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キリスト教: 太古のエジプト的な宗教: 第10章

CHRISTIANITY: AN ANCIENT EGYPTIAN RELIGION
AHMED OSMAN
キリスト教: 太古のエジプト的な宗教
アフメド・オスマン著

パート1

第10章: テル・エル・アマルナ


アマルナにおいて、高い砂漠の断崖は、(ナイル)川から引き、約8マイルの長さで3マイルの広さの、大いなる半円形を残します。明るい黄色の砂の傾斜が緩やかに川へと降ります。その街の境界線を印し、その設立の逸話を記録した巨大な国境の石碑が、その囲んでいる断崖において刻まれました。それらの内の一つは、アケナーテン(モーゼス)がアテンを、彼の父として見た事を強調し、こう読めます:

「私はアケターテン(アマルナ)を、この場所における、私の父、アテンのためのものとし・・・アケターテンは、南の石碑から、北の石碑まで広がり・・・同様に、南西の石碑から北西の石碑まで広がり・・・これらの4つの石碑の間のエリアはアケターテン自体で;それは私の父に帰属し;山々、砂漠、草原、島々、高地、低地、大地、水、村々、人々、野獣、そして全ての物事は、私の父であるアテン(アトム/原子)が、永続的に、永遠に、存在へともたらすでしょう・・・」

その街は、東の土手の上で、その土手の対岸には、大きな農業的なエリアがあり、もし、兵糧攻めにあっても新たな首都がそれ自体をサポート出来る様に、明らかに組織されました。アケナーテンの新たな街の建設は、アケナーテンの統治4年目から8年目まで続きましたが、彼は、彼の統治の8年目に、女王ネフェティティ、と彼の6人の娘達 - メリターテン、マケターテン、アンクセンパーテン、小ネフェルネフェルアーテン、大ネフェルネフェルアーテン、そしてセテペンレと共に住み移ったと考えられます。

テル・エル・アマルナ
1 tell el amarna map2

アケターテンは、尊厳と建築的な調和の両方を持った首都でした。その大通りはナイル川と並行して続き、それらの最も重要なものは、今日でさえ、シケット・エス・サルタン、王の道として知られ、ファラオと彼の家族が住み、彼等のプライベートの生活を生きた、王の館を含みその街の全ての主要な建物を繋げました。その下地は高神官の別荘に類似しますが、広い庭に囲まれた、もっと大規模なものでした。その館の南には、王の個人的な寺院がありました。東西の軸の上で建設された巨大な建物であるアテンの大いなる寺院は、王の道に沿った北1/4マイル以下にありました。それは、ハイ・ウェイから、パイロン(寺院の門)を通って入場され、そして第二の門が、アテンの喜びの宮殿と呼ばれたハイポスタイル(多柱式)のホールに出入りを与えました。

ジェム・アテン(ジェムは「眩しい」を意味します)として知られる、6つの四角い宮廷が、アテンへの捧げものに満ちたテーブルと共に、行進の道に沿ってありました。その囲みの東部の端は、大きな祭壇と、更なる捧げ物のテーブルが用意された聖域でした。その囲いの北の壁に平行してあったのは、統治12年目(紀元前1367年)に、貢物をもたらした、外国の王子達のための、大規模な接待が行われた別館があり、恐らく、アケナーテンの統治の絶頂期と考えられました。アテンの主任奉仕者(神官)パネヘシーの館が、その囲みの南東の角の外にありました。

アケターテンにおいて、新しかったのは(工業)技術だけではありませんでした。女王ネフェティティは、彼女の義理の母、女王ティエと同様に、それ以前の女王達には存在しなかった名声を得ました。彼の新たな街の区画の表記として、彼女の夫は、彼女を:「美しい顔で、二重の羽毛と供の喜び、幸せの女主人、好意と共に授けられ、その声を聞けば人は喜び、気品の淑女、大いなる愛、その気質が2つの地(エジプト)の主を喜ばせる者」として表現しました。その王は、彼に集結した貴族達に、周りの崖をくりぬいたお墓を与えました。貴族達が、彼等のために彫刻させた像において、女王ネフェティティは、その姿において、王と同等として表されました。

