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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第13章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

第13章:苦しんでいる従者


もしイエスが神話的な人物では無いのなら - そして西暦1世紀の前半の後に彼が物理的/実際に現れたと言う示唆が一つも無いなら - 私達は彼の歴史的な証拠を、それ以前の世紀に求めなければならないのは、必然です。この探求において、2つの道を辿る事が可能で、一つは聖書、キリスト教会の早期の教義、そしてユダヤ的な文献を含むドキュメンタリー的な足跡で、もう一つは、特に考古学者達と科学者達と言った、探求者達の近年の研究の結果として、エジプトの歴史について利用可能な膨大な証拠です。

文献的な足跡の便利な開始地点は、主流のユダヤ・コミュニティー全体とエルサレムの神官階級から、それら自体を分離させ、その教義を偽りと信じた、秘密裡的なユダヤのセクト(カルト/信仰)、エッセネ派の図書館の遺物である、死海書です。1947年の初頭に、クムランの幾つもの洞窟の中で発見された数々の文献(巻物)は、キリスト教時代が始まった当時の、ジュデア(パレスチナ)の方言的な言語、ヘブライ語とアラマイック語で書かれ、そしてその幾つかはギリシャ語で、紀元前200年と西暦50年の間に年代鑑定され、そして聖書と分派的な文献を含んでいました。

その巻物が聖地から由来し、一般的にイエスが生きたとされる時代の前と後の時代に重なったので、それらが福音書の逸話を補佐する直接の証拠を供給し、そしてユダヤ教とキリスト教の歴史について、新たな光を当てる事が広く期待されました。主流のキリスト教について受け入れられているアイデアを確認する事からは程遠く、しかしながら、その文献はそれらに対して矛盾しました。それらは一般的に受け入れられているキリスト教時代の始まりよりも、少なくとも2世紀以前の救世主とキリスト教会に対する肯定的な目撃を供給します。

エッセネ派のメシア(救世主)的な指導者は、単純に「公正さの先生」と呼ばれ、イエスと同様に、彼の場合、「邪悪な祭司」と呼ばれる誰かの手によって、過去における不特定な時に乱暴に殺されました。その巻物の文章が公表され始めると、学者達はそれらの重要性について、賛否両論でした。一方の学派は、エッセネ派のコミュニティーと早期のキリスト教会との間のあらゆる直接的な関係を否定し、もう一方の学派はエッセネ派を最も初期のキリスト教徒と認識しました。例えば、彼自身が聖地において多大な考古学的調査を行った、アメリカのオリエント(中東)学の第一人者、W. F. オルブライトは、こう述べた事が引用されました:「新たな証拠は・・・キリスト教の始まりに対する私達のアプローチを革命化すると言えるでしょう。」* 彼自身がユダヤ人で、ケンブリッジ大の著名な学者である J. L. テイチャーは、死海書が「とても単純にキリスト教的な文献です。」とさえ言うまでに至りました。その文献は紀元前200年程昔から由来するとされますが、エッセネ派の指導者、公正さの先生は、イエス・キリスト自身以外の何者でも無いと、彼は主張しました。

フランスの学者、アンドレ・デュポント・ソマーは、その巻物の一つ、ホバッククについてのコメントを読んだ後、イエスは当時、「公正さの先生」の、驚きの転生」に見えた様だと結論しました。イエスの様に、その先生は、彼の支持者達によって、神の選択、メシア、世界の救世主として信じられた様ですと彼は述べました。両者が神官階級(官僚)によって対峙され;両者が死刑判決され、両者がエルサレムに対する裁定を宣言し;両者が、その支持者達が、彼等が世界を裁定するために復活すると信じたコミュニティーを確立しました。

その巻物の重要性は、1990年に、聖書的な学者、ハーシェル・シャンクスが、ワシントンに本社を構える彼の聖書的な雑誌、考古学的なリヴューと聖書的なリヴューの中で、一部を公表した時に、新たな注目を浴びました。この一部はこう読めました:「彼は地上において偉大に成るでしょう・・・彼は神の息子と呼ばれ、そして彼等(人々)は彼を最も崇高(大脳)の息子と呼ぶでしょう。」この一部の興味深い要素は私達が聖者ルーク(ルカ)の福音書の第1章に見つける、処女マリー(マリア)の(受胎の)お告げの説明との間違いない類似性です:「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる・・・生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:32,35)。

