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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第23章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第23章
アフメド・オスマン著

パート3

第23章: 教義/信念


ピーターを通した彼等の使徒的な後継を確立する事を求めた、早期の教会の神父達の主要な心配の一つは、教義を設定する事でした。その様な教義は、競争しているそれぞれの宗派が、対立する神学を主張していて、キリスト教の異なった理解を補佐している、(地理的に)広く散らばったコミュニティーを、統一するために必要でした。それはまた、私達が見た様に、神官達(i.e. 官僚達)と信者達の間の区別(差別)を受け入れず;処女(乙女座)の懐妊を、人間の母親からの物理/身体的な誕生では無く、スピリットとしての、神である聖父からの、救世主の派生とし;イエス(太陽)がローマ帝国時代に磔にされた事を否定し* 、代わりに彼(ジョシュア)が何世紀も以前に生きたと主張し;復活/再来は物理/身体的では無くスピリット的であると考え、文字通りでは無く、象徴的に理解されるべきと提案し;そして彼等はエルサレムの物とは別々の、彼等自身の使徒的な伝統の秘密の源泉(i.e. ヘルメス主義)を有すると主張した、彼等(教会)の主要な対峙者達、グノーシス派の教えと戦うために必要でした。

ナグ・ハマディの文献は、この使徒的な伝統の詳細を供給しませんでした。しかしながら、ポールの記述は、彼もまた、彼自身の様に、イエスのヴィジョンを見た使徒達を認識しましたが、エルサレムの者達とは、繋がりがありませんでした。新約聖書自体が、ローマ帝国の異なった地域において、ポールのジェンタイル(非ユダヤ/異教徒)-キリスト教を広めるために、使徒的な時代の間に、エジプトから派生した先生/宣教師達の証拠を提供します。一人はポールの手紙(コリント1巻1:12と16:12、そしてタイタス3:13と同時に、使徒言行録18:24)に何度か記述されたアポロスでした。使徒言行録によると、彼は「アレクサンドリア出身で・・・イエスに関する物事を語り、正確に教えた・・・」とされます。使徒言行録の様々な文献は、アポロスが彼の故郷(つまり、エジプト)で、キリスト教について指導したと記述します。アポロスは、彼が訪問した時に、既に教会が存在していた事を見つけたポールよりも以前に、その地方でキリスト教の中心と成っていた、小アジア(トルコ周辺)における太古のギリシャの街、エフェサスに到着しました。彼の手紙の中のもう一つの節は、彼とアポロスが、もう一つの太古のギリシャの街、コリントにおいてキリスト教への改宗者達を募ったと表します:「ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(コリント1巻3:4-5)。

* イエス・キリストが、ポンティス・パイレートによって磔にされたと言う記述は、ナグ・ハマディの文献のいずれにもありません。強調として、これに関して新約聖書の説明を否定する、(すでに第18章であげられた)ピーターの啓示/黙示81-82からの節を繰り返す価値があるでしょう:「その救世主は私にこう言いました、『木の上で喜び、笑っているのを貴方が見た彼は、生きているイエスです。ですがその手と足に釘が打たれたものは、彼の肉体的な部分で、それは辱めへと入れられた代理で、彼の容姿において存在へと来たものです。ですが、彼と私を見て下さい。』」

早期の教会の神父達(i.e. 官僚達)は、ピーター(ジュ・ピーター/ペトロ/ミネラル/木星)に対して、彼等の権威の源泉として見解しましたが、彼等は、ポール(パオロ/サウル)の様に、最初の西暦において、キリスト教の改宗者達に必要だった唯一の信仰の告白は、イエス・キリスト(太陽・オイル)が死(冬至)から復活した(i.e. 冬から春に成った)と言う告白と共に融合された洗礼でした。ポールがローマの使徒への手紙に書いた様に、「口でイエスは主(太陽)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者(冬)の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(10:9)と言う事です。

