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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第15章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

第15章: 神聖な一族


私達が以前に見た様に、ツタンカーメンは彼のお墓の中で、「天界におけるアテン(神)の長男」として描写されました。その少年王に成る人は、彼が生まれた時に、トゥット・アンク・アテンと名付けられました。彼の誕生名の3つの要素は - トゥット(イメージ)、アンク(エジプトの十字架で、生命の象徴)、そしてアテン(エジプト版のアドナイ/アドニスで、ヘブライ語の「主(太陽)」)で - 「主の生きているイメージ」と翻訳される事を意味していました。故に彼は、彼の誕生の当時から - または、子供達が生まれる前から彼等の名前を選ぶのは、エジプトの王達の風習だったので、恐らくそれ以前から、神の息子として認識されました。

寺院を開き、エジプトの太古の神々が再び信仰される事を許し、そして彼の名前と、彼の妻の名前を、国家神アムン・ラーの名誉において、ツタンカーメンとアンクセンパ・アムンに変えた後 - ツタンカーメンは、もし彼の父、アケナーテン(モーゼス)と彼の支持者達が、彼の行った宗教改革を受け入れれば、彼等が平和の中で生きる事ができ、その他の人々も彼等自身の信仰を行う事が出来る、エジプトに戻らせる試みをするために、彼の統治9年目に、シナイへの(全キリスト教的な)運動を始めました。

私達は、寛容と平和のためのこの行いのエコー(響き)を、イエスによって与えられた、(シナイ)山の上の説教の、マタイの福音書の説明(第5章)の中で見つけます:「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる(5:9)・・・わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(5:17)・・・途中で早く和解しなさい(5:25)・・・あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(5:28,29)・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(5:43,44)・・・あなたがたの天の父の子となるためである(5:45)。」以下に続く主の祈り/聖歌の言葉の中で、民族と宗教によって引き裂かれた2種の人々の上で統治しているツタンカーメンの哀願を、人はまた感じることが出来るでしょう:「私達が、私達に対する侵入者(異教徒)を、私達が許す様に、私達を許したまえ・・・」

しかしながら、彼の哀願が受け入れられる代わりに、彼は、彼の信仰を裏切ったとして非難され、殺害され - その出来事は、当時その大多数がエジプトのゴシェン(の街)にまだいて、その出来事への責任があるとは言われる事の出来ない、またはその出来事に気付いていた可能性さえ無い、ユダヤの人々を、3,000年以上に及び呪いました。


これ等の出来事を隠蔽しようとする様々な努力にも拘わらず、それらの記憶 - そして関わった多くの人物達は - 数世紀を下って生き残り、キリスト教時代の始まり、西暦の最初の世紀において、あたかもイエスの人生、苦難、そして死が起こったかの様に、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの、新約聖書の福音書の中でエコー(描写)されました。

イエスの母、マリー(マリア)、新約聖書の中で、マリー(水/海)と言う名前の2人の女性達が、イエスとの親密な関係に置かれたのは - 彼の母親と、マリー・マグダレンです。ギリシャ語版の名前はマリアで、ヘブライ語だと、ミリアムですが、その起源は太古のエジプトにあり、其処においてその言葉、マリーは「愛されし者」を意味します。

このあだ名は、ツタンカーメンの母である、ネフェティティと、彼の妻であったアンクセンパ・アテンにもまた応用されました。ネフェティティは、「現れた美しき者」を意味します。ベルリン博物館にある、彼女の有名な像から、彼女が実際に美しい女性であった事が明らかです。彼女はまた、美しい声を持っていた事が知られ:彼女はアマルナ(の街)のアテンの寺院において、夕方の祈りを歌っていました。

