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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第二のルネッサンス

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教:
アフメド・オスマン著

パート3

後書き: 第二のルネッサンス


紀元前44年における、上院議会の階段の上でのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエザル)の暗殺に続き、彼の2人のローマ人の後継者達、オクタヴィアン(オーガスタス)とマーク・アントニー(マルコス・アントニウス)は結局決別し、戦争においてお互いと戦わなくてはなりませんでした。紀元前31年に、ギリシャの西海岸のアクティウムの埠頭沖で、その2人のローマ人の将軍達が、お互いと面した時、彼等は当時の2つの最も重要な街々を代理していました。オクタヴィアがローマを防衛していた間、アントニーはアレクサンドリアのために戦っていました。そしてローマはその戦争に勝利し、文明化された世界(ローマ帝国)全体の、超越的で政治的な首都に成りましたが、アレクサンドリアはローマ帝国の宗教的で文化的な中心地として残りました。アレクサンドリアの大図書館を含んだセラペウムの寺院は、国際的な信仰の中心に成ったと同時に、世界的な英知と知識の中心に成りました。4世紀後に、ローマが最終的にセラピウムを破壊した時にのみ、世界の宗教的な中心として、ローマのヴァチカンがセラペウムの寺院にとって代わり、そしてその教会の教えが、エジプト的な哲学と入れ替わりました。

2人の主要なイスラエライト族の指導者達の両方、モーゼス(アケナーテン)とジョシュア(ツタンカーメン)は、紀元前14世紀の間に、エジプトで生き、そして死にました。アマルナ政権が終わった後、しかしながら、彼等の一神教的で、宗教的な革命は(役人/神官達に)隠蔽(いんぺい)され、そしてアムンとラーの昔のカルト(信仰)が、その国家の公式なカルトとして、それらの地位を取り戻しました。けれども、その時代以後、紀元前300年代におけるプトレミー(プトレマイオス)王朝の時代までに、オシリスとアイシスのカルトは更に人気を博し、それはエジプトにおける最も有力な宗教に成りました。死んだオシリスの王は、生きている者達の神と成り、そしてアイシスの宗教的な重要性は、それに沿って増大しました。徐々に彼女は、その他の女神達の宗教的、そしてカルト的な機能の殆どを吸収し、そして紀元前の最後の世紀から、エジプトの偉大で母なる女神としての彼女の地位は不動のものと成りました。彼女は、その国全体を通して統一的に敬われ、そしてプトレマイオス王朝の台頭が意味したのは、新たな国家的なカルトにおける、彼女の公式な地位の、最終的な認識でした。

第18王朝の最後の日々から、復活したオシリスと同一視される様に成ったツタンカーメンの人生、死、そして復活の重要性を説明するために、オシリス神学の中で、少しずつ革命的な行程が起こりました。王家の谷の中にある、その若き王のお墓を訪れた訪問者は誰しも、その人の眼で、ツタンカーメンとイエス・キリストを関連させる、最も強力で壁画的な証拠を見る事が出来ます。その埋葬の室の大きな絵は、3つの別々の場面へと分割されます(プレート17、18、&19を参照して下さい)。右側の最初の場面は、アイ(エフライム/アリマテアのジョセフ)が既に、その死んだ王の王族的な後継者として、彼の上に彼のカートゥーシュ(印)がある、青い王冠を被っているのを表します。アイは王であるのと同時に、死んだツタンカーメンの復活のための「開口」の儀式を行うために、レオパードの革をまとった神官としてまた、特徴的に儀式を行い、復活したオシリスとしての彼(ツタンカーメン)に面しているのが表されています。

その壁の中央の2番目の場面は、復活したツタンカーメンが、神々の天界的な領域に入り、空の女神、ヌットによって歓迎されているのが表されています。左側の3番目の場面は、3つの異なった形状におけるその王を描写しています。その場面の左側に立っているのは、死んだ王、オシリスの形状におけるツタンカーメンで、統治している王、ホルス(朝日)として彼に面している、第2のツタンカーメンに触れるために彼の両手を伸ばし、彼(第2のツタンカーメン)は、順を追って、彼(第1のツタンカーメン)を抱擁するために彼の腕を伸ばし、その間、彼(第2のツタンカーメン)自身が、スピリット的なカー(Ka)を表して入る第3のツタンカーメンによって続かれていて、それもまたその王を保護するために、その右腕を伸ばしています。

1 tut tomb wall

間違い無くこれは、キリスト(オイル)の本質と、彼の三位一体に関した、早期のキリスト教教会の、最初の4世紀の間に続いた熱狂的で、神学的な議論の根源の場面でした。何故なら、私達は此処に、同じ人の3つの異なった要素として - ツタンカーメンが - 聖父であるオシリス(太陽)、息子であるホルス(朝日)、そして神聖なスピリットであるカーとして表されているのを私達が見るためです。

故にツタンカーメンの埋葬の室の北側の壁に、私達はイエス・キリスト(太陽・オイル)の死(冬至/12月22日)と復活(クリスマス/12月25日)に関連した3つの重要な神学的な要点を見つけます。最初の場面が、彼の物理/身体的な再来を表す間、2番目の場面は、彼のアセンション(上昇/冬から春、夏に成る事)を表し、そして3番目の場面は、彼の本質の三位一体を表します。これは、王アイ自身が、その王(ツタンカーメン)の埋葬の際に神官として役割を果たしたかの理由で、アマルナ(政権)の宗教的な革命に対してツタンカーメンによって行われた改革の背後にあった、新たな神学を理解していた神官は、その他にいなかったためです。ですから、使徒達がキリスト(オイル)の復活/再来を目撃したと宣言した、西暦1世紀におけるキリスト教の台頭は、突然の出来事では無く、オシリスと三度偉大なヘルメスの太古のカルト(信仰)からの、進化の長い行程の結果として現れました。

