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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第18章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート3

王朝の鍵


・・・恵みによって召し出してくださった神が・・・御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず:また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず;アラビアに退いて・・・
ガラテヤの使徒への手紙(ガラテア人達へのパオロの手紙1:15-17)

第18章

早期のキリスト教徒達


今日の殆ど全てのキリスト教徒達 - ローマ・カトリック、プロテスタント、またはオーソドックス(ギリシャ正教)は - 3つの基本的な前提を分かち合います。彼等は新約聖書の教会法、使徒的な信念、そして組織化されヒエラルキー(ピラミッド型)的な構造の、教会を受け入れます。キリスト教の信仰と、この形状における遵守のこれらの3つの要素が台頭したのは、西暦2世紀の末期に向かってでした。

この本の最初の2つの部分の目的は - 復活したイエスは、西暦1世紀の初頭の間に、彼の弟子達の前に現れたと報告されますが、彼の歴史的な使命は紀元前14世紀に起こったと言う事を - 歴史的な証拠だけに単純に基づくのでは無く、聖書的な記述者達と、教会の早期の神父達の記述の証言において、証明する事でした。歴史的な事実のこの明言は、どの様にすれば一般的なキリスト教徒達の信仰と和解する事が出来るのでしょう?その最初の仕事は14世紀のギャップを埋める事です。

英国の学者、A. N. ウィルソンが、彼の著書、イエスの中で指摘した様に:「歴史的なイエスと、信仰のキリストは、とても異なった逸話を有する、2つの別々の存在です。前者を再構築するだけでも、それは十分に難しく、そしてそうする試みにおいて私達は後者に対して取り返しのつかない傷をつけるでしょう。」公正さの先生であるジョシュアと、邪悪な神官(i.e. ピネハス)、そしてその苦悩する従者についての歴史的な真実は、この長い期間の間を通して、彼等が内なる神である、神の知識として彼等が考えた、自己-知識を求める宗派の2つのグループ、エッセネ派(ユダヤ-キリスト教徒)と、グノーシス派(非ユダヤ-キリスト教徒)によって保存されました。グノーシス派は、彼等が新約聖書の教会法も、使徒的な信念も、教会の権威も受け入れなかったので、早期の教会の神父達によって、異端として非難されました。

1947年において、クムランの洞窟の中から、彼等の図書館(文献)である死海書が発見されるまで、エッセネ派は唯一、ギリシャの源泉(つまり、ギリシャ語で書かれた源泉)から知られていました。西暦1世紀において、ユダヤ人の哲学者(歴史家)、ファイロ・ジュデウス、地理学者で自然学者であった大プリニー、そして歴史家、フラヴィウス・ジョセフスによって、彼等については記述されました。当時、ファイロとジョセフスによると、パレスチナとシリア全体を通して、点在した数々のコミュニティーにおいて、約4,000人のエッセネ派が存在していました。

エッセネ派は、救世主 - 公正さの彼等の先生が - 既に生きて、苦悩し、そして邪悪な神官として知られる攻撃者の手によって殺害されたと信じた、秘密裡のユダヤのセクト(信仰)の多くの中の主流で、彼の再来を待ちわびていました。エッセネ派は、彼等が「不信心な人達」でその教えが過ち/嘘であると見識した、ユダヤの全体的なコミュニティーと、エルサレムの神官階級から、彼等自身を分離させました。そのセクト(信仰グループ)は、もし彼等の信仰が知られてしまうと - 社会的に村八分にされるか、彼等の先生の様に殺されてしまう - 迫害の危険に面していたので、彼等は、彼等に賛同した人達の全てに、秘密を守る誓いをさせました。

ジョセフスは、単純に、「私の命令(十戒)を守りなさい」とし、永遠の生命を一切約束しないモーゼスの旧約聖書とは全く対照的に、そのセクトのメンバー達が不死を信じていた事を理解し、彼の記述の中で説明しました:「体は腐敗し、そしてそれらの物質は不安定ですが、魂は不死で永遠に続き;最もとらえがたい/繊細なエーテルから派生し、それらは監獄としての役割を果たす体の中に絡められますが、血肉の縛りからそれらが自由に成り、言うなれば、長い奴隷化から解放された時、それら/彼等は喜び、天界的な世界へと上昇すると言うのが、彼等の間の固い信仰です。」