その教義の土台 - そして西暦1世紀におけるイエスの人生、苦悩、そして死の話しを強調しようとする - 最も初期の試みは、皇帝タイベリアス(西暦52-117年)によって、早期のキリスト教徒達が迫害された間に、西暦107年に彼が逮捕され、ローマに運搬され、ライオンの前に投げ入れられる直前に、早期の教会の神父、アンティオークの(街の)イグナシウスによって行われました。彼の半-教義的な明言は、部分的にこう読めます:「私達の主は・・・正に肉体的にデーヴィッドの血族で、神聖な力と意志による神の息子で、処女(乙女座)の正に妊娠で・・・ポンティス・パイレートと、代官ヘロッドの下で、私達のために肉体において正に釘を打たれ(神経交差し)・・・彼の復活/再来(i.e. 冬至後の太陽の復活)を通して、彼は、彼の教会の体において・・・色/旗を設定するでしょう。」これは、イエスの死に関連してポンティス・パイレートが記述された最初の例で、そしてまた、彼が「釘を打たれた」と言う明言の最初の例です。この半-教義的な明言の主な目的は、イエスの死(i.e. 12月21日)の時間と場所、彼の死に方(冬至)、そして彼の物理/身体的な復活(i.e. クリスマス/12月25日)を主張するためでした。

西暦2世紀の、数々の聖職的な記述者達の中で、存在出来るのは唯一一つの教会で、それは「オーソドックス(主流派)」(つまり、右/正統派-思考)で、カトリック(統一的)であり、使徒的(ペトロ/ピーター的)で、そして教会以外には「救いが無い」と主張したのは、イレナエウスでした。彼は、彼の著書、異教徒に対しての中で、「オーソドックス」の信仰の者達は、「使徒達からの後継を有する者達」の教えを受け入れ、そして続き/従い:「私達の中で、何らかの重要な問いの異論が派生したとして;私達は、使徒達が継続的な拘わりを持った、最も太古の教会に対して私達は頼り、この問いに関して何が鮮明で確かなのか、それら(教会)から学ぶべきではないでしょうか?」と宣言しました。彼はまた、その使徒的な伝統と信仰が、「司教達の連続/後継の方法によって私達自身の時代まで継続されたので・・・その顕著な権威のために、全ての教会は、この教会(ローマの教会/ヴァチカン)と共に同意する事が必要です」と主張しました。もう一人の早期の教会の神父、テルトゥリアン(西暦155-222年)は、グノーシス派を含み、イエスの肉体的な復活を受け入れなかった全ての異端者達を強く批難(有罪判決)しました。

西暦3世紀までに成ると、どれだけ小規模であろうと、地方の全ての教会が、一人の司教と、少なくとも2人の年長者達(神父、または役人)、そして3人のディーコン達(ゾディアックの30度の1/3、ディーカンに由来)に構成されるヒエラルキー(ピラミッド型の縦型組織)において組織されるべきとして、ローマの教会(ヴァチカン)によって指令される地点まで組織化される様に成りました。ですが、「オーソドックス(主流派)」の信仰とは何だったのでしょう?より早期の教義の幾つかの種類が、年代を通して発達させられました。キリスト教教会全体を代表する司教達の集会の最初の試みは、共通の教義を決定するために、(皇帝)コンスタンティンによって、ナイセアにおいて開かれた集会における、300名以上の出席者達に結果しました。決定されたナイセアの教義が、より早期の教義の基本的な構造を保った間、それは異端的な解釈を省くためのその条項を強化し - 特に、キリストが真の神と真の人間の両方であった事を否定する、アーリア(族/階級)の異端を省き - そしてナイセアの教義の文字通りの真実(解釈)を受け入れる事を拒む者達を非難(i.e. 有罪判決/死刑に)しました。キリストの神聖さは、「聖父の生まれ」や「真の神の真の神」の様なフレーズを挿入する事によって強調され、そしてその教義は、その内容を受け入れない者達を「カトリック教会は呪う/天罰を下す」と言う脅しと共に終わりました。

西暦381年のコンスタンティノープル(イスタンブール)の、150名の司教達の集会によって、幾つかの小規模の変更が行われました。ナイセアの教義からは削除されていた、「神聖なスピリットと処女マリアからの生まれ」と言うフレーズは、三位一体の第三者(神聖なスピリット/精霊)の教義を保護するために - 「神聖なスピリットと処女マリアからの転生であった」 - と言う、少々異なった言葉づかいで入れ戻されました。呪い/天罰が宣言される脅しもまた実行されました。その結果は、幾つかの言語の近代化と共に、基本的に、現在でも未だに使用されている教義でした:

