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法律、言語、そして責任:神学と金融における法人のペルソナ・フィクタ

法律、言語、そして責任:神学と金融における法人のペルソナ・フィクタ(架空人格)

ヴェニスの金融的な毒蛇達:第七章
ジョセフ P. ファレル著より


「とても頻繁に、実際、私達は、銀行家達が、偽造された硬貨と同時に、宝石や銀のベルトの様な、盗まれた貴重品を購入していると非難されているのを目撃します。私達が見てきた様に・・・彼等自身が時には、偽造硬貨の産出と分配におけるパートナーである、または摘み集めは犯罪行為なのに彼等が、鋳造された硬貨の切り取りや削り出しを大々的に指示しているのを見つけます。」
- ラインハルド C. ムエラー¹
訳者注:比較的に軟らかい貴金属性の金貨や銀貨の端っこを、ちょっと削ったり、切り取ったりする、違法行為。)

過去2,3年に、銀行業と株式債券コミュニティーによって行われた膨大な詐欺の直後において流通しているジョークがあります:「テキサス州が、それらの(企業の)内の一つを死刑にした時に、私は企業が人(法人)であると信じます」と、私達の無名の対話者は述べます。そのジョークの幾つかのヴァージョンにおいて、その企業の名前は - J.P. モーガン、ゴールドマン・サックス、そしてその他の幾つかが - 「企業的な死刑囚監房」のリストの一番上に来ます。勿論、その観衆の中には、企業の目的の全体が、企業、またはその責任者達の犯罪の、個人的な責任を制限するためだと異論する、弁護士の一人か二人が常に存在します。

ですがそれは、常にそうだったわけでは無く、そして実際に、corporate person/企業的な人格(i.e. 法人)の教義の元々の土台は神学的で、そしてその教義の神学的なヴァージョンの要点全体が、正しく、他人の犯罪(過ち)のために、一個人が道徳的な責任を負う事が出来る事を確かにするためのものでした。ですからどの様に、私達はその神学的な教義から現在の状況まで至ったのでしょう?どの様にして私達は、一個人の過ち(犯罪)のために、人類には集合的な責任があり、道徳的に責任が課せられる事であったその目的全体の教義と共に始まり、そして法人(コーポレート・パーソン/企業的な人格)が莫大な規模の詐欺を行う事が可能で、そしてそれを行い、その間、多くの企業的な責任者達が、その騒動(詐欺)の上で在席し、実際に彼等の「パフォーマンス/行い/詐欺」に対して、彼等自身にボーナスを与える、現在まで辿り着いたのでしょう?

A. その逸話の神学的な部分

この逸話の神学的な部分は、ラテン語のヴァルゲートの中で、聖者ジェロームによって行われた誤訳、そしてどの様にヒポ・レジスの聖者オーガスティンが、その誤訳に基づいて、「原罪」の西方教会(カトリック)の教義を形成したのかと共に始まります。

ですが最初に、幾つかの注意があります。

最初の注意はこれです:原罪の西方教会(カトリック)の教義の付属物としての、法人の教義について記述された膨大な量の文献の調査の試みが、一つの章の2,3ページに納められるのは不可能です。この題材についての大書の全体が既に記述され、此処において唯一達成出来るのは、それらの根源、相互関係、そして西洋文化、法理学、そして金融の形成のためのその教義の幾つかの一掃的な示唆(影響力)の、基本的で神学的な概念を表す事です。

第二の注意が、以前に記述された根源、相互関係、そして示唆から流れるのは - 一つの形状、またはもう一つ、そして様々な度合の「厳しさ」において - その教義が西方の教会において保たれる様に成ったためで、正に、中世のラテン教会に特徴的な西方(カトリック)の教義で、そして故に、それ(カトリック)から分岐した、プロテスタントの教会に対しても特徴的な概念的な根源(i.e. 原罪)です。それは(ギリシャ正教、ロシア正教の様な)東方のオーソドックスの教会(正教)の教義では無く、それは「原罪」としての教義には言及さえもせず、「先祖的な罪」とします。この短い寄り道の中で私達が発見する様に、その西方(カトリック)の教義は元々、神に対して負わされた人類の「無限の借り/借金」の概念に関連していて、そして神聖な口座の帳簿をバランス(返済)している「無限の自己犠牲」の一種としての、キリストの犠牲の西方教会の解釈に関係しています。

