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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第16章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

第16章: 出エジプト


ツタンカーメンは、紀元前1352年に、彼の大叔父で、保護者であり、そして究極的に彼の死の復讐者であった、アイ(エフライム)によって後継されました。たった4年後に、アイもまた謎に包まれたまま、表舞台から失踪しますが、それに入れ替わったのは、ネフェティティの姉妹と婚姻する事によってその王座への彼の権利を手中に収めた将軍、ホレンヘブ(紀元前1348-1335年)でした。

私達は旧約聖書の中でホレンヘブが、「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」と記述されているのを見つけますが、その描写は、その全員が、エジプトに住むためにイスラエル族をカナーンからもたらした、家長ジョセフ(ユヤ)の子孫だった、4人のアマルナの統治者達、アケナーテン、セメンクカレ、ツタンカーメン、そしてアイのいずれにも当てはまりません。

ホレンヘブは、アケナーテンによって始められた宗教改革を引き継ぎましたが、それに対して彼は、真っ向から対峙していました。アテン神の信仰は廃止され、そしてアマルナの王達の名前は、エジプトの記憶から彼等の統治の全ての足跡を消そうとする意図的なキャンペーンにおいて、王のリストとモニュメント(構造物)から排除されました。ヒエログリフ(象形文字)が比較的に近代に成って最終的に解読されると直ぐに鮮明に成った様に、そのキャンペーンは一貫的に行われました。フランスの素晴らしい、若き言語学者、フランシス・シャンポリオン(1790-1832年)は、それまで歴史家達にとって全く謎だった、様々なエジプトの文献を翻訳しました。その中にあったのは、高エジプトのアビドスのオシリスの寺院の壁の上の、王達のリストのカートゥーシュ(印)でした。第18王朝の王達の名前を含んだそのリストは、4人のアマルナの統治者達を一切記述しませんでした。その状況下において、20世紀中場に考古学者達がアマルナにおいて、奇妙に描かれたアケナーテンの姿を発見した時、当初彼等は、彼をどうとらえれば良いか不確かだったのは驚きではありません。幾らかの学者達は、この新たに発見されたファラオが、女王ハツシェプットの様に、彼女自身を王として男装した女性だと考えました。推測のための更なる原因は、アケナーテンがアメンホテップ4世として即位し、その後、彼の名前を変えた事からも派生しました。彼等は1人のファラオ、または2人を扱っていたのでしょうか?

ホレンヘブはまた、アケナーテン(モーゼス)の名前を口にする事さえ、死刑によって罰せられる罪としました。私が信じるに、モーゼスの名前の起源は、この禁止にあります。私達が以前に見た様に、フロイドは mos がエジプト語において「子供」を意味すると指摘しましたが、それにはまた、より広い法的な意味があり、「正当な息子で後継者」です。これは、第18王朝と第19王朝の異なった王達の統治の期間の長い間続いた、土地の所有権についての争いについて、サッカラのお墓の中に記述された碑文からも鮮明です。その場合における訴え人は Khayri と言う名前で記述され、彼は一度その名前で記述された後、正当な後継者であると言う彼の主張を示唆するために、Mos と言及されています。成り行き的に、アケナーテン(モーゼス)の支持者達が彼に言及するための代わりの名前、一種のコードネームが見つけられなければならなかった様に、私には伺えます。故に彼等は、彼がアメンホテップ3世の正式な息子で、彼の父の王座への、正当な後継者である事を示唆するために、彼を Mos と呼びました。後に、イスラエライト族の最も偉大な指導者の、元々の名前の知識を全く持っていなかったかも知れない聖書的な編集者は、モーゼスとエジプトの間のあらゆる可能なリンクを断ち切るために、エジプト語の言葉モーゼスの、ヘブライ語の説明を提示する事を試みました。

私達が以前に見た様に、言語学的な観点から、母音は発音されましたが、記述され無かった太古のエジプト語において、子供、または息子を意味した筆記体は、2つの子音、m と s で構成されました。そのヘブライ語の言葉がエジプト語の言葉に由来したと理解するのは、結果的に簡単です。モーゼスの最後の s については、これは聖書的な名前のギリシャ語の翻訳から派生しました。

