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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第21章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第21章
アフメド・オスマン著

パート3

第21章: 福音書


4冊の(教会に)正式に認められた福音書は、私達が見てきた様に、イエス(太陽)の人生、苦悩、そして死(冬至)を、西暦1世紀において配置する事を通して、それによってローマの教会(ヴァチカン)が、それ自体の権威を正当化しようとした行程の一部でした。この行程は、順を追って - オーソドックス(主流派)のキリスト教徒に成るために、信じる事が必用であるもの - 使徒信経のための土台を供給しました。それらの4冊の福音書は、マヒュー(マタイ)、マーク(マルコ)、ルーク(ルカ)、そしてジョン(ヨハネ)の名前が与えられていますが、それらが最初に書かれた時点と、それらが最終的にその教会によって受け入れられた(認められた)時点の間に、多大な編集の作業(改竄)が起こったのは明らかです。

使徒言行録の書と II ティモシー(テモテの手紙2)の中で、バルナバスとポールの同行者として名前を上げられるマークは、4冊の正式に認められた福音書の、最も最初の書の著者として、聖書的な学者達によって考えられました。正確な日付けは知られていませんが、学者達は一般的にそれを、西暦1世紀の最後の25年に位置付けます。マヒューとルークの両方が、マーク(の記述)とその他の源泉(情報源)に頼ったので、それらが彼の後に年代鑑定されるべきであると受け入れられました。マヒューは西暦2世紀の前半に年代設定されました。ルーク的な言及、特にイエスの生誕に関連しているものは、その世紀の後半まで、教会の神父達の記述の中には一切現れず、その同じ時代において、4人の福音書の著者達の中で、最も歴史的に関心が無かったジョンによって続かれました。

英国の政治家であり、ギリシャ語の学者で、マヒューの福音書のギリシャ語の文献を翻訳したエノク・パウエルは、西暦1世紀の終わり以前でさえ、それが大々的な「編集(改竄)の対象であったと注目しました。1994年にイェール大学によって出版された彼の著書、福音書の進化の中で、彼はこう述べます:「根底にある文献は、神学的、そして論争的な意図と共に過度に再編集され、そしてその結果的な編集版は、その後現存する福音書を産出するために、根底の文献と共に再融合されたと、マヒューは明かします・・・パイレートの面前の裁判は、2番煎じの複製で、その高神官の面前の裁判からの資料の再-利用で、それの中からそれは製造されました。」

1967年にワシントンの米国カトリック大学によって出版された、新カトリック大辞典は、殆どの「聖書的な記述は、最終的な出版の前に、多大な再編集と改竄が行われました。故にその著作権は、以前に考えられたよりも遥かにグループ活動的でした、」と認めます。それらのどの部分が、誰によって記述されたのかを確立する事を試みるよりも、西暦2世紀の終わりに台頭し、その1世紀の後に「オーソドックス(主流派)」として受け入れられたヴァージョンに集中する事は、問題/題材を単純化します。

皮肉にも、最初に知られている新約聖書の正典/教会法令集(通常、「オーソドックス」として見解され、受け入れられる聖書的な働きのリスト)は実際に、ローマの教会に対する対峙者達の主要な一人である、マルシオンと言う名のグノーシス派によって編集され - そしてマルシオンの法令集の内容と、彼に個人的に起こった成り行き以上に、グノーシス派の信仰と、台頭してきた権威的な「オーソドックス」の教会の間の衝突の、より鮮明な構図を与えるものは、何もありません。

マルシオンは、西暦2世紀の前半において、最も活発で影響的なキリスト教の宣教師でした。彼についての私達の主要な - 殆ど唯一の - 源泉(情報源)は、彼と同時代、またはそれ以後の彼の政敵である、「オーソドックス(主流派)」の神父達、殉教者ジャスティン、イレナエウス、テルトゥリアン、そしてエピファネウスの記述に由来します。彼等はまた、記述された新約聖書の最初のヴァージョンであると私達が知る、マルシオンの法令集について私達が知るものの源泉でした。

