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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第22章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第22章
アフメド・オスマン著

パート3

第22章: メシア/救世主的な信仰の根源


近代のキリスト教を形造る重要な影響の一つは、2つの神学、イスラエライト派とエジプト派の融合でした。「オーソドックス(主流派)」のキリスト教の台頭に対して、彼等(イスラエライト/エジプト)によって成された貢献を理解するために、より早期の人々が信じた事を、私達が理解する事が必用と成ります。アケナーテンとしてのモーゼスの教えの中心にあったのは、唯一で一つの神の存在でした。エジプト人達は、多数の神々(i.e. アヌンナキ)を信仰しましたが、メシア(救世主)的な信仰、永遠の命の約束、そして洗礼の儀式の救い(i.e. 覚醒)は、大昔からのエジプト的な概念でした。

エジプトの救いの信仰の土台は、エジプト人達が、彼等の王達(i.e. 天孫達)に帰属さた、神聖な本質でした。(紀元前27世紀の)第4王朝から、王(ファラオ/神官王)は宇宙的な神、ラー(真昼の太陽)の人間の息子として見解されました。王の行動は、彼の父の命例の現実化として見られました。神、ラーと、王の間のこの特別な関係はその統治者の人生における3つの主要な出来事 - 彼の神聖な誕生、彼の即位の際の彼のアノイント(オイルを塗る儀式)、そして彼の死後の復活(i.e. 太陽の復活)において体現されました。

王の神聖な誕生は文献の中だけに記述されているのでは無く、Deir el-Bahari の女王、Hatshepsut の死者の寺院の中央の柱の北の城壁と、アメンホテップ3世によって建てられたルクソールの寺院の広間において見つけられる場面(壁画)にも見られます。ドイツのエジプト学者、ジークフリード・モレンツは、彼の著書エジプトの宗教の中でこう指摘します:

「繁殖と誕生の両方の場合において王は、国家的な神(アムン-ラー)と、統治しているファラオ(神官王)の間の統一から派生すると描写され:神は、ファラオの変わり身(代理)において、故に祝福された女性に近づいている様に表されます。その絵と文章は、その場面を繊細な詳細と共に描写しますが、性的な統一の行動の上に、正直に基づけさせます。其処には古代ギリシャ時代後期の、イエス(太陽)の奇跡的な誕生(復活)のキリスト教的なアイデアに繋がった、とても特徴的な、美的でスピリット的な扱いは全くありません。」

王の即位の際に、その統治者は、神聖な王的役職の責任者に成りました。即位の儀式に含まれていたのは、水による清め(洗礼)、アノイント、王族の衣装の装着、役職のセプター(王杖)の受諾、彼の頭の上に2つの地(黒と赤)の王冠を置く事、そして彼の決められた王族的な名前と称号の宣言でした。王は、オイルでアノイントされるのでは無く、神聖なクロコダイルの脂肪で、アノイントされました。此処において私達が見つけるのは、メシアと言う言葉の元々の語源です。メシェ(MeSeH)は太古のエジプトにおけるクロコダイルのための言葉で、そして2匹のクロコダイルのイメージは、ソヴリン(主権)の称号のために使用され、王の即位の時に、王に与えられました。

アレクサンドリア
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その統治者の人生における最後の決定的な出来事は、彼の死と復活でした。彼の即位において、神聖な世界に入った事によって王は、彼の死の時において、人間の世界に帰属する事を終えました。彼は、エジプトの黄泉の国/下界の神である、「オシリスに成った」と言われました。死の瞬間から、オシリス-王は、神々と共に、(一つの/統一的な)永遠のスピリット的な存在を分かち合うと信じられました。

私が既に指摘した様に、死において、スピリット的な要素は、肉体を離れる間、もしその肉体が安全に保たれ、魔術(化学)的なフォーミュラによって保存されれば、未来のある時点においてそれ(スピリット)が戻ると言うのは、エジプトの信仰の本質的な部分でした。それは何故、エジプト人達が、ミイラ化のためにその様な加工を施し、彼等のお墓を安全にしたかの理由です。オシリスの信仰は、ピラミッドの建設者達の時代であった、紀元前27世紀まで遡られました。彼は太古の王の一人として見られ、彼の第2の人生を否定するために、彼の体をバラバラにした、彼の弟セトセット/サンセット/夕日)によって、(新約聖書のイエス/太陽と同じように)金曜日に殺害されました。しかしながら、彼の妻アイシス(Isis)は、彼の体を再び揃い集める事に成功し、そして魔術的な儀式を使い、彼の体を再び再結集させ、(再びイエスの様に)3日後(i.e. 冬至からクリスマス)に彼を生命へと甦らせましたが - 地上においてでは無く、黄泉の国においてで、其処で、物理的/身体的に復活し、彼は死者の神で、裁定者と成りました。