今世紀(20世紀)の初頭に成り、アマルナの街が発掘され、アケナーテンと彼の家族について、更に善く知られる様に成ると、当時のエジプト学者達は、彼を先見的な人道主義者であると同時に、最初の一神教の信者として見解しました。彼は、アテンへの聖歌を書いた詩人として見られ、その内の最長のものは、聖書の聖歌104に驚く程、類似していました。彼は、彼の工芸技師達に、彼等が感じ、見たものを自由に表現する事を指示し、エジプトの芸術的な表現の伝統的な形状から多くの要素において異なった、新しく、単純で現実的な芸術に結果しました。

アケナーテンのアテンへの聖歌

貴方が天界の地平線の西に沈む時、
世界は死の如く暗闇に包まれます。
彼等は、彼等の部屋で眠り、彼等の頭は包まれ、彼等の鼻の穴は止められ、そして誰もお互いを見ません。

彼等が知らぬ間に盗まれたのは、彼等の頭の下の、彼等の全ての物事です。

全てのライオンは、彼等の巣から出て、全ての蛇は刺します。

闇が支配します。

世界は沈黙にあります。

それらを造った彼は、彼の地平線の中で休みます。

貴方が地平線から昇り、日中のアテンとして輝く時、地上は明るく成ります。

貴方が、貴方の光線を送る時、その暗闇は消滅し、その2つの地(エジプト)は日々の祭にあり、貴方が彼等を目覚めさせたので、彼等は彼等の足で立ち上がります。

船は同様に、上流-下流へと帆立ちます。

貴方が昇ったので、全ての街道は開けます。

川の魚は貴方の前で飛び跳ね、そして貴方の光線は、大海原の真っ只中です。

貴方の働きは何と多重なのでしょう!

それらは、私達の前からは、隠されています。

おお、汝、唯一の神よ、その力は誰も持たず、貴方は、貴方の熱望に沿って地上を創造しました。

貴方が唯一であった間:人々、全ての牛達、大小の足で歩く地上の全てと、翼で飛ぶ高い全てを。

聖歌/讃美歌/詩編104
http://ikitamizu.com/baible/old-16-Psalm091-120.html#104


104:20 あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。
104:21 若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。

104:22 太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。
104:23 人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。

104:25 同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタン(海獣)もそこに戯れる。

104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。


アケナーテンの記述の幾つか

夜明けは天界の地平線において美しく、
おお、生きているアテン、生命の始まりよ!
貴方が天界の東の地平線に昇る時、
貴方は地上の全てを貴方の美で満たし;
貴方が地上の上で高く、美しく、偉大で、輝くために;
貴方の光線は、貴方の創造したもの全てを含めて、包み込みます。
貴方は遠くにあるけれど、貴方の光線は地上にあり、
貴方は高くにあるけれど、貴方の足跡はその日であります。

私達は初めて、その王が、彼の妻と娘達と共に、食べ、飲み、そしてアテンに捧げ物をしているのを見る事が許されます。アマルナの早期の発掘に、大々的に参加した、英国の考古学者、ジョン・ペンドルブリーは、アマルナの芸術、特にアテンへの聖歌について、熱狂的でした。1935年に出版された彼の著書、テル・エル・アマルナの中で、彼はこう書きました:「現実主義のスピリットは驚く程に明らかです。観測者達の出来事的な集団(i.e. 登場人物達)はとても活き活きとしていて、御姫様達は彼女達のブーケ(花束)を持ち、とても自然的にお互いに向き合います。」西部アジアの王達と王子達は、継続的な(ヒクソス族との)戦争に、アケナーテンを引きずり込もうと、やっきに成りましたが、彼(アケナーテン)は彼等の争いの一部に成る事を拒みました。この世紀(20世紀)の早期のエジプト学者達が、彼(アケナーテン)の中に、彼等自身の近代のアイデア表現を見たのは、驚きではありませんでした。

「全てのファラオ達の中で最も注目すべき人物で、人間の歴史における、最初の個人」は、アメリカの学者、ヘンリー・ブレステッドが、彼の著書、エジプトの歴史の中で、彼(アケナーテン)を表現するために選んだ言葉でした。それは、彼が後の著書、意識の夜明けの中で再び戻り、発達させたテーマでした:「注目する事が大事なのは・・・アケナーテンは預言者で・・・一方で、彼のレッスンをユリの畑、空の鳥達、または空の雲から引き出し(学び)、もう一方で、放蕩息子、善きサマリア人、または彼女のお金の欠片を失った女性の様な話から、彼の周りの人間社会から学んだイエスの様に、この革命的なエジプト人の預言者は、自然と人間生命の両方の熟考から、彼の教義を引き出した事です。」