元々、小アジア(トルコ付近)のポンタスから来たマルシオンは、一人のキリスト教徒として、西暦130年代にローマに来た様です。数年間の内に - 約西暦140年頃に - 彼の見解は、ローマの教会(ヴァチカン)をとても激怒させたので、彼は追放されてしまいました。これは全く驚く事ではありません。彼は、キリスト教の信仰として、早期のローマの教会の聖書の重要な要素を形成した、旧約聖書を受け入れませんでした。彼は、ピーター(ジュピーター/木星)では無くポールを、キリスト(オイル)が彼の福音書を託した唯一真の使徒として認識し、そしてエルサレムの使徒達を偽りの使徒達として却下しました。加えて、彼は「オーソドックス(主流派)」の教会が真の福音書を改竄し、腐敗させ、グノーシス派だけがその純粋な形状を保ったと考えました。

マルシオンの法令書は2つの部分によって構成されました:一つは大部分においてルーク(ルカ)の福音書と一致するキリスト(オイル)の福音書で;もう一つは今日の新約聖書の中で見つけられるポール(パオロ/サウル)の14通の手紙の内の10通の使徒の福音書です。宣教師/神父の仕事を扱うポールの4通の手紙は、ティモシー(テモテ)への手紙1と2、タイタス(テトス)への手紙と、ヘブライ人への手紙、そしてローマの使徒への手紙の最後の2章において除外されます。彼はまた、ガラテア(ケルト)人への手紙と共に、彼が使用した手紙の順序を変え、シナイ(半島)で行われたポール(サウル)の改宗と、エルサレムへの2度の訪問を最初に位置付けました。その結果として、彼は破門されただけで無く、ルカの福音書から、彼のグノーシス派的な信仰と共に一致しなかったあらゆる詳細を「排除」したとして、その後非難されました。

マルシオンの福音書の中で、ポンティス・パイレートと同時代に、イエス(太陽)が生き、苦悩し、そして死んだと言う言及を一切見つけません。欠如している主要な詳細に含まれるのは:お告げ;マリアとジョセフのベツレヘムへの旅;イエスの誕生の日付けと場所;ナザレスへ行く途中の、その一家のエルサレムへの訪問;イエスが12歳で、寺院において宣教した際のエルサレムへの回帰(サイクル);洗礼者ジョン(ヨハネ)の宣教と、彼のイエスの洗礼;荒野における、サタンのイエスの誘惑;イエスが宣教している間のイエスの母と兄弟の訪問;その上に教会が建てられるであろう、「岩/ペトロ/ミネラル/いしずえ」としてのピーター(ジュ・ピーター/木星)の重要性;ヘロッドがイエスを殺害する事を望んでいると言う、パリサイ派の内の一人からの警告;12人の使徒達に、彼等がエルサレムに行く事をイエスが伝えた事;オリーヴの山を通ったエルサレムへの旅;最後の晩餐;オリーヴの山の上でイエスが一人で祈った事;イエスの逮捕;ピーターの3度に及ぶ彼の否定;パイレートが彼を解放しようと望んだ際のユダヤ人達の彼(イエス)の非難/有罪判決;磔(神経交差);そしてイエスの物理/身体的な復活(i.e. 冬至/クリスマス)です。これらの全てと、その他の詳細はまた、ポールの記述と同時に、ナグ・ハマディにおいて発見されたグノーシス派の福音書から欠如しています。

(教会からの)追放にも拘わらず、マルシオンは彼の宣教の働きを続けました。早期の教会の神父、殉教者ジャスティンは、彼を記述した最初の人でした。西暦150年頃に記述していた彼は、マルシオンが多くの国々の人達を弟子にし、教え続けていた事を認めました。しかしながら、マルシオン自身の信念と、ルークの福音書を一致させるために、彼がそれを改竄したと言う非難が晴らされるまでに、1,700年以上が経たなければなりませんでした。18世紀の終わりに学者達は、マルシオンの働きが大々的に短かっただけでなく、ルークの福音書のあらゆる例よりも以前に現れた事に基づいて、この理論に挑戦しました。彼等は故に、西暦1世紀において、イエス(太陽)の人生の「オーソドックス(主流派)」の見解と成ったものに一致させるために、マルシオンの法令書を加えたのは、ルーク的な著者達だったと言う結論に辿り着きました。

