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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第14章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

第14章:生贄の犠牲者


私達が此処まで辿った2つの道 - 一方で、キリスト教時代の始まりからの、数世紀を通した文献的な証拠と、もう一方で、その数世紀を通したエジプト的な歴史は、私達を同じ歴史的な地点、紀元前14世紀へともたらしました。これは一方で、モーゼスが神から訓令(十戒)を受取り、ジョシュアを彼の後継者に任命し、もう一方で、アケナーテンがアマルナにおける宗教革命を行い、ツタンカーメンをエジプトにおける王座の後継者に任命したのと同時代です。

私達が以前に見た様に、キリスト教の福音書が、イエスの人生、苦行、そして死の説明を与えると言う見解を補佐する証拠は何もありません。福音書によると、イエスを目撃した者は誰もおらず、彼等が見たのはキリストで、それが意味するのは彼(イエス)のスピリット的な要素で、肉体的な要素* ではありません。対照的に、私達は、彼が(イエス/ジョシュア)が、何世紀も以前に生きたと言う事を示唆する多くの証拠を有します。彼は一体誰だったのでしょう?

彼の正体を明かすために私達は、イスラエライト族の指導者として、アケナーテン(モーゼス)に後継した、イエス(ジョシュア)の様な;(シナイの)荒野において彼(モーゼス)と一緒で;「王子達と統治者達」の子孫である母(ネフェティティ)を持ち;彼自身がデーヴィッド(トトメス/トート・モーゼス3世)の子孫で;その血統から約束された救世主が出現すると聖書が繰り返し主張するパンディラ(神、ラー)の息子で;アノイント(オイルを塗る儀式)をされた王で;彼の青年期をエジプトで過ごし;若くして死に;「イスラエルを惑わせ、欺いたために」、良きも悪きも訴えられ、吊るされた(処刑された)誰かを探す必要があります。

紀元前14世紀に現れた全ての著名な人物達の中で、上記の全ての必要条件を満たすと言える唯一の人は - 全ての人々は、神の同じ見識を分かち合わないと言う事実に基づき、平和と寛容を宣教するキリスト教的な使命において彼がシナイに向かった時に殺害された、カリスマ的なツタンカーメンしかいません。

私が信じるに、巡礼の一種とも表現出来るかも知れない形状において、何百万人もの人達が、毎年、王家の谷の彼のお墓を訪れ、1922年にハワード・カーターと、彼の労働者達によって彼が発見された後、そのお墓から発掘された財宝が、国際的に展示される際に、何時でも無数の人々が何時間も並ぶのは、彼の正体についての真実の、無意識な認識です。

そのお墓自体には、見られるべきものはあまりありません。その壁画が、終わる事の無い何百万人もの観光者達の湿った息によって幾らかのダメージ受けた短い通路(トンネル)を通った後、人は単純に、その背後にその若い王の遺体を含む閉ざされた棺桶が横たわる壁に出くわします。この短い通路を歩く間に人は壁の壁画を通りますが、その深遠な重要性を、1997年の11月の、そのお墓の発見の発見の第75周年祭に、当時、ルクソールの知事であった、モハメッド・ユーセフ将軍によって、私が招待されるまで、私は気付きませんでした。その後私は、そのお墓を訪れる名誉が与えられました。私が一人で立ち、その埋葬の室のトンネル(通路)の北の壁を眺めていた時に、ツタンカーメンとイエスを繋げる、最も強力な壁画的な証拠を私が観ていたと初めて気づきました。

* イエスが彼の弟子(使徒)達に、彼が誰であると思うかと尋ねた時、「サイモン・ピーターが答え、貴方はキリストであり、生きている神の息子です」(マヒュー/マタイ16:16)と述べました。

1 tut north

私の経験においてとても特別なその壁画は(エジプトにおいて、類似したものは未だに発見されていませんが)、3つの別々の場面へと、分離させられます。その深遠な重要性を理解するために、古代エジプトにおける王族の絵画的な通例が理解されなければなりません。統治しているファラオは、彼の人生の間、ホルス(朝日)の神聖な体現であり、統治している王の守護であると見られ描写されました。彼はその死後に、ミイラ化され、黄泉の国の神で、ホルスの父、復活したオシリスとして表されました。石造と壁画はまた、誕生の瞬間に存在へと現れ、彼の死(後)を生き残った、王の - スピリット - である、カー( ka )を描写しました。

