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ゴベクリ・テペの謎とそれからの私達へのメッセージ

The Mystery of Göbekli Tepe and Its Message to Us
ゴベクリ・テペの謎とそれからの私達へのメッセージ
http://www.wakingtimes.com/2013/05/24/the-mystery-of-gobekli-tepe-and-its-message-to-us/


by Robert M. Schoch, Ph.D.
ロバート M.シァック博士

1万年、またはそれ以上前に、私達の先祖はどんな風だったでしょう?一般的に考えられているイメージだと、次の食事を探すために放浪し続ける、小規模の部族とか、一族的なものでしょう。男性陣が狩りや漁に出る間、女性陣や子供達は、果物や、種や、山菜や根菜、昆虫や、その他の食糧をまかなったと考えられるでしょう。

当時の科学技術の最先端は、鋭くされた石のナイフや、槍の先の様な石器で、編まれた網や籠、そして縄なども良く使われていたでしょう。そういう小規模な集団は、一つの場所に長く滞在しなかったので、半永続的な構造物は不必要だったのでしょう。常に移動する生活なので、物質的な持ち物の量にも限度があったでしょう。(恐らくビーズや、動物の歯や、丈夫なコードに結ばれた貝殻などの)装飾品や、(体に塗る塗量や入れ墨といった)飾りは重宝されたでしょう。(氷河期時代の)より低温な気候では、動物の革が適切な服として応用されたでしょう。社会組織的な構造は、最小限だったでしょう。1万年位前の新石器時代の革命とも言える、農業と酪農の開始までは。この食料調達の進歩によって、人が定住する事が可能に成り、職業の多様化・専門化が進み、(土器や金属器を含む)工業生産が発達し、大規模な構造物の建築や、長距離の貿易が発展し、ゆっくりですが確実な、社会の複雑化へと、進化したと考えられるでしょう。

これらは一晩で起こった事ではありません。それは何千年もかかり、繊細な装飾をされた工芸品や、記述された記録や、天文の科学的な観測や、複雑な政治的な組織や、巨石構造物のプロジェクトなどが現れたのは、紀元前4,000年から3,000年にかけての事です。このレベルの進歩は、紀元前3,000年前後に、メソポタミアと、エジプトと、インドで達成されました。良く知られている例が、紀元前3200から3100年に現れたエジプト王朝国家で、紀元前2630年と年代測定された Djoser ピラミッドの建設に体現されています。イングランドのストーンヘンジもまた、同時期のものとされています。

これらは多くの人に教義として受け入れられていますが、このナイスで整頓されたシナリオは、完全に間違っているのかも知れません。

受け入れられている歴史(通説)を疑う

1991年に遡りますが、私にはエジプトのスフィンクスが、通常信じられている紀元前2500年ではなく、実際には紀元前7000年から5000年、もしくは更にそれより古く起因すると公表する無鉄砲さがありました。

私の発表は、1991年10月のアメリカ地質学会の年度会合で成されました(これは正式な概要が、私の同僚のジョン・アンソニー・ウエストと共に提出され、肯定的なピア・リヴューを元に受け入れられました)。私は科学的な分析を駆使し、スフィンクス周辺の風化の過程を、古代エジプトの気候的な歴史と比較しました。

単刀直入に言いますと、スフィンクスは過去5000年間、とても乾燥したサハラ砂漠の淵に位置していますが、それ自体には、雨によって原因された、風化の痕が見られるのです。元々の構造は、ですから、紀元前3000年よりも何千年も前に起因しなければなりません(スフィンクスの頭部は、エジプト王朝期に再彫刻されたはずです)。

私は、この世界で最も認識されているとも言えるスフィンクスの建設を、人類が狩猟形式の生活モードから、定住形式に移行していたであろう時代まで、押し下げたのです。7000年前、もしくはそれ以前の人々は、現在の文明化された基準に比べると、野蛮で不快だったとされています。確かに、彼等は巨大な像を、固い石灰岩の岩盤から刻み出していたりはしませんでした(スフィンクスは体長約70メートルで、その高さは約20メートルです)。スフィンクスは、もっと、もっと古いと云う、私の発表の直後、私は攻撃の下にありました。(バークリーのカリフォルニア大学の)考古学者キャロル・レッドモントは、メディアで「それが事実であるわけがない。」と言いました。その記事は続いて、「その地域の人達は、クフ王の統治の何千年も以前に、その様な構造を建設する意識も、それを出来る科学技術も、政府的な統治組織も、持ってはいませんでした、」と言いました。

