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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第12章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート2

王、キリスト


「・・・彼等は(ナザラス人の)イエスを吊るした・・・何故なら彼が魔法を行い、イスラエル(族)を迷わしたためで・・・[そして]右左に通った誰しもが、「王が磔にされた様だ」と言った。」
- タルムード、B. Sanh (サンへドリン), 43A T. Sanh, 9.7


第12章:福音書の創造者達

歴史的なイエスが、紀元前14世紀において、パネヘシーと言う名の祭司によって殺されたと言う明言は、彼が西暦1世紀に生き、苦しみ、そして死んだと言うオーソドックス(主流)の信仰を受け入れる、世界中の何百万人ものキリスト教徒達によって、様々な感情で出迎えられるでしょう。私達が次の章において見る様に、教会の初期の神父達は、イエスが2つの異なった時代に2度現れたと信じました。最初の出現を彼等は、スピリット的な事前-出現と解釈し彼等は、モーゼスに続いたイスラエライツ族の指導者、ヌンの息子、ジョシュア(ヨシュア)の形状において現れたと明言し、2度目の歴史的な出現は、洗礼者ジョンの時代の、ローマ(帝国)の支配の下で起こりました。私はこれらの2度の出現を受け入れますが、私は、最初の出現が歴史上においてであり、2度目がスピリット的な現れであると考えます。しかしながら、彼の弟子達が、その当時、彼が彼等に現れたと主張するのは確かですが、これが歴史的なイエスであったとする、主流的な見解を補佐する証拠は全く無く、その間、その考えは不穏かも知れませんが、彼がその何世紀も以前(紀元前14世紀)に生きて、苦しみ、そして死んだと言う、大量の証拠が、聖書自体からと、初期の教会の神父達の教えから、そして同時にエジプトの歴史から、指摘されます。

二千年前に、イエスが生きたと言われる時代に、パレスチナはローマ帝国の一部でした。ですが、直接、または間接的に、イエスの物理/身体的な出現を証言出来る、当時の記録は存在しません。更にもっと驚きなのは、ユダヤ人達がイエスをメシア(キリスト/救世主)として受け入れず、彼がデーヴィッドの末裔であった事を受け入れなかったにしても、彼等がイエスを知っていた事は、私達はタルムード的な記述から知っているにも拘らず、当時、エルサレム、またはアレクサンドリアに住んでいた、同時代のユダヤ人の著者達の記述において、イエスへの言及が全く無い事です。

それらが描写している出来事の、数十年後に記述された、マヒュー、マーク、ルーク、そしてジョン(マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネ)の福音書の初期版に基づいた主流のキリスト教的な見解は、イエスが大ヘロッドの時代(紀元前40-4年)に、ガリリー、またはジュデア(パレスチナ)で生まれ、彼の聖職は彼が30歳の時に始まり、そして彼の苦しみと磔は、ジュデアがローマの地方(支配下)に成り、ポンティウス・パイレート(ピラト)(西暦26-36年)がその監督者に成った3年後に起こったとします。その後、西暦4世紀の間に、キリスト教はローマ帝国の公式な国教に成り、彼の誕生日が西暦1年として設定され、キリスト教時代の幕開けとして受け入れられました。

ですが私達が、マヒュー、マーク、ルーク、そしてジョンの4つの福音書を歴史的な事実に照合しようと試みると、福音書自体が誤った幕開けを扱って入ると言う示唆から逃れる事が出来ません。私達は、イエスが何時生まれ、何時殺されたかについての同意を見つけられません。ですが最初に、私達は、確立された歴史的な事実を見てみましょう。