* クムランとエッセのユダヤ的セクト(カルト/宗派)、アンドレ・デュポント・ソマー、ロンドン、1954年、150ページ。

「エッセネ派」と言う正にその名前が示唆するのは、彼等がイエスの支持者達であった事です(エッセ/エッセンス/本質)。西暦30年に、そのセクト(カルト/信仰)の最も初期の説明を記述したファイロ・ジュデアスは、彼等をギリシャ語のエサイオス( Essaios )から、彼等をエッアエンズ(エッセネ派/グノーシス派)と呼びましたが、これが元々、ギリシャ語の言葉/単語では無かった事を明確にします。ジョセファスは、その半世紀後に彼等を、彼と同時代のユダヤ人達に含み、英語において使用される同じ用語に含み、彼等をエッセネ派と呼びました。しかしながら、「エッシーン/エッセ」と言う単語は、セム語的な起源を有していたはずであると認識されました。驚きなのは、その源泉についての多くの不満足な示唆の中にあったのは、明らかに見過ごされた一つ - コラーンの中でイエスのために使用されたアラブ語的な名前、エッサ( Essa )でした。エッサイオイス( Essaiois )は故に、「エッサの支持者」を意味します。この意味は、それ自体において、それが無視された主要な理由かも知れず:もしエッセネ派が、福音書においてイエスの生命のために与えられた時代よりも以前に存在していたなら、彼等は早期の教会によって、彼(イエス)の支持者達として見られる事が出来ないと言う事です。

イングランド教会の17世紀の長老、ジョセフ・ビンガム牧師は、この名前が早期のキリスト教徒達の名前の一つであった事を確認します:「キリスト教が世界において最初に植え付けられた時、それを受け入れた人々は、一般的に、彼等の間で、キリスト教徒達と言う称号と名称を取る前に、弟子(使徒)達、信者達、選択者達、聖者達、そして同胞達(兄弟達)の名前によって知られていました。エピファヌスは、彼等がまた、主イエスの名前から、イエサイオイ( Iessaioi )、イエセアンズ( Iesseans )・・・と呼ばれたと述べます。(聖職の起源;または、キリスト教教会の昔、ジョセフ・ビンガム牧師の研究、第1巻、オックスフォード、1855年、1ページ)。

エッセネ派(ユダヤ-キリスト教徒)は、しかしながら、キリスト教の時代の始まりに繁栄した、唯一のイエスの支持者達ではありませんでした。彼等の信仰の多くを共有したセクトのもう一つのグループはグノーシス派(非ユダヤ-キリスト教徒/i.e. 神秘主義)で、西暦における最初の4世紀において発達した主流のキリスト教(ローマ・カトリック)の形状の、組織化されたローマの教会に対する彼等の対峙のために、その後迫害され、一掃されました(魔女狩りされました)。第二次世界大戦の終わりまで、私達はグノーシスの知識のために、彼等の敵に、殆ど頼らなければなりませんでした。この状況は、死海書が発見される2年前の、1945年の、高エジプトのナグ・ハマディの洞窟に隠されていたグノーシスの図書館(文献)の発見と共に変化しました。全てをまとめると、ギリシャ語のアルファベットで記述された、エジプトのキリスト教徒達の礼拝的な言語、コプト語で書かれた52種の文献がありました。それ以前に知られていなかった福音書の幾つかの中にあったのは、トマス(i.e. テムズ/タムズ)の福音書で、それはイエスに帰属される114の言い伝えを含み、それらはその後、マヒュー、マーク、ルーク、そしてジョン(マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネ)の福音書よりも古いと確立されました。

グノーシス的な文献は、イエスが過去の随分と昔に生き、そして彼等(グノーシス派)の多くは、彼の再来を望んでいた事を鮮明にします。また明らかなのは、彼等が、彼等自身をキリスト教の真の解釈者達と見識していた事です。ナグ・ハマディの福音書において、イエスの誕生のための日付けと場所は、与えられていません。彼はナザラスの人と描写されますが、それらの福音書の中で、ナザレス、ガリリー、ベツレヘムの様な地名、またはエルサレムさえも記述されていません。これらの記述の中で報告されるイエスの現れは、いずれも歴史的で、物理/身体的な現れを体現しておらず;それぞれ異なった形状においてですが、彼は常に、スピリット的な存在として、彼の弟子達へと現れました。マリー(マリア)の夫、ジョセフ、アリマテア(の街)のジョセフ、洗礼者ジョン、エルサレムの高神官、カイアファス、ヘロッド王とパレスチナのローマ側の知事、ポンティウス・パイレートの様な新約聖書の登場人物達は、ナグ・ハマディの福音書の中には見つけられません。そして、彼のより以前の歴史的な人生のための特定の時代は与えられていませんが、それが示唆していたのは、それがつい最近の事では無かった事です。

