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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第11章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第11章: 真鍮の蛇


もし、モーゼスとアケナーテンが同一人物で、四半世紀後に成るまで、エジプトからの彼等の出エジプトにおいて、イスラエライト族を導か無かったとしたら、シナイ(半島)の安全へと彼が退位し、避難した原因と成った革命と暗殺の可能性の危機から、彼が生き残った事が必然的に続きます。しかしながら彼が、彼の父、アメンホテップ3世と、合同統治を分かち合ったか否かは、沢山の学術的な題材に成って来ました。

その入り口が、ほぼ、東に向いている、アケナーテンのために用意されたお墓は、1891年の12月に、イタリア人の考古学者、アレッサンドロ・バッサンティによって、アマルナの横の峡谷の中で発見されました。それは、その王の敵達によって荒らされ、後の墓泥棒達によって、盗掘されました。アマルナにおける更なる調査は、1892年(バッサンティ)、1894年(ミッション・考古学フランス)、1931年(太古の奉仕のために行われた、発掘するために初めて招待された英国の組織、エジプト探究会)、そして1931年(太古の奉仕)によって行われました。

発見された遺物 - 蓋のある石棺、ウシャビ(お葬式の像)、そして(王族の内臓を保存するために使われた)キャノピー的な箱 - は、全て、王の死の前に、通常、お墓に入れられるものでした。その発見された破片からその蓋が復元されると、その石棺の大きさは、それが王族のミイラを保護する棺桶の連続の一番外側であった事を示唆しました(後に発見された、ユヤ(ジョセフ)とツタンカーメンのミイラは、両方とも3重の棺桶に包まれていました)。ですが、その証拠は、アケナーテンの敵達が、そのお墓の中の全てを粉々にした事を示唆しますが、アマルナ政権が終わった後にどれだけ大きく固い物が小さな欠片にされたとしても、普通の埋葬の遺品であるはずの、その他の棺桶も、通常の社(やしろ)、またはキャノピーの残骸は、全く見られませんでした。アケナーテンが、そのお墓に始めから埋葬されなかったと言うアイデアは、通常、王の死後に唯一王族のお墓に埋蔵された遺品 - 二輪馬車、王座、箱など、魔術の煉瓦とお守り/魔除け - などの、その他の遺品が全く見つけられなかったと言う事実によって強調されました。

1931年の発掘調査の隊長だった、ジョン・ペンドルブリーは、彼の著書、「アマルナにおける王族のお墓の発掘」の中で、後に、重要な観測を行いました:「テーベのティエの隠し場の中で発見された、アケナーテンの遺体と呼ばれるものの・・・見解において」 - 彼は、元々、アケナーテンのものと考えられた、お墓番号55から発見された(アケナーテンの弟)、セメンクカレの遺体に言及していました - 「(それは)実際に、彼では全く無く、アケナーテンが本当にエル・アマルナに埋葬されたのか、そして、もしそうなら、王族のお墓においてか、むしろその他の場所なのか、全ての証拠を収集する事を試みるのが必須でした。」そのお墓の中で発見された遺品を簡単に説明した後、彼は続けてこう述べました:「その角にある、保護しているハゲワシ(の装飾)は、王の頭(の装飾)で蓋をされた、アケナーテンの素晴らしい石膏製のキャノピー的な箱が・・・一度も使用されなかった証拠を与えるのは、アメンホテップ2世やツタンカーメンの場合とは異なり、それが黒い樹脂的な物質* によって、汚されていないためで、そして加えて興味深いのは、」 - 合同統治が始まった直後に - 「それがアテンの早期の名前の形状で記述され、その間、石棺のものは全て後期のものだった事です。」

ペンドルブリーが此処で記述しているのは、お葬式の儀式は、キャノピー的な箱も含めて、お葬式の家具(埋蔵品)が黒い液体によってアノイントされる(塗られる)必要があったのに、彼の発見した遺品にはその様な染みの跡が全く見られなかったので、彼はそのお墓が全く使用されなかったと結論しました。これが意味するのは、アケナーテンが、アマルナのお墓に全く埋葬されてい無かった事で、その見解は、通常、埋葬の時に置かれるキャノピー的な壺自体の破片のいずれにも、その様なアノインティング(塗る儀式)の跡が全く見つけられなかったと言う事実に補佐されています。このアイデアは、キャノピー的な箱は、アテンが彼の新たな名前、シュとラーの抽象的な記述を得た、王の統治9年目の初期以前に造られ配置された事を示唆する、アテンの早期の名前の使用によって強調されています。

