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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第20章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第20章
アフメド・オスマン著

パート3

第20章: 鍵の守り人達


西暦1年の終盤は、対立するコミュニティー(宗派)を統治し、混乱している信仰に一定の秩序をもたらそうと試み、権威(命令系統)を確立しようとした「司教達(官僚達)」の台頭を目撃しました。キリスト教徒達に対して最初の警告の矢を放ったのはピーターの4代目の後継者とされる、最初の司教達の内の1人であり、ローマの司教であった、クレメント(西暦90-95年)でした。

クレメントは、教会の指導者達(官僚達)が、「地上の統治者達」として、神によって任命され、故に人々は、言うなれば、彼等(官僚達)が「信者達」と呼ぶ者達の上で、命令と判断を行う権力と共に、その王国への鍵を与えられたので、司教達と神官達(i.e. 官僚達)の権威に屈するべきであると主張しました。

コリントの使徒への手紙の最初に、彼はこう記しました:「使徒達は私達のための福音書を、主、イエス・キリストから受け取り・・・彼等は、彼等の最初の実りを、信じられるべき司教達とディーコン(助祭/ゾディアックの10度のアングル/エンジェル)として任命しました。」司教達は、順を追って、彼等の後継者を任命する事が出来ました:「私達の使徒達は、私達の主、イエス・キリストを通して、司教の役職の名において、紛争が有ろう事を知っていました。この理由のために、故に、完全なる事前知識を受取り、彼等は事前に述べられた人材達(司教達)を任命し、そしてその後、継続性を供給し、もしそれらが眠りに落ちる(役に立たない)と、それらの役職に、新たな人材を任命しました」(I クレメント:44)。(此処において、使徒の名前 - ポールもピーターのどちらも - 上げられていません。)ローマにおける教会(i.e. ヴァチカン)は、この様な方法で組織化した最初で、その例は続く世紀において、その他の分派によって続かれました。

「司教達(官僚達)」は、彼等自身の権威を確立するための正当化が必用でした。彼等がポール(パオロ)に頼る事が出来なかったのは、何故なら彼が、キリストとの出会いは物理的では無く、スピリット的であると、はっきりと明言したためで、そして彼は、彼が確立した教会において、神官階級(官僚)を、全く確立しなかったためです。

ポールの手紙は彼が、ジェンタイル(異邦人)達と同時にユダヤ人達に宣教(教える)に際して、邪悪な世界へと生れた救世主の概念の彼の紹介/教えにおいて単純に、エルサレムの使徒達から異なっていた事を鮮明にします:「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラテアの使徒への手紙1:3-4)。神によって任命された救世主(苦悩している従者)が既に生きて、生贄にされたと言う信仰は、私達が目撃した様に、紀元前6世紀において記述していたイスラエライト族の預言者、イザヤによって最初に発せられました。しかしながら、復活(i.e. 冬至)のイザヤの解釈は、苦悩している従者(イエス/太陽)に限られており、エッセネ派も、サイモン(ピーター)も、イエスの復活(クリスマス)を、人類のための救済/贖いとして表しませんでした。キリスト(オイル)において信じる者達の復活(再生/覚醒)について最初に語ったのは、グノーシス派の福音書と、ポールの手紙でした。

加えて、ポールは「十字架(i.e. 神経交差)の神学」を明確にしました。彼の十字架はローマの処罰の十字架では無く、エジプトの十字架、アンクで、それは生命の象徴であり、死ではありませんでした。最初の3世紀の早期のキリスト教徒のコミュニティーは、主に彼等の象徴、アンク、または魚(i.e. 魚座/キリスト)を使い、それは紀元前4000年からの、上エジプトのアビドス(の街)のお墓における復活(i.e. 冬至)を示唆していました。アンクはまた、アケナーテン(モーゼス)の時代から、太古のエジプトの寺院の城壁とお墓の彫刻に見られ、其処において太陽の光線は(主)アテンを象徴し、王と女王へと向けられ、彼等に生命の鍵であるアンクを、彼等の手に分配しています。早期のキリスト教徒達が、その象徴(アンク/十字架)を、死に対するキリスト(オイル)の勝利のサインとして応用したのは、永遠の命の象徴としてのアンクの肯定的な重要性のためでした。