キリスト教グノーシス派のセクト(グループ)は、彼等の順を追って、より早期のセクト、禁欲主義(苦行者/修道僧)的なテラピュータエから発達しました。テラピュータエの歴史についての、私達の有一の権威は、福音書に記述されている出来事が起こった当時に生き、西暦1世紀の中頃に死んだ哲学者/歴史家、ファイロ・ジュデアスです。私達は彼の研究から、テラピュータエは、幾つかの重要な要点において、グノーシス派とエッセネ派 - 特に後者とは異なりましたが - それらの両方と共に数多くの特徴を共有しました。彼の全ての研究の中で最も重要な瞑想的な生活の彼の説明の中で、グノーシス派と同様にテラピュータエのセクトは、「文明化された世界(ローマ帝国)の多くの地域において見つけられます・・・ですがノームスと呼ばれるそれぞれの地域を通して、エジプト、特にアレクサンドリアにおいて大勢です。」西暦3世紀の代表的な神学者であった、「教会の歴史の父」エウゼビウスはテラピュータエを、エジプト* における最初のキリスト教の教会として考えました。

預言者イサイア(エサイス)** の記述は私達を、数世紀以前まで連れ戻します。イサイアは紀元前8世紀の後半の間に生きましたが、聖書的な学者達は、イサイアの書は、少なくとも2人の著者達、イサイア(I)(第1-39章)と、イサイア(II)、そして恐らく、最後の11章を記述した第3の人物によって書かれ、それは紀元前6世紀の後半に年代判定されると結論しました。

福音書の中でイエスに与えられた主役的な役割は、彼の道を誤っている人々の罪を償うために、苦しみ、子羊の様に生贄にされる、国家の光、そして救世主として、神によって送られた人でした。その様な登場人物は、イサイア(II)の一部を形成するイサイアの聖歌の中に描写された、苦しんでいる従者の中に見つけられます:「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った・・・そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった:屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた:彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか:わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ(彼の墓が邪悪な者によって用意されたと言う意味で)/富める者と(王達と貴族達の中に)共に葬られた・・・」53:6-9

* これらのセクトとそれらの重要性は、キリスト教時代の夜明けに続いた出来事を扱う、この本の第3部の中で、より詳細に検証されます。

** ジョン(ヨハネ)12:41にそう呼ばれています。

イサイアは、苦しんでいる従者(キリスト/オイル)を、神に任命された救世主として表した最初のイスラエライト族の預言者でした。従来、ヘブライ族の救世主は、デーヴィッドの勝者的な息子(血筋)で、その国家の敵を打ち破る、生きている王として考えられ、そしてその生命は、人がシェオル、下界/黄泉の国、またはお墓に行った時に終わりに来るとイスラエライト族は信じました。イサイアの聖歌の中のその従者の説明は、しかしながら、第2の人生(i.e. 復活)のアイデアを旧約聖書において初めて表しますが、それはその救世主のためだけに表され、彼を信じた者達のためではありませんでした。死からのその従者の再生は、上記の文章に続く言葉の中でとても鮮明です:「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」(53:10-12)。

過去形/現在形/未来形の変化は、イサイアにおいて一般的です。これが派生するのが何故なら、ヘブライ語が時系列を有さないためで(セム語的な言語の古い形状は、動詞の一つの形状しか使わず、時間は別々に示唆しました)、そしてイサイアが過去、現在、または未来について書いていたのかは、彼の言葉を解釈する翻訳者によって異なります。神に任命された救世主である、その従者の死は、イサイアの報告の態度から、イサイアが彼の言っていた事の真実を受け入れたと、私達は推測するしかありませんが、死後の生命(i.e. 輪廻転生)における信仰は、唯一その従者自身と共に起因される事が出来ます。イサイアがそれを創作したと言う事は出来ません。

イサイアの聖歌は、イスラエライト族にとって、大災害的な時代に書かれました。紀元前587年に、バビロニア人達はエルサレムを破壊し、ユダヤ人の王国に終止符を打ちました。その人口の殆どはバビロニアにおいて奴隷と成り、その状況は紀元前538年に、ペルシャ(イラン)の王、サイラスがバビロニアを打倒し、ユダヤ人達を解放し、彼等がエルサレムの寺院を再建する事を許すまで続きました。イサイア(II)は、イスラエライト族の敗北と屈辱を、長い間以前に行われた罪のための、神による厳罰として表します。