ローマの将軍ポンペイは、紀元前64年に、小アジア(トルコ近辺)とシリアの、ギリシャ人の統治者達を打倒し、その地域をローマ帝国の新たな領土にしました。この当時、ジュデア(パレスチナ)は、地方の統治者の下の独立的な地域(i.e. 植民地)として残る事が許されました。しかしながら、紀元前40年に、ローマの上院議会は、大ヘロッド(ヘロデ)に、ジュデアに加えて南はイドゥメア、北はサマリアからガリリーまで、そしてヨルダン(川)の東はペラエアまで、操作(支配権)を与えました。ローマの兵士で、政治家だったマーク・アントニー(マルコス・アントニウス)はその後、大ヘロッド(キリストの磔の当時にガリリーとペラエアの知事であったとされる彼の息子、ヘロッド・アンティパスとは混合しないで下さい)を、知事として任命し、そしてその3年後、彼は事実上、(その地方の)王に成りました。彼の地位は、紀元前31年に、エジプトの女王であったクレオパトラ(7世)と恋に落ちたマーク・アントニーを、アクティムの海戦においてオクタヴィアン(オーガスタス)が破った後に、承認されました。その4年後、上院議会は勝者、オクタヴィアンに、シーザー(カエザル)・オーガスタスの称号を与えました。これは、ローマ共和国が終焉し、地中海を囲み、さらに北の英国諸島とドイツを含む、ローマ帝国が始まった時点でした。

紀元前4年に、ヘロッドが死ぬと、彼の支配領域は、彼の3人の息子達の間で分配されました。しかしながら、ジュデア(パレスチナ)を統治した息子、アーケラウスは西暦6年にローマ人達によって退陣させられ、その地域はローマの直接の支配下に成りました。この時代以後、ジュデアはローマの代理長官達によって統治され、ポンティウス・パイレートは、オーガスタスに後継した彼の養子である、シーザー(カエザル/皇帝)・タイベリウス(西暦14-37年)の統治の間に任命された、5人目の長官でした。

4冊の福音書の著者達の内の2人、マヒューとルーク(マタイとルカ)だけが、イエスの誕生に言及しますが、彼等の説明は同意しません。マヒューは確かに、彼の誕生をヘロッドの時代に位置させます:「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(マヒュー2:1)。これが意味するのは、彼が、ヘロッドの死の前、紀元前4年以前に生まれたと言う事です。その後、ヘロッドは、彼が敵対視したユダヤ人達の王(イエス)が生まれた事を知り、不安にさせられ、「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2:16)。そうこうする中、マリー(マリア)の夫であるジョセフは、一人の天使によって警告されました「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(2:13)。ジョセフは、「ヘロデが死ぬまでそこにいて」 - 重要な明言 - 「「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった其処に留まりました(2:15)。

ヘロッドの死後、その天使は再びジョセフの前に現れ、そしてこう述べました:「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい:この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た」(2;20-21)。この説明が示唆するのは、私達が扱っているのが、ジョセフとマリーがイエスと共にエジプトへと逃れた際、彼が未だ赤子であったとても短い期間で、ヘロッドの死を知った後に、彼等がジュデアに戻った時、彼は未だ「幼子」であったと言う事です。

ルークは、彼の書において、「ユダヤの王ヘロデの時代」(ルーク1:5)に生まれた洗礼者ジョン(ヨハネ)に、イエスの誕生を関連させます。私達はジョンの父、ザッカライアスが、一人の天使によってこう教えられたと知ります:「「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)。その逸話は、エリザベスの妊娠の6か月目に、「天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤ(ガリリー)の町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである:そのおとめの名はマリアといった・・・すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない:あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる:神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(1:26-27,30-32)。

此処でルークは、その宿に部屋が無かったので、ベツレヘムの馬屋(飼い葉おけ)の中でイエスが生まれたと言う、親しみのあるクリスマス(i.e. 冬至)の逸話を伝えますが - この出来事を大ヘロッドの死後、数十年に位置付けることによってマヒューと彼(ルーク)自身の、その前の説明と矛盾します:「 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。(これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。)人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフも(ダビデの家に属し、その血筋であったので、)ガリラヤの町ナザレ(ナザレス)から、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」(2:1-4)。私達は、ローマの記録から、この出来事が、キリニウスがシリアの知事として任命され、そしてジュデアがローマの一部に成った、西暦6年以前に起こる事が出来なかった事を知っています。その他の非聖書的な記録から証言された、西暦6年における住民登録の目的は、新たな地方、ジュデアが貢がなければならない貢物(i.e. 税金)の量を査定するためでした。

この時点までに、私達にはイエスの誕生の日付けのために可能性のある2つの年 - ヘロッドの死の年以前の紀元前4年と、住民登録の調査の年、西暦6年が提供されました。ルークの記述の次の章の中で、4冊の福音書の全てが記録する、イエスがその直後に、彼の聖職を始めた、ジョン(ヨハネ)による彼の洗礼を描写する時に、私達は3つ目の日付けを提供されます:「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルーク3:1-3)・・・「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(3:21-22)。

