開始した時、彼らは、自分たちのことをより考え、他の人々のことはあまり考えませんでした。ましてや動物や植物のことは考えませんでした。しかし、もし、私たちが冷静な頭で分析するならば、私の命が、私にとって大切であるように、他のものの命も、彼らにとっては同じように大切です。そして、もし、私たちがすべての生き物の命にふさわしい価値を与えないならば、その時、完全なヒューマニティ(人間性)の発達は不可能になります。もし、人々が自分個人のことについて、あるいは自分の小さな家族、自分のカースト、自分の氏族や部族についてより多く考え、集合体についてまったく考えないならば、それは明らかに有害です。同様に、もし、人々が、生命世界全体( 植物世界、動物世界) を軽視するならば、それは本当に有害なことではないでしょうか。私が、新しい光のもとでヒューマニティとヒューマニズムを解釈する必要があると言っているのはこういう理由からです。そしてこれの新しく解釈されたヒューマニズムは、この世界の貴重な宝となるでしょう」NEO-HUMANISM IS THE ULTIMATE SHELTER

ネオ・ヒューマニズムはユニヴァーサリズム(普遍主義)ともいう。ありとあらゆる存在への愛、ありとあらゆる存在と根源において一(oneness)であることの意識化、論理と理性によってあらゆるドグマやイズムから自らの知性を解放し、心を無限の広がりの中に確立することを目指す。一(oneness){ワンネス}であるというのは「万物の根源の一から分かれ無限の多が生まれた」という考えで、人類最古の哲学であるウパニシャッド哲学に発している。 サーカーの哲学では、大宇宙の根源にある意識すなわち精妙なる極小の存在が粗大化してこの物質世界のありとあらゆるものとして展開している。言い換えれば、精妙なる極小の存在が全宇宙の心であり、ありとあらゆるものが同一の全宇宙の心の顕現である。したがって、全宇宙の心に一体化した心からこの天地万物をみる時、あらゆるものは同じように大切であり、尊重されるべき存在となるのである。

また、サーカーはこのような哲学による人類の統一を目指しつつも、人類社会には決して一方が他方に押し付けてはならない正当に考慮されるべき相違があることも述べ、宗教的や文化的な違いなどからくる、食物(イスラム教徒の豚肉が食べられない等)、服装(イスラム教徒やアラブ女性の体を覆う服装等)、言語などを挙げている。


プラウトの基本政策
分権経済


分権経済は、プラウト政策全体に通じての考え方である。

中央集権経済の問題点に対して、経済の分権化を目指そうとするもので、サーカーは分権経済に次の5原則を挙げている。

「分権経済の原則は、第一に社会経済単位のすべての資産・資源がその地域の人々によって支配されるべきであること。第二に、生産はに基づいてなされるべきであること。第三に、生産と分配が協同組合を通じて組織されること。第四に、地域の人々が地域の経済的な経営体で雇用されなければならないこと。第五に、その地域外で生産された商品は地域市場から取り除くべきこと」。

ここでサーカーがいう、“社会経済単位”というのは、単純に一国として括る単位のことではなく、経済的な問題の共通性、地理的な特徴の共通性、民族・言語・慣習・文化などの共通性も考慮に入れた単位であることである。具体的には例えば、日本のようにこのような共通性が大きくまとまっていて、国の面積も小さい地域は一国単位で考え、面積の大きな国、インドなどはこのような共通性を考慮して分けられた国内の各地域(州単位に近い)にそれぞれ社会経済単位を確立するというような方向性である。

そして、サーカーは、この社会経済単位のためのブロックレベルの経済計画が必要であるとも述べている。 これは、“市場経済の良い部分を取り入れた、ボトムアップ(下位上達、水平協働)型の経済計画”と言えるもので、いわゆる旧共産主義国(ソ連)型の市場経済を排除した国家独裁中央集権的計画経済とは違うものである。 それは、商品価格の決定といったミクロ経済の処理はその社会経済単位の市場に委ね、マクロ経済の経済計画を中心に、この社会経済単位に一つかもしくは、社会経済単位の中のさらに下位の狭い地域のブロックを設けて、それを最小ブロックとして経済計画し、この社会経済単位を超えた範囲や観点の経済計画については、上位のブロックの経済計画(国単位や地域諸国連合単位など)で調整し、一番上位では世界(地球)連邦政府単位でも調整するということである。