ペンドルブリーの結論は、後に、ペンドルブリーによって発見された破片からアケナーテンのキャノピー的な箱を1939年に復元した、エジプト人の考古学者、ムハメッド・ハムザによって確認され、その後記事の中でこうコメントされました、「アケナーテンの石膏製のキャノピー的な箱」:「アメンホテップ2世、ツタンカーメン、そしてホレンヘブのものが、黒い樹脂の滑材の対象とされていたのとは異なり、その箱が全く汚れていないので、それが王の内臓のために一度も使われなかった可能性が高いです。

ペンドルブリーとハムザによって提示された考古学的な証拠の結果として、殆どのエジプト学者達は、アケナーテンが、彼のアマルナのお墓に埋葬されたと言う事は出来ないと言う結論を受け入れましたが;それでも彼等は、彼が権力から失墜した年、彼の統治17年目(紀元前1361年)に彼が亡くなったと未だに信じました。英国のエジプト学者、アラン H. ガーディナーの様な何人かは、彼が全く埋葬されず、彼の「遺体は粉々に切り裂かれ、犬達に与えられた」と言う見解を取り:アーサー・ウェイガルやシリル・アルドレッドの様なその他の者達は、彼がテーベ、またはその他の場所において埋葬されたはずだと考えました。

* ミイラ化の行程において、体から取り出された心臓、肺、そしてその他の内臓。


彼の統治17年目における彼の死の証拠が何も無い中、その中心の問題は:アケナーテンが実際に生き伸びた事を示唆する肯定的な証拠は何か?です。一つの形状、またはその他で、かなりの量のが存在しています。その多くは、学術的な論議の題材で、頻繁にとげとげしいものでしたが、一例においては改竄の非難に繋がりました。アケナーテン(モーゼス)が生き延びたと仮定して - 当時のエジプト的な風習を考慮して、出来事のその後の成り行きを人が予測すべき事を、もし私達が簡単にまとめると、それはその問題を単純化する手助けをします。

アケナーテンが、彼の統治17年目に退位したと私達が言う時、私達は近代の行事を表現している近代の用語を使用します。しかしながら、エジプトのファラオ達は、民や議会からでは無く、神々から権力を得ました。彼の誕生の時から、その王は国家の主要な神である、アムン・ラーの息子として考えられて、そして統治する事が運命づけられていました。即位させられると彼は、神々によって彼に与えられた国である、彼の相続の所有権を取り、そして彼が死ぬその日まで、所有権を保ちました。

彼の行動として、アケナーテンは、彼が彼の父と考えた、アテンの名の下で統治しました。しかしながら、例え追放されたとしても、彼が生きている限り、彼はアテンの支持者達によって、正当な統治者として考えられていました。彼の退位の後、アケナーテンの統治15年目に、合同統治者として任命された彼の後継者、セメンクカレは、テーベにおいて暗殺されるまで、数か月、もしかしたら、数日しか統治しなかったと考えられています。彼は、順を追って、当時、ツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)と名付けられていた、アケナーテンの息子、少年王ツタンカーメン(トゥト・アンク・アムン)によって引き継がれました。もしファラオとしての彼の統治が、彼の父(アケナーテン)がまだ生きている間に始まり、そして正当な統治者として考えられていたなら、彼(ツタンカーテン)は古い王から、彼の権威を取ったと言われる事が出来たでしょう。しかしながら、その状況は、彼の統治4年目(紀元前1358年)に、彼がアマルナを見捨てテーベに遷都し、彼の名前をツタンカーメン* に変えた時に変化しました。

アムンの神官(官僚)達は、昔の風習へのこの回帰を、新たな即位の儀式と共に受け入れました。故に、この時点において、アテンはエジプトにおいて何の統治の権力も有さず、与えるための国も持たず、そしてアケナーテンは、この瞬間から、それ以後、正当な王とは、もう考えられる事は出来ませんでした。

エジプト人達は、それぞれの王の年月を別々に計算したので、もし合同統治が無かったのなら、新たな王の最初の年は、彼の前任者の最後の年の後に、唯一始まりました。もしアケナーテンが彼の統治17年目において退位したにも拘らず、その4年後まで、王では無く成ったとして見られていなかったのなら、人はこの出来事を確認できる、何らかの記述された証拠を予測出来るはずです。