上述の場目の右端は、(家長ジョセフの次男であると同時にツタンカーメンの大叔父である、エフライム)アイを描写します。彼はまた、その若き王の高神官として奉仕し、その王座において、彼に続きました。アイは王冠を被り、彼の上には彼のカートゥーシュ(印)があり、彼が既に統治しているファラオの座に就いた事を示唆しています。しかしながら、王として描写されると同時にアイは、レオパード(豹)の革の神官的なローブをまとい、復活したオシリスとして彼に面する、死んだツタンカーメンの再生のために「口を開く」儀式を行っている、役人(神官)として描写されています(画面右)。

(画面)中央の場面は、ツタンカーメンが神々の領域に入り、天界の女神である、ヌットに歓迎されている事を表しています、私の好奇心をくすぐったのは、しかしながら、その北の壁の左側の最後の場面でした。此処で私は、一人の人としてリンクされたツタンカーメンの、3種の異なった表しを目撃しました。その場面の左側に、復活したオシリスとしてツタンカーメンが立ち、2人目のツタンカーメンが、ホルスとして彼に面しています。彼の背後には、カーとして描写された3人目のツタンカーメンがいます。この場面の最も顕著な特徴は、復活したオシリス(太陽)は、彼の両手が、彼の胸の上で交差させられた、一般的なミイラ化された形状ですが、彼のカー(分身)として、ホルスに触ろうと手を伸ばしています。

故に私達は、一つの神の中の3重の人格 - 聖父、息子、そして精霊の - キリスト教的な三位一体に見つけられる、同じ関係、ツタンカーメンを、父、息子、そして精霊とする関係を見つけ、キリスト教時代の、最初の4世紀の間の多大な激しい論議の後の、オーソドックス(主流)な信念を確立します。統治しているファラオであるアイが、行事している神官であったと言う事実はまた、国家の神、アムン-ラーの神官の権力と理解を超えた神学の現れの前に私達がある事を示唆します。


シグモンド・フロイドは、イエスの聖書的な逸話には、目に見えるもの以上の事があると結論した有一の著名な学者ではありませんでした。彼の正体を確立しようと言う試みは、以前までは当たり前と考えられていた推測に、批評的で理論的な思考を応用する事を求めた、聡明化の時代である、18世紀まで遡ります。フランス人の神学者で、オルガン演奏者であり、そして医者-修道僧でもあったアルバート・シュウェイツァーが、彼のクラシカルで - そして批評的な - 研究、歴史的なイエスの探求を1906年に書くまでに、この探求を行った学者達の多くは、イエスを彼等の個人的な先入観、または彼等が生きていた社会において広く受け入れられていた信仰に基づいて、イエスを描写していた事は既に鮮明に成っていました。

19世紀と20世紀初頭のプロテスタントのリベラルな神学において認識されたイエスは、歴史的なイエスと殆ど似ていないと言うシュウェイツァーの研究は、深遠な影響を与えました。多くの新約聖書の学者達は、イエスの人生を産出する事、またはオーソドックス(主流) - つまり、ー般的に受け入れられていた - 彼の聖職の説明を研究する試みを断りました。

この状況は、第二次世界大戦の後に変化しました。その問題における最新された学術的な関心は、多くの新たな本を産出し、今後も更に産出するでしょうし、イエスを様々な姿 - 政治的な革命家、ホモの音楽家、ガリリーの反乱者、パリサイ派、エッセネ派、アポカリプス(世紀末/啓示)の熱狂者、または死、裁定、天国と地獄についての教義を推進した終末論の預言者として描写しました。一人の歴史的な人物が、これ程多くの矛盾した姿を鼓舞したのは注目に値します。もし人が、拘わった著者達が、真実を確立しようと切実に試みていたと仮定すると、おおよその類似した結論に彼等が辿り着かなかった理由は、詳細な分析をしてみると、歴史的な事実では無く、神学的な事実を一致させようと試みていた事実にあるのかも知れません。