サイモン(ピーター)も、エルサレムの使徒達、ジェームズもその他の12名の使徒達も、十字架/アンクを、キリスト、または彼等自身のコミュニティーの象徴として語っているのを引用された事は一度もありません。実際に、縦の棒が、より短い横の棒に重なるローマ-ラテン(i.e. ヴァチカン)の十字架が、一般的なキリスト教の信仰の象徴として - 新約聖書の逸話を通して - 確立されたのは、西暦5世紀以後の事であって、十字架の上のキリストの体が体現されたのは、それ以後の世紀においてでした。

エジプトのアンクの、肯定的(陽的)な重要性は、ポールの十字架の神学が、イエスの苦悩と死に集中せず、彼(太陽)の復活(冬至/クリスマス)と永続的な生命(スピリット)の約束に集中した事に反映されました。アンクは生きているイエスを体現し:「生きているのは、もはやわたしではありません。キリスト(オイル)がわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテアの使徒への手紙2:20)とされ、それは「内なる神」のグノーシス派の概念を強調します。

ポールの代わりとして、「司教達(官僚達)」は故に、彼等自身が育成する事を望んだ命令系統/社会階級において組織化されたエルサレムの教会の、「ピーターと呼ばれるサイモン」に着目し、そして後継の彼等の使徒的な流れを確立するために、ピーターが投獄から奇跡的に脱出し、彼の人生の後期をローマで過ごし、其処で彼は最終的に殉職し、そして彼はイエスと同年代で、彼(イエス)によってキリスト教教会の代表として任命されたと言う、ピーターの伝説を創造(i.e. 捏造)しました。

ピーターへの最も早期の聖職的な言及は、ローマの司教であったクレメントによって成されたと言われます。西暦95年に彼は、その文献が都合良くこう与えられているコリントの使徒への手紙を書きました:「嫉妬と妬みのために、教会の最も公正な柱が迫害され、死刑に処されました。私達は、非公正な嫉妬のために、1度でも、2度でも無く、何度も強制労働させられ、故に彼の証言をした後、彼の約束された栄光の場所に逝った、善き使徒ピーターを、私達の眼に焼き付けましょう。嫉妬と争いのために、ポールは彼の例によって、忍耐強い我慢の結果を指摘しました。彼が7度囚われた後、彼は追放され、投石の刑にされ、東と西において宣教し、世界全体に公正さを教え、西洋の最も遠い国境に届いた後、彼の信仰の全体であった崇高な名声を彼は勝ち取りました・・・」

ピーターと呼ばれる誰かの死は記録されていますが、彼がローマを訪れた、または其処で殉職したと言う示唆は全くありません。更に加えて、「ピーター」と言う名前ははっきりと記述されておらず:最後の2つの文字「ER」がその文章に無いので、連想によって供給されています。その様な状況において、その言葉の意味は不鮮明です。その逸話が更に発達させられたのは、西暦160年以後の事でした。コリント(ギリシャの街)の司教、ディオニッソスは、エウゼビウスは教会の後の歴史の中で、こう述べたと引用しました:「ピーターとポールの両方が、私達のコリントで教え、私達の創始者達であり、イタリアにおいて同じ場所で教え、同じ時に殉職しました」(i.e. 捏造)。

西暦3世紀の初期の年に成ると、ピーターのローマへの旅と殉職の伝統は、補佐する証拠が全く無いにも拘らず、確かであると確立され、ですから今日までもそう信じられています。幾らかの現れた気休めは、ピーターの殉職の直前に、ローマにおいて書かれたと、キリスト教の学者達が年代鑑定する、聖者ピーターの最初の手紙によって供給されます。しかしながら、更に最近の研究はその手紙が、西暦2世紀の間に、他の誰かによって書かれた事を示唆します。最後から2番目の1行:「バビロンである教会は・・・貴方によろしくと・・・」(5:13)の中の特定の言葉は、その正当性に疑いを投げかけます。此処で、「バビロン」は、ローマのためのコードワード(隠喩)として受け取られますが、私達は - メソポタミアとエジプト(古代のカイロ)の街々を意味する - バビロンと言う名前が、ローマの司教達によって、ローマの隠喩として使用された例を、新約聖書の中、または当時のその他の文献の中にも、一切見つけません。バビロンがローマのためのコードネームだったとする証拠として挙げられた早期のユダヤ的な記述、シビライン(Sibylline)の預言は、西暦2世紀の最後の25年に年代鑑定される、典型的なペイガン(異教徒)の預言です。ローマに対する熱烈な毒舌に溢れ、その街に起こるであろう処罰を預言する、その書の第8巻に、特別の重要性が与えられます。此処で再び、その文献の中で、バビロンがローマと同義語であると示唆するものは、何もありません。