ホレンヘブが王座に就いた当時に成ると、多くのエジプト人達はアテン信仰を受け入れていて、その結果として紀元前3世紀の地元のエジプト人の歴史家、マネソの言葉によると、「汚染された人々」としてさげすまされていました。ホレンヘブは、彼等を迫害しました。彼は、アケナーテン(モーゼス)が生れたザルウの要塞化された街の周りの地区を、刑務所にしました。其処において彼は、その街の城壁の外の村に住んでいた、イスラエライト族とエジプト人達の両方の、アケナーテンの支持者達に加えて、多種の犯罪者達の集団を集めました。ホレンヘブは、(後の第19王朝の最初の統治者、ラムセス1世である)パ・ラムセスを、軍隊の司令官、外国の国々の監督官、ザルウの要塞の監督、そして馬の主人として任命しました。パ・ラムセスは故に、ホレンヘブに続いてエジプトにおいて、最も強力な人で、ホレンヘブの命に従い、イスラエライト族とその他の囚人達に、ザルウの再建と同時に、旧約聖書によると出エジプトの始まりの地点であった、後にピ・ラムセスとして知られた、彼自身のための、新たな住居を建設する事を強要しました。

ホレンヘブの統治の長さは、重大な異論の題材で、最低8年から最大59年まで、推測が幅します。マネソはホレンヘブの統治に12年と3か月を与えます。マネソの見解への補佐は、比較的に最近に成ってホレンヘブのお墓の中から見つけられた、ヒエログリフ(象形文字)の明細書を印した、2つの大きな壺によって供給されました。それらの内の一つは、「統治13年目の、(ナイル川)の氾濫の3か月目」と記述され、「アムン神に愛されし、ホレンヘブの土地のブドウ園からの、とても良質なワイン・・・」を含んだと言われました。これが、私達が彼を知るための最後の日付けで、そしてそれがマネソ的な伝統と同意するので、それは彼が死んだ時期を示唆すると受け入れられるべきでしょう。

紀元前1335年、約70歳位においての、ホレンヘブの死は、第18王朝において、正式な後継者がいない状況にエジプトを残しました。彼(ホレンヘブ)の総理大臣、パ・ラムセスは、当時すでに老人でしたが、第19王朝の新たな統治者として、彼自身を王座に就けるために準備をしました。25年近く、荒野(シナイ)において追放されていたアケナーテン(モーゼス)が、彼の王座を取り戻そうと決断したのはこの時点で - 当時、旧約聖書によると、「あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった・・・」(出エジプト記4:19)と言う状況でした。

これ等の出来事の、聖書的な説明は、シナイ山の神の山の燃え盛る藪における、モーゼスへの主の現れと共に始まります。その主は、モーゼスにこう言います:「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った・・・それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ・・・」(出エジプト記3:7-8,10)。

モーゼスはイスラエライト族達が、彼の言う事を聞かない、と抗議しました。その主は彼に、こう言いました:「主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた・・・主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った・・・主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」(4:2-4,6-9)。

モーゼスはそれでも、その使命を果たす事に消極的でした。彼は、「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(4:10)と主張しました。しかしながらその主は、「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている・・・あなたに会ったら、心から喜ぶであろう彼はあなたに代わって民に語る・・・彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる・・・あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」(4:14.16-17)と返答しました。

モーゼスとアーロンはエジプトへと向かい、其処で「 アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた・・・また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した(4:30-31)。しかしながら、ホレンヘブによって始められた迫害は、彼の後継者、ラムセス1世の下でも続けられました。彼等の神への祝辞を、荒野において3日間行うために、イスラエライト族のための許可をモーゼスとアーロンが求めた時に、そのファラオは拒否しただけで無く、イスラエライト族に対する厳しい扱いを増大させました:「『この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか。』ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ』」(5:5-8)。