タイベリアスは西暦14年に皇帝に成ったので、これはイエスの洗礼を西暦29年に位置付けます。ルークはその後、こう述べます:「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」(3:23)。もし、西暦29年に、彼が30歳位なら、紀元前4年における大ヘロッドの統治の終わり、または西暦6年の住民登録に当時、キリスト教の時代以前の時代の終わりの最後の年以前に、彼が生まれたと言うのは不可能です。ローマのカトリック教会(i.e. ヴァチカン)が、この年を世界の歴史における変換点 - 私達の主の最初の年 -とする事を促したのは、疑う余地無くこの説明でした。

磔のための正確な日付けを見つけようと試みる時、類似した問題が派生します。4冊の福音書の全ては、ポンティウス・パイレートが、ジュデア(パレスチナ)の知事であった時(西暦26-36年)にそれが起こったと同意し、そして当時のエルサレムのユダヤ的な(地区の)高祭司はカイアファと名指しされ、その他の文献からも、西暦18年から37年まで、その役職を務めたジョセファス・カイアファとして知られています。その状況は、イエスの聖職/宣教がどれだけ長く続いたかについて、福音書が同意しない事実によって、更に複雑にされます:マヒュー、マーク。そしてルーク(マタイ、マルコ、そしてルカ)は1年を主張し、そしてジョン(ヨハネ)は2年、または3年を主張します。

新約聖書の学者達の殆どは、イエスが西暦30年頃に死んだと同意します。もしこれがそうであるならば、彼が大ヘロッドの統治の終わりの付近で生まれ、そしてヘロッドが2歳児未満の男子を殺す事を命じたために、少なくともその神聖な家族が2年間、エジプトへと旅した事を私達が考慮すると、当時の彼の年齢は36歳かそれ以上で、もし彼が西暦6年の住民登録の時代に生まれていたなら25歳で;そしてもし人が、彼の洗礼と彼の宣教の始まりの歳の、ルークの説明を受け入れるなら、31歳です。

知られている歴史的な事実に基づいて、此処までの論議をまとめると、福音書の中でイエスとして私達に紹介される人物について、私達が確かであると出来る全ては、ローマの上院議会がオクタヴィアンを皇帝オーガスタスとして任命した年、紀元前27年と、オーガスタスの後継者、タイベリアスの死の年、西暦37年の間に、生きて死んだと言う事です。しかしながら、もし福音書のイエスが、パレスチナをローマが統治した時代に生き、苦しみ、そして死んだなら、当時の3人の著名な著者達 - ファイロ・ジュデアス、タイベリアのジャスタス、そしてフラヴィウス・ジョセフスの記述において、彼の名前が現れないのは奇妙です。

紀元前15年に生まれ、磔のほぼ20年後に死んだとされるファイロ・ジュデウスによって残された38冊の研究(歴史書)の場合におけるこの(イエスの名前の)欠落は、特に驚きです。ファイロは、高い地位で、有名な人でした。彼の兄弟は、アレクサンドリアのユダヤ・コミュニティーの代表者で、彼の息子はヘロッド王の孫娘と婚姻し、そしてファイロ自身も、アレクサンドリアのユダヤ寺院に、帝国的なイメージ(皇帝の肖像、等々)を置き、崇拝する様にユダヤ人達に命じた、彼自身が神であると信じた、ローマの3番目の皇帝、カリギュラ(西暦37-41年)に対して、その命令を撤回するよう求める、使命の代表として選ばれました。

ユダヤ人ではありましたがファイロはまた、ギリシャの哲学者、プラトンの支持者でもあり、ギリシャの教義と旧約聖書の啓示を融合させようと試みた、新プラトン主義派の最初として知られています。彼の研究(著書)は、キリスト教的なアイデアとの親密な類似性を持っていると認識され、そして多くの学者達が彼を、ギリシャ的な思考と新約聖書の、連結するリンクとして見解しました。幾らかの学者達は、ファイロの哲学が、聖者ポール(パオロ)の考えに類似しているとさえ提案しました。