アケナーテン(モーゼス)の10歳の息子、ツタンカーメンは、彼の父の退位の後、そしてセメンクカレの失踪の後、紀元前1361年に、唯一の統治者としてエジプトの王座に就きました。アマルナ時代のあらゆる要素に共通する様に – 当時はツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)と名乗っていたその少年王の親についての幾つかの疑いが表現されました。これらの問題は、解決するのに難しい事ではありません。彼のお墓から発見され、そしてアケナーテンの統治7年目(紀元前1372年)に年代判定される服の布は、その年が彼の生誕の年であった事を示唆します。アケナーテン(モーゼス)は、12年間の間、彼の父、アメンホテップ3世(ソロモン)と合同統治した後に、5年間、単独で統治しました。彼の父の統治の7年目におけるツタンカーメンの誕生は、彼が王座に就いた時、彼を10歳にし、そして彼の短い統治の終わりに彼が死んだ時、彼を19歳にします。これらの年代判定は、彼の遺体の解剖学的な検証と同時に、彼のお墓の中から発掘された遺物の年代鑑定によって確認されています。彼の母親について、幾らかの学者達は、彼等の主張を補佐する証拠が乏しいにも拘らず、その少年王の母親は、女王ネフェティティとは異なった母親だと主張しました。彼は、キアと言う名の別の母親の子だと主張されました。しかしながら、1991年にトリノ(イタリア)で開かれた、第6回国際エジプト学会議において、ドイツのエジプト学者、ハンツ・ウルフギャング・ヘルクは、キアは女王ネフェティティに与えられたもう一つの名前で、この別名の名の下で彼女が描写されている場面を産出しました。ツタンカーメンの誕生の前に、彼女は3人の娘達を産み、その後も3人の娘達を産みました。その他の息子達の証拠は、一つも発見されていません。アマルナの北宮殿の考古学的な遺物は、彼女が母親であった強い証拠を提供します。それらが示唆するのはネフェティティが、シナイにおける追放へと、アケナーテンと共に追随せず、少なくとも彼の早死にまで、彼女の息子、ツタンカーメンと共に、エジプトに残ったと言う事です。彼の短い統治の間 - 王座を継承するために、彼の(腹違いの)姉妹、アンクセンパ・アテンと婚姻した – ツタンカーメンは、彼以前の彼の父と同様に、彼の大叔父で、ユヤ(ジョセフ)の次男、アイ(エフライム)の指導と補佐に頼る事が出来ました。アイはエジプトにおいて最も有力な人で – その若い王の宰相で、二輪馬車隊の隊長、王の馬の主人、そして弓矢隊の主任として、王座の背後の強い軍部の存在でした。

彼の統治の最初の4年間、ツタンカーメンは、彼の父が建てた首都の街、アマルナに住みました。しかしながら彼は、彼の民達を、アテン神の信仰に改宗させる試みを諦めました。ネフェティティは、未だに「大いなる王族の妻」と呼ばれ、アケナーテンがまだ生きていて、少なくとも彼の支持者達の幾人かによって、未だに王であると考えられていた事を、更に証明します。その期間の間その若い王は、テーベ(の街)において建設活動を始め、元々、彼の父によって建設された古いアテンの寺院に、彼は更なる建設を加えました。この当時、アケナーテンがまだ生きていたと言う更なる証拠は、テーベにおけるこれらの建設において特徴とされた古代のエジプトの神々は、アテンの名前を除いて変えられなかったと言う事実によって供給されます。

ツタンカーメンの統治4年目のある時点に始まる彼の統治の第2段階において、当時、15歳位だったその若き王は、彼の住居をアマルナから、現在のカイロの南西にあるメンフィスに移しました。彼がエジプトの太古の神々の寺院が再開される事を許し、アテンと並んでその神々が信仰される事を許したのはその時からでした。彼の民の大多数は、彼自身の信仰を分かち合っていなかったので、人気のある反応が彼にもたらされました。彼は故に、彼の統治のこの第3段階において - 国家神、アムンの認識(受け入れ)において - 彼の名前をトゥット・アンク・アテンから、トゥット・アンク・アムン(アーメン)に変え、その間、彼の女王もアンク・センパ・アムン(アーメン)に成りました。神官階級は公式な容認が与えられ、寺院の収入(お布施/徴税/etc,)が再開され、長年の放置によってもたらされた劣化は修理され始めました。