マルシオンの法令書の2番目の要素 - ポール的な手紙、そしてポールだけが真の使徒であると言う彼の教えは - 更にもっと証明する事が難しい問題でした。早期のキリスト教の指導者として、今でも覚えられているポールは、教会の多くの分派にとって、人気のあった人物で、そして彼の手紙/使徒書は、ローマ自体においてさえも、広く流通されました。その状況において、ポールのグノーシス派的な見解だけを元に、彼を否定する事は可能ではありませんでした。彼の手紙は故に、西暦2世紀の後半において、段階的に確立された、教会の「オーソドックス」な新約聖書の法令書の中に含まれました。しかしながら、私達が以前の章で目撃した様に、早期の教会にとって、ポールの役割は、ピーターに比較されると小さいと強調する事が、その部分的な目的であった、使徒言行録の書が同時に現れました。

非-ポール的な文献を紹介した、最初の「オーソドックス」のリストは、西暦2世紀の後半において産出されました。西暦180年に、彼の異端者達に対する本を書いていた、リオン(フランス)の司教、イレナエウスは、当時、ローマにおいて法令書的として見解された、22種の記述をリストしました。それらに含まれたのは、4冊の福音書(マヒュー、マーク、ルーク、ジョン)、使徒言行録の書、そして(ヘブライ人への手紙を含まない)ポールの13通の手紙でした。イレナエウスはまた、「聖書はこう言う」と言うフォーミュラ(形式)と共に、ヘルマス(i.e. ヘルメス)の羊飼いと呼ばれる書を記述し、今日の法令書には無い、キリスト教的な記述が当時、聖書として受け入れられていた事を示唆します。

この本の初めに簡単に述べられた、西暦3世紀の素晴らしい神学者、オリジェンは、少々異なったリストを作成しました。これは、教会の偉大な歴史家、エウゼビウス(西暦260-340年)によって収集されたもう一つのリストに続かれましたが、オリジェンのリストからは大分異なっていました。エウゼビウスはその本を3つの部分に分け:(4冊の福音書、使徒言行録の書、ヘブライ人への手紙を含まないポールの13通の手紙、ピーター1、ジョン1、啓示書を)認識し;(ピーター2、ジョン2と3、ヘブライ人への手紙、ジェームズとジュードに)反論し;そして(未だに流通にあったヘルマスの羊飼いを含む、数々の本を)間違い/嘘だとしました。

それに何も加える事も、削除される事も出来ない、現在の「オーソドックス」の法令書(聖書)は、エウゼビウスによって編集された知識と反論において構成された27冊の書から成っており、そして私達が見た様に、西暦397年に行われた、北アフリカのカルタゴ(の街)における第3委員会によって、正式な認識が与えられました。更にもっと最近の時代においては、1945年においてナグ・ハマディにおける、隠されていたグノーシス派の図書館から発見されたトーマス(タムズ/テムズ)の福音書でさえ、ヴァチカンによって異端的であると否定されました。

4冊の(正式に教会に認められた)福音書は、キリスト(オイル/太陽)が死に、復活(i.e. 冬至)し、キリスト(太陽)が再び現れる(昇る)と言う、基本的なキリスト教のメッセージを宣教するためにデザインされた、仮の歴史的で、仮の福音書的な働きとして、2段階に分けて検証される必要があります。