この敵対心に面して、モーゼスとアーロンはイスラエライト族が一緒にエジプトを離れる(出国する)許可を求めました。それは拒否され、其処で主は、ファラオがモーゼスに奇跡を行う様に命じた時に、「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる・・・」モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった・・・そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ・・・」(7:9-12)。

エジプトを出国する許可がそれでも下りないとアーロンは「杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った」(7:20-21)。白い手の儀式は、コラーンの中に現れますが、エジプトへのモーゼスの帰郷の後の出来事の、この聖書的な説明には記述されていません。しかしながら私達は、最終的に出エジプトのための許可の会得に結果した、その国への大災害の連続 - カエル、ウジ、ハエ、牛の死、腫れもの、洪水、イナゴの大群、そして暗闇 - を原因するために、彼がその「魔法の杖」をどの様に使ったのかを伝えられます。

この大がかりで聖書的な説明を鼓舞した出来事は、更にもっと平凡でした。アマルナの王達と一神教的なアテン神の容赦ない敵、ホレンヘブの死を知ると、アケナーテン(モーゼス)は、彼の王座を取り戻すために、エジプトへと戻る事を決心しました。もし彼が紀元前1394年の生まれなら、彼は当時、60歳近くに成っていたはずです。彼は「舌の重い者」で - イスラエライト族のヘブライ語で、彼等に語る事が出来なかったので - 彼は、その両親がイスラエライト族であった「乳飲みの兄弟」、アーロンの手助けを要請しました。彼は、正当な統治者である Mos としての彼の挑戦において、エジプトの神官達と長老達に判断されるために、彼の生まれ故郷であるザルウに向かいました。彼の主張を補佐するために、彼はファラオ的な権力の彼の象徴である - 黄銅の蛇によって、その上部が飾られたセプター(王杖/ヘルメスの杖)を彼と共に持って行きました。聖書の中で使用されたヘブライ語の単語は、モーゼスの杖が nahash である事を示唆し、それは「蛇」と「黄銅」の両方の意味を有します。加えて、タルムードの伝説的な部分、Haggadah は、モーゼスの杖の王族的な特徴を確認します:「モーゼスが使った杖は・・・セプターのイメージにおいて形作られ、彫刻されていた[個人的な主権(王権)の象徴を表す杖でした]。」

アケナーテン(モーゼス)は、彼の主張における補佐として、唯単純に、彼の杖を産出しただけでは無く、神官達と長老達の前で、何らかの秘密の儀式 - つまり、普通の人達からは秘密にされていた儀式を行う為で - 通常、ファラオ達の統治の30年目に、彼等の力を再活性化させる目的のための、セッドの祭儀でした。それらの中にあったのは、これ等の出来事の出エジプト記の説明の中に - 幾分の装飾と共に描かれた - 蛇の杖の使用と手の儀式でした。例えば、女王ティエの従者(執事)の一人、Kheruef のお墓の中で、王座の場面は、その女王と彼女の夫、アメンホテップ3世を表します。その王座の高座の下に、王の統治30年目のお祝いの、セッドの祭事の間に、王が使用出来る様に、Kheruef とその他の執事達が、王に手渡すために、それぞれが何かを手に持っているのを見つけます。ある場面の中では、Kheruef は8人の従者(役人)達に続かれ、それらの内の先頭はエプロン(メイソンの象徴)をつけています。彼は、彼の右腕を、彼の胸の前で交差させ、彼の手を、彼の左肩の上に置き、その間、彼は、彼自身の上腕を、左手で掴んでいます。それらの役人達の4人目は、彼の右手に服の束を持ち、彼の左手の中には蛇の頭のついた彫刻された杖があります。

