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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第19章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート3

第19章: ポールとピーター


キリスト教時代の最初の50年における聖職的な歴史の出来事は、数々の誤解から結果した、多大な混乱の題材でした。それらの中の主なものは、磔のために、福音書の中で与えられた年代、西暦30年、または33年の前に、迫害するためのキリスト教徒達が、ポール(パオロ)のために存在していなかったと言う事;福音書は歴史的な記述ではあるが、それらの本当の目的は神学的である事;ポールは、ダマスカスへ向かう途中に改宗させられ、そして彼の教えをエルサレムの使徒達から学んだ事;そして(後に、福音書の中で「ピーターと呼ばれるサイモン」* と名指しされる、最初の教皇であり)エルサレムの使徒達の指導者であるサイモンが、その世紀の中期にローマを訪れ、そしてネロによるキリスト教徒達の迫害の間に殉職した事です。これらの最初の50年と、それらに続いた時代の出来事の、矛盾している年代表を改正し、合理的な理解を成せるのは、唯一、これ等の神話が暴露された時のみです。

キリスト教時代の早期の時代は、大いなるスピリット的な期待の時代でした。エッセネ派は世界の終わりにおける審判の日の、彼等の救世主の再来を待ちわびていました。後に、福音書の中で「神より送られし人」(ヨハネ1:6)と表現された洗礼者ジョンは、公の場に出て来て、後悔の洗礼、彼等のメシア(救世主)を否定した罪の告白、そしてモラル的な清めのための必要性へと、全てのユダヤ人達を入門させようと試みた、最初のエッセネ派でした。ジョン(ヨハネ)を歴史的な人物であると同時に、福音書的な登場上人物であると確認したジョセフスの言葉によると、ジョンはユダヤ人達に「(水による)清めは、もし彼等がそれを利用すれば、彼(神)にとって受け入れ可能なので、洗礼に来なさい」と命じました。

福音書記者のマヒュー(マタイ)は、洗礼者ジョンが、イエスの誕生では無く、彼の再来の準備をしていた事を確認します:「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(3:1-3)。ジョンの洗礼運動は、紀元前4年から西暦39年までガリリーの知事であったヘロッド・アンティパスが、ジョンがユダヤの抵抗のための集中点に成る事を恐れ、彼を逮捕させ、投獄し、そしてその後処刑した程、熱狂を浮上させ、大規模な支持者達を派生させました。ジョンの処刑の年代は、通常、西暦28年とされます。彼は(彼の教えがユダヤ-キリスト教的な本質で、エッセネ派の教えに類似していたので)、もう一人のエッセネ派、サイモン(ピーター)によって後継され、就任の時から彼は、エルサレムの使徒達の異議の無い指導者として見解されました。

彼等は、彼等の活動において、ジョンの教えを継続しただけでなく、彼の預言が達成され、そして彼等はキリストを見たと主張しました。(彼ら以外)誰も彼(キリスト)を見なかったので、彼等の話しは信じてもらえず(これはそのエピソードの説明によって伝えられました)、そして死から甦ったのは実際に、ジョンであったと一般的に考えられました。私達はマーク(マルコ)の福音書の中で、使徒たちが後悔を宣教するために2人ずつ送り出された後に、この信仰への2つの言及を見つけます;「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」」(6:14)、そして:「ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った」(6:16)。

* 私達が証明する様に、ピーター(ギリシャ語でペトロ/石)と言う名前は、当時存在していませんでしたが、福音書の著者達のその後の解釈でした。その地点に私達が来るまで、彼を一般的にサイモンと呼ぶ方が、年代禄的な混乱の原因に成らないでしょう。

サイモン(ピーター)とエルサレムの使徒達の教えは、アブラハムと共に結ばれた古い(モーゼス的な)契約と、洗礼者ジョン(ヨハネ)によって約束された、新たな契約の混合でした。その本質が「我が訓戒を保て」である古い契約(旧約)は、創世記17:7,10に見つけられます:「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる・・・あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」割礼は太古のエジプトの風習でしたが、この契約は、割礼の風習を続けたユダヤ人達にのみ適用可能でした。それ(割礼/i.e. 奴隷の印)は、それと共に、永遠の生命の約束をもたらしました。

サイモン(ピーター)とエルサレムの使徒達は加えて、洗礼者ジョンの新たな契約を適用し、それには復活の特定的な約束は含まれませんでしたが、それらもまた、割礼されたユダヤ人達にその適用が制限されていました。サイモン(ピーター)の教えの制限は、ポールの救済の教えと比較すると、それが最終的に西暦2世紀の後半において記述された様に、使徒言行録の2つの文章の中で見る事が出来ます:「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、(メシア/救世主* である)イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)、そして「だから、(主のもとから慰めの時が訪れる時に)自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(3:19)。