また、科学的にも、サーカーのプラマー論から発する分権経済で提起される、ボトムアップ(下意上達、水平協働)というシステムは、地球の生態系や生物などの有機的なシステムをモデルとしたもので、それらを研究対象とする新しい複雑系の科学が、従来の機械論哲学から発したトップダウン(上意下達、中央集権)システムよりも、下部の意思の全体への反映や、情報処理の能力向上や、状況に適じて組織自身が柔軟に自己変成できるという意味で、優れているということを明らかにしてきている。 このような新しいボトムアップシステムが社会の組織に応用されると、個人の意思(個性)が反映されることで、個人が組織の「歯車」として抑圧されるということがなくなり、個人の力によって状況に応じて社会組織自体も柔軟に自己変革するという社会にできる可能性がある。

均衡経済

均衡経済も、プラウト政策全体に通じての考え方である。

それは、需要と供給のバランスのとれた経済を目指すということで、産業別の人口構成をバランスのとれた適切な割合するということや、赤字や黒字にかたよらないバランスのとれた国の財政や貿易などを目指し、それによって分散多様化された経済を目指すということである。 まず、バトラは「分散多様化」という視点で均衡経済を述べている。 例えば、慎重な投資家は一つのカゴに全ての玉子(資産)を入れるようなことはしない。なぜなら、そのカゴが落ちれば一度に全ての玉子が割れてしまうからである。その代わり、彼らは多様なカゴ(運用先)に投資して、玉子(資産)を振り分けておくことで、リスクを最小限にとどめるのである。

均衡経済の背後にある概念もこれと同様で、分散多様化された経済は、特化された経済よりも安定し、不況や恐慌を懸念せずにすむことになる。経済の分散多様化は、資源をいくつかの主要な部門に分散させること(ある産業に偏らずに、全ての産業をバランスよく存在させること)で、その国が諸外国に頼ることなく、食料・工業製品・建築資材などの必要分を自国生産で満たすことができれば、経済は分散され均衡しているといえる。ただし、日本や韓国やドイツのような原材料が不足する国や、中東などの肥沃な土地がほとんどない国は、輸出とそれに関する業務が、第一次産業の必要量に見合うことで均衡しているとみなすことができる。

そして、企業が製品の生産に際し原材料費に加えた価値である付加価値は、第一次産業はもっとも低く、第二次産業はもっとも高く、第三次産業も比較的低いという。 第一次産業の農業・酪農・漁業などの付加価値が低い理由は、食品への需要は物理的な必要量によって限定されるからで、消費者の所得が増えても高価な食品の購入を増やすなどでしか消費を増やさない。(この点は逆に、消費者は所得が減っても高価な食品しか消費を減らせないので、不況に強いという特徴もある) しかし、第二次産業の製造業(特に耐久消費財)は、消費者の所得が増えれば、高価な電化製品や高級車や住宅といったそれらのものを、まず始めに買い換えていく(この点は逆に、消費者は所得が減ると、まず始めにこれらのものを買い控えていくという、不況に弱いという特徴)ので、付加価値が高い。 そして、第三次産業のサービス業などは、継続的な技術革新が難しいため付加価値も低くなりがちで、レストラン・ホテル・航空会社・バス・鉄道・保険会社・銀行・教育・法定業務・小売業などにおいては生産性向上に限界があるからである。

一見、第二次産業の製造業といった高付加価値産業ばかりに生産を特化すれば、賃金の上昇で国民所得が上がると思いがちだが、実際はだからといって世界の国々がそれぞれ自国の内需以上に製造業で商品を生産し始めれば、その内需以上の余剰生産分を買ってくれる国(市場)は無くなり、余剰生産の資本投下分は無駄となり、結局は賃金(国民所得)の低下を引き起こし、作りすぎた商品は即ゴミになるという馬鹿げた事態を引き起こし、大いなる資源の無駄使いと地球環境破壊の加速を引き起こすことになる。 実例では、日本とアメリカの自動車産業の余剰生産状況が当てはまる。自動車の日本の年間生産台数は1千万台、アメリカでは1千8百万台であるのに対し、両国の自動車需要は2千万台にすぎない。この余剰生産8百万台分が両国の賃金の伸び悩みを引き起こしてきたという事が挙げられる。 だから、結局は第一次産業、第三次産業といった産業とがうまくミックスした均衡のとれた分散多様化した経済が一番、賃金(国民所得)の上昇をもたらすのだとバトラはいう。