モーゼス(アケナーテン)がエジプトへと帰郷した後の出来事の、コラーン的な説明が、出エジプト記の中に見つけられるよりも、より詳細な説明を与えるのは、聖書的な記述者が、それらの出来事の異なった解釈を有していたためです。それはまた、そのやり取りをとても正確な方法で表し、それらの詳細の幾つかは、聖書的な説明から意図的に排除されたのではないかと人が疑いたくなるほどです。此処においてモーゼスは、魔術師と言うより、エジプトの賢者達を納得させるために、彼の権威の証拠を提示している人の様に聞こえ、彼等(賢者/長老達)は、彼の足もとに彼等自身を投げ出し、故にファラオの刑罰を与えられます。聖書的な編集者は、イスラエライト族の出エジプトに対するあらゆるエジプトとの関係性を排除するために慎重に編集し、その儀式を行うためにモーゼスをアーロンによって入れ替えさえしたと、人は唯疑うだけです:

モーゼスは言いました:「おお、ファラオよ!私は
世界の主からの使徒であり - アラーについての真実
以外は何も言わない権利の者である。今、私は、
明らかな(サイン)と共に、貴方の主から
貴方(人々)のもとに来たので、
イスラエル(ヤコブ)の子供達を私と共に出発させなさい。」

(ファラオは)言いました:「もし実際に、貴方がサインと共に来たなら、
もし貴方が真実を伝えているなら、それを見せなさい。」

すると(モーゼスは)彼の杖を投げ、そして見よ!それは蛇で、
明らかに(全員にも見えた)!そして彼は彼の手を(ふところから)出し、
そして見よ!それは全員にも白く見えた!

ファラオの人々の主任(大臣)は言いました:「これは正に熟達した魔術師です。」

「彼の計画は、貴方を
貴方の土地(国)から連れ出す事です:では
貴方の助言は何ですか?」
彼等は言いました「彼と彼の兄弟を(一定の期間)
宙ぶらりんの状態に保ちましょう;そして
「貴方へと(私達の)全ての熟練した魔術師達を
もたらすために、街々に使者を送りましょう。」
故にファラオのための魔術師達が集まり:
彼等は言いました、「勿論、
私達が勝利すれば、
(相応しい)見返りをいただきましょう!」

彼は言いました:「良いであろう(そして更に)、 - その場合、
貴方は(私の地位に)最も近い
地位(役職)に出世させられるであろう。」

彼等は言いました:「おお、貴方はモーゼスに(最初の)投げ(一手)を行わせますか、
それとも、私達が(最初の)一手を打ちましょうか?」

モーゼスは言いました:「貴方が(最初に)行いなさい。」ですから彼等が行った時、
彼等は人々の眼をまやかし、そして彼等の中に恐怖を打ち込んだのは:
彼等が大いなる魔術(の技)を見せたためです。

私達は鼓舞によって、モーゼスのマインドの中へとそれを入れた:「(今)
貴方の杖を投げなさい」:そして見よ!それは直ぐに
それらが誤魔化す偽りの全てを飲み込む。

故に真実は確認され、そして彼等の行った全ては
全く効果がありませんでした。

ですから(偉大な者達は)其処で直ぐに負かされ、
小者に見える様にされました。

ですがその魔術師達は尊敬の中で地べたに平伏し、
こう言いました:「私達は世界の主を信じます、 - 

「モーゼスとアーロンの主を。」
ファラオは言いました:「私が許可を与える前に
貴方は信じるのですか?正しくこれは
その人々を街から追い出すために
貴方が計画したトリックであろう:
ですが貴方は直ぐに(その成り行きを)知るであろう。

「間違いなく私は、貴方の腕と脚を反対の側から
切り取り、そして私は貴方達全員が十字架の上で死ぬ元凶と成るであろう。」
スラ7:104-124

ですからアケナーテン(モーゼス)は、魔術を使っていたのでは無く、彼の王族としての権威を確立する事を求めていたのであって、そして聖書的な逸話は、神話的な方法において、権力への政治的な挑戦を関連させます。ナイル川を真っ赤に染めると言う約束に関しては、1年における(氾濫の)時期を示唆していると見るべきでしょう。氾濫の季節の間、ナイル川の水は赤く成り、そしてもしこれらの出来事が、東部の三角州で起こったなら、これが示唆するのは夏の後期で、その時期に成るとこの色の変化は、その川の下流まで影響を及ぼし始めます。同様に、ファラオと彼の国に影響されたと言われる様々な災害(流行病)は、エジプトの1年の間にそれら自体を現せさせる自然的な出来事と見られるべきです。