イサイアの苦しんでいる従者は、その預言者自身の記述と同時に、新約聖書の中にも見つけられます。使徒行伝の中で、例えば、エチオピアの宦官がエルサレムを訪れた後、使徒の内の一人、フィリップに、その従者によって誰が意味されているのかを尋ねた時、「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(8:35)。再びピーター(ペトロ)は、彼の最初の手紙において、キリスト、または彼(キリスト)の人生、教え、または死との、彼(ピーター)の個人的な関係について、全くヒントを与えず、単純にその従者に関連したイサイアの聖歌の一部を繰り返します:「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(2:21-25)。

ルーク(ルカ)は、シナゴーグ(寺院)において読書しているイエスについての彼の説明の中で、イエス自身にイサイアを引用させます:「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4:17-19)。元々のイサイアの引用の「アノイント(油を塗る儀式)/油を注がれた」と言う言葉のこの使用が記述されたのが重要なのが何故なら、イエスがアノイントされたと言う言及は、その他の福音書には全く無い為で、それが洗礼とは全く異なった儀式で、異なった示唆を有するためです。此処におけるその(油を塗る儀式)使用は、マヒュー(マタイ)の始めの節においてイエスが「デーヴィッドの息子、イエス・キリスト」と正体を明言される事と、一般の人々によって頻繁に「デーヴィッドの息子」と呼ばれる事と共に、歴史的なキリストが、王族の血筋であった強い示唆を供給します。

ですが再び、ジョン(ヨハネ)は、イエスの幾つかの活動を報告するために、イサイアへの言及を使用した後、彼の福音書の中でこう続けます:「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」(12:41)。此処においてその福音書の記述者は、キリスト教時代の始まりの数世紀前に生きた預言者イザヤが、キリストの栄光を見て、彼について語ったと述べています。これが示唆するのはイザヤが、後にダマスカスへの道の途中にあった聖者ポール(パオロ)と同様に、スピリット的なキリスト(i.e. オイル)に出会った事です。


その様な文献と、西暦1世紀におけるイエスの生命の福音書の逸話を同意させるために、早期の教会の神父達は、イエスがスピリット的で、事前存在的なキリストで、新約聖書のイエスと混合されるべきでは無いと言う説明を提案しました。この説明は、現代の学者達の多くに受け入れられました。しかしながら、私達が此処までに検証した証拠は - 更に続くものがありますが - 私達が此処で扱っているのは、スピリット的、事前存在したイエスでは無く、イエス自身が数世紀以前に存在し、信者達は、彼との何らかのスピリット的な出会いを経験したことを示唆します。これは、西暦1世紀におけるポール自身の経験の、彼の説明からも明らかです:「わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず」(ガラテア1:16)。同じように、ジョンは、イザヤがイエスの「栄光」を見たと言ったとして上述に引用されました。キリストの「栄光」が永続的でスピリット的な特徴を示唆するのは、イエス(i.e. 太陽)が、彼の死(i.e. 冬至)と復活(i.e. クリスマス)の後に唯一、「栄光」を達成したと言われるためです:「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神・・・」(I ピーター1:21)、そして再び:「キリストの苦難とそれに続く栄光」(1:11)です。

新約聖書の中にあるのはまた、歴史的なイエスが、シナイ(半島)の荒野の、イスラエライト族の中にいたと言う強い示唆です。ポールは彼の最初の手紙である、彼のもう一つの手紙、コリント人への手紙の中でこれを鮮明にします:「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲(大脳)の下(小脳)におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物(オイル)を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩(ミネラル)からでしたが、この岩こそキリスト(オイル)だったのです。(I コリントの使徒への手紙10:1-4)。これは、ポールが何について言わんとしているのか、聖書的な学者達のマインドにおいて疑いを残しませんでした:「ポールは此処で、その岩が本当にキリストであると意味している可能性が高く・・・つまり、そのメシア(救世主/オイル)は、その荒野におけるこの重要な期間の間に、何らかの形で人々の中にいたと彼が信じたと言う事です・・・」(フル大学の、元神学の教授、アンソニー T. ハンソンの旧約聖書の中のイエス)。

シナイの荒野における、イスラエライト族と供の、イエスの存在のアイデアは、「モーゼスの下、エジプトを出た」、従わないイスラエライト族に言及した後、ポールのヘブライ人達への彼の手紙の中で、彼がこう述べた事によって強調されます:「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(ヘブライ人達への手紙4:2)。ポールが此処で主張している要点は、西暦1世紀において宣教されているキリスト教の福音書は、以前にも宣教されていたと言う事です。ジョンはまた、エルサレムのユダヤ人達に、イエスが:「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」(ジョン5:46)と述べたと引用した時、イエスが、モーゼスと同時代の人であったと認識しています。故に、モーゼス(アケナーテン)は、ジョンによると、イエスに関して預言しませんでしたが、旧約聖書の最初の5冊であるペンタテューク(i.e. トーラ)の中に、彼について記述しました。