幾つものピラミッドの埋葬の室の壁に刻まれたピラミッド文献は、オシリスの神官達による暗唱/朗読を含みます:「これは、オシリスよ、貴方の息子です。貴方は、彼が繁栄し、そして生きた原因に成りました。彼は生き、この王は生き・・・彼は消滅したのでは無く・・・彼は持続し、この王は持続します。」学者、J. グイン・グリフィスは、彼の著書オシリスと彼のカルト(信仰)の起源の中でこう述べます:「これらの言葉、そしてこれ等に似たその他が、人間の歴史においてとても重要なのは、それらが死後の生命における信仰の、文学/文献における、最も初期の表現であるためです。」

当初、永遠の生命の約束は、高価な埋葬の儀式を出費出来た、王族達と貴族達に限られていました。しかしながら、第18王朝の後期におけるツタンカーメンの死に続く時代から、セラピスのカルトの台頭において、オシリス神学における変化の長い行程が結果し、その(セラピスの)信仰者達は、もし彼等がその神における信仰を告白し、入門の儀式を経験すれば、ミイラ化の必要性無しで、永遠の生命の約束に、参加出来る様に成りました。その結果として、貧乏人にも金持ちにも開かれていたセラピスの信仰は、エジプトにおける最も人気のある宗教と成り、そして最終的にその国家の公式な宗教として、その他のカルトと入れ替わりました。

セラピスの信仰は元々、エジプトの2人の神々 - オシリスと、それからその名前(セラピス)が派生した、メンフィスの神聖な雄牛(i.e. 牡牛座)、アピスに基づいていました。元々(牡牛座の時代に)、メンフィスの太古の神プターに関連させられていたアピスは、後にオシリスに関連される様に成りました。その頃より、アピスの雄牛の死(牡牛座の時代の終わり)は、重要な出来事に成りました。彼は、国中から彼のためにお供え物をもたらした信仰者達の集まりの前で、公式な葬儀が与えられました。アピスの雄牛は、彼が死んだ直後に、彼は生まれ変わったと言う感覚において、永遠の生命を楽しんだと信じられました。神官達は、額、首、そして背中の上の黒い点で確認出来る、アピスの代理のために、周りを探しました。彼(代理の子牛)が見つけられると、通夜は喜びへと入れ替わられ、そしてその神聖な子牛は彼の母と共に、頭を下げた信仰者達に囲まれ、メンフィスの彼の神聖な牛小屋に入れられました。

彼が死んだ時、アピスの雄牛は、メンフィスのセラペウムの地下の回廊に埋葬されました。それは、自主的な修道僧達によって奉仕され、奇跡的な治癒を受ける事を望む病人達によって訪れられた「サナトリウム(療養所)」を含みました。

セラピスのカルト(信仰)は、キリスト教-以前のエジプトにおける、プトレミー(プトレマイオス)王朝から時代設定されます。アレクサンドリアの街は、(ヨーロッパ南東の太古の国だった)マケドニア(現在のマケドニアでは無く、ギリシャ北東のマケドニアの)王、アレクサンダー(アレクサンドル大王)によるエジプトの征服の後に、彼によって、キリスト教時代の3世紀以前に確立されました。それはその後、紀元前30年に、(それ以前に、彼女自身の兄弟、プトレマイオス13世を死へと追いつめた)クレオパトラ(7世)が、彼女の愛人、マーク・アントニー(マルコス・アントニウス)と共にローマ(帝国)に対する反乱が、アクティウムの海戦における敗北に終わった後、彼女の胸を毒蛇に噛ませる事によって自決した時まで、プトレマイオス家によって統治されました。