アマルナの発掘者達に発見されたヒエラティック(続け書きの文献)の明細書** 、番号279は、2つの異なった日付け - 17年と1年を与えます。これは、英国のエジプト学者、H. W. フェアマンによって、以下の様に説明されました:「それが記録するのは、故に、名前を上げられていない王の初年度と、それに続くもう一人の名前を上げられていない王の17年度です。その後者がアケナーテンである事に疑う余地はありません。セメンクカレの初年度は、恐らくアケナーテンの統治15年目だったので・・・初年度が、彼のものであった事は殆ど無いでしょう、故にその明細書は、ツタンカーメン(i.e. ツタンカーテン)の初年度に割り当てられなければならないでしょう。」私が知る限りこれは、王が彼自身の日付けを、前任者の統治が終わりに来た後に、同じ文章の中に記した、初めての例です。ですから、もし合同統治が無かったのなら、どうしてアケナーテンの統治17年目はまた、ツタンカーメンの統治1年目と考えられたのか - つまり、ツタンカーメンが王座に就いた時、アケナーテンは未だ生きていたのではないでしょうか?

* 彼は、エジプトの古い寺院を再開しようと決断した時に、彼の名前を変えました。アムンが第18王朝の公式な神だったので、その一族の全ての一員は、アムンの息子として考えられました。

** その明細書は、この場合、土器の上の記述です。

アマルナにおいて発見されたもう一つのヒエラティックの明細書は、特定の学者達の不誠実な非難に結果しました。その論争の本質は、この明細書が、アケナーテンの統治11年目、または21年目に言及しているのか?でした。この明細書の模写は、1923年に、「[アケナーテンの]統治が17年目を超えて延長したと言うその他の証拠が無いので」その明細書の日付けを統治11年目とした、英国の考古学者、バティスコム・ガンによって描かれ、公表されました。

数字10のためのそのヒエラティックの文字は、逆様の「 V 」で、そして20のために、逆様の「 V 」が2つ、お互いの上下に並んでいて、この場合、それらの横に数字の1がありました。その明細書は完全な「 V 」と、その上のもう一つの「 V 」を見せ、それはアメリカの学者、キース C. シールに、その日付けは「21年目」と読まれるべきだと、正しく納得させました。彼は、英国の学者達が、意図的にその証拠を避けていると言う非難さえもしました:「アケナーテンの実際の運命は不明ですが、彼が失踪したのは、彼の統治21年目、もしくは更にその後だったのは示されています。アマルナにおける発掘者達であるエジプト探究会を含めて、エジプト学者達の幾らかは、彼に17年間しか許しません。」

世界中の多くの学者達は、シールによる主張によって納得させられる様に成りましたが、その問題についての論争は、数十年に渡り続き、証拠の偏見の無い検証の邪魔をする、学者達の先入観の、確定されていない数々の例の内の一つでしかありませんでした。フェアマン自身も、1930-31年に、アマルナで発掘していたエジプト探究会の一員が、複写する事を任されたオストラカ(土器の像)の一つの上に、(統治)18年目と読む事が出来たと、後に考古学的なジャーナルの中の記事で明かしました。しかしながら、フェアマンは、この「オストラコンの(統治)18年目は、信用出来ず、価値が無いと、否定されるかも知れない。」と言う独断的な見解を取りました。彼はその後、「そのオストラコンは保存されず、ラフな模写によるとこの解読ははっきりと間違いです、」と説明しました。フェアマンは、私達に、物議をかもし出したオストラコンが失われたと伝えているのでは無く:彼は、それが「保存されなかった」と言っていて、つまり、捨てられたと言う事です。このオストラコンが、異なった解読を与えたので、対照的に、(普通の)人は、それが更なる検証のために、大切に保管されるべきだと考えるでしょう。代わりに、私達が唯一有するのは、元々の解読が正しかったか、間違いだったかについての、フェアマンの独断(と偏見)だけです。