私達がイエスによるサイモンの名前の変化の最初の説明を有するのは、マーク(マルコ)の福音書の中においてで:「そして、シモンにはペトロという名を付けられた」(マルコ3:16)とされます。(ギリシャ語でペトロスである)ピーターは「石/ミネラル」を意味するペトラから派生します。この報告された名前の変化は、マヒュー(マタイ)によって、彼のローマ教会の設立の説明において使用されます:「・・・あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる; 陰府(地獄/黄泉の国/下界の門)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける: あなたが地上でつなぐことは(何であれ)、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれるでしょう・・・」(16:18-19)。一応、もしイエスがパレスチナに住んでいて、アラマイック語を話していたなら、何故彼が、彼の主要な弟子達に、ギリシャ語の名前を与えたのか、説明出来る人は誰もいないと指摘するのは妥当でしょう。

この本の第2部において私達が検証した歴史的な不正確さ - ヘロッド王と神官カイアファスの時代、そしてイエスが「ポンティス・パイレートの下で苦悩した」と言う主張は - イエス(太陽)とピーター(木星)を同年代と確立するための結果でした。ジュダス・イスカリオットによるイエスに対する裏切りの奇妙な説明もまた、キリスト教時代の早年におけるガリリー(の地)の政治的な出来事に、その根源がある様に現れます。そのナレートは、キリストが、彼の逮捕の数日前からエルサレムにいて、その寺院の中で宣教していた事を私達に伝えます。ユダヤの権力者達は、故に、彼等が望むいつであれ、彼に手を伸ばすことが出来ました。彼等(ユダヤの権力者達)が人々の怒りを恐れたと主張する事によって、彼等の失策を正当化するのが可能では無いのは:イエス(太陽)が逮捕され投獄された(冬至の)、たった1日後に、それらの同じ人々が、彼が解放される事を拒み、代わりに彼が磔(神経交差)にされる事を要求したためです。あらゆる(使徒達の)手紙の中で、ジュダスを裏切り者として記述するものは全く無く、この行いの彼への帰属は、その出来事の後の解釈であった事を示唆します。

利用可能な証拠の上で、ポールの手紙の中で、彼によって1度も記述され無いジュダスは、西暦6年においてローマ人達とエルサレムの権力者達に対して徴税についての政治的な反乱を導いた、ジュダスと言う名前のガリリー人の、ユダヤの指導者の特徴に基づけられている様で、その年は、ルークの福音書によると、マリー(マリア)とジョセフ(ヨセフ)が、イエスの生まれた処である、エルサレムにおいて(徴税の)登録のために言った場所です。ジュダスの反乱の時代から、ガリリーは、ローマとエルサレムの両方の権力者達(i.e. 官僚達)に対するその対峙(反感)において悪名高いまま(i.e. 有名)でした。マルコ(マーク)がイエスの使命(宣教)をガリリーに位置付けたのは - 彼は、彼の終わりに出会うまで、ジュデアには現れませんが - 何故なら当時の政治的な現実として彼(イエス)と権力者達の間の争いを受け入れやすくするためでした。しかしながら、マークは地理的な場面にあまり詳しく無く:ガリリーの主要な街の記述は見つけられず、地理的な背景の説得的な記述は全く無く、そして学者の G. A. ウェルスは、彼の著書、イエスは存在したのか?の中で、「ガリリーとの繋がりは、そのでっち上げのために、薄いままで;丁度、エルサレムの権力者達との対峙が、効能性が低いままだったのと同じです、」と指摘しました。

更に加えて、イスカリオットは、ジュダスが帰属した位置を示唆していると取られました。これは、その正しい意味ではありません。その一致するギリシャ語の動詞が「配達する/達成する」を意味するので、その単語は、裏切りの逸話の中で、唯一、形容辞/通名として使用されるので、「配達者/達成者、ジュダス」です。この意味は、シリア語の skariot が、ヘブライ語の sikkarti の同義語の通名で、「私は配達/達成する」である事実によって強調されます。