キリスト教的な思考との親密なリンクにも拘らず、私達はファイロの研究(本)の中に新約聖書の登場人物、ポンティス・パイレート、たった一人しか見つけられず、イエスについては何も記述されていません。福音書の中で頻繁に記述されるガリリー海の西の海岸線にあるタイベリアス(の街の)ジャスタスとも同じような話しです。ジャスタスは、大ヘロッドの歴史を記述しました。彼は、イエスについての言及、またはヘロッドの、2歳児以下の全ての子供達を殺せと言う命令についての言及を、何処にも残しませんでした。彼の研究(著書)は今現在、失われてしまいましたが、イエスについての記述が全く無いと確認した、西暦9世紀においてコンスタンチノープル(イスタンブール)の司教だった、フォティウスによって知られていました。

パイレートの法/行動と呼ばれる幾つかの記述が数世紀後に現れましたが、イエスと彼の裁判についての、ポンティス・パイレートによる、公式な報告は全く存在していません。それら(パイレートの法/行動)は、ナザラス(の街)のイエスの説明を含んでいました。しかしながら、それらは、彼等の主の歴史性を証明する事を望んだキリスト教徒達、またはその宗教を攻撃する事を望んだ、キリスト教の敵達のどちらかによる偽書である事が証明されました。

ローマ時代の記述におけるキリスト教の最初の言及は、ローマの皇帝達の友人で、彼等の下で役職を務めた歴史家達、スエトニウス、タシタス、そして小プリニーの研究の中に見つけられます。その一番最初はスエトニウスによるもので、彼は西暦69年頃に生まれ、14番目の皇帝、ヘイドリアン(西暦117-138年)の秘書として仕え、そして故に帝国的な記録保管所を利用する事が出来ました。彼の主要な研究、西暦120年頃に出版された、シーザー(皇帝)達の人生は、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエザル)と彼に後継した11人の皇帝達の統治の説明を与えました。キリストについての記述は、カリギュラの暗殺の後に、4番目の皇帝として即位した、クラウディウスの統治における出来事を、その著者が記述する、第25章の中で、スエトニウスが、西暦49年にローマにおいて起こった反乱を、端的に記述した時に起こります:「クレスタス( Chrestus/キリスト)の指導の下、ユダヤ人達が一貫的に暴動を起こしたので、彼(クラウディウス)は、彼等をローマから追放しました。」福音書の光(説明)において、当時の、旅のゆっくりな本質を与えられると、これは驚く程早い日付け(年代)です。

クレスタスはローマにおいて一般的な名前で、ギリシャ語のクリストスの代理のはずで、その2つの名前が同じように発音されたためで、そしてスエトニウスは - 誤って - 当時、キリストと呼ばれた誰かが、ローマにおいて暴動を指導していると考えたのでしょう。ローマにおけるこれらの問題は、ローマによる圧政の結果では無く、メシア(救世主/キリスト)が既に現れたと信じたユダヤ人達(キリスト教徒)と、未だ現れていないと信じたユダヤ人達(ユダヤ教徒)の間の内部的な抗争でした。これらの問題のエコー(影響)は、使徒言行録(18:2-3)の中で見つけられ、其処で私達が読むのは、クラウディウスの法令によってローマから追放されたユダヤ人、アクイラと、彼の妻プリシラが、コリントにおいてテントを造る商売を始め、其処でポール(パオロ)に出会った事です。スエトニウスの記録は、ローマにおけるキリストの支持者達についての、最古の記述ですが、それは歴史的なイエスには言及しません。

ファラヴィウス・ジョセフィスの記述がギリシャ語からラテン語の翻訳された後、その言及がポンティス・パイレートだけでは無く、洗礼者ジョン(ヨハネ)、イエス、そして彼の弟、ジェームズへの言及を含んでいた事を学ぶのは、その状況において、キリスト教徒達にとってはせめてもの救いでした。ジョセフィスは、磔が行われたと言われる少々後の、西暦37年に、パレスチナの祭司的な一族に生まれたとされます。彼の人生の後期に、彼は11番目の皇帝、ドミティアン(西暦81-96年)の時代に、ローマに移り住んだとされます。其処で彼は、残っている本がある意味、キリスト教時代の最初の世紀の間の、シリア/パレスチナにおける出来事の詳細の、私達が有する唯一の源泉である、長い歴史的な研究、ユダヤ人達の古い歴史の20冊を記述しました。