紀元前13世紀における迅速な軍事活動を通した、約束の地(パレスチナ)の彼の征服を描写するジョシュア(ヨシュア)の書は、イザヤの時代から私達を、5世紀遡って連れ戻します。(少々後に詳細に説明される様に)考古学的な証拠は、この説明が架空の記述であると鮮明にしますが、ジョシュアと言う名前は重要です。

旧約聖書のギリシャ語の翻訳版 - そして彼等のギリシャ語聖書、Septuagint* は今でも - ジョシュアと言う名前を使用せず、イエスと呼びます。故に、約束の地の征服の彼等の説明は、イエスの書の中に現れます。ジャスティン・マ―ター(リオンの司教)、テルトゥリラン、エウゼビウス(カエザリアの司教で「教会の歴史の父」)、そして彼の時代の最も優れた神学者、オリジェンを含む、西暦2世紀から3世紀の、教会の早期の神父達の多くもまた、ジョシュアをイエスと同一視しました。

例えば、早期の教会の歴史を記述した、カエザリアの司教、エウゼビウスは、キリストとキリスト教は、教会の現れよりも古いと述べます:「キリスト教の起源の古さと神聖さの特徴は、それらをつい最近で、突飛で、つい昨日初めて現れたと想像する者達に対して証明されるでしょう・・・神聖なスピリット、彼自身が、預言においてこう述べます:「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか?」(イザヤ53:8)。(HE 2)彼はそれからこう述べます:「キリストの名前の究極の神聖さと栄光は、モーゼス自身によって最初に宣言されました・・・モーゼスによってそれが知られるまで、人間の耳によって聞かれた事は1度も無く、 - 再び、パターンとシンボルとして - 彼(モーゼス)自身の死後に、究極の権威に成ると彼(モーゼス)が知っていた、イエスの称号が初めて、そして唯一、彼(モーゼス)によって人(ジョシュア/イエス)に与えられました。彼の後継者(ジョシュア)は、従来イエスの任命を使用しませんでしたが・・・モーゼスは彼をイエスと呼び、価値の付けられない敬意として彼にその名前を与えたのは・・・彼自身がヌンの息子であるジョシュアが、私達の救世主のイメージを産み、唯一人、モーゼスと、彼によって人々に与えられた象徴的な信仰の完成の後に、真の、そして最も純粋な宗教の権威として後継したためです」(HE 3)。

その同一視は、オリジェンの場合、特に顕著です。モーゼスがジョシュアと共に最初に記述される節(出エジプト記17:9)についてコメントした際、彼はこう記述しました:「戦争が迫っていた時に、モーゼスが与えた指示を、私達は観測しましょう。それはこう述べます:「彼はイエスのこう言いました」 - ジェームズ王版の聖書は此処でジョシュアを載せ、傍注にイエスと記述します - 「貴方自身のために男達を選び、明日、アマレク族** と戦いに行きなさい。」この時点までに、祝福された人イエスは、一切何処にも記述されていません。此処において初めて、この名前の素晴らしさが輝き始めます。」イエスとジョシュアはまた、ペンタテューク(旧約聖書の最初の5冊=トーラ)において、後者に対する「ヌンの息子」としての様々な言及によってリンクされます。それらはキリストの伝統的な象徴であり、「魚(i.e. 魚座)」を意味する言葉、「ヌン」への、聖書における唯一の言及です。実際に、カエザリアの司教、エウゼビウスは、イエスの名前と容姿は、モーゼスの後継者として、ヌンの息子の中に初めて現れると、とても鮮明にします。

旧約聖書は、ジョシュア(イエス)をモーゼス(アケナーテン)の同時代であると単に一致させるだけでは無く、イスラエライト族の指導者として、彼の後継者であったとします:「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊(スピリット)に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った・・・」(申命記34:9)。

* ヘブライ語からギリシャ語への旧約聖書の翻訳の、現存している最も古いものです。それはプトレミー(プトレマイオス)2世の統治の間、紀元前3世紀に、70名のユダヤ人の書生達によって、アレクサンドリア(エジプト)において翻訳されました。