それらの福音書の福音伝道的な要素に関して、拘わっていた著者達の全ては、彼等が描写していた出来事の目撃者達であった事が不可能で、彼等の説明のために、より早期の共通の源泉(文献など)と、様々な伝統(言い伝えなど)に頼ったのは明らかで:イスラエライト族とエジプトの伝統であり;旧約聖書の預言的な書の中のメシア(救世主)的な言及であり;エッセネ派の行いと彼等の信仰で;エルサレムにおけるユダヤ-キリスト教徒達のコミュニティ-に対するポール(サウル)の言及であり;(偶然かどうか、新約聖書の著者達のいずれにも、全く記述されていませんが)(i.e. 牡羊座の時代の)終わりの日々が近いと宣教した、洗礼者ジョン(ヨハネ)の人生と苦悩で;(私達が以前に見た様に、「源泉」のためのドイツ語 Quelle からの)イエスに帰属させられた源泉の収集、Q であり;キリストの再来(太陽の復活)を見たと主張した洗礼者ジョンの弟子達であり;ジュダスの(税金に対する)反乱で;エジプトから到来し、オリーヴ山の麓で彼の弟子達を集め、エルサレムを破壊すると脅かし、その寺院の神官達(i.e. 官僚達に対して反乱した預言者の説明で;そしてイエス・キリスト(文字通り、太陽オイル)の死と復活を通した救い(冬から春に成る自然界の法則)に関してポールによって宣教された、確立されていたグノーシス派の神学/教義で、生命の象徴であるエジプトの十字架、アンクによって表されました(これは後に、更に詳しい詳細において思考されます)。

イエスの生誕の地としてベツレヘム(パンの家)を名付けたのは、単純に、旧約聖書の預言の一つが達成されたと証明する望みの結果でした。ユダヤ人達によって、ジュデア(パレスチナ)のベツレヘム(太陽神経叢)で生れたと信じられたデーヴィッド王の子孫としてキリスト(オイル)が生れるであろうと言う、根強いユダヤ的な伝統がありました。故に、イエスのネイティヴィティー(誕生/天宮図)の説明を供給したマヒューとルークの両方が、彼の誕生地をベツレヘムとして与え;マヒュー(2:5)は、彼の明言の補佐として、ミカ(5:2)を引用します。

フランス人の学者、P. L. Couchoud は、彼の著書イエスの謎の中で、著者の目的に相応しいなら、時制(過去形/現在形/未来形等々)が変えられた、イエスの生と死の福音書的な説明において見つけられる主な出来事の多くの、旧約聖書の根っこ(語源)を辿りました:

処女(i.e. 乙女座)の懐妊。「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエル(イマニュエル)と呼ぶ」(イザヤ7:14)。

ベツレヘムにおけるイエスの誕生。「まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る・・・」(ミカ5:2)

東の星。「ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏(セプター/王杖)がイスラエルから立ち上がり(昇り)・・・」(民数記24:17)。

賢者(マギ)。「シェバの人々は皆、黄金と乳香(線香)を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(イザヤ60:6)。

エジプトからの脱出。「まだ幼かったイスラエル(ヤコブ)をわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア11:1)。

情熱。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった」(イザヤ53:5)。

2人の泥棒達の間の磔(神経交差)。「罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」(イザヤ53:12)。

天罰。「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ50:6)。

イエスの最後の叫び。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか・・・?」(詩編22:1ではなく2)。

磔(神経交差)。「(直訳)彼等は私の手と、私の足を貫いた/または、口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22:16)

彼の衣服のためのくじ引き。「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:18ではなく19)。

十字架における場面。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。』」(詩編22:7-8ではなく8-9)。

イエスの誕生の逸話においてでさえ、私達は福音書(新約聖書)がその内容のために、どれだけ旧約聖書に頼るかの、もう一つの例を見つけます。旧約聖書はイエスの誕生の詳細を一切供給しないので;マヒューは故に、モーゼスの誕生の周りの出来事の、旧約聖書の説明を応用し、ファラオ(エジプトの神官王)の代わりに、(ローマの代官)ヘロッドに「2歳以下の全ての子供達」を殺す事を命じさせ、その際にモーゼスはナイル川のほとりの繁みの中で見つけられましたが、イエスは飼い葉おけ(i.e. 太陽神経叢)に寝かされました。