紀元前200年から西暦50年までに年代鑑定される、クムランにおいて発見された文献は、おおよそヘブライ語で記述されました。それらの極少数は、新約聖書当時の一般的な言語、アラマイック語で、そして幾らかはギリシャ語でした。それらの中に含まれたのは、(後に書かれたかも知れず;彼女が住んでいたペルシャの様な他の場所から由来したかも知れない)エシュターの書を除いた、旧約聖書の全ての書の一部でした。エッセネ派は、その洞窟の中で、18冊以上のイサイヤ(イザヤ)の書が発見されたので、彼の記述に特別な思いを寄せていた様です。特に2つの文献 - ダマスカスの文献と、教義のマニュアルは - そのセクト(信仰グループ)の歴史の説明と、その仲間への受け入れの条件と、そのセクトの行いのルールを与えます。

エッセネ派は、ユダヤの寺院の神官達(官僚)の様に、トーラ(i.e. 旧約聖書の最初の5冊)とモーゼスの法律(10戒)を研究し;厳しくサバスを行い;モーゼスの十戒と命令に従い;そしてモーゼスの名前を強く尊敬しました。しかしながら、彼等の信仰は、現代の基準によって、寺院の神官達の単純な見解として考えられるものより、遥かに超えていました。* 彼等の起源はイスラエライト族の歴史にありますが、エッセネ派は、彼等の公正さの先生の死には、個人的な責任は無いと考え、動物の生贄の寺院の儀式よりもむしろ、メシア(救世主)的な宴会と共に、ユダヤのアトーンメント(償い/アトン・メント/at one ment)の祭日を行いました。この宴会において、彼等は、彼等の公正さの先生が復活し、彼等と合流すると予想し、磔の前夜の洗足式の木曜日に、キリストが聖餐式(communion)のキリスト教徒の恩寵(おんちょう)を制度化したとされる、最後の晩餐に、とても多くの類似性を有します。クムランの文献によると、その神官は、「パンとワインの最初を祝福し、そして彼の手を、最初にパンに伸ばします。そしてその後、そのコミュニティーの集会の全ては、彼等のそれぞれの階級に従い祝福を与えます。そして、この訓令の後、彼等は、少なくとも10人集められた集会毎のために、活動します。」

後のキリスト教徒達はまた、イエス自身が生贄であると考えたので、彼等自身が動物の生贄を行う事を止めました:「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。そして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。

* 神官的な祭事は、集会(信者達)のために、寺院において神官達によって行われた、カルト(信仰)的な生贄の儀式に集中されました。彼等の捧げ物と共に寺院に出席する以外、信者達に個人的な関わりは必要ではありませんでした。

死海書は、この秘密裏のユダヤ-キリスト教のセクトからは、女性の入会は排除され、割礼を受けたユダヤ人の男性達だけが入会を許された事を示します。新入の会員達は、そのセクトの儀式において参加するために手斧とエプロン(i.e. メイソン)と、エッセネ派の通常着である、白い布(服)を受け取りました。始めに、彼等は1年の見習い期間、更なる2年の修行を経験しなければなりませんでした。この3年間の入門の期間の終わりに、入門者は、彼を神に向かう信者達、人々のための正義、同僚のエッセネ派達に対する切実(正直)、そのセクトの教義の誠実/忠実な伝達、そして彼等の秘密の保存に結び付けられる、連合の誓いを誓わなければなりませんでした。エッセネ派は、コミュニティーの資産共有を行いました。新たな入門者達は、そのグループに彼等の資産を手渡し、それを選ばれた会員達が、全員ののために、それを管理しました。

そのセクトの会員は、祈りと共に彼等の1日を始め、その前後に、神官による短めの祈りに続かれる、清めの儀と共同の食事によって続かれました。その後彼等は、彼等の仕事を始め、その殆どは、食物のために大地を耕す事で、そして夕食のために集まる前に、日の入りにおいて再び祈りました。

エッセネ派は、厳密にヒエラルキー的なセクトでした。それは、神官達と信者達へと分離されていました。その神官達は「ザドック(Zadok)の息子達* 」と表現され、その信者達は、聖書的なモデルに従い、12支族へと分離されていました。パンとワインの祝福と共にある、最後の晩餐が、エッセネ派のメシア(救世主)的な宴会(食事)をエコーする様に、福音書の中に記述された12使徒達は、キリスト教時代よりも遥かに以前の、12支族のそれぞれからの、一人ずつの代表者達によって構成された、エッセネ派の統治委員会の形成のエコーです。

