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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第17章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

第17章: 沈黙のコンスピリシー(共謀)


紀元前1352年のある春の午後の、シナイ山の麓におけるイエスの殺害は後に、彼の死についての真実を隠蔽するための、大規模な共謀の題材に成りました。この共謀の最大の要素は、イエス(太陽)が、彼の死(冬至)の1世紀後に、迅速な軍事活動において、どの様にして約束の地(パレスチナ)を征服したのかの、詳細な描写をするにおける、イエス(太陽)の「復活(日の出/クリスマス)」でした。

イエスが殺害された(日が沈んだ)時のシナイ山の麓における出来事の、出エジプト記の説明の後、ジョシュア(イエス)は、ペンタテューク(i.e. トーラ)の5冊の書の一番最後である、申命記の書まで、その場面から全くいなくなり、其処(申命記)で、彼はモーゼスに引き継いだ指導者(後継者)とされます:「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った・・・」(34:9)。これは、イスラエルの統一された部族の指導者としての、彼のカナーン(パレスチナ)の征服を含む彼の活動のために、その書の全体に献身する事によって続かれます。この説明は一般的にポピュラーな受け入れを得ましたが、それは聖書的な批評と、考古学的な証拠の、どちらにも補佐されていない架空の記述です。

ジョシュアの書は、以前の預言者達、または歴史的な書として知られるものの、最初の一冊です。それは3つの主要な部分で構成され - カナーン(パレスチナ)の征服(1-12章);イスラエルの12支族による征服された地の分割(13-21章);そしてシェチャムにおける契約によって続かれる、ヨルダン川の東の部族達との交渉です(22-24)。ジョシュアに帰属された、迅速な軍事活動が、紀元前13世紀の後期に起こった事があり得ないのは、彼によって征服されたとされる2つの街が、それ以前に破壊されていて、そしてその他2つも、それより後まで、破壊されなかったためです。

これ等の軍事活動の説明は、イスラエライト族が、兵糧攻めの状態にあったジェリコの街の反対のヨルダン川を西から東へ渡る事によって開始されたと、私達は伝えられます。彼等は、奇跡的な方法で、その城壁が崩れ落ちた(ヨシュア6:20-21)後、それ(街)を占領し、「その街の中のものを完全に破壊しました。」ジェリコはとても太古からの街で、紀元前8000年まで遡れました。その長い歴史の間に、その街と、その大規模な城壁は何度も、何度も破壊され、再構築されました。紀元前1683年頃に、エジプトに侵略したヒクソス族は、この時代において約100年強、ジェリコを彼等の支配下に置き、その後、紀元前15世紀の間に、エジプトの第18王朝の王達によって彼等はアジア西方へと追い出された際に、ジェリコとその城壁は破壊されました。この破壊の後の数世紀の間に、その街とその城壁が再構築されたと言う証拠は一切ありません:「故に約紀元前1400年から1325年まで、または一世代、もしくはそれより長く、居住区が存在しました。それ以後の居住の再開のための、最も早期の証拠は紀元前11世紀から10世紀にかけての、孤立化した土器の壺です。」* ですから、紀元前13世紀の後半におけるジョシュアの侵略とされる当時に、ジェリコの街も、その城壁も、どちらも存在していませんでした。

* 聖書と最近の考古学、キャサリーン M. ケニオン。

ジェリコの西で、エルサレムの北の、もう一つの太古のケイナナイト(カナーン族/パレスチナ)のアイの街は、イスラエライト族の侵略者達の次の標的に成りました。その最初の試みにおいて、約3,000人の男達が、その街を乗っ取ろうとした時、彼等は打倒され、逃げ出す事を余儀無くされました。ジョシュアはその後、もう一つの戦法へと、計画を変えました。彼は、彼の軍隊を2分しました。その一部は、アイ自体の北西数マイルに位置するもう一つの要塞化された街、ベテルの間で、待ち伏せして隠れました。ひき続いた戦いにおいて、ジョシュアは彼の勢力が打ち負かされたふりをして退却し、アイの男達によって追いかけられました。号令と共に、待ち伏せしていた軍がその街へと襲い掛かり、西から、その時はもう防御されていなかった門から突入し、それ(街)に火を放ち、征服しました。その間ジョシュアは、アイの王の軍隊と、新たに戦うために進軍し、そして彼等を打倒しました(ジョシュア8:21)。