「私は、一つの神、全知全能の聖父、目に見える、そして目に見えない物事の全ての、天地の創造主;そして神の生まれの唯一の息子、全ての時代の前に神に生まれた、一人の主イエス・キリスト;神の中の神、光の中の光、真の神からの真の神;造られたのでは無く生まれた;聖父と共に一つの実質である;彼を通して全ての物事が存在へと来る;私達の救いのために、天界から降臨した者、そして神聖なスピリットと処女マリアから転生し、そして人と成り、ポンティス・パイレートの下で磔にされ、そして苦悩し埋葬され、聖書によると三日目に再び復活し、そして天界へと昇り、聖父の右側に座り、そして生者と死者を裁定するために再び栄光と共に再来し、その王国の終わりが無い彼を信じ;そして私は、その神聖な霊(精霊)において、聖父から進む主で生命を与えるものであり、その聖父と息子と共に一所に信仰され栄光化され、預言者達を通して語られた;一つの神聖なカトリックと使徒的な教会において信じます。私は原罪の免除のために1度の洗礼を告白し;私は死者の復活と、来るであろう世界の生命に期待します。」

幸運な偶然によって、ポンティス・パイレートが、ジュデア(パレスチナ)の判事であった時にイエスが磔にされたと言う神話は、皇帝コンスタンティンの母、ヘレナが、西暦325年にエルサレムにおいて「真の」十字架を発見したと主張した時に、新たな推進力が与えられ、その同じ年に彼女の息子は、教義の問題について論議するために、司教達をナイセアに召集しました。これは、目を見張る達成と成りえたでしょう。歴史的に、「真の」十字架は全く存在していませんでした。更に加えて、もう一つの伝統によると、それは既に3世紀以前に発見されていました。カエザリアの司教、エウゼビウスは、彼の教会の3世紀の中にその伝統を記録しました。以前にも述べられた様に、「真の」十字架を発見したと言われた女性は、クラウディウスの妻、プロト二カでした。それは、西暦14年から37年まで支配した、クラウディスの叔父、タイベリアスの統治の時代に発見されたと言われました。キリスト教への改宗者であったプロト二カはローマからエルサレムを訪れ、其処で聖者ジェームズが、新約聖書によると、イエスが磔(神経交差)された丘である、ゴルゴサ(延髄)を彼女に見せました。彼女は、ユダヤ人達に、その丘をキリスト教徒達に受け渡す事を強要した後、その「真の」十字架を発見しました。その後、プロト二カと共にエルサレムを訪れていた彼女の娘が突然死にましたが、彼女の遺体がその十字架に乗せられた時、奇跡的にも生命へと復活しました。この聖書外典的な逸話は、それを記述し、そして使徒達にそれを送ったとされる、聖者ジェームズに帰属されます。

プロト二カの発見とされるのと同時期に、私達が見た様に、ローマのラテンの十字架は、キリストと、そしてキリスト教徒達の象徴としてまだ確立されておらず - それまでは、キリスト教徒達とは知られておらず、エッセネ派によって使用されたのと同じ様に、「道」として知られ - エジプトの十字架であるアンク、または魚(i.e. 魚座)を彼等のシンボルとして使用しまし:グノーシス派もまたアンクを使用し:それは、彼等のナグ・ハマディ図書館(文献)の幾つかの本の革の表紙に見られます。

プロト二カが、「真の」十字架を発見したとする伝統は、エウゼビウスによって記述されただけでなく、後にアダイの教義の中で出版されました。シリアにおけるキリスト教徒達の伝説によると、アダイは、イエスの72人の弟子達の内の一人で、教会のシリアの分派を確立するために、彼によって送り込まれました。聖書外典として考えられるアダイの教義は、西暦4世紀に公へと現れ、それは西暦325年における「真の」十字架のヘレナによる発見の逸話として重要で、真実として広く受け入れられていますが、明らかに、プロト二カの伝説の複製です。ヘレナは79歳の時にエルサレムを訪問し、其処で彼女もまた、ゴルゴサ(延髄)における発掘の結果、「真の」十字架(神経交差)を見つけたと言われました。彼女の場合、彼女の発見の正当性は、その十字架の上に、身体障害の女性が寝かされた際に、彼女が奇跡的に回復した事によって証明されました。

早期のキリスト教の象徴

A. これらは異なった形状の十字架で、西暦4世紀までキリストのシンボルとして使用されました。それらは全て、永続的でスピリット的な生命の象徴である、エジプトのアンクを表します。西暦5世紀に、処罰/原罪の象徴である、ラテン・ローマの十字架とアンクを入れ替えたのはローマ(ヴァチカン)でした。
1 Ankh