クムランにおいて発見された文献の一つである、彼等のコミュニティーのルールはこう述べます:「そのコミュニティーの委員会は、12人の人達(代表者/ゾディアック)と3人の神官達を設けます」 - その不明瞭な文献は、2つの意味(の解釈)を許し:12人の内の3人が、神官なのか、12人に加えて、更なる3人の神官達がいたのかのどちらかで - 「真実、公正さ、正義、愛情の博愛、そして慎みを、お互いに対して行い、確かな意向と後悔の精神と共に、地上の上で信仰を守り、正義を行い、難儀の苦労を経験する者達の間で不正を償い、時間の真実とノルマの方法に沿って、全ての人達に向かって振舞います。」

これ等のエッセネ派の行いの、エジプト的な根源は、以下です。彼等は、彼等が永遠であると考えた、人間のスピリット(霊)的な要素における信仰によって影響され、そして彼等の先生が、日々の終わりに死から甦ると信じていました。彼等のヘルメス的な生活の方法は、エジプト後期の行いに類似していましたが、彼等は、エジプト人達が行った様に、彼等自身の復活を信じるまでには至りませんでした。

クムランのセクトの会員の全員が階級を有し、神官達が権威において1番でした。オックスフォードの旧約聖書の研究の教授、ゲザ・ヴァームズは、彼の著書、英語における死海書の巻物の中でこう指摘します:「彼等の手の中にあったのは、教義、秩序、純粋さと不純の問題についての判断のための、究極の責任で、そして特に『正義と所有物』に関した問題に対してでした。そしてまた、論議、聖書の研究、または祈りのための10人、またはそれ以上のあらゆる集会には、一人の神官の出席が必要と言うのが、基本的なルールでした・・・クムランにおける神官階級の一つの興味深い特徴は、彼等の優先権が絶対であった事です。」このクムランの神官階級の「教務深い特徴」は、ほぼ2千年近く続いたキリスト教の信仰に影響しました。しかしながら、エッセネ派(ユダヤ-キリスト教徒)は、公正さの先生(キリスト)の死についての真実を保った唯一の存在ではありませんでした。

* ザドックは、デーヴィッドの神官で、彼の子孫達が、紀元前6世紀において、バビロニアに追放される(奴隷化される)まで、エルサレムにおいて神官職を担ったと信じられました。

救世主が既に生きて、苦悩し、そして人類の罪のために死んだと言う、エッセネ派の信仰は、グノーシス派の一つであった、テラピュータエ(Therapeutae/エジプトの非ユダヤ-キリスト教徒達)によって分かち合われました。テラピュータエ達の歴史のための、私達の唯一の権威は、紀元前15年頃に生まれ、磔の日々とされる20年位後に死んだ、哲学者、ファイロ・ジュデウス(Philo Judaeus)です。エッセネ派を尊敬して記述し、彼等をユダヤのコミュニティーの不満分子として描いたファイロは、テラピュータエ派をユダヤとして名指ししませんでした。これは、西暦6年におけるローマ(帝国)による徴税の開始の後に、ローマ人達と神官(官僚)達に対する反乱を導いた、サデュシー派、パリサイ派、エッセネ派、そしてジュダの支持者達の彼のユダヤのセクト(信仰グループ)の分別において、彼等(テラピュータエ)を含まなかった(歴史家)ジョセフスにもまた共通します。

セクトの間の数多くの類似性にも拘らず、グノーシス派のテラピュータエは、エッセネ派とは異なり、女性を除外しませんでした。* それだけでは無く、彼等は絶対的な服従に規制された信者と神官達の固定化されたヒエラルキーへと分離されてはおらず人の性別がどちらであれ、儀式と組織内の責任を取る事が出来ました。エッセネ派の行いとは対照的に、テラピュータエ派は、ユダヤ人と非ユダヤ人をセクトの会員として迎い入れ、そしてまた禁欲を行いました。殆どの女性陣は、歳を取ってるにも拘らず、「未だに無垢(処女)で - ギリシャ人達の中の女司祭達の様に、必要性からでは無く - むしろ、学習のための、彼女達の熱意と熱望のために、彼女達自身の選択を通して純潔(貞操)を守り、それにおいて、彼女達の人生を送る事に熱血で、彼女達は肉体的な快楽を軽蔑します・・・」とファイロは説明しました。