その第18巻の中で私達は、ナバテア(の街)のアラブ人の王、アレタスと、死海の南と東の、ガリリーの知事、大ヘロッドの息子、ヘロッド・アンティパスの間の戦争の説明を見つけます。その争いの原因は、アレタスの娘と婚姻したヘロッド・アンティパスが - 彼の義理の姉妹、ヘロディアスを - 新たな妻として迎え入れるために、彼女(アレタスの娘)を彼女の父に、送り返した事実に起因しました。それに続いた戦争において、ヘロッドの軍は壊滅されました。ユダヤ人達はこの敗北を、「ユダヤ人達に、美徳を教え、お互いに対して誠実であり、神に対する敬意を行う事を教え、洗礼に来るように促した、善き人であった洗礼者ジョン(ヨハネ)を殺した、ヘロッドへの、神の裁き」として見解しました・・・

洗礼者ジョンは、流れる川における浸水を、罪の洗い流しに結び付けました。彼の洗礼は神聖なお許しのサインとして見られ、罪のための生贄を捧げる行為の代理として考えられた様です。それは、しかしながら、イエスの洗礼とは異なっていました。

新約聖書の中で、イエスはこう述べたとされます:「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊(オイル)による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:5)。実際に、福音書によると、使徒達は、ジョンによって行われた水による洗礼の種を続けましたが、彼等はそれが内的な改心によって先行される必要性を強調しました。イエスのその他の支持者達もまた、ジョンの洗礼しか知らなかったと描写されています:「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った(使徒言行録19:1-3)。

故に、神聖な精霊の認識は、初期のキリスト教の洗礼の、新たな要素であった様です。ポール(パオロ)自身は、復活したイエス(i.e. 太陽)における儀式と信仰を統一する象徴的な重要性を定義した最初でした。それは故に、キリストと供の、スピリット的な人生への入門で:罪の汚れは、水によって洗い流されるのでは無く、イエスの死と、彼の復活(太陽の死/冬至と、復活/春分)によって洗い流されました。このコンテキスト(文脈)において、福音書の3冊が、イエスはジョンによって洗礼されたと言う説明を与えるのは奇妙です。

ジョン(ヨハネ)の罪のお許しの約束は、イスラエライト族の間でとても人気があったのは驚きでは無く、そしてヘロッドは、彼の宣教を聴く為に集まった、熱狂的な集団によって不安にさせられました:「人々に対して多大な影響力を持ったジョンが、彼の力を利用し、(彼が助言すれば、人々は何でも行いそうだったので)反乱を恐れたヘロッドは、彼が原因しそうなあらゆる問題を防ぐために、彼を殺す事が最善であると考えました・・・」このジョセファスによる説明は、洗礼者ジョンを歴史的な人物であると確立する間、イエスへの言及を含まないだけで無く、ジョンが彼(イエス)のために「その道を整えていた」と言う福音書の明言のための補佐を、全く供給しません。

しかしながら、ジョセファスは、彼の裁定の座に座っていたパイレートが、彼の妻の慈悲への懇願にも拘らず、イエスが磔にされるために、エルサレムの大衆へと、彼を引き渡したと言う、福音書の逸話の証拠を供給しますが(マタイ27:19-23)、想像的な記述の一部としか考えられません。ローマの軍体はエルサレムに駐屯していましたが、知事の住居と裁定の座は、ヘロッドによって再建され、新たな名前が与えられた太古の街、70数マイルはなれたカエザリアの港にありました。ヘロッドの死の2年後、西暦6年から、それはジュデア(パレスチナ)におけるローマの代理長官の座と成り、何世紀にも渡り、ローマとビザンチンの支配下のパレスチナの首都でした。