その間の世紀の間、プトレマイオス家の首都であるアレクサンドリアは、文明化された世界の国際的な街で文化的な中心と成り、その名声は、ローマの政治的な優越性が確立された後でさえ保たれました。彼等の軍役の代償として、豊かな農地が与えられた、ギリシャ-マケドニアの退役軍人達、アジア人達、ユダヤ人達、シリア人達、そしてリビア人達の大規模な移民がエジプトに到着しました。これらのコミュニティーは、エジプト人達、そしてお互いと婚姻し合い、その伝統と宗教的な信仰が融合した文化に繋がる社会を創造しました。この融合の初段階の行程において、プトレマイオス1世ソーター(紀元前304-284年)は、ヘリオポリス(の街)のエジプト人の神官、マネトの手助けと共に、(時にはサラピスと呼ばれる)国家の公式な宗教、セラピスのエジプト的な信仰を紹介/組織し、彼の多文化的な国民達の信仰を統一しました。

プトレマイオス1世ソーターは、ギリシャ-ローマの世界(帝国)全体を通して、エジプト的な文化を広げるための、疲れ知らずの貢献者でした。その結果として、神セラピスのカルトはアレクサンドリアからギリシャ、そしてイタリアまで短期間に広がり、時の経過と共に、オシリス、彼の妻アイシス(Isis/イシュタル/マリア/乙女座)そして、彼等の鷹-頭の息子、ホルス(朝日)によって構成される「神聖な」一家として表現される様に成りました。キリスト教時代の最初の世紀の前半において、そのカルトはローマにおける断然的に人気のある宗教で、それは紀元前105年まで早期に、セラピスの寺院を有していました。入門の儀式の後に、男性同様に女性が受け入れられる、黄泉の国/下界についての神秘と、アイシスの神秘的な儀式を含む、オシリス(信仰)の特徴の多くを受け継いだセラピスの魅力は、それらが信仰者達に提供した(スピリットの)不死の、はっきりとした約束に上に、主に基づいていました。アイシス自身は、全ての女性達の試練を苦しんだ、悲劇の聖母的な人物として見られました。

当時の権力者達は、より偏見的な見解を取りました。エジプトに関する全ての物事は、マーク・アントニーとクレオパトラの反乱の後、ローマの権力者達の間で特に不人気でした。西暦19年に、(皇帝)タイベリアスが、軍事年齢のフリードメン(元奴隷達)をサルディニア島に追放した時、それらにはセラピスの信仰者達と同時にユダヤ人達も含まれ、そしてその皇帝はアイシスの寺院を破壊し、彼女の像を、テベレ川に投げ入れさせました。しかしながら、彼女とセラピスの信仰は生き残り、早期のキリスト教の発達の、重要な要素に成りました。

セラピスとアイシスのカルトは、キリスト教の台頭において生き残っただけでなく、西暦2世紀において実際に、人気を増しました。新たな聖域(寺院など)が数多く建設された事が知られており、それらの遺残の2世紀と比較すると、奉納的な(壁画などの)記述が大々的に増えました。キリスト教とペイガン(異教徒)のカルトは、キリスト教時代のこの初期の段階において心地よく(争い無く)同時に存在しており、頻繁に入れ替え可能として見られていました。キリスト教徒達は、キリストとセラピスを区別せず、そして頻繁に両方を信仰しました。西暦134年に、アレクサンドリアに訪問した後、皇帝ヘイドリアンは、彼の年上の義理の兄、セルヴィアヌスに手紙を書き、その中でこう非難しました:「我が親愛なるセルヴィアヌスよ、では貴方はエジプトを讃えるのですか!私は噂の流布によって影響された、気まぐれで扱いにくいその国を、頭の天辺から足元まで知っています。その中で、セラピスの信仰者達はキリスト教徒達で、そして彼等自身をキリストの司教と呼ぶ者達は、彼等の誓いをセラピスに対して結びます・・・家長自身がエジプトを訪れるといつでも、彼は人々によってセラピスを信仰させられ、その他によってはキリストを信仰させられます。」*

西暦1世紀におけるイエスの人生、苦悩、そして死の説明が広まり始めると直ぐに、この2重の知覚を理解するのは簡単でした。彼とオシリスの逸話はとても似ていました(着目されるべきは、セラピスが、オシリスとホルスの両方の特徴を融合させ、そしてアイシスとの関係において、それらと入れ替わった事です)。両方が、男達と女達が、不死を確かにするために頼る事の出来る救世主として表されました。オシリスと彼のカルトの起源の中で、学者 J. グイン・グリフィスは、ミイラ化によってその体が保存されたオシリスと王族と貴族の場合、死は眠りの一種として見解され、予測/意図されたのは、保存された体が再び立ち上がる事だったと指摘します。**