ツタンカーメンが生まれる前に、彼女は3人の娘達を産み、そしてその後にも3人の娘達を産みました。その他に別の息子がいた証拠は見つけられていません。アマルナのお墓の中で、ネフェティティは、太古のエジプトの母的な象徴で、隼神ホルス(朝日)の母である、アイシス(イシス)の特徴の多くを取り入れ、そしてネフェティティの姿は、アマルナの棺の上の女神に入れ替わりました。例えば、アケナーテンの棺の上で、アイシスに変わるにそれが見つけられます。更に加えて、元々、西暦1世紀に、アイシスと彼女の息子を表して造られた像がローマにあり、それらは早期の教会によって、マリーと彼女の息子を表すとされました。

イエスに感情的に結び付けられたもう一人のマリーは、もっと若い女性の様に現れる、マリー・マグダレンです。福音書における彼女の最初の登場は、無名の罪人としてです:「イエスがベタニアで重い皮膚病の人、シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(マルコ14:3)。彼の記述の中でルカは、彼女がイエスの足をアノイント(オイルを塗る事)しているのを記述します:「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:38)。その後、イエスを支持した者達の中に、マリー・マグダレンの名前が現れ、彼の死まで、彼と親密であったとされます。満足の行く説明は与えられていませんが、彼女は明らかに彼にとても魅かれていたようです。彼女は彼の死後、彼が置かれた一時的な埋葬の場所に残り、彼(太陽)が復活した後に、彼と出会ったと描写されます:「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上って(上昇/アセンド)いないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る(上昇/アセンド)』と(ヨハネ20:16-17)。

このマリーは唯一、ツタンカーメンの女王であった、アンクセンパ・アテン以外である事は出来ません。その王のお墓の中でアラバスター製のオイントメント(オイル)の壺が見つけられ、そして彼女は王族の王座の裏に、福音書の記述者達が言うのと全く同じ様に、彼をアノイントしているのが描写されています。そのお墓で発見された遺物のその他の4つの場面の中で、その夫婦は、常にリラックスした、ロマンチックな場面で描かれています。私達は、福音書の中でマリー・マグダレンが表わされた様に、彼女がどれだけ彼に親密に魅かれていたのかを見て取れます。

「マグダレン」と言うあだ名は彼女が、ガリリーの海の西方の海岸線に位置する、特定されていないマグダラの街に帰属したと言う事で説明されます。もう一方で私達は、ツタンカーメンの同時代における、その様な名前の位置の源泉を、聖書とエジプト的な文献から知っています。ヘブライ語の単語、ミドゴル(midgol)は、「見張りの塔」を意味し、要塞化された街を示唆します。その様な街は、エジプトからガザ(パレスチナ)に繋がる、ホルスの道沿いのザルウの東にあった、第2の軍の駐屯地として記録されています。この位置は、カルナックのセティ1世の多柱式のホール(広間)の中の彼の地図に印されていて、そして多くのエジプトの文献の中で記述されています。

1945年* に、上エジプトのナグ・ハマディの洞窟の中で見つけられた、グノーシス派の福音書の一つ、マリー(マリア)の福音書は、ヴィジョン(予知)と先見(透視)に恵まれた者として、マリー・マグダレンを描きます:「ピーター(ペトロ)はマリーにこう言いました、「シスターよ、私達は救世主が、どの女性よりも貴女を愛した事を知っています。貴女が覚えている救世主の言葉を私達に教えて下さい・・・」マリーは答えてこう言いました、「貴方から隠されている事を、私は宣言しましょう。」・・・「私は」彼女はこう言いました、「ヴィジョンの中で主を見て、そして私は彼にこう言いました、「主よ、私は今日、ヴィジョンの中で貴方を見ました。」彼は答えて、私にこう言いました、「貴方は私の姿にたじろがなかったので、貴方は祝福されます。マインドがある処に宝があります。」私は彼にこう言いました、「主よ、此処でヴィジョンを見る彼(者)は、魂[を通して]、またはスピリットを通して、それを見るのですか?」その救世主は答えて、こう述べました、「彼は魂でも、スピリットでも無く、その2つの間[にある]マインドを通して見ます」」(マリーの福音書10-15)。