ジョセファスはまた、その第18巻の中で、西暦26年に役職に就いた直後、パイレートが、夜の内に、皇帝タイベリアスの肖像を描いた軍旗を持った軍隊を、エルサレムの寺院に送り込んだ事を記録します。パイレート自身は、しかしながら、カエザリアに残り、そして何が起こったのかを発見し、激怒したエルサレムの市民達は、軍旗の排除をパイレートに求めるために、海岸線への長旅をしなければなりませんでした。実際に、第18巻の書の中のもう一つの出来事が、パイレートが1度でも、エルサレムを訪れたと言う、唯一の示唆です。彼の訪問は、ジョセファスによると、近隣のヘブロンからその街に、水をもたらす計画によって開始されました。それが、寺院の財政からのお金で融資されたために、その計画に反対したユダヤ人達は、「彼に対して大抗議を起こしました。」最終的にその大規模な集団が解散する事を拒んだ時、パイレートは短剣で武装した軍の兵士達を彼等に放ち、そしてその兵士達は、「パイレートが命令したよりも過剰な暴力を、彼等に与えました。」カエザリアの地位は、ユダヤ人達がポール(パオロ)を殺す事を望んだ時に、エルサレムにおいて彼(ポール)が、ローマの兵士達によって救出された、後の使徒行伝の中で確認されます。その兵士達はポールをカエザリアへと連れて行き、新たな代理長官、フェリックスに彼を手渡し、彼(フェリックス)は彼(ポール)を、その問題の正義と不義を吟味する間、2年間、彼を投獄しました。

その状況において、イエスが実際に第18巻の第4章の中で記述されていると言うその後の発見は、キリスト教徒達にとっての大いなる慰めの源泉でした。その文章はこう読めます:

「さて - 喜びと共に真実を受け入れた、その様な人々の先生 - 彼は素晴らしい働きを行う者だったので、彼を人と呼ぶのは正しいか解りませんが、一人の賢明な人、イエスが現れたのはこの当時でした。彼は多くのユダヤ人達と、多くのジェンタイル(非ユダヤ人達)の両方を彼に引き寄せました。彼が(唯一の)キリストで;私達の中の代表的な人達の提案で、パイレートが彼を磔の刑にした時、彼を愛した人達が最初に彼を見放さなかったのは、彼(太陽)が(冬至の)3日後に再び生きて彼等に現れたためで、神聖な預言者達がこれらと、彼に関するその他の一万の素晴らしい物事を事前に伝えたためで;キリスト教徒の集団は、彼に由来してそう名付けられ、今日まで絶滅していません。」

この文章は、当時、イエスが生きた事を指摘している、西暦1世紀からの唯一の外的な証言として、中世の間、大いに大切にされました。残念な事に、それはその後、イエスの誕生、苦しみ、そして死についてのその歴史家の沈黙によって欲求不満にさせられたキリスト教徒のコピー家、または編集者によって、ジョセファスの記述の中に加えられた偽書であると、16世紀において暴露され、困惑に成りました。ジョセファスの本が出版されてから2世紀と4分の1世紀(225年)後まで、この文章は全く記述されていません。それ(イエスの名前)は、早期のキリスト教会の神父/創始者で、その記述がキリスト教の全ての要素を含み、そしてジョセファスの記述を熟知していたオリゲン(西暦185-254年)の記述にもありません。彼自身の記述の中で、洗礼者ジョンの生と死の説明は、ユダヤ人達の大昔の第18巻の中に見つけられると彼は言及しますが、もしイエスが洗礼者ジョンと同時代だとして、イエスへの言及は全く無いのは、彼(イエス)を信じていた人による奇妙な省略です。この証言を最初に明言した人は、西暦320年頃に書かれた、福音書の彼の実証の中で - 彼自身の時代までの聖職的な歴史を実際に書いた、もう一人の早期の教会の神父 - エウゼビウスでした。

その文章の文献的な批評は、3つの分類に当てはまります。まず最初に、「もし彼を人と呼ぶのが正しいなら」は、オーソドックス(主流/当時のカトリック)のキリスト教徒による、イエスはまた神聖である事を思い出させる試みに見え;第2に、「彼は(唯一の)キリストであった」と言う文章は、イエスがユダヤのメシア(救世主)であったと言う実直な告白の様ですが、ジョセファスの場合、オリゲン自身が、彼の本の一つ、セルシウスに対しての中で、そのユダヤ人の歴史家を、「私達のイエスをキリスト(救世主)として受け入れていない」と描写するので可能ではありません。;そして第3に、イエスの復活への言及は、その筆者がそれを信じていた事を示唆します。更に加えて、ジョセファスがイエスの支持者達を、「キリスト教徒達の部族(集団)」と呼ばなかったはずなのは、これが、ユダヤ人達が彼等を言及した言い方では無かったためです。西暦7世紀に、ジョセフ・ビンガム牧師によって既に気付かれた様に、ユダヤ人達は、キリストの支持者達を「キリスト教徒」とは呼ばず、「ナザラス派」と呼び:聖者ジェロームとエピファニウス自身が観測する様に、「ナザレス派」は、彼等によってナザレス人の信仰が形式化された彼等(キリスト教徒達)に対して、最初にユダヤ人達によって与えられた、批判的な名前で・・・非難の方法としてナザラス派として呼ばれました・・・(聖職の起源;または、キリスト教の教会の昔話、ジョセフ・ビンガム牧師の研究、第1巻、オックスフォード、1855年、12ページ)。これらの理由のために、学者達はその文章が、西暦3世紀のオリゲンの時代、そしてその1世紀後のエウゼビウスの時代の間に、キリスト教徒のコピー家、または編集者によって改竄されたと結論しました。