エジプト全体のソヴリン(主権者/統治者)としてツタンカーメンは、テーベの愛されしアムン、ヘリオポリス(太陽の街)のラー、メンフィスのプター、そしてその他全ての神々として同一視されました。そうであれ、その王自身は、最後までアテン派のままでした。これは王家の谷の彼のお墓から発見された王座の裏のパネルの場面から、はっきりと見受けられます。この木製のパネルは - ジプサムとゴールド、銀の葉、そして色のついたガラスとファイアンス焼きによって装飾され、王と女王の仲むつまじい場面を表します。両者が即位の王冠と銀の衣装をまとっています。立っているその女王が、彼女の左手に持たれた入れ物から、パヒューム(オイル)で、座っている王にアノイント(オイルを塗る儀式)をしています。

彼の王冠の背後に位置されたカートゥーシュ(印)の一つから、その王がこの王座を、彼が、彼の名前を変えた後から使用したのは明らかですが、彼が未だにアテン信仰に完全に献身していたのが鮮明なのは、中央の上部に、その王族の夫婦に、エジプトにおける生命の鍵である、アンクを与える、光線の延長と共に、アテンの象徴が描かれているためです。

アテンは此処で唯一の神で、宇宙を統治している王としての、彼の2つのカートウーシュが、その場面を圧倒しています。この事実に衝撃を受けたハワード・カーターは、彼の著書、ツタンカーメンのお墓に、こうコメントしました:「少なくとも、その様な明らかな(アテンの)象徴を現した物体が・・・アムン信仰のこの拠点において公式に埋葬されたのは奇妙で・・・ツタンカーメンの太古の(アムン)信仰への回帰は、完全な信念の問題では無かった様に現れます(i.e. 政治的)。」これは、エジプトの重要な神々の幾らかを記述した後、ツタンカーメンは「天界におけるアテン神の長男であった」と結ぶ、そのお墓の中の家具類のその他の物体の上に見つけられた文献からも確認されます。

ですが、彼の父のー神教の神、アテンの導入によって、エジプトにつけられた宗教的な傷を癒そうと言う彼の試みにも拘らず、ツタンカーメンは暗殺されました。

彼の死の暴力的な本質は、彼のミイラの状態によって証言されています。それは、リヴァプール大学の解剖学の教授、R. G. ハリソン教授と、カイロ大学の解剖学の教授、A. B. アブダラ教授によって、1968年にその王のお墓の中で行われた、X-線の使用を含む詳細な検証の題材でした。彼等はこう報告しました:

「その遺体の周りの包帯が解かれた時、そのミイラが一つの塊では無いのは直ぐに明らかに成りました。その頭と首は、体から分離され、そしてその四肢は、同体から分離されていました・・・その樹脂は、甘い香りを放ち、それは直ぐにそのお墓全体に蔓延し、その後の検証* を通して気に成る特徴に成りました。

「更なる調査は、その四肢が、同体から分離させられているだけでは無く、多くの箇所において、骨折させられている事が判明しました。その右腕は、ひじの部分で骨折させられ、その上腕部は、前腕と手から分離させられていました・・・左足は膝の部分が骨折させられていました。右足は正常でした・・・右上腕骨の先端と両方の大腿骨は、その他の骨から分離されていました・・・その頭と首は、第七頸部と第一胸椎の間の関節において切断されていました。」

彼等の説明はこう続きます:「その顔の皮膚は、頭蓋骨の上で緊縮し、その頬骨をとても顕著にしました・・・その歯は、固く噛み締められていました・・・胸部のレントゲンは、胸骨と胸の前方のあばら骨の殆どが、取り外されている事を確認させました。」死亡時の年齢は18歳位で、その遺体の身長は5フィート6.5インチと考えられました:「その埋葬の室に繋がる封印されたドアの両脇に立っていたその若い王の2体の像の高さが、上述で測定された身長と数ミリしか違わなかった事は、興味深いです。」その検証はまた、彼の黄金のマスクに反映された、端正な顔立ちを確認しました:「その王の遺体の検証にあった全ては、ハワード・カーターの、「端正で教養された顔立ち」と「うららかで穏やかな容姿」と言う描写と同意します。」