** アマレク族は、太古の部族であり、イスラエライト族の敵で、アラビア(半島)北部まで伸びる、ジュデアの南部の地域に住んでいました。

キリスト教時代の早期の数世紀において、イエスは、旧約、そして新約聖書の在俗(修道院に住まない聖職者)的な研究と同時に、ギリシャ語の翻訳の中で見つけられる唯一の名前でした。例えば、西暦1世紀の歴史家、フラヴィウス・ジョセファスのユダヤ人達の大昔全20巻の中で私達は、イエス(ジョシュア)と彼のモーゼス(アケナーテン)との関係への、数々の言及を見つけます。彼は、「ヌンの息子、イエス」が、モーゼスの後継者に成ったと記述します(第3巻)。モーゼスが年老いた時、彼(ジョセファス)は後にこう述べます、「イエスを、預言者として神からの指示を受ける者、そして軍隊の指導者の両方として任命しました」(第4巻)。彼はその後、「イエスはまた、モーゼスが生きている間に預言した」(第4巻)と確認します。

その試みは、あまり成功的ではありませんでしたが - 聖書的な年代歴の問題を解決するために、旧約聖書のマソラティック* 的なヘブライ語の文献の新たな翻訳をしようとした時、その英訳の翻訳者が - 「ヌンの息子」と言う形容詞に出会う度に - ジョシュアの名前をイエスに入れ替えたのは、西暦16世紀に成ってからでした。その両方が同じ意味、「ヤーウェィ( Yahweh /主)は救い」を有するジョシュア(ヘブライ語で Ye-ho-shua )と言う名前と、(短縮形で Ye-shua である)イエスの名前の類似性が、彼(英訳者)の選択を影響したはずです。

バビロニアにおける奴隷化から彼等が解放された後に、彼等が知られているユダヤ人達はどうだったのでしょう?福音書的な説明は、当時のユダヤの高祭司、カイアファスと、その他の主要な祭司達と長老達が、イエスに対する非難と、彼のその後の逮捕、裁判、そして有罪判決に、どの様に深く拘わっていたのかを描写します。彼等は、エジプトにおける奴隷化からの、イスラエライト族の開放を記念する、パスオーバーの祭事の機会に、彼(イエス)を解放すると言うパイレートの提案を拒否し、代わりに、もう一人の受刑者、バラッバスの開放を要求したとさえ言われます。その状況下において私達は、ユダヤ的な文献が、彼の記憶の幾らかを保ったと見つけられると予想するべきです。

西暦の最初の5世紀に年代鑑定されるラビ的な聖書は、ユダヤ人達がイエスを知っていた事を鮮明にしますが、彼について彼等が知っていた事の全てを明かそうとはしません。ギリシャ語のイエスの、ヘブライ語の形状、Yeshu (イエシュ)は、この時代に書かれ、旧約聖書の次に権威があるとして認識されるタルムードの中で、少なくとも20度見つけられますが、彼の名前を使用するよりもむしろ、彼を「ある特定の人」として言及する傾向があります。幾つかの節の中において彼はまた、バラーム( Balaam )、またはベン・パンディラ( Ben Pandira )「パンディラの息子」と名指しされます(以下を参照)。ユダヤ人達は、イエスが神の息子であると言う主張を否定したので、彼等はパンディラが、マリーの夫では無く、愛人であると言う見解を提示しましたが、彼等は彼女の名前:「ミリアム(ヘブライ語のマリーで、以前の章において女王、ネフェティティと同じ人であると一致させられました)は・・・「ある特定の人」の母であると認めました」( b. Hag., 46b )。(注:イエスの母、聖母マリアと、イエスの愛人/妻、マリー・マグダレンの混合。)

これは、4つの福音書と、タルムード、そしてヘブライ語の聖書の太古のユダヤ的な解説の一部であるミドラシュの間の多くの同意の内の一つです。それと同時に、特にイエスが実際に生きた時代を確立する手助けに成る部分に、矛盾/異論の重要な部分があります。最初に、同意の幾つかの重要な部分を扱うと:

イエスの王族的な血筋。イエスの母は、「王子達と統治者達の子孫でした」( b. Sanh.(サンへドリン), 106a )

「パンディラの息子」としてのイエスの名指しはまた、彼がエジプトの王であった事を指摘します。パンディラはヘブライ語の言葉では無いので、その起源について多くの説明が提案されました。実際に、パンディラと言う単語は単純に、太古のエジプトの王族的な形容詞の、ヘブライ語の形状です。ラビ達が、それ(パンディラ)が意味する事を知らずに、その言葉を保った事はその信憑性を補佐します。その言葉はヘブライ語において、Pa-ndi-ra です。エジプト語におけるその元々の形状において、これは Pa-ntr-ra に成り - つまり、Pa-neter-ra で、神、ラーです。ラーの息子は、キリスト教時代の27世紀以前、第4王朝のピラミッドの建設者達の時代から、全てのエジプトの王達の、本質的な称号でした。