テラピュータエ派は、シンプルな人生を受け入れた、瞑想/哲学的なセクトの会員達でした。会員に成ると彼等は世界を完全に否定し、「振り返りもせず、兄弟達、子供達、妻達、両親達を見捨て・・・孤独を求め、城壁の外、庭園の中、または孤立した場所において、彼等自身の居住区を造ります。エッセネ派と同様に、テラピュータエ派は、共同資産を信じました。彼等は彼等の所有した物を、そのセクトに譲り、それぞれのハット(テント)のキャンプの中に住みました:「その家は・・・とても低価格で、2つの最も重要な事、太陽の熱さと(夜の)空気の冷たさに対する保護を与えました。また、これ等の家(テント)は、孤独を求める者達にとって、近さは問題なので、街中の様に近接していてはいませんでした。それでも彼等は、彼等の切望において仲間なので、盗賊達からの攻撃が有れば、彼等はお互いを助け合います。」

* エッセネ派の行いとは対照的に、エジプトの歴史において女性達は、決して宗教的な活動から、阻害されませんでした。彼等の最も早期の時代から彼等は女祭司達と寺院の女性従女達を有していました;幾つかの場合においては、女性が彼女の人生を、この奉仕に奉げる事も可能でした。そうであれ、純潔/処女の証拠は、唯一、テラピュータエ派から由来します。

「誇り(おごり)の始まりを偽りとして、単純性の始まりを真実とする」、彼等の単純性への意欲は、彼等が食べた食物と、彼等が着た服に反映されました:「彼等は高価な食物は口にせず、単純なパンと塩の味付けで食べました。」そのセクトに参加する何年も前から、美味しい(贅沢な)味覚に馴れてしまっていた人達は、その厳しいダイエットに、香りの良いハーブ、ヒソップ(ハッカの一種)の形状において、少々の香辛料を加える事が許されました。自然の湧き水は、彼等が唯一飲んだものでした。テラピュータエは、夏に袖の無い「低価格」のジャケットを着て、冬には厚いマントを着ました。

彼等は、日の出の時刻の早朝に、祈りと共に1日を始めました。夕暮れに向かい、更なる祈りが続きました。その間の時間に彼等は、彼等が「修道院」と呼んだ、彼等のハット(テント)の中で過ごし、「神聖な聖書の読書」に、彼等自身を献身させました。彼等は、「文字通りの解釈の言葉は、その様な例え話においてのみ、隠された本質の象徴として唯一明かされると考えたので、彼等の法律の本来のコード(暗号)を、例え話的に哲学し、解釈しました。彼等はまた、それらの例え話の中に隠された真実について、そのセクトの創始者達である、先人達の記述を学習しました。

彼等は、「体に必要なものは、暗闇に相応しい間、哲学は光と一貫的」と考えたので、6日間、日の入り後は、飲み食いしませんでした。彼等の多くは、「彼等が、セミは空気を食べると言う様に」、彼等は成れていたので、それらの6日間の全体で、断食しました。7日目に彼等は、集会的な信仰と、彼等の神聖な書の談義のために集合しました。5日毎に、白い服を着て彼等は - 肉、またはワインを知らない(食べない) - 宴会(夕食)のために集い、新たな夜明けを出迎えるために、そのセクトの会員達が出かける前に、神の栄誉のために聖歌が唄われる、神聖な夜通しの祭儀(お祭り)によって続かれ:「彼等は立ち上がり、彼等の眼と彼等の体全体を東に向けました。そして彼等は太陽が昇っているのを見た時、両手を天界に向けて上げ、そして公正な1日と真実と、そして理解の鋭さ/熱心さのために祈りました・・・」

1947年におけるエッセネ派の図書館(文献)である死海書の発見と、その後に続いたその内容とそれらの重要性についての論争は、その2年前に、上エジプトのナグ・ハマディで発見されたグノーシス派の文献から注意を反らしました。西暦4世紀の後半のある時点において隠されたこの文献は、52の文章を含んでいる13冊のパピルス(巻物)で構成され、それらの中にあったのは(この本の最後の追加付録の中にリストされた)以前には知られていなかった福音書でした。それらが含んでいたのはトマス(テムズ/タムズ)の福音書で、新約聖書の本のいずれよりも早期では無いにしても、同等の古さの伝統を表し、そしてイエスが述べたとされる100種以上の発言を含んでいました。その他の記述に含まれていたのは、フィリップの福音書、マリー・マグダレンの福音書、エジプト人達の福音書、そしてポール(パオロ)のアポカリプス(黙示録)でした。