ポールが重大な役割を果たし始めたのは、西暦10年代の後半の真っただ中でした。ポールはキリスト教時代の創始の時代の間に、小アジア(トルコ付近)のタルサスで生れました。若い内に彼は - 有名なパリサイ派のラビ、ガマリエルの下の寺院学校において - 伝統的にモーゼスに帰属された旧約聖書の最初の5冊、トーラを学ぶために、彼の生誕地から南に約400マイル離れた、エルサレムへと訪れました。小アジアの広いエリアに住んでいて、3度に渡るエピック的な宣教の旅の間に、ポールによってキリスト教に改宗させられたケルト族の人々である、ガラテアの使徒達への彼のその後の手紙の始まりの章において、彼は、彼の人生のこの早い段階において、「神の教会を迫害し、そしてそれを無駄にした・・・」(1:13)と告白しています。

* 聖書的な言葉「メシア」(救世主)の語源は、ヘブライ語のマシ(mashih)です。その英語名「キリスト」は、クリストス(オイル)から派生し、アノイント(オイルを塗る儀式)をされた者、王を意味し、紀元前3世紀における聖書のギリシャ語への翻訳において使用されました。

彼の手紙が西暦20年代にそれが起こった事を示唆する、彼のキリスト教徒達に対する迫害についての告白の後、ポールは、使徒言行録の書の中に見つけられる説明とは、全く食い違う、彼の改宗の、彼自身の説明を与え、それは、ダマスカスへの道の途中にポールにイエスのヴィジョンが現れ、こう尋ねたと主張します:「『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」(9:4)この出来事は - 新約聖書の福音書が現れる1世紀以上前に - ポールがキリスト教へと改宗させたコミュニティー達に宛てた、彼の書いた手紙のいずれにも記述されていません。代わりに、ガラテア人(ケルト族)達への彼の手紙の中で、彼が何処でイエスとの、彼のスピリット的な出会いを経験したのかは明らかにせず、彼は、彼の教えが、エルサレムの使徒達を含む、誰の御蔭でも無い事を続けて強調します:「神が、御心のままに、御子をわたしに示して・・・わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず・・・ また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて・・・」(1:15-17)。

ポールの人生についての彼の説明と、使徒言行録の書の中に私達が見つけるヴァージョンの間の違いは、後に更に詳細に検証されますが、現時点において、その様な矛盾に対して、ヘイデルブルグ(大学)の神学の教授、マーティン・デべリウスによって、1953年に出版された彼の著書、ポールの中で提案された対処法を取るのが合理的でしょう:「使徒言行録の中で表されたポールについての情報が信用出来るもので無いのは、それが自伝的では無い為で;そしてもしそれが[ポールの]手紙の中の素朴な明言と矛盾するなら、それは2番目(の優先権)にされるべきです。」

ポールはこの手紙からのもう一つの文章の中で、彼が「アラビア」において、彼の入門の期間を経験した正確な場所はシナイ山であると鮮明にし、それを彼は、その約14世紀前のモーゼスの追放/放浪の期間に、彼に主が現れ、アーロンと共にイスラエライト族の出エジプト* を導き、エジプトに戻れと命じた場所であり、モーゼスが彼の十戒を受け取った神** の神聖な山である、エルサレムと比較しました。ポールの手紙のもう一つの中で、彼は加えて、神が彼に対して「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」(エフェソの使徒への手紙3:6)、と明かしたのは、彼がシナイ山で過ごした時間の期間であったと明かします。

* 私達が以前に見た様に、シナイ山の麓にある聖者キャサリンの修道院の根強く生き残る伝統は、その山を変格の場所として一致させます。ナザレスの東のタボル山は、その対抗的な場所として提案され、そこには巡礼者達のための、フランシスカン派の教会が建てられました。もし、新約聖書が示唆する様に、その変格が磔の直前に起こったなら、これは地理的な問題を解決します。シナイ山からエルサレムまでの旅は、約300マイルの厳しい陸上の旅を含みました。

** イスラエライト族の神は、この山においてモーゼスに現れました。コラーンはまた、モーゼスの時代よりも随分以前から、地元のシャシュ族(聖書的なミディアン族)にとって神聖であった山において、神がモーゼスに語ったと明言し、そしてその場所は今でも神聖なままで、其処には巡礼者達のための集中として、聖者キャサリンの修道院があります。