アケナーテンの生き残りの更なる証拠は、元々誤ってアケナーテンのものとされましたが、十分に補佐する証拠が示唆するものが、その他にはいなかったので、最終的に彼の(弟で)合同統治者、セメンクカレと判断された、お墓番号55の遺体を検証した、カイロ大学の解剖学の教授、D. E. デリー教授によって供給されました。彼の調査についてのその後の記述の中で、アケナーテンの統治は、「日付けを記述するエル・アマルナのモニュメント(構造物)における、ペンドルブリーの最近の発見によって(統治)19年目まで延長され、これは20年目まで延長されるかも知れないと言う、更なる可能性を示します。ペンドルブリー氏はとても親切に、未だに公表されていないこれらの事実を、私達が使用する事を許可してくれました、」と指摘しています。ペンドルブリーは、彼の情報の源泉を公表出来る前に、第二次世界大戦の中、クレタ島でドイツ人達に射殺されてしまいました。

もう一つの重要な証拠の破片は、お墓番号55の周りに配置された、4つの砂利っぽい泥の乾かされた煉瓦によって供給されました。そのお墓のその他全てと同様に、それらは湿気の効果によって風化させられましたが、その機能が墓嵐しから、死者を保護する事であった、それらのレンガの少なくとも2つの上に、アケナーテンの名前が読み取れました。その4つの煉瓦は、それらの保護の機能を達成するために、ミイラに関連して特定の位置に、それぞれ配置されました(i.e. 魔術を通して、埋葬の場所に邪悪な存在が入る事を防ぐためです)。

元々、アケナーテンに帰属した魔法的な煉瓦が論争の題材では無く、それらがお墓番号55において発見された事実は、その遺体が元々、セメンクカレでは無く、彼(アケナーテン)であるとエジプト学者達に信じさせた要点でした、すると何故、アケナーテンの名前を削除する試み、またはセメンクカレの名前を記述する試みは無かったのでしょう?現在、アケナーテンの統治は、セメンクカレの死後、もし数日後では無かったとしても、数か月後に終わったと同意されています。この場合、アケナーテンの統治が彼の死と共に終わっていたなら、数日間かかったであろう彼のお葬式の準備は、セメンクカレの埋葬の用意が始まった時までに終わっていなかったのかも知れません。すると、どうやって、人はセメンクカレのお墓の中に見つけられた、お葬式の儀式の本質的な部分を形成した、アケナーテンの元々の魔法的な煉瓦を説明出来るのでしょう?唯一可能な結論は、セメンクカレの死の前に、権力から失墜したけれど、彼自身は生きていて死んではいなかったアケナーテンによって、それら(お墓)が必要とされていなかったと言う事です。

私達は旧約聖書の中で、モーゼスが、一人のエジプト人を殺し - 私達が以前に、タルムードの説明に見た様に、王として退位した後、シナイ(半島)に逃れ、圧政のファラオ、ホレンヘブが死んだ後に彼が戻るまで、其処に住んだ事を見ました。私達は、アケナーテンが類似した成り行きに続いたと言う、決定的な証拠は有しませんが、これがそうであったと言う多くの示唆が存在します。

エジプト本土を超えた東側の国境の向こうのシナイは、紅海の2つの腕、スエズ湾とアクバ湾の南にその頂点を置く、三角形の形状の中にあります。その北部の土台は、地中海の沿岸に沿って、エジプトからアジアまで、ガザ(パレスチナ)からカンタラまで続きます。この北部の低地の下にあるのは、極少数の通り道に向かいそびえ立つ石灰岩の盆地です。紅海の2つの腕の間の、南部の三角形は、シナイ山、またはホレブ山(現代の名前はムサ山で、モーゼスの山を意味します)の山岳地帯を含みます。シナイ山に辿り着く、渓谷を通った東部の三角州からの道を通って私達は、もう一つの重要な土地、セラビット・エル・カディムに着き、其処は、トルコ石が豊富であると同時に神聖な場所でもあります。

シナイは、その地域が「荒野」であった事実以上に、避難の場所としての魅力を有します。其処はエジプトの歴史の早期の日々からエジプトの一部として考えられてきましたが、其処には軍隊が駐屯されていませんでした。また其処には、知事もいませんでした。代わりに、第18王朝と第19王朝の期間、その地域は、シナイにおけるトルコ石の採掘の責任が持たされた2人の役人達、国外の全ての地の王族の使者と、王族の大法官に任されていました。ザルウにおける軍隊の指揮官で、市長でもあった、ネビーはまた、全ての国外の地の王族の使者でした。私達が見てきた様に、ザルウは(女王)ティエの街で、彼女の夫、アメンホテップ3世(ソロモン)によって彼女に与えられた夏の避暑地で、セメンクカレの失踪の後に王座に就いた2人のアマルナの王達 - ツタンカーメン(トゥト・アンク・アムン)と彼の大叔父で後継者のアイ(エフライム)の統治の間 - アテン(神/信仰)に忠実なままでした。

