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第三の道

The Third Way:
第三の道:

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The Nazi International, European Union
and Corporate Fascism
国際ナチス、ヨーロピアン・ユニオン(EU)
そして企業的なファシズム(財閥)

by Joseph P. Farrell
ジョセフ P. ファレル著


Table of Contents
目次

Preface
前書き

「私達が、歴史に課せられた唯一の義務は、それを書き直す事です。」
- オスカー・ワイルド、芸術家の批評

国際ナチスは今でも存在するのでしょうか?もしそうなら、それは何処にいるのでしょうか?そのメンバー達は誰なのでしょうか?それは今まで何を行ってきたのでしょうか?国際ナチスを出筆して以来、人々はこれらの問いを私に尋ねて来ました。実際に、私も、私自身にそれらを尋ね、そしてその他の著書 - 秘密裡の戦争と離脱文明秘密裡の戦争と文明の衝突の中で - 私はその問いに答えるために必要な下地を引く試みを行いました。この本は此処で、直接そうするための試みを行います。実際の要点において、この本の中に体現された素材の幾つかは、何年も前に、私が国際ナチスを調査している時に収集されましたが、私がその本の中には含まない判断をしたのは、その題名が示唆する様に、戦後のナチス主義とその活動の幾つかの、国際的な拡張に集中したためでした。

ですが、それらの問いに対する答えが、不穏であり、不穏な程単純なのは、その答えが、1944年8月の、フランスのストラスブルグのメイソン・ルージュ・ホテルにおける、ドイツの産工業家達と、ナチス党の指導者達の会合を考えると直ぐに示唆されるためです。其処でナチスの首脳陣とドイツの産工業家達は、フロント(建前)会社の世界規模のシステム、戦後のドイツとヨーロッパのための、ナチス党と企業の関心と目的の秘密裡の調整を保つための、企業-ナチス党の秘密のシステムを創造する事に同意しました。メイソン・ルージュ・ホテルの会合の示唆の慎重な熟考は、私が国際ナチスと呼んだ戦後の国境超越的な国家の主要な場と活動の中心が、ヨーロッパに集中されたままで、ドイツの企業的な権力の中心に集結された事を示唆します。国際ナチスは故に、カルテル(財閥)と信託(金融マフィア)として最も上手く特徴化される企業的な関係の星座(集まり)で、その背後に潜むのは、企業(財閥)と国家権力の融合の、再改革されておらず、再改善されていないファシスト思想です。

第二次世界大戦中の、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の財務長官だった、ヘンリー・モーゲンサウ・ジュニアの考案だった、モーゲンサウ計画の根底に実際にあったのは、企業と国家権力のその融合(ファシズム)でした。その戦争の最終段階の短い数か月の間、その「モーゲンサウ計画」は戦後のドイツのための公式な連合軍の政策に成りました。その計画の下でそのライク(ドイツ帝国)は、連合軍の権力によって占領されただけでなく、3つ、またはそれ以上の(小規模な)独立的な国々へと分解され、そして完全に非-工業化(農業国家)にされる予定でした。そのアイデアには特定の避けられない理論があり、大規模なドイツの企業の力と、ドイツの国家に対するそれらの掌握と影響力を打開するには、膨大なドイツの工業的な工場の完全な破壊しか無かったためです。モーゲンサウの計画は復讐のためのメモ書き以上のものでは無かったにせよ、もう一つの論理があり、そしてそれは、アメリカの専門家達が両方の大戦におけるドイツの戦争の目的に完全に気付いていた事で:ドイツの圧倒と指導力の下、故にライン(地方)の産工業の資本主義者達の圧倒の下で、全ヨーロッパ連邦(EU)を創造する事でした。それらの目的の一貫性、そしてそれらを追及するために(そして究極的に達成されるためと明言されるべきですが)使用されたパターンとテクニックが、この本の題材で、通常通り、悪魔は詳細に潜んでいます。

そのモーゲンサウの計画は、しかしながら、第二次世界大戦の終結において、ドイツの軍部による降服の道具(書類)の署名のインクが乾くと殆ど同時に頓挫し、そしてとても重要な理由のためで:本文の中で見られる様に、ナチスは、彼等自身のファシスト思想を、その権力構造の中に彼等が認識した、アメリカの金融的、そして企業的なエリートの、親-ドイツ的な同情と共謀し、利用する事を、彼等の主要な目標と目的の一つに定めたためです。その目的は、共産主義のブロックの「転がし戻し」が達成されるまで、西洋と共産主義のブロックの間のバランス(対抗)勢力に成るに十分な経済力と軍事力の「ヨーロッパ・ライク(帝国/EU)」が創造されるまで、西欧(欧米)と東欧(ソヴィエト)の間で、慎重な道、「中道」、または「第三の道」に、ハンドルを操作する事でした。この「第三の道」は、私達がこれから見る様に、西洋の金融的な資本主義でも無く、東欧の社会主義国家でも無く、ドイツ帝国の象徴と成り、それ以来ドイツの国内的、そして国際的な政策の原理的な構造の特徴のままに成った、金融カルテル資本主義(財閥)と国家社会主義です。

この本の中で検証されたこの権力構造のお得意のパターンとテクニックは故に、幾つかの分野に集中します:

1) カルテルの様な、そして信託の様な企業構造(財閥)の周りと、それらの中に国家の機能の組織を融合し、それは順を追って、官僚的な統治システムを有利にする法的な行程を通り抜ける組織的な官僚国家を強要し;

2) それらの構造は、順を追ってまた、ドイツに圧倒された通貨ゾーンへと、「通貨のカルテル化」を導入し、それはナチスとカルテルの彼等の仲間のはっきりとした目的でした。それらの目的は第二次世界大戦の間に明確に明言されただけでなく、その戦争の後にも、それらを準備するために詳細な計画が成されました。歴史を振り返ってみると、その戦争の結果はそれらの計画を変化させず、または影響せず、それは単に、それらを遅らせただけで;


3) 以前の著書¹ の中で私が概要した金融と物理学の間の関係は、ナチスの先進的な研究計画と、大規模なドイツの企業複合体との深い拘わりと共に、戦時中に行われただけでなく、戦後も続けられました。これに関連して、私の著書国際ナチスの中で、私は戦後のアルゼンチンにおけるロナルド・リヒター博士の「核融合」計画、そしてナチスのベル計画において深く拘わっていた A.E.G. 社との、その特定的な関連性を詳細しました。この本の中で高度な金融と企業的なカルテル主義の関連性は、本文の中で明らかに成る理由のために、私が「宇宙学カルテル」と呼んだセルンの大型ハードロン衝突器との関連において検証されます。此処においてもまた、歴史のパターンの一貫性と一定性は不穏な程に深遠です。しかしながら、この題材は、私が電気的な技術開発の天才で、理論家だったゲイブリエル・クロンの先駆者的な研究を最初に検証した、バビロンの金融マフィア達と、統一されたフィールドの秘密の中で、歴史的な背景が切り出された後にのみ可能でした。私の大型ハードロン衝突器計画の検証は、疑う余地無く極度に推理的で、その酷い宇宙的な示唆のために、私が今まで書いた中で最も難しい章の内の一つでした。それらは、読者が発見する様に、その衝突器について推測している殆どの陰謀論者達によって論説されている、世界を破壊するシナリオとはとても異なるのは、それらがとても異なった本質で、量子力学とセルン計画のあまり考えられていない要素の、宇宙学的で哲学的な示唆に直接繋がるためです。

4) ですが此処において証明され、再検証されるその他のパターンは、イスラム教過激派の、ユーロ-ドイツのエリート達の一貫的で一定的な利用で、そしてそれにおいてこのカバール(組織)の関心を進める事が出来る事においての不安定化の方法として、「(北朝鮮の様な)のけ者の国々」に先進的な兵器の科学技術を供給する事で、西洋の指導者として、アメリカがその堤防の漏れを止めようと世界中であたふたします。人はこれを、皇帝の下で始められ、ナチスによって留まらず続けられた「急進的な宗教の兵器化(過激派)」のテクニックと計画として見解する事が可能でしょう。その様なコンテキスト(文脈)の中で見解されると「対テロ戦争」は、「対国際ナチス戦争」を誤魔化す便利な方法かも知れません。


その題材が十分に扱われるためには、それ自体の厚い本を必要とする事は認められますが、この本が概要し、検証しようと試みる、最後の、そして最も重要な問題があります。その問題と題材は、誰かが指摘するまで人が気付かない、それら(国際ナチス)の明らかな物事の一つです。実際に、それはとても明白で、非-アメリカ的な活動委員会の、様々なマッカーシーの出来事と、彼の政府機能についての上院議会委員会の活動におけるアメリカ政府の戦後の省庁の中の「安全保障のリスク」の暴露(赤狩り)への大騒動から、マフィアの活動のマッカラン委員会の調査の努力まで、そして1960年代の政治的な暗殺まで、特にアメリカの戦後の国内の大荒れの政治的な場面の出来事が、出来事の歴史編集と解釈のためにそれが何を意味したのか、(少なくとも私の知識の中で)、一人の著者も研究者もそれ(国際ナチス)を明言する、または扱おうと試み、それを推理しようとしていないのは、私の意見において驚きです。

この時代の間には、私達を真正面から見つめている歴史編集的な問題が存在し、その後の出来事に対してその存在が何を意味したのかは言うまでも無く、それに明言する、または扱おうと試みる事を誰もしない事に、私は常に不思議に思わされました。その問題は以下の様に大胆に明言される事が出来るでしょう:第二次世界大戦中に始まり、連邦政府の中に深く、そして浸透した共産主義者の侵入と影響があったのは否定出来ないでしょう。戦時中のアメリカの暗号解読と戦後のソヴィエトの通信の、ヴェノナ傍受の最近の公開は、この侵入の浸透的で高く届く規模と影響力を明かし、幾らかの著者達は、アメリカの政治におけるその最も悪名高い説明者の一人のイメージ全体を再検証するに至りました。アメリカの政治における最も有名な名前の幾らかは、この努力と共に拘わる事によって権力への彼等の初めの台頭を達成し:マッカーシー上院議員は、勿論、殆どの人達の頭に思い浮かぶ人です。ですが同等に、ロバート・ケネディーとリチャード・ニクソンも、それらの努力との直接の拘わりを通して、彼等の政治的なキャリアを始め、そして幾つかのその他のキャリアも、それらの成り行きとして発進させられ、またはそれらにおいて鍵の役割を果たし:バリー・ゴールドウォーター、エヴェレット・ダークセン、ヒューバート・ハンフリー、カール・ムンドットでした。

ですが、同様に否定出来ない事実は、米国が戦後の秘密裡の計画のために、ナチスを意図的に迎え入れた事で、そして更に加えて、東方の前線においてドイツの軍事的な諜報工作の責任者だったラインハルト・ゲーレン将軍との驚くべきファウスト的な取引をした事です。此処で再び、戦後のアメリカの政府的な構造と政策形成の中のナチスの影響力が歴史的な検証と推理の題材に成りました。²

その要点を簡潔に云うと、1950年代の初頭までに、米国の国家安全保障的な組織はその中に、共産主義者の派閥とナチスの派閥の両方を含んでいました。ですが、それが何を意味するのか、または戦後の出来事の解釈のために何を示唆するのかを推理する事は言うまでも無く、このとても明らかな(ナチス侵入の)事実に気付かない様でした。1940年代の終わりと1950年代の「赤の恐怖」の大騒動の背後に、連邦政府におけるお互いの影響力を暴露し、排除する事をお互いに求めた、それらの2つの派閥の間で更にもっと深く秘密裡の戦争が行われていた可能性は無いでしょうか?その問いへの答えは、示唆された様に、詳細において答えるためには1冊、または複数の本を必要としますが、私が信じるにその答えは慎重な「イエス」で、そしてその答えはこの本の第三部の中で探求されます。私達がこれから見る様に、その時代の最も悪名高い代議士、ジョセフ・マッカーシーのキャリアと主張の、最近における歴史的な再検証の中には詳細が潜んでいて、それは私がその他の本の中で探求したテーマ、金融の隠されたシステム、三国同盟の略奪、不透明化されたゴールド、そして国際ファシストのテーマに直接結びついていて、その上院議員の主張 – 共産主義 - に固執する事によって修正論の歴史家達が見逃がしたものです。

ジョセフ P. ファレル
2015年

何処かから
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¹ 私の賢者の石:錬金術とエキゾチックな物質のための秘密の研究(フェラル・ハウス、2008年)とバビロンの金融マフィア達:深い物理学の錬金術、高度な金融、そして太古の宗教(フェラル・ハウス、2010年)を参照して下さい。
² これに関しては、クリストファー・シンプソンの素晴らしい研究、ブロウバック(逆噴射):アメリカのナチスの引き入れ、そして私達の国内外の政策上のその大災害的な効果の最初の完全な説明(コリアー・ブックス、1988年)を考えるだけで十分でしょう。


PART ONE:
第一部:

WELTMACHT ODER UNTERGANG

「西洋の勢力に対処する事におけるアデナウアー博士のタイムテーブル(予定)の全体が、ボン(西ドイツの首都)の外務省の彼等の元々のナチスの同僚達と、ドイツの主要な新聞において、定期的に指示を与えている、マドリッド(スペイン)とブエノス・アイレス(アルゼンチン)からの、それらの「無責任」なハウスホッファー-リーベントロップの弟子達によって、慎重に準備されたと言う否定不可能な証明を供給している大量の素材があります。」
- T.H. テッテンズ
ドイツはクレムリンと共に策謀する(1953年)、23-24ページ。

1. A Very Strange and Prescient Document: The Madrid Circular
1. とても奇妙で先見的な文献:マドリッド回覧書


「米国が、キエフのナチスと、ポロシェンコ個人、そしてその(ウクライナの)政府を完全に操作しているのは明らかで、そしてそれはドンバス(ロシア)に対するこの戦争を、正に終わりまで追求する様に後押ししています・・・これは、米国による私達(ロシア)に対する戦争です・・・ですから私達は、ウクライナにおける大災害を解決する鍵はワシントンにあると理解しなければなりません。其処が、ナチス主義が打倒されなければならない場所です。

- ロシアの経済学者で、ロシアの大統領、ヴラディミア・プーチンへの助言者、セルゲイ・グラジェフ¹

1950年において、表向きには偽装されたナチスの組織(フロント)、マドリッドにおけるドイツの地政学的なセンターは、私が幾度となく国際ナチス、または国際ファシストと呼んだ、高度な人脈を持つ人達の注目すべきグループのための、地政学的政策と目的を概要した、着目すべき長文の最上級の機密書類を、そのメンバー達の間に回覧させました。人はそれを妥当に戦後の国際三国同盟と呼ぶ事が可能で、元三国同盟の勢力と、その手先の軍部、諜報工作機関、プロパガンダ、そして外務省で、旧日本海軍の士官達、憲兵隊、ヤクザ、全ての軍部の枝葉からのドイツの退役軍人達、ヨアキム・ヴォン・リーベントロップの外務省の要素、ナチス党の執行部、SD、イタリアのファシスト党からの退役軍人達とレジア・マリナ、ベルギーのレクシスト達、オランダのナチスとクロアチアのウスタシの・・・彼等が全て含まれました。彼等を統一したものは、共通の思想と目的で:その思想は権力で - 生々しくむき出しにされた権力で - 共産主義に対抗し、そして究極的に打破し、そしてその後、西洋の主要な勢力である米国を打倒する覚悟でした。この結果を達成するために、彼等は、標的のブロック(東欧/ソ連)の中で、国際的でファシスト的な秩序である、国際的で企業(財閥)的な社会主義の思想を分かち合う者達と共に、彼等自身を同盟させました。

それは、邪悪なエリートで、そして相変わらずで、西洋の権力の正に最上級の階層と、国際的な犯罪組織の正に根底と繋がっています。そして - 全ての信号機に監視カメラが設置され、マグナ・カルタまで遡る原則的な自由が攻撃の下にあると共に - 想像可能な最もドラコニアン(過酷)な警察国家への、西洋の「民主主義」と「共和国」の失墜、そしてその間、歴史において最も大規模な詐欺を行った銀行家達(金融マフィア)が、刑務所に送られるでも無く、彼等自身に巨額のボーナスを与え、更に選出された「代議士達」が、一つのファシストのコインの両側でしかない事が益々明らかに成る事によって判断すると - 彼等(ナチス)は生き残っただけで無く、彼等の元々の敵国達の正に中枢へと、彼等の思想を移植する事に大々的に成功しました。

端的に、もし、米国、または英国と英国のコモンウェルスの国々、もしくはヨーロピアン・ユニオン(EU)、または NATO、そしてIMFBIS (国際決済銀行)の政策の発表が益々ファシスト的に見えるなら、これは第二次世界大戦の終わりに、アメリカの諜報工作機関の要素によって、ファシストの悪魔と共に結ばれた手打ちと取引の結果のためです。

ドイツは降服しましたが、ナチスはそうしませんでした。²

A. The Two Problems of the Madrid Circular and a Methodological Implication
A. マドリッド回覧書と方法論的な示唆の2つの問題


1950年マドリッド回覧書以上に、ナチスの降服の不在の重要性を噛み締めさせる文献はありません。このとても奇妙な文献が、その明らかなナチスの全体性と共に現れたのは、ドイツ(ユダヤ)系アメリカ人、T.H. テッテンによって、1953年に、同等に奇妙な本の中で公表された時でした。その本の題名は、その内容の奇妙さに焦点を当て、そしてその主要なテーゼを公表し:ドイツは、クレムリンと共に策略するで、そしてその副題はその同等に大胆な内容を公表し:今まで発表された事はありません:米国を裏切るための、ドイツの秘密裡の計画を明かす書類でした。その内容は - 「マドリッド回覧書」の他に - 雑誌の記事と様々な西ドイツのメディア機関と、戦後の最初の首相、コンラッド・アデナウアーの政府の役人達の署名入りの記事を含み、それらは、元々のナチス、または彼等に弱みを握られた人達であると、テッテンは主張しました。

しかしながら、その文献には2つの問題があります。一つは、その文献には - この筆者が現在まで確認出来る限り - 出処先が不明です。それは、1953年出版の、テッテンの著書以外に、その全体として存在しません。第二に、この出処先の不明にも拘らず、その内容の息を奪う様な地政学的な見識の規模は凄まじく、ヨーロピアン・ユニオン(EU)の現在の構造が示唆され、しかもこれは、1953年に出版された本の中においてでした!実際に、人がマドリッド回覧書を読んだ時、その文献の多くの要素は、その文献が、それが書かれたとされる1950年では無く、2015年の地政学的、そして金融的な世界に奇妙にも、殆ど応用可能と錯覚させられそうです。

これが示唆するのは、その起源の証明、または否定の一つの方法は、詳細においてその内容を検証し、第一次世界大戦まで戻って、ドイツの戦争の目的に関するその内容を確認し、そして第二次世界大戦後のドイツと、その他のヨーロピアン・ユニオンの推進者達の構造と明言を吟味する事です。平行線が有れば故に、その正真正銘性を確立するでしょう。

B. The Contents of the Madrid Circular
B. マドリッド回覧書の内容


その文献自体は、「朝鮮(半島)における戦争と、ドイツとヨーロッパのための世界政治的な可能性」と題され「最上級機密!」と規定されました。³ その表向きの配達は、その文献の最後に付属されたとても短いリストを含み、それは単純に、そしてある意味謎めいてこう読めます:

M. 博士。
v.T., ボン
ロム
バルセロナ、
ブエノス・アイレス、
Z.A.⁴

2つの個人的な名前 - M. 博士と「v.T., ボン」 - のどちらの正体も私が確認出来無かった間、この少々曖昧なリストから浮き上がるのは、そのマドリッド回覧書が、戦後の国際三国同盟の典型的な中心地:ボン(当時の西ドイツの首都)、ブエノス・アイレス(アルゼンチンの首都)、ローマ(ヴァチカン)、そしてバルセロナの広い分布でした。⁵

加えて、その文献は以下の部分へと分類されます:

1.ポツダム宣言の5年後の世界の状況⁶

2.現在の危機(朝鮮戦争時)のドイツとヨーロッパの役割⁷

3.朝鮮 - ワシントンにとっての危険な賭け⁸

4.米国の政治的、そして軍事的な強さ⁹

5.ドイツは、米国に対して、義務を有しているか?¹⁰

6.国外追放者達(「Die Heimatvertriebenen」)¹¹

7.Weltanschauung と未来のための世界権力政治¹² の可能性¹³

最後に、その文献は、1950年9月に書かれたと主張します。¹⁴

その様な詳細は、しかしながら、その文献自体の爆弾発言的な内容からは程遠いものです。それらの文献の再検証を手助けするために、私はその現代的な重要性を描写するために、異なった題材へとその文献を分類しました。

1. The Cold War, Europe, and the Third Way
1.冷戦、ヨーロッパ、そして第三の道


そのマドリッド回覧書によると、朝鮮戦争の始まりは、「もし、ドイツが用心深い外交政策に続くなら、彼女に」完璧な好機を与え、「実際に、ドイツは既に、現在の戦争の状況の御蔭で、多くの優位性を得た。」¹⁵ それらの「絶好機」は、しかしながら、「ロシアとアメリカの大国の間で、ヨーロッパがそれによって破壊されるあらゆる発展を避ける事によってのみ実現化される。」¹⁶ 言い換えると、西ドイツ、そして故により広いヨーロッパの外交政策は、東側のソヴィエトのロシアのブロックと、西側のアングロ-アメリカのブロックの間の緊張を利用すると同時に、それらの緊張がヨーロッパの中心から離れて集中する様に保たなければなりませんでした。もしこれが、ウクライナにおける現代の危機の始まりにおけるフランスとドイツの外交になんとなく類似している様に聞こえるなら、何故ならそれがそうだからです。

ですが、更にあります。

「ドイツの外交の目的、そしてヨーロッパ全体としてのものは、その状況に全くどうであれ、あらゆる新たな世界の紛争において、中立を保たなければならない」¹⁷ と、そのドイツの地政学的センターは、私達に教えます。此処において着目する価値があるのが何かと言うと、ドイツのためだけでなく、歴史のこの段階においてそれ自体を共通の市場へと形成させ始めていたばかりだった、ヨーロッパ全体のための政策の立ち位置を形成する、その明言の自信の音色です。ヨーロッパの金融的な統合は、未だに何十年も先で、そして共通のヨーロッパの政治的な統合の構造は、未だに達成される前でした。直ぐに目撃される様に、共通の習慣、金融的、そして政治的な統合の目的は全て、マドリッドにおけるドイツの地政学的センターの目的で、そして故に資金援助している「国際三国同盟」のものでした。故に、その明言は単なる虚勢、または都合の良い考えでは無く;それは政策で、そしてそれを形成している態度は、戦後の世界の冷酷な程に冷笑的な現実政策の見解でした。

この冷酷さは、「その状況に拘わらない」中立性のこの政策が、少々後に説明された時に、直ぐに明らかに成ります:

「今日のイングランドとフランスは、未だに占領されている西ドイツ共和国よりも、恐らく米国に頼っている。

「ヨーロッパは今日、一方で、厄介な戦略的な位置にあるが、しかし、もう一方で、ソヴィエトの大国と米国にまたがる、地政学的な中心である事の優位性を持つ。現在の状況は故にヨーロッパが、その2つの大国の一つに飲み込まれる事を回避するために、両方の側に対して防御する事が必要と成る。ドルの帝国主義はあらゆる方法において、共産主義よりも攻撃的、または無謀では無い事は全く無い。英国とフランスは、元々の「連合軍」で「戦勝国」ではあるが、その同情を彼等(米国)が得る事を望む我々、ドイツ人達よりも、より大きな規模まで横暴なドル外交の衝撃を感じる。

「今日の西欧は、アメリカのために振舞う衛星国の役割まで降格された。シューマンのフランスと、ベヴィンのイングランドは、ワシントンの笛吹きの音色で踊る。ヨーロッパは、厚かましく、恥知らずなドル外交のための遊び場として使用されている。彼等の確かな政治的な教育の御蔭で、ドイツの中流階級と労働者達は、直ぐにその状況の全体を把握する事が出来た。」¹⁸

この文章には、幾つかの重要で繊細な点があります:

1)その明言はヨーロッパが当時、ワルシャワ条約と台頭してきていた大西洋-NATO 連合システムの間の鉄のカーテンによって分断されていた間 - 少なくともその西側の半分については - それ自体の権力のブロックの効能である事を記述し;

2)その文章はまた、アメリカの権力の土台が、それが「ドル外交」と呼ぶものと記述した戦後における最初の文献の一つで、そのフレーズはこの場合、アメリカの金融的な権力の道具のための短縮形の表現として人は理解可能で:

a) 連邦準備銀行個人私有銀行)、米国ソヴリン(主権)株式債券市場、両替(為替)安定化ファンドで、

b) ブレトン-ウッズの同意の直後において確立された国際的な金融の制度とメカニズムで、i.e. IMF (国際金融ファンド)と世界銀行で;そして最後に、

c) 戦後の国際ナチスの重要な構成要素の一つとして、マドリッドにおけるドイツの地政学的センターが、殆ど間違いなく少なくとも幾らかの知識を持っていた、三国同盟によるヨーロッパとアジアからの略奪のその使用における金融的なシステムである、共産主義に対する秘密裡の作戦のための隠された金融のメカニズムとして、そして長期的な科学技術の開発を資金援助するためのメカニズムの確立として、アメリカが三国同盟の略奪の幾らかを利用する事で;

3)最後に、その文章は、その戦争の後のたった5年後においてドイツの人口(国民)は、大々的に未だにナチスの教育システムの影響下にあり、そしてその様なものとして、地政学的、そして外交的な「状況の全体を直ぐに把握する事が出来た」として、ナチスの教育は、ソヴィエトの共産主義と西洋の資本主義の両方がヨーロッパ、そしてドイツの最善の関心に対するアンチテーゼ(正反対)と言う知覚を創造した事の、賢く比喩的な一般概念でした。

共産主義に対する秘密裡の活動の裏金(賄賂)の形状において、その「ドル外交」の殆どを支えている、莫大な三国同盟の略奪を、マドリッドのドイツの地政学センターが間違いなく知っていた事実の示唆を人が考え始めた時、その文献の冷笑さが、より明らかに成るのは、その知識が意味するのは、アメリカの「援助」の形状において西洋に米国のドルが流れ込む間、その援助の幾らかは三国同盟の略奪の形状においてであったためです。故に、ドイツの地政学的センターと長期的なナチスの戦後の政策が、一つの「投資」から二重に利益するのは、その「ドル外交」からそれが利益する間と同時に、ヨーロッパの勢力とそれらの人口に対してそれがもたらす服従的な地位のための憤りの火を燻らせさせたためです。

その結果として、その回覧書は、はっきりとした言葉で、その最初の長期的な外交政策の目標を明言します:

「これから来る数か月の間、ドイツの外交政策は、東方と西方のブロックの間の争いの繊細な利用を促さなければならない。我々の近未来の目的は、西ドイツのために完全な主権を取り戻す事でなければならず、それは最終的に、ヨーロッパ全体のための行動の自由の再構築に結果する。加速する速度と共に、私達がアメリカの操作(支配)からヨーロッパを解放しなければならない地点に、我々は近づいている。その方法とタイミングを判断するのは、我々にかかっている。」²¹

もう一度再び、「西ドイツのための完全な主権」を取り戻す事が、「ヨーロッパ全体」のための「活動の自由」のアイデアと対にされている事に着目して下さい。言葉を変えると、ドイツの地政学的センターは、政治的な状況の現実をはっきり見解し:米国とソ連の2つの膨大な勢力に対して、伝統的なヨーロッパの勢力の政治には全く場所が無いのは単純な理由のためで、個々のヨーロッパの権力 - イタリア、フランス、英国、そしてドイツは - それぞれにそれら(米ソ)と競争するための、経済的な強さも、軍事的、そして戦略的な懐の深さも、持っていなかったためです。

加えて、「アメリカから解放された」ヨーロッパの目標がはっきり宣言され、そしてこれは、フランス、または英国のあらゆる独立的なロシアとの接近を排除する事を求めるコンテキスト(文脈)においてです:

「フランス、またはイングランド - もしくは両方とも合同で - 独立的な政策に戻る危険性がある。それらの勢力の一方、またはもう一方が、ロシアとの同意に至る可能性があり、どちらの場合においてもこれは、ドイツと米国に不利に働く。その様な可能性は何が何でも避けられなければならない。ドイツはヨーロッパの政治において決定的な要素に留まらなければならず、そして正しい時に言葉を与えるのは彼女にかかっている。

「ドイツの外交政策は、更なる世界大戦からヨーロッパを回避させる舵取りをする見解において方向づけられなければならない。その様な政策のための状況は好都合である。ヨーロッパの国々は、平和を求めている。フランスとイングランドの自己-関心は、新たなホロコーストは避けられなければならないと、はっきりと要求する。ヴァチカンの関心も、同じ線に沿って続く。我々の最上級の関心は、ドイツの国力とその国民のポテンシャル(効能/可能性)の保存に対して献身されなければならない(「Erhaltung der deutschen Substanz」)。」²²