その同じテーマは、彼の著書、アケナーテンの人生と時代を書いた英国のエジプト学者、アーサー・ウィーガルの研究の中にもこだましています:

「アケナーテンと言う名前において、暗闇から現れるのは、その他全てのファラオ達よりも、遥かに鮮明な人物像で、そしてそれとともに現れるのは、さえずる小鳥達、子供達の声、そして多くの花々の香りです。私達はエジプトの王のマインドの中を直接見る事ができ、その働きの幾つかを見る事もでき、そして其処にある全ては尊敬に値します。アケナーテンは、「人間の歴史上の最初の個人」と呼ばれますが;もし彼が故に、私達に知られている最初の歴史的な人物なら、彼はまた、宗教的な教義の、全ての人間の創始者達の先駆者です。アケナーテンは、時間の度合/段階において、そして彼によってもたらされた新たな土台の見解において、恐らく天才の度合において、世界初の理想主義者として、ランクされるかも知れません。」

もう一人の英国のエジプト学者、ジェームズ・ベイキー牧師にとって、彼は「理想主義の夢見人で、人は真実の中に生き、真実を語る事を意図されたと、実際に信じた人でした。」

しかしながら、アマルナの王達の最初の人物に対して、全ての学者達が、その様な熱意的で好意的な見解を示したわけではありませんでした。彼等の内の特定の人達は、彼等がその場面の、エジプトに対する侵略者達として考えた、モーゼス、聖書的なイスラエライト族、そしてアケナーテンの間の、時間(時代)と同時に信仰に関して、出来る限り距離を置こうと慎重に成りました。彼等は、アケナーテンが実際に、一神教的な神を、エジプトに紹介したか否か問いました。

アテンの象徴は、壁画や彫刻において、王族達の鼻の先に持たれた、生命の鍵であり、エジプト的な十字架である、アンクに降り注ぐ光線を送る輪として描かれているために、偶像の無い神としては、見られることが出来ないと提案* しました。

鼻の先のアンク
1 ankhmouth

これは、しかしながら、その神の物理的/肉体的な表しではありませんでした。キリスト教の十字架や、ユダヤの星(ダヴィデの星)の様に、それは象徴であり、(キリスト教の様に)救いを示唆し、文字通りの神ではありませんでした。エルサレムの寺院における、最も神聖な聖域に置かれた、物理的な契約のアーク(小舟)が、神のイメージ(姿)として見る事が出来る以上に、アテンの寺院における祈りにおいて、対象とされる物理的な表しはありませんでした。アテンはまた、エジプトの信仰の歴史において、太陽神の3つの名前 - 朝に昇る太陽であるケプリ**(i.e. ホルス)、真昼の太陽であるラー、そして夕方に西の地平線に沈む夕日であるアトゥン(i.e. セット)のいずれかとしての太陽神、ラーと、決して同一視されませんでした。

アケナーテン(モーゼス)の統治9年目(紀元前1370年)の終わりに向かい、アテンの名前は、イメージのヒエログリフ(象形文字)的な使用の結果として、それに連想されたかも知れない、あらゆるセリオ-アンソロポモーフィック(半人半獣の姿で表された神の信仰)的、または万神殿(全ての神々の異教的な信仰)的な要素を取り払うために、新たな形状を受け取りました。ラー・ハラクティの名前を記述するのに使用された隼の象徴は、この形状において太陽神を現しましたが、抽象的なサインへと変化させられました。故に、「ラー」と言う言葉はその後、ヘリオポリス(太陽の街)の神をもう表さず、新たな抽象的な意味、「主」を達成しました。アテンと言う名前は、統治している王を表すために、2つのカートゥーシュ(印)に入れられました。それらの2つのカートゥーシュの2番目は此処で変化させられ、「大気(空気)」の古いエジプトの神を表す事の出来る、シュと言う言葉が削除されました。シュは以後、アルファベット的に綴られ、「光」と言う意味を与える様に成りました。神の名前の新たな形状はこう読めました:「ラー(主)は、地平線の生きている統治者であり、彼の名前において光は、アテンの中にある。」この概念は、恐らく、理解するのが難しいでしょう。しかしながら、考古学者達によって、ヤーウェイ(エホヴァ)が、アシラー*** と言う名の妻を持つ、早期のカナーン族の神であると確立された処に、聖書における類似した行程を、私達は見つけます。それにも拘らず、ヤーウェイの名前は聖書の中で、抽象的で一神教的な力、主を指すのに使用されます。