教会の初期において、ピーターをキリスト教教会の代表に任命したとするイエスを、ピーターと同年代とするキャンペーン(宣伝)は、ポールの重要性を過小評価するキャンペーンと共に追随されました。この2番目のキャンペーンは、使徒言行録の書の現れと共に、西暦2世紀の最後の25年において、文字通りの/文献的な形状が与えられました。伝統的に、西暦2世紀に年代鑑定されるオリジナル版の著作権は、正式な福音書の3冊目の著者、ルーク(ルカ)に帰属させられ、そして(それは) - 文献、または口述の情報に基づいた、パレスチナにおける早期の教会の歴史と、ルカが同行したと言われる、ポールの後の宣教的な旅の説明の - 2つの部分へと分けられています。

使徒言行録はしかしながら、西暦170年と180年の間に記述していた、リオン(フランス)の司教で、早期の教会の神父達の内の一人であった、イレナエウス(西暦130-202年)によって、初めて記述されます。その出来事とその書の間の1世紀の隙間に加え、ポールの手紙と使徒言行録の中に表された逸話の間の多くの矛盾は、先の世紀(19世紀)において学者達が、ルークがポールの旅の詳細の幾らかを貢献したかも知れない間、その書(使徒言行録)は、「ピーターと呼ばれたサイモン」と、彼のユダヤ-キリスト教教会の重要性を強調するために、西暦2世紀において、その他の文献から引き出され、大々的に編集されたと言う結論に至る様に導きました。ノッティンガム大学(英国)のキリスト教神学の教授、A. T. ハンソンは、彼の著書、再検証版の使徒言行録の中で、「使徒言行録が、西暦170年以前に、キリスト教徒達によって認識され、広く使用されたと言う事を、私達が絶対的に確かだとする事は出来ません」と指摘しました。

使徒言行録の書の最も早期のコピーであるアレクサンドリア文献と、西洋文献として知られる後のギリシャ語の文献の間の比較は、特にポールを過小評価して位置付けようと意図された、編集行程が起こった事を明らかに見せます。その行程はポールの改宗の2つのヴァージョンにおいて、特に顕著です。使徒言行録の書は、ポールの「アラビア」への訪問について、全く触れません。代わりにそれは、エルサレムの教会をポールの信仰の源泉として彼をリンクさせる形状において、ポールの改宗を表します。ポールが見つけたあらゆるキリスト教徒達を逮捕し、裁判のためにエルサレムへと連れて行けと言う命令と共に、彼がエルサレム(パレスチナ)からダマスカス(シリア)へ向かった際に、彼がイエスと出会った詳細を、私達が見つけるのは此処においてです。彼(サウル/ポール)のヴィジョン(目からうろこ)の後、彼はユダヤ-キリスト教徒であるアナニアスによって洗礼された(9:18)と言われ、そしてダマスカスにおいてユダヤ-キリスト教の使徒達と数日過ごした後、「直ぐに彼は、彼(イエス)が神の息子であると、シナゴーグにおいてキリストを宣教し」(9:20) - つまり彼(Saul/Paul)は、ユダヤ-キリスト教の使徒達が彼に教えたものを宣教したと言われます。

第9章は、ポールを殺害するための、ユダヤ人達の計画を目前にして、どの様にして彼がエルサレムへと逃れ、最初はキリスト教徒達によって拒まれましたが、バルナバスによる使徒達への紹介の後、ポールが彼等の社会に受け入れられたのかを説明します。彼は、彼の命に対する新たなユダヤ人達からの危険のために、彼自身の説明が明言する様に、彼は、シリアとシリシアでは無く、特に彼の生誕地であるタルサスへと逃れる原因に成るまで、福音書を宣教するにおいて、彼は、彼等(使徒達)を活発に補佐しました。