2 Ankh(1)

3 298x476

B. キリストのためのギリシャ語の言葉の最初の2文字 - chi(X) と rho(P) - の構成である頭文字、Chi-Rhos (キ-ロ)。

4 Labarum2

5 ChiRoSymbol

ヘレナは彼女の発見の主要な部分を、ゴルゴサの場所に設立された教会の中に奉納しました。残りの一部は、西暦328年に、皇帝コンスタンティンの新たな首都として、コンスタンティノープル(イスタンブール)と成った、ボスフォラス海峡の太古のギリシャの街、ビザンチウムに送られ、そしてコンスタンティンの像の頭の中に納められ、そしてもう一つは、それを納めるために、新たな教会、サンタ・クロース(神聖な十字架/クラストラム)が建てられたローマへと送られました。ヘレナの発見とされる有名な主張は - 当時、「オーソドックス(主流派)」のキリスト教徒の信仰の、欠かす事の出来ない要素であると同時に、歴史的な正当性があるとされ – 彼女の十字架の小さな欠片(模造品)は、黄金と宝石で装飾され、とても価値の付けられない遺物を所有する事を望んだ、裕福な信者達に売られました。

その人気商品の最終的な成り行きとして、その「真の」十字架の大量の遺物は形を変え、何種類かの十字架に結果しました。今日、更なる遺物は、世界中を通してローマのカトリック教会において見つけられます。有限の源泉からの、その様な多種多様/過度な遺物の問題への、早期の解決策が見つけられ:「その遺物が商品価値の低下に苦しまない様に(et quasi intacta maneret - そして、言うなれば、損なわれない様に)『十字架の増幅』の奇跡が捏造され」(Paulinus Epistula II ad Serverum)、* 遺物のユーザリーの一種でした。

* 国際基準の聖書の大辞典。

此処で、19世紀の初めに、近代考古学の父、サー・フリンダース・ペトリーと共に働いたエディス L. ブッチャーが、エジプトにおいて彼女が発見した十字架の異なった形状を収集した事に着目するのは指導的です。ペトリー自身も同じ事をイタリアにおいて行い、そして彼等は一緒にその研究結果を公表しました。ブッチャー夫人は、こう明言しました:

「救世主(メシア)であるキリストの象徴としての、キリスト教徒達による十字架の使用は、(皇帝)コンスタンティンの時代まで、一般的な使用として現れていなかったと、一般的に同意されます。それは、古い信仰と、新しい信仰の間のリンクとして、ある時には、「生命の鍵」、またある時には、「来るであろう世界の生命」と呼ばれた、エジプトのヒエログリフ(象形文字)的なサイン、アンクの形状を応用した、エジプト人達によって、より早期から使用されていた様です。

「皇帝テオドニウスの命によって、セラピスの大いなる寺院が正式に破壊された時、彼等がヒエログリフと呼んだ特定の文字が、十字架の形状をしていると、あらわにされました。キリスト教徒達はこれらが、その大いなる寺院の建物がその昔、彼等の信仰に帰属していた証拠であると主張しました。ですが、太古の記述を読める異教からのキリスト教への改宗者達は、その記述を解釈しました。十字架に似ている文字は、太古の日々において「来るであろう生命」を象徴したと、彼等は述べました。」
- エジプトにおける十字架、エディス L. ブッチャー著、
- イタリアにおける十字架、W. M. フリンダース・ペトリー著、
ロンドン、1916年、97ページ

更に加えて:

「年代鑑定できる(イタリアにおける)最も初期のキリスト教のシンボルは十字架では無く、XP の頭文字、「Chi Rho (キーロ)= CHR (キリスト)」でした。コンスタンティン以後これが、紋章としてローマの貨幣上に見つけられるローマ正規軍の紋章であった事に、疑う余地はありません・・・私達はその印しが、円に囲まれた縦長の十字架であるべきと予想していましたが;この形状は1世紀後まで現れませんでした・・・キリスト教の象徴としての最も初期の例(XP の頭文字)は、西暦323年であると言われます」
- IBID (同書)、102ページ

そして:

「グラティアヌスの貨幣に(ローマ/ヴァチカンの)十字架が現れるのは、西暦380年においてです。」
- IBID 、104ページ

コンスタンティンは、ローマ郊外のミルヴァン橋の戦いにおいて、彼のライバルで義理の兄弟だったマックスエンティウスを倒した後、西暦312年に西ローマ帝国の皇帝と成りました。その1年後、彼と、東ローマ帝国の皇帝リシニウスは、ミランの勅令を配布し、それはローマ帝国において許される宗教の一つとして、キリスト教に正式な認識/許可を与えました。それ以後、コンスタンティンは、彼自身を、彼がキリスト教徒達の神と認識した、最も崇高な神の選ばれし従者として考えていた事が、彼の手紙や勅令などから明らかです。その後の10年を通して、彼の法律制定は、キリスト教的な影響の多くのサインを見せました。司教達には市民的な権力が与えられました。彼等は市民裁判を裁く事ができ、彼等の判決は最終的でした。彼(コンスタンティン)は、キリスト教の慣わしに沿って、日曜日(太陽の日)を公共の休日としました。