賢者達が、王族と権威のセプター(王杖)を見て、アケナーテンがセッドの祭事の儀式を行うと、彼等は、コラーンが記述する様に、尊敬において地べたに平伏し、彼がその王座への、より正当な権威であると確認しました。しかしながら、軍を指揮していたパ・ラムセスは、神官達と賢者(長老)達の判断を妨害するために彼の権力を使い、一種のクーデターによって、統治する権威を保ちました。アケナーテン(モーゼス)には、彼の支持者達 - イスラエル族とアテン信仰(一神教)を受け入れたエジプト人達 - を従い、エジプトから脱出するしか選択肢はありませんでした。ですから、カナーンの約束の地への長旅と成った第1段階、出エジプトが始まりました。

アケナーテン(モーゼス)と彼の支持者達は、ザルウの南の湿地帯のエリアとテムシャ湖の北と、現在のイスマエリアを通ってシナイ(半島)へと行きました。この水に満ちた道は追っ手を妨害するために取られました:エジプトの二輪馬車が、泥に囚われる間、歩いて旅していたイスラエライト族は、安全に渡ることが出来ました。これは、溺れた、追いかけていたファラオの聖書的な説明の時と位置の可能性が高いでしょう。エジプトの源泉(文献)はこの出来事の証拠を供給しませんが、ラムセス1世(紀元前1335-1333年)の短い統治は、正にこの時における彼の死と共に終わりに成ったのでしょう。此処で、食料と水を必要とした大勢の支持者達の問題に面したアケナーテンは、シナイ山に向かう彼の計画を変更し、代わりにエジプトの国境線を、ガザのカナーン族の街とザルウを繋げた太古のホルスの道の北へと行きました。その道沿いにあったのは、軍事的な駐屯地に守られた、井戸のある居住区でした。申命記の書によると、モーゼスは最終的に、約束の地に入る事は許されず、「ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で・・・わたしに背いた・・・」(32-51)ために、主によって殺されたとされます。モーゼスは、彼の支持者達のために水を得る事を禁じられてはおらず、その行為は罪深い事とは考えられません。その示唆は、アケナーテンがホルスの道に沿った井戸から、水を確保した事です。これは、武力行使は必然では無かったでしょうが、武力によって簡単に達成されたでしょう:彼は未だに権威である彼の黄銅のセプター(王杖)を有しており、駐屯地の司令官が、ラーの息子として考えた、以前の王の望みに抵抗するとは想像しがたい事です。

彼の大規模な支持者達のために肥沃な土地が必要であると気付いたアケナーテンは、次にガザに向かって北に行進し、その街を侵略しようと試みた様で、その攻撃において、彼との遊牧民のシャス族の連合(聖書のミディアン族)の幾らかによって協力された様です。これ等の出来事のニュースは、年老いたラムセス1世の息子であり、後継者で、アケナーテン、イスラエライト族、そしてシャス族に対する軍事行動の前に、彼の亡く成った父のミイラ化さえも待たなかった、セティ1世に報告されました。彼はホルスの道と同時にシナイ中央の数々の土地において、彼等に立ち向かい打倒しました。シャス族の中で大量の虐殺があり、大勢がまた囚われに成りエジプトへと連れ去らわれ、カルナックの寺院の、アムン・ラー神の足元において生贄にされました。これ等の軍事活動の最中に、モーゼスはセティ自身によって殺害されたらしく(彼の遺体は、死んだ場所の砂に埋められたか、または腐る様に、其処に残された様で)、そして更に後に、旧約聖書の最初の5冊が記述された時に、メリバ-カデシュに水の逸話を鼓舞したのは、彼の水と食料への探求でした。

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