* これは、トロント大学の、ドナルド B. レッドフォード教授と、大英博物館によって出版された、太古のエジプトの辞書を編集した、イアン・ショウとポール・ニコルソン、そしてその他によって提案されました。

** 創造神は、スカラブ、または大フンコロガシとして現れました。彼の名前は、「彼は存在へと現れる」を意味しました。(大フンコロガシの体は、大脳の象徴と考えられた。)

頭蓋:左とスカラブ:右
2skull and scarab

*** これは、紀元前5世紀から、ユダヤのコミュニティ―が住み着いた、ヌービアのアスワンの対岸の、エレファンタインのナイルの島で発見されたアラマイック語の文献と、1967年の6日間戦争の後に、シナイ半島がイスラエルの占領に陥落した時に、イスラエル人の考古学者達によって発見された文献の両方から確立されました。彼等はヤーウェイの名前がアシラ(Ashira(h))と呼ばれた妻である女神に関連されているのを発見しました。

アケナーテンへの学術的な攻撃は、彼の宗教の本質(一神教)に留まりませんでした。一神教的な王の、人物像の暗殺(ネガキャン)の試みにおいて、彼は加えて、彼に兄弟/合同統治者/義理の兄弟であった、セメンカレとの同性愛の疑惑がかけられました。スコットランド人のエジプト学者、シリル・アルドレッドはこう書きました:

「幾らかの議論の対象に成っていた、アマルナからの未完成の石碑は、お互いの横に座る2人の王達を描写し、その目立つ方はアケナーテンとされ、もう一人は、彼の合同統治者、セメンカレとされます。この石碑によって明かされる、兄と弟の間の、同性愛的な関係は、(古代ローマの)皇帝ヘイドリアンと若者、アントニウスの間に存在した関係と比べられ、セメンカレが彼のカートゥーシュに含んだ「アケナーテンに愛されし者」と言う通名の重要性を語ります。彼はまた、女王ネフェティティが死去した際に、アケナーテンの正妻の名前を取りましたが;これと、年上のファラオによって、その若者を顎の下に放る事で、石碑の上に正直に表現された親密性は、アケナーテンが、その関係において、実質的なパートナーであった事を示唆します。」
アケナーテン、ロンドン、1968年、139ページ

実際に、この場面において、アケナーテンの膝の上に描写された若い人は、当時、22歳位だったセメンカレでは無く、9歳か10歳位の王の娘達の内の一人です。

更に加えて、私達は、彼が6人の娘達を授かった証拠を有しますが、アケナーテンはまた、性交不能としても描写されます。性交不能の奇妙な主張は、約30年前に、テーベにおけるアケナーテンの早期の間の、カルナックのアテン寺院のための、彼の寺院に彼によって設置された、アケナーテンの4つの像の時代測定に基づいて、シリル・アルフレッドによって提案され、それらは今、カイロ博物館において、観られる事が出来ます。これらの大きな像の3つは、アケナーテンがキルト(男性用のスカート)をはいているのを描写し:もう一つは、彼が明らかに性器を有さない裸の描写です。これはシリル・アルドレッドに、彼(アケナーテン)が、彼を性交不能にした、性病に苦しんでいたであろうと言う結論を導きさせました。


彼はアケナーテンの中に、こう記述しました:

「その様な特異的で身体的な特徴の全ての示唆は、身体生理学者達と病理学者達に、フローリック・シンドロームとして知られている病気の結果です。この病気の男性患者は、アケナーテンに類似した肥満を頻繁に見せます。その性器は、幼児性のままで、目測出来ない程脂肪に埋もれていたかも知れません。肥満性はその度合いにおいて変化するかも知れませんが典型的に、胸部、お腹、下腹部、太もも、そしてお尻に、女性的な脂肪の分配があったでしょう。下部の四肢は、しかしながら、細く、例えば、plus-fours (半ズボン?)に類似したでしょう。」