* 旧約聖書のマソラティック的な文献は、正しい発音が出来る様に、区別的な発音符がつけられた、ヘブライ語の文献です。

エジプトにおけるイエス。タルムードは、イエスの青年期に、彼がエジプトにいて、其処で彼は「魔術を行い、そしてイスラエルを騙した」( b. サンヘドリン、107b )とします。

神官階級(官僚)による死刑宣告。タルムードの中にはイエスの裁判の記述は何処にも見つけられませんが、ユダヤ人のラビ達は、ナザラス人(びと)が処刑された事を受け入れます:「彼等がイエス(ナザラス人)を吊るした(処刑した)のは・・・何故なら彼が魔術を行い、そしてイスラエルを迷わせたためである」( b. サンヘドリン、43a )。

イエスは若くして死んだ。「血と偽りの人達は、彼等の日々の半分も生きないであろう」( b. サンヘドリン、106b 、讃美歌55:23を引用して)。

王であるイエス。イエスが処刑された時、「誰しもが右へ、左へ通り、「王が磔にされた様だ」と述べました」( T. サンヘドリン、9.7)。

此処において私達は終に、4冊の福音書の中で関連させられる、イエスの人生における本質的な点の多くのユダヤ的な確認を見つけます。ですが、イエスの生と死の日々とされるその後の早期の世紀において、ユダヤの法と同時に伝説とコメントの解釈を編集したタルムード的なラビ達は、当時のキリスト教的な伝統にだけ頼ったのでは無く、彼等が同意する事、そして異論する事の両方について、彼等以前のユダヤの権威に言及しました。

イエスが実際に何時生きたのかを確立するにおいて、ラビ達が、4冊の福音書の中で与えられた説明を知っていたにも拘らず、ヘロッドの統治の間、またはカイアファスが高司祭であった時に、彼(イエス)の処刑が起こった事に一切触れないのは、ラビ的な記述の重要な要素です。私達はまた、タルムードのページの中に、洗礼者ジョン(ヨハネ)の様なヘロッドの時代に生きた人物への言及を、全く見つけません。

タルムードはまた、イエスに関する幾つかの本質的な点について、福音書と矛盾します。例えば、それは、彼がガリリー人、またはナザレスの街から来たと、全く記述しません。それは彼をナザレス人と言及しますが、この言葉(ギリシャ語で Nazareth )は、宗教的なセクト(グループ/カルト/信仰)を示唆するために使用され、地理的な位置を示すものではありませんでした。この意味は、ユダヤ人達が、ローマの代理長官であるフェリックスに、ポール(パオロ)が世界中のユダヤ人達の中で反乱を企て、彼を「ナザリアのセクトの指導者」と描写して訴える、使徒言行録24:5からも鮮明です。実際に、ポール自身がイエスを常に「ナザレス人」と言及しますが、彼がナザレスから来たとは全く言いません。ですが、使徒言行録のその他の箇所において、新約聖書の英語版では、ナザレス人は常に「ナザレスの」と訳され、英語圏の読者達の誤解の原因に成りました。ナザレスは、エッセネ派の様に、秘密裡のユダヤ-キリスト教セクトの内の一つで、「ナザレス」と言う用語は今日まで、ヘブライ・ユダヤとムスリムの両方によってキリスト教徒達に与えられた指定です。そのセム語的な単語は、nsr と言う語源から派生し、「警護」、または「守備」を意味し、「支持者」を示唆します。ナザレス派のセクトの存在は、古典的、そしてキリスト教的な歴史家達の両方によって確認されています。

ナザレスと言う名前(地名)は、使徒言行録、使徒への手紙、旧約聖書のいずれの書、タルムード、または西暦66年にローマ人達に対してユダヤ人達が反乱した当時、ガリリーにおいて指令を与えられたジョセファス自身の記述にも、見つけられません。私達がこの地名を初めて聞くのは、学者達によって福音書の著者の一番最初、と考えられているマーク(マルコ)の記述の中においてです。洗礼者ジョンを扱う部分の後に、私達はこの節を有します:「そのころ、イエスはガリラヤ(ガリリー)のナザレ(ナザレス)から来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(1:9)。マークの例は、マヒュー(マタイ)とルーク(ルカ)によって続かれました。