(考古学的な)発掘は、(現代のエル・テルにおいて)大規模な街が、早期のカナーン族時代、約紀元前2350年頃の、青銅器時代の初期において破壊され、(紀元前12世紀頃の)鉄器時代の早期に、その地域において村が確立されるまで、再居住され無かった事を証明しました。その新たな定住者達は主に農業者達で、カナーン中部の荒れ果てた丘において生計を立てようと試みた人達で:「この発見は、ジョシュアの時代において、その場所は廃墟だった事を示唆します(また、文字通りに「廃墟」を意味するアイの名前によって示唆されます)。学者達は、その食い違いを様々な方法で説明します。幾らかの人達は、ジョシュアの書の中に含まれたアイの征服の記述を、その街とその城壁の太古の廃墟を説明するために発達させられた病原学的(aetiological/原因的)な話であると考えます。」*

ジョシュアの戦争の時代のカナーン(パレスチナ
1 joshua conquest

この軍事活動の後、ジョシュアは、アイの南西とエルサレムの北西の4つの街々に住んでいた、ヒヴィ族(Hivites)との和平の契約のために接近したと言われます。この契約が交わされると直ぐに、しかしながら、ジョシュアは、彼自身がジュデア(パレスチナ)の丘と低地 - イスラエライト族の統一された支族と戦う為に、エルサレム、ヘブロン、ジャームス、ラキッシュ、そしてエグロンの5人の王達の連合を組織した、エルサレムの王、アドナイ(アドニス/アポロ)-ゼデックからの、新たな敵対に面しているのを見つけます。ジョシュアは、その連合に対して更なる成功的な軍事活動を行進し、それにはラキッシュの街の破壊が含まれました。彼はその街を、「二日目には占領し、剣をもって町の住民をすべて撃ち・・・」ました(ジョシュア10:32)。

* ユダヤ大辞典。

1932年と1938年の間の、カナーン(パレスチナ)南部の(現代のテル・エル- Duweir)のラキシュ地域における早期の発掘に続いて、発掘された証拠は、(紀元前)13世紀の後半の間に、第19王朝の4番目の統治者、メレンプター(紀元前1237-1227年)の統治の間に、その街の破壊が起こったのは可能であると考えられ、それによってジョシュアの説明は正確であると主張する事を可能にしました。しかしながら、キャサリーン・ケニオンが彼女の著書、聖書と最近の考古学の中で指摘する様に:

「ウシシュキン教授が、1973年にラキシュにおける発掘を再開した時、この破壊の正確な日時を確立する事が、彼の主要な目的でした。これに関して彼は、普通以上に幸運でした。1978年、その街の門におけるカナーン族最後の街の破壊の地層への深いプローブ(細いカメラ)による探索は、生産のゴミによって封印された青銅の物体の集まりの中で、ラムセス3世の名前を記述する、青銅製の欠片を明かしました。故にその破壊はエジプトの王座へのラムセス3世の即位(紀元前1182年)よりも以前に起こる事は出来ませんでした・・・その様な大量の青銅製の金具は、恐らく建築的な使用の物で、もし最小限の使用期間を与えたとしても、ラキシュは紀元前12世紀の第二四半期頃に完全破壊された可能性が高いです。」

ジョシュアの戦いは、まだ終わりではありませんでした。彼は次に、もう一つの連合、今度はハゾル、マドン、シムロン、そしてアキシャフの北方の王達に対抗されている、彼自身を見つけました:「王たちは皆連合し、イスラエルと戦おうと軍を進め、メロムの水場に共に陣を敷いた」(ジョシュア11:5)。ひき続いた戦いにおいて、ジョシュアは更なる著名な勝利を記録しその間、「ヨシュアは引き返して、ハツォルを占領し、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは昔、これらの王国の盟主であったからである。彼らは、剣をもってハツォルの全住民を撃ち、滅ぼし尽くして息ある者を一人も残さず、ハツォルを火で焼いた」(ジョシュア11:10-11)。これらの戦いの描写は征服されたカナーン族の街々と、それらの王達のリストでくくられ、合計すると31人で、それらの領土はイスラエルの部族の間で分配されました。