アルドレッドは続けて、こう述べました:「彼はフローリック・シンドロームに病んでいて、その他の人類から、はっきりと異なった彼の姿のそれらの変形の全てを、彼自身が望んだと考える余地があります。」

アケナーテンが、フローリック・シンドロームに苦しんだか否かは、その後、世界の代表的な医師達の注意を引き寄せ、そして学者達の議論において、数百万の言葉を鼓舞しました。裸体とされるアケナーテンの像から無くなっているのは、彼の性器では無く、彼のキルトであると確立する事によって、この作り話に終止符を打ったのは、ロンドン・カレッジ大学のジュリア・サムソンでした。彼女は、彼女の著書、アマルナ、アケナーテンとネフェティティの街の中で、以下の様に説明しました:

「腹部の表面を掘り下げ凹凸を残す事によって、そのベルトは造られ、そしてキルトの布の結び目が、腰の上に彫刻され、ベルトのバックルまで刻まれます。唯一裸体である、カルナックで発見されたアケナーテンの未完成の巨大な像は、この様な方法でキルトが加えられたはずで、何故なら、その石は腰の位置のアテンの飾り板の周りが既にへこんでいて、完成された巨大像と同様に、ベルトの凹凸を造るために、更に深く刻まれたはずであるためです。

「[その後]それについて、とても多くの推測があった、王の姿の更なる描写は、不必要だったはずです・・・これは、彼の身体的な造りと、未完成の像に基づいた状態についての推論の、間違いを強調します。彼が、彼の子供達の父に成る事が出来なかった事を表す事を、彼が選択したと言うよりもむしろ、その裸体の、未完成の像が、直立の位置に立てられ無かった可能性の方が高いです。王族がアケターテン(アマルナ)に移り住んだ後に、テーベに残されたアムンの神官達が、アテンの寺院を完成させようと、全ての努力を行ったとは考えにくいです・・・」

テーベから、遠くのアマルナへと、彼自身と彼の家族を移り住ませた後でさえも、その合同統治の王冠は、アケナーテンの頭に簡単には収まりませんでした。この頃から、彼は保護のために、軍の補佐に完全に頼っていて、そして恐らく、彼の父が亡く成り、彼が唯一の統治者と成れば必然的に起こるであろう(宗教的な)争いに対する防衛として頼りました。

彼は、トトメス(トート・モーゼス)系の統治者達の中で唯一、身体的に丈夫では無かった様で、乗馬、弓矢、そして船舶操縦術の様な、彼の先祖達が優れていた活動においては描写されずませんでしたが - 彼の民に印象づけるために、彼は、彼の軍事力を強調するために、多大な手間を取った様です。彼の描写の大多数において、彼は、高低エジプトの伝統的で祭事的な王冠を被るよりもむしろ、王の軍事的なヘッドドレスに帰属する、青い王冠、または短いヌービアのカツラを被って描写されました。アメリカ人のエジプト学者、アラン R. シュルマンはまた、アマルナ期の軍事的な背景についての記事の中で、「アマルナの個人的、そして王族的な芸術の両方において関連させられた兵士達と軍隊の活動の場面において・・・その街は、実質的に、軍の駐屯地でした・・・あらゆる処で、私達は、旗を立てながらパレードし、行進する、歩兵隊と騎馬隊を見つけます。宮殿や寺院の前、そしてその街を囲んだ見張り塔の上で、武器を持って立つ兵士達がおり、素手、または棍棒を持ち、王の面前で戦いの訓練を行う軍隊の場面を見つけます、」と指摘しました。

彼は続けてこう述べます;「丁度、アマルナが、王の意志を強制する、準備万端のそれ自体の軍の駐屯を有していた様に、エジプトにおけるその他の街々もまた、王座に忠誠で、その意志を強制したそれらの駐屯を持っていたはずです。軍隊が、その王座と王朝にとても忠誠的だったのは、(アケナーテンの母方の伯父で)その司令官・・・アイの人望によって、確かにされました・・・」