1.中心的な節と解釈の要点
a. ギリシャ語版とジェームズ王版


私達の、神学的に盲目な文化において、この複雑な題材に接近する最も簡単な方法は、新約聖書の中のたった一つの節を検証する事によってで、その節は、言うなれば、原罪の教義のための土台です。その節は、ローマ人達への手紙5:12です。この節の私達の展覧において、読者にとって重要なのは、私達が数世紀に渡る分析と神学的な解釈を圧縮していると覚えておく事で、そして故に読者は、一緒に少々の神学、そして少々のギリシャ語とラテン語を、学ばなければならないと言う事です。私達は此処において、直ぐに明らかに成る理由のために、承認された(ジェームズ王)版の英訳を引用します:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, for that all have sinned.
この様な理由で、一人の男(人)によって罪が世界へと入り、そして罪による死であり;そして故にが男達(人達)の全てに渡されたのは、全てが罪を犯したためです。
(このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。)

私達が複雑な分析に進む前に、着目されるべきは、その節が、「罪の本質」、または「罪悪感(罪の責任)」が全ての人達の上に渡されたとは言わず、死がそうされたと言う事です。

さて、私達は、この節を見つめ直し、そして特にその節の最後の部分 - ”for that all have sinned (そのために、全てが罪を犯した)を - とても詳細に検証してみましょう。元々のギリシャ語においてこれは ἐφ’ ᾧ πάντες ήμαρτον と読め、そして私達が思考する2つの言葉は ἐφ’ ᾧ (またはそれを翻訳すると「エフ・ホ」で)それをジェームズ王の英訳家達はとても慎重に(私達が見る様に)「for that (そのために)」と翻訳しました。この表現 - εφ ω - について興味深い事は、すべて同時に3つの異なった解釈が可能な事です(結局の処、これはギリシャ語です!)それらの2つの短いギリシャ語の言葉は、最初の例において、単純に「because (何故なら/~のために)」を意味している慣用語法的な表現です。故に、ギリシャ語におけるその節の最初の意味はこれです:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, because all have sinned.
この様な理由で、一人の人によって罪が世界へと入り、そして罪による死であり;そして故に死が人達の全てに渡されたのは、何故なら全て(の人達)が罪を犯したためです。

しかしながら、私達がその2つの言葉 εφ ω - エフ・ホの意味を別々に考えた時に、その意味は更に特定的に成ります。それらの言葉の二番目、ω、または一人称の再帰男性名詞で、明らかに、その文章の事前の部分における男性一人称の前提副詞に言及しています。その最初の言葉 εφ、またはエフは前置詞で、それはこの文法的なコンテキストにおいて、「for that reason (その理由のために)」、または「because of which (何故ならそのために)」を意味します。着目すべきは、「for that」の英訳を応用する事によってジェームズ王版の英訳者達が、最初の意味 「because」を保存するにおいて周到に忠実だっただけでなく、同時にその他の2つの可能な意味 - 「because of which」と「for that reason」を保存し様とした事です。

ですからこの時点における問いは、「その一人称の男性名詞 ω、またはの前提副詞は何か?」に成ります。

その節のその前の部分において、ギリシャ語の中で2つの可能性しか無く、その「one man(一人の人)」と death (死)です。

もし人が「一人の人」を最初の副詞として取ると、するとその節の意味はこう成ります:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, because of the one man all have sinned.
この様な理由で、一人の人によって罪が世界へと入ったので、そして罪による死なので;そして故に死が全ての人達の上に渡され、一人の人のために全て(全員)が罪を犯したためです。