ポールの改宗の2つの説明と、それらを説明する動機の間の矛盾は、ドイツ人の学者、エドワード・ゼラーによって、彼の権威的な著書、使徒達の言行録の中で分析されました:

「その説明は、ガラテアの使徒への手紙の中の、使徒達自身の明言と共に、部分的にでも調和させる事は不可能です・・・[彼/ポールの]アラビアへの旅について、使徒言行録が全く沈黙しているだけで無く、そのためにあいている部分を一切与えません。もし彼(ポール)が、ダマスカスにおいて、キリスト教徒達と共に幾らかの間、最初に旅をして、福音書を宣教し始めたとして、その他の者達との事前の会議無しで、彼の改宗の直後に、彼がアラビアに行ったと、どうしてその使徒達は言えるのでしょう・・・?

[使徒言行録によると]エルサレムにおいてポールは、彼がしばらくの間知り合いに成っていた、使徒達の前へともたらされました。ガラテアの使徒への手紙の中で、その使徒自身が、彼はセファス(ピーター)に会う為にエルサレムへ行きましたが、その他の使徒達については、主の兄弟であるジェームズ以外は出会いませんでしたと、真面目な断言と共に強く主張します。ガラテアの使徒への手紙の説明は全ての人間的な権威からの、ポール(サウル)の独立性と、特に創始の(エルサレムの)使徒達の全ての影響からの独立性を証明する事を、公然と認める目的を有しました。ですがこれは、正に使徒言行録の著者が求めていたものではありませんでした。彼のナレートは故に、真逆に計画され、始めからポールが、12人の使徒達と、ユダヤ人達と、親密な関係であったとします。

故に、アラビアへの旅に関する沈黙で;故にその使徒(ポール)の改宗と彼のエルサレムへの最初の旅の間にあった3年間の短縮で;故に、この街(エルサレム)における彼の旅の延長で;故に、ポールが本当に使徒として出会った2人の使徒達の延長で;故に、ガラテアの使徒達には知られていなかった、使徒達との素晴らしい交流で;故に、それ自体が不可能な、エルサレムにおける福音書の宣教です。

その中において、後の説明が矛盾する、間違いなく歴史的な特徴の全てが、一つで同じ動機によって単純に説明された時、これ等の矛盾の原因は、その正に動機の中に求められるのは、正しく最も高い度合の可能性です。」

その同じ行程の、その他の例を挙げるのは可能です。例えば、バルナバスはその教会のライバルの分派の指導者でしたが、使徒言行録の書は、アンティオーク(の街)において教会を確立するために彼を送り込んだのは、エルサレムの使徒達であったと主張します。エルサレムの委員会のその説明においてまた、ジェンタイル(異教徒)達に宣教する権威をポールに与えたのは、エルサレムの使徒達であるとされますが、彼(ポール)自身の説明は、その権威を与えたのは彼等(エルサレムの使徒達)では無く、唯単に、彼の手紙のその他の場所で繰り返されているメッセージを私達が見つける様に、彼が既にその他の源泉からそれ(宣教する権威/許可)を得ていた事を認識するだけで:「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人(ジェンタイル)のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません・・・」(ローマの使徒への手紙15:15-16)。

エドワード・ゼラーはまた、ポール自身の説明から矛盾するのとは別に、彼の改宗の使徒言行録の説明は、それ自体を「不信」へと露出する幾つもの内的な矛盾を含んでいると指摘しました:

「[ダマスカスへ向かう途中の道における、彼の改宗とされる時点で]ポールの同行者達について、(使徒言行録26:14では)「 私たちが皆地に倒れたとき・・・」と言われますが、(使徒言行録9:7では)対照的に、恐怖におののいてポールが地に伏せた間、彼等は驚いて立ち尽くしたとされます(「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」)。その2つは和解されることが出来ません・・・