1906年に、もう一つのジョセファスの本、ユダヤ戦争の、長い間忘れられていたスラヴ語(古ロシア語)のヴァージョンが発見された時に、大いに盛り上がりました。ユダヤ戦争は、ユダヤの昔話よりも、20年前であるだけで無く、イエスへのもう一つの言及を含んでいました。彼は「不思議を働かせる人」として表現され、彼の支持者達によって、ローマに対する反乱を指導する様に後押しされたと描写されます。当初、このロシア語の翻訳は、今は失われた、元々のジョセファスのアラマイック語の文章から成されたはずだと考えられました。しかしながら、慎重な検証の後、それが、西暦12世紀頃に、ギリシャ語の文献から派生した事が明らかに成りました。その中には、セム語-アラマイック語的な熟語の名残は見つけられず、イエスについての部分の最初は、この章の始めに記述された、改竄された証言の拡張されたヴァージョンでした。英国の学者、F. F. ブルースは、彼の著書、新約聖書外の、イエスとキリスト教の起源の中でこう指摘します:「実際に、それらはジョセファスが書いたものの一部では全く無く、古いロシア語の翻訳が成された、ギリシャ語の文献へと改竄されたものである事は、文学の批評的な領域において何よりも明らかです。」

イエスについてのもう一つの記述は、西暦62年頃に、ローマの代理長官フェスタスがその役職においてどの様に突然死し、彼の後継者、アルニウスの、ジュデア(パレスチナ)への到着まで、3か月間が過ぎたと言う、ジョセファスが言及する、ユダヤ人達の昔話の第20巻の中で起こります。その間、高祭司、アナウスは、この好機を彼の政敵を排除するために利用し、サンへドリン(最高裁)を招集し、彼等が法を犯している事を追求し、投石による死刑を命じました。処刑された人達の中にいたのは、ジェームズと言う名前の人で、イエスと言う名前の兄弟を持っていた人でした。市民達がこの不法的な処刑について、アルビヌスに抗議した時、彼はアナウスをクビにし、彼の代わりにイエスを高祭司として任命しました。彼の主張を強調する良い機会だと気付き、後のキリスト教徒のコピー家、または編集者は、「イエスの兄弟、ジェームズ」と言うフレーズに、「キリストと呼ばれた」と言う文章を加えました。

私達が以前に見た様に、ナザラスのイエスの説明を含む、パイレートの法/行動と呼ばれる記述の幾つかは、彼等の主要な歴史的事実であると確認する事を望んだキリスト教徒達、またはその宗教を攻撃しようと望んだ、キリスト教の敵達のどちらかによって産出された偽書である事が暴露されました。私達は故に、ジョセファス(の記述)の中の、洗礼者ジョン(ヨハネ)の人生と処刑の説明が、実際の歴史的な出来事として、学者達によって受け入れられている間、(一般的に)受け入れられている感覚で、イエスのために「道を用意した」事に、彼(ジョン)をリンクさせる物は一切無く、そして私達がユダヤの歴史家達の文章に加えられた改竄を一度取り払ってしまうと、私達は彼(イエス)の人生、苦しみ、そして死についての、同時代の証拠を全く有しません。西暦1世紀の初めのパレスチナにおいて、イエスの存在を証言する、ローマ、またはユダヤの同時代の記録は一つもありません。それにも拘らず私達は、聖者ポール(パオロ)の様な彼の弟子達に、彼のスピリット的な形状において、キリストが現れたと報告する、この時代からの証言を有します。

これは、この本の第3部の中で検証される、その状況の下でイエスの人生の偽りの様に見える説明が書かれ、そしてそれらを鼓舞した動機への問いを浮上させます。

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