全てではありませんが、この文献の多くは、明らかにキリスト教のものでした。その文献の幾らかは(死者の書の様な)ペイガン(異教)の源泉から、そしてその他はユダヤ的な伝統から派生しました。しかしながら、明らかなのは、グノーシス派達が彼等自身を、キリスト教の真の解釈者として考えていた事です。彼等の名前が示唆するのは、彼等が知識を求めていた事で、理論的な知識では無く、自己-知識で、それは同時に神の知識で、彼等が自身を神聖な本質の一部であると考えていたためで、救いとは、人の体の中における投獄からの、人のスピリットの開放以外のものでは無く、肉体的な死と共に、邪悪で物質的な世界から、最終的に解放されると考えたためです。

トマス(双子)の福音書は明らかに多大で学術的な重要性ですが、それが純粋に(イエスが)言った事で構成されているので、キリスト教時代の最初の世紀の間の歴史的な出来事に、殆ど光を当てません。しかしながら、その他の文献は、西暦2世紀の間において、それらが一度、「オーソドックス(主流派)」の教えの一部に成ると、グノーシス派は、人間の母親からの物理的な誕生としてでは無く、スピリットとしての、聖父である神からの救世主の派生として彼等は考えたので、オーソドックスの処女の懐妊の理解を否定し;彼等はローマ帝国時代に、イエスが磔にされた事を否定し;彼等は復活が物理的/肉体的では無く、スピリット的であると考え、それは文字通りでは無く、象徴的に理解されるべきである事を示唆し;そして彼等は、エルサレムの物からは別々の、彼等自身の使徒的な伝統の秘密の源泉を有していると主張した事を鮮明にします。以下はピーターの黙示録からの一つの例です;

「私は彼(救世主)が、彼等によって囚われた様に見えました。

「そして私はこう言いました、『私が見たのは、おお主よ、彼等に囚われた貴方自身で、そして貴方は私を掴んでいた(助けを求めていた)のですか?もしくは、木の上で喜んで笑っている人は誰ですか?そしてその手足を彼等が打っている人は、もう一人の人ですか?』

「その救世主は私にこう言いました、『木の上で喜んで笑っているのを貴方が見た彼、これが生きているイエスです。ですがその手足へと、彼等が釘を打ったこの者は、彼の肉体的な部分で、はずかしめへと入れられた代理で、彼の容姿において存在へと現れた者です。ですが彼と私を見て下さい。』

「ですが私は、私が見た時に、こう言いました、『主よ、誰も貴方を見ていません。私達はこの場所から逃れましょう。』

「ですが彼は私にこう言いました、『私は貴方に、盲目の者は一人にしておけ!と言いました。そして貴方は、彼等は、彼等が言っている事を知らないと見る/理解するでしょう。私の従者の代わりに、彼等の栄光の息子を、彼等がはずかしめへと入れたためです。』」
ピーター(ペトロ/石/ミネラル)の黙示録 81-82

グノーシス派の信仰の形状は形式ばっておらず、祭司達と信者達の間の分別はありませんでした。全ての信仰者達は同等と考えられ、そして救いは個人的な経験の問題として見られました。故にヒエラルキーはありませんでした。彼等の集会のそれぞれにおいて、その集会のメンバーの中から、祭司の役割をするために、男性女性に拘わらず、彼等は誰かを選びましたが - その形式ばらないアプローチは、ローマの教会によってその後、挑戦された時に、グノーシス派の運動を、致命的に弱めました。グノーシス派のコミュニティーは広く広まっていました。示唆されているのは、アレクサンドリアに広がり、ファイロが、「全ての州」という様に、エジプト中に広まる前に、彼等がメンフィスと Fayyoum (の街)の間において始まった事です。その後、(エジプトの)国外のローマ帝国の全ての部分へと広まりました。

トマスの福音書は、イエスの例え話と言い伝えの集合体です。それは、イエスの人生のナレーションと、彼の死に繋がった描写を含みません。これらの言い伝えは、正しく理解されれば、救いと生命への道を開くと言われ:「これらの言い伝えの解釈を見つけるのが誰であれ、死を経験しないでしょう。」(言い伝え1)。