(東ローマの皇帝)リシニウスが、東ローマにおけるキリスト教徒達の迫害のキャンペーンを再発させる事によって市民戦争を挑発し、そして西暦324年の戦いにおいて打倒されるまで、コンスタンティンは、唯一の皇帝ではありませんでした。この時点以後、コンスタンティンの増大していった信仰は、彼の時間をもっと更に、彼の宗教的な学習、聖書と神学的な研究の読書、説教/法話の拝聴、そして彼自身が、彼の宮廷において説教/訓戒を説く事で、当時の教会の中で激しく争われていた宗派分裂に彼自身を拘わらせました。彼は、ローマ、コンスタンティノープル(イスタンブール)、アンティオーク(シリアのマケドニア王国の昔の首都)、そしてパレスチナの聖地における、教会の建築に大々的に出費しました。

心半分な方法で、ペイガン主義(異教)に寛容であった間、彼は幾つもの有名なペイガンの寺院を破壊し、他者達の財宝を略奪し、信仰の像などから黄金を剥がし奪いました。教会と、彼のごひいきの人達への、彼の黄金と土地のギフトと、(元々はビザンチウムで、西暦330年の5月に最終的に奉納された)新たな首都、コンスタンティノープルへの出資は、大規模過ぎて、彼は上院議員達への新たな徴税、そして商人達や工芸人達に対するゴールドとシルヴァーの課税をせざるをえませんでした。彼はこの気前の良さから、彼自身を除外しませんでした。彼の晩年、彼は様々な色のカツラを被り、刺繍されたシルクのローブをまとい、そして彼自身を宝石で飾る、異様な人物と成りました。

コンスタンティンは幸運な者達の内の一人でした。新鮮な空気と温かいお風呂が、彼の悪化する健康を治す手助けに成ると望み、西暦337年に、小アジア(トルコ周辺)のニコメディア(の街)の住宅街の宮殿に彼が移転した時、彼は64歳で亡くなりました。彼の病気は、彼の友人であり司教であったエウゼビウスによって執行された洗礼を通して、正式に信仰者達の団体に加わる機会を与えました。

彼が死を目前にして横たわっていた際に、もしコンスタンティンがクリソストム(Chrysostom)の警告を熟知していたなら、彼は、彼の星の大きさや輝きについて楽観視出来ないと感じていたでしょう。彼の人生において、その他の物事と共に、彼は、あまりよく知られていない人物、ミネルヴィーナとの彼の婚姻においての唯一の子供、クリスプスを殺害した罪を有していたと言われます。その殺人は、有能で人望のあったその王子(第一子)に対して、凄まじいライバル心を燃やし、コンスタンティンによって彼女自身が産んだ3人の息子達のために野望を抱いた、コンスタンティンの第2妻、ファウスタによって指導されたとされます。それは西暦1世紀の間に、キリスト教徒達に対する迫害で悪名を得たネロに匹敵する大量殺害によって続かれました。コンスタンティンはまた、市民戦争におけるリシニウスの敗北の後に彼を殺害し、そしてその後、ルシニウスの同名の息子で、コンスタンティンの甥であったルシニウスを殺害した責任があり; - そしてそれに関しては幾らかの疑問はありますが - 熱湯風呂の蒸気によってファウスタを窒息死させて殺害したと疑われています。

結果として、帝国的な紫(の衣装)を着た最初のキリスト教徒、コンスタンティンは、乱暴な気性を持ち、野望によって推進された、親切であると同時に信じられない程に非道な、弱く、優柔不断な統治者として非難されました。彼のライバル達に対する扱いにおいて、彼は不徳であると同時に無慈悲でした。そうであれ、キリスト教をローマ帝国の公式な宗教に定め、教会に市民に対する権力を与え、そして彼の気前の良い出資においてそれを保護した彼の行動は、世界のその後の歴史のために - それら成り行きがどれだけ歴史的だったのかがはっきりするまで、さらに40年が過ぎる事を必要としたとしても - 記録的(歴史的)な成り行きを有していました。 

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