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政府の麻薬運営への証言(加筆)

政府の麻薬運営への証言

0 tatuma

チップ・テイタムの「殺しのライセンス」?

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ホワイト・ハウス
ワシントン

D. G. チップ・テイタム
コードネーム:ペガサス

貴方は、以後、米国政府の奉仕へと、任命されます。

[黒塗り]は違法的に、米国の安全と選択された米国の***に対して重要な問題である書類を得たと判断されました。故に、それらの書類が取り戻されなければならないと言うのが国家安全保障委員会(NSC)による、判断された見解です。

この判断により、貴方は、提言された書類を取り戻し、この犯罪者が正義へともたらされるために、必要であればあらゆる方法を使用する事が許可されます。貴方は、この使命を達成するために、現存する規制と FTM を執行する事が許可されます。

もし、貴方の任務の執行において、生命の消失が起これば、貴方は、起訴から例外とされ、保護されるでしょう。


サイン: ジョージ・ブッシュ

テイタム・クロニクル
テイタムの記録

ジーン「チップ」テイタム(退役軍人真実)

http://whatreallyhappened.com/RANCHO/POLITICS/MENA/TATUM/tatum.html


私は、1970年のヴェトナム戦争の間に、軍事奉仕の志願兵として、政府への奉仕を始めました。空軍技術学校を卒業した後、私は空軍の戦闘コントローラー(CCT)のエリートの最初の一人に成りました。私はその後、タイの NKP に送り込まれました。タイにいる間の、カンボジアへの秘密裡の作戦の際に、レッド・ロック・チームと名付けられた私達の部隊は、北ヴェトナム人達に捕えられ、92日間、捕虜とされました。ソヴィエトと中国人の士官達による訊問の間、レッド・ロック・チームは、頻繁に死に結果した暴力と拷問を通して、沈黙を保ちました。私達が、捕虜として囚われていたキャンプを、米国の海兵隊のパトロールが発見していなかったなら、そのチームの全員が死んでいたでしょう。ですが、私自身と、私の部隊の軍曹にとって幸運な事に、私達は、拷問され、殺される前に、偵察のパトロールによって解放されました。米軍と私達の捕獲者達との間の戦いの間に、私は負傷しました。尋問の間の暴力と拷問から衰弱していた私は、意識を失いました。三週間後に私は、フィリピンのクラーク空軍基地で目覚めました。その2、3日の内に、サイゴンから来た人が、使命を「報告(命令)」しました。その報告の間に、レッド・ロック・チームが関わった出来事は、25年間、ニクソン大統領の命令によって、機密にされた事が説明されました。その使命の繊細な本質のために、大統領は、国家安全保障を理由に、私が「機密」にされる事を必要としました。CIA が責任を持つ事が決定されました。1971年6月6日に、私に報告するためにサイゴンから出向いた人、ウイリアム J. コルビーは私が、以後、CIA の管轄の下であると助言しました。私のコードネームはペガサスでした。

その後8年間の間、私は DCI (中央インテリジェンス/CIA の長官)の作戦的な操作の下、5つの大陸を旅しました。私が、戦争捕虜に関する情報を、南西アジア、から、アジア-ヨーロッパまで収集し、その情報を、私の上司、ウイリアム J. コルビーと、彼の前任者、ジョージ・ブッシュ(シニア)に報告した際に、私達の政府は、その情報に基づいて行動しないと言う事に、私は気付きました。私の契約の終わりにおいて、私は大いに必要とされた休息のための、フランスの抵抗軍の歌によって、私自身が強制されている事を見つけました。

「貴方が倒れた時、我が友よ
影から
もう一人の友人が立ち上がり
貴方の場所を取るでしょう。」

私は1978年に、引退し、コロラド州の山奥の静かな町で過ごすために、、私の母国への奉仕を離れました。ペガサスとしての年月を通して、私が苦しんだ傷を癒せるのは、唯一、時間だけでした。

1980年、イランの大塩砂漠における救出活動の失敗に引き続き、私は強制的に現役復帰させられ、米国陸軍直属に配置させられました。私は直ぐに、私自身と、私の家族が、ケンタッキー州のキャンベル基地、米国陸軍の特別作戦部隊、タスク・フォース160隊の新たな駐屯地に配置された事を知りました。

160隊と共に数々の秘密裡の作戦に参加した後、私はジョージア州のステュアート基地における任務を与えられました。私は、軍事演習のために、ホンジュラスへ行くために準備していた医療的な救出部隊に潜入する任務を与えられました。

1985年の2月、ジョージア州のステュアート基地の第3/498医療部隊からの、2つの飛行乗組員達が、ホンジュラスのパルメロア空軍基地に到着しました。それぞれの飛行乗組員は、パイロット、副パイロット、医療兵、そして乗組員主任で構成されていました。