* 新たな考古学的な発見は、セラピスの修行者達が、テラピュータエ派の様に治癒者(医者)だった事を表します。(紀元前165年に)メンフィスのセラピス信仰に入門した修行者達に対する言及がパピルス(紙)の破片の中に見つけられました(Acad. Des Inscript. Et belles-letters, mem. present. Pardivers savants, 1st series, ii 1852, pp. 552ff.; Bibliotheque Imperiale, notices et extraits des mss., t. 18. 1858, pp. 261ff.)「セラピスに憑依された」と言う名前で知られていたこれらの隠遁者(世捨て人)達は、寺院、またはそれらに属した建物に住んでいました。セラピスが治癒の神であったために、彼等は治癒(治療)を得る為、または潜伏期の儀式による神託(診断)を得るために集まりました。明らかなのは、故に、修行主義/禁欲主義が、修道院主義の遥か以前から、エジプト的な生活の中へと入っていた事です。幾らかの学者達は、西暦3世紀中頃におけるエジプトのセノビ主義の創立者、パコミヌス自身が、セラピスの修道僧であったとさえ主張しました(E. Revillout, Revue Egyptol., 1880, p. 160; G. Grutzmacher, Pachomius und das Ulteste Klosterleben, pp. 39ff.)ボハリックの方言で書かれたコプト派の文献の一つによると、キリスト教セノビ派の創立者、聖者パコミヌスは、セラピスの修道僧で、それはまたアラブ語の文献(Annales du Musee Guimet, xvii. 6ff., 342ff.)の中において確認されます。西暦391年のセラペイム(の街/寺院)の破壊の後、セラピスの神官達はその神が天界に上昇し、キリスト教教会に加わったと宣言しました(ケンブリッジ古代の歴史、v.13、1998年、635ページ)。


** 人間は、物理/肉体的なものと、スピリット的なものの、2つの要素によって構成されるとエジプト人達が信じたので、ミイラ化は、彼等によって始められたものでした。もし彼等が、物理的な体を保存出来るなら、未来におけるいつの日か、カー(KA)のスピリットは、それに戻るとされました。それは何故、彼等が、彼等の死者達をミイラ化し、安全なお墓を建て、それらの中に保護的で魔術的な呪文を書いたかの理由です。高価な埋葬の費用を出費出来たのは王族と貴族達だけだったので、死後の生命を望む事が出来たのは、彼等だけでした。キリスト教がとても大人気に成ったのが何故なら、対照的にそれが、復活したキリスト(i.e. 太陽)の信仰における洗礼を受けた誰しもに対して、死後の生命の約束を提供したためでした。しかしながら、死後の生命におけるこの信仰は、主にエジプト独自で;その他の太古の国家はそれを有していませんでした。ヘブライ族は、死は生命の終わりと信じ、モーゼスもアケナーテンのいずれも、死後のスピリット的な生命について、全く述べませんでした。これは、ヘブライ族であれ、その他の太古の人々であれ、ミイラ化を行わなかった事を説明します。

彼は続けてこう述べます:「同時に私達は、目の前の体が死後に再び立ち上がる、または信じる者達には新たなエーテル的な体が与えられると言う感覚において、体に応用された復活のキリスト教的な教えを良く知っています。これらの感覚の前者は、オシリス的な信仰に近いです。これに関して、復活と言う言葉の使用は、全体的に誤りではありません。実際に、眠りと死の比較はまた、エフェシアンズ5:14の様に、キリスト教徒の思考/教義において、時々、見つけられます:「眠れし貴方よ、死から立ち上がり、そしてキリスト(太陽)は貴方にを与えるでしょう。」

キリスト教の脇に沿った太古のエジプトのセラピスのカルトの生き残りはまた、カルタゴ、アテネ、そしてローマにおいて教育されたプラトン主義派のルシウス・アプレイウスによる想像的な小説、黄金のロバの中でも特に鮮明です。その本の1956年版の彼の前書きの中で、アングロ-アイリッシュの詩人、故ルイス・マクニースは、西暦120年頃に生まれたアプレイウスは、「対立している神秘主義の宗教(宗派)が、人々の支持のために争っている時に、両方の世界に足を踏み入れたのは自然的で、その間、伝統的なペイガン(異教)主義と論理的な哲学は取り残され」、早期の教会の神父達は、「彼を忌み嫌いました」と記述しました。