シナイ山は、モーゼスの時代から巡礼の場所でした。その山は、約7,500フィートの高さで、荒野を通した約束の地(パレスチナ)への彼等の長引いた旅において、モーゼスがイスラエライト族を導こうと試みた、乾燥したシナイ半島南部の多くの頂の一つです。今日でさえ、この荒野は殆ど水が無く、僅かな土が限定的な野菜とデーツ(ナツメヤシ)の供給を産む、少数の狭い渓谷で、放浪するベドウィンの家族と、彼等の家畜のための乏しい生計です。

今日、巡礼者達のための、聖者キャサリンの修道院がある場所、その山の麓の周りの地帯は最も早期の当初、隠修士(世捨て人)* のたまり場でした。西暦1世紀の前半において、ポールがその場面に現れた時、ダマスカスのシリアの街とヨルダン(河)とシナイの東の地域は、ナバテア族のアラブ人達と、彼等の王、アリタス3世の操作の下にありました。聖書的なメディアン族(モーゼスの荒野時代に彼の連合であったシャシュ族)を追い出したナバテア族にとって、シナイ山は、彼等が巡礼のために旅した、神聖な場所でした。

1 damascus arabia

その様な巡礼の場所としての、その山の長い伝統は - ナバテア語、ギリシャ語、ラテン語、そしてアラブ語における - アクバの湾の先から、シナイ山の地域の、エリアット(聖書的なエラス)から繋がる主要な道の狭い渓谷の巡礼者達の山峡である、ワーディ・ハッガグの岩の記述から鮮明です。

もし、テラピュータエ派が、当時のエジプトの全てのノームス(地区)において確立されていたなら、彼等の居住区の一つは、神聖で、巡礼の聖地として長い伝統を有する、シナイ山の周りに見つけられると推測するのは合理的です。確かに、ポールの人生の後期において、テラピュータエ派の禁欲主義的な影響を受け取るのは可能です。彼は、テラピュータエ派のしきたりに沿って生活し、彼自身の家族とは決して共同生活せず、婚姻せず、そして一切富を有せず - 彼はキリスト(オイル)を知り、そしてこの知識をその他の人達に広げようと試みて、彼の人生を過ごしました。テラピュータエ派の、共有の資産として保たれた富の概念は、彼等の教義的な違いにも拘わらず、コリントのギリシャの街において、ポールによって設立された教会が、エルサレムへ金融的な援助を送った事実においてまた、反映されています。

ポールは、西暦30年代であるはずの、彼の改宗に続く時代の正確な年代表を提供します:「それから三年後、ケファ(サイモン/ピーター)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブ(ジェームズ)にだけ会いました」(ガラテアの使徒への手紙1:18-19)。幾らかの学術的な論議にも拘らず、その「3年間」は、アラビアにおけるポールの入門の期間を示唆すると、一般的に受け入れられています。

* シナイは2つの理由のために、世捨て人達のたまり場でした。それはモーゼスが長年、瞑想して過ごした場所で、そしてそれは、ジョシュア/イエス/ツタンカーメンが死んだ場所でした。

先に進む前に、入門の意味を検証するのは恐らく、役に立つでしょう。筆記の知識を含む全ての知識は、エジプト人達によって、神聖な行いの一部として考えられていました。知識は力ですから、それは人が、彼自身が有能で、それ(知識)を賢明に使えると証明するまで、誰にも与えられるべきではありませんでした。神官達によって、一般の人々に与えられた説明は、王やその他の神官に、彼等が与えたものからは異なっていたので、誰しもが知識のあらゆる種を得られるわけではありませんでした。知識を会得するに当たり、審査され、更なる啓示(教え)のために信用出来ると認められるまで、より高い段階(階級)に昇進出来る人はだれもいませんでした。最高の階級に届いた者達は、啓示を通して、スピリット的な力によって選ばれし者達でした。年齢や訓練の期間に拘わらず、スピリットと共にヴィジョンを受けた者達は、最高の階級に届いたと考えられました。

私達にはトトメス(トート・モーゼス)3世において、この状況の良い例があります。彼は、女王の息子でも、王族の正当な後継者(女系)の夫でも無かったので、彼の父から王座を受け継ぐ事は出来なかったはずでした。それにも拘らず、神官達によってボートの上で行われた、カルナックのアムンの寺院における祭事の間に、その若き王子が立っている処に接近され、そして彼は、唯一王が入る事を許された、神聖な場所の最も神聖な場所へと導かれました。これは、(後に彼の年代記に記録された)王子の頭の上に王族のを置いた、神ラーを彼が見た、天界(大脳)への逃避の、その王子が得たヴィジョンによって続かれました。これが意味したのはトトメスが神自身によって選ばれた事で;これがこの王(i.e. デーヴィッド)スピリット的な重要性です。