西洋の文明に対するエジプト的な貢献は、中世を通して認識されていませんでしたが、ルネッサンスの新たな時代は、エジプトの新プラトン的、そしてヘルメス的な哲学の結果として現れました。文化的な復活の運動がヨーロッパ中に広まった際に(特に、14世紀から16世紀の間に、フローレンスの街を中心に広がったイタリアにおいて)、エジプトの英知は再び、キリスト的な哲学の源泉として認識されました。中世をルネッサンスへと変格した一般的な革命は、太古のエジプトその西洋文化への関係との全く新たな概念を派生させました。フローレンスは、これ等の努力と研究の早期の中心と成り、そして新たなアイデアは主に、1439年頃に、コシモ・メディチによって設立された、そのプラトン的な学校のメンバーによって形状と形を与えられました。哲学的、そして科学的な問題に対する新たな「歴史的」な携わり方が見つけられなければならず、そして人間の存在の継続性の再発見は、その活動の実直な結果の一つでした。この運動は、エジプトの文化における増大的な関心を創造し、そして人々は、プラトン自身を含む、ギリシャの最も顕著な代表者達の多くが、学び、研究するためにエジプトを訪れその文化によって印象付けられて帰郷した事を知り、そしてその学習によって豊かにされた事を知りました。プルータークのアイシスとオシリスについての本の様な研究は、オシリス主義とエジプトの宗教における関心を目覚めさせ、その間、エジプトの神秘に関するイアンブリカスのデーモン(精霊)学的な説明は、ヘルメス的な文献と共に、人文主義者達を感心させ、彼等がエジプトの哲学と考えた、彼等の概念の元に成りました。

デンマーク人のエジプト学者、エリック・アイヴァーセンの著書、エジプトの神話とそのヒエログリフ(象形文字)によると、エジプト的な英知、新プラトン主義的な哲学、そして人文主義的な研究は、この様な経路において、伝統の断ち切られていない鎖における、継続的なリンクで、それらの共通の目的によって、キリスト教と共に一所に結合されて統一され:それは神の知識と啓示でした。この観点から見識されると、プラトンやヘルメスを含む、異教徒の預言者達と呼ばれる者達は、キリスト(オイル)の到来におけるこの真実の最終的な啓示の以前に生まれたために、故に唯単に「歴史的」で、つまり、時間次第で、そして故に本質的ではありません。キリスト教以前の啓示は、最終的でキリスト的なメッセージの予知と考えられ、そしてペイガン(異教徒)の哲学者達が無意識に産み出したその真実は、キリスト教の宇宙的な真実であると考えられました。

キリスト教、ヘルメス的な文献、そして新プラトン主義的な哲学の間の直接の関係の一般的な概念は、マルチリオ・フィチーノ(1433-1499年)によって、1473-1478年に書かれた彼のキリスト教的な宗教プラトン的な神学の中で、既に形成されていました。1471年に彼はプロティヌスのラテン語の翻訳を、そして1497年には、イアンブリカスの翻訳を出版し、そしてプラトン主義の大学における彼の活動を通して、彼は新プラトン主義の先駆者の一人に成りました。フィチーノによると、3度偉大なヘルメスは、エジプト人達の賢者で、モーゼスと同時代、もしくはそれ以前とされました。彼は、ヘブライ族の預言者達に明かされたものを遥かに超える、福音書の記述者達にのみ比較可能な、物事の知識を得ました。ピタゴラスはエジプトにおいて彼の教えを会得し、彼を通してそれらは彼自身がエジプトの英知の研究者で、最終的に彼自身の哲学をヘルメスの教義に基づけた、プラトンへと伝えられました。

この状況は、しかしながら、ヨーロッパの文化に対するエジプト的な影響を否定し、ギリシャを近代哲学の源泉と考えた、啓蒙運動の時代の古典主義者達によって、完全に反転させられてしまいました。啓蒙運動は、18世紀と19世紀の間にイングランド、フランス、そしてドイツにおいて現れ、そしてそれは、神、自然、そして人の間の相互関係に関するものでした。この運動の哲学者達は、人類が知識と幸せを見つける事が出来るのは、信仰よりもむしろ、理性を通してのみであると考えました。学術的な世界を淘汰して、そして今日でもまだそうしているこの運動によると、新プラトン主義者達やヘルメス主義者達でさえ、ギリシャ的とされました。キリスト教、または知識のあらゆるその他の分派に対するエジプト的な影響の可能性を、彼等は完全に否定しました。ドイツ人の古典学者、ルドルフ・ブルムが、アレクサンドリアの大図書館と書誌学の起源についての彼の著書に記述した様に、アレクサンドリアの大図書館がギリシャ(的/語)であっただけでなく、エジプトの首都自体においても:「ギリシャ文化は活発で、健全で、その間、昔のエジプト的な文化は、多くの教育を受けたギリシャ人達によって尊敬されましたが、死滅してから長い時が経っていました」(98ページ)。

19世紀の中期から、過去の遺跡を発掘し始めた、近代の考古学者達の御蔭で、西洋の文化におけるエジプト的な役割が今、再確立される事が出来ます。これが私達の次の一歩に成るでしょう。

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