当初の大騒ぎは、1992年2月の、シカゴでの科学発展のためのアメリカン・アソシエーションの会合で、絶頂に達しました。ニューヨーク・タイムズ紙の言葉を借りると、「議論は1時間続いたが、ニュースの会見と、その後の廊下での会話に持ち越され、声は高らげられ、科学学会的な礼儀の、氷冷めた淵の上を、スケート(滑って)していた。」と言われました。エジプト学者のマーク・リーナーは、スフィンクスがより遥かに古いという観念を、受け入れる事が出来ず、私を個人的に攻撃して、私の調査を「似非科学」というレッテルを貼りました。リーナーの言い分は、「もしスフィンクスが、それより昔の文化に建てられたのなら、その文明の証拠は何処にある?土器の破片は何処にある?その時代の人々は、狩猟社会であって、町など構築しなかった、」と云うものでした。

当時の私には、土器の欠片はありませんでした。ですが、私は自分の科学が確かだと信じ、そして私は個人の見解を貫きました。あれから20年が経ちましたが、私達には土器の欠片よりも遥かに良いものがあり、それは私の紀元前7000年から5000年前という保守的な見積もりよりも更に古いものでした(私は現在、その見積もりの古い方の時代、もしくは更にそれより古い時代ではないかと思っています)。ゴベクリ・テペ(トルコ)は1万年前より古いです。

ゴベクリ・テぺの遺跡
1gobeklitepe.jpg


土器の欠片より良い

ゴベクリ・テペの遺跡は、トルコ南部のハラン高原北の、山の上にあり、ウルファ(またはSanlıurfa)から短距離の運転の位置にあります。ドイツ考古学インスティチュートのクラウス・シュミット教授は、1995年より、その遺跡の発掘を続けています。つい最近、私自身もその遺跡を訪れました。私は驚かされてしまいました。

ゴベクリ・テペの遺跡には、巧妙に彫刻を施され、装飾された、巨大なT型の柱が立っており、それらの高さは2メートルから5.5メートルで、重さは推測10トンから15トンとされる、ストーンヘンジの様なサークルで構成されています。その加工技術は驚くべきもので、その鮮明で鋭い角は、現代の石工でさえ、誇りに思う程でしょう。言い古されているかも知れませんが、私は1968年のクラシック映画、2001:スペース・オデッセイを重い起こさずにはいられませんでした。猿に似た原人の集団が、一つの巨石を発見し、それに影響され、道具を使う事を学び、それが文明に繋がったという場面です。

ゴベクリ・テペの様々な柱は、狐、猪、蛇、野生の牛、中東アジアのロバ、野生の羊、鳥(鶴とハゲ鷲)、ガゼル、そして節足動物(蠍と蟻)の立体肖像が装飾されています。その彫刻は巧妙で、複雑で、美しく施されています。それらが立体肖像であるだけでは無く、丸みがかった肉食動物が、恐らくライオンか、その他のネコ科の野獣だと推測されますが、それらの立体肖像を明らかに、今、正にその柱を辿って襲おうかの如く、彫刻されています。その丸みがかったライオンや、猪の立体肖像は、発掘され、ウルファで発掘され、ゴベクリ・テペと同時代とされる、等身大の人の像と共に、Sanlıurfaの博物館で保存されています。

加えて、ゴベクリ・テペから発掘されたのは、完璧に穴をあけられたビーズです。そして、シュミット教授によると、石柱の幾らかは、地元の地盤に直接建てられていますが、その他はコンクリート、もしくはテラゾの様な、土台に建てられていると言います。その加工技術のスタイルや質を見ると、人は簡単にそれが紀元前300年から1000年のものと思いがちです。どれだけの大きな間違いでしょうか!炭素14の測定に基づいた年代測定の分析によると、この遺跡は紀元前1万年から9000年のもので、そしてそれは紀元前8000年頃に、意図的に埋められた様です。つまり、それはこの遺跡が驚く事に、1万年から1万2000年前のものだという事です!