聖者ポール(パオロ)は3年間アラビアに留まりましたが、人がセクト(宗派)の神秘全体へと完全に入門するための期間でした。私達はこれについての幾らかの示唆を、彼の記述の中に有します。「神秘( mystery )」と言う単語はポールの手紙の中に17回現れますが、ポールの手紙以外の聖書全体においては5回しか見つけられず;マーク(マルコの書)の中で1度、そして啓示書の中で4度現れるだけです。以下は幾つかの例です:

「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」(ローマの使徒への手紙11:25)。

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」(ローマの使徒への手紙16:25)。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(I コリントの使徒への手紙2:7)。

「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」(エフェソの使徒への手紙3:3)。

「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」(エフェソの使徒への手紙3:9)。

この神秘は、(メイソン)第3階級へのポールの入門の証拠です。更に加えて、キリストのスピリットとのポールの出会いに関するガラテアの使徒への手紙の説明が意味したのは、彼が極少数の内の一人に成った事で、それは何故、ナグ・ハマディの福音書がそれ程高くポールを評価するのかを説明する事が出来ます。

「主の兄弟、ジェームズ」(ガラテアの使徒への手紙1:18-19)への言及は、血縁の兄弟では無く、信仰における兄弟(同胞)と言う感覚で解釈されるべきです。「兄弟」、「同胞」、そして「姉妹」と言う言葉は、聖書の中で通常、血縁関係を象徴するために使われますが、これは常にそうであるわけではありません。それらは時に、宗教的な結びつきを象徴するために使用されます。例えば、マヒュー(マタイ)は、イエスがこう述べているのを引用します:「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12:50)。早期のキリスト教のコミュニティーにおいて、人が主の「兄弟」、または「姉妹」に成ったのは信仰を通してであると言う多くの示唆があります。再び、マタイは復活したキリスト(太陽)を引用し、彼の弟子達にメッセージを送る時、彼の弟子達を、弟子達と言う感覚における兄弟達と描写しました:「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(28:10)。ポールもまた、彼の様々な手紙の中で、宗教的な結びつきを示唆するために「兄弟達」を使います。

彼のユダヤ人達の大昔の中でジョセフスは、西暦64年に起こった裁判の説明を与え、それはポールの語りにおける「主の兄弟、ジェームズ」の登場のための代わりと成る可能性の説明を示唆します。パレスチナの新たな知事、アルビヌスの到着を待っていた間、ユダヤの高神官、アナヌスは、幾人かの政敵が法律を犯したために、投石の刑(死刑)を命じた様です。市民達からのその問題についての抗議の結果として、アルビヌスはアナヌスをクビにして、その兄弟、ジェームズが、投石の刑の被害者の内の一人だった、イエスと言う名前の高神官と入れ替えました。

ポール自身の語りは、彼のエルサレムへの最初の訪問の後に、彼はシリアと、彼の誕生の地であった、小アジアの一部、シリシアへ行ったと説明を続けます。其処で、彼の顔は人々に知られてはおらず、「彼はその昔、私達を迫害したのに、今は、その以前に、彼が破壊した信仰を宣教していると、聞かれていただけでした。そして彼等/それらは、私の中の神を栄光化しました。」この当時、シリアの首都であったアンティオークにおいて、既にジェンタイル(非ユダヤ)-キリスト教徒達のコミュニティーが繁栄していました。ポールは、その指導者、バルナバスと知り合いに成りました。最終的に、そのコミュニティーは、バルナバスとポールに、シリアの国境を越えて宣教する事を委託しました。これは、バルナバスの故郷である、キプロスへの訪問から始まる、ポールの3度の宣教的な旅の最初に結果しました。

エルサレムのキリスト教教会のサイモン(ピーター)と、アンティオークのポールとの間の争いは、ポールとバルナバスがこの最初の宣教的な旅から戻った時に発生しました。ユダヤ-キリスト教教会の使徒達は、ジェンタイル-キリスト教徒達に、割礼を受けモーゼス的な法律を守る(つまり、ユダヤ教に改宗する)事を要求しました。ポールは最終的に、一般的にはエルサレムの委員会と知られるものにおいて言い争いを解決し、それにおいてサイモン(ピーター)がユダヤ人達の使徒と成り、ポールがジェンタイル達の使徒に成る事が合意されました:「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました・・・ エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人(ジェンタイル)に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。それどころか、彼らは、ペトロ(サイモン)には割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました・・・また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブ(ジェームズ)とケファとヨハネ(ジョン)、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」(ガラテアの使徒への手紙2:1-2,7,9)。