もう一つのナグ・ハマディの文献の中の救世主の言葉は、マリー・マグダレナを、その他よりも最も優れた使徒として讃えます。3番目の文献、フィリップの福音書は、イエスとマリー・マグダレンの間の、親密な関係を記述します:「主と共に常に歩んだ者は3人います:彼の母、マリーと、彼の相棒(ompanion)と呼ばれたマグダレンです。彼の姉妹と母の両方ともマリーでした」(59:6-10)。それは続けてこう述べます、「そして[救世主]の相棒はマグダレンでした。[ですがキリストは]他の使徒達[の誰よりも]彼女を愛し、頻繁に彼女[の口]に口付けしました」(63:34-35)。此処で、私達はマリーと言う名前の3人の女性達を見つけますが - 彼の姉妹と相棒の両方が一人の人で、彼の姉妹-妻だった様です。

彼が12歳の時にエルサレムを訪れた(ルカ2:42-43)事を除いて、福音書はイエスの幼少期について全く触れません。その(福音書の著者の)内の2人は、私達が見た様に、彼の誕生さえ記述しません。しかしながら、この当時の期間に、彼が婚姻していなかったと仮定する必要は全くありません。福音書の記述者達は、イエスの個人的な生活の詳細を与えるのではなく、彼の教え(教義)を主に重要視しました。彼の母の人生の詳細さえも、新約聖書からは欠如していますが:これは彼女に報告される価値のある人生が無かったのではなく、単純にそれが福音書の主題の外側だった事を示唆します。実際に、マリー・マグダレン(乙女座)と復活(冬至)のヨハネの説明は、確認可能で歴史的な出来事を反映します。ツタンカーメンの妻であり、女王だったアンクセンパ・アテンは、彼の葬儀の儀式に出席し、神官達によるミイラ化の儀式(準備)の間に彼等によって彼が死から復活したと宣言された報告を「使徒達」に与える事の出来た唯一の人でした。

* (以前に触れられた)ナグ・ハマディ文献の重要性は、後の章で扱われます。

洗礼者ヨハネの時代におけるイエスの弟子達が、福音書の中に記述された者達であると言う事実は、歴史的なイエス(i.e.紀元前14世紀)が、彼の人生の間に弟子達を持たなかった事を意味しません。彼が生きた時代からの全ての世代において、洗礼者ヨハネの死* を通して公にもたらされるまで(西暦1年前後)、彼(イエス/ジョシュア)の記憶と教えを守った支持者と弟子達の集団がありました。その最初の12人(i.e. ゾディアック)は、彼の宣教師であったかも知れません。

兄弟については、小アジアのヒッタイト王国との外交的な手紙の証拠から、ツタンカーメンが後継者を持たずに死んだ事を私達は知っています。ハワード・カーターは、彼の著書、ツタンカーメンのお墓の中でこう指摘します:「ツタンカーメンは[男性の]後継者無しで亡く成り、それは、王座を継ぐ息子がいなかったと言う、[彼の未亡人によって成された]主張と一致します。」

2人のジョセフ達。福音書は2人のジョセフを登場させます。一人は大工で、デーヴィッド家の末裔で、そしてイエスの義理の父です。4人の福音書の著者達の中で、キリストの聖職(布教)の以前の場面からいなくなる、このジョセフを記述したのは、マタイとルカだけでした。彼の(その後の)運命については、何も記述されていません。2人目の人物は、アリマサエアのジョセフと言う名の人で、裕福で、体制側の人で、イエスの弟子で、埋葬のためにイエスの遺体を要求するために、磔の後に突然現れました。私が信じるにそれらは、(私達が第5章の中で出会った)ツタンカーメンの大叔父で、宰相であり、そしてその王座に後継したアイ(エフライム)と同じ人物として一致させられるでしょう。

