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1844-1918年:ロスチャイルド家対ロマノフ家

1844-1918: THE ROTHSCHILDS vs. THE ROMANOVS
1844-1918年:ロスチャイルド家対ロマノフ家

http://tomatobubble.com/rothschild_romanov.html

ロマノフ家の紋章
Romanov_seal.jpg


ロスチャイルド家の紋章
(注:ライオンとユニコーンは英国王室と同じ)
rothschild_f520.jpg


1844年:ベンジャミン・ディスラエリは、ロスチャイルドのロシアへの憎しみについて記述します。

ベンジャミン・ディスラエリは、英国のユダヤ人で、文学的な人物であり、大志を抱く政治家です。彼は(1868年、そして再び1874年に)2度、英国の首相に成り、19世紀のヨーロッパにおいて圧倒的な政治家でした。彼が公の場に台頭するずっと以前に、ディスラエリはコニングスビー:新たな世代と言う政治的小説を書きました。架空ではありますが、コニングスビーは、当時の英国の政治に基づいています。

その本の中には、シドニアと名付けられた登場人物があり、(ネイサンの息子)、ライオネル・デ・ロスチャイルドを表しています。シドニアは政治家であるコニングスビーにどう目に見えない勢力が - 彼等の中で代表的なユダヤの「シドニア達」が、ヨーロッパの状況を形造り、そして秘密裡な革命的運動を形成するのかを明かします。

シドニア(ロスチャイルド)はロマノフ家(ロシアの皇帝)への嫌悪を明かし:「セント・ペテロスブルグの宮廷(ロシア)と私の一族の間には何の友情も無い」と述べます。

1853-1856年:クレミア戦争

クレミア戦争は、ロシア帝国と、英国、フランス、そしてオスマントルコ帝国の連合の間で戦われました。殆どの紛争は、クレミア半島(黒海/ウクライナ)で起こりました。表面上において、その戦争は、聖地(パレスチナ)を含むオスマントルコの領土上の影響力のために戦われました。

ロシア皇帝、ニコラス1世は、戦争を避けるために、その唯一の関心は、ムスリムのオスマン支配下にいる正キリスト教徒を保護する事にあると、英国に保証しました。ですがロスチャイルドの英国は、ロシアと断固として戦おうとしました。フランスも彼等に合流します。

ロスチャイルド家は皇帝に対する英国とフランスの戦争努力に金融融資しました。

ロシアはその戦争に敗れ、貴重な黒海の軍港を失います。

ロシアの海軍を(イスラエルの未来の家である)中東から離れさせるために、ライオネル・デ・ロスチャイルドはロシアに対するクレミア戦争を金融支援しました。

1873年:3人の皇帝の連合が、中央と東ヨーロッパにおけるフランスと英国の内政干渉を阻止する

ドイツ首相、ビスマルクの素晴らしい動きが、ロスチャイルドの野望を妨害します。

1.東を支配し中東への内陸の道を確保するには、強力な3人の皇帝の連合は壊されなければなりません。
2.英国の風刺画は、3人の皇帝が首相ビスマルクの操り人形であるという誹謗的絵を見せます。

Ⅰ877-1878年:ロシアとそのバルカン(半島)の連合は、オスマントルコ帝国に対する戦争で勝利します。

スコボリオフ将軍は、ロシア-トルコ戦争の間、バルカンの前線の正キリスト陸軍の指導者でした。彼はオスマントルコ支配から、正キリスト教のルーマニア、セルビア、そしてブルガリアの殆どを解放しました。

1878年:ロスチャイルドの手先&英国の首相であるベンジャミン・ディスラエリは、ベルリン会議において邪魔をします。

戦後のベルリンでの和平交渉において、英国総理大臣ディスラエリは彼の影響力を敗戦したトルコのために使います。ディスラエリはまた、ロシアの新たに解放された正キリスト教の連合国の幾つかをオーストリア-ハンガリーの支配下に置く事で、オーストリア-ハンガリーとロシアの間に楔を打ちました。ディスラエリが意図的に造り出した緊張は、3人の皇帝の連合を終わらせる原因に成ります。

1881年:赤軍が皇帝アレクサンダーを暗殺します

ロスチャイルドの赤いテロリスト達は最終的に皇帝アレクサンダーを暗殺する事に成功します。彼の息子、アレクサンダー3世と孫、ニコラスが見ている前で、マルクス主義者達は皇帝の馬車に爆弾を投げつけます。アレクサンダーの足の一部は吹き飛ばされ、彼は出血多量死します。

1894年:フランスがロシアを仏露同盟に引き入れます

(ベルリン会議におけるディスラエリの分断&統治戦略の御蔭で)以前の同盟国、ドイツとオーストリア-ハンガリーから孤立化させられ、ロシアはフランスの策略の蜘蛛の巣に、それ自体を絡ませます。その仏露同盟はその2か国を一つの軍事ブロックにします。

ロシアの偉大な小説家、レオ・トルストイは仏露同盟を、フランスの敵(ドイツ)に対する未来の戦争にロシアを絡まらせるフランス人の罠であると非難しました。トルストイは、突然友好的なフランス人を、「理性無しで突然にロシアへの自発的で特別な愛を宣言した人々」と皮肉って描写しました。