シナイ半島
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その雰囲気が変わったのは、アマルナ政権とアテン信仰の容赦無い敵であった、第18王朝の最後の統治者、ホレンヘブが、パ・ラムセス(後のラムセス1世)に、その以前にネビーによって保たれた役職を与えた後でした。少なくともその当時までは、アケナーテンは、彼が選んだ追放の地において、平穏に過ごす事を計算出来たのでしょう。

彼はまた、王族の大法官からの危険の下にはありませんでした。私達はシナイとその他の場所から発見された文献から、アメンホテップ3世の時代まで、条約がある一族、パ・ネハス家の手に、3世代委ねられていた事を知ります。アケナーテン自身もまた、パ・ネハスの子孫であるパネシーを彼の大法官、そしてアマルナにおける彼の寺院の主任司祭として任命しました。故に、パ・ネハスの一族は、アケナーテンの政府に含まれていただけでは無く、彼の信仰に拘わっていました。故に彼等が、彼等の補佐を与えられる事の出来る、セラビット・エル・カディマス(の街)を避難の地として提案したのは自然の成り行きでした。

未だに完全な証拠はありませんが、当時の状況においてセラビットは、もしアケナーテンの追放の唯一の場所では無いにしても - 神聖な場所で、もう一つの神聖な場所、シナイ山の近くで - 政府の操作からはほど遠く、ホレンヘブの死が第18王朝の終わりをもたらし、彼(アケナーテン)が、彼の王座を再主張するために戻ってくるまで、彼が瞑想し、彼の宗教的なアイデアを発達させられる場所でした。

平均海面の2,600フィート上の、セラビットの頂上に、新たな王朝の時代までには、それが外側に延長され合計の長さ、230フィートに届きましたが、元々、洞窟の中に、社が構築されました。この寺院は、その地域の(女)神、ハソァーに献身されていました。この女神は牝牛の耳と供に体現され、そして彼女の名前の文字通りの意味は「ホルス(朝日)のハウス(妻)」でした。ハソァーはそれぞれの統治している王達の、神聖な母親として考えられていました。彼女は頻繁に、砂漠と外国の国々に関連させられた女神でした。今世紀(20世紀)の初頭に、英国の有名なエジプト学者、フリンダース・ペトリーはシナイ(半島)への調査隊を導き、其処で彼が見つける事の出来た太古の記述を記録しました。セラビットの寺院における、彼の驚きの発見の一つは、アマルナ・スタイルで造られた、アケナーテンの母親である女王ティエの像の残骸の濃い緑の頭でした。その像が壊れていなければ、約1フットの高さと推定されました。何故、それは、セラビットにあったのでしょう?「エジプトにおけるとても遠いこの地域において、彼女の像が私達のために保存され、王冠の中のカートゥーシュ(印)によって、疑う余地無く、彼女の名前が記されているのは奇妙です。」ペトリーは、シナイにおける調査についての、彼の後の著書の中でこう記述しました。「その顔の高慢な品格は、興味深い率直さと個人的な魅力でブレンドされています。その眼と頬骨の周りの表面の繊細さは、(創造の)扱いにおける最大の慎重さを表します。その奇妙にも、引き伸ばされた唇は、それらの厚さと繊細さと共に、悪意の無い軽蔑を表し、明らかに生命からの全ての真実においてモデルされています(実物的です)。

ペトリーはまた、セラビットの寺院において行われた儀式は、それらの本質においてセム的(i.e. 言語学的な分類)であった事を示唆する証拠を発見しました。その寺院の下には、50トン以上の綺麗な白い灰があり、それは長い期間に生贄として燃やされた残りを表すと彼は解釈しました。この行為(焼いた捧げ物)は、聖書から、イスラエライツ族のものとして知られています。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げた。」([創世記22:13])その形と大きさにおいて類似した2つの砂岩のコーンが、その寺院において発見されました。この種の石は、シリア人の儀式の特定の形状において使用され、エジプトでは見つけられるものではありませんでした。3つの三角形のタンク(?)と1つの円形の土台は、寺院に入る4つの異なった段階において使用されました。これは、ユダヤ教徒とイスラム教の両方においてそうである様に沐浴(手足を洗う事)が、セラビットにおける信仰において、重要な役割を果たした事を鮮明にします。