その検証は、死因としての病気の証拠は一切見つけられず、彼の遺体の状態から鮮明だったのは、ツタンカーメンが自然的な原因で死んだのでは無く、激しい身体的な拷問の後に、首を吊るされたと言う事でした。

1992年に、私の著書、メシア(救世主)のハウス(一族)** の中で、ハリソン教授の報告に基づき、私がツタンカーメンは殺害されたと結論した時、同意する人は誰もいない様でした。そうであれ、ハリソン博士のレントゲンを検証した後、多くの学者達が、最近に成って、私の見解を受け入れる様に成りました。ニューヨークのロング・アイランド大学の、エジプト学の教授、ボブ・ブリアーは、私の著書の出版の後、ツタンカーメンの骨折させられた頭蓋骨のレントゲンを検証し、その若き王が殺害されたと言う私の結論を受け入れました。1998年に出版された彼の著書、ツタンカーメンの殺害の中で彼は、彼(ツタンカーメン)を殺害したのはパネシーでは無く、(その王の宰相で、二輪馬車隊の隊長だった)アイだとしました。この結論のための彼の理由は、アイがツタンカーメンの王座を奪う動機を持っていたと言う主張でした。対照的に私は、女王ティエの兄弟であるアイは、彼の甥、アケナーテンと同時のその息子、ツタンカーメンの守護者であり、その主要な動機はアマルナの統治をその崩壊から救う事であったと考えました。

* それは、何世紀も過ぎた後の連想の問題でしかないかも知れませんが、この甘い香りはその聖者的な質が、現代においてサン・ジョヴァンニ・ルトゥンド(の街)を、最新された巡礼の地にした、パードレ・ピオ(ピオ神父)の様な例外的な神聖さの多くの人達の体から派生したと言われる、神聖さの香りを思い出させます。

** 2004年に出版された再出版版は、ファラオのハウスの中のイエスの題名で出版されました。


旧約聖書は、ツタンカーメンの死の2つのごちゃ混ぜの説明を含みますが、その一つはモーゼスとジョシュアを特集し、もう一つは、更なる第3の名前、ピネハスの下で、祭司、パネシー/ピンハスに焦点を当てます。

それらの説明の最初は、アケナーテン(モーゼス)の追放のより早期の期間よりもむしろ、出エジプトの後にその出来事が起こった事を位置付け、どの様にしてモーゼスが十戒を記述した石のタブレット(板状のもの)を受け取るために、シナイ山の上で、主(Lord)に会う為に呼び出されたのかを描写し、そして「モーセは従者ヨシュア(イエス)と共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行った」(出エジプト記24:13)。彼がいない間に、イスラエライト族は、彼等の収入の全てを寄せ集め、黄金の子牛(i.e. 牡牛座)を造り、そしてそれ(バアル)を崇拝したと言われます。私達は、彼(主)がその後、モーゼスとジョシュアに、その山の麓に戻り:「主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくな(stiffnecked/首の固い)な民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし・・・」(32:9,10)と指示した時、その主によって使われた言葉において、矛盾の示唆を見つけます。モーゼスとジョシュアがシナイ山から下山して来た時、彼等は祝いの騒音を聞き、そしてジョシュアはこうコメントしました「「宿営で戦いの声がします」/歌っている彼等の声が私に聞こえます」(32:18では無く32:17)。モーゼスは、彼がいない合間に起こった事にとても激怒し、彼は十戒が記述されたタブレットを叩き付け、それらを壊してしまいました/「モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた」(32:19)。主(i.e. アヌンナキ)は故に、その壊れたタブレット(十戒)を入れ替えるために、その山の上の2回目の会合へと、彼を呼び戻しました。

この2度目の機会に - 少なくとも一時的にその場面から、明らかに彼を排除する試みにおいて - ジョシュア(イエス)「ヌンの子ヨシュアは幕屋(移動式の神殿/テント)から離れなかった」(33:11)と、私達は伝えられます。新たなタブレットと共にモーゼスが戻ると直後に、しかしながら、主は、シナイ山の麓にモーゼスが立てられた信仰の幕屋の中におり、そしてモーゼスが、彼のイスラエライト族の支持者達のために、仲介として奉仕するために、何度も出たり入ったりしている事を、私達は学びます。これらの行いの期間、「イスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた・・・モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた・・・」(34:30、34:35)。これが、イエスが彼の死に出会った場所と時であると言う見解はラビ的な伝統の中に見つけられ、それはこの機会についてこう述べます:「バラヴァ・バトラ(121a)によると、それはモーゼスが法律(十戒)の2番目のタブレットと共に、シナイ山から下りてきた日です。」*