その言い伝えの多くは、新約聖書の4つの主要な福音書の中と同時に、ポール(パオロ)の手紙の中に平行線(類似性)を有します。例えば:

「イエスはこう言いました、『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い(マタイ13:57)、そして言葉の少々の変化と共に、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ6:4)、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカ4:24)、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネ4:44)。

トマスの福音書の中で十字架は記述されますが、死の象徴としてでは無く、一般的な福音書とポールのガラテヤの使徒への手紙の両方において私達が見つけるのと同じ感覚における、永遠のスピリット的な生命です:「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)・・・「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。

基本的で宗教的な経験は、トマスの福音書によると、人の神聖な正体の認識だけでは無く、更に特定的に人の起源(光)と宿命(休養)の認識でした。人の起源に戻るには、血肉の衣を「脱ぐ」事が必用でした。その後、人は、新たな世界、光、平和、そして生命の王国を経験する事が出来るとされました。

トマスの福音書の中で示唆されるグノーシス的な神話において、それぞれのスピリットは元々、神聖な存在のスピリット的な宇宙である「全て」の中に住んで/宿っていました。何らかの創始的な - 墜落/堕落 - を通して、幾らかの人間のスピリット達は、物質的な世界の血肉的な体の中に囚われ、彼等の本当の起源には盲目に成ったと示唆されます。イエスは単純に、彼等が本当は誰であるか - もう一つの世界に帰属する神聖な存在なのですよと - 彼等に対して明かす事によって、彼等を救います。この気付きは、彼等の物質的な体の「衣」から、すぐさま彼等を解放します。

此処において私達はテラピュータエ派の教えのエコーを見つけます:物質的な世界と、物理的/肉体的な体は、邪悪として否定されます;ですから当然、セックス(性別/性交)も然りで;禁欲主義によってスピリットは原則においてその体に打ち勝ち;そして最終的な死は、邪悪で物質的な世界からの開放でした。「もし貴方が、この世界から慎ま無いのなら、貴方はその王国を見つけられないでしょう」(言い伝え27)。

トマスの福音書の源泉は、学術的な論議の大規模な題材でした。その基本的な論議は、それが4冊の正典として認められた福音書において見つけられる言い伝えのもう一つのヴァージョンなのか、または4冊の福音書に記録されたイエスの言い伝えとして、同じ不正確な源泉 - 「Q」(ドイツ語のQuelle、源泉から) - から独自に引き出されたものだったのかでした。

福音書を英語に翻訳したヘルムット・コースター教授はそれが恐らく、西暦1世紀の後半において書かれ、4冊の正典と認められた福音書と同時代、もしくはそれらよりも以前のもので、何故ならその言い伝えと例え話は一般的に短めで、より簡潔にして要を得ていて、そしてそれらは、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの寓喩(アレゴリー)、ナレート的な枠組み、そしてその他の短縮的な指紋に欠けている、と信じます。

言い伝えと例え話自体については、新約聖書のイエスの人生、苦悩、そして死を、歴史的に正確であると受け入れる学者達は、明らかにそれらを西暦1世紀に年代鑑定する以外、選択肢がありませんでした。しかしながら、トマスの福音書はその形状において、太古の世界における言い伝えのその他の収集(i.e. ヘルメティカ)に近く、つまり、それらはエジプトと中東における英知の文献の遥かに古い伝統に帰属します。紀元前27世紀のピラミッドの建設者達の時代まで少なくとも遡る英知の文献は、エジプトにおいて最も高く評価された古い記述、または文献でした。サッカラの段々ピラミッドの設計者とされるインホテップは、この種の記述の最初の製作者として考えられました。その文献は、一般的に父によって息子への与えられた助言に形状において現され、そしてその教えは経験と、伝統の受け渡しの上に基づいていました。英知は - ギリシャ語におけるソフィアで - 神から派生し、ことわざ、謎々、そして英知の言い伝えのその他の形状において語る、女性的な登場人物として人格化されました。