ハゾルの王でイスラエライツ族に対する連合の代表であったジャビンを打倒した後、ジョシュアは、彼の街 - そして彼の街だけを焼き払ったと言われます(ジョシュア11:10-13)。ハゾル(現代のテル・エル- Qidah)はガリリーの海の北方、約9マイルの、大規模なカナーン族の街で、エジプトからシリアに続き、メソポタミアからアナトリア(小アジア/トルコ付近)に続く道、海への街道の主要な道を圧倒(管理)するために、戦略的な位置にありました。カルナックのアムンの彼の寺院において、ハゾルの街がラムセス3世(紀元前1182-1151年)によって述べられた事実は、彼の統治の間に、その街が未だに彼の操作の下で存在していた事を示唆し、同時にハゾルは、シリア/パレスチナのその他の多くの街と同様に、その同じ地域においてラムセス3世が戦争を戦った、海の人々、ピリシテ(フェニキア)人達によって、もっと後に、実際に破壊された事を示唆します。故に、ジョシュアの征服とされる軍事活動において記述される2つの主要な街(ジェリコとアイ)は、紀元前13世紀以前に破壊され、もう2つの街(ラキシュとハゾル)は、もっと後まで破壊されませんでした。現代の聖書的な学者達は、ジョシュアの書の最初の12章の中で描写されている軍事活動は、一つの統一された軍事活動を表すのでは無く、幾つもの太古の戦争の編集で、元々(お互いと)関係無く、そしてそれらの幾つかはイスラエライト族の時代よりも、以前のものであると認識しています。

ドイツの聖書的な学者、マーティン・ノースは、神官階級(官僚)的な隠蔽があった事実を暴露した最初の人でした。1966年に彼は、ペンタテューク(i.e. トーラ)の5冊目、申命記と、以前の預言者達の書、またはジョシュアから王達までの書は、学者達に申命記的な省略者として知られる単一の神官的な編集者* の産物で、紀元前6世紀のバビロニアにおける追放(奴隷化)の時代に起因し、その同時代にイサイア(イザヤII)は、イスラエライト族の敗北、屈辱、そして追放(奴隷化)は、彼等の救世主である、主の従者(ジョシュア/イエス)に対する彼らの殺害のための処罰だったと主張しているのを証明しました。モーゼスの死後に未だ健在なその従者を産出し、そして約束の地の勝者的な征服者としてイエスを登場させるよりも、この非難に反論する良い方法はあったでしょうか?

* または記述者。

真実に対するこの改竄は、学術的で重大な混乱の原因に成りました。これについて、英国の学者、ジョン・ローマーは、彼の著書、聖書の中で、1988年にこう述べました:

「これらの全ては、カナーン(パレスチナ)の街々の全ての、計画的な侵略と破壊の、考古学的な証拠を長い間慎重に収集し彼等の証拠をイスラエライト族の侵略の聖書的な説明に結び付けた歴史家達に多大な打撃を与えました。此処で、これ等の街々の破壊は、以前に考えられていたよりも、更に早期で、そしてより乱雑であった様に現れます。(サッカーの)ゴールの柱を動かす(言い訳をする)としか表現のしようの無い、彼等の論説を救おうとする幾つかの試みが成され:ジョシュアとイスラエライト族が、彼等の到着と共に戦える誰かを見つけるために、考古学が再-時代設定されました。ですが、殆どの学者達は、知られている考古学的な事実が、これ等の聖書的な逸話の、私達の理解の、新たな見解を必要とすると呼びかけました。」

ジョシュアの軍事活動についての疑いは、彼が本当に実在したのかと、幾人かの学者達に問わせました。しかしながら、疑われなければ成らなかったのは、申命記の説明でした。申命記的な歴史の目的は、ペンタテューク(i.e. トーラ)の中に既に見つけられる、約束の地(パレスチナ)のイスラエライト族の所有の神の約束が達成されたと表す試みとして説明されます。その(聖書の)編集者は、歴史自体を現すのでは無く、歴史を通した神の働きを描写するために、太古の伝統を呼び起こしました。それは大規模な難しさ/困難の時代において、信仰を再新する様にデザインされた神学的な解釈でした。