全く説明されていない最初のジョセフの失踪は、2人目のジョセフの突然の現れと唯一一致します:「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った・・・」(マタイ27:57-60)。マルコは彼についての情報を、もう少しだけ私達に与えます:「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである・・・ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた・・・」(15:43,46)。これらの節から私達が知っているのは、ジョセフが、キリストの死の夕方に、その場面に現れた事;彼がイエスの支持者だった事;彼がまたイスラエライト族の指導者達の一員だった事;彼は、その遺体の引き取りを要求し、そして彼の望みが許されるのに十分な権威を持っていた事;彼が「接待された」 - つまり、その王朝の「側近だった」事です。

この謎めいた登場人物は、その王朝の権威で側近だったアイと、多くにおいて共通します。シナイの暗殺の後にピネハスと彼の支持者達を罰するための、「災害/疫病」のための責任がある、復讐者として、エフライムが、ホセアの書に確認されているのもまた重要です:「エフライムが奮えながら語った時」 - その他の翻訳において与えられた此処における感覚は、その他の者達を震いあがらせ - 「彼はイスラエルにおいて、彼自身を高揚させた/彼は重んじられていた」(13:1)。

* その洗礼者は、彼の振る舞いによると、クムランのユダヤ-キリスト教のセクト(宗派)、エッセネ派の一員で、それがまた示唆するのは、ピーターとジェームズの、早期のエルサレムのキリスト教教会です。この時代に彼が公の場に現れた理由は、エルサレムのローマ(帝国)による占領と、ユダヤ人達に強制された新たな徴税で、それは西暦6年におけるジュダの反乱のための理由と同じでした。その洗礼者は、これ等の出来事と同時代の人物で、西暦2世紀において、キリストのスピリット的な現れを、歴史の中へと入れようとした、オーソドックス(主流派)の努力としてその一部に成る以前は、彼(ヨハネ)の説明は福音書に含まれていませんでした。

これらの節は、その苦悩している従者(イエス)が、「邪悪な者と、裕福な者と一緒に彼の墓を造った(埋葬された)」というイサイアの書の中の明言と共にもし連結されると、シナイ山の麓におけるツタンカーメンの死後、アイが彼の遺体を手に入れ - アイが元々、彼自身のために用意した、後にホレンヘブによって乗っ取られたお墓では無く - 王家の谷の岩の中からくりぬかれた、第2のお墓に埋葬した事を示唆します。考古学的な証拠は、この見解を補佐します。アイが、その若き王の埋葬を監督したのには、確かに疑う余地はありません。ドナルド・レッドフォードは、彼の著書、異教の王、アケナーテンの中でこう指摘します:「私達の王(ツタンカーメン)を埋葬したのは、ツタンカーメンの後継者、アイ王だったのは、ツタンカーメンのお墓の室の内側の壁の上に、アイは、王として、彼がツタンカーメンの面前で、行事をしている宗教的な場面の中で彼自身を描かせたためで、それはこの死者の街の王族のお墓の中で、前例の無い場面です。」

私達は、キリスト教の信仰、伝統、そして儀式の中に、それらの遠い日々の多くのエコーを見つけます:

復活/転生。紀元前31世紀まで早期から、エジプト人達は人間が、肉体的な要素と同時に、スピリット的な要素で構成されていると信じました。彼等は死を、肉体からのスピリット的な要素の離脱/出発として考えましたが、もし物理的な存在(遺体)が安全に保たれ、魔法的なフォーミュラ(ミイラ化)によって保護されれば、そのスピリットは、未来のある時点においてその肉体に帰って来て、その人が第二の人生を送るともまた、信じていました。それが何故、彼等が遺体をミイラ化する事によって丁重に保存し、それを安全に保つために頑丈なお墓を建てるために献身したかの理由です。彼等が、彼等の太古の王の一人として認識したオシリスは、彼の兄弟セット(夕日)によって殺され、彼(セット)は彼(オシリス)が第2の妻を娶れない様に、オシリスの体をバラバラにしたと言われました。しかしながら、彼の妻、アイシス(イシス)は、バラバラに成った部分を集める事ができ、彼女の魔法によって3日後(i.e. 冬至→クリスマス)に - 地上では無く、彼が死者の神、そして裁定者に成った下界/黄泉の国において - 彼を生命へと甦らせました。イエスの復活の説明は、その多くにおいて、オシリスの話しと類似しています。オシリスと同様に、彼は金曜日に殺され、そして3日目に甦ったと言われます。太古のエジプトのオシリスの信仰者達は、早期のキリスト教徒達と同様に、人は遠くの全能の神に救われる事は出来ず、人間の苦悩と死を共に経験した者によって救われると信じました。オシリスは、男性達と女性達が、不死を確かにするために、すがった救世主と成りました。