もしイエスが、彼の弟子(使徒)達が彼を見たと主張する時より、14世紀以前に生きたのなら、マタイ、マルコ、そしてルカの新約聖書の中で描写された出来事 - 彼の変容(変格/開眼/覚醒)として知られるように成った時の、イエスとモーゼスの出会いに、新たな光を照らすでしょう:「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた:そしてイエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤ(イライジャ)がモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。すると、雲(UFO)が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マルコ9:2-4、7)。

新約聖書のエリヤであるイライジャは、旧約聖書の列王記の中で表された神秘的な人物です。彼は紀元前9世紀におけるイスラエルのアハブ王の時代の間に生きたと信じられていますが、彼、または彼の一族について私達は一切知りません。(シナイ)山の頂上で、モーゼスがイエスに会った時、彼と一緒にいたとして、新約聖書の福音書に記述される、祭司ピネハスの神秘的な体現として考えられるのは、この神秘的な登場人物です。新約聖書の説明は、天界からのエリヤの回帰は、メシア(救世主)の現れを導くと示唆されます(ついでに、ピネハスと言う名前は、「南方の人」を意味する、エジプト語の panhysy から派生しますが、それはまた、エジプトにおいて、一般的な名前として使用されました。)

* 新ユダヤ大辞典。

キリスト教徒の著者達は、西暦19世紀まで、この説明に意味の解釈を試みる事を避けて来ました。それまでそれは、実際の歴史的な出来事の描写では無く、むしろイエスと彼の弟子達の心理的な問題、または「スピリット的な経験」として説明されて来ました。しかしながら、福音書の記述自体の事実的な本質は、この解釈を許しません。

イエスが墜落/堕落した、天使的な存在と2人だけだった、サタン(土星)との対話とは異なり、その変格(覚醒/開眼)は、象徴的、またはヴィジョンの描写とは、解釈される事が出来ません。此処において、3人の弟子達が、イエスとモーゼスの間の会合を目撃したと言われ、その出来事は、イエスが生きた時代への、福音書の中の唯一の手がかりです。

その変格が何時起こったかについて、何百年もの年によって分離された「伝統」が複数存在するのは、西暦6世紀の終わりにおいて、シナイ山の麓に立てられた、セント・キャサリンの修道院的な教会のモザイク(ステイングラス)によって示唆されています。そのチャペルの一つ、燃え盛る繁みのチャペルの聖域的なアプス(教会堂東端に張り出した半円形または多角形の部分)の外に、私達はその変格の対照的な描写を目撃します。キリストは、モーゼスとイライジャ(エリヤ)の間で、黒い頭髪と口髭と共に、卵型の栄光の中に描写されています。彼の足元には、3人の使徒達、ピーター、ジェームズ、そしてジョンが立っています。追随するメダル(貨幣)の中で、3人の使徒達は、その他の使徒達、ポール、タダエウス、そしてマテアスに入れ替えられています。

イスラエライト族の指導者が、当時、シナイ(半島)において殺害されたと言うのは、新しいアイデアではありません。それは、私達が以前に見た様に、その被害者がモーゼスであったと誤って指摘した、シグモンド・フロイドによって主張されました。ドイツの聖書的な学者、アーネスト・セリンにも同じ事が言えます。彼の著書、イスラエライト族-ユダヤの宗教的な歴史のための重要性の中で、彼はその殺害を、イスラエライト族の歴史を通って繋がっている「深紅のスレッド(糸)」として描写しました。セリンは彼の結論を、ピネハスを登場させる民数記に基づけました。