ペトリーが、その寺院の周りに散分されていたと発見したのは、縦に立てられた多くの砂岩の塊でした。それらの塊は、数インチから数フィートの高さで、それらが立つ為に必要とあるならば、その他の石によって支えられていました。類似した石の積み上げはシナイ山でも発見されており:両方の場所が神聖な場所と考えられていた事を示唆します。この石の積み上げは崇敬のために立てられた神聖な石の、知られているシステムの一部で、エジプトのものでは無く、そしてペトリーにとってこの儀式のための唯一の説明は、神からの何らかのヴィジョンを得るために神聖な場所の近くで眠る風習で、それを彼は、家長ヤコブ(イスラエル)が行ったと言われるものと比較しました:

「28:10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。

28:11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天(大脳)まで達する階段(脊髄)が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたち(オイル)がそれを上ったり下ったりしていた。

28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主(大脳)である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
創世記28:10-13http://ikitamizu.com/baible/old-01-Genesis.html#28

モーゼスの主である神によって、シナイにおいてイスラエライツ族に与えられたと言われる十戒は、明らかにエジプト的な伝統から派生させられ、そしてエジプトの死者の書と共通の源泉を有する様です。エジプト人達は、彼等の死後、彼等は黄泉の国の裁定の広間において、オシリスと彼の42人の裁定者達の前で裁かれると信じました。死者の書の呪文125は、この機会に死んだ人が、「私は偽りを行いませんでした」や「私は人殺しを行いませんでした」の様な補償を含む、唱えられなければならない否定の告白を含みます。ですから、オシリス、または彼の黄泉の国を信仰していなかった(モーゼス)アケナーテンが、モラル・コード(道徳的な約束事)を、エジプト人達が、彼等の死者達が裁定されると信じていたものから、彼の支持者達のための、現世における必須の約束事 - 十戒 - へと変えた様に表れます。此処で、私はその2つを詳細に比較してみましょう。

出エジプト記の第20章は、シナイ山の麓において神がイスラエライツ族に与えた十戒を含みます。その他の神々を信仰する事を禁じ、偶像崇拝を禁じる最初の2つの戒令と、彼等の両親達を敬う事を要求する3番目の戒令を除いて、残りの7つは、死者の書の第125章の中に見つけられます:

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。私は不正直に行動しませんでした。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。私は純粋さに対していかなる罪も犯しませんでした。

殺してはならない。私は男も女も殺しませんでした。

姦淫してはならない。私は他人の妻に手を出しませんでした。

盗んではならない。私は盗みを働きませんでした。

隣人に関して偽証してはならない。私は偽りを唱えませんでした。

隣人の家(妻)を欲してはならない。私は他人の妻に手を出しませんでした。

上述の証拠の重さ、そして更に続くものの上での私の結論は、彼の退位の当時において(モーゼス)アケナーテンは、単なる安全な避難場所だけでは無く、神聖な場所でもあるシナイに逃れたと言う事です。更に加えて、採掘の地方としてそれは、旧約聖書によると、今日、聖者キャサリンの修道院が建つ、神聖な山、シナイ山の麓に彼が建てたとされる、タバナクル(大きなテント/移動式の神殿)のための材料を供給しました。

(モーゼス)アケナーテンがシナイに避難場所を求めた際に、後の証拠から、彼は真鍮(黄銅)製、または真鍮に覆われた蛇の形をした杖 - 王の権力の象徴である、セプター(王杖)の一つ持ち出した様です。旧約聖書における一番最後のモーゼス(の名前)の記述の、彼のファラオと同一視はもう一つのリンクとして、この権力の象徴への、遠回しの言及を通して成されます。それは、出エジプトの5世紀以上後に、主の教えを守ろうとした者達と、そうしなかった者達である、様々な統治者達の説明を与える列王記の第2巻に起こります。前者の中にいたのは、ヘジキアであったと、私達は伝えられます:

「18:3 彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、

「18:4 聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」
列王記下巻18:3-4

(モーゼス)アケナーテンはまた、彼の追放への旅において、彼の最も側近で、忠誠な支持者達によって同行されました。彼等の中にいたのは、彼の財務大臣で、アマルナにおけるアテンの主任祭司であったパネヘシーで - 私達がこれから見る様に - イエスを殺した祭司として、何世紀も後に、タルムードの中で名指しされた人でした。

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