アケナーテン(モーゼス)は、その他の太古の神々と同時に、オシリスの信仰を廃止(禁止)し、死後(の世界)について、一切語りませんでした。しかしながら、エッセネ派を含むキリストの支持者達は - その他のユダヤ人達とは異なり - 死後の生命を信じていました。このスピリットの永続的な存在と、死後の裁定の信仰における復活は、歴史的なイエス自身まで、遡る事が出来ます。ツタンカーメンは、死後の生命におけるオシリス信仰を受け入れ、そしてアテンを、生と死の両方の神にしました。これは、モーゼスの教えとは全く対照的に、彼が生きて復活させられ、アイと向き合っている、彼のお墓の中の描写に反映されています。

ツタンカーメンの名前の変更。この名前の変更は、旧約聖書と新約聖書の両方の中で言及されています。イサイアの書の中で私達は、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)を含む、イマニュエルへの3度の言及を見つけます。その名前についての重要性についての意見は異なります。ユダヤ的な解釈は、その言及は救世主を示唆せず、正しい名詞でさえ無いと言う事です。しかしながら、死海書の証拠は、クムランのエッセネ派が、それを名前として見ていたと言う事でした。福音書の記述者、マタイもまた、それを名前と考え、イエスと同義語としました:「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(1:22-23)。

私達が以前に見た様に、ヘブライ語には時制(過去形/未来形 etc.)が無いので、文章が翻訳される方法は、頻繁に翻訳者の信念を反映しています。西暦1世紀に、処女の懐妊が起こったと信じたマタイの様な、早期のキリスト教徒達は故に、数世紀以前に記述していたイサイアが、既に起こった事を記述しているのでは無く、預言をしていたと言う見解を取りました。マタイはまた、その単語を2つの要素 - Emma-nu (私達と共に)と El (エロヒム、神)に分裂出来る名前、エマニュエル* の解釈において誤っていました。

この読み方が可能な間、もう一つの意味が意図されていて:Imman-u (彼のアムン)と El (は神)です。その翻訳における「処女/乙女」と言う言葉の使用も、イサイアが実際に行っていた事の歪みです。

エジプト語の単語、アムンは、国家的な神の名であると同時に、「隠された」、または「眼に見えない」を意味し:ヘブライ語の同義語はアラムです。イサイアはイマニュエルの誕生についての彼の節の中でアラムの女性形、アラマを使用しました。アラマが「小さい女の子」、または「処女/乙女」と訳すことが出来る間、それはまた「隠された/隠れたもの」(神)の女性形でもあります。エッセネ派と早期のキリスト教徒達の両方が、何故その節を救世主に関連させる事を強調したのかの理由は - 神の隠された力の女性的な要素を示唆する感覚で - イサイアがその言葉を使っていた意味を、彼等が正しく解釈していたためです。神は、3人の人達、聖父である神、聖母である神、そして息子である神として表されました。これを鮮明にするために、私は以下の翻訳が、ヘブライ語の文献の文章的な感覚に、より近いと信じます;「故に、アドナイ(アテン/アドニス/アポロ、etc.)は彼自身を、サイン(星座)として貴方に与えます。見よ、アルマ(隠されたもの)が受胎され、その息子が産まれ、そして彼女(隠されたもの)は、彼の名を Amun-u-el (アムン・エル)と呼んだ。」故にアムンと言う言葉は此処において「隠された」アドナイ(主)の要素を示唆するために使用されました。