これ等のセクト(宗派) - エッセネ派、グノーシス派、そしてテラピュータエ派 - の全ては、キリスト教時代の始まりにおいて既に文明化された世界(ローマ帝国)において確立されており、そしてローマ(の街)でさえも、西暦1世紀の前半に確立されました。正確に、どの様にして、彼等がローマに定住する様に成ったのかは不透明です。権力者達が、唯のもう一つの神秘的なセクトでしか無いと見解した宗教への改宗者達の一つの源泉は、彼等自身の兵士達だったのかも知れません。紀元前25年にエジプトを訪問した、ギリシャ人の地理学者で歴史家のストラボと、その追随した知事、アリウ・ガルラスは、それに続く年におけるアラビア南部を平定しようとする彼の試みにおいて、メンフィスからナイルを挟んだ対岸の、太古のバビロンの街(現代のカイロ)に、ローマ軍の3軍団が駐屯していた事を記録しました。メンフィスはセラピスの寺院を含み、そのエジプトの神の信仰は、当時、最も人気を博していたカルト(信仰)でした。それは文明化した世界全体を通して広がり - 台頭してきていたキリスト教と、2世紀以上も - 並行して生き残り、数多くの信仰者達によって、私達が後に見る様に、別々の分岐(分派)として見られました。

もう一つの源泉は、オーソドックス(主流派)とエッセネ派(ユダヤ-キリスト教徒)の両方である、ユダヤ人達だったのかも知れません。最初のユダヤ・コミュニティーは、紀元前63年におけるジュデア(パレスチナ)のローマの侵略の後、戦争捕虜と奴隷として、ローマへともたらされました。これは勿論、エッセネ派は、割礼されていない非ユダヤ人達を彼等の運動に受け入れなかったので、その街(ローマ)における、非ユダヤ人のキリスト教徒達の存在を説明しません。しかしながら、メシア(救世主)が既に現れたと信じたキリスト教徒達と、それを否定したオーソドックスなユダヤ人達の間の暴動は、最終的に西暦49年における皇帝カリギュラによる彼等のローマからの追放に繋がりました。

私達は、この追放に対する言及を使徒言行録の中で見つけます:「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った; ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった(18:1-3)。

しかしながら、もう一つの、それ以前に、西暦19年のローマから、クラウディウスの叔父である、タイベリウスの統治の間に、ユダヤ人達の追放があり、(この点への証拠は不足していますが)それらの多くはユダヤ-キリスト教徒達だったのかも知れません。軍事年齢のユダヤ人達と共に、セラピスのエジプト的な信仰の信者達が追放されました。ローマの歴史家タシタス(西暦55-115年)は、彼の年代記の第2巻にこう記述します:

「エジプト人とユダヤの信仰を追放するについての論議があり・・・そしてそれらの迷信に感染された4,000人のフリードマン(解放された奴隷)階級と、軍事年齢の者達は、サルディニア島の山賊行為を平定するために、その島へ送られ、悪疫的な気候(状況)から、彼等が死のうとも、安い犠牲/生贄である、という決議が上院議会において通されました。その他の者達は、特定の日付けまでに彼等の不純な儀式を否定しないなら、イタリアから出て行かなければなりませんでした。」

この出来事の年代を、ローマからのユダヤ人達の追放のために、殆どの学者達が受け入れる時代よりも30年以前の、西暦19年頃とするのが可能なのは - 何故ならタシタスの年代記の第2巻の中で記録された全ての出来事が、この年代の周りで終結へと来るためです。

ローマにおけるキリスト教の早期の現れはまた、西暦37年に、クラウディウスが皇帝に任命される前に彼と婚姻した彼の妻、プロト二カが、彼の叔父、タイベリアスの統治の期間(西暦14-37年)に、キリスト教への改宗者と成っていた伝統によって示唆されています。その存在のための歴史的な証拠が全く無い、「真の」十字架を、この時代にプロト二カが発見したと言う追随する伝統は、彼女の改宗の逸話が同等にアポクリファ(外典/非正式)的であった可能性を浮上させます。しかしながら、「カエザル(皇帝)の館」の、フィリップ派のメンバー達へのポール(パオロ)の手紙からの数行が、彼等のフィリップ派の同胞達へ、挨拶を送ったとして特定される、唯一のローマのキリスト教徒達です:「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」(フィリピの使徒への手紙4:21-22)。

クラウディウスに養子とされたネロが、西暦54年に帝位に就くと状況は一変し、そしてその14年後の彼の自殺まで、(彼は)、殺人、残虐性、そして道楽の、長きに残る悪名を達成しました。彼の統治の時代(西暦54-68年)までに、ローマにおけるキリスト教徒のコミュニティーは、相当な規模へと拡張していました。歴史家のタシタスは彼の年代記に中に、西暦64年にローマに放火したと非難され、身代わりが必用だったネロが、どの様にして「市民達によってキリスト教徒と呼ばれ、彼等の忌まわしい行為(異教)のために忌み嫌われていた階級に責任転換し、最も酷い拷問を与えた」のかを記録しました。