言い換えると、その他の2つのヨーロッパの勢力は、それらの活動の自由が制限され、そしてドイツのものに対して縛られなければならないと言う事です。

そしてそれは、勿論、西洋の経済、そして最終的に政治的な制度を一つに結び付ける事によって、何らかのヨーロッパ連邦の一種を通して最も上手く達成されます。ヨーロッパ連邦のコンテキストにおいて、ヨーロッパの列車は、ドイツのエンジンが行く処に向かうでしょう。

「戦争に反対するヨーロッパの全ての国々の浸透的なムードと、そしてイングランドにおいて殆どの人々が、次の戦争はアメリカによって挑発されたものに成ると信じていた」²³ と記述し、そのマドリッド回覧書はその後、「それにおいてヨーロッパが危害を与えられず救われる、ロシアとアメリカの間の疲弊の戦争は、第三の勢力のブロックの台頭において自動的に結果する」²⁴ と冷淡に記述し、つまり、ドイツに導かれたヨーロッパ自体です。²⁵ 「アメリカからヨーロッパを解放する」目的の追求において、その回覧書は、「東との緊密で経済的な協力と共に手取り足取り行く、意識的な中立の政策」を主張し、その政策は「長期的な見解の視点から、単なる親-ソヴィエトの方向性に取って代わる。前者は最終的に我々の自由をもたらす間、後者は我々を属国の地位に留める。」²⁶ 十分に奇妙な事に、これは正にドイツの政策の様に現れ、そして故にヨーロッパ(の政策)で、1992年におけるドイツの再統一以来、ロシア、中国、インド、そして南アフリカの強力な BRICS のブロックの形状において、ロシアとアジアに相対して続きました。この結果に対してその回覧書は、最近のフランスとドイツの政府の親しみのある政策に成った更なるもう一つの政策を主張し、そして実際に、より広いヨーロピアン・ユニオンの親しみのある政策です:

「我々は、ドイツが常に、西に向かった方向性を便法(権道)の政策、または状況の圧力の下でのみ追及されたものと考えた事を忘れてはならない。1918年の後のナポレオンの時代において、そしてまた1945年の後においてもその様な場合いだった。我々の偉大な国家的な指導者達の全ては;故に大フレデリック、ヴォン・ビスマルク伯爵、ヴォン・シークト、ブロックドルフ-レンツアウまで、そして、過去30年における我々の代表的な地政学者達の全ては、東との緊密な協力の長期的な政策を、一貫的に隠した。」²⁷

此処における適切な問いは、現在のドイツのヨーロッパにおける政策と、マドリッド回覧書の政策が単なる偶然なのか、もしくはマドリッド回覧書の政策の推薦が、より深い経済的、そして思想的な目標とプレーヤー(関係者)達を反映しているのかと言う事です。

その問いへの答えは、以後の章の中で目撃される間、上述のリストの中で何が重要かと言うと、ヴォン・シークトが上げられる事です。Generaloberst²⁸ ハンツ・ヴォン・シークト(1866-1936年)は、第一次世界大戦後に、ヴェルサイユ条約によって許された小規模なドイツ軍、Reichswehr の司令官でした。これは、100,000人以下の兵士達に制限された陸軍と、単なる10,000トン級以下の主要船を共にした小規模な海岸線警備の海軍でした。その陸軍は更に、15cm 口径以下の砲弾に制限され、そして戦車、または戦闘機を所有する事が許されていませんでした。ヴォン・シークトはこれを制限として見る事からは程遠く、一つの好機として理解し、その小規模なドイツ陸軍を徹底的に訓練し、それによって大々的に拡張された士官兵団の中核を創造し、それは、徴兵制が最終的に再開された時に、その陸軍が高度に有能でプロフェッショナルな中核に成り、そしてその周りで徴集兵達が組織化される事の出来る、組織管理において高度に訓練された士官兵団に結果しました。ヴォン・シークトはまた、ソヴィエト連邦とワイマー(ドイツ)共和国の間のラパロ条約(1922年)の中で秘密裡のプロトコルを強く主張し、それはドイツの兵士達がロシアにおいて、ヴェルサイユ条約の下で彼等に禁じられた正に戦車、戦闘機、そして重砲弾と共に秘密裡に訓練する事を許しました。当時の2つのヨーロッパののけ者国家の間のこの秘密裏の同意の下、ドイツ人達はソヴィエト連邦において戦車、砲弾、そして戦闘機の製造の工場を造り、それは其処で訓練していたロシア人達とドイツ人達に武器/兵器を供給しました。1920年代において一緒に訓練したドイツ人とロシア人の士官達の多くがバーバロッサ作戦の間に敵としてお互いと向き合ったのは、この同意の皮肉でした。²⁹

ヴォン・シークトが上げられたのが高度に象徴的なのは、条約によってドイツに対して課せられたあらゆる武力の制限を秘密裡に迂回する、意図的で、そしてナチス時代の以前の早期の意図を彼が体現するためで、第二次世界大戦後のマドリッド回覧書を読んでいたドイツの指導者達が、見逃す事の出来なかった象徴性だったためです。その政策は、第二次世界大戦後の西ドイツでもまた慎重に引き継がれ、それはラパロの型板に続き、その他の「のけ者国家」と共に様々な秘密裡の再武装計画を始め、南アフリカとイスラエル、そしてもっと最近には、私達が今後見る様に、イラン(!)を含む、核爆弾開発の計画を始め、ドイツの科学技術を使用し、実際の開発を行い、その兵器の試験を行う代理国家を通してドイツの核抑止力を創造するためにデザインされていました。³⁰

ヴォン・シークトはまた、何か他のものを象徴し、そしてそれはワイマー・ドイツがウィルヘルム皇帝のドイツ帝国の継続のままだった延長性です。実際に、ウィルヘルム以後のドイツは、その皇帝の鏡写しのイメージでしか無く:同じ企業的、そして軍部的なエリート達が権力を有し、その政権の象徴的な頭 - その皇帝だけが - 変えられました。驚くなかれ、そのマドリッド回覧書もまた第二次世界大戦後のこの正に同じエリートの一貫性に言及し、更にもう一つのその政策の推薦において、それはその生々しいナチスのグース・ステップ(ナチス軍の行進のステップ)の全てと共に、そのはっきりとした長期的な目標を明言するものです:

「未来においてドイツに必要なものは、民主主義では無く、ドイツ民族の復興と、世界における権力の中心としてのヨーロッパの再確立のために、ドイツの政治的、そして軍事的なエリートが、ヨーロッパの産工業的な可能性と、ドイツの人々の軍事的な性質の組織化を可能にする、ソヴィエトの独裁主義に類似した国政術のシステムである。」³¹

マドリッド回覧書の主張と、戦後のヨーロッパの実際の現実との間の継続性の問いは、更にもう一つの形状においてもう一度再浮上し:皇帝から、ワイマーとナチスの時代を通して、戦後の(西)ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)まで、継続的なエリートの何らかの示唆はあるでしょうか?その問いに対するその答え、そして思想的、政策的、経済的、そして概念的な継続性のその他の問いは今後の章を待たなければなりませんが、現時点において、注目されるべきは、そのマドリッド回覧書は単純にそれがそうであると、当然と推測する事です。その明言における主張は巧みですが、そうであれとても鮮明で:ドイツの政治的、そして軍事的なエリートは、その戦争の後も継続しました。

2. More Madrid Circular Cynicism: The Korean War, The British Problematic, The
American Economy and Military
2.更なるマドリッド回覧書の皮肉:朝鮮戦争、英国の問題、アメリカの経済と軍部


あたかもこの一般論の全てが十分では無いかの様に、その文献はそれが特定事項に触れ始めた時、その冷淡さの真の深さだけでなく、真の巧妙さを見せる様に成り、この場合、台頭してきていた朝鮮戦争のコンテキストにおける戦後の英国と大英帝国の衰退でした。その回覧書はこう述べます:

「英国が、朝鮮における米国の政策を、心半分しか支持していない示唆がある。もし、アメリカ人達が朝鮮から追い出されれば、するとアジア全体における英国の威厳は苦しむ事に成るが;もし、ヤンキー達が勝利したとしても、アジアの全ての憎しみは、アメリカ人達に対してと同じ位、英国に対しても強まるだろう。英国人達は、彼等のアジア的な状況におけるワシントンの介入の不器用な手を多大な嫌悪と共に見解している。ロンドンは、その戦時中に米国において行われた、うるさい親-インドのプロパガンダを多大な苦みと共に覚えている。ロンドンは、ロシアでは無く米国が、大英帝国の墓を掘ったと非難されなければならないと気付いている。米国はイングランドを救うためにその戦争に介入したとされるが、大英帝国を解体するために多大な熱意と共に活動した。」³²

その回覧書が提案しているのが、ルーズベルト政権によって、第二次世界大戦の間と戦後の直後に推進された政策に対する、英国のエリートの中の不満を利用する事だと理解するために、行と行の間を深く読む必要はありません。その目標は、はっきりとは明言されていませんが、同等に明らかで:この英国のオリガーキーの不満の利用は、もしヨーロッパの勢力のバランスが、英国の国家安全保障を危険にさらすまで原則的に変化させられなければ、大陸側の政治からそのソヴリンティー(主権)を遠ざけて保つ、数世紀に渡るその外交的な政策を見捨てる様に英国を誘導する事でした。この場合、その回覧書は、英国に対する本当の危険の可能性は、大西洋を渡ったその元植民地(米国)から来ると明らかに指摘しています。³³

その回覧書の、イスラムの利用と不均整の戦争へのその後の曖昧な言及を与えられると示唆と共に重い、類似した分析的な正確性と共に、その回覧書はアメリカの軍は、科学技術的には格別に手ごわいが、その正に科学技術的な腕前が意味するのは、「その軍隊が制限されていて、そして極度に浪費的である」というアキレス腱を持っていると指摘します。³⁴ 少々後に、この分析は、世論の支持の欠如のため、そして共有された経済的、そして地政学的な関心よりもむしろ、「ドル外交」によって形成された連合にそれが頼るために、アメリカには長期的な戦争を保つ能力が無いと言う深い分析を共にした幾らかの典型的なナチスの傲慢さと共に支えられます:

「彼等は何十億ものドルをばら撒く事は出来るが、彼等には超一流の政治家達、計画者達、軍事的な指導者達、科学者達を有しておらず、自己犠牲を率先して行い、大いなる歴史的な出来事を達成する能力のある人々(国民)も持っていない。彼等は、魅力的な思想さえ持ってはい無い。アメリカの誤算の要点は、仲間(連合)がドルで買う事が出来ると言う信念だ。連合は思想と共に固められるのでは無く、共通の関心の上に正に置かれている。連合はまた、関心が共通である限り尊重される。だが、アメリカの関心は、アジア、またはヨーロッパの関心と平行線を辿らないどころか、英国、またはラテン・アメリカのものとも一致しない。」³⁵

(あたかもそれが何らかの主張を必要とする様に)ナチス主義は全く「魅力的な思想」では無いと人が主張可能な間、世界の舞台上のアメリカの行動が益々友好国を遠ざけさせ、そして最近のウクライナ-ロシアの制裁危機が証明する様に:アメリカによるロシアとの衝突からヨーロッパが得るものは殆ど無く、失うための多くがあり、特にヨーロッパの殆どがロシアからのエネルギー供給に頼り、そしてその貿易の殆どは、米国では無くアジアに向けられているためで、その分析の残りは再び、現代の状況に不気味にも予知的です。

ですが現代的なコンテキストは横に置いといて、その明言は、1950年9月のマドリッドのドイツの地政学的センターのために何を意味したのでしょう?マドリッド回覧書にとって、それが意味したのは、米国に相対した西ドイツの立ち位置はとても都合よく、「ヤンキー達は、我々の助けのために高い値を支払う」ためでした。実際に、私がその他の場所(本)で記述した様に、たった四年後に、CIA とラインハルト・ゲーレン将軍への奉仕においてナチスは、(エジプトの)ファルーク王を失脚させ、英国とフランスの関心をエジプトから追い出すために、ギャメル・アブドゥル・ナサールを助けました。³⁶ 「我々の助けのために高い値を支払う」意欲は、更に加えて、「アメリカの高等弁務官(ドイツ大使)の側近の内輪から我々が入手した機密の報告書の全てから」マドリッドのドイツの地政学的センターに対して鮮明にされました。³⁷ これが少々驚きの告白なのは、1950年におけるドイツのためのアメリカの高等弁務官はジョン J. マクロイ(1895-1989年)以外の何者でも無く、彼はその役職において1949年から1952年まで務めました。思い出されるのはまた、マクロイが、70,000人を超えるナチスを免罪し(戦後の西ドイツの政治に彼等が関わる事を許し)、戦前においては I.G. ファーベン社のアメリカ人弁護士で、1936年のベルリン・オリンピックの間にヒトラーと観覧ボックスを分かち合い、そしてまた、ジョン F. ケネディー大統領の暗殺を調査していた(または、むしろ隠蔽していた)ウォーレン委員会の一員だった事です。³⁸ 言い換えると、マドリッド回覧書が、はっきりと、そして疑う余地無く明言しているのは、ドイツのためのアメリカの高等弁務官であり、順を追って、膨大なドイツの化学と軍産複合体、I.G. ファーベン社との太い人脈を持つ、ジョン J. マクロイのオフィスから内部情報を得ていたと言う事でした!

3. The Five Years Since Potsdam and the Postwar Nazi Diplomatic Offensive
3.ポツダム宣言から5年後、そして戦後のナチスの外交的な攻撃
a. The Postwar Nazi Propaganda Offensive
a. 戦後のナチスのプロパガンダ攻撃


マドリッド回覧書が、その主要な関心、ドイツに向き合った時、その最も驚きの主張の幾つかが成され、その主張は最初に読んでみると馬鹿馬鹿しい様ですが、少し考えてみると、その自信満々の分析によって確認されます。此処で人は、それらの主張を展開するために、少々時間を取らなければなりません。

「ドイツは、その戦争から、主要な利益者として台頭した。これは、ポツダムから5年の期間の元帳(帳簿)の中の我々の最大の資産である。賢いプロパガンダは、特にそれがその他のチャンネル(繋がり)を通してカモフラージュされ、方向づけられた時、最強の軍隊、またはスムーズに機能している国家の最善の外交サービスよりも、遥かにもっと達成する事が、国家の歴史において初めて証明された・・・我々は、アメリカの戦後の政策の変化において、全く無実なわけでは無い。我々にとってその戦争は全く終結しておらず、そしてよく知られている様に、戦争においてはあらゆる策略が許される。ドイツは、政治的な武器とプロパガンダと共に、経済的なサボタージュとその他の方法と共に、その戦争を実行する事を決して止めなかったと、我々が繰り返し言い過ぎる事は不可能である。ヤルタ(会議)において計画された様に、その軍部と経済的な効能の完全なる破壊に対してドイツを守るために、我々は大胆な計画を詳細し、柔軟でスムーズに機能する組織を創造し、それは、その戦争の終わりにおいて、戦後の期間の混沌の中から、ドイツのための必然によって派生した利益の全てのための事前状況を供給した・・・今日、しかしながら、ポツダム(宣言)の5年後、我々は誇りと共に、我々の達成を振り返る事が出来る。」³⁹

此処において主張されている事が何か、とても慎重に観測して下さい:

1)ナチスにとって、その戦争は「決して終わってはおらず」、私の著書国際ナチスの中で指摘した様に、1945年におけるドイツ降伏のいずれにおいても署名しているナチス党の代表は一人もおらず、ナチス党がそれ自体を犯罪的な組織として宣言し、それ自体を解体させる署名と宣言も全く無く、連合軍 - フランス、英国、米国、そしてソ連、更により小さな勢力達が - ナチス党の代表の出席と、その様な追加条項を強く要求出来た事を与えられると、降服の道具(書類)には(ナチス解体の)追加条項が奇妙にも欠けている様で、その事実に対して、その明言は奇妙にも妥当です。これに関して、故に、マドリッド回覧書の主張は、ドイツ降伏自体の状況によって奇妙にも協力証言されるようで;⁴⁰

2)加えて、その回覧書がまた主張しているのは、ドイツのWehrmacht (国防軍) の降伏にも拘らず、ドイツ国家(ライク/帝国)にとってその戦争は終わらなかったと言う事です。再びこれは、1950年においてドイツは未だ廃墟から掘り起こしている段階なので、最初の一見において狂気の沙汰の様です。ですがその主張が、1945年5月7日のフランスの Rheims と、1945年5月8日ベルリンにおけるドイツの2つの降伏の状況によってとても奇妙にも協力証言されるのは、両方の降伏において、ドイツ軍部の代表達だけが、それらの書類に署名したためです。ナチス党のための署名者は一人もおらず、当時、ヒトラーに指名され、そして Reichpräsident として公式な後継者だった、海軍大将カール・ドニッツによって代表された、ライク政府のための署名者も一人もいませんでした。それらの降伏の書類の唯一の署名者達は、アルフレッド・ジョドル将軍( Rhrims における降伏)、そしてベルリンにおける署名式の、陸軍元帥ケイテル、海軍大将ヴォン・フリーデバーグ、そしてスタンプ将軍で、それぞれがドイツの Wehrmacht(国防軍)の3つの(陸海空の)軍事部門を代表していました。⁴¹

3)最後に、そして最も重要な事に、その回覧書は、ルーズベルト大統領によって認められ、そしてその後、その他の2つの主要な連合軍の勢力、英国とソヴィエト連邦によって、1944年のヤルタ会議において認められた、戦後のドイツのためのモーゲンサウ計画を脱線させた手柄を主張します。この計画は、私達がこれから思考しますが、ドイツを完全に非-産工業化し、そして - どの様な方法においてかは不透明ですが - その人口を50%以上削減し、そしてその国を3つのより小規模の国々に分裂させる事でした。

b. Managing the Collapse of the Reich
b. ライク(帝国)の崩壊を操作する


ですが、ワイルドですが奇妙にも協力証言された主張は、更にもっと広く見渡す様な主張と共に続かれます:

「未来の歴史家達は何時の日か、結果的に、その敵の統一戦線を粉砕し、そしてドイツを再び新たな政治-戦略的な同盟において、とても熱望されたパートナーにした、それらの対策を自信を持った判断と共に創造した第三ライクの責任ある指導者達の素晴らしい先見性を明かすだろう・・・第三ライクの政治的、そして軍事的な指導者達は、多くの石頭達と無知な者達が私達に伝える様に、非-論理的な方法においてその大災害へと陥ったのではない。その「崩壊」(「Zusammenbruch」)と呼ばれるものの様々な段階と成り行きは、最も有能な専門家達(「faehigsten Koepfen」)によって研究され、そして計画された。この計画の結果、既にポツダムの数か月後に、戦勝国の状況が石の上に乗り上げたと言う事だ。」⁴²

上述された主張のリストに人は、更に2つを今、加えられるでしょう:

4)フランス、英国、米国、そしてソ連の連合の戦後の分裂は、ある延長まで、戦後の国際ナチスの活動によって助けられ、そして悪化させられ;そして、

5)その戦争の最後の数か月におけるその第三帝国の内在的な崩壊の段階は - 1943年初頭におけるスターリングラードにおけるドイツの敗北からと、人は考えるでしょうが - 恐らく、ドイツの重工業と軍事的な効能に、可能な限り長期的な損害を与えない様に和らげる見解と共に研究され「慎重に計画されました。」この研究は、この筆者の意見によると、恐らく、スターリングラードの大災害の後に、マーティン・ボーマンとその他のナチス幹部達が遂行した、戦略的な撤退の計画との連動において行われました。⁴³

c. Utilizing the Pro-German American Business and Financial Elite
c. 親-ドイツのアメリカの実業と金融的なエリートを利用する


この「崩壊の段階の操作」に加えて、そのマドリッド回覧書はまた、その操作 - そして最終的な復興が - どの様に達成されるかの指標のコンテキストの中にそれらの明言を置き:第二次世界大戦以前、そしてその間にも存在した、親-ドイツの事業の人脈を最大限に利用する事によってでした:

「西方、または東方の方向性のための判断は現実政治の要素によって影響された。1945年において広く広まっていた状況の光の下で、休戦のためのお手柔らかな状態、救済の対応、そして同情的な理解を我々が期待出来るのは、西側 - または、むしろ米国だけだった。アメリカにおいてのみ当時、ユダヤの三人組、ローゼンフェルド-モーゲンサウ-バルークの憎しみと復讐の叫びに影響され無かった、小規模だが影響力のあるグループが存在し、その戦争を通して上手く隠されてはいたが、一貫的な方法で、ドイツのためにその同情を保った。」⁴⁴

特定の感覚において、ローズベルト政権に対して「ローゼンフェルド-モーゲンサウ-バルーク」の三人組とするこの中傷的な言及は、戦後のナチスの高度なカバール(組織)の中の、その回覧書の出処の正真正銘性の可能性を物語ります。更に重要な事に、戦前、戦時中、そして戦後の、アメリカの事業とナチス主義の間の金融的な関係については、数多くの文献が記述されている間、それらの研究は、アメリカとドイツの事業の間の関係を、ヨーロピアン・ユニオンの台頭との何らかの関連において、見解しない傾向にあります。この本の中で私達が発見する様に、そうするための十分な理由があります。

何であれ、その回覧書は、このコンテキストにおいてその後、更にもう一つの驚きの主張をします:

「アメリカ人達をポツダム(宣言)から引き離し、理性へと戻すために、我々は一貫的で計画的な方法において混沌的な状況を組織した(「haben wir mit gruendlicher Systematik das Chaos organisiert」)。それは巧妙で政治的な抵抗で、組織されていない様に見え、そして殆ど目には見えないが、そうであれ必殺的な効果を持っていた。農夫達は殆ど無に近いものしか都市部にもたらさず;炭鉱からは石炭がもたらされず、産工業の歯車は回っておらず、人々は餓死の寸前に近づき;金融的なシステムは分解していて - ポツダムの計画(モーゲンサウ計画)を諦めて廃止する以外にヤンキー達には何も無かった・・・

「結果として、我々の敵の前線が分解しただけでなく、ソヴィエトもまた、東ドイツにおける破壊の彼等の狂気の計画を止めざる負えなかった・・・これは、その戦争の前と間の米国内の心理的、そして政治的な戦争の領域における素晴らしい計画を通して第三帝国の指導者達によって達成される事が出来た。」⁴⁶

これ等の主張を読むには2つの方法があり:ドイツのインフラと商業的な活動の戦後の崩壊は、連合軍の攻撃の下の帝国の崩壊の完全な結果で、そして戦後の国際ナチスは単純に、それを指揮したと主張しているだけなのか、またはその崩壊は、その文献が主張する様に、生き残っていた党の組織の意図的な戦後の秘密裡の活動によってある意味組織化され、激化させられていたのかのどちらかです。

ナチス、ファシスト達、ウタシ、ベルギーのレキシスト達、そしてその他の国家的なファシスト・グループがヨーロッパを脱出するための、それらの組織のラットライン(ヴァチカンに手助けされた経路)の活動の組織化を与えられると、私は2番目の見解を取る様に傾き、つまり、連合軍に占領されたゾーンの全てにおける、ドイツ経済の戦後の崩壊は、それらの各グループによって、ある意味助けられ激化されたと言う事です。その結果は、その文献自体が断言する様に、ドイツの完全な非-産工業化を目指したヤルタ-ポツダムの計画の廃止だったのは、西洋の連合軍とソヴィエトの間の緊張が高まると、両方の側が、ドイツの産工業的な可能性を、お互いに対する便利な同盟国として見解したためです。この計画がとても成功的だったので、戦時中の連合軍の分裂と、西ドイツに対する制限付きの主権の回復は、ナチスの指導者達が予測したスケジュールよりも、10年から15年前倒しで達成されると、その回覧書自体が観測します。

更に重要な事に、その回覧書は何か他の事を示唆し、つまり、この計画は米国内自体の心理的な作戦によって達成され、疑う余地無く、それが頼ったと以前にも自信気に明言した正に同じ事業の人脈を利用しました。最終的に目撃される様に、これもまた実際の要点からかけ離れてはおらず、その回覧書が実際に正真正銘の文献かも知れないと言う更にもう一つの指標です。

d. The Appearance of the Lack of Organization
d. 組織化の欠如の現れ


その回覧書によると、この「崩壊」と「復興」の秘密裡の操作を可能にしている一つの鍵の特徴は、ナチス党自体の「意図的」な崩壊と - 福音伝道主義の救済会などなどの様な - その名前が国家社会主義(ナチス)には全く関係の無い様な形状における、「救済」会の戦後の突然の台頭でした。この作戦のもう一つの要素は、その戦争の前にナチス国家によって禁止された政治的な政党の復活でしたが、勿論、ナチスによって完全に、侵入されていました:

「その崩壊の後でさえ、国家社会主義党(ナチス)は、生き残るため、そしてドイツの人々の国家的な見解を薄めないために数十の、表向きには無害の会とグループにおけるカモフラージュ(偽装)された方法(「getarnt」)において、任務を続けた。多くの小川が大河を造るために向かうのと同じ方法で、ゾーネン-ライヒ(帝国/国家/ライク)における様々な国家主義的、そして急進的なグループは、殆ど例外無く、価値のある強力なプロパガンダを遂行した・・・それらのグループが表面上において、より多種多様で、無関係に見えれば見える程、それらが中央的な組織によって指揮され、影響されていると言う(占領軍の権威の)疑いを派生させる確率は低い。」⁴⁸

言葉を変えると、小規模で、一見無害な救済、支援、そして募金の組織、そして更に社会民主主義者のキリスト教徒民主主義統合党の様な急進化(過激派)されてはいない政党の再台頭の背後でさえ、諜報工作機関と同体に成った秘密結社の様に、それ自体を地下に潜らせたナチス党が潜み、全ての活動を調整していました。このテクニックは、偶然にも、私達はとても異なったコンテキストにおいて、再び出くわします。

4. Dollar Diplomacy, Spies, and an “Anti-Dollar Diplomacy” Bloc
4.ドル外交、スパイ達、そして「反-ドル外交」ブロック
a. The Predicted Failure of American Policy
a. アメリカの政策の予測されていた失敗


その1950年のマドリッド回覧書の中でドイツの地政学センターが行う、より先見的で長期的な予測の幾つかは、戦後の直後の期間において、米国が行った政策の戦略的な示唆と成り行きに関係し、その成り行きは、その回覧書の詳細な検証において、とても現在的過ぎる様で、「太平洋(東洋)側に回転軸/方向性を移転する」試みにおいて、そしてムスリム世界における不安定化の活動の雪崩に対処するにおいて、米国はヨーロッパからの増大的な抵抗に出会うためです。その回覧書はそれらの主張を全体的な枠組みの中でコンテキスト化します:

「アジアにおける彼等のアマチュア的な政策の失敗の後、アメリカ人達は何時の日か、ヨーロッパにおいて更にもっと痛烈で破壊的な転覆を経験するであろう。その結果は、我々が随分前の1944年に予測した様に成り:彼等は世界全体を彼等に対して奮起させるだろう。」⁴⁹

もう少し歴史的なコンテキストに入れてみると、その回覧書はアメリカの「ドル外交」の究極の行き付き先は、1944年においてナチスの指導者達が予測したとそれが主張する結末であり、数世紀以前のヴェニスの最もうららかな共和国の行った「デュカット外交」と変わりないのは、当時も「デュカット外交」は全体的な腐敗と外交的な二枚舌、そして強引な手立てに繋がり、最終的にヨーロッパ全体が、カンブライの連合の戦争においてヴェニスを永久的に破壊するための連合を形成する事に繋がったためです。⁵⁰

実際に、この長引かされた、そして「国際的な勢力関係における深遠な変化」の「延長された変格の期間」の間、その回覧書は、「ヨーロッパ、アフリカ、そしてラテン・アメリカから新たな政治的なブロックを創り上げる事は、ドイツにとって可能であると証明されるであろう」と言う観測を提供します。⁵¹ 再び、人がその回覧書の予見力によって驚かされるのは、現代のドイツがヨーロピアン・ユニオンの正に中心で最も重要な構成要素であり - ブラジル、ロシア、インド、中国、そして南アフリカの - ブリックスの正式なメンバーでは無い間、それでもドイツはブリックスの2つの最大勢力、ロシアと中国の貿易パートナーであり、その他の3国とも友好関係にあるためです。それは、ある意味、そのブロックの中の非公式な「メンバー観測者」です。更に重要な事に、その回覧書は「反-ドル外交」連合のコンテキストにおける「新たな政治的ブロック」の創造についてのこの洞察を提供し、ブリックスのブロックは、益々そう成ってきています。そしてこの全ては、再び、1950年に出筆されたと主張され、1953年に初めて公表された書類の中においてです!