多くの学者達によると、これは野蛮で、放浪的で、狩猟採集的な時代で、ゴベクリ・テペで発見された様な建築構造を、建てる技術も、統治政府的な組織も無かったと主張される時代のものです。明らかに、一般的に知られる、歴史や、考古学が、今まで教えてきたものと、現場のはっきりとした証拠の間には分離があるようです。

スタンフード大学の代表的な考古学者として、イアン・ホダーはコメントしました。ゴベクリ・テペは、「信じられない程大きく、驚きで、馬鹿げた程古い時代で・・・巨石群とその素晴らしく洗練された芸術があり・・・多くの人が、これが全てを覆すと考えるだろう・・・それはリンゴの箱全体をひっくり返します。私達の論説の、全てが間違いでしょう。」私によるスフィンクスの建設起源の再設定と同様に、ゴベクリ・テペは私達に、私達の古代を考え直す事を強います。

そして私のスフィンクスの調査同様に、専門家達は、ゴベクリ・テペに困惑させられています。パトリック・シムズはニューズウィーク誌にこう書きました。「ゴベクリ・テペの遺跡が殆ど世間に知られておらず、教科書にも載っていない本当の理由は、その証拠が強すぎるためで、弱いからではなく、ジョン・ホプキンス大学のグレン・シュワーツが言う様に「この発見の問題は、それが特別」である事にあります。それ以外に、同年代の遺跡は一つも発見されていません。ゴベクリ・テペ以前の時代では、人々は洞窟の壁に棒の様な人の絵を描き、粘土を小さな人型の像にして、住むためか、崇拝するためか、石を積み上げる程度でした。ゴベクリ・テペの後の時代でさえ、複雑な建築技術の証拠は殆どありません。」

言ってしまえば、私達には、紀元前1万年から8000年頃の、高度な文化と、文明の証拠がありますが、その後は、明らかな衰退、または停滞があり、メソポタミアやエジプト、そしてその他の地で文明が再び花開くまで、数千年かかったのです。何が起こったのでしょう?

ゴベクリ・テペにおける 歳差運動(プリセッション)の記録

文明の太鼓判(証明)は、正確で、科学的な、観測技術です。天文学は通常、最も早期の複雑な科学と考えられます。特融で微妙な天文学的な現象は、その発見は通常紀元前2世紀の、ロード(地名)のヒパルカスのものとされますが、赤道座標系に相対的な、星々のゆっくりとした動きです。これは通常、イクイノックス(春秋分点)の歳差運動(プリセッション)と呼ばれているものです。それぞれの星が、各自の「出発点」へ、天空を一周して元に戻るまで26,000年弱かかります。研究家の幾人かは、古代エジプト人にもこの知識があり、そしてそれは世界各地の神話にも反映されているといいます。無論、その様な主張に反論する人もいます。私はゴベクリ・テペにおいて、歳差運動(の知識)の証拠を発見し、それはこの重要な遺跡にもう一層の高度さ・匠さを加えると考えています。

ゴベクリ・テペの既に発掘されている部分は、南の空に面した丘の南側の斜面にあります。今の処、40メートルかける40メートルと測定されるエリアから、4つの巨石サークルの殆どが発掘されています。少し後の時代の、多少小さめの柱と構造が、其処のサークルの主要なエリアから20、30メートル北で、80メートル西で、部分的に発掘され、18個かそれ以上のサークルが、未だに埋まっている事が(レーダー)調査で分かっています。エンクロージャー(囲み)D は更に北に位置します。その南東には囲み C があり、囲み D の南には囲み B 、そして最後に囲み A があります。これらの囲みはお互いに近く、殆ど隣接しています。それぞれの囲みには、一対の平行する中央の柱があり、多少短めの柱がそれらの周りを囲んでいて、後の(時代の)ものと思われる石の壁が、柱の間にあります。もしこれらの囲いが、ある時点で(屋根で)覆われていたとすると、それらは上部から入場されていたのかも知れません。事実、屋根にセットされていたと思われる、石に刻まれた「ポータル」の跡も発見されています。