ですが、この解読には問題があり、そして多くのギリシャの教会の神父達は、直ぐにそれを見解しました。その問題は、その様な構成において、通常の文法的なルールの注釈が再帰代名詞は、最も離れた前提副詞では無く、最も近くのものに言及すると意味するためで、それはこの場合、「一人の人」では無くです。故に、この節のより特定的な解読はこれです:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, because of death all have sinned.
この理由のために、一人の人によって罪が世界へと入れられたので、そして罪による死で;そして故には全ての人達の上で渡され、死のために全てが罪を犯したためです。

これが何を意味するのかと言うと、その節の最初の解読において - 「so death passed upon all men, because all have sinned (故に死が全ての人達上に渡されたのは、何故なら全てが罪を犯したためです。)」は - 死が個人的な個人の罪のための罰で、それに対してその節の3番目の解読において - 「so death passed upon all men, (and) because of death, all have sinned (故に死が全ての人達の上に渡され、(そして)死のために、全てが罪を犯しました」は - それが死で、i.e. アダムとイヴから、彼等の子孫達に渡されたのは、物理(肉体)的、そしてスピリット(霊)的な腐敗ですが、彼等の罪のための道徳的な責任では無いと言う事です。言い換えると、渡されたのは、彼等の活動の成り行きである - 死 - ですが、他人の過ちのための道徳的な責任ではありません。実際に、ギリシャの教会の神父達が好んだのは大々的に、最初と三番目の解読で、そして故に、その教義の西方版(カトリック)の中で頻繁に明言される、アダムとイヴ、または「罪の本質」の道徳的な責任を、人が後継すると言う(原罪の)概念は、東方のオーソドックス(正教)の中にはありません。

その節のこの詳細な解読は、この問題に関連したその他の文章を、東方の教会がどの様に解釈したのかに多大な影響を有し、そしてまた、東における法律的、そして文化的な発達に多大な影響を持ったためで、その最たるものはオーソドックスの文化の中で中心的な礼拝的、そして文化的な出来事が、キリストの再誕であり、その中心的で礼拝的な出来事が、キリストの磔では無い事です。 その理由は単純で:人類の基本的な問題は、この見解の上で、道徳的なもの(そして故に、無限の借金の問題)と言うよりも、言うなれば、物理的なもので、死の淘汰を通して転生し復元する事が出来るのは神のみであると言う事です。²

あるとても重要な事に此処で注目してもらいたいのは、西方(カトリック/プロテスタント)の教義がどの様にして実際に、企業的な人格(法人)の教義の上に基づいた受け継がれた罪悪感、または道徳的な責任の教義であると理解する事が重大に成るためです。ギリシャ語において、死は実際に自然的な成り行きで、つまり、親から子へ渡される共通の人間の本質において内在的で、そして故に、オーソドックスのキリスト教の見解において、アダムとイヴから人類の全てに受け継がれたものです。ですがオーソドックスの見解において個人的な選択で、そして故に、道徳的な責任は、その行いを行っている個人的なに対して帰属させられます。故に、自然/本質の間にとてもはっきりとした分別が引かれ、その分別は、私達がこれから見る様に、その教義の西方のヴァージョンにおいて消滅します。³

b. ラテン語のヴァルゲートとその他全ての英訳

ヒッポ・レジウスの聖者オーガスティンによって法典に含まれる様に成った、その西方(カトリック)の教義の起源を私達が見つけるのは、聖者ジェロームのラテン語のヴァルゲートの翻訳に、私達が目を向けた時なのは、此処において「法人」の示唆された教義が鮮明にあるためです。そのヴァルゲートの中で、ローマ人達への手紙5:12はこの様に読めます:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, in whom all have sinned.
この理由のために、一人の人によって罪が世界へと入ったので、そして罪による死で;彼(アダム)において全てが罪を犯した、全ての人達の上にが渡され(後継され)ました。