アケナーテンに対する、権力側とテーベの神官達(官僚)達の敵意が、彼の合同統治の時代に悪化したのが何故なら、正当な統治者としての、アムンの神官達による、彼の否定に対する反応として、彼が、アマルナの彼の新たな街において、彼の名前と太古の神々の全ての名前を寺院やお墓に記述する事を禁じたためです。このキャンペーンは、彼の父が死去し、彼が、彼の統治12年目(紀元前1367年)に唯一の統治者と成って以後、強化されました。その当時に成ると、彼の一神教的なアイデアは、もしアテンが唯一の神で、彼が、アテンの唯一の息子で預言者であるなら、彼の領土において、その他の神々が崇拝される事を許す事は出来ないと言う見解を発達させました。

彼は故に、アテン以外の神々を崇拝する事を、エジプト全土で禁止しました。彼は、アテンのものを除く、全ての寺院を閉鎖し、神官達を追放し、その国の全体から、その他の神々の名前が、寺院や壁画などの彫刻から、削除される事を命じました。太古の神々の名前、特にアムンの名前は、それらが見つけられた壁画の記述などを排除するために、特別な部隊が設けられました。神々のための複数形の単語、ネタル( netaru )でさえ、禁止されました。

アラン R. シュルマンは、この宗教的な活動が、軍隊と彼の民の両方の間における、アケナーテンへの支持を弱めたと指摘します:

「まず最初に、アムン、そしてその他の神々の否定は、エジプト人達の大多数にとって、凄く憎しみ深かったはずで、軍隊の個人的な隊員達にとっても、憎しみ深かったはずです。寺院の閉鎖や、記述から彼の名前をそぎ落とすために、あらゆる場所に入った工芸技師達、神官達の追放、彼の実の名前の破門を意味したこの迫害は、軍の積極的な補佐無しでは、起こりえませんでした。神聖な王制の理論的な架空の話がエジプトの一般大衆に受け入れられていたとして、アムンに対する迫害を、彼等(王族)が、唯座り、黙って見ているのは、(大衆にとって)受け入れがたい事でした。王族の方針を後ろ盾するために、何らかの強い補佐が必要でした。アムンの名前を破壊するために、労働者の集団が、寺院やお墓に入る度に、王族の宣言が従われ、反対されない様に、兵士達の部隊によって監視されました。究極的に、その迫害の厳しさは、特に古い信仰において育てられた兵士達の中でさえも、反感をかったはずで、アイ(アケナーテンの義理の叔父/将軍)と言う媒体を通して、恐らく、アケナーテンに圧力をかけたのでしょう。アケナーテンは、迫害を止めるだけでは無く、(弟)セメンクカレを合同統治者へと昇進させる事によって古い秩序(アムン信仰)との、妥協をせねばなりませんでした。」

古い形状の(アムン)信仰を排除するアケナーテンの試みと同時に、結果的にエジプト人達によって感じられた完全な戸惑いの感覚の規模についての情報は、ツタンカーメン(トゥト・アンク・アムン)が王座に就いた後、カルナックのアムンの寺院に彼が建てた再建の石碑から知る事が出来ます:

「さて、陛下が王として現れた時、エレファンタイン(の街)から(ナイルの)三角州の湿地帯まで、神々と女神達の寺院は、ボロボロに成りました。それらの社(やしろ)は荒廃し、[雑草に]覆われた丘に成りました。それらの聖域は、あたかも無かったかの様でした。それらの広間は獣道に成りました。その国は大荒れで、そして神々はこの国に背中を向けました。もし[軍隊が]エジプトの国境を広げるために、 Djahi [パレスチナ-シリア]に送られたとしても、彼等の成功は全く起こりませんでした。もし人が、助言を求めるために神に祈ったとしても、彼は決して現れませんでした。もし人が、同様に女神に哀願したとしても、彼女は決して現れませんでした。」

彼の統治15年目(紀元前1364年)頃、アケナーテンは正式な後継者である、彼の長女、メリターテンを彼の弟、セメンクカレの妻として与え、彼を合同統治者に任命しました。当初、セメンクカレと彼の女王は、アマルナの王宮において、アケナーテンと共に住んでいました。国内全土で続いていた敵対心の面前において、しかしながら、セメンクカレはアマルナからテーベへと離れ、少なくともその首都において、アムンの寺院を確立し、宗教的な革命の傾向を反転させ、その行動は、その国に彼(アケナーテン)の宗教的なアイデアを強要しようとする試みにおいて、アケナーテンがどれ程、孤立していたのかを示唆します。