中央部分の一対の柱は、一般的に南西に位置付けられていて、あたかも空に向かって観るための、チューブを形成している様です。囲み D の中央の柱には、手と腕があり、その手はお腹、またはヘソの部分を抱えていて、その人を模した柱が、南を向いているのは明らかです。しかしながら、その方向性は囲み毎に違っている様です。囲み D の中央の柱は、東から南へ約7度、偏っています。囲み C、B、そして A については、それぞれ、東から南約13度、東から南約20度、そして東から南約35度、偏っています。これらの異なった角度は、それを建設した人達が、星々の動きを観測していて、何百年もかけながら、星または星雲が、徐々に東に向かって移動する毎に、新たな囲みを建設していった事を暗示しています。

その建設者達は何を観測していたのでしょう?これは難しい問ですが、私達は説を立てる事が出来ます。紀元前一万年の春分の日(3月21日)の朝、ゴベクリ・テペの東に日が昇る前に、プレアデス(昴)と、牡牛座と、オリオン座の上の部分が、囲み D の中央の柱に指し示される方向で観られたはずで、朝日が顔を出す瞬間に、(その地点の最良の位置から見ると)、オリオンのベルトは地平線のすぐ上から遠くなかったかも知れません。同様なシナリオが演じられたと考えると、囲み C の中央の柱は、紀元前9500年の空、囲み B の中央の柱は、紀元前9000年の空、そして囲み A の中央の柱は、紀元前8500年の、春分の日の朝の空の、プレアデス、牡牛座、そしてオリオンに対応している様に考えられますが、歳差運動の御蔭で、オリオンのベルト全体は、朝日が昇る前に地平線より高くはなかったでしょう。紀元前約8150年頃には既に、オリオンのベルトは朝日が昇る時は地平線の下になっていたでしょう。これらの日付は、炭素14の分析に基づいたゴベクリ・テペの年代設定の時間的な枠に照合します。

春分は簡単に観測され、記録される事ができ、歴史が始まった頃から、重要な印とされ、お祭りで祝われてきました。多くのカレンダーにおいて、それは一年の始まりを意味していて、そしてそれは宇宙的な創造の逸話に結びつけられています。私はこれらの伝統がゴベクリ・テペ、そしてそれより前の時代まで遡るのではないかと考えています。

ヨーロッパや中東において、夜空のオリオンや牡牛座のあたりは、太古の人々によって、何千年もの間、注目されてきた処です。此処に位置するのはオリオンのベルトの三ツ星と(牡牛座の)ヒアデス星団、更にはプレアデスもあります。マイケル・Rappenglueck、フランク・エッジ、そしてルッツ・アンテクエラ・コングリガードといった研究者は、16,500年前に描かれたとされる、フランスの Lascaux の(洞窟の)壁画の中に、牡牛座とプレアデスを確認しています。加えて、Rappenglueck は、ドイツで発見された、少なくとも32,500年前の、マンモスの象牙製の、小さなタブレットに刻まれたものには、オリオン座の親しまれている、両手足を伸ばした、腰の細い男性が、描かれていると強調しています。

この様な証拠を踏まえても、ゴベクリ・テペの人々がオリオンを、人型と認識した、もしくは狩人として認識したと言っても考えすぎではないでしょう。ゴベクリ・テペの発掘中に発見された動物の骨(ガゼル、野生の牛、野生のロバ、狐、野生の羊/山羊の一種、そして猪)と、柱に装飾された動物を考えても、狩猟社会を暗示していると考えられます。実際に、囲み D の人型の柱を調べてみると、それは抽象的にオリオンを表しているのかも知れません。それらに腕があるだけでなく(それらはオリオンの腕が下げられたと解釈する事も出来るし)、そしてはっきりとしたベルトは、オリオンのベルトかも知れないし、狐の毛皮で表されている腰布は、オリオン星雲と、それに関する特徴を表しているのかも知れません。

ゴベクリ・テペの人々が、春分の日の朝に、オリオンと、牡牛座と、プレアデスを観測していたという私の提案は、ただの一説でしかありません。もし彼等が星々を観測していたとしたら(例えば太陽に対して)、歳差運動による変化のために、数百年毎に、観測地点を調整しなければならなかったでしょう。そしてもしかすると、彼等は太陽や、月や、惑星や、星々だけを観測していたのではなかったかも知れません。