私達はマークの福音書が何時記述されたのかの正確な知識は有しませんが、(それが西暦70年に起こったエルサレムの破壊への言及を含むので)聖書的な批評者達によって、西暦75年頃だと信じられています。当時、ナザレスの地理的な記録は、何処にも存在していませんでした。マークの福音書が「ナザレス」と言う言葉を、セクトでは無く地理的な位置に関連させる事を選択した事実は、イエスの生と死の説明を、ローマ的な枠組みに配置しようとした彼の試みの成り行きでした。それはその後、その位置が(特定の)場所と一致させられる効果を有し、それはその後巡礼の場へと変えられましたが、西暦6世紀までは、そうではありませんでした。

十字架は、イエスの象徴として認識されます。4冊の福音書は一貫して、イエスが磔にされたと述べます:「彼らはイエスを十字架につけると・・・」(マヒュー/マタイ27:35);「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて・・・」(マーク/マルコ15:24);「「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた・・・」(ルーク/ルカ23:33);「兵士たちは、イエスを十字架につけてから・・・」(ジョン/ヨハネ19:23)。ポール(パオロ)もまたこれを、イエスがそれによって彼の死に対面した方法と描写します:「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを・・・」(使徒言行録2:36)。これは、もしイエスがローマ時代に裁判にかけられ、死刑判決されたなら、人が予想する事でしょう。磔 - 人を十字架に釘打つ事は - 処刑の形状として、イスラエライト族では無く、ローマの風習です。イスラエライト族は、被告人を木から吊るしました:「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば・・・」(申命記21:22)。これは後に、詳細に検証されるでしょう。

タルムードは、私達が見た様に、イエスが磔にされ、吊るされたと言及します。これは重大な矛盾の様に現れますが、私達は実際に、新約聖書の中にもまた、イエスが磔にされたよりもむしろ、吊るされたと言う言及を見つけます。ピーターによって与えられたイエスの死は、例えば、こう読めます:「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが・・・」(使徒言行録10:39)。そしてポールは、前もって「磔」と言う言葉を使いながら、その後、こう宣言しているのが見つけられます:「人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」(使徒言行録13:29)。

故に、使用された言葉に関して、イエスがどの様に彼の死に面したかの、タルムード版と福音書版の間には、必ずしも矛盾があるわけでは無いと提案するのは可能で、そして「磔」と「絞首刑」を同一とみなす事が出来ます。後に、しかしながら、イエスの逸話をローマ時代に順応させ様と言う、福音書における、より肯定的な試みが成されました。福音書記者の中で最も神学的で、最も歴史的では無かったジョンは、絞首刑によるイスラエライト族の処刑よりもむしろ、十字架に釘を打つ、ローマの実施を好む、更なる詳細を加えました。それらの詳細は、キリストの復活の物理的/身体的な証拠を求めた、疑っているトマス(タムズ/テムズ)の逸話の中に見つけられます:「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ジョン20:25)。

イエスの逸話をローマ時代に当てはめようとする応用は、彼がどの様に彼の死に会ったのかの矛盾した説明に結果しただけで無く、彼を処刑した責任は - イスラエライト族の司祭達、それともローマの権威にあるのかの - 混乱に繋がりました。しかしながら、ラビ達は、イエスの死のための責任がある人の正体について、とても特定的です:「ピナス・・・が彼を殺した」( b. サンヘドリン、106b ) - そしてピナスは、アケナーテン(モーゼス)が、シナイ(半島)の荒野の安全において追放を求めた時に、彼と共に脱出した支持者達のグループ内の一人で、アマルナ(の街)において財務大臣であり、アテン(神)の主任祭司であったパネシー* と同じ、珍しいエジプト語の名前を持っていると同一視されました。

イエスは救世主では無いと否定したラビ達の記述と、彼の人生、苦悩、そして死の、福音書の説明の間の矛盾は、反キリスト教のプロパガンダ(扇動)として見られるべきではありません。タルムードを編集するにあたり、ラビ達が頼った権威(文献)は、モーゼスの法律と、旧約聖書の最初の5冊で、イエスがトーラと呼んだ、ペンタテュークでした。彼等は、元々、世代から世代へと、口述で語り継がれた、より古い伝統の重要性を説明し、そして不鮮明さと矛盾への解釈を提供する事は自由でしたが、彼等の法律はその説明において、僅かでも変化させる事を許しませんでした。彼等はベン・パンディラやピナスと言う名前を勝手に造る事は出来ませんでした。長い口述の伝統から結果した混乱にも拘らず、モーゼスとジョシュアの時代から由来する古い伝統を通して、ラビ達はイエス(太陽)と彼の処刑(冬至)の知識を持っていたはずです。

* 名前におけるその様な違いは、私達が扱って入るのは3種の言語 - ヘブライ語、アラマイック語、そしてエジプト語であると言う事実によって説明されます。

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