ですが、結局の処、ナチスはナチスですから、彼等自身の誇張と二枚舌の度合にも限度が無く、それをその回覧書ははっきりとした言葉で綴り出します:

「その後、何時、そしてどの様にして、その外交と国内の政策によって弱められたアメリカを我々が乗っ取るのかは、我々の外交とプロパガンダの巧みさにかかっている。その様な計画は、西洋世界に最も破壊的な成り行きをもたらすであろう、米国の資本主義とソヴィエトのブロックの間で戦われるであろう、三度目の世界大戦を妨げる優位性がある。その様な計画は西洋世界の資源の保存に幾らかの時間を保証し、そしてその後、大いに強化された後、我々は - ドイツの指導の下 - 白人種とスラヴ民族世界との間の最終対決の段階に入る。その様な対決の機会に、我々は、アラブのブロックと可能な限り多くのアジアの人々(民族)を我々の側(味方)に引き入れなければならない。ドイツは、アジアの憎しみを台頭させなかった幸運な位置にある。其処で我々は、弱者のための指導的な代弁者として踏み込む事が出来る。」⁵²

言い換えると、その回覧書は、国際ナチスの究極の目的が以下であると提案しています:

1)内側からの秘密裡の吸収(co-op)とクーデターによる米国の乗っ取りで、そうするため広く秘密裡のネットワークが、その国の中にある事を示唆していて;そして、

2)それに引き続き、「スラヴ民族世界」i.e. ロシアとの最終的で全滅的な対決のためにアメリカの軍事力と経済の強さを使用する事です。東向きに方向づけられた和解の話の全ては、単純に仮面の一種で、中期的なヨーロッパ-ドイツ-国際ナチスの統制には十分当てはまりますが、その目的の究極の範囲においては当てはまりません。

その回覧書が提案するこの静かなクーデターの一つの方法は、「ある日、米国を現在の目覚ましい高さから突き落とす、経済的な問題」によってです。広く広まったこの種の「大災害は、巧みな操作と人工的に派生させられた危機を通してもたらされる事が可能で」⁵³ もし戦後の国際ナチスが、その反-共産主義者の秘密裡の作戦と、秘密の研究計画を資金援助するために、米国によって創造された金融の隠されたシステムを知っていたなら、そして(殆ど間違い無く)内側からの幾らかの影響力を持っていたならその様な危機を指揮(演出)する事は凄く簡単にされます。

b. The Exploitation of Islam
b. イスラムの利用(悪用)


正にどの様にして、この雄大なヴィジョン(想像力/先見性)が達成されるかは、それ自体がとても注目すべきであり予知的なのは、その回覧書がその計画のアーチ(一連)におけるくさび石(鍵の石)が、中東におけるアングロ-アメリカの関心の長期的な不安定化で、それによって原油と石油の生命線を脅かす事であるとはっきりとさせるためです(i.e. 王族オランダ シェル社/英国王室石油BP社 – つまり、ロスチャイルド):

「アラブ世界において、ドイツとイタリアによって行われた教化の頑強な働きは今、果実を実らせている。反-英国と反-米国の反響(立腹)は、中東全体において推進力を増している。英国はもう今後、スエズ運河についてのその影響力を保つ事は出来ず、イラン、そしてその他の中東諸国における彼女の影響力を保つ事は出来ない。来るであろうアラブ世界の反乱は、ワシントンにおけるアマチュア的な世界計画者達にための、もう一つの頓挫と成るであろう。」⁵⁶

以前の著書、国際ナチスの中で、私はナチス・ドイツが、急進化(過激化)したイスラム教徒のテロリストのグループを支援し、接触を資金援助し、そしてそれらの創造さえも育成した事実にも言及しました。

私達がこの本の中で発見する様に、しかしながら、ジハード(聖戦)のアイデアの全体が、ムスリム(イスラム教徒)的なものであると同時に、ドイツ人のエリートとオリガーク達の創造でした。故に、その回覧書が、1950年において、イランにおけるアングロ-アメリカの影響力の終焉を予測する間、CIA は、英国の MI-6の先導と影響において、モハメド・モサデグの政府を転覆させ、シャー、リーザ・パーラヴィの政権を確立させ、故に - 少なくとも、一時的であったにせよ - その国(イラン)の膨大な石油資源のアングロ-アメリカ(ロイアル・ダッチ・シェル社/BP 社)の圧倒に対するイラン(の人々)の挑戦を終わらせました。私達が今後の章の中で発見する様に、しかしながら、アヤトラ達の政権、そして彼等の現在進行形の、物議をかもし出す核開発計画と共に、更にもう一つの不快で、実質的に知られていないドイツとの関連性が存在しています。ジハードは、言葉を変えると、国際ナチスの武器庫の中のもう一つの道具です。

c. The Pivot to Asia
c. アジアへの旋回軸


その後に続いた数十年の連合と出来事のより広いパターンの、マドリッドのドイツの地政学的センターの予見のリストが広がるだけだったのは、その回覧書がまたドイツの「アジアへの方向転換」の政策を推薦するためです:

「ドイツの産工業は、以前の地位を回復するであろう:東、そして南東のヨーロッパ、ラテン・アメリカ、そしてアフリカの市場においてである。中国と東南アジアのその他は、大いなる未来を我々に提供する。其処で我々は、特にもし賢い方法において我々のソヴィエトとの話し合いを進めれば英国と米国を排除する事が出来る。我々の増幅的な経済力と、政治的に我々の道を肘打ちしながら切り開く能力は、交互に利用されなければならない。賢明で一貫的な政策は、現在の大国 - 米国とソ連を超える - 世界における新たな政治的な秩序をいつの日か確立する事を可能にするだろう。」⁵⁷

その回覧書が本質的に、現在のブリックスの貿易ブロックの国々:ブラジル(ラテン・アメリカ)、ロシア、インド(東南アジア)、中国、そして南アフリカ(アフリカ)を、ドイツの貿易の拡張のための方法として、そして故に、19世紀と20世紀を通したドイツの軍事力の推進のエンジンだった、ドイツの重工業の拡張のために等しいもの(BRICS)の創造を主張している事に着目して下さい。再び人は、その様な明言において歴然とした選択肢によって迫られます:その回覧書が長期的な発展を予測する神秘的で非現実的な能力を持っているか、またはその正確性が、戦後の世界の中の慎重に配置された企業的、そして指示的な扇動工作員の位置づけによるものなのかのどちらかで、その位置づけは、(1)第二次世界大戦の前と間のドイツ-アメリカの事業の関係、そして(2)1947年においてトゥルーマン大統領⁵⁷ によって確立された、金融の戦後の隠されたシステムにおける、三国同盟のエリート達の参加の知識の可能性が与えられれば、必要と成る位置づけは簡単に達成されます。

d. Voiding NATO by American Aggression
d. アメリカの好戦主義による NATO の空洞化


連合の大西洋的なシステム - NATO - の中の、米国の影響力を空洞化させるために、その回覧書によって主張された最も驚きの予見と観測の一つは、そう(空洞化)するために米国の好戦主義と単一極主義に任せる(自滅させる)事です:

「もし、新たな世界戦争がヨーロッパを廃墟にするなら、それら全ての可能性は無駄に成る。故に、あらゆる未来の戦争の可能性からヨーロッパを守る戦いの前衛において我々自身を位置付けるのは、我々の究極の任務である。もし我々がこれに成功すれば、我々は間違い無く、英国も含めて、ヨーロッパにおける人々の信頼と異論無い主導権を得るであろう。その様な遠回りの方法によって、我々は、未来の世界のリーダーシップのための基礎を確立する事が出来るだろう。世界は今日、millennium (千年王国/安定性)を求めている。平和のための指導者としての役割において、我々は世界の世論において位置(信頼)を会得し、我々自身のために揺るぎないモラル(道徳/人道)的な地位を創造する。ドイツの「軍事主義」に対するプロパガンダは全体的に低下し、昔の非難は忘れられ、そしてヨーロッパはその後ドイツのリーダーシップに続く事を意欲するであろう。その様な政策は、特に現在のヴァチカンの態度の見解において、成功的に遂行される事が出来るであろう。教皇は政治における現実主義者であり・・・そして原子爆弾の時代において、その教会(カトリック)とヨーロッパ全体のために失うものが多過ぎる事を十分に知っている。

その大西洋のパートナー達(NATO)は常に、米国の挑発的な振る舞いが愚かにも、ロシアが好戦的であると非難される事の出来ない紛争をもたらし、そして故に全ての助ける(協力する)契約的な責任は無効であると、避ける機会を見つける事が出来る。」⁵⁹

再びもう一度、その回覧書は、出来事を予測するにおいて、そしてヨーロッパ全般、特にドイツが、アメリカの単一極主義に対する対応のテクニック(技術)において奇妙にも正確なのは、多極的な態度の台頭を予測しているだけでなく、それが、それ(NATO/米国単一極権力)からヨーロッパが参加しないためのメカニズムを供給し:米国側の攻撃的な活動は、NATO システムの下におけるヨーロッパ勢力のあらゆる契約的な責任を無効化し、実際に極最近において、ウクライナにおけるアメリカの活動に対するドイツの抵抗によって実証された事実で、その抵抗は、ドイツのメディアにおいて、要点を理解させるためのドイツのスパイ衛星からの写真を共にする、ウクライナ東部(元々はロシア)のロシアによる侵略であると言うアメリカの主張に対して兆戦し、否定する記事の公表を含みました。

5. The First Sensational Statement: The Nazi Plan for a United Europe
5.最初の衝撃的な明言:統一ヨーロッパ(EU)のためのナチスの計画


あたかもこの全てが、マドリッド回覧書の極度な重要性を人に納得させるのに不十分であるかの如く、その文献は、2つの最終的な、そして殆ど信じがたい主張をします。それらの最初は、「統一されたヨーロッパ」のアイデアが、ナチスの目的だけでは無く、その戦後におけるワシントン D.C. (i.e. 東インド/ヴァージニア/ハドソン湾株式会社)自体における特定の内輪の政策的な目的であった事です。この政策の目的は、しかしながら、正に共産主義に対する防波堤を創造するために、ドイツをエンジンとした、統一ヨーロッパを創造するためでした。⁶⁰ しかしながら、この統一ヨーロッパの計画、そしてその NATO の必然的な結果は、ロシア(ソヴィエト)の勢力に対峙するものであると同時に、ドイツの勢いを封じ込めるものでもありました。⁶¹ これは、しかしながら、私達が以後に続くページの中で目撃する様に、マドリッドのドイツの地政学的センターには完全に知られていた事で、それはその様な策略の創造において、それによってウィルヘルム2世のKaiserreich (皇帝帝国)の時代まで遡る野心をドイツが満たす事の出来るメカニズムを見出しました。

6. The Explosive Assertion Regarding the 1944 Bomb Plot Against Hitler in July, 1944
6.1944年7月におけるヒトラーに対する爆弾(暗殺)計画に関する爆弾発言的な主張


マドリッド回覧書である、奇怪で政治的な明言を読むと人は、不快、恐怖、そして更にその予測と目的の大胆な正確性のための、意図したくない尊敬の一種の、吐き気がするような感情を持たずにはいられないでしょう。ですが、一つの事が特に、政策、目的、テクニック、断言、そして主張の背景の中で、その他の何よりもその読者の知覚をその正に土台まで震撼させ、「公式に認定された」歴史観の慎重に指揮(演出)された面白みのない明言、そして逸話の全てに挑戦(矛盾)しています。

それらの断言は、1944年7月20日の、アドルフ・ヒトラーに対する爆弾による暗殺計画に関するもので、その計画はクラウス・グラフ(伯爵)ヴォン・スタウフェンバーグ大佐によって指導され、そしてその作戦は更に加えて、アドルフ・ヒトラーを殺害するその目的において失敗したと私達に伝えられます。

もし、それが、その本当の目的であったなら・・・

此処において、その他の場所と同様に、そのマドリッド回覧書が驚かせ、そして衝撃を与えるのは、それによると、ヒトラーの排除は、その作戦、そしてその後の本当の目的では無かったためで:

「1944年7月20日の出来事を、ドイツの報道がデリケートに扱う事は最も難しかった。それらの出来事が話されなければ話されない程、ドイツの未来のためには好都合だった。未だに大っぴらに会話される事の出来ない多くのアングル(角度/可能性)が明らかにある。理由(動機)を持っていた者達、または「反-ナチス」(「Hitlergegner」)としてカモフラージュする事によって彼等自身を守る様に命令された者達は数千人存在した。当時、射殺されたと報告された人達は、今日でも生きている者達の中にいる。我々はまた、「青い血の豚」についてのレイ博士の明言が、敵を騙す間違いない目的を果たした事を頭に入れよう。我々の指導者達は、その7月20日の出来事についての再発している会話が、止められる事、もしくは可能なら軽視され忘れられる事を確かにしなければならない。以前の指令は有効なままで;その事件の背景については、一切明かされるべきでは無い。」⁶²

もし人が、この文章を慎重に読むと、それは、その爆弾計画自体の全体のための多くの謎と示唆を派生させる2つのはっきりとした断言を行います:

1)反-ヒトラーの抵抗は、ある延長まで、ナチスのヒエラルキー(命令系統)の創造(演出)で、連合軍とソヴィエトの諜報工作をミスリードする(迷わせる)ためにデザインされた大規模な偽りと偽情報の策略で⁶³、そして、

2)その7月の爆弾作戦のその後の、伴われた数千名の処刑自体が、主要なナチスの指導者達を「殺害(を偽装)」する事によって連合軍とソヴィエトの諜報工作を騙すためにデザインされた偽情報の仮面でした。結局の処、「X」将軍、または「Y」大臣が処刑されてしまっていたなら、何故、その戦争の後に彼等を探す手間を取るでしょう?

それらの2つの可能性は、3つ目の不穏な可能性を派生させます:その爆弾作戦が、大規模な偽りの作戦の一部だったなら、更に不穏な問いに繋がり:ヒトラーは実際に殺害されたのでしょうか?または、1944年7月20日にラステンブルグの Führerhauptquartier にいたのは本物のヒトラーだったのでしょうか?⁶⁴

それらの問いに人がどう答え様とも、1944年の爆弾作戦が、始めから終わりまで、意図的に考えられた作戦か、または、もしそれがドイツ人の抵抗の実際の活動だったとして、それはナチスの指導者達によって、好機な危機として利用され、何人もの実行犯達が「処刑」され、「新たな正体」のための好都合な変装と成り、その戦争が終わった後に、戦後の国際ナチスにとって便利に成りました。

人がそれをどちらの方法で解釈しようとも、人は、その出来事全体の空気を通してボーマンの香水(匂い)が漂っている中に残されます。

C. Conclusions and Indications
C. まとめと示唆


ですから、そのマドリッド回覧書の示唆は何なのでしょう?人はどの様にしてその奇怪で堂々とした内容をまとめれば良いのでしょう?その息を奪うような断言を確認するために人は何を探せば良いのでしょう?人がその全てを重ね合わせた時、人には以下の提案が残されます:

1)「統一されたヨーロッパ」の創造のためのアイデアは、ナチスのエリート達と、ワシントン D.C. の特定の内輪の両方の発案で、それぞれの派閥がその様なブロックの創造のための、とても異なった動機を持っていて:

a) そのアメリカ側において、そのアイデアは、ソヴィエトのブロックに対する防波堤として、そしてドイツの勢力を封じ込めるメカニズムとして、そしてヨーロッパにおけるドイツの覇権を妨げるために進められ;

b) ナチス側において、そのアイデアは、軍事的な方法よりもむしろ、政治的、そして経済的な方法によって、その様なヨーロッパ規模の覇権を達成するための、ドイツにとっての好機として見解され;

2)国際ナチスとそのマドリッドのドイツの地政学的センターにとって、ヨーロッパにおけるドイツの圧倒の再構築は、3つの広い段階において達成され:

a) 短期から中期的な段階において、親-西欧的な方向性で、その間、様々な政治的な政党を含む、様々な小規模の「フォルス・フロント(偽の建て前)」の組織が、ヨーロッパ連邦自体の創造を含み、ヨーロッパの中で基本的なナチスとファシストの目的が進められるために使用され;

b) 中期的な段階において、ロシア、中国、東南アジア、アフリカ、そしてラテン・アメリカの地域とのドイツとヨーロッパの貿易を拡張する目的と共に、それらの地域とのドイツとヨーロッパの結びつきを構築する事で、そして故に、ドイツ-ヨーロッパの「アジアへの方向転換」において、ヨーロッパの、そして特にドイツの重工業とその軍事的な効能を構築する事で;

c) その最終段階において、示唆されたクーデターと「ドル外交」に対する人工的に操作された経済的な危機によって、米国を秘密裏に乗っ取り、一種のカンブライの連合の戦争の瞬間において米国に対する世界規模の反乱を強要する事を目論み、そしてその後、アメリカに対する操作が得られた後、アメリカの軍事力を、一般的な東、そして特にロシアとの最終決戦のために利用し;

3)この全ては、順を追って、以下に頼る事によって達成され

a) 原油が豊富な中東における不安定化の効果を創造するためのムスリム世界とのナチスの結びつきで、ジハードの様なムスリムの概念を利用し、アングロ-アメリカの生命線を脅かし;そして

b) 戦後のドイツの非-産工業化のためのモーゲンサウ計画に抵抗し、頓挫させるためのドイツ-アメリカの事業の繋がりと人脈で、戦時中のアングロ-アメリカ-ソヴィエトの連合を分裂させ、冷戦における東-西の緊張を悪化させ、ドイツのための戦術的な展開の空間を創造する事でした。

もし人がそれらの3つの構成要素と、それらの準-構成要素を見れば、人はこの本の今後の章の枠組みと構造を有します。それらのそれぞれの詳細な検証は故に、そのマドリッド回覧書の主張を確認し、そして協力証言するか、または否定します。

残念ながら、今此処で明言されなければならないのは、その堂々とした、そして包括的な断言が、もし全てでは無いにしても、その殆どが、協力証言される事が可能だと言う事です。ですが悪魔は - またはこの場合、ナチスは、そして時には共産主義者の悪魔が - 詳細の中に潜んでいます。

_____
1 Defeat US Nazism to Solve Ukranian Crisis!,” http://www.silverdoctors.com/putins-economicadvisor-
warns-ww3-has-begun-states-russia-must-defeat-us-nazism-to-solve-ukranian-crisis/
See
also http://archive.larouchepac.com/node/31157. See also Sergei Glazyev, “On Eurofascism,”
http://www.larouchepub.com/other/2014/4126glazyev.html
2 See my The Nazi International (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2009), pp. 1-
12.
3 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin (New York: Henry Schuma, 1953), p. 209.
4 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 232.
5 バルセロナが、1970年代の早期に、元 SS の中佐だったオットー・スコルツェニーによって主催された「国際テロリスト『集会』」の場所だった事が思い出されるべきでしょう。See my Nazi International (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2008), pp. 199-200.
6 T.H. Tetens, op. cit., p. 209.
7 Ibid., p. 210.
8 Ibid., p. 213.
9 Ibid., p. 215.
10 Ibid., p. 216.
11 Ibid., p. 220.
12 Ibid., p. 221. Weltanschauung は勿論、「世界的な見解」のための、ドイツ語の単語です。
13 Ibid., p. 228.
14 Ibid., p. 232.
15 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 210.
16 Ibid.
17 Ibid., 加えられた強調。
18 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin. Pp. 210-211 加えられた強調。
19 See my books, Covert Wars and Breakaway Civilizations (Kempton, Illinois: Adventures
Unlimited Press, 2013), pp. ix-xxvii, and Covert Wars and the Clash of Civilizations (Kempton,
Illinois: Adventures Unlimited Press, 2013), pp. vii-xxx.
20 See my Covert Wars and Breakaway Civilizations, pp. 8-22.
21 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 211.
22 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 211.
23 Ibid., p. 212.
24 Ibid.
25 再び、その回覧書は奇妙にも、現在の地政学的な現実、特に、ウクライナ危機の直後の、ロシアとのアメリカの緊張の更なる悪化を妨げようとする神経質なフランスとドイツと同時に、静かに経済的な制裁に協力する試みに一致します。これ等の観測は、もう一つの事を思いつかせ:もし論議のために、ヨーロピアン・ユニオンの形成において、実際に何らかの隠された「ファシストの魔の手」があったと人が受け入れるなら、するとこの要素は、ワシントンとモスクワの政策にもまた影響したでしょう。数々のブログやビデオにおいて私が観測した様に、西洋ヨーロッパにおける米軍基地の閉鎖と、ポーランドやルーマニアの様な、元ワルシャワ条約の国々への(米)軍の東向きの配置は、ロシアに対する対応であると同時に、ワシントンの中軸から西洋ヨーロッパが分離する事を妨げるためかも知れません。その様な(軍の)配置は、ヨーロッパへのロシアのエネルギー供給の米国の簡単な禁制を許すと同時に、ヨーロッパ-ロシアとヨーロッパ-アジアの貿易の禁制を許します。危険は、しかしながら、それがまたアメリカの軍事的な資産をヨーロッパの軍事勢力とロシアの軍事勢力の間のホット・ゾーン、一昔前のヴェルサイユ(条約)後の cordon sanitaire、バルト三国、ポーランド、そしてルーマニアに入れる事です。
26 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 212.「我々の現在の政策は、我々の以前の過ちの成り行きを克服する事である。弱体化されたドイツはそれ自体がロシアの大国に対する攻撃において、槍の先として利用される事を決して許してはならない。それは狂気の沙汰(Wahnsinnsexperiment)で、我々の最終的な破滅を綴り、それに対してヨーロッパの中立性の代表者としてのドイツは、ソヴィエトから多大な譲歩を得る事が出来る。」とその回覧書はまた記述します。 (p. 213) 此処における明らかな言及は、ヒトラーの失敗した対-ソヴィエトのキャンペーン、 Unternehmung Barbarossa (バーバロッサ作戦)です。少しの人達しか気づかないのは、しかしながら、そのキャンペーンの最初の数か月において、アドルフ・ヒトラーが実際に、軍事的、そして政治的の両方において成功を収める寸前であった事です。ルイス Kilzer は、彼の著書 Hitler’s Traitor: Martin Bormann and the Defeat of the Reich の中で、そのキャンペーンの開始の数週間における Wehrmarcht による赤軍の戦力の膨大な大多数の徹底的な全滅の直後において、1941年9月にスターリンがヒトラーに対して和平の申し入れの手を伸ばした事を思い起こし:「10月7日に、スターリンは、ロシアがその戦争に勝利する事が出来ないとズーコフ(元帥)に伝えました。妥協された和平のための2つの権力の間の秘密裡の話し合いが始められる処でした。スターリンは始めから、バルト三国、ベラルーシ(白ロシア)、モルダヴィア、そしてウクライナの一部を譲渡する準備をしていました。スターリン、ベリア、そしてモロトフは、ブルガリアの大使を呼び、彼等の申し入れを説明し、そしてブルガリアが総統(ヒトラー)との仲介に成る事を申し出ました。モロトフだけが、ソヴィエト側のために語りました。『ヒトラーが勝利した。彼は、彼の lebensraum を持つ事が出来る。彼はその戦争を行うために必要な全ての資源を持つだろう。彼はバルト海を操作(支配)するだろう。もし彼が、スターリンの申し入れを受け入れれば、英国は全くその戦争を続ける事は出来ないだろう。ヒトラーは、何故、その勝利を手に取らないのだろう?真実の全体像は決して知られる事は無いのかも知れない。ブルガリアのボリス王を通した申し入れをヒトラーが拒否したのは、「何故なら彼は、実直的な試練に耐え、そして最終的に勝者として彼が台頭出来ると信じたため」と、リーベントロップは述べました。全般的に、ヒトラーは、彼自身の成功の被害者に成った様に現れます。』 (Kilzer, op. cit. pp. 109-110).
27 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 212-213.
28 Generaloberst, i.e., Colonel-General, the equivalent of a four star general. The German
ranking system of that time until the end of the war was as follows: Generalmajor(1 star, the
equivalent of an American Brigadier General), Generalleutnant (2 stars, the equivalent of an
American Major General), General der Kavalrie/Artillerie/Infanterie/Panzertruppe (3 stars, the
equivalent of an American Lieutenant General), Generaloberst (4 stars, Colonel-General or
equivalent of an American General), Generalfeld-marschal(Field Marshal, equivalent of General of
the Army).
29 これに関して、記述するのがまた相応しいのは、ヴォン・シークトがまた、様々な右翼と左翼の政治的なグループに対するドイツ軍の国内の諜報工作の作戦のための究極的な責任者で、若い政治的な政党:国家社会主義党の行いを監視するために、その様な諜報工作員の一人として究極的にアドルフ・ヒトラーを配置した正に同じ作戦でした。
30 この、実質的に殆ど知られていない、現在のドイツの核兵器的な実力の要素にために、Barbara Rogers
and Zdenek Červenka の、 The Nuclear Axis: The Secret Collaboration Between West Germany and
South Africa
(New York: New York Times Books, 1978)を参照して下さい。
31 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 213, emphasis added.
32 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 214.
33 その回覧書はまた、朝鮮戦争に関して、もう一つの興味深い明言を行い:「朝鮮におけるアメリカの冒険のための動機は未だに謎に包まれているが、これだけは知られている:ワシントンはその経済を、戦争の歩みに入れ、彼女の機動化を全速力に加速する好機を長い間待っていた。世界経済とその政治的な成り行きに対するこの一歩の効果は、日に日に鮮明に成り:戦争のための完全な機動化の一連において、「民主主義」の殆どは残らないだろう。」(Tetens, op. cit., p. 216)
その動機が当時、不透明であったかも知れない間、ナチス時代のオルタナティヴな歴史を扱った私の最初の著書黒い太陽の帝国の中で私が示唆した様に、日本帝国と同時にナチス・ドイツの原子爆弾計画は、戦後の連合軍の伝説が許すよりも遥かにもっと進んでいた事を高度に示唆する証拠が存在します。私が其処で示唆した様に、この原爆計画は、ロバート・ウィルコックスの研究によると、朝鮮半島北部の Chosin 貯水池に拠点があり、故にマッカーサーの Inchon 上陸とその後の北に向かった行進、そしてその貯水池における打倒の背後の、隠された諜報工作のコンテキストと目的を供給します。その侵略は、言葉を変えると、(1)日本の核研究の実際の状態を学び、そして(2)その研究が毛の中国と、スターリンのロシアの核開発計画の手に落ち、利する事を妨げるための試みだったのかも知れません。
34 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 215.
35 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 215-216, emphasis added.
36 See my Nazi International (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2008), pp. 191-
197 , and Christopher Simpson, Blowback: The First Full Account of America’s Recruitment of
Nazis, and its Disastrous Effect on our Domestic and Foreign Policy
(New York: Collier Books,
1988), pp.248-252.
37 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 216.
38 See my Nazi International, and LBJ and the Conspiracy to Kill Kennedy: A Coalescence of
Interests
(Kempton, Illinois: Adventures Unlimited, 2010).
39 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 216-217.
40 See my Nazi International, pp.1-12.
41 See my Nazi International, pp. 6-12+.
42 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 217-218, emphasis added.
43 See my Nazi International, pp. 63-83.
44 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 218, emphasis added.
45 それらの関連性のために、例えば以下の研究を参照して下さい: Joseph Borkin, The Crime and
Punishment of I.G. Farben: The Unholy Alliance Between Hitler and the Great Chemical Combine

(New York: Barnes and Noble Books, 1978); Charles Highham, Trading with the Enemy: The NaziAmerican
Money Plot 1933-1949
(Lincoln, Nebraska: Authors Guild Backinprint Edition, 2007);
Glen Yeadon and John Hawkins, The Nazi Hydra in America: Suppressed History of a Century
(Joshua Tree, California: Progressive Press, 2008).
46 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 218-219, emphasis added.
47 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 220.
48 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 222-223.
49 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 228, emphasis added.
50 See my Financial Vipers of Venice (Port Townsend, Washington: Feral House, 2013), pp. 87-
90.
51 Tetens, op. cit., p. 229, emphasis added. See also the remarks on p. 231.
52 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 229.
53 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 231.
54 Again, see my Babylon’s Banksters, pp. 45-75, Covert Wars and Breakaway Civilizations,
pp. 160-195.
55 英国とフランスは実際に、CIA に資金援助されたファルーク王の転覆のクーデターの時に、スエズ運河に対する彼等の操作と、エジプト国内における彼等の影響力を失い、それは1954年のスエズ危機に繋がりました。思い出されるでしょうが、しかしながら、CIA の現場の担当は、元 SS 特殊部隊の士官、オットー・スコルツェニーに率いられた戦後の国際ナチスのグループでした。See my Nazi International, pp. 191-206.
56 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 230.
57 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 230-231.
58 For this point, see my Covert Wars and Breakaway Civilizations, p.137. .
59 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 231-232, emphasis added.
60 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 226.
61 For this point, see Zbigniew Brzezinski, The Grand Chessboard,
62 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 223-224, emphases added.
63 これを明言する事は、ドイツ内に「正真正銘の」性質の反-ヒトラーの抵抗が無かったと主張する事ではありません。明言されているのは単に、この抵抗の幾らかが、ドイツのオリガーキーとナチスのエリート達によって慎重に調整された仮面であると言う事です。
64 この点のために、コリン・フォーブス(Collin Forbes)のスパイ-スリラー小説、The Leader and The Damned を参考にしてください。作り話の装いの中でフォーブスは、1943年3月におけるヒトラーに対する爆弾の計画が、正に本当の計画で、その間にㇸニング・ヴォン・トレシュコウ将軍が、ヒトラーの飛行機に、圧力によって起爆する2本のワイン・ボトルを置き、実際に成功するシナリオを体現します。この出来事はトム・クルーズの映画、ヴァルキリーのオープニングにおいてドラマ化され、ヴォン・トレシュコウは、英国の俳優ケネス・ブラナーによって演じられています。フォーブスのシナリオの中で、ヒトラーは、1943年の夏にカースク・サリエントに対する攻撃に使用されるために、ウェスト・ウォールの60師団を移動し - 実質的にヨーロッパの、その大西洋の防衛を丸裸にする - 大胆な計画を話し合うためにスモレンスクから飛び、もし完結されたなら、殆ど間違いなく成功的に成ったでしょう。フォーブスのシナリオにおいて、その爆弾は爆発し、ヒトラーは殺害され、そしてボーマンはその後、ヒトラーの多くの影武者の一人を総統として入れ替え、そしてその戦争の残りを彼自身で指揮しました。フォーブスはまた、ボーマンが未だに知られていない O.K.W.( Oberkommando der Wehrmacht)内のソヴィエトのモグラ(スパイ)だったと強く示唆します。この見解を私が信じた事は全く無い間、もし人が、ボーマンはソヴィエトのスパイではありませんでしたが、私が The Nazi International (pp. 88-128)の中で主張した様に、その掩蔽壕から脱出し、最終的にラテン・アメリカへと逃れた事を考慮すると、興味深い可能性を台頭させます。彼の小説の終わりにフォーブスは、著者のエピローグを付属させ、その小説が、その戦争の後に、英国の諜報工作の内通者によって彼に伝えられた話に基づいていると示唆します。