ポールのエルサレムへの2度の訪問の説明の中で、「ピーター」と言う名前が使用されるのが奇妙なのは、何故なら私達は、西暦2世紀における使徒言行録の書の最終版の前に、エルサレムの使徒達の指導者として、ピーターと言う名前の人が、何処にも記述されていないためです。(ギリシャ語のノヴム聖書/Novum Testamentum Graece の中に見つけられる様に)ポールの手紙の文献の元々のギリシャ語は、彼が決して「ピーター(ジュ・ピーター/木星)」と言う名前を使わず、エルサレムの使徒達の指導者を、「ドーム」を意味するアラマイック語、ケファ(Kepha)、またはセファス(Cephas)と呼んだ事を表します。「セファス」と言う名前はまた、サイモンがどの様にして改名されたのか、ジョン(ヨハネ)の福音書の中で、サイモンのための同義語として使われます:「そして、(アンドリューは)シモン(サイモン)をイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネ(Jona/ジョナ/ジョン)の子シモンであるが、ケファ――『岩(ピーター/ペトロ/ミネラル)』という意味――と呼ぶことにする」と言われた(1:42)。使徒言行録の書における「ピーター」と言う名前の、より勝手な使用は、明らかに後のコピーイスト(写し取り者/書生)の仕業で、ポールよりもむしろ、ピーターを近代キリスト教の創始者と見立てるために、誤った見解を補佐する事を求め、そしてまた、照合し無い年代禄を一致させようとしたためです。

エルサレムの委員会の実際の年代についても、同じ問題が起こりました。現代の学者達の多くはそれを、大ヘロッドの孫である、ヘロッド・アグリッパ1世の西暦44年の死の期間、またはその直前に位置付けます。彼等は、どの様にアグリッパ1世が、彼自身の死の直前に、サイモン(ピーター)を逮捕し、投獄したのかの、使徒言行録の中の説明に、彼等の信念を基づけます:「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネ(ジョン)の兄弟ヤコブ(ジェームズ)を剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロ(ピーター/サイモン)をも捕らえようとした。それは、除酵祭(イースター)の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭(パスオーヴァー)の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(12:1-5)。

私達はその後、パスオーバーの最終夜に - 恐らくジェームズの様に処刑されるために、「民衆の前に引き出される」前夜に - サイモン(ピーター)は、彼自身が奇跡的にも、天使(エンジェル/アングル/角度)の介入を通して、彼の鎖から解放され、導かれ、理解可能なめまいの中、護衛達の前と鍵のかけられた門を通って解放へと自由にさせられた事を見つけます。その後彼は「そこを出てほかの所へ行った」(12:17)と言われます。西暦44年を好む学者達は、「他の処ヘ行った」と言うフレーズを「彼が死へ逝った」と言う、聖書的な簡略表記であると解釈します。

この年代設定は、しかしながら、福音書がイエスの人生、苦悩、そして死の、文字通りの説明であると見解する学者達のために、問題を創造します。シナイにおけるポールの入門期間の3年と、彼のエルサレムへの2度の訪問の間の14年 - 足して17年間を引き算すると、ポールは西暦27年まで以前において、キリスト教徒達を迫害していた事に成り、福音書の中で磔と復活のために与えられた最も早期の年代よりも、3年早く成ってしまいます。彼等(学者達)は故に、「他の処へ行った」を、サイモン(ピーター)がローマへ行った事を意味すると解釈し、そして示唆によって、ポールとの後の会議のために、エルサレムに戻ったと解釈しました。私達が、全く証拠も説明も持たないこの出来事の連鎖は、使徒言行録の書が、ポールはエルサレムにおいて、2度では無く、3度、サイモン(ピーター)と会議したと示唆する事実によって、更に複雑にされます。此処で再び、ポールの手紙と、疑わしい使徒言行録の書の間のその他の矛盾と同様に、コモン・センス(共通の感覚/常識)は、「ピーターと呼ばれるサイモン」が一度でもローマに行ったと言う、単なる自己-補佐(捏造)的な伝統である、この後の時代設定をサポートする証拠の欠片が一片も存在しない事実と掛け合わされると、この話のポールの個人的なヴァージョンが優先されるべきと示唆します。