セメンクカレの任命は、一時的な譲歩にしか成りませんでした。2年も経たずして、アイによる軍の掌握にも拘らず、エジプトは革命前夜で、そしてアケナーテン自身も、暗殺の危険にさらされている事が、アイにとって鮮明に成りました。アイは再び、妥協を進言する試みを行いましたが:アケナーテンは拒否しました。アイは其処で、彼がそれ以上、王の安全を確保出来ないと彼に伝えたはずで:彼にあった唯一の選択肢は、王座を諦め、国外に避難する事でした。

軍事的なクーデターによって脅かされた時に、アケナーテン(モーゼス)が王座を明け渡す事を強いられたと言う主張を補佐する建築的な証拠は、1997年の終わりに、アケナーテン(モーゼス)の統治の間に主任大臣と高神官として奉仕したアペル・エルの、それまでに知られていなかったお墓を発見したフランスの考古学者、アレイン-ピエール・ジヴィー博士による、もう一つの重要な発見の後に明るみに出ました。その同じサッカラの地域の、カイロの南10マイルの位置で、彼はツタンカーメンの乳母、マヤのお墓を発見しました。最初に発見された時、そのお墓は、元々の埋葬の1000年程後に入れられた、ミイラ化された猫で殆ど完全に満たされていました。しかしながら、その壁には、彼女の膝の上に座っている王を保護するマヤを描写する場面が描かれていました。その記述は彼女を、「ファラオの体に乳を与えた王族の乳母」として描写しました。

彼女の後ろの左側には、上部に2人、下部に4人、ツタンカーメンの閣僚を表す6人の役人達が描かれており、それぞれが異なった特徴の表情をしていました。それらの役人達は、1人も名指しされていませんでしたが、ジヴィー博士は彼等の容姿と役職の印から、彼等の正体を示唆することが出来ました。1人の例外を除いて、全ては軍人で、その内の4人は、ツタンカーメンの死後に、エジプトの王座へと昇りました。上部の2人は、彼の甥の息子であるツタンカーメンに後継したアイと、アイに後継した第18王朝の最後の統治者、ホレンヘブであると、ジヴィー博士は認識しました。下部の4人は第19王朝の最初の統治者、パ・ラムセス、彼の息子で、王座において彼の父に後継したセティ1世、そしてアイの親戚であると考えられたナクット・ミン将軍でした。その乳母と同様にマヤと名付けられた6人目の役人は、財務大臣として描写されました。

エジプトの歴史において、王の閣僚が、殆ど完全に軍の将軍達によって構成されたのはこれが初めてで、彼等が、彼等の地位と権力、そしてその後に王座に就けたのは、唯一、軍事的なクーデターの結果でした。彼の統治17年目に、アケナーテンが、ホレンヘブ、パ・ラムセス、そしてセティによって導かれた、軍の反乱に面したのは明らかです。アイ将軍は、ナクット・ミン将軍によって補佐されましたが、反乱を打倒する事が出来ず、アケナーテン(モーゼス)の退位を許し、彼(モーゼス)の幼い息子、ツタンカーメンを、エジプトの新たな統治者に即位させる事で取引を成立させました。アケナーテン(モーゼス)は疑う余地無く、渋々その状況を受け入れたのでしょう。彼が追放の地として選んだのは、シナイ(半島)の荒野で、それは彼が、彼等の出エジプトにおいて、彼が再びイスラエライト族を導く場所ですが - それは彼が四半世紀後まで面しなかった挑戦でした。

そうこうする中、彼の甥の息子、ツタンカーメンの早死にの後、アイが王座に就きましたが、彼はたった4年の統治の後に、ナクット・ミン将軍と共に、不思議にも姿を消しました。ホレンヘブがその後、権力を掌握したが、以前に反乱を脅かしたその他の2人の指導者達、パ・ラムセスとセティを、宰相と軍の司令将軍に任命し、故に彼等が順を追って、第19王朝の最初の2人のファラオ達として、彼等が最終的に王座に就くことが出来た状況を作り出しました。

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