ゴベクリ・テペ、イースター島、そしてプラズマ・コネクション

ゴベクリ・テペを訪れた(2010年5月)が、イースター島から帰った直ぐ後(2010年1月)だったので、私はそれら2つの間の、図像的な多くの共通点に驚かされました。私はこれらの共通点が本物だと信じますが、もし続けてそれらの場所を訪れていなかったら、私はそれを見逃していたかも知れません。更に、イースター島とゴベクリ・テペの両方が、先の氷河期の終わりに空で起こった、強力なプラズマ的な出来事に関係しているかも知れません。

イースター島の目立つ特徴はモアイ像で、それらの巨石で出来た頭と胴体は、その島で点々としています。ゴベクリ・テペに関しては、石の柱がその風景を圧倒します。驚く事に、モアイと、ゴベクリ・テペの囲み D の人間型の中央の柱の、両方に手と腕があり、体に対して同じ様に位置付けられていて、その手と指はお腹とヘソに向けて伸ばされています。モアイは空を見上げていて、そして私が信じるにゴベクリ・テペの柱もまた空に向かって見つめています。あれらは同じ現象を観ていたのでしょうか?

私が以前に考察した様に、イースター島土着のロンゴロンゴの逸話は、氷河期時代の終わりの、何千年も前の空で起こった、大きなプラズマ的な出来事を記録しているのかも知れません。プラズマは電気的にチャージされた粒子で構成されています。親しみのある今日の地球上のプラズマ現象は、雷とオーロラ、北極光と南極光です。過去において、太陽からの莫大なコロナの発散や、その他の天体からの発散から、もっと強力なプラズマ的な出来事が起こったのかも知れません。強力なプラズマ現象は、強い電気的な放電が地球を打つ原因に成る事ができ、惑星の表面の物質を焼き尽くす事が出来ます。

オーロラ
オーロラ


ロス・アラモスのプラズマ物理学者、アンソニー L.ぺラットと、彼の同僚は、世界各地に残されたペトログリフ(岩などに刻まれた象形図)は、先史時代に起こった強力なプラズマ的な出来事を記録していると確立しました。空で観測された強力なプラズマ現象は、人の形や、鳥頭の人型や、輪、またはドーナッツ型の組み合わせや、クネクネする蛇、または龍の様な、特徴的な形をしていて、それらは古代のペトログリフに投影されているとぺラットは確定しました。プラズマ的な出来事は、イースター島の太古の伝承の中に見られる、圧倒的テーマなのかも知れません。同様に、ゴベクリ・テペを理解するには、プラズマは重要なのかも知れません。

ペトログリフとプラズマ
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ゴベクリ・テペの不可解で困惑させられる要素の一つは、それがただ単に放置され忘れ去られたのではなく、紀元前8000年頃に意図的に埋められたという事です。更に、それが最終的に埋められる前に、細かく細工された柱の間に、石の壁が建てられました。これらの壁は至る所で、細かい立体彫刻の細工を覆って埋まっているので、私はこれが明らかに、二次的なものだと考えています。それらは柱より、もっと粗末な出来です。加えて、柱の幾つかは一度倒れて、壊れてしまったものもあり、壁が建てられる際に、引き続き再び立て直されたようです。幾つかの場合では、壊れた柱の土台が無くなっているか、積み上げられた石によって、正しい高さにセットされた、壊れた上部の下に、平行的に横たわっているかしています。この(使用の)遅い段階において、柱と壁の上には屋根があったかも知れません。

イースター島の不思議な事の一つに、細い入口のついた、低く設定された、頑丈で、分厚い石の壁で出来た、建物がありますが、防空壕か、えんぺい壕のようです。イースター島のこれらの石造りの「家」は、ゴベクリ・テペの、壁と柱で形成された構造と、良く似ています。それらは、両方のケースで、プラズマ放電の様な、空からの放射現象の一種に対する防御だったのでしょうか?