同じ人達について、彼等は実際にポールに語りかけた声を聞いた(9:7)と言われますが、姿は見えず;(22:9においては)、対照的に、「一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした」と言われ・・・更にもっと重要な事に、ヴィジョン(26:16-18)において現れている、イエスに帰属された言葉の幾つかは、(9:15において)アナニアスへのイエスの演説とされ、22:15,21においては、ポールの2度目の登場における、部分的にアナニアスと、部分的にイエスの演説とされます。」

ポール自身の説明と、使徒言行録の書のヴァージョンの間の矛盾への合理的なアプローチは、私達が以前に目撃した様に、ヘイデルベルグの神学の教授、マーティン・デベリウスによって、彼の著書、ポール* の中でまとめられました。サイモン(ピーター)の実際の西暦44年における死として解釈された、第12章における彼の逮捕と投獄の説明の後、私達は - サイモン(ピーター)の逮捕と投獄の前に処刑されたとされる - ジェームズが、その後のエルサレムの委員会における、エルサレムの使徒達の代表として現されているのを見つけます。これは、もしサイモン(ピーター)が死んでいたのなら、理解可能な出来事でしょう。しかしながら、その会議(委員会)の責任者としてジェームズが登場する数節前に、私達はサイモン(ピーター)が、いまだ健在であると伝えられ - 彼は、彼を嘘つきとする役割しか果たさない言葉を、彼の口で言わされます。彼は、使徒達と長老達にこう言ったと引用されます:「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人(ジェンタイル)が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです』」(15:7)。これは、サイモン(ピーター)についての、真実であるはずがありません。彼は、新たな契約 - 「洗礼を受け、私の訓令を守れ」は - モーゼスの法を守る、割礼(奴隷の印)を受けたユダヤ人達にのみに応用可能であると教えました。その全ての証拠は、「ピーターと呼ばれるサイモン」の名前が、この時点において、未だに健在であると言う、神話の一部として付け加えられた事を指摘します。
エルサレムの会議の後、サイモン(ピーター)の名前は、その逸話から全く消えて無く成りますが、その間ポールは、彼の2度目と3度目の宣教の旅に出ます。使徒言行録の書は、どの様にして、彼の最後の回帰において、彼がエルサレムへと戻り、其処で彼が暴動的な集団(ユダヤ人達)によって、寺院を汚染したと非難され、殺される寸前だった時に、ローマの兵士達によって彼が逮捕された事を描写します。彼は、カエザリア(の街)のローマの代官、フェリックスの監督下で拘留されました。ローマの市民として、(ローマ)帝国の裁判所で裁判される彼の権利をポールが主張した時、彼がローマへと送られるべきであると判断され、その旅は、彼を乗せた船が途中で難破したので、数か月かかりました。

その書の最後の節は、ローマにおける裁判に実際に面する代わりに、どの様にしてポールが「自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(28:30-31)のかを描写します。ですが、ピーターがローマに住み、最終的に其処で殉教したと言う、後の伝統にも拘らず、私達はこの信仰を補佐する証拠を、新約聖書の中に、全く見つけません。

ローマにおけるポールの日々についての使徒言行録の書のナレート(筋書)は、「ピーターと呼ばれたサイモン」が其処にいた、または以前にいたとは一切示唆せず、そしてローマの教会(ヴァチカン)へのポールの手紙は、この教会が「ピーターと呼ばれたサイモン」と、何らかの拘わりを持っていたと言うヒントを全く与えません。それ処か、私達はポールの最終的な死の正確な詳細は一切有しませんが、キリスト教時代の最初の世紀における出来事の、私達が有する最初の記述された証拠である、教会の点在した分派へのポールからの様々な手紙が書かれた直後の、西暦64年、または67年において、キリスト教徒達に対する、多彩で狂暴な、帝国的な迫害者、(皇帝)ネロの手によって行われたと言う、西暦2世紀の伝統が存在していました。

* 「使徒言行録の中に表されたポールについての情報は、自伝的では無いので、頼りに成りません;そしてもしそれが、手紙(またはポール)の明言と明らかに矛盾するなら、それは2番目の場所をとるべきです(手紙/ポールの明言が、優先されるべきです)。」


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