彼の小説は、アプレイウスが魔法によってロバに変えられてしまった後の様々な冒険と失敗を描写しましたが、それ(彼)はその本の終わりに、アイシス(Isis)とセラピスの慈悲深い介入によって、人間の形状に戻されました。その女神(アイシス/イシュタル/マリア/乙女座)はアプレイウスの前に現れ、彼女が数多くの名前 - ミネルヴァ、ヴィーナス(金星)、ダイアナ、プロセルピナ、セレス、ジュノ、ベロナ、ヘカテとして知られ - 「そして太古の教義のあらゆる種に精通するエジプト人達は、彼等の正しい儀式によって私を信仰する事に馴れていて、私を女王アイシスと呼びます、」と説明します。

日の出の後、アプレイウスは、「セラピスに献身したトランペットの演奏者達」を含む集いの宗教的な儀式に参加するために行きましたが、様々な神官達の内の一人は、「エジプト人の技法の様に描かれた容姿(絵)を一面に持つ、丸い底の入れ物(壺など)を持っていました。偉大な神官がアプレイウスを人間の形状に戻した後、彼(その神官)は彼(アプレイウス)にこう伝えました:「見よ、ルシウス、貴方は女神アイシスの神意によって、とても大いなる悲惨さから解放されました・・・貴方自身をこの神聖な秩序(宗教)の一部とし・・・宣教の自主的な首かせ/責任を取りなさい。」

アプレイウスは、彼がどの様にローマへ旅し、其処における彼の最大の望みは「ソヴリン(主権者)の女神アイシスに、日々、私の祈りを捧げ・・・ローマの人々によって、継続的に尊敬される事」で、そしてアイシスと同時に「全ての女神達のソヴリンの父である」オシリスの宣教師に成る事によって、彼の宗教的な拘わりを強化する事であったと説明しました:「私は頻繁に、夜に行われたセラピスの生贄に出席し、それは私に大いなる安心を与えたものでした。」最後に、「偉大なる神、オシリスが、彼自身の本質以外の何ものでも無い形状で、夜の間に私に現れ、私の教義のため故に、私を恨む、悪意ある人達の悪口と妬みを恐れず、宮廷において私が宣教するべきであると、命令しました。」

アプレイウスはまた、復活の約束が、アイシスの儀式に含まれていた事を証明します。それらは神秘主義/信仰者達が、彼等の死後において、その女神に出会い、崇拝する事を約束しました。これは、次の世界においてキリスト教徒達が神に出会うと言う彼等の約束との、明らかな平行線でした:「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」(マタイ5:8)。

「オーソドックス(主流派)」のキリスト教が広まると、後に、コプト派の教会の中でキリストを表すために使用されたのと同じスタイル(技法)の巨大な像を含んだ、アレクサンドリアの、プトレミー(プトレマイオス)1世によって建てられたセラピスの寺院は、セラピス信仰の中心に成りました。彼女の息子、ホルス(朝日)とアイシス(Isis)の絵は、キリスト教徒達によって、マリア(マリー/水/海)と彼女の息子、イエス(太陽)の肖像画と同一視される様に成りました。セラピスのカルト(信仰)の、入門の祝いの一部であった洗礼の儀式はまた、教会によってキリスト教の入門の儀式の一部として応用され、今日まで残っています。

1950年のエジプトの考古学のジャーナルの中の記事において、英国のエジプト学者、サー・アラン・ガーディナーは、エジプトの洗礼が、後のキリスト教の洗礼の類推であると見られるべきであると主張しました。彼は36個の場面を指摘し、そのうちの一つはヴァチカン博物館にありますが、それらは異なったファラオ(神官王)達が、水によって儀式的に洗礼されているのを表します。類似した表しは死んだ貴族達、または(彼等がオシリスと一つに成ったと言う意味で)オシリス化された王達のお墓における、葬儀の儀式にも見つけられます。洗礼のそれらの2つの形状の間の類似性について、サー・アランはこうコメントしました:「両方の場合において、水による象徴的な清めは、正しく、正式な宗教的な生活/人生への、入門の儀式の役割を果たします。」

Deir-el-Bahri の Hatshepsut の寺院と、ルクソールのアメンホテップ3世の寺院の彼等の神聖な誕生の場面は、赤子が洗礼されている場面を見せます。その追随する文章はこう読めます:「貴方のカー(魂)と共に純粋であり・・・貴方は[永遠に]生き続け給え。」それらの場面の全てにおいて、洗礼された人の頭の上に、水差しから注がれた水は、エジプトの生命の象徴である、アンクの流動として描かれました。