2. The Fascist Phoenix from Aryan Ashes: The Bad Chancellor, the Cunning Minister, the Good Chancellor, and the Continuity of an Idea from Bettmann-Hollweg, through Rathenau, to Adenauer
アーリアの焼け跡からのファシストの不死鳥:悪い首相;ずる賢い大臣;良い首相;そしてベットマン-ホルウェッグから、Rathenau を通した、アデナウアーまでのアイデアの継続性


「その1年前、ワシントンにおける広報のインタヴューにおいて、(西独)首相の主要な外交の補佐、国務長官のウォルター・ハルスティンは、解放されるエリアがウラル山脈までと定義しました。」
- T.H. テッテン¹

「・・・スコルツェニー中佐やハンツ・ユーリク・ルデルの様な重要なナチスの活動の容認は、ボン(西独首都)の高官達が、マドリッドにおけるナチスのセンターとの、何らかの秘密裡の結びつきを持っていたのではないかと言う疑いを派生させます。」
- T.H. テッテン²

強力な中央集権の下の、政治的、文化的、そして経済的に統一されたヨーロッパのアイデアは、ローマ帝国自体程古く、そして皇帝ディオクレティアンの究極的に大災害的な改革にも拘らず、中世のビザンチン-教皇制の文化的な圧倒において、その文化的、そして中央集権的な表現、そして更にある意味、その金融的な表現を見つけました。更に後に、それからナポレオン・ボナパルテが形成しようと試みた、彼の連合の「(ヨーロッパ)大陸的なシステム」と経済的なブロックにおいて、その政治的、そして経済的な表現を見つけ、そのシステムは究極的に、その条件を強要するための、彼の大失敗的なロシアに対する侵略、そして「統一ヨーロッパ」を圧倒するフランスの望みの最終的な解体に繋がりました。少々、それ以前に、(フランス/アメリカ)革命時代の早期の間、それはまた、政治的なシンプルさ(απλοτης)のアイデアに戻るための努力において「王子達と神官達」の全てを転覆させるための、アダム・ワイシャープトのバーバリアのイルミナティの計画と目的において、一種の表現を見つけ、国際的で全-ヨーロッパのテクノクラートのエリート(官僚)の、イルミネート(聡明化)されたメイソンの指導の下における「人類の統一的な同胞団」で、ワイシャープトの新たなエリートは、驚くなかれ、殆どドイツ人達によって圧倒されたエリートでした。ですが、1871-1918年の Kaisereich (皇帝帝国)から、ワイマー時代とナチスの第三帝国の時代の全てを通して、そして私達自身の現代まで、ドイツのエリート達の政策における、一貫的な表現と詳細な計画を見つけられる場所は他にはありませんでした。人に一時停止を与えるのは、幅、深さ、そして詳細の全てにおけるこのヴィジョンのその一貫性で、その一貫性を実証し、そのマドリッド回覧書に情報を与えている、根底にある地政学的なヴィジョンを露呈させるために、端的にですが出来る限りその歴史を検証する事が故に必要と成るのは、現代のヨーロッパ勢力の政治の現実が、好む、好まないとは別に、ドイツが圧倒的にヨーロッパ最大の単一的な産工業化された経済と人口の土台を有し、全てのヨーロッパの勢力はこれを熟知していて、そしてフランス-プロシア戦争の終結における1871年のヴェルサイユ条約の、ドイツ帝国の宣言において世界の舞台へと、近代の統一されたドイツが最初にそれ自体を宣言して以来、知っていました。当時から、そして現代まで、その他のヨーロッパと、その主要な勢力の間の落ち着かない相利共生的な関係が残ったままです。³

簡単に、ヨーロッパ・ユニオンを理解するために人は、その創造のためのドイツのヴィジョンの歴史、そしてそれが形成された後に、それを圧倒するための彼等の計画を単純に理解しなければなりません。実際に、2度の世界大戦の、その「隠された歴史」は - もし人が慎重に見てみる手間を取ればそれは本当に殆ど隠されてはいませんが - 実際にその(統一ヨーロッパ)創造のための争いの歴史でした。前の章の終わりに私達が記述した様に、悪魔達は常に詳細の中に潜んでいて、そしてこの場合、それらの企業(財閥)的、そして経済(金融マフィア)的な悪魔達はとてもイルミネート的です。

A. The Bad Chancellor: Theobald von Bettmann-Hollweg
A. 悪い首相:セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェッグ
1. And Germany’s First World War Aims
1.そしてドイツの第一次世界大戦の目標


ある意味、ヨーロピアン・ユニオンの近代的な歴史と構造は、第一次世界大戦の直前の数年において始まり、そしてそれらの全体的な表現を、第一次世界大戦の勃発直後の最も早期の段階において、皇帝ウィルヘルム2世の帝国の Reichkanzler (首相)セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェッグによって描かれたドイツの戦争の目的の明言の中に見つけられます。

セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェッグ、1856-1921年、1909-1917年までの帝国首相
1 hollweg04

第一次世界大戦が本格的に開始された、たった数か月後、そして西方の前線において、4年間の硬直したトレンチ戦争に繋がった Marne の戦いにおいて、ドイツが敗北に苦しんだのと同じ時間枠に、そして東方の前線のタネンブルグの戦いにおいてルーデンドルフ将軍とヒンデンブルグ将軍達が驚きのドイツの勝利を収めた、たった数日後の1914年9月に、ヴォン・ベットマン-ホルウェッグは、ドイツの産工業的、そして軍事的なエリートに秘密裡のメモを循環させ、その中で彼はドイツの戦争の目的が何かを概要しました。これは、「9月計画」として知られる様に成り、その条項を一目見るだけで、その目的がどれだけ、マドリッド回覧書と共に一貫的なのかだけでなく、更に重要な事に、その目的がどれだけヨーロピアン・ユニオンの勢力政治(権力争い)の現在の現実性に一貫的なのかを明かします:

1.フランス。我々が、ベルフォートの譲渡と Vosges の西側の坂の要塞の破壊、そしてダンカークからブローニュまでの海岸線の譲渡を要求するかは、軍部が判断する。

Briey の鉱物採掘所は、我々の産工業に必要なので、どんな場合も譲渡されなければならない。

更に;戦争の賠償金は、分割払いで支払われなければならず;今後15-20年、フランスが武装化する事を妨げるために、十分に高額でなければならない。

更に加えて:フランスを経済的にドイツに頼らせる商業的な条約は、フランスの市場を我々の輸出のために確保し、フランスから英国の商業を排除する事を可能にする。
この条約は、ドイツの実業がこれ以上、フランスから異なった扱いを受けない様に、その様な方法でフランスにおける金融的、そして産工業的な移動の(i.e. 関税の)自由を我々のために確保しなければならない。

2.ベルギー。Liége と Verviers は、プロシアに併合され、ルクセンブルグの地方の前線の一部はルクセンブルグに併合される。

アントワープが、Liége の陸路と共に併合されるかはまた、選択肢のままで残る。

何であれ、ベルギーは、もし国家として存続する事が許されたとしても、属国として降格されなければならず、あらゆる軍事的に重要な港を、我々が占領する事を許さなければならず、軍事に関して彼女の海岸線を我々の管理に置かなければならず、経済的にドイツの地方(一部)に成らなければならない。その逃れる事の出来ない国内の政治的な不利さ無しで、併合の優位性を与えるその様な解決策を与えられると、フランスのフランダースは、その人口の殆どがフレミッシュ人であるダンカーク、カレー、そしてブローニュと共に、危険を犯す事無しで、この変化させられていないベルギーに付属させる事が出来る。有能な指導部が、イングランドに対するこの位置の軍事的な価値を判断しなければならない。

3.ルクセンブルグ。ドイツ連邦国家と成り、現在のベルギーの一地方であるルクセンブルグの一部を併合し、そして恐らく、ロングウィーの角も併合するであろう。

4.我々は、以下を含む共通の関税の条約を通した、中央ヨーロッパの経済的な連盟を創造しなければならず

フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、オーストリア-ハンガリー、ポーランド、そして恐らく、イタリア、スエーデン、そしてノルウェーである。この連盟は、共通の憲法的な超越的な権威を一切有せず、そしてそのメンバー達は、形式上は同等であるが、実施においてドイツの主導権の下にあり、Mittel (ミドル)ヨーロッパの上のドイツの経済的な圧倒を安定化させるであろう。


5.その最初の目的が、継続的な中央アフリカの植民地帝国である、植民地の獲得の問いは、今後、ロシアに相対して現実化される目標と共に、考慮されるだろう。

6.可能で事前的な和平のための、短い条約的な形成は、フランスとベルギーと共に結束される経済的な同意の土台のために見つけられるであろう。

7.オランダ。どの様な手法や方法で、オランダがドイツ帝国との親密な関係へともたらされるかは考えられなければならない。

オランダ人の特徴の見解において、この親密な関係は、彼等をあらゆる束縛の感情から解放し、オランダ人の生活習慣を変えては成らず、彼等を新たな軍事的な義務の対象にしてはならない。オランダは、すると、外見的には独立国のままではあるが、国内的には我々に頼る様にされなければならない。一つの可能性は植民地を統治するための攻撃と防衛の連盟で;どの様な場合であれ関税の連盟であり、アントワープ(ベルギー)の要塞と Scheldt の河口にドイツの駐屯部隊を保つ権利と引き換えに、アントワープをオランダに併合させる事かも知れない。⁴

1919年のヴェルサイユ条約において、連合軍が最終的にドイツに課せるのと同等に極めて厳しい戦争の賠償金を強要するベットマン-ホルウェッグの意図、そして彼がフランスの様々な戦略的に重要な地域を、直接 Kaiserreich (皇帝帝国)に合併する意図の事実を超えて、この文献の中央的な中核として台頭するものは、直接の軍事的な圧倒と領土的な併合とは全く異なるもので、もし人がそれらの併合への言及の全てを取り払えば、明らかに何か「親しみ深い」ものが台頭し、親しみのあるパターンの様に見え始めます:

1)その文献は明らかに、「関税」の統一を主張し、i.e. 西方と中央ヨーロッパ、そしてスカンジナヴィア(北欧)の塊で構成される共通の経済的な貿易ゾーンで;

2)この関税の統一は、統一された中央、またはベットマン-ホルウェッグの言葉を借りると、憲法的な権威が欠けており、故に、実質上の中央集権として、ドイツによって簡単に圧倒され;

3)この統一された関税は、その政策の「強化」としてヨーロッパ全体に散らばらされた、ドイツの駐屯部隊と基地の一連によって一つにまとめられます。

可能な限り簡潔に云うと、一般的なイメージと、当時の連合軍のプロパガンダとは裏腹に、そのドイツ帝国はヨーロッパ的な領土の全体を手当たり次第に「侵略し、征服し、」そしてドイツ帝国に「合併する」のでは無く、むしろ - 統一化された関税が、効果的にそうなので - ヨーロッパ全体に「共通市場」のアイデアを強要する事でした。それ(ドイツ)は、経済的にヨーロッパを圧倒する事によって政治的にそれを圧倒する事を意図していました。第一次世界大戦の軍事的な要素は、ベットマン-ホルウェッグ、そしてその他のドイツのエリートが考える限り、ヴォン・クラウスウィッツの格言を引用すると、単純に「その他の方法(戦争)による外交」でしかありませんでした。そして注目すべきはその戦略のベットマン-ホルウェッグのヴァージョンにおいて、ナポレオンの時代から殆ど全く変化していない事で、両方の人達が彼等の「大陸的なシステム」を正にその様に意図していた事で、英国を除いた大陸的なシステムだったためです。

ヴォン・ベットマン-ホルウェッグは、彼自身の鼓舞と情熱の下でただ単純にそれらのアイデアを夢見たわけでもありませんでした。むしろそれらは、ドイツの参謀部を含んだドイツのエリートの、その戦争の直前の数年の戦略的、政治的、そして経済的な考え方を深く反映するものでした。例えば、ドイツの電気(産業)的な大企業、A.E.G. Allgemeine Elekticitäts Gesellschaft)社⁵ の最高経営責任者で、産工業家のウォルター Rathenau は、1912年におけるベットマン-ホルウェッグとの会話の中で、「ドイツの政策は中央的なヨーロッパの統一された関税の創造に向かって方向づけられるべきで、首相の同意を確保するべきである」と提案しました。⁶ Rathenau は、1913年、そして再び1914年に、ドイツの戦争の目的として、それらの政策の概要のメモを共にして、これに続きました。⁷ また、皇帝ウィルヘルム2世が、その様なアイデアに反対したわけでもありませんでした。対照的に、その戦争の前に、その正に同じ Rathenau に対して、ウィルヘルムは、「高い関税のアメリカの報復の政策に対する防衛の方法として、その大陸の経済を統一化する」彼自身のアイデアを概要しました。⁸ 言葉を変えると、第一次世界大戦の更に以前に、経済的な統合の大陸規模のシステムのアイデアは - 成長していたアメリカの勢力にカウンター-バランス(対応)するための方法として - 皇帝自身によって! - 既に論議されていました。

2. Russia, and “Mitteleuropa”
2.ロシア、そして「Mittel ヨーロッパ」


1912年に、ベットマン-ホルウェッグは、ロシアの視察から帰ったばかりで、その期間、成長しているアメリカの勢力に関してでは無く、むしろ、ロシアに関して、経済的な統合のアイデアが検証されました。その首相は以下の様に述べました

「・・・いつの日か、ドイツを潰すかも知れない、『拡張的で、膨大な産工業的な勢力』の発達のための土台として、ロシアの『自然資源の豊かさと、未完成の物理的な人力(労働力)』を目撃した。ドイツは、彼女の土台を拡張する事によってのみ、この勢力に対抗する事が可能で、それは西方に対する拡張を含まなければならない。その7月の終わりにおけるその会話の Rathenau の報告は、以下のものだった:

「『私は、私のアイデアを発展させ:1.経済。オーストリア、スイス、イタリア、ベルギー、オランダ等々との関税の統一で、より親密な関係を同時的に伴わなければならない。2.外交政策。そのための鍵:その上において全ての国々が肥える独仏戦争。鍵:イングランド。非-武装化は今日、不可能。緊張を高める事によって - 危険ではあるが - 同時に地中海におけるイングランドの位置を害する事が可能に成る。その後、連合。目的:中央アフリカ、小アジア(トルコ近辺)。』」⁹

それぞれの国々についての冷酷な明言の全てと、英国との意図的な緊張の悪化の背後に、人は再びマドリッド回覧書の同じ基本的なロジック(論理)を発見し:米国と言う形状における西の勢力の成長と、ロシアと言う形状における東の勢力を真正面にして、ドイツの国力を保存する唯一の究極的な方法は、大陸的で経済的なブロックの創造を通してのみでした。

それらのアイデアにおいて、ウィルヘルム2世、Rathenau 、そしてヴォン・ベットマン-ホルウェッグは、その著書 Deutschland und der nächste Krieg (ドイツと次の戦争)が1912年に出版され、大人気のあまり、5度に渡り再出版された、当時のドイツの参謀部の地政学的、そして戦略的な理論家達の主任だった、フレデリック・ヴォン・バーンハルディ将軍の考えと概念をエコー(反映)していました。¹⁰ ドイツの歴史家で学者のフリッツ・フィシャーは、その本が「参謀部、またはその政府のどちらの計画にも殆ど関係の無い、規律の無い大ドイツ主義者のエキセントリック(珍しい/現実性の無い)発言として、ドイツの歴史家達によって、一般的に無視される」¹¹ と観測しますが、それは全くその通りではありません。むしろ、「『世界権力、もしくは衰退』の題名の下の」ヴォン・バーンハルディ将軍の主張のまとめの明言は、「大々的な正確性を共にして、ドイツの公式な意図を典型しました。」¹²

実際に、ヴォン・バーンハルディのヴィジョンは、「エキセントリックな大ドイツ主義者」のものなどでは全く無く、驚きの先見性と共にマドリッド回覧書の根底にある哲学を反映するのは、その将軍の地政学的、そして経済的な状況の長期的な分析において、

・・・世界権力の地位まで、ドイツが進むためには、3つの物事が必要と成るためで:

(i)フランスの排除(die Ausschaltung Frankreichs ):フランスは、「彼女が再び我々の道を障害する事が決して出来ない様に、完全に地に落とされなければならず」 - 戦争の勃発の数週間後にベットマン-ホルウェッグによって描かれた9月計画の中で殆ど一字一句繰り返されたフォーミュラでした。

(ii)ドイツの主導権の下における、中央ヨーロッパ連邦の形成。より小規模な国々(弱小の近隣国)は、ドイツの武力と「ドイツに対する属国性」の保護を求めると言うバーンハルディの予測は、その戦争の間におけるドイツの首脳陣によって分かち合われたものでした。ドイツ政府は、1914年の後に、「ミドル・ヨーロッパ」のための彼の要求を公式に試みました。¹³

そしてマドリッド回覧書のエンド・ゲーム(目的)と重なったスラヴ民族に対する世紀末的な戦いのワーグナー的な倍音が、より道理をわきまえたウィルヘルム的(時代の)軍部から欠けていると、人が考えない様に、ヴォン・バーンハルディは、彼のヨーロピアン・ユニオンのヴィジョンが単なる政治的、または経済的な本質においてだけでは無く;それが彼のヴィジョン化したスラヴ世界に対する Kulturkampf (文化的闘争)における欠かす事の出来ない構成要素だったのは、彼の計画の3つ目の構成要素が、正にこの構成要素であったためで:

(iii)世界権力としてのドイツの発展は、新たな植民地の取得を通して行われる。未来をもう、国家の古いヨーロッパ的なシステムの定義においてでは無く、それにおいてバランスが実際の要素に帰属する、世界的な国家(世界統一国家)の新たなシステムとして見解するにおいて、バーンハルディはドイツの教授達、経済学者達、そして政治的な指導者達と合意していました。ですが、彼にとって、彼等にとってと同様に、世界権力は同時に、文化的な使命でした。1912年のその同じ12月において、その皇帝(ウィルヘルム2世)は、その国家の心理的な準備を指令し、彼はガウル(フランス)民族とスラヴ(ロシア)民族にたいするテュートン(ドイツ)民族の来るであろう生きるか死ぬかの争いの認識が「我々の政策の土台」に成らなければならないと、外務省を指導し、そのための同盟国が見つけられる事が可能な限り、何処であれ引き入れられなければならないとしました。「我々は、ブルガリア・・・トルコ、加えてルーマニアとの、軍事的な同意を結ばなければならない。我々はまた、日本とのその様な同意を結ばなければならない。我々を助けるに十分なあらゆる勢力は、引き入れられなければならない。」¹⁴

故に、1912年において、人は第二次世界大戦後のマドリッド回覧書の概要を有するだけでなく;第二次世界大戦を戦った正に三国同盟の国々の概要を有します。

もしこの全てが、今日、台頭してきていると人が見る世界に、不穏にも似過ぎていると聞こえるなら、ヴォン・バーンハルディが唯単に、「『大ドイツ主義者』のエキセントリックなグループ」の一人だったわけでなく、むしろ、大ドイツ主義者達の幾らかだけでは無く、「大英帝国と米国を破壊するためには『3度の裏切りの戦争』が、彼等に必要である」と言うアイデアを考え始めていた、ドイツのエリート自体の、形成し始めていた長期的な戦略の考え方の代表格だったためでした。」¹⁵ 1918年3月に、彼等は西洋の連合を圧倒し、そして大英帝国に対してそれらの致命的な打撃の最初を与える正に寸前まで到達しました。

3. The Russian Surrender to the Central Powers: The Treaty of Brest-Litovsk and a Suggestive Comparison
3.中央権力へのロシアの降伏:ブレスト-リトフスク条約と、示唆的な比較


この殆ど成功に近い逸話と、そのナチスの神話、Dolchsto β in den Rücken、内在的な「ユダヤ人の裏切り者達」による「背後からの攻撃」における、それ自体の特徴的な役割の話しはよく知られていますが、その迅速な再検証が必要です。1917年において、ドイツの参謀部は、皇帝の親密な助言者で、有名な銀行業の一族のマックス・ウォーバーグ(デル・バンコ)の強い主張において、そして当時、実質的にドイツの独裁者だったエリック・ルーデンドルフ将軍の同意と共に、世界的にはレーニンとして知られている、ヴラディミア・ユリアノフと言う名前のロシアの共産主義者の革命家を、ロシアにおいて共産主義者の革命を形成させ、(ロシア)皇帝を失脚させたケレンスキーのメンシェヴィックの社会主義者の政府を転覆させるために、ドイツの列車で、ドイツとロシアの鉄道を通して、秘密裡に移動させました。「偶然にも」レーニンのセント・ピータースブルグへの到着は、米国における彼の追放から、ロシアに向かっていたレオン・トロッツキーの到着と緊密に調整され、この調整は幾らかの人達にとって、ニュー・ヨークに基づいたマックス・ウォーバーグの兄弟、ポールが、アメリカ側を調整し、中立国のスエーデンとスイスにおける銀行業の人脈を通した、ウォーバーグ(デル・バンコ)家によってもたらされたものであると暗示しました。¹⁶ このドイツの協力への見返りとして、ボリシェヴィク(ユダヤ共産主義過激派)達は、その戦争(第一次世界大戦)からロシアが撤退する事を約束し、¹⁷ 勢力のバランスを再確立するために十分な人数のアメリカ軍が到着出来る前に、数百万人のドイツ軍を西方の前線へと開放しました。

現在ではよく知られている様に、ボルシェヴィック-共産主義者の勢力はケレンスキーの政府を転覆させる事において成功をおさめ、そして直ぐに、その中央の権力(ドイツ)との降伏の話し合いを始めました。これは、1918年3月3日に、オーストリア-ハンガリー、オットーマン(オスマントルコ)帝国、ブルガリア、ドイツ帝国、そしてロシアの間で署名されたブレスト-リトフスク条約において成立されました。その中において、以下の地図に実証される様に、ロシアはバルト三国をドイツに譲渡し、ポーランド、フィンランド、白ロシア(ベラルーシ)、ウクライナ、そしてグルジアの間-コーカサスの地域に対する主張を取り下げ、それらの全てはオーストリア-ハンガリー、オットーマン帝国、そしてドイツの勢力によって占領されました。

1918年3月3日のブレスト-リトフスク条約の成り行き(ミドル・ヨーロッパ)
1 ToBL

ドイツと比較して小規模なロシアの産工業の土台は、その戦争が本質的に大虐殺に成る事を意味し、ロシアの勝利の望みは殆どありませんでした。この事実と、募る犠牲者の数は、その戦争を終わらせるための一般大衆の強い要求を派生させ、それをボリシェヴィク達は利用しました。

その中央の権力の勢力(ドイツ、オーストリア-ハンガリー、トルコ)の軍隊によって占領されたバルト三国とウクライナの灰色の地域に着目して下さい。

その条約の中でドイツ帝国が本質的に明瞭化し、そして国際的な条約の道具(書類)の中に認識されたのは、その戦争の前にヴォン・バーンハルディとヴォン・ベットマン-ホルウェッグが鮮明にしたその戦略的な目的だったのは、バルト三国の国々が、それらの政府内にそれらの地方のドイツ人の貴族を据える事によってドイツの属国的な国々に成り、その間、ポーランド、白ロシア、そして(ウクライナの Hetmanate と呼ばれた)ウクライナの国々がベルリンとウィーンのパペット(操り人形)国家に成ったためです。このコンテキスト(文脈)の中で覚えておく事が重要なのは、その地図上の国境線と影(灰色)にされたエリアが、それによって示唆された政治的、そして経済的な現実よりも殆ど重要でないのは、ドイツの意図がそれらの地域を経済的に、そしてそれを通して政治的に圧倒する事だったためです。人が実際に目撃しているのが何かを言葉を変えて言うと、ブレスト-リトフスクの条約を共にした、ミドル・ヨーロッパを圧倒するための、その長きに渡り求められた統一関税を創造するドイツの試みの最初の厚板(一歩)でした。

これを頭に入れ、現在のヨーロッパとの比較が必要です:

現在のヨーロッパ
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トリアノンの条約(1920年)における第一次世界大戦後のオーストリア-ハンガリーの解体と共に - ベットマン-ホルウェッグとヴォン・バーンハルディの - ドイツの中央ヨーロッパのより小規模な国々の経済的な圧倒は確かなものにされました。そして現在、当時と同様に、ウクライナは、ベルリンの地政学的、そして経済的な計画の主要な関心です。

東方の前線から移動させられた軍隊、東方の前線において完璧化された新たな侵入の戦略、そしてまた、東方の前線において完璧化された突然の、大規模で、鋭く、短期的な、慎重に調整された砲撃の戦略を使用した、¹⁸ 1918年のフランスにおけるルーデンドルフの大規模な攻撃は、4年に渡る戦闘によって疲弊させられた、英国とフランスの勢力を、敗北の寸前までもたらしました。新鮮なアメリカ軍の到着が、西方の連合軍の唯一の救いでした。

その結果は、勿論、皇帝の退位、ドイツの降伏、ヴェルサイユ(不平等)条約、東におけるドイツの領土の消失、厳しい戦争賠償金の強要、ドイツの武装化とその軍の規模についての厳しい制限、オーストリアとドイツの Anschluss 、または合併の禁止、そしてそれによってドイツが第一次世界大戦を開始した全責任を取らされた「完全な戦争の罪悪感の条項」でした。私達の目的のために、私達はヴェルサイユ条約についての2つの物事に着目する必要があり、一つは頻繁にコメントされるものですが、もう一つの真の目的は殆ど触れられません。

それらの一つ目、そして頻繁にコメントされるものは、ドイツ軍、Reichswehr (国防軍)に対する制限で、陸軍の兵士を100,000人以下に制限し、更に加えてあらゆる戦車、15cm 口径以上のあらゆる砲弾(連合軍は難しい方法で学びました!)、または戦闘機の製造、または所有を禁止し、そして10,000トン級以下の船の海岸線の近海の防衛の海軍への制限でした。ドイツの様な巨大な勢力にとって、フランス、英国、(元々のオーストリア帝国のスコダ軍産複合体を共にした)新たに確立されたチェコスロヴァキア、そしてソヴィエト連邦の様な、強力で敵に成り得る国々よって、四方八方から囲まれる事は、明らかに容認出来る状況では無かったのは、その国の究極的な安全保障を、つい最近まで戦争していた正に国々の手に委ねる事であったためでした。故に、私達が直ぐに目撃する様に、これは、その戦争の後に直ぐに迂回され始めた条項の最初の一連の一つでした。¹⁹

その真の重要性が通常注目されないヴェルサイユ・システムの2つ目の特徴は、オーストリアとドイツのあらゆる統一、または Anschluss を禁止する条項です。1918-1919年のフランスにおける連合軍の地政学者達の、この禁止の論理は、そのドイツの戦争の目的が正に、それ自体が戦時中の同盟国であったオーストリア-ハンガリーを、経済的、そして故に政治的に圧倒し、その二重王朝を属国にするドイツの意図の婉曲語法だと明かす、ミドル・ヨーロッパと共に始まり、ヨーロッパにおける関税の統一を創造する事であったと人が思い出せば、理解され始めるでしょう。オーストリア-ハンガリー帝国の解体と共に、しかしながら、オーストリア(ドイツ語圏)の国家の塊は、より簡単にその(ドイツ)帝国に吸収されやすく成りました。加えて、その様な吸収(合併)は、チェコスロヴァキアの創造の地政学的な意図を反転させ、その(チェコとスロヴァキアの)合併国が、拡張された(ドイツ)帝国の領土によって、3方から囲まれる形に残し、そして保たれる事の出来ない軍事的な位置で、1938年におけるヒトラーのオーストリアの Anschluss (合併)の後に正に起こった事で、それはボヘミアのチェコスロヴァキアの吸収と、(残った)スロヴァキアの塊の、1939年におけるヒトラーによるパペット(操り人形)国家の創造に繋がりました。端的に、Anschluss の禁止はミドル・ヨーロッパのドイツに圧倒された「統一関税」の創造における最初の不可欠な一歩を妨げるためにデザインされ、それは、勿論、ドイツによって圧倒された「ヨーロピアン・ユニオン」の創造のために不可欠な2歩目を防ぐためでした。