最後のフレーズのラテン語はとても鮮明で、際立って強調的で:en quo omnes peccaverunt で、ギリシャ語の εφ’ ᾧ πάντες ἥμαρτον の可能な意味の二番目だけの翻訳を選択し、その解読は、私達が見た様に、ギリシャの神父達によって好まれ無かっただけで無く、実際に、文法の通常のルールと調和的でさえありませんでした。

此処で私達は、再び、当時の神学的な記述の膨大な量と、分析の多大な量が圧縮されているので、この解読をある意味「説明」しなければならなりません。此処における私達のガイドは、person (人)nature (自然/本質)の2つの重大な分類で、そして神学的な教義論に対してとても不可欠な第三の形而上学(精神)的な分類である、natural operation (自然/本質的な機能)の分類です。それらが答える事をデザイン(意図)された問いを記述する事によって、それらの分類のそれぞれが、何を行うためにデザインされたのかのおぼろげな理解を私達は得られるかも知れません:

1)Person (人/人格)は、何かを行っているのは誰か?の問いに答え

2)Natural operation (自然/本質的な機能)は、それらが行っているのは何か?の問いに答え、そして

3)Nature (自然/本質)は、それらの物事を行っているそれらは何か?の問いに答えます。

私達は「もしそれがアヒルの様に見え、アヒルの様に歩き、そしてアヒルの様に鳴き、アヒルの全ての natural operation (自然/本質的な機能)なら、それはアヒルで、i.e. アヒルである事の共通の nature (本質)を有している」古い格言から、その二番目と三番目の問いの理解を得る事が出来ます。私達は此処において、普通の言語がそれを保つ事に着目する事によって、 person と nature の間の違いの理解に近づく事が出来ます。私達は「I am a person (私人です/person)」と言いますが、「I have a soul (私は魂を有している/nature)」と言い、そして故に、人間の nature と soul の理性的な脳力は person 自体からははっきりと異なります。私達がこれから見る様に、person (人/人格)soul (魂)同一視し、そして故に person を soul の理性的、そして意志的な脳力まで格下げする過ちを犯すのは、西洋文化における人達の習慣で、私達が直ぐに辿り着く理由のため、後継した道徳的な責任である法人の教義に緊密に連動した理由で、先祖的な罪の、東方(オーソドックス)の教義から、はっきりと異なった、「原罪」の奇妙にも独特な西方(カトリック/プロテスタント等々)の教義です。

三位一体の神学、輪廻転生の教義、そして神学的な人類学の土台を形成するのは、形而上学的な分別のそれらの3つの分類 – person (人/人格)、natural operation (自然/本質的な機能)、そして nature (自然/本質) - そしてそれらに関連した3つの問いです。後継された罪の示唆された教義と、ローマ人達への手紙5:12の西洋の解読の神学的な人類学のコンテキストの中で見解された時、それらの3つの分類に何が起こるのかを考えるために進む前に、最初の2つを簡単に見るために、一旦停止するには価値があります。着目するのが大事なのは、此処における私達の唯一の目的が、それらの教義の真実性を擁護する事でも、間違いを指摘する事でも無く、単にそれらの背後の考え方の一般的な方法を明瞭にする事だと言う事です。

その最初の2つの分野 - 三位一体の神学と輪廻転生の - データベース、またはデータのセットに関して、基準的な新約聖書の文章は、勿論、その問いが提示される土台に成りました。例えば、もし神父達が新約聖書の中でキリストが - 旧約聖書の中で神の名前である - 「I am (エア)」と言う言葉を共にしたフレーズを語り、そして奇跡を行う、または罪を許し、そして精霊(Holy Spirit)に対して不敬な事を言う事が出来るなら、するとその明らかな示唆は、「doing these things (それらの物事を行っている)」「Whos (誰か)」は、同じ共通の「divine (神聖な)」nature (本質)を有しています。故に、3つの persons (人格達)が、共通の根底にある nature共通の operation (機能)を行っています。