それらがお互いに、距離的に地球の正反対に位置している事だけで無く、それらはまた、何千年もの時(ゴベクリ・テペは紀元前8000年以前で、一般的に知られている年代表によると、イースター島に人が住む様になったのはたった1500年前とされている)によって分離されている事から、これらの2つを比較する事を、批判する人はいるかも知れません。それへの反論として、私は、私達は本当に何時、イースター島に人が最初に渡り住んだかを、知っているのかを問いたいのです。たとえ現在するイースター島の伝承や建造物などが、比較的に最近のものであったとしても、それらが強力なプラズマ放電の時代に遡り、現在の住人とは、異なった起源を持っていたかも知れない住人の、以前の伝統やスタイルを反映しているのかも知れません。ロンゴロンゴのタブレットは、何度も、何度もコピーされながら、慎重に太古の記録を保存してきたのかも知れません。

丁度、私がイースター島のロンゴロンゴが、太古の空のプラズマ的な出来事を記録していると論じた様に、ゴベクリ・テペに見られる特有の、刻まれたモチーフもまた、それを表現しているのかも知れません。ぺラットは、世界中のペトログリフに見られる、鳥人間とプラズマ現象の関係を指摘しました。イースター島で私達は、鳥人間ペテログリフと同時に、ロンゴロンゴ・ペテログリフの中の、鳥人間と鳥の象徴を見る事が出来ます。ゴベクリ・テペでは、とても良く似た鳥形状が、柱の一つに刻まれています。プラズマ現象の多くは蛇の容姿と解釈出来る見え方をすると、ぺラットは記述しています。ゴベクリ・テペの柱には蛇のイメージが溢れており、柱の隅を建て上下にくねっているのが見られます。これらが巨大なプラズマの稲妻を、表しているというのはあり得ないでしょうか?

後世のために埋められた

ゆっくりと一つに揃えられた証拠を元にすると、太古の時代に巨大なプラズマ的な出来事、または何度かの出来事が起こった様に現れます。以前の記事で(New Dawn 121参照)私は紀元前9700年の、巨大なプラズマ的な出来事が、先の氷河期の終わりをもたらす助けに成ったと仮定しました。もしゴベクリ・テペの、炭素14に基づく、紀元前一万年から8000年という年代が正しいなら、最初に建てられたストーン・サークルは、この紀元前9700年のプラズマ的な出来事への反応として始められたのかも知れません。

そのプラズマ的な出来事は、ゴベクリ・テペの複合遺跡が面している方角である、南から起因していると観測されたのでしょう。プラズマ的な出来事が数世紀に渡って起こり続けたとしたら、ゴベクリ・テペにおける - 石の壁や更なるストーン・サークルなどの - 後からの手の加えと、上手く関連するかも知れません。究極的には、ゴベクリ・テペの人々にとってそのプラズマは、耐えるに耐え難いものとなって、そして彼等は其処を手放したが、それは、丁寧にそれを砂で覆い隠した後の事でした。彼等の意図が、空が落ち着けば戻って来るというものだったのか、それとも彼等の建てたものを後世に残すためだったのかは、私達には解りません。

ゴベクリ・テペで何が起こったのでしょう?当時の人々は何をしていたのでしょう?彼等が経験していたものは何でしょう?彼等は何故、彼等の創造物を埋めて立ち去ったのでしょう?彼等は何処へ行ったのでしょう?これらは単純な学術的な問い以上のものでしょう。ゴベクリ・テペの人々は何か劇的な事を経験して、それが遥かに重大であったからこそ、1万年以上も残るように「石の記録」に、その記憶を残さなければいけないと感じたのではないかと、私は考えています。彼等は私達のためにメッセージ、もしくは警告を残すために、莫大な資源を消費したのかも知れません。その覆いを完全に取り払って、彼等が言わんとした事の暗号を解くのは今です。

ギョベクリ・テペ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A7%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%9A


Searching for Rock Art Evidence for an Ancient Super Aurora
太古のスーパー・オーロラのためのロック・アートの証拠をさがして
by marinus anthony van der sluijs and anthony l. peratt
マリウス・アンソニー・ヴァン・ダー・sluijs とアンソニー L. ペラット著(Pdf ファイル)
http://penn.museum/documents/publications/expedition/PDFs/52-2/van%20der%20sluijs%20peratt.pdf


Göbeklitepe Belgeseli The Worlds First Temple
ゴベクリ・テぺ 世界最古の寺院


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