クムランのエッセネ派が、エルサレムの神官達(官僚)が、聖書を改竄していると見解したのは、驚きではありませんでした。

約束の地におけるイスラエライト族の定住は、徐々に起こった行程で、混乱した戦いと早急な軍事的侵略の結果ではありませんでした。士師記の書の説明や、考古学的な発見と言った - 全ての証拠は、出エジプトの後、ジョシュア(イエス)の死後、約20年頃に成るまで、イスラエライト族は - 死海の南と南西の - エドム(族の地)のセイル山の地域に、長い間住んでいたようです。その当時の記憶は、デボラの歌の中に見つけられる事が出来ます:「主よ、あなたがセイルを出で立ち/エドムの野から進み行かれるとき/地は震え/天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた」(士師記5:4)。上ガリリーにおけるヨルダン河の源泉の近くの、北方のダン(族の地)から、南方のネゲブの砂漠まで、イスラエライト族が、その約束の地への、彼等の侵入を完結させたのは、紀元前12世紀の後半に、エジプトがパレスチナの支配を失った時で、考古学的な発掘は、この時代における新たな定住の証拠を発見しました。彼等は未だに半遊牧民的で、太古の街々の廃墟の中に住んでいた、またはカナーン族の先住民達の中に住んでいました。イスラエライト族がまた、その地域において彼等自身を確立しようと試みていた時 - 海の人々である - ピリシテ(フェニキア)人達は、大規模な侵略の後、カナーンの南西の彼等の都市国家を既に確立しており、死海とヨルダン川に向かって拡張しようとしている際でした。故にその2つの新たな到着の間の争いは、聖書的なサウルと部族的なデーヴィッドの両方の主要な題材に成りました。

イスラエライト族が、その約束の地に入った後、彼等は3世紀の大部分を、中央集権的な権威、または信仰の中心地も持たずに、カナーン(パレスチナ)の周りに点在して過ごしました。これらの年代の間、イスラエライト族の大部分は、モーゼスの神を見捨て、カナーン族とフェニキア人達の神々に入れ替え、そしてパス・オーヴァーの祭事は神官達と預言者達によって知られていたはずなのに、記述が聖書の中に全く無いので、儀式は行われなかったと、聖書的な学者達によって考えられました。

紀元前11世紀の終わりに向かい、統一された中央政府を持つ、ジュダの国家を、サウルが確立した事によって、特にピリシテ(フェニキア)人達に対して、防衛する必要性が結果しました。その国家は、デーヴィッドの部族によって、更に強化されました。通説的な説明は - 私達が見てきた様に - 実際には、その5世紀以前に生きたアメンホテップ3世であるソロモンが、どの様にしてエルサレムを国家の首都として発展させ、そして大規模な寺院を建て、国家の安定性をはかり、スピリット的な権威を与えたのかを描写します。しかしながら、寺院建設とその他の大規模な公共事業のための、高い税金の支払いは、北方の10支族がジュダから脱退し、彼等自身の国家、イスラエルを設立する事に結果したと言われます。イスラエルは、王族的な内輪もめによって分裂させられ、紀元前8世紀において、最終的にアッシリア人達によって征服され、そしてその後、完全に消滅してしまいました。

ジュダは、その1世紀後、バビロニア人達の手によって同様の運命を辿りました。エルサレムとその寺院は破壊され、その王、ジェホイアキム、インテリ階級、そして神官階級を含むイスラエライト族の指導者達の多くは、追放(i.e. 奴隷化)へと囚われました。バビロニアにおける奴隷化は、紀元前586年に始まり、バビロニアが順を追ってペルシャの王、サイラスによって征服され - その後、ユダヤ人達として知られるように成った彼等を、彼(サイラス)が解放し - エルサレムに戻り、エルサレムの寺院を再建する事を許すまで、70年間続きました。この奴隷化の期間の間、彼等の神聖な書物の収集を、彼等と共に持って行ったイスラエライト族の神官達と書生達は、彼等の過去の歴史について考え直す事を決定しました。彼等は、元々アケナーテン(モーゼス)の時代 - 紀元前14世紀の後半に起因した、旧約聖書の最初の5冊、ペンタテューク(i.e. トーラ)を現在の形に記述しましたが、その編集の行程の際に特定の事実を改竄しました。

例えば、私達が旧約聖書の中で、イスラエライト族が彼等の「アノイント(オイルを塗る儀式)をされたメシア(救世主)」のために待っている事について読む時、これが意味したのは彼等が、彼等を統治し、彼等を統一し、そして彼等の敵達を敗北させる王を待っていたと言う事です。それは、その死を表面的に装飾する事をユダヤの書生達が望んだ、この当時(紀元前6世紀)に記述していた預言者イサイア(イザヤ)によって紹介された概念である、メシア的な救世主では無く、アノイントされた王、ツタンカーメン、「彼の王座に座ったファラオの長男」の死でした。彼等(書生達/官僚達)の努力は、イエスの「復活」さえも遥かに超えて行きました。彼等は、彼(ツタンカーメン/ジョシュア)が殺害されたと言う事実さえも隠蔽しようと試みたのです。