マタイと同様に、後のキリスト教徒の記述者達も、イマニュエルはイエスと同義語であると言う見解を取りましたが、今の処、はっきりとした説明は与えられておらず、そして歴史的なキリストであるツタンカーメンの人生における出来事を私達が検証した時にだけ、その意味は鮮明になります。

イサイアの言葉の上に基づけられた、処女の懐妊の宣言のための理由の一部は、ジェンタイル(非ユダヤ)の間でキリスト教を有名にするためだったと提案されました。ギリシャ人達は、例えば、彼等の主要な神、ゼウスによって妊娠させられた人間であり、ディオニッソスの母である、セメレーを信じていました。故に私達は、早期の教会の神父達の一人であるジャスティン・マ―ターが、西暦2世紀の中期に、こう説明しているのを見つけます:「私達の先生であるイエス・キリストが、性的な結合(性交)無しで、私達のために産まれたと言う事において・・・私達は、ゼウスの息子達と貴方が呼ぶ者達について[あなたが言う事]を超えて何も新しい事を紹介しません。」

(注:ゼウス/Zeus/ジェズース/ジーザス/Jesus/イエス)。

* これはセム語的な名前なので、それは時には I で書かれ、時には E で書かれました。

アメン(アーメン)。西暦2世紀のローマの歴史家、プルータークは、アイシス(イシス)とオシリスについての彼の著書の中で、「エジプト人達が、宇宙と同一であると信じる究極の神を名指しする時、彼等は彼をアムンと呼びます」と明言しています。

祈りへの対応として使われる、「アーメン」と言う言葉は、イサイア(イザヤ)によって「隠されし者」を意味して使われた言葉、「アムン」をその源泉にしているのには、殆ど間違いありません。両方の単語は、太古のエジプト語において、amn と記述されます。「アーメン」と言う言葉は、旧約聖書の中に見つけられ(「エズラが大いなる神、主を讃えると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した」(ネへミア8:6)、そして新約聖書に77回現れ、聖者ポール(パオロ)は、それを祈り(聖歌)の中で使い、こう述べます;「さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」(1コリント14:16)。英語において頻繁に、「誠に」や「正に」と翻訳されるその単語は、キリスト教とユダヤ教の両方の祈りへの返答として用いられ、そしてコーランの最初のスーラ(章)を音読した後に、ムスリム(イスラム教徒)達によって使われます。

天使達と聖者達。一般人の殆どは、イメージ(絵など)において目に見える様に、彼自身を表さず、一つの国よりその他の国をひいきする神の、抽象的なアイデアを理解出来無いと気付いたたツタンカーメンは、古き神々の回帰を許しました。彼の宗教的な改革の詳細な検証は、彼がそれらを神々とは考えず、アテンの天界的な世界の天使達として捉えた事を明らかにします。

ツタンカーメンは、イメージ(姿)の無いアテンを、一つで唯一の神と考えましたが、彼の人々(民)が会話(祈り)するための神の何らかの目に見える表し(偶像)を必要としている事に、彼は気付きました。ですから彼は、古い寺院が再び開かれ、古い神々が信仰される事を許しました。ですがアテンは彼の特別な地位に確立されたので、それらの神々は、彼(アテン)と一般人達の間の仲介(王族/神官/官僚、 etc.)でしか無く、神の天界的な世界における、天使的な存在でした。実際に、これは天使達の認識の始まりの地点で、複数形における「神々」と言う言葉は徐々に、「天使達」と言う言葉によって取って代わられました。ツタンカーメンは、彼がオシリスと彼の下界/黄泉の国を、アテン信仰の一部として受け入れた際に、アテンのカルトにおけるもう一つのとても重要な発展をさせました。モーゼスとアケナーテンのどちらも、太古のエジプトの宗教的な信仰の全ての中心であった、死後の生命と黄泉の国について語ったと、全く報告されていません。