民数記の逸話は、イスラエルがモアブ族とメディアン族と戦った後に、イスラエライト族の幾らかが、「彼女達の神々に生贄を行う様に」彼等(イスラエライト族)を招待した、モアブ族の女性達と「背信の行為」を始め(25:1):そして「娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々(バアル)を拝んだ」(25:2)。これは、主を激怒させた(25:3)と言われます。「そのとき、モーセとイスラエルの人々の共同体全体が臨在の幕屋の入り口で嘆いているその目の前に、一人のイスラエル人がミディアン人の女を連れて同胞のもとに入って来た。祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスはそれを見ると、共同体の中から立ち上がって、槍を手に取り、そのイスラエル人の後を追って奥の部屋まで行き、この二人、すなわちイスラエル人とその女を共に突き刺した・・・」(25:6-8)。

この行為のために、ピネハスは、私達に対して英雄として表されています。その結果、24,000人の人々の命を奪った「災害」は終わりへともたらされ、そして主は、モーゼスにこう言いました:「「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである。』」(25:11-13)。その数節後、その被害者達は、それぞれが2人の首長達の息子と娘であった、マイナーな登場人物、ジムリとコズビだったと確認されます。

もし人がこの説明を分析すると、実際に起こった事を隠蔽するために、それが何らかの神官(官僚)的な工作の対象だったと、何故、セリンが疑ったのかを理解するのは簡単です。普通のイスラエライト族であったなら、王、または高神官だけが許されたタバナクル(移動式の神殿/テント)の内側の室に、外人の女性を引き入れる事はせず、この場合、その他の神を崇拝している人の記述は無く;女性と性交する事は死刑を意味し;イスラエライト族の指導者、モーゼスはその男に対する処罰の命令を一切与えず、もしその男性の被害者が、マイナーな登場人物なら、何故、24,000人の人々の死と言う形の復讐を必要としたのでしょう?「その醜い逸話を隠蔽しようと神官階級の努力にも拘わらず、それは、預言者的な内輪の中で伝えられた」とセリンがコメントしたのは驚きではありません。

災害として描写されたものは、ピネハスが殺害を行った後だけに記述され、それ(24,000人の死)が、暗殺への罰であり、偽りの神々(バアル)を崇拝したためでは無い事は明らかです。キリストがシナイにおいてイスラエライト族と一緒にいたと示唆した後、ポールが「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました・・・彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました」(コリント10:5,8)と言った時、彼の頭にはこれがありました。この解釈は、死海書から利用可能な証拠によっても強調されています。コラーンの文献の一つ、ハバッククのコメントは、その邪悪な神官が公正の先生を殺した後、「彼(その先生)は、彼等を飲み込むために、彼等の前に現れた」* と、私達に伝えます。「飲み込む」はヘブライ語の「殺害」または「殺す」のための比喩です。その先生の死後の現れに関して、此処において使用されたヘブライ語の動詞はまた、「彼は、彼等に、彼自身を明かした」とも翻訳される事も可能で - 歴史的な現れでは無くむしろ、スピリット的であった事も示唆しています。

シナイでの暗殺に続いた「災害」が、懲罰の一種であったと言う論説と - そしてその暗殺が行われた歴史的瞬間は - エフライム(ツタンカーメンの宰相で、二輪馬車隊の指揮官であったアイ)によって、この懲罰が行われたと言われる、ホセアの書に見つけられます:「震えながらエフライムが語った時(此処における感覚において、その他の翻訳では、他の者達が震える原因に成ったとされます)、彼は彼自身をイスラエルにおいて高揚(exalted)させました・・・/エフライムが語れば恐れられ/イスラエルの中で重んじられていた」(13:1)。ペンタテューク(聖書の最初の5冊=トーラ)における以前の書、レヴィ記において、永続的な神官階級が、アーロンと彼の子孫達に既に約束されていたと、私達が知っているのに、これがピネハスと彼の子孫達に与えられる契約が成されたのもまた奇妙な事です。

シナイ山の麓における出来事についての真実を確立する事が難しいのは、何故なら、私達がこれから見る様に、数世紀を通して真実を隠蔽する大々的な努力が成されたためです。その前に、その様な暴力的な死を、ツタンカーメンにもたらした「罪」は何だったのでしょう?言い換えると、何故彼は殺害されたのでしょう?

* クムランからのエッセネ派の記述、アンドレ・デュポント・ソマー

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