西暦1世紀の前半までに、テラピュータエ派もまた、広く遠くまで広がりました。その兄弟が、アレクサンドリアのユダヤ・コミュニティーの代表であったファイロは、カリギュラの短い統治の間(西暦37-41年)に、ユダヤ人達は彼等の寺院の中に彼(カリギュラ)の肖像を置き、崇拝するべきであると言う、皇帝の命令に抗議するためにローマを訪れました。彼自身の時代までの、聖職的な歴史を記述した、早期の教会の神父達の内の一人、エウゼビウス(西暦260-342年)によると - ファイロが彼の最も重要な研究、瞑想的な生活/人生を記述し始めたのは、ローマから彼が戻ったこの早期の時代で - その中で彼はテラピュータエ派を、「天界と宇宙の市民達であり、世界の聖父と創造主にとって、真に受け入れられる事が出来る、」として描写しました。彼はまた、テラピュータエ派が「文明化された世界の多くの部分において見つけられるが、ノームスと呼ばれるそれぞれの区域を通してエジプトにおいて、特にアレクサンドリアの周りで数知れません、」と記録しました。エウゼビウスはテラピュータエ派を、エジプトにおける最も早期のキリスト教の教会として認識しました。この当時、エジプトには42のノームス - 地理的な区域 - があり、頻繁に膨大な距離によって分離されていました。例えば、首都であったアレクサンドリアから、シナイ半島の南の先端であるシナイ山までは、優に300マイル離れていました。もし磔のために、福音書によって示唆される2つの年代(西暦30年と35年)が正確なら、唯一の旅の手段がロバかラクダ、またはボートであった時代に、20年も経たずに - ローマは言うまでも無く - エジプト全体に、キリスト教徒のコミュニティーが広まったとは、にわかには信じがたいです。

磔の年代とされる、そのすぐ直後のエジプトにおけるキリスト教の存在は、西暦1世紀の歴史家、ジョセフスによる、彼のユダヤ人達の大昔の中の説明によって証言されています。西暦50年代に、エジプトから一人の宣教師がエルサレム自体に現れ、其処で彼は洗礼者ヨハネよりも大々的な成功を納め、彼の指導の下、30,000人のユダヤ人達を集めたと、彼は記録しました。その新参者は、「彼が預言者であると言い、そして数々の一般人達に、彼と共にオリーヴの山に行く事を助言し・・・彼は更に其処から、彼の命令によって、エルサレムの城壁が崩れるのを彼等に見せると言い・・・此処で(ローマの代理長官)フェリックスがこれらの事を知らされた時、彼は、彼の兵士達に、彼等の武器を取り、エルサレムから騎馬隊と歩兵隊の大群で、彼等に対抗する事を命じ、そのエジプト人と彼と共にいた人々を攻撃しました。彼はまた、彼等の内の400人を殺害し、200人を捕虜にしました。ですがそのエジプト人自身は、その戦いから逃げ出せました。」

ジョセフスによるこの説明が、このエジプト人が、メシア的な先生であったはずである事を示唆するのは、彼がペイガン(異教徒)の預言者であれば、ユダヤ人達は彼に従わなかったはずであるためです。その後、西暦57年にポールが最後にエルサレムを訪れた時、そして彼がローマの兵士達によって、ユダヤ人達の怒りから救出されなければならなかった時、ローマ人の隊長は、彼(ポール)を、そのエジプト人の反乱的な預言者と勘違いし、そして彼にこう尋ねました:「それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか」(使徒言行録21:28では無く、21:38)。

問題に成っている問いは単純です。もし歴史的なイエス(ジョシュア)が、紀元前14世紀に生き、苦悩し、そして死んだのなら、彼(イエス)の弟子達の幾らかと聖者ポールに - 西暦1世紀の間に起こったと報告された - スピリット的なキリストの現れを、歴史的なイエスを表して入るとして同一視した「オーソドックス(主流派)」のキリスト教教会の動機の背後にあったものは何だったのでしょう?これらの動機は、ローマの教会が、その権威と権力を正当化するために、転生的なイエス - 血肉のイエスを - 西暦1年に位置付け、それらのスピリット的な現れを、歴史的なイエスの現れとして裁可した事以外の何ものでもありません。

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