1905年:日露戦争における日本の勝利にジェイコブ・シフ金融支援し;テディー・ルーズベルトがロシアに対して策略します

ロシアとの日本の戦争を金融支援したシフは、日本の天皇から勲章をもらいます!シフの操り人形、テディ-・ルーズベルトは、和平交渉が日本に有利に傾くようにして、ノーベル平和賞を受賞します。

1700年代の間、シフ家とロスチャイルド家はフランクフルトで二世帯の家を分かち合いました。

1905年:ロスチャイルドの赤軍は、日露戦争の好機を利用して革命を試みます

ロスチャイルドのユダヤの赤軍は1905年には失敗します。ですが彼等は再び戻ります。

1907年:英国とフランスはロシアを甘い罠である3国協議に誘い込みます

来るであろう「大戦」へのテーブルは、英国が仏露同盟に加わり、3国協議を形成する事で更に準備されました。ロシアの以前の敵と、彼等のロスチャイルドの主人達は、ドイツを倒すためにロシアの力を利用する事を求めました。ロシアとしては、正キリスト世界のために、戦略的で歴史的な港町、コンスタンチノープルを再主張する事によって、オスマントルコとの昔の因縁を正す好機だとその同盟を見ました。

今日、イスタンプールとして知られるコンスタンチノープルは、その昔、東ローマ帝国と正キリスト教会の中心でした。その戦略的な位置はまた、ロシアに地中海への自由なアクセスを与えました。これはフランスと英国の策略者達がロシアを「神聖な同盟」へと引き入れるために使った餌でした。

Ⅰ914-1917年:ロシアは第一次世界大戦の矢面に立ちます

事前に計画された世界大戦の火薬への導火線は、1914年のオーストリア皇太子、ファーディナンドの暗殺によって火がつけられました。オーストリアの報道ではセルビアのせいにされました。オーストリア-ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアはオーストリア-ハンガリーに宣戦布告しました。その他のドミノをすぐに倒れました。数週間の内に、ドイツ、オスマントルコ、オーストリア-ハンガリーは、ロシア、フランス、そして英国との戦争に成りました。

ドイツはトルコと同盟を組みました。ドイツとロシアの両方が凄まじい犠牲者を出しました。その大戦はロシア、オーストリア-ハンガリー、オスマントルコ、そしてドイツと言った4つの帝国を倒しました。ロスチャイルドの手先達が、その後その4つ全ての操作を取りました。

1917年:ロスチャイルドに赤軍が、ロシアにおいて反乱します

1905年の時と同様に、敗戦への努力への不満は、「人気のある反乱」を扇動するために巧妙に使われます。1917年の2月革命は皇帝を失脚させ、民主的社会主義システムを確立させます。皇帝は追放を待つ間、拘束へと連れられます。すぐさま追放されていて(そして良く資金援助されてた)共産主義者達が西側からロシアへと注ぎ戻ります。同年の10月、ケレンスキーは倒され、赤軍が独裁主義を宣言します。

西洋に基づいたユダヤの銀行家達がレーニンと彼のテロリストのギャングを資金援助しました。

1918年:ボルシェヴィク達が、皇帝と彼の家族全員を処刑します

英国とフランスにいる皇帝達の「友人達」は彼に亡命を許しませんでした。1918年7月6日の前夜、その王族、ロマノフ一家は午前2時に起こされ、服を着る様に言われ、彼等が捉えられていた家の地下室に連れられました。そのすぐ後に、ユダヤ赤軍の殺人者達がなだれ込み、その一家全員、彼等の医師、そして3人のお手伝いを冷血に銃撃しました。ロマノフの娘達の幾らかは最初の銃撃で殺されなかったので、刺され、殴られ殺されました。

英国がオスマントルコを解体する際に、廃墟にされたロシアは何も得られませんでした

トルストイは正解でした!「同盟国」英国とフランスがドイツを倒し、ロスチャイルドの犯罪ギャングのためにパレスチナを略奪するために、ロシア人達は死にました。

1919年:1917年の英国の「バルフォー宣言」の条約の下で、ヨーロッパのユダヤ達が英国に支配されているパレスチナに移民し始めます

「バルフォー同意」の背後の計画は、実際には1916年に始まりました。シオニスト達は、米国を、英国の側で参戦させる事を提供しました。その交換条件は、英国はトルコからパレスチナを取り上げ、ユダヤ人達が其処へ移民する事を許す事でした。始めから終りまで、ロシアがコンスタンチノープルやその他のオスマントルコの一部を主張することなど許されていませんでした。ロシア人達と、そして全ての国家は、馬鹿の如く操られました。

バルフォー宣言はウォルター・ロスチャイルド宛てでした。ユダヤ人のパレスチナへの移民は小規模から始まりましたが、それ以来、完全支配へと進行しました。

Ⅰ918-1922年:ロシアの市民戦争で「赤」と「白」がぶつけ合いさせられました

赤軍と「赤の恐怖」に対して4年間戦った後、ボリシェヴィック共産主義者達の敵はとうとう倒されました。ソヴィエト連邦と国際共産主義者の確立が宣言されました。

今日!新たなロシアの皇帝、ヴラディミア・プーチンに対するロスチャイルドのゲームは続きます
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