到着すると、私達、乗組員は、更なる任務と説明のために、病院の司令官に報告する事を命令されました。その病院の司令官、ジチェック大佐は、「大きな赤いもの」の本拠地である、カンザス州のライリー基地からの、入れ替わりに帰還する医療乗組員達を、私達、乗組員に紹介しました。

その国の、活動のルールに詳しい、指導パイロットと供の説明と確認飛行に続き、私達は共同タスク・フォース、ブラヴォーのための、医療避難の任務を開始しました。特別作戦のパイロットとして、中央アメリカにおいて何度も飛んだ私は、飛行環境と地元の作戦の制限を熟知していました。しかしながら、私が、私の上司オリヴァー・ノースによって説明された様に、第3/498医療隊に潜入し、医療パイロットを装う事を受け入れた時、私はその地域における、以前の関わりを秘密にする事を命じられました。

1985年、2月15日、ホンジュラスのラ・キエバへの飛行の際に、私は、オリヴァー・ノースによって、地元の上司として任命された人、フェリックス・ロドリゲス少佐に接触する事を任じられました。ラ・キエバに到着すると、私はロドリゲス少佐に連絡しました。彼は、乗組員達を迎え、CIA のセーフ・ハウスにおいて、その夜の宿泊地を与えました。その家は10フィートのコンクリートの壁で囲まれ、そして唯一の入り口にはウージー(マシーンガン)を持った護衛がいました。夕食に引き続き、乗組員達は、部屋に戻され、その間、ロドリゲス少佐と私は、私達の4か月に渡る補佐の日程を計画しました。私は、1985年の6月に、ホンジュラスを離れる事が予定されていました・・・

ジーン「チップ」テイタム:
退役軍人真実ネットワーク(ラジオ)
http://vtnradio.com/


インスロウ/プロミス(追記の追記=Read more)
http://songcatcher.blog.fc2.com/blog-entry-999.html


1985年2月26日

パルメロラ空軍基地の私達の諜報の複合構造物、ワリー・ワールドは、ニカラグア/ホンジュラスの国境のホンジュラス側の最大の村の内の一つに、2人の民間のパイロットを空輸する事を必要とした任務を私達に与えました。パルメロア(MHCG)からの出発の事前に、基地の機能と共に提出された、防衛省の飛行計画の第19セクションに記述された、私達の搭乗者達の名前は、ビル・クーパーとバズ・ソーヤーでした。私達は(グリーンウィッチ標準時間、1630Z に出発しました。その飛行の間に、クーパー氏は、彼等がエル・サルヴァドルのイラポンゴ空軍基地に位置する、CIA の所有物である、コーポレート・エアー・サービス社で働いていると私達に伝えました。彼等は、様々なコントラのキャンプに武器弾薬を空輸ドロップする事を調整するために、コントラのリーダー達とミーティングを開くと言う事でした。私達は問題無くエル・パライソに到着しました。そのパイロット達とコントラのリーダー達のミーティングは、1時間強続きました。そのミーティングが終わると、私達は「ワクチン」と記された白いクーラー(ボックス)が渡され、そしてそのクーラーを、ラ・メサ空港の、米空軍 C-130 に配達する様に指示されました。ホンジュラスのサン・ペドロ・スラのラ・メサ空港に到着すると、そのクーラーは、搭乗員の内の2人によって降ろされました。それはゆうに200パウンドを超えていました。そのクーラーの上の印が破れました。私はワクチンのクーラーを再封印するために、一般的に「時速100マイルのテープ」と呼ばれる飛行用のテープの幾つかを取り上げました。私は搭乗員達に、昼食を注文させに行かせました。私は、ヘリコプターに給油し、クーラーを再封印するために残りました。クーパーとソーヤーは食事に行き、彼等のエル・サルヴァドルへの便を持ちに行きました。私がクーラーから破れたテープを外した時、私はその中身が、白い粉の様なものの、幾つもの袋である事を見ました。コカインの様に現れるものの袋は、100個以上ありました。私はそのクーラーを再封印し直し、飛行機(ヘリコプター)の給油を続けました。私達が到着してから約2時間後に、パナマ行きの米空軍 C-130 が、ようやく、ワクチンを受け取るために到着しました。

私達は、パルメロアの空軍基地に帰還しました。私達が帰還すると、私は地上線(電話)を通してワシントンのスイッチに繋げ、私のコカインの発見に関して、ノース氏に助言しました。彼は私に、それが戦利品であると伝えました。「サンディニスタ達は、軍を資金援助するために、コカインを生産している。」彼は更にこう明言しました「そのコカインは、証拠として、世界裁判所に行く予定だ。」私は前の年に何度か、アーカンソーに宅配する事を任命された、白いクーラーを思い出しました。