最低限の生活必需品と最大限の快適性の保障

プラウトは、人々が霊性的、精神的、物理的に成長するための一定のニーズが満たされていなければならないと考える。 プラウトはこれを、人々が社会の総体的な発展に寄与するために必要な基本的なブロックとみなしている。

地域の政府が100%の雇用を保証していて、現実的に、各基本的な必需品の提案された最小限の量の購入のために十分な資金を提供した最低賃金によって、これに伴っていたならば、誰もが、それらの基本的な必需品を購入することができる。 人々を生産的な雇用に置くことによって、プラウトは人々の自信とやる気を起こさせる事を目指している。

プラウトは、本当に働くことができない人々に分配されるための福祉小切手を考慮する。地域の政府は、適用可能なそれらの正確な資格を、福祉小切手を受け取ると決定することについて責任がある。

合理的分配

合理的分配とは、特にバトラが著書などで提起しているプラウト政策の観点である。 

国民総所得を分割する際、誰でも自由に好きなだけ持てる者は持てるだけ持てるという貧富の差の拡大を野放しにするような不平等な分配や、それとは反対の、勤勉かどうかにかかわらずみんな均一に平等に分配するといった完全な平等(悪平等)分配とは違い、一人一人が最低限必要な衣・食・住・教育・医療を十分まかなえるだけの所得が分配されるべきである、という考え方で、政府はこのレベルの維持に必要な所得額をしっかり計算し、その根拠に基づいて法定最低賃金を設定すべきであるとしている。(必要性に基づいた分配) そして、勤労者の労働力の価値や質や努力の高低に応じた報酬額の変化という意味での賃金の差の存在はむしろ好ましいが、その根拠とは無関係な、その本質が資本家搾取的な動機に基づくものでしかないものによって作り出された極端な賃金格差(例えばアメリカでの企業に見られる、平社員と社長との間の甚だしい賃金格差のような)の存在は無くすような政策を取るべきであるとし、バトラは、その最低賃金と最高賃金の差の適正レベルは、人間の脳が通常では10%程しか使っていないということを例にとって、10倍ぐらいが好ましいのではないか?と提言している。

これは「機会均等」の観点の政策でもあり、バトラは次のように述べる。「プラウトは平等の名のもとに、怠け者を擁護する思想ではありません。働かない人間でも社会保障によって生活ができるというのは、経済的民主主義とはいえません。この点では北欧型の社会福祉国家とは違います。プラウト社会では、勤労が奨励されます。そのためには、より多く働いたものがより多くの報酬を得る経済でなければなりません。共産主義はそこを間違えました。しかしだからといって、完全な自由を認めて富裕者が好きなだけ暴利を貪ることが許される社会であってはなりません。資本主義の問題はこの点にあります

「プラウト経済にとって何よりも必要なことは、法律がキチンと守られることです。税制が良い例でしょう。世界各国の富裕者の中で、所得税法や相続税法を完全に守っている人物はほとんどいないでしょう。法律の抜け穴を見つけ出しては、脱税や節税に励んでいるのが現状です。むしろ、税金を法の規定どおりに払わなかったからこそ、彼らの多くは富裕者になりえたのです。納税を逃れるために、一部の富裕者は政治家を利用することすらやっています。これが富裕者の支配の実態なのです

バトラは、累進課税制度もプラウトとして引継いで行われるべき政策であるとも述べている。

バブル金融投機経済化の防止 (生産性の上昇に等しい賃金上昇を伴わせる経済政策)

バトラは、「生産性と賃金上昇の相関」にバブル発生・崩壊のメカニズムがあると分析している。

まず、需要と供給が均衡するためには、(1)生産性の向上によって賃金が上昇するか、または、(2)賃金上昇が鈍い場合には、政府が借入金によって「人工的な購買力」による需要を創出し、その差を補う、の二つの方法しかない。 これが「低賃金=需要不足=借入金経済」となり、政府や自治体の借入金はどんどん増加することになる。