B. The Cunning Minister: Walter Rathenau, Generaloberst Hans von Seeckt, and the Rapallo Prinzip
B. ずる賢い大臣:ウォルター Rathenau 、Generaloberst ハンツ・ヴォン・シークト、そしてラパロ・プリンジップ


上述の観測が、初見において、過去に対する現在の現実の投影の場合の様に見える間、時間を超えたその様な目標と目的の一貫性、そして様々なドイツ政府と憲法的な調整は、その真意を明かし、戦争の間の期間の最も有能な政治家の一人だった:ウォルター Rathenau (ラーテナウ)の外務省以上にそうであったものはありませんでした。

ライヒ(帝国)の外務大臣、ウォルター・ラーテナウ、1867-1922年、1922年2月ー6月の大臣
1 Walter Rathenau

ラーテナウは、当時のその他の裕福なユダヤ系ドイツ人の多くと同様に、高度に博識で、知能的な人で:ソヴィエト・ロシアの社会主義、そしてあらゆる企業の国営化に対して反対し、また、熱心な国家主義者で、ヴェルサイユ(不平等)条約と、その条件に反対しました。当時のドイツの政治的な中心における多くと同様に、彼はドイツのために、ヴェルサイユ条約の条項を最終的に覆す事を常に目標とし、外交的な戦略の空間(幅)を創造する事を求めました。

1922年において、中道主義の首相、ジョセフ・ワースの連立政府の外務大臣としてラーテナウは、ソヴィエトの手法と政策には、彼は反対していましたが、ラパロ条約と共に彼の好機を得て、ロシア連邦社会主義共和国(ソヴィエト)と署名しました。この条約の定義は指導的です:

国家の(外務)大臣、ウォルター・ラーテナウ博士によって代表されたドイツ政府と、人民の兵站(へいたん)部将校、M. Tchicherin によって代表されたロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国は、以下の条項に同意する:

条項1
その2つの政府は、以下の土台の上に基づき、ドイツとロシアの戦争の期間から生じた問いに関して、ドイツのライヒとロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国の間において行きついた調整に同意し、はっきりと解決される:

[a] ドイツのライヒとロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国は、その戦争のために派生した出費と、戦争被害のための賠償金のための彼等の主張を取り下げる事にお互いに同意し、つまり、敵国において会得した全てを含み、軍事的な方法によって戦争のゾーン(区域)において、彼等、そして彼等の国民によって苦しまれた、あらゆる損害の破棄と言う事である。特別な戦争の対策と呼ばれたもの、または一方の側によって行われた緊急対策によって、一方の側の国民によって苦しまれたかも知れない、あらゆる市民的な損害のための賠償金を差し控える事を、両方の側が同意する。

[b] どちらかの側の手に落ちた、貿易の船の扱いの問いを含み、戦争状態から派生した、公、または個人における法的な関係は、相互利益に基づいて解決される。

[c] ドイツとロシアは、戦争捕虜のために、お互いの側に生じた出費のための賠償金のための、彼等の主張を取り下げる事にお互いに同意する。更に加えてドイツ政府は、ドイツにおいて収容された赤軍のメンバーのために生じた出費に関する賠償金を差し控える事に同意する。ロシア政府は、上述された赤軍の収容されたメンバーによって、ドイツへともたらされた陸軍店(武器弾薬商人)に、ドイツにおいて行われた販売の利益の賠償を差し控える事に同意する。

条項2
ロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国の政府が、第三者による類似した本質の賠償のための主張に応じないことを条件に、ドイツ国民、または彼等の個人的な権利(人権)、そしてドイツのライヒと国家に対して、ロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国の法律と対策の、現在までの応用を通して生じたかも知れない全ての主張、そしてまた、ドイツ国民、または個人的な権利に対して、ロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国、または彼等のエージェント(部下)によって取られたあらゆるその他の対策によって生じた主張も、ロシアに対してドイツは差し控る。

条項3
ドイツのライヒとロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国の間の外交的、そして領事館的な関係は、直ぐに再開される。両方の側の領事(大使)達の受け入れのための条件は、特別な同意の方法によって決定される。

条項4
一方の側の国土内に住む、もう一方の側のそれらの国民の法的な地位の確立、そして相互的で、商業的、そして経済的な関係の一般的な統制は、最も好まれた国家(有利な側)の原則の上で行使されると、両方の政府が更に加えて同意する。この原則は、しかしながら、ロシアの社会主義連邦ソヴィエト共和国がソヴィエトの共和国、または過去において旧ロシア帝国の一部として形成されたあらゆる国家に許可されるかも知れない特権と施設には応用されない。

条項5
その2つの政府は、両方の国々の経済的な必要性に対処するにおいて、相互的な善意の精神において協力する。国際的な土台の上の上述の問いの原則的な解決の出来事において、意見の交わし合いが2つの政府の間で事前協議される。ドイツ政府は、個人企業の提案された同意の情報を最近与えられ、それらの同意のために可能な限りの全ての補佐を与え、そしてそれらが実施へと行われる事を促進するその用意を宣言する。

条項6
この同意の条項1[b]と4は、署名の即日に効果的に成り、そして残りの条項は直ちに有効に成る。

元々の文章は、1922年4月16日にラパロにおいて複写された。

署名:ラーテナウ
署名:Tchitcherin²⁰

ラパロ条約の3つの主要な効果が以下であった事に着目して下さい:

1)(ソヴィエト)ロシアとドイツの間の外交的な関係のすぐさまの再開で;故に、ドイツが、ソヴィエト連邦とその政府を公式に認識した最初の主要な国家の一つに成った事で;

2)両方の国々が、お互いに対するあらゆる戦争の賠償、または主張を差し控え、そして現在(当時の)ステータス・クオ(現状維持)を認識し、i.e. ラパロは、ブレスト-リトフスクの条約がもう有効では無いと言う、両国による公式な認識で;²¹ そして最後に最も重要なのは;

3)両方の国々が、最も好まれた(好条件な)国家の貿易の地位の土台の上で、相互的で経済的な補助と協力に同意し;効果的に、第一次世界大戦後の2つの大規模な勢力、そしてのけ者国家が、大まかな経済的なブロックにおいて協力し、調整する事に同意しました。これは結果的に、ワイマー・ドイツを、ソヴィエト連邦の主要で国際的な貿易のパートナーにし、そしてその逆もまた然りでした。

ですが、更にあります。

上級大将(Generaloberst)ハンツ・ヴォン・シークト(ゼークト)、1855-1936年、第一次世界大戦後の国防軍の司令官、1919-1926年
2 seekt

ドイツの Reichswehr (国防軍)の司令官、ハンツ・ヴォン・ゼークト上級大将が秘密裡にラーテナウに手紙を書き、武器弾薬の産出のあらゆる前提のために、ドイツにおいて工場を監視していた連合軍の軍部の大使館員(監査人)の目が及ばない遥か遠くのロシアにおけるドイツの工場において製造された兵器と共に、ソヴィエト領土内の秘密裡の訓練センターにおいて - 戦車、戦闘機、そして重砲弾を伴った - 正に兵器を共にした、ドイツの士官達と兵士達を訓練するための施設と、ロシア領土内におけるドイツの軍需産業の工場の確立を許可する、秘密のプロトコルをラパロ条約に加える事を強く主張したと、常に噂されました。全ての可能性においてこれが真実なのは、その当時からのヴォン・ゼークトの書類とソヴィエトの文献の多くは破壊されてしまいましたが、何らかの秘密裡の同意が存在していた事を現実は実証し、そして更に加えると、ラパロ(条約)の間、1920年代の初頭から存在していました:

「その条約に対する秘密裡の軍事的な追加条項の噂は直ぐに広まりました。しかしながら、長い間一般論は、それらの噂が間違いで、独ソの軍事的な話し合いはラパロとは別々で、随分の間ドイツの外務省からは秘密に保たれていたと言うものでした。この観点は後にくつがえされました。1922年11月5日、その後直ぐにソヴィエト連邦の一部に成る6つのその他のソヴィエトの共和国達が、ラパロ条約を支持する事に同意しました。

「ソヴィエトは、連邦の奥深く、条約の監査人の眼から遥かに遠く、兵器開発とテストのため、そして軍事的な訓練のための施設をワイマー・ドイツに提供しました。その見返りとしてソヴィエトは、ドイツの技術開発へのアクセスと、そして赤軍の参謀部を創造するにおいて、補助を求めました。

「1922年3月に、それらの目的のために、最初のドイツの士官達が、そのソヴィエト国家を訪れました。一カ月後、ヴェルサイユ条約の違反において、ユンカース社は、モスクワ郊外のフィリにおいて、戦闘機の製造を開始しました。大規模な砲弾の製造業者、クルップ社も直ぐに連邦の南部のロストフ・オン・ドン(ドン川の上のロストフ)近郊において活発に成りました。1925年において、ルフトワッフ(空軍)の未来のための最初の操縦士達を訓練するために、リペツクの近くのヴィヴパルにおいて、飛行訓練学校が確立されました。1926年以来、その国防軍は、(カマとコードネームされた)カザンにおける戦車訓練学校と、(トムカとコードネームされた)サマラ・オブラストにおいて、化学兵器の施設を利用する事が出来ました。その引き換えに、赤軍はそれらの訓練施設の使用を得ると同時に、ワイマー・ドイツから、軍事的な科学技術と理論を会得しました。」²²

言葉を変えると、ヴェルサイユ条約の署名から5年も経たない内に、そしてナチス政権の台頭の遥か以前に、ワイマー・ドイツは、もし文字通りでは無いにしても、その国内でそれ(再武装)を行うために代理国家(ソヴィエト)を雇う事によって、それ(ヴェルサイユ条約)によって禁止された正に兵器において、秘密裡の再武装化の計画を開始し、順を追って、そのためにその国家(ソヴィエト)は、ドイツからの最新の産工業的、そして軍事的な科学技術を受け取り、ヴェルサイユ条約の精神を完全に迂回しました。このパターン、「ラパロ・プリンジップ」、またはラパロ原則、もしくはラパロの型板は、私達が目撃する様に、第二次世界大戦後、そして私達自身の現代まで、そして特に原爆と水爆の兵器に関するにおいて再び反映的です。

上級大将ハンツ・ヴォン・ゼークトについて、着目する価値があるのは、第一次世界大戦の間彼は、もし最も有能とはいかないまでも、その戦争の最大級の戦場指揮官の一人、オーガスト・ヴォン・マッケンセン陸軍元帥の参謀長で、その能力は - 第一次世界大戦の指揮官達の中で最も特徴的で - 彼の好んだ砲弾司令官、ゲオルグ Bruchmüller! によって反映された砲弾戦略と融合された迅速戦術戦争でした。ヴォン・ゼークトはそれらの教義を戦後の Reichsheer へと持ち込み、最新の戦術の全てをそれに教え込み、それをヨーロッパにおける精鋭の「幹部/中核」陸軍にして、その士官達と下士官達は全て、彼等の通常の指令の階級から、二階級上の部隊を監督出来る様に意図的に訓練されました。1939年においてその Wehrmacht が戦争に出向いた時、それは故に、大々的にヴォン・ゼークトの創造でした。²³

連邦のアーカイヴから:マントを着けたウィルヘルム2世と、彼の左に敬意と共に立つヴォン・ゼークト、そして警護の前のオーガスト・ヴォン・マッケンセン陸軍元帥、1915年
3 Bundesarchiv

C. The Good Chancellor: Dr. Konrad Adenauer and De- or was that Re-Nazification
C. 良い首相:コンラッド・ アデナウアー博士と非- または再-ナチス化


今後の章の中で明らかに成る理由のために、私達はナチス時代の正にその終わりまで一っ跳びし、第二次世界大戦の直後の、ドイツ連邦(西ドイツ)の首相、コンラッド・アデナウアー博士(1876-1967年)のドイツ政権の始まりに行ってみましょう。

第二次世界大戦後の最初の首相:コンラッド・アデナウアー博士(1876-1967年)、1949-1963年の Bundeskanzler (連邦のカウンセラー)
1 Konrad Adenauer

1. Nazi Documents from the End of the Second World War
1.第二次世界大戦の終わりからのナチスの文献


1953年、そして再び1962年において、ユダヤ系ドイツ人の、アメリカへの移民、T.H. テッテンス(1899-1976年)は、戦後の国際ナチスの活動の存在を扱った重要な2冊の本、クレムリンとのドイツの策略(1953年)と、新たなドイツと昔のナチス(1962年)を記述しました。実際に、マドリッド回覧書について知られているのは、大々的にテッテンスの最初の著書の功績です。テッテンスがそのコンテキストの中でそうしたのは、しかしながら、西ドイツの戦後の最初の首相、コンラッド・アデナウアー博士と、彼の政府の活動の詳細な検証においてでした。

アデナウアーは、西洋の連合国、フランス、英国、そして米国のために、「良い首相」としての彼の印象を慎重に作り上げました。ですが現実において、テッテンスが観測した様に、とても異なっていて、ドイツの降伏に関するアデナウアーの態度と明言と共に始める以外に、良い場所はありません:

「1949年3月25日に、アデナウアー博士が首相として選出される遥か以前に、スイスのバーンにおける演説の中で、彼がドイツの国民は連合国に対して全く降伏しておらず、全ての義務(戦争責任)から解放される事を示唆していると宣言した時に、連合国の中の驚きの原因に成りました。1945年において降伏したドイツの軍事的な指導者達は、『無条件降伏の定義に対して従う、ドイツ国民からの権限を全く持っていなかった。』その同じ演説の中で彼は、ドイツの特許の連合国による没収に反対し、そしてこう宣言する事によって、オダー-ネイセの一線を非難しました:『このフロンティア(前線/国境)を我々は決して認識しない!』その首相の公式な伝記の記述者は、『アデナウアーのバーンにおける演説は、スイスの国境を遥かに超え、政治的な衝撃の原因と成り:殆ど全ての場所(国々)において、激しい憤慨と共に受け取られました』と記述しました。そして、1950年のベルリンにおける大衆の集会において、彼のリクエストであった『Deutschland ueber Alles』の合唱において彼が観衆を導いた時に、出席していた連合国の代表達は、辱めを受けました。」²⁵

此処において何が興味深いかと言うと、アデナウアー博士が明白な事を指摘したためで、つまり、1945年5月7日にフランスの Rheims において、アルフレッド Jodl 上級大将によって署名され、そして1945年5月8日のベルリンにおいて、ドイツの Wehrmacht (国防軍)の3つの軍事部門(陸海空)の代表達によって署名された2度のドイツの降伏の署名において、当時、カール・ドニッツ元帥海軍大将によって代表された、第三ライヒ(帝国)自体の政府の代理も、ナチス党、またはその党の総裁の代理も、署名しなかったと言う事でした。²⁶

この要点は、戦時中と戦後のドイツにおける制度と概念の間の継続性の問題を、はっきりとした形で露呈させます。此処において、その戦争の終わりからの実際のナチスの文献と、その5年後のマドリッド回覧書の間には、驚きの継続性が存在しています。例えば、1944年3月15日付の Geheime Reichsache (秘密の国家的問題)の機密文書の中で、ドイツの軍事諜報工作と、対-諜報工作の機関、Abwehr の主任、ウィルヘルム・カナリス海軍大将は、即座な戦略的な目的は、『ドイツのライヒを軍事的、経済的、そして文化的に、永遠に破壊する事をその目的とした、敵国の計画を潰す事』でなければならないと記述し、明らかに、ルーズベルト大統領によって許可を与えられた『モーゲンサウ』計画に対する言及で、そしてそれと共に私達は、今後の章の中で(それについて)多くを語るでしょう。故に、その戦争の終わりにおけるナチスのエリートの戦時中の目的と、その(戦争)の終わりの5年後に、マドリッド回覧書によって主張された実際の達成の間に継続性の明らかな可能性が存在するのは、モーゲンサウ計画が実際に廃案にされ、全く実施され無かったためです。加えて、継続性の更にもう一つの要点において、カナリス海軍大将はまた、それによってこれが達成される方法は、『米国において我々の指揮下に』ドイツが有した『効果的な接触(人脈)』を利用する事であると明言し、²⁸ その戦争の以前、そしてある意味、その間にさえも存在した実業の人脈のための控えめな婉曲(えんきよく)語法でした。

ウィルヘルム・カナリス海軍大将自身についてもまた、一言、二言必要です。カナリスは、1944年7月の、ヒトラーに対する爆弾(暗殺)計画において関係があるとされ、そしてその後、処刑されました。しかしながら、私達が第一章の中で見た様に、マドリッド回覧書ははっきりと、その爆弾計画がナチスによる意図的な偽装、または主張された「共謀者達」を「処刑」し、そして彼等のための新たな身分証明/名前を創造するために利用された好機な危機のどちらかであると言う幻影を台頭させます。その何人もの共謀者達の処刑が舞台(ヤラセ)であると言うマドリッド回覧書の主張を補佐する証拠は - この筆者が知る限り - 全く存在しない間、カナリスは、その様な偽り(偽装)のための主要な候補者(代表格)でした。²⁹

ウィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将、Abwehr の主任
2 canariswilhelmbio

このための理由は、カナリスが第一次世界大戦の間に、グラフ・ヴォン・スピー海軍大将の極東(太平洋)の部隊と共に、司令官として任務に就いたためです。その部隊(艦隊)は太平洋を横断し、南米の西海岸を下り、そしてマゼラン海峡を渡る速攻の後、カナリス司令官はその艦隊から離脱し、U-ボート(潜水艦)とその他の秘密裡の海軍基地として利用される事の出来る、その地域(南米)における入り江や島々を調査しました。1944-1945年におけるナチスの戦略的な撤退の計画に対して不可欠だったのは、第一次世界大戦の間の、それらの地域におけるカナリスの調査活動と、それらについての彼の詳細で個人的な知識で、それらがティエラ・デル・フエゴと、アルゼンチン南部とチリのその他の場所へと、書類、マネー、そして人材を避難させるにおいて、ドイツとイタリアの船舶と U-ボートにおいて利用された正に地域であったためです。もし、これに関するマドリッド回覧書の主張が真実なら、するとカナリスは「処刑」されるための「共謀者達」のリストの最上部にいたはずです。もし彼等が「死亡」しているなら、人は戦後の「戦争犯罪者達」、または高い階級のナチスの軍部の士官(将校)達を探さなかったでしょう。

更にそれ以前の1943年に、ヨアキム・ヴォン・リーベントロップのナチスの外務省のために働いていた、アメリカ人の(ナチス)同情者で、治政学者のコリン・ロス博士は、アメリカの人々に対する戦後の心理作戦についてのメモを構成しました。スターリングラッド(ゴロド/街)におけるドイツの敗北の直後において、既に鮮明に成って来た必然的な崩壊を予測しながら、ロスは、米国に対する慎重に計算された心理的な戦争³⁰ の長期的なキャンペーン(実施)と以下の創造を主張しました。

敵国の占領下にある全ての国々において、遠くまで伸びた組織が、地下から任務を遂行しなければならない。ヨーロッパの開放の後、彼等が解決不可能な矛盾(問題)の終わり無き迷路に巻き込まれる様に成ると、アメリカ人達の世論に印象付けるために、我々は可能な限りの全てを行わなければならない。彼等の犠牲がどれだけ大きくとも、彼等は1918年に、ウィルソン(大統領)の大規模な計画の下で起こった様に、盲目の裏道(行き止まり)に行きつくだろう。」³¹

言い方を変えると、リーベントロップの外務省の専門家達が主張していたものは、国境超越的な国家、国際ナチスの創造でした。

あたかもこれだけでは十分では無い様に、その戦争の最後の数週間において、更にもっと大々的な計画が形成されました。この計画は、1945年4月3日から5日付けの、連合軍によって回収された3つの書類において概要され、「1945年の全般的な計画」と呼ばれたものを概要していました。それらの書類の2つ目は、「ヨーロッパの平和の秩序」の題名の下で、12の要点を具体化した、単純な構成でした。それらの12の要点の一見は、高度に指導的です:

1.抑圧と占領からのドイツの人々の開放。

2.国外追放者達の国内復帰。

3.統一されたドイツの民族的なコミュニティー。

4.敵国による全ての独断的(一方的)な行いの排除。

5.連邦的な土台の上のヨーロピアン・ユニオン。

6.民族的な自治権の権利。

7.ヨーロッパの共通の福利(幸福)。

8.裁定(仲裁)のヨーロッパの裁判所。

9.ドイツ・ライヒ(帝国)の創造を最終的な目的とした関連した人々のコミュニティー。

10.ドイツ、ボヘミア、そしてモラヴィア(i.e. 中央ヨーロッパ)の間のコモン・ウェルス(共通資産)。

11.民族的なグループの保証された保護。

12.ヨーロッパの経済的な統合。³²

此処まで来れば、この全てに親しみがある様に聞こえるならば当然なのは、「ドイツとボヘミアとモラヴィアの間の共通資産」は実際に、ミドル・ヨーロッパの彼等の「関税統一」と共に、第一次世界大戦の間に、ヴォン・ベットマン-ホルウェッグとドイツのエリートのその他のメンバー達が主張したもので、そしてそれは実際に、1939年における Reichprotektorate Böhmen und Mahren (ボヘミアとモラヴィアのライヒの保護国)の確立と共に達成されたもので、ドイツの再統一の後に、コール政権によってチェコスロヴァキアに対してかけられた膨大な圧力の下で、その国が再びもう一度、ボヘミア-モラヴィアと、スロヴァキアの構成要素に分裂した時に、丁度、1939年に行われた様に、再び達成されたと、幾らかの人達は主張しました。³³ その他の - ヨーロッパ連邦、ヨーロッパ裁判所、そしてヨーロッパの経済的な統合は - それらもまた、達成された事実でした。勿論、この全ては簡単で好都合な偶然かも知れませんが、ですが再び、私達が第4章の中で目撃する様に、ナチスの悪魔達は詳細の中に潜んでいます。

最後に、恐らく最も重要な事で、1945年4月5日付けの、「その大災害を乗り越える」と題された「1945年の全般的な計画への追加」のそれらの書類の3番目は、興味深い活動の行方を推進し、その活動の行方はマドリッド回覧書の中に反映されたものです。「西洋の勢力に対して提供出来るものは実質的に何も無い」事を認識して、³⁴ その書類は東に向けたドイツの関心の長期的な戦後の方向付けにおいて、ソヴィエト・ロシアと共に行われる事の出来る7つの特定的な歩み(段階)を概要しました:

a) ドイツと現ソヴィエト連邦は、「社会主義者のユニオン(統合)」の創造において、一緒に協力する。1943年における、16のソヴィエトの各共和国の独立と共に結びついて、ヨーロッパの人々は国家的に定義され、自己-統治している国家を形成し、防衛と経済的な統合を通して統合される。その国家の内的な形状は、その人々によって決定される。

b) ドイツは、ポーランド、リトアニア、エストニア、ラトヴィア、フィンランド、ブルガリア、ルーマニア、マケドニア、ギリシャ、そして恐らくトルコのソヴィエト共和国を認識する。

c) 上(北)サイリージアの西部、そして Warthegau の全ての部分、更に1918年までプロシアの一部であったプロシア西部は、ドイツ領土のままに残る。更に加えてドイツは、旧ボヘミアと南東において、強い影響力を得る。

d) 戦争捕虜達と、トランシルヴァニア、バナット、ポメラニア、サイリージア、東プロシア等々からの国外追放されたドイツ人達の全てを含む、民間人達の相互的な交換。

e) ドイツは、北方と西方のヨーロッパにおいて、特に英国に対して自由な手を得る。

f) 「社会主義的な統合」の全体は、特に自然資源(原料)の供給を通して、ドイツを補佐する。

g) ドイツは、戦争によって破壊されたエリアの復興において、ソヴィエト・ロシアを補佐する。

その書類は、上述の活動の行方が成功的ならば、以下の結論に成ると描きます:

海(大西洋)から海(太平洋)までの、大いなる経済力、電力、そして人口の数の、世界を圧倒する膨大なブロックが創造されるだろう。³⁵

戦争捕虜達の交換、ドイツの東部の地方へのドイツ人達の再移住等々の様な、当時の実直な関心を超えて、その書類から台頭するものは、再び、実際に起こった事の驚く程の先見的な予測で、ヨーロッパの経済的なコミュニティー(EEC)の形成だけでなく、その戦争の終結以来、ドイツとロシアの間で益々保たれた関係に関しても然りで、そしてワルシャワ条約の崩壊とドイツの再統一以後、更にもっとそうで:ドイツは、特に電力の形状で、ロシア連邦からの「自然資源の供給」によって支えられました。この東向きの方向転換、または Ostpolitik はマドリッド回覧書の中で中期的な戦略の目的として推奨され、故にその戦争の終わりからの公式なナチスの書類において表現を見つけます。そして今後の章において目撃される様に、その2つの国々の連邦の目的は、ドイツの場合、「大西洋からウラル山脈まで」で、ロシアの場合「大西洋からヴラディヴォストク(ウラジオストック/太平洋)まで」で、お互いからそう変わりはありませんでした。

ですがこの全ては、ドイツの最初の戦後の首相に、どう関係していたのでしょうか?簡単に云うと、全てで、現在、実質的に忘れられてしまった出来事である、1953年における、その首相と彼の政府に対する「ナウマンのクーデター」の試み以外に、始めるための良い場所はありません。T.H. テッテンスの記録するための努力が無ければ、その事件は恐らく、完全に忘れ去られてしまっていたでしょう。

2. The Naumann Coup Attempt and Its Implications
2.ナウマンのクーデターの試みとその示唆


1953年1月15日の午前7時の直後に、英国の外務省の広報部門の主任、サー・ウイリアム・リッズデールは、公式な広報の発表を公表し、それはコンラッド・アデナウアー首相の政府が、以下を逮捕したとしました:

「7名の元ナチスの高官達のグループが・・・ボンの政府を転覆させる事を計画したために、デュッセルドルフとハンブルグにおいて逮捕されました。公式な発表は、英国の権威(政府)が、その7名の男達が、ある計画に拘わっていた事を事前に認識し、そしてその逮捕は、(英国の)外務大臣、(アンソニー)イーデンの権威の下で行使されたと公表しました。」³⁶

彼等は壮大な妄想を共にした唯の一般人のグループでは無く、むしろ、第三帝国内の高い階級のナチスでした。そのクーデターの中心人物は、ワーナー・ナウマン博士で、

「ゲッペルス博士のプロパガンダ庁における内務大臣として務めました。ナウマン博士は、ベルリンの官庁の掩蔽(えんぺい)壕における正に最後の日々まで、ヒトラーと共に残り、そして彼は、彼(ヒトラー)の遺言の中で、その総統によって、プロパガンダ大臣として、ゲッペルス博士から引き継ぐ様に指名された人でした。」³⁷

ナウマンの共謀者達は、ヒトラーの第三帝国における、地方的なナチスの指導者達の大物達でした:

1)ハンブルグの元 Gauleiter (ナチス党の地域的な指導者)、カール・カウフマン;

2)SS (親衛隊)の元将軍で、SS の労働収容所組織における高官、ポール・ジーママン;

3)サルツブルグの Gauleiter で、「ヒトラーの遺言において指名された教育大臣」、グスタフ・シェール;³⁸

4)ナチス党の「学生リーグ」の主任で、ヒトラーの「民族と避妊治療についての専門家」、ハインリッヒ・ヘイゼルメイヤー博士;³⁹

5)ゲッペルス博士のプロパガンダ庁におけるもう一人の高官、カール・シャーピング博士;そして最後に、

6)更にもう一人の Gauleiter 、ヘインツ・ジーペンでした。⁴⁰

これが全てだったわけでもありませんでした。その英国の公表は、逮捕された7名の男達が、唯単に、より大きな氷山の一角でしか無いと示唆したのは、彼等が、「アデナウアーの連立政権における、3つの右派の政党に侵入する事を目的とした、125名の重要なナチスのグループの指導者達として描写されたためでした。彼等の最終的な目標は、『ボンの議会的な政権を、転覆させる』事でした。」⁴¹ 加えて、英国はまた、その計画が、『デュッセルドルフからカイロまで、マドリッド、ブエノス・アイレスからスウェーデンのマルモまで』広がった、戦後の国際ナチスのネットワークによって産み出されたものであると示唆しました。⁴² コンラッド・アデナウアーの政府が、彼を失墜させたであろう正にクーデターの試みを、暴露し、そして阻止したために、英国に対して感謝しただろうと、人は考えるでしょう。