この意図的な改竄の行程には、年代表の改竄とイスラエライト族の宗教的な暦における、2つの主要で重要な出来事 - パスオーバーとアトーンメント(atonement/アトンメント/償い)の日の改竄を含みました。元々、アケナーテン(モーゼス)が、彼の神官的な支持者達の幾らかと共に、シナイ(半島)において追放されていた時代から、(イスラエライト族の出エジプトの祝いの祭事である)パスオーバーと、(彼等のメシア[王]の死のための償い/懺悔である)アトーンメントの祭事は、ユダヤ歴の最初の月であるアビブ(3月-4月)の15日目から21日目(i.e. 春分/牡羊座)の同じ時期に行事されました。この2重のお祭りが、何世紀にも渡り行われていなかったので、その祭事が再開された時、バビロニアにおける神官的な書生達は、それらがどの様にして、そして何故、再開されたのかについて2つの対照的な説明を与えました。その一つは、出エジプト記の書の中で起こります:「あなたは除酵(醗酵していないパンの)祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである・・・」(23:15)。多少、言葉遣いは異なりますがその熱心な奨励は、申命記の書の中にも起こりますが、私達は新たな要素が加えられているのを見つけます:「あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、あるいはを過越(パスオーバー)のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい・・・」(2:6では無く、16:2)。聖書は、何故、その様な生贄が必要なのか明らかにしませんが、罪に対する償いの一種であろうと人は推測します。

追放/奴隷化において、神官達は以前に使用されていた太陽暦の代わりに月歴を採用しました。結果的に、元々イスラエライト族の暦において7番目の月であったティシュリ(9月-10月/i.e. 秋分)が最初の月に成り、(バビロニアのニッサン/春分である)アビブが7番目の月に成りました。その約1世紀半後のエルサレムへの帰郷の際に、神官(官僚)達は結果した混乱を利用し、パスオーバーとアトーンメントの日を分離しました。パスオーバーは、旧暦の1月であるアビブ(ニッサン/春分)に行事し続けられ、その間、アトーンメントの日 - ユダヤ歴における最も厳粛な日、ヨム・キプァーは - 新暦のティシュリ(9月-10月/秋分)の10日目に移動させられ、そしてその重要性は、邪悪な神官による彼等のメシア(救世主)の殺害のためのアトーンメント(償い)から、一般的な罪の償い(懺悔)へと変化させられました。この変更をサポートするために、聖書的な編集者達は、ティシュリが7月だった旧暦に逆戻りし、そしてペンタテューク(i.e. トーラ)の中に2節、付け加えました:「第七の月の十日は贖罪日(アトーンメント)である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし・・・」(レヴィ記23:27)、そして:「第七の月の十日には聖なる集会を開く。あなたたちは苦行をし・・・」(民数記29:7)です。

その全ての示唆は、シナイにおける暗殺と、その後の大殺戮の英雄として表されるピネハス(ピンハス/パネシー)が実際に、これ等の出来事の責任者で - 彼がクムランのエッセネ派によって、邪悪な神官として名指しされた人で - そして彼の命と共に償ったと言う事です。ですが申命記の改竄者は、彼をジョシュアとして「復活」させる事を選びました。彼は、その1世紀後のジョシュアの約束の地の征服において、ジョシュアの支持者達の一人として名前が挙げられます。彼(パネシー)の死は全く報告されず、そして彼はほぼ、その3世紀半後に起こった出来事を扱う士師記において、再登場さえします:「また当時、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが[神の契約のアーク(箱)の]御前に仕えていた――イスラエルの人々は言った。「兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す」(20:28)。

ジョシュア(イエス)の死から、7世紀以上経っていましたが、これ等の言葉の著者は、苦悩している従者の死の、イサイアの説明の背後にある伝統と、「ピネハスがイエスを殺害した」という、タルムード的なラビ達の後の主張を知っていたはずです。歴史的な感覚において、この明言が何を意味するのかさえ理解出来無かったタルムードのラビ達は、彼等の先人達から、彼等が受け継いだのと同じ方法で、この伝統を保存しました。彼等はまた、イエスの父の名前として「パンデラ」という言葉を保存し、それはツタンカーメンのエジプト語の称号、「ラーの息子」でした。

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