クムランの洞窟において発見された申命記、第32章のモーゼスの歌の一部は、複数形における「神々」と言う言葉を記述する、第43節の文章を含みます:「国々よ、主の民に喜びの声をあげよ。主はその僕らの血に報復し/苦しめる者に報復して、その民の土地を贖われる/おお、天界よ、彼と共に喜び給え;そして、汝、神々よ、彼に従い給え。」アメリカの聖書学者、ウイリアム・ブラウンレスは、彼の著書、聖書にとってのクムランの巻物の意味の中で、こう指摘します:「その節が新約聖書(ヘブライ1:6)の中で引用された時、そのフレーズは相応しく「神の天使達」と訳されました。」ツタンカーメンの宗教改革への、直後の一般的な反応は素晴らしく、一般大衆的なエジプト人達はその変化を歓迎しました。ですがその真の重要性が吸収されるまで、十分な時間は与えられず、彼の死はアテンの完全な排除を意味し、それは順を追って、神々が再び神々として認識された事を意味しました。

儀式。ハワード・カーターはまた、ツタンカーメンのお墓の中で、とても多くのキリスト教へのリンクを発見したと報告しました。それらの中にあったのは、後のローマ・カトリック教会の神父達によって使用されたものと類似した、2つの模様のローブと一対のグローブ(手袋)でした:「私がローブの模様と呼ぶ事を選んだその2つの布は、キリスト教教会の助祭や司教達、または即位の際の王や皇帝達によってはおられた、ダルマティカ(袖の広い服)の様な、神父的な存在の、特徴的で公式な衣装を思い出させます・・・それらは、長く、ユルユルの布で、両方の側にフリフリのある豪勢に刺繍された服です・・・

「それらは恐らく特別な機会に着られ・・・そして・・・それらは喜びの象徴で、神聖な秩序が授与される時に、助祭の上に置かれるダルマティックと正に同じ様に、それによって以下の言葉が繰り返されました:『主が貴方に喜びのチューニック(制服)と幸いの服を着させます様に。』更に加えて、それらのローブはローマの衣装と同じ起源だったかも知れず、よって、礼拝的な衣服 - ダルマティックは - キリスト教教会の派生だったのかも知れません。

対のグローブは、カーターによると、保存の状態が更に善く、「丁寧に折りたためられ、また、刺繍の施された布でした。それらは恐らくそのローブ(ローマ・カトリックの祭司は、任務執行の際にグローブ - また、彼の上祭服の下にブシュキン、チューニック、そしてダルマティックを着ます)と一緒に着られる事を意図され、そして同様に素晴らしい鱗型のパターンが刺繍され、手首の部分には別の蓮の蕾と花が刺繍されています。」その他の遺物に含まれたのは、「1929年7月に、陛下、教皇のユーカリスト的なローマにおける行進で見られた様に、今でも使用されている聖扇を思い起こさせる、幾つものダチョウの羽根でした。それらの聖扇は、教皇の聖扇の様に、ファラオ的な行列において、執事達に運ばれ、常に王の両脇か、直ぐその後ろで運ばれました。」

変格(transfiguration)。変格の輝いている顔は、ツタンカーメンのお墓の中で見つけられた遺物の一つによって体現されています。供物に関連して使用された、王族のセプター(杖)には、以下の文章があります:「美しい神、アテン(太陽)が輝く時の眩しい顔の様に、愛されし・・・ツタンカーメン。」

イバラの冠。そのお墓は、食物、薬、そして材木として使用され、そして宗教的な重要性があったと信じられた、太古のエジプトに自生したサンザシ(西洋のイバラ)の樹の様な、トウダイグサの実と種を含んでいました。それはキリストのためのイバラの冠に使われたと言われます:「兵士たちはイバラで冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ・・・」(ヨハネ19:2)。