3. Adenauer’s Nazis
3.アデナウアーのナチス
a. The Official Version of Adenauer’s Response
a. アデナウアーの返答の公式なヴァージョン


しかしながら、これは、その場合とは遥かに異なっていました。その計画の英国による暴露に対するアデナウアー首相の冷淡な反応のために与えられた「公式な」理由は、政治的なものでした:

「当時アデナウアー内閣は、ドイツのソヴリンティー(主権)を完全に回復し、ヨーロッパの政治的な統一に向かう第一歩だった、ヨーロッパ防衛コミュニティー条約(EDC)の迅速な裁可を望んでいました。その様な瞬間において、世界の世論の目の前で、再台頭するナチスの危険の亡霊を露呈する事は、アデナウアー博士の眼において、許されない犯罪でした。その逮捕の前に、英国の高等弁務官(大使)、サー・イヴォーン・カークパトリックが彼に相談しなかったので、その首相は特に憤慨していました。」⁴³

アデナウアーの政府にとって、ヨーロッパ防衛コミュニティー条約は、ヨーロッパの政治的な統一に向かう途中の第一歩であった事に加えて、それによってドイツの再武装化が許される方法であったためでした。サッチャー(首相)時代の正に終わりまで、ヨーロッパの政治的な統一に向かう努力に批評的だった英国が、正にこの瞬間にアデナウアーを辱めようと選んだのは重要でした。⁴⁴

アデナウアー政府のためにこれが唯の始まりでしか無く、そして私達の目的のために、それが、テッテンスによって概要された逸話が進む際に、それ自体を現す問題性なのは、ナウマンと彼の共謀者達に対する証拠が圧倒的であると英国が最終的に、アデナウアーと彼の内閣を納得させた後、ボンは裁判のためにその共謀者達をドイツの(司法)管轄区に手渡す様に、英国を説得する事に成功しました。1953年3月26日に、英国はその共謀者達を、アデナウアーの政府に引き渡しました。⁴⁵

この時点において、ボンの政府は、公表の一連を発表しました。アデナウアー博士は、「報道会見において、『遠くまで広がった策略の存在』を認め、そしてナウマンの活動が『国外におけるナチスのグループによる多大な総額に資金援助されていた』⁴⁶ とさえ認め」、その間、彼の司法大臣は、ナチスのナウマンの内輪が以下を計画したと認識する事によって更に述べました:

「・・・『最も悪賢く、そして邪悪なシステムへの侵入で、』そしてその陰謀は『連邦共和国の民主主義的な制度に対する緊急の危険』を体現する。ナウマンの書類の回収は、『そのグループの目的が、頑固なナチスと共に右派の政党の全ての鍵の地位を満たし、それによってその後、広いネオ-ナチスの大衆運動のために使用される事の出来る、プロパガンダの媒体を創造する事である明らかな証明を与えた、』と彼は述べました。」⁴⁷

衝撃と怒りのそれらの公の明言にも拘らず、しかしながら、ドイツの(司法)管轄区にナウマンと彼の共謀者達が成った後の、アデナウアー政府による彼等の実際の扱いが、公の衝撃の表現とはとても対照的だったのは、1953年6月の終わりにおいて、全ての共謀者達が釈放され、そして1954年の12月に成ると、ドイツの最高裁が「あらゆる裁判、または公聴会も無しで、その案件を退けた」ためでした。着目されるべきは、テッテンスによると、ドイツのメディアが、その事件全体におけるアデナウアーの行いを好意的に受け取らなかった事で、Furankfurter Rundschau 紙は1953年の1月から2月にかけて、そして再び6月の記事において、その策略の書類と詳細の多くを公表しました。⁴⁹

Frankfurter Rundschau 紙によって暴露された策略は啓示的で、それによって戦後の国際ナチスがドイツ内で活動しようと意図した4つの主要で方法的な点を含みました:

1)ドイツの新たなボンの連邦共和国の民主主義的な制度は、「その背後で新たなナチス運動が組織化される事の出来る、建前として」使用され;⁵⁰

2)アデナウアー首相は、不必要な疑いを浮上させないために、国際ナチスの目的のフロント(建前)またはさくらとして利用され;

3)国家主義のあからさまな展示は意図的に、そして周到に避けられる間、「内側からその国家の現存している政治的な政党と、行政的な制度を征服する(乗っ取る)ために」ドイツの現存している政治的な政党に侵入するための「新たな侵入の方法」が開発され⁵¹ ;そして最後に、

4)「アデナウアー連立政権の政党だけでは無く、その他の政治的な組織の全ての中へと」、戦前と戦時中に、ヒトラー・ユースにおいて訓練された人達を、権力と影響力の地位へと推奨させる。⁵²

慎重な読者はもう、ナウマンの策略、その後の英国による暴露、そしてアデナウアー政府によるその特徴化(対応)にまつわる問題性の最初の現れに気付いたでしょうが、もしそれらがナウマンの内輪によって好まれた方法であるなら、何故彼等は、それが侵入しようと試みている正に政府に対するクーデターを試みる事によって、慎重に計画された長期的な戦略を危険にさらしたのでしょうか?次の部分の中で目撃される様に、これはその問題性の唯一の現れではありませんでした。

b. Adenauer’s Nazis
b. アデナウアーのナチス
(1) The British White Paper on the Nazi International
(1)国際ナチスについての英国のホワイト・ペーパー


1953年8月までに、英国は「長文のホワイト・ペーパー」において、それ自体のナウマン・クーデターについての明言を準備しました。この書類は最後の瞬間に、「全く明らかにされ無かった理由のために」⁵³ 突然、そして不可解にも、公表から差し控えられました。テッテンスが記述した様に、しかしながら、噂はその差し控えを、ワシントンとボンからの政治的な圧力に起因させました。⁵⁴ その様な圧力は、もたらされる事が出来たのでしょうか?

それが正に可能だったのは、アデナウアー博士と、彼の後継者達、ルードウィッグ Erhardt とカート・ゲオルグ・キーシンジャーの政府を通して、当時の諜報工作の主任が、戦時中のナチスの軍事的な諜報工作組織、Fremde Heere Ost (東の国外の陸軍)の主任で、CIA のアレン・ダレスとの彼の関係によって、アメリカの諜報工作と、親-ドイツの実業的な関心を体現した、ラインハルト・ゲーレン将軍以外の何ものでも無かった事を考慮して下さい。

(2) A Couple of Nazis in Adenauer’s Court
(2)アデナウアーの法廷における2、3のナチス


ナウマン・クーデターによって体現された問題性が最もあらわに成るのは、しかしながら、人がアデナウアーの政府自体を考えた時です。例えば、ハンツ・グロブケ博士は、1963年に、彼の親-ナチスの過去が彼に追いつき、政府の役職の全てから辞任するまで、ボンにおける Bundeskanzlei (連邦カウンセル/官庁)の実際の長官で、アデナウアーの国家安全保障の主任の一人でした。

国家社会主義ドイツ労働(ナチス)党の正式な党員では一度も無かった間、彼は入党のための申込書類を提出し、そして好都合にも、ニューレンブルグの戦争犯罪裁判の判事達に、彼がそうした事を伝える事をしませんでした。⁵⁵ グロブケは加えて、内務省のユダヤ問題のための事務所の主任として、第三帝国における高い地位を保ち、それは、1935年の悪名高い民族(人種差別)法律を作成した事務所でした。⁵⁶ ですが、ニューレンブルグ裁判によって絞首刑を言い渡されたのが、内務大臣だったウィルヘルム・フリックであった間、「ヒトラーの民族法律の文書を作成し、数百万人の人間の皆殺しのために道を整えた、このニューレンブルグ法律の解釈をしている悪名高い『コメント』を記述したのは」グロブケでした。⁵⁷ 更に加えて、ナチスの内務省における彼の役割において、グロブケは「最終解決策」の実施において、アドルフ・アイクマンとその他と共に親密に働き、そしてある時点において彼の個人的な介入は、約20,000人のユダヤ人達の殺害を運命づけ、そしてその法律の政策における彼の役割のために、フリックから個人的な称賛を受けました。⁵⁸

更に加えて、アデナウアーの政府の中で、グロブケは国務長官の鍵の役職を務め、それはドイツの議会的なシステムの中でグロブケが、言うなれば、アデナウアーに対して、ヒトラーに対するマーティン・ボーマンであった事を意味し:彼はその連邦の内閣の会議を主催し、その目的を決定し、どの手紙と書類がアデナウアー首相の眼に届くかを判断する人物でした。⁵⁹ 彼は、アデナウアーの門番でした。これが意味したのはグロブケが「政府機関の全体のハブ(中心人物)」だっただけでなく、その組織が、トッテンスが記述する様に、1950年までにその人員が3,000名まで成長し、「朝鮮からカイロまで、シベリアからチリのサンティアゴまで」広がった諜報工作のネットワークを共にした、アデナウアーの諜報工作の主任、ラインハルト・ゲーレン将軍の直系の上司であったと言う事でした。⁶⁰ これに加えて、西ドイツ連邦の報道機関の全体が、グロブケ博士の操作の下に納まり、そしてグロブケ博士が - その中に40,000,000マルクを超えた資金⁶¹ である - 官庁(内閣)の任意の資金の操作を実施した事を加えれば、恐らく首相自身を除いて全く平行線の無い権力の地位において、とても怪しい履歴のとても有力な人物を人は有しました。

ですがグロブケは、親-ナチスの背景を共にした、アデナウアー政府の唯一のメンバーではありませんでした。グスタフ・ソンノンホル博士は、悪名高い茶色制服、Sturmabteilung、または S.A. の会員に成り、そして1930年にナチス党の党員に成りました。その後彼は、SS の士官として、ナチスの外務大臣、ヨアキム・ヴォン・リーベントロップの部下として配属されました。

「このナチスの記録は、その老練の戦士に対する障害には成らず、彼は、1950年に、アデナウアー政権におけるマーシャル計画(欧州復興計画)の援助のための情報局の主任に任命されました。数年後には、ソンネンホル博士は、第二次アデナウアー内閣において、ブルーチャー副首相の上級助言官に成りました」⁶²

ソンネンホルが、メモの中で、その連邦共和国が、「冷戦を利用し、米国とソヴィエト・ブロックの間で、同意が結ばれない事を確かにしなければならない」と主張したのは、副首相への助言者としてのこの立場の上においてでした。⁶³ 言い換えると、ソンネンホルは、マドリッド回覧書に類似した立ち位置を強く主張しました。そしてマーシャル計画の援助の情報局の主任としての彼の地位についてこれは、私がその他の場所(本)で主張した推理に、小さな度合で協力証言する様に現れ、つまり、早期のビルダーバーグ会議が確立されたのは、アメリカの援助の形状においてヨーロッパへと、三国同盟の略奪の一部を洗濯して戻すために、西洋の銀行業のシステムの中へと、その略奪を移動する、背後の調整的な媒体に成る、秘密裡の目的のためだったと言う事です。⁶⁴

それらはアデナウアーの政府において特徴的なパターンであったのでは無く、そして特定の延長まで、アデナウアーのキリスト教民主主義統合党は - ヘルムット・コール首相とアンゲラ・メルケル首相の政党は - 戦後の月日において、それによって元ナチスと親-ナチスの幾らかが「メインストリーム(表向き)化」された媒体と言えるかもしれません。⁶⁵ 実際に、アデナウアーは、知られていたナチスとナチスの組織と共謀する事にやぶさかでは無く、アデナウアーからの招待に応じてナチスの指導者達によって出席された秘密裡の会合が開かれました。Der Spiegel 誌は、1957年2月6日に - 元 SS の士官、カール・セルフによって主催された - その会合の逸話を報道しました。その会合の目的は?1957年の選挙において、アデナウアーのために、急進的右派(過激派)の支持を確かにするためでした。⁶⁶

(3) Adenauer, the Nazi International, and the Problematic of the Naumann Coup Attempt
(3)アデナウアー、国際ナチス、そしてナウマンのクーデターの試みの問題


ですから、もしあったのなら、マドリッドにおけるドイツの地政学的センターと、より広い国際ナチスとの、アデナウアーの関係は何だったのでしょうか?このセンターの公(表向き)の顔はよく知られていて、元プロパガンダ局の役人、ヨハン・ヴォン・リアース博士、⁶⁷ ルフトワッフ(空軍)のエース・パイロット、ハンツ・ユーリック・ルデル、そして最も顕著に、元 SS の中佐で、ヒトラーの「お気に入りのコマンドー(特殊部隊員)」オットー・スコルツェニーによって体現されました。⁶⁸ しかしながら、アデナウアーの政府に対して、この国際ナチスの組織の影響が最も明らかだったのは、1954年のスエズ危機の間のエジプトにおけるファルーク王の失脚と、英国とフランスの影響力の終わりで、ボンの外務省と共に働いて(機能して)いたのが、ヴォン・リアースを含んでいた、エジプトにおける鍵と成ったナチスの役人の存在であったためです。⁶⁹ 実際に、テッテンスが文句をつけ、そして私達が豊富な証拠を目撃した様に、「西洋の勢力と共に対応するにおいて、アデナウアー博士のタイムテーブル(予定)は、『マドリッドとブエノス・アイレス(アルゼンチン)から、ボンの外務省の彼等の元ナチスの同僚達に定期的に指令を与えていた、無責任なハウスホファー-リーベントロップの弟子達』によって慎重に準備されていました。⁷⁰

この全てが、ナウマンのクーデターの策略によって体現された難しさに対するはっきりとした浮彫に焦点を当てるのは、連合軍の占領下において、ナチスを再構築しようとするあらゆる公のクーデターの試みは危険に満ちていただけでなく、アデナウアー政府を失墜させる事に成功的であれば、英国、フランス、そしてアメリカの占領勢力によって、素早く潰されたためでした。言い直すと、あらゆるクーデターの試みは、失敗する事が運命づけられていて、そしてその共謀者達は、これを知っていました。ですから何故、その様なクーデターの試みを、実際に行ったのでしょう?

それらを考慮すると、そのクーデターの試みが、アデナウアー政府とその目的が穏健に見える様にするために、失敗する事を意図的にデザインされ、慎重に計画された事を強く示唆します。言葉を変えて言うと、人が有するのは、表向きには右派と左派をぶつけ合わせるが、根本的に同根の)弁証法的な計画の典型で、外的な共産主義(左派)の危険のテーゼと、ナウマンと彼の共謀者達のアンチテーゼによって体現された、内的なナチス(右派)の危険を共にする事によって、アデナウアーと彼の政府が、「穏健な中道主義」の融合であると体現する事でした。

(4) Adenauer’s Foreign Policy: “The Third Way,” the “Third Force,” and a United Europe
(4)アデナウアーの外交政策:「第三の道」、「第三の勢力」、そして統一されたヨーロッパ(EU)


その様な長期的な弁証法的な計画は、マドリッド回覧書のコピーの様に見えるだけでなく、セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェッグ首相の時代まで遡る、鍵の地政学的な目的をもまた含む、アデナウアーの外交政策において更にもっと明らかに成ります。その様な計画は、ドイツとアメリカの、統一されたヨーロッパのための戦後の計画と共に、人を真正面にもたらします。

私達の目的にとって、しかしながら、私達がこの歴史のドイツ的な要素の上に集中しなければならないのは、同時代の - そして親-ナチスの - アルゼンチンの独裁者ホアン・ペロンの様に、アデナウアー博士が「第三の道」、i.e. アメリカの資本主義に導かれた西洋と、ソヴィエトの共産主義に導かれた東の間の、オルタナティヴ(選択肢)として、ヨーロッパに中心された政治-軍事-そして経済のブロックの創造を、強く主張したためでした。アデナウアー自身が、1950年において、Rheinischer Merkur 紙/誌の社説にこう書きました:

「連邦化されたヨーロッパは、ロシア、または米国程、強力では無いが、平和を維持するために - 決定的な瞬間に - 成功的に介入するに、十分に強力に成るであろう・・・ドイツは再び、国際的な状況において他国が認識しなければならない要素の一つに成るであろう・・・長期的で経済的な目標もまた存在し:アフリカの植民地化で・・・もし、我々、ヨーロッパ人達がアフリカを植民地化するならば、我々は、最重要な課題である、ヨーロッパのための自然資源(原料)の供給者を同時に創造するであろう。」⁷¹

アデナウアーは、それ自体がリーベントロップのナチスの外務省と、ジョセフ・ゲッペルス博士のプロパガンダ局からの、その中に慎重に侵入させられた人脈のるつぼであった戦後のドイツのメディアにおいて、その様な感情を表現した唯一の人ではありませんでした。⁷²

例えば、1951年11月1日の、親-アデナウアーの雑誌、キリストと Welt は、米国とソヴィエト連邦の間の何らかの衝突において仲裁する事の出来る、または決定的な重しに成る事の出来る、「それ自体の強い軍部」を共にした、強く統合されたヨーロッパを主張した社説を公表しました。⁷³ その後、1951年12月27日に、その同じキリストと Welt 誌 が再び、「第三の勢力」としての統一されたヨーロッパについて記述し、今度は、更により預言的でした:

「初めに、私達が西洋ヨーロッパの名の下に、以下の提供をクレムリンにする事の出来る、統一され、健全で、そして強い西欧が最初に必要に成るであろう:大陸的なヨーロッパは、もしソヴィエトがプリペット湿地帯の背後まで、彼等の(軍事)勢力を撤退させ、そしてドイツの東部のゾーン(東ドイツ)だけでなく、東欧全体をヨーロピアン・ユニオンへと開放するならば、大西洋の同意(NATO)から離脱する。統一されたヨーロッパは、それ自体の足の上に立ち、それ自体の強力な軍隊を所有する・・・その様な独立的な政策を行えるのは、第三の勢力の強さをそれが持つためである。」⁷⁴

最終的に目撃される様に、その様な申し入れが実際に、ドイツの再統一の際に、ヘルムット・コールのキリスト教民主主義政府と、ソヴィエト以後のロシアのイェリチン政府の間で秘密裡に行われ、同意されたかも知れません。そして豊富に明らかな様に、ソヴィエト連邦の「分解」は実際に、プリペット湿地帯の背後(東)までのロシアの勢力(軍隊)の撤退と、元ワルシャワ条約の国々 - バルト三国、ポーランド、チェコ共和国、スロヴァキア、クロアチア、ハンガリー、ルーマニア等々が - ヨーロピアン・ユニオンに参加する事に結果しました。⁷⁵

その様な目的は、勿論、マドリッド回覧書のものと全く一貫的で、そしてアデナウアーの政府内の戦後の国際ナチスの影響力のもう一つの指標がとても明白だったのは、彼の政府内のグロブケやゲーレンの様な人達の存在によって、もし直接的には眼に見えないとしても、統一されたヨーロッパの目標は、その回覧書の中ではっきりと示唆されていたためです。⁷⁶

忘れられてしまわない様に、アデナウアーはまた、そのネットワーク(スパイの人脈)が、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、そしてバルト三国の、ソヴィエトのブロック内の国家主義者のゲリラのセル(細胞/小体)を含み、時が満ちれば活発化される準備が出来ている、ゲーレン将軍によって主張された、一国、一国毎のソヴィエト・ブロックの「転がし(押し)戻し」の政策を主張し、その政策は、ジョージ・キーナンの様な人々の手における戦後のアメリカの計画においてそのエコーを見つけました。また、アデナウアーと彼の大臣達が、彼等の究極の目的について、曖昧だったわけでもありませんでした:

「1953年における彼の選挙の勝利の翌日、その首相は、ボンにおける熱烈な演説の中で、東における領土の Befreiung を要求しました⁷⁷ :『ですが、再統一の代わりに、私達はむしろ、東(ドイツ)における奴隷制からの、我々の兄弟達の開放である - 開放(Befreiung)を語りましょう。それが、私達の目標で、外側からの手助けを共にして唯一、我々は達成出来るでしょう。』

「その1年前に、ワシントンにおける報道会見の場で、その首相の主要な外交的補佐である内務大臣、ウォルター・ハルステインは、その解放されるべきエリアが『ウラル山脈まで』であると定義しました。」⁷⁸

それについて言い方を変えて言うと、ナチスの下でドイツのオリガーク達が夢見た大西洋からウラル山脈までの統一されたヨーロッパは⁷⁹ 、アデナウアーと、私達が今後の章の中で再び出会う重要人物である、ウォルター・ハルステインを含む、彼(アデナウアー)の最も有力な大臣達によって夢見られた正に同じヨーロッパでした。

その鍵は、ドイツのオリガーク達の一貫的な政策に関する限り、カルテル(財閥)の調整と同意を通して、ヨーロッパを圧倒する試みでした。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の期間に既に、2つの強力なカルテル、フリッツ・タイセンの Vereinigte Stahlwerke (統一鉄鋼事業)⁸⁰ と、そして勿論限りなく強力で、そして悪名高い Interssen Gemeinschaft Farbenindustrie Aktiens GesellschaftI.G. ファーベン社 A.G.が形成されていました。この手法、カルテル化は - 法律上正当であれ、事実上であれ - 以後のページの中でそう成る様に、考慮の重要な点に成ります。

「共通の市場」、または関税の統一における石炭と鉄鋼の産出を調整するためのシューマン計画が介入します。ヨーロッパの石炭と鉄鋼のコミュニティーを創造する1950年における計画である、フランスの外務大臣、ロバート・シューマンの発案は、後の共通市場(EC)と、更に後のヨーロピアン・ユニオン(EU)のための第一歩でした。効果的に、その計画は、それによってフランスは「ドイツの産工業的な産出を制限する」事が出来ると望みましたが、テッテンスが「幻想に結果するであろう」⁸¹ と予測したもので、そしてそれは実際に幻想であったと証明されました。アメリカ人達にとって、その中でドイツが「指導的な役割」を果たした、統一されたヨーロッパは、ドイツの国力を制限する方法で、ドイツを通してヨーロッパの上に更に大きな影響力を行使する方法でした。⁸² ですがドイツの指導者達にとって、見て来られた様に、統一されたヨーロッパは単純に、それによって世界権力を行使するメカニズムでした:

「敗北を勝利へと変えるドイツの戦略は、以下の段階を心に描く:ドイツに圧倒されたヨーロッパの確立の後・・・ラテン・アメリカとの親密な結びつきが続く。それと同時に巨大なドイツの産工業的な複合体は、アフリカの経済的な利用のための野心的な計画を開始し、そのためにそれらは米国からの大規模で金融的な補佐を予測する。アフリカにおいて足場を得た後、ドイツは南アフリカの国家主義的な統合と共に親密な関係を築き、そして同時に全アラブ世界との、彼女の友好関係を支える。勿論、その戦略は、ドイツがロシアとの友好的で政治的な関係を確立した後にのみ実行される事が出来る。ロシアとの同意はまた、中国と東南アジアとの、とても利益的な貿易へと、その扉を開くであろう。」⁸³

故に、戦後の西ドイツの最初の「経済的、そして軍事的な離脱(独り立ち)」の試みの一つにおいて、アデナウアー政府が、Deutscher Arbeitstab Afrika (アフリカのドイツの計画のスタッフ/人員)の確立によって、80億ドルのアフリカの経済的な発展を創造するための米国の戦略に参加したのは、偶然ではありませんでした。⁸⁴

ですが Deutscher Arbeitstab Afrika の創造は、更にもっと邪悪な策略の始まりでしか無く、その中で人は、ラパロの型板、またはラパロ・プリンジップ(原則)が、満開に成るのを発見します・・・
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1 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis (London: Secker and Warburg, 1962), p. 131.
2 Ibid., p. 74.
3 これは、その他のより大きな、またはより小さなヨーロッパの勢力において、顕著な「ヨーロピアン・ユニオン派」が全くいなかったと示唆するわけでも無く、ドイツの反対相手と共に、共通の目的を持っていなかったと言う事でもありません。
4 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War (New York: W.W. Norton and Company, Inc.: 1967), pp. 104-105, 加えられた太文字の強調と、元々のイタリクスの強調。着目されるべきは、フィッシャー教授の本が、600ページを超える第一次世界大戦におけるドイツの戦争の目的の詳細な検証で、ドイツの目的がその戦争を通して一貫的で、東方と西方の前線の両方の、軍事的な状況が変化する際も、一貫的であったと実証する事です。彼のテーゼに対する批評への返答として、フィシャーは、彼の著書、World Power or Decline: The Controversy over Germany’s War Aims in the First World War (New York: W.W. Norton and Company, Inc., 1974)を出版しました。
5 これは、後に、ナチスのベル計画の逸話に関連される A.E.G. と同じ会社です。
6 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, pp. 10-11.
7 Ibid., p. 11.
8 Ibid., p. 28.
9 Ibid., pp. 28-29.
10 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, p. 34.
11 Ibid.
12 Ibid.
13 Ibid., pp. 34-35.
14 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, p. 35.
15 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 68.
16 See Anthony Sutton, Wall Street and the Rise of the Bolsheviks.
17 カレンスキーのメンシェヴィク政府は、西洋の連合軍に対して、ロシアがその戦争(第一次世界大戦)を行う事を続けると約束しました。
18 この場所が、それらの変化させられた戦法を調査する場では無い間、ドイツは軽量級の砲撃から、最重量級の砲撃まで、全ての口径の砲弾を集結させ、1918年3月の最初の攻撃の間、それらの攻撃のために、たった数時間で英国の陣地を数百万の砲弾で爆撃しました。その地鳴りはとても大きく、ロンドンにおいてでさえも聞かれる事が出来ました。それらの邪悪な爆撃の計画者の主任は、ゲオルグ Bruchmüller 大佐で、その砲撃と迅速戦略を調整する戦略は、連合軍の教義から、大々的に異なっていました。大袈裟では無く、Bruchmüller は本質的に、砲撃の使用の近代的な教義を開発したと言えるかもしれません。
19 チェコスロヴァキアの場合が、ヴェルサイユ条約がどの様にしてドイツの国力を封じ込めようと試みたかを、特に描写的なのは、オーストリアのボヘミアの形状におけるそれ自体の軍事的で科学技術的な能力(スコダ軍産複合体)を共にした、元々友好的な(ドイツ語圏の)地域が、突然、そして全く大袈裟にでは無く、ナチスのプロパガンダが「ライヒ(帝国)の心臓に突き付けられた短剣の先」として認識したものへと、殆ど一瞬にして変容したためでした。驚くなかれ、チェコスロヴァキアの分解と解体は故に、ヴェルサイユ条約のインクが乾くと同時に直ぐに、第一次世界大戦後の、ドイツの政策の目的に成りました。更に、この目的の一貫性が見過ごされるべきでは無いのは、私が国際ナチスの中で概要した様に、これがまた、ドイツの再統一の直後の、コール首相の外交政策の目的であったためです。(See my Nazi .International, pp. 232-234)
20 “Treaty of Rapallo,” emphasis added.
21 ドイツ帝国の法律に関して、ソヴィエトの代表達と共にブレスト-リトフスクの条約に署名する事は、ソヴィエト連邦を公式に認識する事でした。ラパロ条約は効果的に、ワイマー・ドイツとソヴィエト連邦のために、同じ事を行いました。
22 “Germany-Soviet Union relations before 1941,”.
23 “Hans von Seeckt,” .ヴォン・ゼークトはまた、1933年において、中国の蒋介石の Khoumintang 軍の、ドイツの軍事的な作戦の司令官に成ったとまた、着目されるべきでしょう。
24 オダー-ネイセー線:下サイリージア、西プロシア、東プロシア、そしてポメラニアの地域を消失した、現在のドイツ東部の国境線で、現在のポーランドです。この国境線は、ウィリー・ブラントの政府の始まりまで一貫的に西ドイツ政府によって抗議されましたが、(その後)話し合い可能な問題と成りました。国際ナチスの中で私が示した様に、コール政府の下でドイツが再統一された後、ドイツ人達はポーランドに入り、元々の「家系的な土地」を買収し始め、それらの地域においてドイツ自体の経済的な圧力をかけ始めました。その反応においてコール政府は、それらの領土のドイツ人達に、二重国籍の地位が与えられる様に要求しました。(See The Nazi International, pp. 234-236).
25 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis (London: Secker and Warburg, 1962), pp.
63-64. 述べられるべきは、19世紀の革命的な色合いにおいて作曲されたドイツの国歌の物議をかもし出す歌詞の意味が、人々が考えるものでは無いと言う事です。オーガスト・ホフマンによって作詞されたその歌詞は、統一されたドイツ国家の目的を強調する事が意図され、それは、19世紀中頃にそれが作詞された時、ドイツがそうで無かった(統一されていなかった)ためです。その国歌の1番目の歌詞は、大々的に、第二次世界大戦の結果として、唯一、ドイツの軍国主義と侵略に関連される様に成りました。その国歌の出だしの歌詞は、しかしながら、アデナウアー博士がその合唱を導いたために、高度に物議を醸しだしたのかを示唆します:

Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Brüderlich zusammenhält,
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt,
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt.
ドイツ、ドイツ、全ての上で、
世界の何よりも上で、
防御と防衛のための時、
それは常に兄弟として一緒に立つ。
メウスからメメルまで、
アディゲからベルトまで
ドイツ、ドイツ、全ての上で、
世界における全てよりも上で。