洗礼の実施において、神聖な生命を与える要素であり、また、繁栄、繁殖/実り、そして家族の健康を確かにすると見解された、ナイル川の毎年の夏の氾濫の水を、可能な限り使用するのは、風習でした。エンジニア/科学技術な複雑化の発展と共に、その様な「生きている水」 - つまり、祝い/儀式において使われる鉢/洗面器へと流れる - 流れている水が通る、パイプのシステムを配管する事によって、象徴的なナイル川の氾濫を創造する事が習わしに成りました。

西暦6世紀までに成ってでさえ - セラピスの信仰者達として - キリスト教徒達は、ナイル川の夏の氾濫の水が、特別な性質を持っていると考えました。十分に近くに住んでいた者達は、ナイル川の毎年の上昇が始まると、祝福と水の収集のために、その川の土手に集まりました。遠くに住んでいた者達は、実際の川の代わりとして鉢に貯めた水を祝福しました。「生きている」水を使う重要性は、早期のキリスト教徒達によって保たれました。最も相応しい水は、湧水、川、または海において見つけられる水と考えられました。キリスト教の広まりと共に、しかしながら、洗礼を屋外で行う事は、次第に珍しく成りました。ですが、洗礼的な水が流れることが出来るパイプのシステムを配管する事によって、「生きている」水を使う、古いエジプト的な風習が保たれるために、努力が成されました。

後の世紀において、キリスト教徒達は、洗礼の儀式のための「生きている」ナイル川の水の重要性の、太古の伝統を忘れてしまいました。そうであれ、使用された水は「聖水盤」の中に含まれ - 流れる水、または泉の象徴で - そして「生きている水」の象徴は、洗礼されている人の頭の上にそれを注ぐ事によって保たれています。

オベリスクは - 元々、太陽信仰に関連した太陽の象徴(日時計)でしたが - それらの早期の世紀の間のキリスト教の教会の第2の変形として描写されるかも知れないものと、太古のエジプトの信仰の間の共通性の更なる示唆を供給します。エジプトから輸送された(盗まれた)オベリスクは、世界における8か所に比較して、13本がローマで見つけられます。ローマ的なコレクションの最大のものは - 100フィート以上の高さで、400トンを超え - ローマのラテラノ地区の大聖堂の、サン・ジョヴァンニ広場の中に立っています。その巨大なオベリスクのための石は、その18世紀前に、アスワンにおいて、トトメス(トート・モーゼス)3世(デーヴィッド)によって採掘されました。その首都が上エジプトのテーベであった国家神、ラーとアムンの信仰の間の進行している融合の期間において、オベリスクは、それが主要なカルト(信仰)の物体であった、近隣のカルナックの大いなる寺院において立てられました。

ラテラノのオベリスクは、大コンスタンティンのキリスト教への改宗の14年後、西暦326年における彼による、ローマへの贈り物(盗み物)でした。コンスタンティンは、ローマにこのペイガン(異教)の象徴を送る事と、彼のキリスト教の信仰の間に表される矛盾を全く知覚しませんでした。新カトリック大辞典は、彼が死ぬまで「無敵の太陽(制圧される事の出来ない太陽神)」の伝説を彼の貨幣と建造物に使用し続け・・・それ処か、無敵の太陽は、ヴァチカンの聖者ピーターの下で発見された(西暦250年)、大霊廟の中の - アポロの形状におけるキリストの容姿として - アポロ-ヘリオス(太陽神)としてのキリストにおいて証明される様に、キリスト教徒的な感覚において、キリスト教徒達に応用されました。」

その巨大な大きさを考慮すると、コンスタンティンが西暦337年に死んだ時、ラテラノのオベリスクは、アレクサンドリアの港までしか運搬されていなかったのは驚きではありません。それは、西暦357年に、大コンスタンティンの息子であったコンスタンティン2世がそれを送るまで、その後も20年間、其処に留まりました。同時代の歴史家、アミアヌス・マルセリヌスによって記述された最終的な輸送の説明は、彼の活動によってその皇帝が、宗教的な中心を、エジプトからローマに移そうとしていた事が鮮明に示唆されています:「コンスタンティンは・・・その巨大な物体を、その土台から[引き離し]、もし彼がこの素晴らしい物を一つの寺院から取り、ローマ - 言い換えれば世界全体の寺院において奉納すれば、神聖冒涜を犯していないと、正当に考えました。」

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