私はケンタッキー州のキャンベル基地の特別作戦のパイロットでした。1983年と1984年において、私達は定期的に、キャンベル基地の医療救出部隊からリトル・ロック空軍基地へ、そして2度の場合、リトル・ロックの西、アーカンソー州のメナへ、医療供給と記された白いクーラーを配達する任務を受けました。私自身による更なる調査は、私が抱いていた問いの幾つかをはっきりとさせました。キャンベル基地の医療救出部隊、第324医療部隊は、CIA の操作の下にあった、特別作戦の部隊、タスク・フォース160のための、サポートの部隊でした。第324医療部隊の飛行搭乗員達は、4か月の任務でホンジュラスに出入りして、ローテーションしました。

アーカンソーへの私の飛行の際、私は、彼自身をダン・ラサター博士と紹介した人に出迎えられました。ラサター博士は、いつも一人ではありませんでした。彼は通常、身分証明のバッジを見せた、私服警官を伴えていました。彼の名前は、レイモンド・ヤングでした。私は彼に紹介され、彼のあだ名が「バディー」である事を知りました。ヤング氏は後に、アーカンソー国立防衛隊の隊員として、ホンジュラスに現れました(1985年3月16日付の飛行計画書を参照)。

1983年の秋の場合、私はその様なクーラーの2つを、リトル・ロック空港に配達する事を任命されました。「医療供給」と記されたそれらのクーラーは、ダン・ラサター博士唯一に、配達されると言う事でした。私達が到着した時に、もしラサター博士がいなかったなら、私への指示は、彼を待つ事でした。

離陸の前に私は、積荷を飛行機の後部に積むために、私達の主任搭乗員を手伝いました。両方のクーラーは同じ大きさでしたが、一方のクーラーがもう一方よりも遥かに重い事を私は気付きました。私は、軽い方のクーラーを振るい、中身を想像しようとしました。ですがそれはとてもぎゅうぎゅうに詰められていて、音を立てるものは何もありませんでした。私はそれが、ドライアイスの中にギュッと詰められた、臓器か何かだろうと持った事を覚えています。ですから中身を調べるために、私はそのクーラーを開けました。中身を詳細に確認した後、私の好奇心は満足させられ、私はクーラーを閉じて、軍事用の緑の時速100マイル・テープで再封印しました。(それらは元々、灰色の真空テープで封印されていました。)私は積荷を積み直し、そして私達はリトル・ロックへと向かいました。

私達は、夜遅く、大体10:30 pm 頃に到着しました。ラサター博士は私達を待っていなかったので、私達は飛行機の飛行後の点検と、ヒューストンのホビー空港への私達の次の飛行のための、飛行計画を行いました。深夜12:15 am 頃に1台のヴァンと印されていない警察の車に続かれたリムジンが、FBO に到着しました。最初にリムジンから降りてきたのは、ラサター博士でした。私は以前の配達から、彼を認識していました。彼は、もう2人によって続かれました。ラサター博士は、明らかに私達が以前に出会った事に気付かず、彼自身を紹介し、そして私達が臓器提供者の臓器を運んだ飛行機か尋ねました。私は彼に、私達がクーラーを運んだ事を伝え、飛行機の後部を指差しました。私達の主任搭乗員、ダグが、クーラーを運ぶためにラサターのリムジンの運転手を手伝いました。重いクーラーはリムジンに積まれ、そして軽いクーラーはヴァンに積まれました。ラサター博士は、彼と一緒にいた、2人の紳士達を紹介しました。最初に、私達はアーカンソーの知事、ウイリアム(ビル) J. クリントンに紹介され、そして次に、彼の警護の主任、レイモンド「バディー」ヤングに紹介されました。この時点において、ヤング氏は私に気が付き、そしてそう述べました。私はその後、リムジンの傍に立っていた、三番目の人物に紹介されました。私達は一夜を過ごす様に招かれ、そして受け入れました。(結局の処、私が軽い方のクーラーの中に残したメモを彼等が見つけた時に、彼等は、私と話がしたいかも知れないと、私が思ったためです。)

金曜日に、キャンベル基地に戻った後、私はコルビー長官に電話をかけ、そして配達と私の発見について伝えました。最終的にクリントン知事によって持ち去られたクーラーを開けた時、それには数キロの白っぽい粉の物質と沢山の現金が含まれていました。

アーカンソー州に配達されたクーラーは、コカインが含まれていると、私が、丁度、ホンジュラスのラ・メサ空港で見つけた物と同じでした。私は乗組員達の安全のために、私達の積荷の書類を揃えるのが最善であろうと判断しました。私はオペレーションズ(作戦本部?)へ行き、飛行計画書の裏に、コカインについて記述しました。

1985年2月26日の飛行計画書
1Graph1.gif


1985年2月26日の飛行計画書(裏)
2Graph1b.gif

Veterans Truth Network (5-19-15) Stew Webb, Jim Fetzer, Gene Tatum
退役軍人真実ラジオ ウェブ/フェッツアー/テイタム

前半:フェッツアー、後半:1996年に行われた、ジーン・チップ・テイタムのインタヴューの録音

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