明らかに、戦後の首相への立候補者が - フランスとベルギー国内の - メウス川から、リトアニア領土のメメル川までのドイツ統一について合唱する事は、政治的な摩擦に原因に成るのは運命づけられていました。
26 See my The Nazi International, pp. 1-12.
27 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 234.
28 Ibid., pp. 234-235.
29 その様な証拠は、ナチス由来の文献として存在しますが、勿論、偽造される事が可能です。SS (ナチス親衛隊)と Abwehr (諜報工作)の両方が、正に偽造書類の作成に特殊化した部門を有し、更に、バーンハルト作戦における英国スターリング・ポンドのナチスの偽造詐欺(偽札)戦略が、SS の書類偽造部門の援助の下で行われた事は、忘れられるべきではありません。故に、共謀者達の「処刑」の書類を、ナチスが偽造し – 偽装撮影したのは - 比較的に簡単だったでしょう。私が知る限り、マドリッド回覧書のこの特定的な主張に対しての調査は、未だに行われていません。
30 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 237.
31 Ibid., emphasis added.
32 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 240, emphases added.
33 See my The Nazi International, pp. 232-234.
34 T.H. Tetens, op. cit., p. 241.
35 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 241-242, emphases added.
36 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis (London: Secker and Warburg, 1962), p. 24.
37 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, pp. 24-25.
38 Ibid., p. 25.
39 Ibid.
40 Ibid.
41 Ibid.
42 Ibid., p. 26.
43 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 26.
44 この本の中の後に現される証拠の光の下で、ドイツを除いて米国が統一されたヨーロッパの最大の支持者で、英国が、アデナウアーを加えた米国に、反対していたかも知れないのはまた、恐らく重要です。
45 T.H. Tetens, op. cit., p. 27.
46 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 27.
47 Ibid.
48 Ibid., p. 28.
49 Ibid. Tetens はまた、1953年1月29-31日からの “ the Stuttgarter Nachrichten の中の3つの情報的な記事” そして、1953年6月16日の Bremer Nachrichtenの社説から、Die Spinne (蜘蛛) の維持について述べます。 (op. cit., p. 28n.)
50 Ibid., pp. 28-29.
51 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 29.
52 Ibid., emphasis added.
53 Ibid., p. 30, citing Alistair Horne, Return to Power (New York: Frederick A. Praeger, Inc.,
1956), p. 165.
54 Ibid.
55 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 39.
56 Ibid., p. 37.
57 Ibid., p. 38.
58 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, pp. 38-39.
59 Ibid., p. 41.
60 Ibid., pp. 41, 43.
61 Ibid., p. 44.
62 Ibid., p. 54.
63 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 54.
64 See my Babylon’s Banksters: The Alchemy of Deep Physics, High Finance, and Ancient
Religion
(Port Townsend, Washington, Feral House, 2010), pp. 66ff.
65 Tetens の, The New Germany and the Old Nazis, pp. 60-61. の中で回想された、デンマーク国境付近の Schleswig-ホルスタインにおける、1952年の選挙に関する興味深い出来事を参照して下さい。
66 Ibid, p. 68.
67 See my Nazi International, pp. .
68 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 73.
69 Ibid., pp. 74-75, see also my Nazi International, pp. .
70 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, pp. 23-24.
71 Remarks by Dr. Konrad Adenauer, Rheinischer Merkur, May 20, 1950, cited in T.H. Tetens,
Germany Plots with the Kremlin, p. 16.「第三の道」と「第三の勢力」のアイデア全体のために、私の Nazi International を参照して下さい。
72 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, p. 23.
73 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 16.
74 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 17.
75 このオイントメント(オイル)の中の蠅は、勿論、米国が、NATO を拡張せず、ソヴィエト以後のロシア連邦の国境付近に、米軍を配置しないと言うロシアに対する約束を、効果的に破った事で、ウクライナにおけるアメリカに資金援助された危機にまつわる最近の出来事と、ポーランド、ルーマニア、そしてバルト三国の様な、元ワルシャワ条約の国々に、米軍を駐屯させる誓いにおいて最も顕著です。これが示唆するのは、私が様々な公のブログの中で主張した様に、アメリカの行動が、反-ロシアとしてだけでは無く、西欧におけるその圧倒の継続を確かにし、そしてより独立的なドイツとヨーロッパの政策を妨げる、事前防御的な方法として見解されるべきだと言う事です。
76 Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 77.
77 Befreiung, i.e., liberation.
78 T.H. Tetens, The New Germany and the Old Nazis, pp. 130-131.
79 これに関して思い出されるべきは、ヒトラーの Unternehmung Barbarossa (バーバロッサ作戦) の究極的な目標が Archangel から Astrakhan までの線に届く事だった事です。
80 この強力な融合体の現代の後継者は、勿論、タイセン-クルップ企業(財閥)です。
81 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 94.
82 Ibid.
83 Ibid., p. 95.
84 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 97.


3. The Rapallo Prinzip: Jihad, Nukes, and Proliferation to the Pariahs
ラパロ・プリンジップ:ジハード(聖戦)、核兵器、そして社会ののけ者の拡散


「西ドイツの手助けと共に開発された、正にアフリカの核兵器の武器庫が・・・西ドイツの軍部に利用可能にされる事が出来るのには、全く疑う余地が無く・・・南アフリカにおける核サイクルは、西ドイツのものと同じで;融合されると、核融合的な素材の産出のための格別なコンビネーションを体現します。」
- バーバラ・ロジャースとズデネク¹

ラパロの条約は、それによってその戦争の間(第一次世界大戦と第二次世界大戦)に、ワイマー共和国が、ソヴィエト連邦内において、兵器製造の工場を造る事によって、ヴェルサイユ条約を迂回する事が出来る地点まで、国際的な関係を延長する型板、または原則に成りました。それらの兵器 - 戦車、戦闘機、銃砲は - その後、その国(ソヴィエト)との秘密裡の軍事的な協力の同意において、ソヴィエト連邦国内において、ドイツの軍部によって試験されました。 この同意において、人は機能している2つの原則を探知し、それは国際的な舞台において大いに拡張され、その政策を推進した戦後のドイツ、そしてナチスのグループ、または親-ナチスの個人達の活動的なキーワードに成りました:

1)ドイツとソヴィエト連邦の両方が、第一次世界大戦の後に、外交的に孤立した、のけ者国家で;

2)それらの国家の両方が、お互いに利益的な貿易と秘密裡の軍事的な協力の同意を機能させるために、この地位の優位性を利用しました。ドイツの場合、これが意味したのは、それによってそれ(ドイツ)に対して禁じられていた軍事的な科学技術を開発する、代理国として、もう一つの国家(ソヴィエト)とその施設を使用する事でした。

戦後のドイツの政策の、導き的な原則の一つに成ったのは、代理としてののけ者国家のこの利用でした。

その様な戦略は、マドリッド回覧書の中に、唯単に秘密裡に推進されただけでなく、アデナウアー首相の政府に好意的なドイツのメディアにおいて、公に推進されました。Frankfurter Allgemeine Zeitung 紙は、例えば、1952年3月15日に、ドイツとソヴィエト・ロシアの間の、もう一つの「ラパロ」同意を公に主張する社説を公表しました:

「もしロシアが、彼女のトランプのカード(ジョーカー)を行使すれば、何を勝ち取れるでしょう?・・・正に30年前にラパロ条約が行った様に、彼女の現在の孤立から飛び出すために、東と西の間の防御的な緩衝(中間)国として、ドイツを位置付ける事です。政治⁻経済的な観点から、彼女(ソヴィエト・ロシア)は、ドイツの産工業と共に長期的な同意を結ぶ事によって、そしてドイツとの彼女の貿易を復活させる事によって、世界権力の地位のための、古くからのゲームを繰り返す事が出来ます。故に、ロシアは世界市場への扉を再開するかも知れません。」²

成り行きとして、人は、政権から政権への違いよりもむしろ、ドイツの外交政策における継続性と一貫性を探さなければなりません。もし、第二次世界大戦後の政策と、(一次、二次)世界大戦間のラパロの型板(原則)の間に違いがあるなら、それは第二次世界大戦後のドイツの政策の創造者達が、ラパロ・プリンジップ(原則)の応用を、単純に対ロシアに制限しなかった事です。それは、あらゆる種類ののけ者国家と組織のための行動と政策の型板(原則)と成り、その中にあったのは、驚くべからず、イスラム教的なジハード、または聖戦の概念でした。

A. Jihad: Made in Germany
A. ジハード:ドイツ製
1. Railroads, Jihad, and the Kaiser
1.鉄道、ジハード、そして皇帝


ジハードの近代的な概念が、イスラム世界においてと同じ程、ドイツにおいて形成されたと学ぶ事に対して、多くの人達は驚かされるでしょう。実際に、そのアイデアは正に皇帝ウィルヘルム2世と、彼の親密な助言者達の代表格、Freiherr (男爵)マックス・ヴォン・オッペンハイムのもので、1898年においてその皇帝は、現在は有名(または悪名高い)彼の中東への訪問を行った時、オットーマン(オスマントルコ)帝国のサルタン(君主)と彼の助言者達と会談するためにサブライム・ポルテ(コンスタンティノープル/イスタンブールの宮廷)を訪れ、それからサラディンの墓において、有名なムスリムの軍事的な司令官に敬意を払うためにエルサレムに立ち寄り、³ そしてその後、ダマスカス(シリア)に行き、其処で彼は今ではすっかり忘れられてしまった有名な演説を行いました。ウィルヘルムの目的は、彼のお気に入りの計画の一つ、間ベルリン-バグダッド(イラク)鉄道の完成のために必要な政治的な雰囲気(世論)を創造する事でした。その皇帝の見解において、その様な鉄道は、中東とベルリンを繋げ、そしてその市場をドイツ製品のために開放し、そして、勿論、その地域における英国(大英帝国)の権力に対抗する間、その地域と、その台頭してきていて、開発され始めていたエネルギー資源(原油)へと、ドイツの軍事的な勢力を移動させ、反映させる事を許しました。ウィルヘルムは、イランを通してその鉄道を、インドまで延長させる事さえも考えました。⁴ この計画のための鍵は、衰退中でしたが、小アジア(トルコ周辺)だけでなく、肥沃な三日月(地域)とアラブ半島において支配的だったオットーマン(オスマン)トルコ帝国でした。

1898年11月のダマスカスにおいて、彼が行った演説の中で、ウィルヘルムが公に、彼自身が、「3億人のモハメッド派(ムスリム/イスラム教徒)の保護者である」と宣言したのは、この訪問においてでした・・・⁵ そうする事においてウィルヘルムは、イスラム教を(未だ)利用されていない勢力として見解し、そしてその目的に向かい、全イスラム教徒の運動を創造するにおいて、援助を求めた著名なオリエント学者、ヴォン・オッペンハイム男爵の概念に続いていました。私達は、ヴォン・オッペンハイムに対して、直ぐに戻るでしょう。

彼の有名な1898年の中東への訪問の際の皇帝ウィルヘルム2世
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イスタンブールにおける皇帝ウィルヘルム2世とオットーマンのサルタン、Mehmer 2世
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ウィルヘルム2世とオットーマンの役人達
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1898年、エルサレムに入る皇帝ウィルヘルム2世と皇帝妃オーガスタ・ヴィクトリア
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ウィルヘルムが、彼自身を昇進させるこのヴィジョンにおいて、そして彼の王室を、戦争のジハード主義者達の革命の道具として使用するにおいて一貫的だったのは、第一次世界大戦の勃発に繋がったサラエヴォ危機後の間に、外交的な電報の淵に、「イングランドは・・・キリスト教徒的な平和の仮面を、公の場で彼女の顔から引きはがされなければならず・・・トルコとインドにおける我々の大使達、工作員達等々は、しつこく値切る(交渉する)奴らの、この憎しみ深く、嘘つきで、良心(善悪観念)の無い人達に対する激しい反乱のために、モハメッド派の世界全体に火をつけなければならない・・・」と記述したためです。⁶ その様なアイデアは、しかしながら、単純に、ドイツの有名にも突飛で、感情の起伏の激しい皇帝の、乱暴なアイデアだけではありませんでした。それらは、「1890年代中期において開始された東方の政策の『その他の方法』の継続で - ドイツの公式な政策の比重全体」を体現していました。⁷ これに含まれたのは、1914年8月2日に、オットーマン帝国と共に結ばれたドイツの同盟で、「全イスラム的な運動を解き放つ」はっきりとした目的のために締結されました。⁸

2. Germany, the Ottoman Empire, and the First Modern Jihad Fatwa
2.ドイツ、オットーマン(オスマントルコ)帝国、そして最初の近代のジハード・ファトワ(聖戦宣言/命令)


近代においてもし、ジハードの概念を復活させ、火に油を注いだ事のための責任に、誰よりも相応しい一人の人物がいたとしたら、それはドイツのオリエント学派のマックス・ヴォン・オッペンハイム男爵でした。ヴォン・オッペンハイムの手の中で、ジハード主義者の概念は、「ドイツの領土的な野望への奉仕における、宗教の兵器化以下の何ものでも無く;そしてそれは、彼等自身は、宗教的な敏感さを持たない者達によってのみ、冷血な効率性と共に振るわれる事の出来る兵器である。」⁹ 皇帝の Mittelostpolitik (ミドル政治)の形成、そしてジハードの概念のその意図的な利用に対して、ヴォン・オッペンハイムの影響力はとても浸透的だったので、現代のドイツ人の研究家で、ベルリンの中東政策の鋭い批評家のマテアス・クンツェルは、イスラム主義派のジハードを、「ドイツ製」として定義しました。¹⁰

ヴォン・オッペンハイム(1860-1946年)は、その同じ名前のユダヤ人の銀行業帝国の子息で、貴族へと(政治)結婚するために、1858年にカトリックへと改宗しました。彼は大学においてアラブ語を学び、中東における考古学的な関心を探求するために - ドイツの外務省との彼の関係を完全に絶つ事は決してしませんでしたが - 外交におけるキャリアを諦めました。¹¹ ヴォン・オッペンハイムがドイツの外務省との彼の接触を保ったと言う事実は、ヴォン・オッペンハイムが、彼の中東における旅と発掘の年月の間、諜報工作のエージェント(スパイ)、そしてエージェント・プロヴォケイター(扇動者)として活動していたかも知れない事を示唆します。何であれ、第一次世界大戦が勃発すると、ヴォン・オッペンハイムは、外務省に戻る様に、ベルリンへと呼び戻されました。其処に戻ると彼は、以下の任務を与えられました:

「ジハードのキャンペーンの詳細な準備を行う事を共にしてでした。1914年10月の終わりに、彼は、彼の136ページの『我々の敵の、イスラム的な領土の革命化に関するメモ』を提出しました。その中で彼は、これがドイツ-トルコの共同キャンペーンであるべきである事、それにおいてムスリム達は、敵を弱体化させ、そして主要なヨーロッパの前線上の圧力を緩和する目的のために、彼等自身の言語においてジハードへと扇動される事を提案しました。ドイツ人達は、オッペンハイムによると、資金、物資、そして人材と共にそのキャンペーンを行い、その間オットーマンがそれ(ジハード)を宣言し、軍事的にそれを行うと言う事でした。」¹²

それらの詳細な計画は、英国に対して「過激な反乱においてモハメッド世界全体」を扇動するウィルヘルムの熱望において公の表現を見つけました。¹³ ドイツの参謀部の司令官、ヴォン・モルトケ陸軍元帥は、「イスラムの狂信主義を扇動する」時が来たと明言する事によって、それらの呼びかけをエコーし、そしてその皇帝は、トルコの戦争大臣、エンヴェル・パシャに電報を送り、「サルタン陛下は、カリフェート(カリフの地位)のための聖戦へと、アジア、インド、エジプト、そしてアフリカのムスリム達を招集しなければならない」と伝えました。¹⁴ これは、近代の指導者によって、聖戦のコンテキストにおいて、全-イスラム的なカリフェートのアイデアが明言された最初の時の一つでした。その様な政策を可能にしたのはオッペンハイムのサルタンとの、そしてエルサレムのグランド・ムフティ(宗教指導者)、アル・フセイニとの友好関係でした。¹⁵

明らかに、ヴォン・オッペンハイムと類似したアイデアを持ったその皇帝は、このメモに彼の了承を与え、¹⁶ そして故に1914年11月14日に、「サルタンの指導の上で、コンスタンティノープルにおける最高権威のオットーマンの法学者が、1914年のジハードを、全てのムスリムの個人的な義務と宣言するファトワ(聖戦命令)を発令しました。それと同時に彼は、『同盟されたオットーマン(トルコ)人達、ドイツ人達、そしてオーストリア-ハンガリー人達に対して戦う』全てのムスリム達に対して『地獄の処罰』と共に脅しました。¹⁷ マテアス・クンツェルが観測した様に、これがジハードの概念からの特徴的な分岐、または、むしろ湾曲だったのは、それが疑う余地無く、不信心な特定の異教徒達に対する戦いを宣言した、歴史における最初のジハードのファトワであったためです。」¹⁸

ドイツのオリエント学者でアラブ学者、マックス・ヴォン・オッペンハイム男爵、ドイツの第一次世界大戦のジハード政策の指揮者
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この政策に、その同年代の批評が無かったわけでは無いのは、1915年において、王立オランダ政府に対する助言者で、オランダ人のオリエント学者、クリスチャン Snouck Hurgronje が、「ドイツ製の聖戦」と言う啓示的な題名を共にした、ヴォン・オッペンハイムの政策の批評を出版したためです。¹⁹ Hurgronje の批評は - 私達がイランの場合において見る様に - 預言的で、「イスラムのシステムが永遠に保つ事を望む、宗教と政治の中世的な混合は、私達の時代のものでは無い」と言う、一般的な納得が、イスラム的な国々における多くのインテリ達が結論に至ったと彼が指摘したためでした。²⁰ Hurgronje は、ジハードのシチューをかき混ぜる事によって、イスラム的な世界は、文化的な改革のために当時、イスラム自体の中で成長してきた声を閉ざす事によって、圧政的な中世主義に後進させられるだけであると警告しました。

その批評に耳が貸され無かったのは、しかしながら、その戦争が開始されると、ヴォン・オッペンハイムが、ジハード主義者達の活動を指揮する為のセンターであった、諜報工作のユニットを創造したためでした。このセンターは、ドイツのオリエント主義者達から、「ペルシャ(イラン)、トルコ、コーカサス、グルジア、インド、そして北アフリカまでの、慎重に選抜された人材と共に満たされ、11名の通訳者達と11名の補佐の人員を伴った」オリエントの諜報工作機関でした。その機関は、北アフリカからインドまでの、フランスと英国の国外の所有(植民)地のムスリムの人口を扇動する任務が与えられました。²¹ 1915年12月までに、オッペンハイムのグループは五千種を超える雑誌、パンフレット、そして新聞を出版し、「2,500部から26,000部の間の印刷を共にし」、ジハード主義者の文献の出版は総合で「250万種」に到達しました。²² 世界大戦間の期間に、ドイツのより有能な政治家で、首相であり、平和主義の人の一人として、広く考えられていたグスタフ・ストレスマンでさえ、1916年においてトルコを訪問し、そしてオッペンハイムのジハードのグループに彼の熱烈な称賛を与えました。²³

ヴォン・オッペンハイムのジハード主義の成り行きが残念ながら未だに私達と共にあるのは、基準的でコラーン的な教義と実施からそれを分離させる事によって、その(ジハード)の概念を世俗化したためで、そのため、攻撃的なジハードの呼びかけを発令出来るのは、再構築され再統一されたカリフェートだけであったのは、カリフ(イスラム教主/サルタン)が、「地上における神の代理で、その様な戦争を宣言するための権利を持つ唯一の人」として考えられたためでした。²⁴ ヴォン・オッペンハイムの概念は効果的に、カリフェートからジハードのアイデアを分離させ、個人的なムスリムの聖職者達の手の中にそれを残しただけでなく、全ての不信心者達に対する統一的な問題としてよりもむしろ、「異教徒達」の特定のグループに対する「部分的なジハード」のアイデアを許すためです。²⁵ ヴォン・オッペンハイムがまた、ジハードの新たなテクニックを提唱したのは、1914年のオットーマンのファトワにおいて、その概念はもう、戦場の軍隊と一般的な戦闘に限られておらず、それ以後、テロのセル(細胞/小体)、暗殺、そして殺害のゲリラ戦法もまた含んだためです。²⁶ ジハードのそれらの世俗化された、または近代化された概念は、エジプトのムスリム同胞団の考えへとその道を見つけ、そして故に、未だに私達と共にあります。²⁷

3. Germany, Jihad, and Iran
3.ドイツ、ジハード、そしてイラン


オットーマン帝国は、しかしながら、ヴォン・オッペンハイムが、彼のジハード的な音楽を奏でた唯一の楽器では無く;その他は - 私達自身の時代まで継続する示唆を共にする一つで - ペルシャ(イラン)でした。実際に、どの様に「ペルシャ」が「イラン」に成ったのかもまた、この逸話の一部で、そして再びもう一度、長期的なドイツの経済的、そして地政学的な関心が、その中核に有ります。²⁸ ドイツとイランの長い関係は故に、その皇帝の下における長期的なドイツの政策の形成の上の、オッペンハイムの影響力まで遡られる事が可能で、その政策は殆ど変化無く、ヒトラーとナチスの政権の下でも続けられました:

「第一次世界大戦の間、皇帝ウィルヘルムは、伝統的な(イスラム教の)シーア派によって、彼自身が「ハジ・ウィルヘルム・モハメッド」で、ペルシャの典型的な敵、ロシアと英国に対する戦いにおける英雄であると宣言される事に成功しました。20年後、シーア派の聖職者達は、ドイツのためのこの情熱を再発見しました。其処で、アドルフ・ヒトラーは、モハメッドの後継者であり、シーア派のメシア(救世主)として同一視されました。ナチス時代との親密な関係は特に、現代まで震撼しています。例えば、2008年において、イランの元大統領、ハシェミ・ラフサンジャーニは、第二次世界大戦におけるその二国間の戦略的な同盟を、今日におけるモデルとして掲げました。」²⁹

此処において、その他の場所と同様に、ドイツの政策を並べたのは、ヴォン・オッペンハイムの1914年のメモでした。

しかしながら、イランの場合、その国のためだけでなく、世界全体のための、今日まで継続する、長期的な成り行きがありました。ペルシャの田舎における過激派と原理主義者の聖職者達を扇動し、本質的に賄賂、または募金の形状におけるマネーだったものと共に後ろ楯する事をドイツに強く求め、ペルシャのシーア派の聖職者達は1915年において、オッペンハイムの「部分的なジハード」のファトワの、彼等自身のヴァージョンを発令しました。³⁰ シャー(君主)は中央的な権力(ドイツ)側においてその戦争に参加する事を強要され、もし彼がそうしなければ、失脚させられる事で脅迫されました。³¹ ドイツのイランに対する政策の長期的な成り行きは、正にオランダ人の Hurgronje によって予測されたもので:彼等の文化の本質を変化(改善)させ、そしてコラーンの教訓の厳しい観測(従属)によって彼等に強要された、中世(封建主義)的な後進性を終わらせる事を望んだ、近代主義者と穏健派のムスリム達を過小評価しました:

「マックス・ヴォン・オッペンハイムのメモは、しかしながら、(イランの)民主党の親-ドイツのペルシャ人達を考慮しませんでした。彼等は、ドイツ帝国の突然のジハードの熱狂によって驚かされました。彼等は、中世的なイスラムと決別し、そして近代世界を受け入れたのに:どの様に彼等は此処で、ジハードのための熱狂にワックス(潤滑油)を塗ると予測されたのでしょう?1915年3月20日に、ドイツ大使、ヴォン・カードフによってドイツ首相に送られた、その民主党との会談の報告は暗示的です。

「その『聖戦』は、その民主党によって、遠慮、そして更に人を見下した沈黙の一種と共に受け取られました。その最近に聡明化された民主主義者達は、その他の古い制度との彼等の決別と共に、もう、宗教の厳しい教義と習慣に従う事を意志せず、彼等が時代遅れのアイデアに基づいていると考える、ジハードの概念に関して、彼等自身が、彼等の近代主義に対する不条理な要求を体現する状況に面したと見解します。・・・民主党の指導者、シュリーマン・ミルザとの私のそれぞれの会談は、それらの遠慮を乗り越える事を目的としていました、」と彼は記述しました。ヴォン・カードフが後に報告する様に、成功が無かったわけでは無く:「その政府が最初に聖戦のための呼びかけを断った間・・・我々は、その民主党が徐々に、平和を造る方法としてのジハードの使用のアイデアに慣れさせる事に成功しました。」³²

この政策は、イスラムのシーア派の穏健派の成長を殆ど不可能にしただけでなく、とても長期的な反響を有し、1979年においてホメイニの革命がシャーを失脚させた時、驚くなかれ、西洋の国々の中でその新たな政権と友好的な関係を続けたのはドイツだけで、その関係は、勿論、シャーの下でも友好的でした。³³

この継続された関係の根底にある現実性は唯の政治的なもの以上で - それは、経済的でした。ドイツのペルシャ/イランとの貿易のシェアは、あらゆる西洋権力において、皇帝の時代から最大級でしたが、1941年8月の、それを終わらせるための英国-ロシアの侵略まで、ナチス政権の下で膨らみました。1941年に成ると、ドイツのイランからの輸入のシェア(割合)は43%で、その国家の輸入のほぼ半分で、そして同様に、イランへのその輸出のシェアは47%でした。³⁴ これは、勿論、1941年におけるアングロ-ロシアの侵略の間に変化しました。ロシアは、必死に連合側の戦略的な補佐と武器/兵器を必要としていて、そして同盟側の禁制の最も低い可能性を提供したのは、ペルシャ/イランを通ったルートでした。その侵略は連合側の物資供給のためのルートを切り開く事に成功しましたが、それはまた、ロシア人達と英国人達に対する、ペルシャ人達の敵視の伝統を強化しました。³⁵ ナチスに対して公に同情的で、1934年において、ドイツの人々との民族的な共通性とされるものを強調するために、ベルリンの強い要請の上で、ペルシャの国名を - ファルシ語で「アーリア」を意味する - イランに変更したシャー、レーザは、連合側によって排除されました。³⁶

彼の排除以前に、しかしながら、人が再びもう一度ラパロ・プリンジップ(原則)に出くわすのは、(イランとの関係において私達が再び出会う)帝国銀行総裁のヒャルマー・シャクトと、ヒトラー・ユースの指導者、バルダー・ヴォン・シラクを含んでいたドイツの金融的、そして軍事的な助言者達が、1930年代に、ワイマー共和国の下で始められた結びつきを固めるためにテヘランを訪れ、それ(ドイツ)がソヴィエト連邦を利用した様に、ヴェルサイユ条約を迂回し、ドイツの再武装化のあらゆるサインのためにその国を調査していた連合側の軍事的な大使達の眼に届かない様に、ドイツ国外にドイツの兵器製造と武器の工場を造るために、イランを利用しました。³⁷ クルップと Rheinmetall-borsig の企業の両方はドイツ-友好的なペルシャにおいて工場を造り、彼の軍隊を近代化させるための、シャー・レーザ自身のアイデアと完璧に一致した動きでした。³⁸

シャー・レーザ Pahlavi は連合側によって失脚させられましたが、イラン、または世界が Pahlavis (の名前)を聞くのはそれが最後では無く、その国家(イラン)における親-ドイツの同情の終わりでも無いのは、第二次世界大戦全般を通して、イラン人のパルチザン(ゲリラ隊員)達が、ドイツの諜報工作の補佐と共に、連合側の物資(船舶)輸送をサボタージュしたためです。³⁹ 現時点において、しかしながら、私達はイランから離れなれ、そしてラパロの型板(原則)のもう一つの現れに集中せねばならず:代理の国々(i.e. 北朝鮮の様な、のけ者国家)を通した、禁止された兵器の探求です。

B. The Rapallo Prinzip Goes Nuclear: the Secret Collaboration on South Africa’s Bomb
B. ラパロ・プリンジップが核兵器的に成る:南アフリカの(核)爆弾の秘密裡の協力
1. The Early Phase: Secret Projects, Open Pledges, and an Uncomfortable Question
1.初期の段階:秘密裡の計画、公約、そして不気味な問い


1952年において、当時は占領下だったドイツの西側のゾーンだった処で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の廃墟が、未だに撤去され、清掃されている最中に、有名な - または、むしろ悪名高い - 武器弾薬の企業、クルップ社は、オランダとの国境のたった12マイル内側の、ユーリックの街において、計画を成功的に開始しました。その計画はある意味秘密裡で、遠回りの運転によってのみ届く事が可能で、そして更に人は、その施設に入るために入所許可(暗号)が必用でした。クルップ社は、勿論、第一次世界大戦において、ドイツの驚異的な銃砲戦力を大量に供給し、その悪名を確立しただけでなく、1914年において、連合軍を驚かせた、道路で移動可能な16.5インチ口径の「大ベルタ」包囲銃砲を秘密裏に製造し、そして更に、その発射された重弾が、近代において、外宇宙(大気圏外)の低層に入る最初の人工物に成り、70マイル以上離れた位置から、1918年においてパリを爆撃した8インチ口径の、より凄まじい「パリ砲弾」(またはドイツ人達がそれを呼んだ様に、ウィルヘルム皇帝の Geshutz )を製造しました。1942年において、ロシアの要塞都市、セヴァストポルを平坦にする手助けをした、膨大で - そして莫大に非-実用的だった - 巨大な7トンの砲弾の、31インチ口径の鉄道銃砲「グスタフ」を製造したのも、そのクルップ社でした。⁴⁰