キリストに関して、その分類の定義においてそれ等を尋ねるその同じ秩序(順番)は、異なった結果に繋がりました。其処で、一人の personnatural operation の2つの全く異なったセット(一式)を行い:病人を治癒したり、罪を許す等々の「divine (神聖)」なものと、歩いたり、話したり等々の人間のものです。これは、彼(キリスト)が2つの nature (本質)の一人の person であると言う、451年の有名なチャルセドニアの定義に繋がりました。三位一体とキリスト論的な例の両方において、3つの分類の違いが保たれた事に注目するのは重要です。

此処で私達は、ローマ人達への手紙5:12の西方版に戻り、そして person, natural operation, そして nature の分類の定義において、何が起こったかを見るために、何が起こっているのかを説明しましょう。最初にヴァルゲート自体の解読を私達は思い出しましょう:

Wherefore, as by one man sin entered into the world, and death by sin; and so death passed upon all men, in whom all have sinned.
この理由のため、一人の人によって罪が世界へと入たので、そして罪による死で;そして彼の中で全てが罪を犯したので、故にが全ての人達の上に渡されました。

此処で、此処における形而上学的な「理論」の示唆された段階に着目して下さい:

1) アダムの person - その節の「one man (一人の人)」 - sins (罪/複数形)
2) 罪は、人間の意志の natural operation (自然/本質的な機能)、または実行の personal (個人的)な使用で、それは人間の nature (本質)に一般的な性質で;
3) ですが、その選択の道徳的な責任が全ての彼の子孫達(in whom all have sinned/彼において全て(の子孫達)が罪を犯した)に渡され(後継され);故に、
4) 意志の natural operationその personal な使用が此処で、後継された nature に対して共通な全ての persons の内容を定義します。言葉を変えると、一つ、または複数の土台の上で personnature混同させられ、同じ、または類似した方法において persons が意志のそれらの共通の脳力を使用しています。この共通の機能的な使用は故にその正に person 自体を暗黙に定義し、そして成り行き的に、正にその意志のこの共通的で機能的な使用の定義において、「グループ的」、または「企業的」な person (法人)の概念を生み出す事を可能にしています。言い換えると、とても多くの人達が苛立たしいと感じる企業的な理論を教えるのはこの段階で、つまり、企業的な「グループ・シンク(考え)」の文化の形成です。その様な現象は「原罪」の教義の根底にある企業的な理論に埋め込まれた、内在的な構成要素です。

言い方を変えると、person, operation, そして nature の間の違いが完全にごちゃ混ぜにされ⁴、そして結果的に派生させられたものは「グループ person」の一種で - プロテスタントの神学者達はそれを時には連邦 person、または「連邦的なアダム」と呼び – それはその意志の推定された共通の機能と統一的な罪(原罪)におけるその拘わりによって定義されました。共通の機能において拘わっている persons - この場合「罪」における - グループ、または企業的な person (法人)は、この場合においてアダムから、またはアダム「において」後継した全ての人類を定義し:「彼において全てが罪を犯しました。」法律において法人の教義の神学的な土台を形成するのはこの段階です。