文明化された世界の政治的な首都であるローマの教会の分派の司教にとって、西暦1世紀の最後の10年におけるヴァチカンからの景色は、もし彼がエルサレムの使徒達の権威的な見解を分かち合っていたなら、励みに成るものでは無かったはずです。

ピーターは既に死んでいました(彼は西暦44年に死にました。)。私達の司教が、エッセネ派のユダヤ-キリスト教教会の座として補佐のために、もうエルサレムに頼る事が出来なかったのは、何故ならローマ人達が其処を崩壊させてしまったためです。彼等に対するユダヤ人達の反乱を平定しようと試みて4年が過ぎた後、彼等は西暦70年に、最終的にその街を侵略し、その殆どを破壊し、寺院に火を放ちました。延長された兵糧攻めの間に飢えから死ななかった住人達は、殺されたか、捕虜に取られ、奴隷へと売り飛ばされたかのどちらかで - そして、ユダヤ-キリスト教教会は、エルサレムから消滅しました。

これは、私達の司教の問題の一部でしかありませんでした。ポールによって地中海周辺に設立されたキリスト教教会の分派は、私達が以前に目撃した様に、エルサレムの使徒達によって好まれた、権威的な神官階級(官僚)と、忠実な信者達への、はっきりとした分別よりもむしろ、グノーシス派によって好まれた、形式ばらない習慣に基づいて創造されました。グノーシス派は、全てのキリスト教徒は同等で、彼等の入門を通して、神聖なスピリットを通した直接の(内的な)鼓舞の、カリスマ的なギフト(オイル)を受け取ったと信じました。彼らが集った時、全てのメンバー達は、男性も女性も、新たな入門者達を洗礼する儀式のためや、メシア(救世主)的な宴会において、監督する司祭として誰がその役割を果たすかを決めるために、くじ引きを行いました。私達はこの個人性が、ポールの手紙の一つに反映されているのを見つけます:「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(I コリントの使徒への手紙14:26)。

キリスト教のエッセンシャル(本質的)なネイチャー(本質)についての、これ等の分派のメンバー達の信念は様々でした。彼等の福音書は - 今日、私達に親しみのある4冊の正式に認められた福音書の感覚では無く、「喜ばしいお知らせ」的な感覚で - 初歩的であり、通常、預言者達の旧約聖書のほんの一部と、イエスに帰属させられた言い伝えの幾らかでしか、構成されていませんでした。

加えて、台頭してきたキリスト教を、多くの人々は唯単純に、私達が序章の中で検証した様に、エジプトの黄泉の国の神で、死者の裁定者であるオシリスと、彼の花嫁、イシス(ISIS/アイシス/イシュタール)、そして彼等の鷹-頭の息子、ホルス(朝日)によって構成された、「神聖な」家族に基づいた、(第22章の中で検証される)セラピスの太古のエジプトのカルト(信仰)の、別ヴァージョンでしかないと見解しました。

混沌的で、誰もが自由の、ポールの地中海の教会に対する、聖職的な権威(神官階級/官僚)の見解は、秩序(命令系統/社会階級)が確立されるべきだというものでした。この挑戦は、様々な形で対峙されました。それらの内の主要なものは、イエスが西暦1世紀のピーターと同年代で、ピーターを教会の代表者として任命した人として、そして故にその使徒的な伝統の源泉であると確立する事で;ピーターが殉職したとされるローマへ、彼(ピーター)を「復活させ」運び;ジョシュアを、事前存在したキリスト、ヌンの息子と一致させ;ポールの重要性を過小評価し;イエスの苦悩と死を、ポンティス・パイレートと同時代に配置する事によって福音書の神学的な説明に、歴史的な次元を与え;キリスト教徒として受け入れられるために、キリスト教徒達が信じる事を必要とする、教義におけるこれらの解釈を加え;そして教会の教えを受け入れない、あらゆるキリスト教徒達を、異端者として迫害する事でした。

これ等の目的は、西暦2世紀の終わりまで達成されました。彼等は、大コンスタンティン(西暦274-337年)の改宗の後、彼等の全盛期に辿り着きました。その頃から、教会は、衰退して行っていたローマ帝国の中の統一的な力で - 教会の教えに異論を唱え、受け入れる事を拒む者達である - その思想的な敵に対する、政治的、そして軍事的に頼る事の出来る、国家の右腕として、益々見解される様になりました。

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