3人の賢者達。王家の谷におけるその他の場所で発見された証拠は、外国の国々から、新たに生まれた王に贈り物を捧げると同時に敬意を払うために訪れた3人の賢者達についての、マタイの書に見つけられる逸話に、光を照らします。これは、エジプト起源の逸話です。エジプトが西方アジアの殆どと同時に、ヌービアとスーダン北部を支配していた帝国時代の間、その様な訪問と貢物は一般的でした。

王家の谷のホレンヘブの墓の北の室の中で見つけられた箱は、ツタンカーメンとアイの名前を刻んだ幾つもの金の葉の欠片を含み、最終的にその若き王のお墓の発見に貢献し、3人の賢者達の逸話の源泉を指摘する、手掛かりを含んでいました。金の葉の欠片の一つには、その左側にアイの2つの王族のカートゥーシュ(印)があり、その右側には、その王の名前に向かって敬意の姿勢で両腕を上げた、3人の外国人達が向かい合っていました。

「その一人目は、濃い髭を蓄え、首の上まで伸びて下がる、密集した頭髪を持ち;彼の服は上下に輪と四角を形成する点々でデザインされ;そのケープとガードルもまた装飾されています」と、ガストン・マスペロとジョージ・ダーシーは、彼等の著書、ハランハビとトゥータンクアマノウのお墓の中で記述しました。「これは地中海沿岸からの、シリア人の典型的な姿です。2人目はその頭髪が段々にアレンジされ革によって上に乗せられ、その襟は首の近くにフィットし、スカーフは胸の前で交差され、そしてそのローブは真っ直ぐに垂れます。彼は間違いなくスーダンの黒人です。3人目は、先の尖った髭を蓄え;しだれる頭髪は2つの柱に固定され;大きなマントがその体を包み、腕足を裸にしています。王達のお墓の中と、その他の民族的な描写において・・・北方の白人の民族、マルムリカのリビア人達と、地中海の島々の住人達が描かれたのは、この方法においてでした。此処にあるのは、すると、3種の聖書的な民族、シェム(セム)、ハム、そしてヤペテの体現で - そして3人の賢者達の逸話の源泉は、太古の知られていた世界の、異なった人々(民族)の表しでした。

まとめ
キリストの栄光は、西暦1世紀の初期に、彼の支持者達に現れましたが、歴史的なイエスはその14世紀以前に生きて死にました。旧約聖書の本が、マソレティックのヘブライ語の文献から、西暦16世紀に、近代のヨーロッパの言語に翻訳されるまで、イエスはエジプトにおけるイスラエライト族の指導者として、モーゼスから後継した預言者の名前でした。西暦16世紀以後、私達は2つの名前、イエスとジョシュアを持ち始め、それは人々が2人の異なった登場人物だと信じる様に混乱させました。教会の早期の歴史においてイエスを語った者達の全ては、この名前が一人の人でしか無い事を知っていて、それは(ヨハネ1:45によると)「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている」でした。この歴史的なイエスが、その同じ場所に現代の聖者キャサリンの修道院がある、シナイ山の麓で殺されたので、彼の支持者達は幾世期を超えて彼の記憶を保存し、彼の復活を待っていました。そして西暦1世紀の初頭に、エジプトとパレスチナの彼の支持者達に、彼の栄光の中で彼が現れた時に、彼は復活しました。

ツタンカーメンのお墓は、キリストが現れた約2000年後に、棺桶の中の彼の遺体と共に発見されました。彼(イエス/ジョシュア)と同様に、彼(ツタンカーメン)は、偶像の無い一神教の信者達と、彼等と目に見えない神の間を仲介する偶像を必要とした人達を、和解させようと試みた時、シナイ山の麓で殺されました。彼はイスラエライト族が、他の神々を崇拝する様に試みた詐欺師として非難され、アケナーテンの高祭司、パネヘシーによって、(太古のイスラエライト族の法にのっとって)木の上から(首を)吊るされました。

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