最後に、それ自体の方法において、この教義は、無限の借り(借金)の返済としてのキリストの贖いの西方教会の理解に対して深く根付いています。⁵ ある意味、全てが共通して分かち合う人間の本質による、後継された罪、または他人の道徳的な選択の責任能力としての「原罪」の理解は、「罪」が神に対して負わされた「借り/借金」として知覚され、両方が「蓄積」し、システム的な問題に成る事を意味します。そして神は「無限」で「無限に公正」なので、これが意味するのはその借り/借金が無限で、そして人類の支払い能力を超えていて、故にこの理論によると無限である神は、その原則/元金を撤廃するために、無限の死においてその借り/借金を返済するために、輪廻転生において人に成らなければならず、そして彼自身のために彼自身を殺さなければなりません。その教義のこのヴァージョンにおいて注目してもらいたいのは、実質的に無制限の情報の創造のオープン・システムとして、生産力と創造性の隠喩として始まった、その媒質の太古の「トポロジー(位相数学)的な隠喩」が、ゼロ-サム・ゲーム、そしてクローズド・システムへと変格され、どれだけ多くの情報が創造されようとも、その情報は常に借金の形状においてで、それはその隠喩の頂上の段層 - 神のみが - 返済可能だと言う事です。私達はその隠喩、そしてこのクローズド・システムのアプローチの中のその変格に、この章の中で更に再び出くわすので、そのクローズド・システムがどの様に、西方の神学的な伝統に深く根付いているかに注意するのは重要です。

2.中世のイタリアの法律における企業、またはパートナーシップ

この短すぎて不器用な神学的な分析を頭に入れると共に、私達が本題に戻るのは、企業的なパートナーシップの責任の中世後期における形成において、この神学的な形成の役割をそれ以上により鮮明に私達が見られるのが他に無い為で、以前に概要された概念がどの様に現世的な法律学・・・そして金融の中へと入ったのかを、私達が鮮明に目撃するのが此処においてであるためです。

彼の最上級の研究中世の超-企業:フローレンスのペルッジ社の研究の中で、エドウィン S. ハントは、此処における私達の検証に直接の密接な関係のある以下の観測を行います。

1) それと共にこの章の残りにおいて私達が扱っている – 中世の超-企業は - 半-永続的なパートナーシップとして組織化され;⁶

2) それらのパートナーシップの意図された半-永続的、または永続的な本質は、「ペルッジ家の場合、青を背景とした黄金の梨、そしてバルディ家のダイアモンド型の紋章のデザインの様な」会社のロゴの彼等の使用によって証言され;⁷

3) それらのパートナーシップは、パートナー達自身の気まぐれにおいて形成され、または全体的に解消されましたがその様な解消は通常、パートナー達自身の新たな株式保有を効果させる目的のためでした。通常、その様な解消と株式保有の再編成の上で、利益(または損失)が、割り当ての土台の上でパートナー達/株主達の中で配当され。;⁸

私達は此処でその問題の要点に辿り着き、そして corporate person (企業法人)の教義の神学的な土台に対する繋がりです。ハントはこう記述します:

4) その会社においてパートナーが有した賭け金(投資)、またはシェア(株式)を反映したその「マネーの価値」は、「全体的な会社の資本に対するこの貢献(投資)の比率に割り当てられた利益、または損失の分け前を、それぞれの所有者に約束しました。故に、「株主」と言う言葉は、「パートナー」と言う言葉と入れ替えながら使われる事が出来ました。それらの会社は、破綻の場合において、それぞれの株主達が、彼の個人的な所有物(資産)の全てに対して無制限の責任の対象に成ると言う意味においてのパートナーシップでした。」⁹

現代の(i.e. 株主達が責任を負わない)企業とは異なり、中世の概念が未だに、その企業、またはパートナーシップの損失、または倒産のために個人的(personally)な責任者として、企業の「グループ・person」の株主達を構成する persons を保っている事に着目して下さい。言い換えると、神学的な教義が、現世的な概念において、未だに完全に効果的です。これと共に、私達は此処でその逸話の金融的な部分、大いなるフローレンスの中世的な超企業の台頭と崩壊、そしてその全ての背後に巣くうもの、ヴェニスの金融的なオリガーク(オリハルヒ/財閥)達の役割へと向かいましょう。そして再び、そうする事において、私達はその媒質の「トポロジー的な隠喩」の新たな隠れ蓑において出会います・・・

ヴェニスの金融的ヴァイパー(毒蛇)達
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