この「借入金経済」に陥ることがバブルの危険信号で、労働者の購買力が低い段階で、経済が少し活況を呈してくると、企業の利益が急上昇する。企業収入が増えるが「賃金という支出」はすぐには増やすことが出来ないからである。すると、企業には資金は潤沢に集まるので、余剰資金が株式市場などにどんどん流れ込む。こうなると経済は、そこそこ活況で株にも買いが入るので、実体経済以上に株価が高騰しはじめる。これがバブルにつながり、いつかは破綻すると指摘している。

そこでバトラは「生産性に見合った賃金の上昇」がプラウト政策としても重要であると述べている。 バトラは、かつて1950~1970年代前半までの日本経済はまさにこのようなプラウト的政策が採用されていたと述べる。 この時期は、生産性の指標としての国内総生産(GDP)の伸びに対する税引き後の実質賃金の伸びが平均して70%程度に追いついていた。

しかし、1970年代後半~1993年までは国内総生産の伸びも鈍化する中で、税引き後の実質賃金の伸びもそれ以上にかなり鈍化し足踏み状態になっているという。 この、税引き後の実質賃金の伸びに行くべき生産性(国内総生産)の伸びはどこに消えたかというと、この時期の租税負担率が約54%上昇したことによって消え、残りの約46%が資本や不動産の所有者に高い利潤と賃貸料という形を取って入ったとする。(労働者の賃金上昇に回るべき国の富の一部が、資本や不動産の所有者{資本家}に投機的投資活動を通じてその富が奪われたということを意味する)

その原因として、この時期、以前のプラウト的政策はだんだんと放棄され、(特に日本のバブル経済期)は土地不動産への投機(土地転がし)は、株式の投機的運用を通して、ひとつ上の段階へとその激しさを増していき、銀行への規制は撤廃され、それが銀行のコストを押し上げ、ハイリスク・ハイリターン(危険性は高いがその見返りも高い)投機目的の貸し出しに、銀行自体手を染めざるをえなくなった。政府が金融機関に対するコントロールを緩めてしまった為に、実に多くの資本がこの時期に無駄になってしまったと言うのである。

現在の世界経済の状況は、かつての1929年の世界大恐慌に匹敵する、100年に一度の金融危機だと言われているが、 「そもそも、商業銀行(普通銀行)と投資銀行(証券)業務が切り離されたのは、この世界大恐慌がきっかけだった。20世紀に入って産業と金融が発達してくる中で、金融資本は自分達の利益だけを考えた際限のない「投機」を繰り返して膨張し始め、銀行業務と証券業務が一体となることで「不正な投機的取引」が日常的に行われ、それがバブルとなって崩壊したのが1929年10月24日「暗黒の木曜日」以降の株式大暴落、世界大恐慌だった。 その後、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、金融システムの抜本的改革を行った。その手法は、投機的な証券取引を行う人々をマーケットから排除して、投機筋に代わって政府が金融の中心機能を担うというものである。それまで一体だった商業銀行と投資銀行を分離し、商業銀行は個人や企業への貸付中心の金融業務を中心に、投資銀行は証券業務を中心にと厳密に区分けした。そして証券取引法などを新たに整備し、証券取引委員会(SEC)を設立、投機的な取引が出来ないシステムを構築した。 この時、厳しく分離された銀行業務と証券業務の垣根が、市場原理主義の台頭によって1970年代以降、次第に自由化され、最終的には、今回のサブプライム問題とそれに連鎖するあらゆる金融商品の矛盾の爆発によって、一気に世界の金融が崩壊した、というのが今日の状況だ」とバトラは指摘する。

プラウトは、このような金融投機経済の拡大膨張を否定する。それは、まっとうな労働による報酬としての賃金の減少とそれを供給する実体経済を縮小させ、賃金として供給されるべき富の一部が投機の資本として利用され、投機によって儲けた道徳性の無い富が拡大し、それに関わる資本家だけが裕福となって激しい貧富の差を生み、労働者が報われない道徳性の無い経済社会であるからである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%AD%A9%E7%9A%84%E6%B4%BB%E7%94%A8%E7%90%86%E8%AB%96
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