イエスの使命の本質は、イザヤの唄(聖歌)の中にまた反映され、それをクムランのエッセネ派は、彼等の先生の公正さに言及していると解釈しました。第一人称において讃美歌を含んでいる死海書の文献の一つである聖歌の巻物の中において、「その讃美歌の作者(その先生)は、1世紀後にキリスト教の著者達がそれらをイエスに応用する様に、イザヤの従者の唄を、繰り返し彼自身に応用しました。」例えば、その讃美歌の製作者とイエスの両方が、彼等自身をイザヤが(61:1-2において)こう言う人であると宣言します「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために・・・主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め・・・」(ルーク4:16,22の中で繰り返されます)。讃美歌の巻物の中で、その聖歌の製作者は繰り返し、「悲しみの人で、痛みと病、軽蔑と拒否によって圧倒された」様に現れます。クムランのエッセネ派は、洗礼者ジョンの様に、(牡羊座の時代の)世界が終わりに来た時の、裁定の日に再来する救世主(i.e. 魚座の時代)である、アノイント(オイルを塗る儀式)をされたキリスト(魚座/オイル)を語っていました。新約聖書がどれだけ延長的に、旧約聖書に頼っているのかは、1904年程早期に、ニューヨークにおいて出版された、ドイツ人の学者、アドルフ・ヴォン・ハルナックによる歴史的な研究、(西暦の)最初の3世紀における、キリスト教の広まりの第1巻の全体の章の題材でした。彼はこう記述しました:「旧約聖書は、それ(キリスト教/新約聖書)が、本の宗教に成る寸前まで、影響力を及ぼし・・・新約聖書は全体的に、教会の使命と実行(宣教)において、旧約聖書と同じ役割は果たさず・・・旧約聖書から、イエスの現れと歴史の全体は、何百年も、更に何千年も以前に預言されていて」 - 私は「記録されていた」と言いますが - 「地上の全ての国々から構成される新たな人々(i.e. 覚醒した人々)の確立は、正に始めから預言され、そして準備されていました。」

正式に認められた福音書を記述した4人の福音書伝道師達はいずれも、彼等自身が描写した出来事の、実際の目撃者達では無かったと、現在では受け入れられる様に成りました。しかしながら、彼等は、紀元前3世紀の、アレクサンドリア(の大図書館)において産出された、旧約聖書のギリシャ語版の翻訳を含み、様々な源泉(文献)が利用可能で、そして使用しました。更に加えて、彼等の福音書の多くの要素は、文字通りに解釈される事を意味せず、むしろ象徴的で例え話的でした。彼等の主な関心は、キリストについての隠された真実の宣言でした。この理由のために、福音書の文章は、それらの元々の形状において、歴史的なデータも、地理的な位置も含みませんでした。歴史的な設定を供給するために、その様な詳細が、教会の編集者達によって付け加えられたのは、後の事でした。これは、正式に認められた福音書の中に見つけられる、歴史的な登場人物も、地理的な位置も全く含まない、ナグ・ハマディにおいて発見されたグノーシス派の福音書からも鮮明です。

今日、4冊の福音書を含む新約聖書のコピーは - ギリシャ語だけでも5,000種あり - 西暦2世紀から16世紀まで、数千種存在します。全ての特徴において、全く同様な2冊はありません。最も早期の時代のキリスト教教会の流動的な状態は、その多種多様性の殆どが、西暦2世紀、または3世紀に由来する事実において反映されています。書生達は時に、彼等の宗教教義を、それが欠如している文献に加える、または対照的な見解を補佐すると取られる文献を変形(改竄)させる事によって、「オーソドックス(主流派)」の信仰として台頭してきていると見られたものに沿う様に、彼等の文献を書き換え(改竄)しました。旧約聖書の27冊と新約聖書によって構成される現在の「オーソドックス」な法令集は、何も加えられることが出来ず、何も削除される事が出来ませんが、西暦397年に開かれた北アフリカのカルタゴの第3委員会まで、正式な認定は受けていませんでした。

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