ですが、ユーリックの計画は、関わった技術開発の巨大さと、軍事的な使用と大量破壊の効能の両方のためにそれら(第一次世界大戦時の)の努力を小人の様にしました。最終的に、遠回りの道に従いその街に辿り着くと、人は白と黒の縞に塗られた門と武器を持った警備に辿り着きました。

「あなたの入所許可を見せてから、あなたは(事前の詳細な説明が無ければ通り抜ける事の出来ない)道の迷路を通ると、ATOMKRAFTWERK (原子科学技術研究)と記された2番目の門に着き、そしてあなたの入所許可を2番目の警護に見せます。それを超えると、深い森の中に、アルフレッドの誇りである、高く、奇妙な形をした構造物が建ち、親しみのある3つの輪とATOMREAKTOR (原子炉)の看板を掲げていました。

「其処の Kruppianer は、15-メガワットの試験原子炉、KFA と呼ばれ、Kernforschungsanlage (原子力研究施設)の略でした。ボンの官庁によって部分的に資金援助され、それは Konzern の子会社、BBC-クルップの Institut für R-entwicklung (核反応炉開発のためのインスティチュート/施設)でした。もしあなたの入所許可が有効なら、その若い所長、クラウス・ヴォン・ダー・デッケン博士が、クルップ社の精巧さがどの様にして、1967年に臨界質量を達成したのかを説明するでしょう・・・

「新たな施設はブリーダー(繁殖)原子炉です、」とヴォン・ダー・デッケン博士は説明しました。初心者にとってこれが信じがたいのは:「試験実験の後、あなたはそのブリーダーからプルトニウムを得る事が可能で、そしてそれと共にあなたは、プルトニウム爆弾を製造する事が出来ます。」「これは、勿論、発電所のための電力だけを産出します、」と彼は加えました。勿論、クルップ社の U (ウラニウム/ウラン)-235は、米国の原子力委員会によって供給されました。」⁴¹

これ等の啓示が示唆するのは、1967年までに、西ドイツが、ユーリックにおけるクルップ社の原子力「研究」計画を通して有していたのは:

1)原子爆弾のための - 「臨界質量」の - 十分なプルトニウムを産出した事;そして、

2)もしこの読みが本当で無いにしても、そうするために核燃料サイクル全体を完結させ、もしそれ(ドイツ/クルップ社)が望むなら、そして西ドイツの重水素やトリチウムの様なその他の核燃料への入手を与えられると、もしそれがそうする事を選択するならば、更にもっと破壊的な水素爆弾を簡単に製造する事が可能でした。実際に、私達がこの章の後の中で目撃する様に、ドイツが正に事実上、もし水爆保有国では無いにしても、原爆保有国であると言う、ロシアの情報源からの証拠があります。

ですが私達は、その話の先に進み過ぎです。

プレーボーイとしての彼の評判にも拘らず、クルップ社の最後の社長、アルフレッド・クルップの決意の下で、西ドイツは、1952年における刑務所からの彼の釈放の直後、原子力のための、その秘密裡の探求を開始しました。着目すべきは、懲役12年と全ての所有物の没収の刑を受け、基本的にクルップ社の解体を意味した判決を受けたクルップが、I.G. ファーベン社のアメリカ人の弁護士で、1936年のオリンピックにおいてヒトラーの観覧ボックスを分かち合い(そして後の[ケネディー暗殺の]ウォーレン委員会の委員だった)ドイツの高等弁務官(大使)、ジョン J. マクロイによってクルップが、たった3年後に免罪にされ、彼の私有物没収の判決が反転させられた事です。⁴²

クルップ社-ユーリックの計画が浮上させる明らかな疑問は少々、重要で:(1)どの様にして、戦後の荒廃においてクルップ社が、最も正確な科学技術を必要とする、その様な長期的で費用のかかる計画を行う事が望めたのか、そして(2)彼はどの様にして、ドイツを占領していた連合軍の監視の下でそう行う事を望めたのでしょう?一つの手掛りは、彼のブリーダー原子炉のために、アメリカの原子力委員会が、彼にウラン-235を供給した事実によって与えられます。ですが、それもまた問いを浮上させます。1967年までに核燃料サイクルを完結した事は言うまでも無く、重要な核燃料のその様な輸送を実現化するために、ドイツはどの様な取引、またはテコを持っていたのでしょう?

公式な説明が何であれ、人が思い出さなければならないのは、その場面の背後に、オルタナティヴな説明が隠れているかも知れない事で、私が以前の著書の中に現したシナリオで、つまり、ナチス・ドイツが(既に)1944年において原子爆弾を実験していたかも知れないと言う事です。これが示唆するのは、それ(ドイツ)が、第二次世界大戦の終わりの前に核燃料サイクルを完結させ、恐らくナチス党の全国指導者、マーティン・ボーマン自身によって話し合われたアメリカ人達との高度に秘密裡な取引を通して、その戦争の正に末期において、その他の貴重な原子(爆弾)の秘密と、赤外線近接起爆器、(米国の核爆弾開発のための)マンハッタン計画へとそれ等の道を見つけた、ウランと起爆器を含んだ科学技術と共に、濃縮化された U-235 の十分な量を米国に輸送したと言う事です。⁴³ 言葉を変えると、恐らく、その場面の背後で、ボーマンと仲間達、A.G. 社が、マーカー(約束手形/借用証)の幾つかを呼び始めたと言う事です。何であれ、クルップ社の原子力「研究」のブリーダー原子炉についてのこれらの推理が事実なら、するとそれらの、ナチス・ドイツの戦時中の原子爆弾の研究は、戦後の連合軍の伝説が描写する様な、後進的な状況などでは無かったと言うテーゼに、戦後の更なる協力証言を与えます。

2. The Postwar German Nuclear Industry and I.G. Farben
2.戦後のドイツの原子力産業と I.G. ファーベン
a. Rebus sic Stantibus and Just Another Form of Artillery
a. Rebus sic Stantibus と唯のもう一つの武器の形状


戦時中のドイツの原子力(科学技術)的な無能さの、連合軍による伝説が、真実では無いと言う更にもう一つの示唆があり、そしてそれは、クルップが、彼の戦後の原子力計画を始めたのとほぼ同時期に、アデナウアー政府と共に行われた話し合いでした。その昔、核兵器を「唯のもう一つの種類の重砲」⁴⁴ と言及したアデナウアーは、1954年の米国、フランス、英国、そしてドイツ連邦共和国(西ドイツ)の間の4勢力条約において、ドイツは核兵器、生物(化)学兵器、または化学兵器を製造しないと公約しました。

これは、しかしながら、抜け穴を共にした公約で、そして加えて都合よく、その調理法に特徴的なラパロの調味料が加えられたものでした。最初の章の中で私達が目撃した様に、戦後のマドリッド回覧書はドイツのための「崖っぷち」と「恐喝」の外交の一種を主張し、それによって西方のゾーン(西ドイツ)が、中立、または共産主義者の乗っ取りを選択すると言う単なる脅しを、再武装の完全な権利を共にした、西方の占領されたゾーンから創造された新たな主権国家を許すために、西洋(欧米)の連合軍に対してテコとして利用すると言う事でした。アメリカ側の見解の上で、私達が今後の章の中で見る様にこれが意味したのは、ドイツが「明日の連合国」として扱われる事でしたが、それに対して英国とフランスにとってドイツは、理解可能な様に、「昨日の敵国」でした。⁴⁵

1954年10月1日、アイゼンハワーの国務長官、ジョン・フォスター・ダレスによってまとめられた同意の中で、西ドイツはヨーロッパ防衛コミュニティーに参加しました。フランスの同意は、西ドイツの「その領土内において・・・核兵器、生物(化)学兵器、そして化学兵器を製造しない」と言う公約を代償として買収されました。⁴⁶ その抜け穴、そしてラパロ・プリンジップ(原則)が直ぐに明らかだったのは、ヴェルサイユ条約によって、ドイツに禁じられた戦車、重砲、そして飛行機(戦闘機/爆撃機)の製造が、ラパロ条約の秘密裡のプロトコルによって、ソヴィエト連邦の領土内において、その様な兵器を製造するためのドイツの工場の建設によって、都合よく迂回されたためです。故に、1954年において、人は既に国境超越的な原子力(核兵器)計画の亡霊を面前にし、⁴⁸ それは、少なくともその公の「筋書」において、1951年の彼の報道会見において、科学者ロナルド・リヒターの「核融合計画」を公表した、(アルゼンチン大統領)ホァン・ペロンによって暴露されました!⁴⁸

フランスのド・ゴールの支持者達が、アデナウアーの保障によって騙されたわけではないのは、「商業(電力)的な目的のための原子力の、制御されていないドイツの開発は、効果的に、核兵器の入手を意味すると、彼等が指摘したためです。⁴⁹ アデナウアーが、ウランのドイツの産出を2年間の期間、制限すると同意した時、フランスは終に妥協しましたが、そしてそうであっても思い出されるべきは、ドイツの再武装と戦後のドイツの原子力計画の開始の後、フランス人達が彼等自身の原子力(原爆)と水素爆弾の製造、そして彼等自身の核抑止力、force de frappe の構築を開始した事です。

ですがこれは、1954年におけるアデナウアーの元々の一方的な約束の上の、フランスの心配の唯一の理由ではありませんでした。米国の国務長官、ジョン・フォスター・ダレスによって出席され、アデナウアーが彼の公約をした、ロンドンにおける会議において、少々の劇場が、その他の外交官達の耳のために、アデナウアーとダレスによって - とても意図的に - 演出されました:

アデナウアーは、非-核兵器化の公約を彼が行った後のダレスの反応を以下の言葉で描写しました:

「ダレスはその会議のテーブルの反対側の彼の席から立ち上がり、私の処へ歩み寄り、誰もが聞こえる様な大きな声で話しかけました。『首相、ドイツの連邦共和国は、ABC 兵器を製造しないとたった今宣言しました。貴方はこの宣言が、国際法における全ての宣言と義務が、唯一rebus sic stantibus として有効であると意味すると、私は推測します。』私は同等に大きな声で、彼にこう返答しました。「貴方は、私の宣言を正しく解釈しました。」その他の人達は沈黙を守りました。」⁵⁰

Rebus sic stantibus が基本的に意味するのは「現実状況において」で、言い換えると、状況が必要とする限りです。国際的な法律における芸術の用語として、故にそれが意味するのは、活動の特定の方向性を行っている、または、献身している、もしくは、この場合、自己-制限しているあらゆる国家は、特定の状態と状況の下でそうしていて、そしてそれ(国家)は「その国家がその下でそれに同意した状況が変化すれば何時でも、その国際的な公約を破棄する権利」を有すると言う事です。⁵¹ ダレスとアデナウアーの小劇場の意味は故に、その他の外交官達にとって無意味ではありませんでした。

ですが、それが同時に少々の気を反らすものだったかも知れないのは、アデナウアーの公約の総合的な合計は、その公約を迂回するために、ドイツに2つの方法を許した事で、1つ目は rebus sic stantibus の原則を呼び起こす事でしたが、2つ目は、ラパロ・プリンジップ (原則)を利用する事によって、代理国家と企業(財閥)的な関心を通して、ドイツ国外で核兵器を製造する事でした。⁵²

b. Cartelization: A New Mechanism of Sovereignty and Technology Transfer: The Postwar German Nuclear Establishment, I.G. Farben, and the Nazis
b. カルテル(財閥)化:主権と科学技術の譲渡の新たなメカニズム:戦後のドイツの原子力エスタブリッシュメント(権力側)、I.G. ファーベン、そしてナチス


1955年8月8日から8月20日まで、原子力の平和的で商業的な使用についての重要な会議が、スイスのジュネーヴにおいて開催されました。核融合を発見した戦時中の原子科学者、オットー・ハーン博士と、Farbwerke Hoechst の所長で、もう一人の戦時中のドイツの原子科学者、カール・ウィナカー博士を含んだ大規模な代表達をこの会議に送り込んだ西ドイツは、南アフリカからの代表達の、彼等の話し相手と会合しました。⁵³ 戦後の国際ファシストの働きの幾つかと - とても不似合に - ヨーロピアン・ユニオン(EU)と呼ばれたものの中の基準的な「機能している手順」の幾つかの重要な一見へと、私達の検証を許すのは、この会合です。

この会合の中にあったのは、ラパロの型板(枠組み)の調味料の全てで:代理国家、つまり南アフリカで、それは1920年代におけるソヴィエト連邦とワイマー・ドイツの様に、その白人のマイノリティー(少数派)政府と国内的なアパルトヘイト(人種差別)政策のために、世界の舞台において、益々、のけ者国家化していました。先進的な兵器を開発するために南アフリカを代理国家として使用する事によって、連合国の兵器の制限を迂回する事を求めたその他ののけ者国家は、勿論、西ドイツでした。南アフリカは、原子兵器(爆弾)の研究と開発に不可欠な自然資源:ウラニウムの豊富な堆積を持っていた事において、秘密裡の核兵器開発の計画のための代理国家として、追加的に特徴的な優位性を持っていました。

しかしながら、機能していたラパロの型板のもう一つの要素がありました。ニューレンブルグ(裁判)における戦後のアメリカの検察官達が、ナチスの戦争マシーン自体が I.G. ファーベンであると明言した、巨大過ぎて、そして強力過ぎた、悪名高く、そして悪名高過ぎる程に強力な、ドイツの化学カルテル、I.G. ファーベン社⁵⁵ を設立するに至った、バイヤー社と BASF (Bayrischen Analin und Sodafabrik)社を伴った企業群の構成要素の一つで、強力なドイツの Hoechst⁵⁴ の多国籍な化学企業の社長、ウィナカー博士の存在でした。これは、戦後の国際ナチスが、どの様に機能したのかの、更なるもう一つの手掛かりで:カルテルとライセンシング(特許の使用許可)の同意を通した、核燃料サイクルの要素の全てを利用可能にすると共に、広範囲に散在した産出システムを通し兵器を製造する、または組み立てる事を通して、正に文字通りに、それ自体の権利において、原子核融合反応の勢力(核保有国)に成りました。

西ドイツの原子力計画は単純に、ナチス・ドイツの継続で、そしてその心臓部においてあったのは、そのカルテルの組織化と設立に至った化学企業の構成要素であったと、大袈裟にでは無く明言する事が出来ます。⁵⁶ 実際に、1976年3月15日に、ドイツの雑誌、Der Spiegel 誌は、西ドイツの原子力産業の組織の図表を公表し、そしてそれは、戦時中のナチスの原子爆弾の研究、そしてそれにおいて関わった企業群の誰と誰の様に読めて:バイヤー A.G.、Hoechst A.G.、Degussa、シーメンズ、A.E.G. A.G. (ナチスのベル計画と、アルゼンチンにおけるロナルド・リヒター博士の戦後の「核融合」計画にとても緊密に結びついた企業、Allgemeine Eliktricitäts Gesellschaft, A.G.)、そして勿論、ドイツの巨大な銀行、Dresdner とドイチェ(ドイツ)銀行でした。⁵⁸ この膨大な計画の目的は、ナチス時代から戦後の西ドイツへと、一貫的で:あらゆる実行可能で、持続可能な原子力(原爆)、または原子核融合反応(水爆)の兵器計画のための事前の必要条項である、完全で、自律的な(核)燃料サイクルを、独立的なドイツの手に入れる事でした。⁵⁹

それらの開発と、それらの示唆を可能な限り簡潔に述べると、原爆と水爆兵器の計画が I.G. ファーベン社、またはその「より小さな」構成要素の様な、強力で国際的に拡張されていますが、そうであれ、「国家主義的な」カルテル(財閥)と融合された時、人が有するのは科学技術の譲渡(受け渡し)のための強力なメカニズムだけでなく、「ソヴリンティー(主権)」の新たな形状と、カルテルの組織全体を通して、構成要素(部品)の製造を分散させる事によって、その様な兵器を製造する能力です。私達が目撃する様に、秘密裡のカルテル主義、または企業主義は、ヨーロピアン・ユニオンの全体にその足跡を残しています。

c. South Africa, The German Nuclear Cartel, and the Non-Proliferation Treaty
c. 南アフリカ、ドイツの原子力カルテル、そして核-非-拡散条約


ラパロの型板の戦後の原子力(原爆)的な応用の概要が故に明らかに成ったのは、南アフリカはウラニウム、資金、そして技術的な能力は持っていましたが、科学技術は持っておらず(彼等にそれらを売る事を意図した者も、世界には誰もおらず)、そして西ドイツには、資金も科学技術もありましたが、ドイツ国内において、秘密裡の核兵器開発も、その試験も行えませんでした。それは「ドイツ製」の核燃料サイクルによって産出され、ドイツのデザイン(設計)の(原子)爆弾を製造し、試験する代理国家が必用でした。

この全ては、しかしながら、西ドイツと南アフリカの(そして後に、私達が目撃する様に、イスラエルの)間の、秘密裡の「核兵器の同盟」全体の暴露の出来事が無ければ、推測のままでした。1974年9月、ボンにおける南アフリカの大使が、公式なパニックのボタンを押したのは、原子力科学技術の譲渡(受け渡し)と、秘密裡のドイツ-南アフリカの原子力(原子爆弾)の調整を詳細した9つの書類が盗まれたと、彼が発見したためでした。実際に、その書類の幾つかは、ルフトワッフ(ドイツ空軍)の将軍による南アフリカへの秘密裡の訪問が、下見調査のはっきりとした目的であった啓示的な情報を含み、そして更に、軍事的、そして原子力(原子爆弾)的な調整を詳細しました。⁶⁰

1974年9月25日に、ドイツに対する南アフリカの大使は、誰がその書類を盗んだのかを明かした、無記名の茶色の封筒を受け取りました。その封筒の中には、違法化されたアフリカの国家主義的な会議によって印刷されたカラーのパンフレットがありました。そのパンフレットの題名は「原子力(原爆)的な陰謀」で、その中で、その盗まれた書類の幾つかは、その他の機密にされたドイツと南アフリカの書類と共に現れました。そのパンフレットのテーゼはとても単純で:西ドイツは「原子爆弾を産出するために南アフリカを助けている、」⁶¹ またはもっとぎこちないですが、更に正確に、西ドイツは、西ドイツが核兵器の能力を得る事を手助けするために、南アフリカを助けていると言うものでした。南アフリカは「新たなラパロ(原則)」のソヴィエト連邦で、ワイマー共和国の Bundesrepublik Deutschland (ドイツ連邦共和国)でした。⁶²

両国は、それらの原子力(原爆)の調整のためにラパロ型板のアップデート版を利用する事を、それら(両国)が強いられた十分な地政学的な状況を有しましたが、それに貢献したもう一つの要素は、西ドイツは署名しましたが、南アフリカはそうしなかった、1968年の核兵器非拡散条約でした。⁶³ 私達が、ドイツとイランの原子力政治と調整の私達の思考において、核兵器非拡散条約の示唆を探求する間、其処において述べられるものが、1970年代のドイツと南アフリカの場合、読者が頭に入れておく事が同等に応用可能、もしくは更に重要なのは、イランとは異なり、南アフリカが、当時、その(核兵器非拡散)条約の署名者では無かった事です。

何であれ、西ドイツの補佐と共に、南アフリカは核兵器製造のための科学技術的な能力を会得する事ができ、そして1970年代の終盤までに、フランスとソヴィエト連邦の両方が、それ(ドイツと南アフリカ)がそうしていると、特定的に強く主張しました。⁶⁴ ほぼ同時代のインドと同様に、南アフリカは、それが「『平和的な核爆発』と呼ばれるもの」を研究していると主張する事によってその計画を覆い、⁶⁵ そして、加えて、当時、南アフリカの操作の下にあった、ナミビア砂漠において探知された地震は、地下における核兵器の実験として、多くによって理解されました。⁶⁶ 実際に、西ドイツの Bundeswehr (連邦軍)は、南アフリカとのその秘密裡の協力を通してそれが既に知っていた事を、Der Spiegel 誌に対して公にし、つまり、アフリカの国家が、核兵器を所有していたと言う事でした。⁶⁷

ですが、イスラエルについてはどうでしょう?

十分に奇妙な事に、その核兵器の科学技術と燃料を、米国から得たと広く考えられたイスラエルは、実際にはその殆どを、譲渡の巧妙なメカニズムを通して、秘密裡のドイツ-南アフリカの原子力(原子爆弾)同盟(と同時に、フランス)から、それを得ていました:

「イスラエルはまた、明らかに、西ドイツとフランスから、核兵器の素材を会得しましたが、それらの政府は、イスラエルと協力していると見られる事を望まなかったので、偽りのハイジャック(フォルス・フラッグ)が用意されました。1968年までに、イスラエルの科学者達は、低いグレードの素材を濃縮化するための彼等の技術を完璧化し、そして200トンのイエローケーキ(酸化ウラン混合物)のための特定の知識を取引する同意を、西ドイツと交わしました。1968年11月において地中海の穏やかな海で停泊していた間、西ドイツの貨物船 Scheersberg は、特殊部隊によって『奇襲』され、そして200トンのイエローケーキ(ウラン)が盗まれました。」⁶⁸

1977年8月に成ると、アメリカとソヴィエトのスパイ衛星は、南アフリカがカラハリ砂漠において、原子爆弾の実験を行う準備をしていると専門家達を納得させ、その爆弾は、イスラエルのデザイン(設計)であると、多くの専門家達が信じました。⁶⁹

しかしながら、のけ者国家達のこの奇妙なトロイカ(三人組)を少々考え直してみると、機能していたラパロ・プリンジップを明かすのは、その爆弾が、イスラエル、南アフリカ、そして西ドイツの合同実施を反映している可能性の方がより高い為で、その後者が、その知識の大部分を占めていたのが明らかで、疑う余地無くその三国の全てが核燃料サイクルを完結させ、そして独立的な核兵器の選択肢を所有する事を望んだためです。

南アフリカはウラニウムと知識を持っていましたが、資金も製造能力もありませんでした。

イスラエルは知識を持っていましたが、資金はあまりなく、その濃縮化の行程のためのウランの資源は持っておらず:そして、

西ドイツは、大量の資金を有しており、その他の二か国とは比べ物にならない製造能力と知識を持っていましたが、イスラエルと同様に、その濃縮サイクルのための供給原料としての、ウラニウムの源泉への独立的な入手法を持っていませんでした。

それは、「ドイツ製」の三人プレーでした。

この秘密の核開発の協力の全ては、1970年代において、西欧最大の経済(西ドイツ)を何処に残したでしょうか?スウェーデンの研究機関は、西ドイツの原子爆弾製造能力を、1976年だけでも、年間100個程度と予測しました。幾らかのリチウム-重水素と、幾らかの U(ウラン)-238を加えて、ゆすって混ぜれば、人は100個の第三段階の水素爆弾を有します。1990年代に成ると、「クリントン政権は、特定のドイツの原子力(原子爆弾)計画、特に、ドイツの街、ハナウの地下施設における、民間的な使用が全く考えられない2.5トンのプルトニウムの貯蓄と、ミュンヘン近郊の Garching における核反応炉の研究における高度に濃縮化されたウラニウムの、物議をかもし出す使用について、心配を声にしました。」⁷⁰ 「民間的な使用が全く考えられない」と言うのは、このプルトニウムが、兵器-段階の Pu-239 であった強い可能性のための比喩でした。この章の終わりの近くにおいて私達が発見する様に、ドイツが事実上原爆保有国で、水爆保有国であると言う、その他の強い証拠があります。ですが、この結論への道はテヘラン(イラン)を通してあります。

C. Iran’s Nuclear Program and Germany
C. イランの原子力計画とドイツ
1. The Coup Against Mossadegh
1.モサデグに対するクーデター


モサデグに対するクーデターから、シャー、レーザ Pahlavi の転覆や、イランにおける人質危機まで、イランの第二次世界大戦後の歴史について、多くの著書が書かれて来ました。その詳細は全て公で、よく知られています。ですが、それらのよく知られている詳細の幾らかは - その様な明らかな物事の全ての様に - 頻繁に素早く素通りされ、それらが浮上させる心地良く無い疑問は、決して声にされません。

それらの疑問は、人が出会う人材によって台頭させられます。例えば、戦時中のイランのラジオ(局)、ジーセンのアナウンサー、バーラム・シャーロクは、テヘランにおけるナチスの大使、アーウィン・エテルに、「イングランド人達、ロシア人達、アメリカ人達、そしてユダヤ人達に対するイランの人々の憎しみを、可能な限り扇動しなければならない⁷²」と彼が伝えた事実にも拘らず、「連合国からの抗議も全く無く⁷¹、イラン・ラジオのプロパガンダの主任」に成りました。また、これが全部ではありませんでした。1952年までに戦前のナチス-イランの商業的なネットワークは本質的に修復され、戦時中に、「ゲッペルスのプロパガンダ局における東方の状況の専門家」で、そして1936年において、「1937年度のドイツ-イランの商業庁の事務官」だったラインハルト Hübner の指導と監督の下で、新たなイランとドイツ合同の商業庁が確立されました。⁷³

これでさえ、西ドイツの戦後の外交サービスにおけるナチスの継続性の唯一の体現では無かったのは、テヘランへの最初の戦後の西ドイツ大使、ルッツ Gielhammer でさえ、怪しい過去を持ち、1938年において「I.G. ファーベン社の中央金融マネージメントの一員で、そして1940-41年において彼がアフガニスタンにおけるドイツの経済的な代表(大使)に成った」ためです。⁷⁴ Gielhammer は、総理大臣、モハメッド・モサデグに対する CIA に資金援助されたクーデターのたった数日後にドイツ大使に成りました。⁷⁵

ですが、私達の目的のために最も検証を必要とするのは「CIA」に(資金/情報)援助されたモサデグに対するクーデターで、エジプトにおけるファルーク王に対する CIA に援助されたクーデターと同様に、ルーズベルトの様な人達がワシントンにおいて物事を「遠隔操作」していた間、実際に現場に足を運んでいたのは、エジプトの場合にそうであた様に、「元」ナチスでした。モサデグ以前、そして以後のナチスの関連性の長たらしい話し、そして故にドイツに関する限りテヘランにおける継続性と影響力は、息を奪うもの以上の何ものでもありません。ドイツ人の研究者、マテアス・クンツェルは、それらの「語られない疑問」をはっきりと記述します:

「総理大臣、モハメッド・モサデグの周りの国家主義者達は、1953年において彼を転覆させた勢力に勝るとも劣らず親-ドイツ派でした。1952年においてモサデグ政府は、彼等の経済的な助言者として、ヒトラーの元金融大臣、ヒャルマー・シャクトを選択し、1936年におけるヒトラーの要望において、テヘランに派遣された、正に同じヒャルマー・シャクトでした。その同年に、モサデグは、イランの石油産業を国有化した後に、英国の専門家達と入れ替えるための、数百名のドイツの石油産業関係者達を新採用する目的と共に、彼の経済の専門家、アリ・アミニをボンへと送り込みました。」⁷⁶

それは、勿論、テヘランへ石油産業関係者達を送り込む事からボンが撤退するための、英国政府の圧力に繋がり、そしてそれは英国がモサデグの転覆において CIA の協力を要請した、正にこの計画された国有化でした。

鋭角な形状においてその口にされない問いが浮上するのは此処においてなのは、その問いのドイツ側のために、殆ど変化が無い為で:

「1953年におけるモサデグの転覆は、親-ドイツのイラン人達の中核を権力へともたらしました。新たな総理大臣は、第二次世界大戦の間に、Abwehr (諜報工作機関)と SD の最も親密な協力者の一人で、その結果として、1942年に英国によって逮捕された、ファズロラ・ザヘディ将軍でした。もしザヘディが実際に、CIA の補佐と共に活動したなら、『するとこれは、戦後の歴史において、元ドイツの協力者達が、彼等の忠誠をアメリカ人達へと移行させた初めての例ではありません』とDie Spiegel 誌は、1953年において記述しました。

「Gielhammer 大使は、モサデグの転覆に対する彼の喜びを隠す事はせず、そして共産主義の掌握から、彼の国を救った事にたいしてザヘディを祝福しました。彼は、この様に感じた唯一の人ではありませんでした。その戦争の間に、Abwehr の諜報工作員としてイラン南部における安全保障を阻害しようと励んだ、元 Wehrmacht (国防軍)の中佐、バーンハルト・シュルツ-ホルサスは、ザヘディのクーデターを1941-44年の親-ドイツの「反乱」に比較可能な反-共産主義の大衆的な反乱として称賛しました。」⁷⁷

アデナウアー首相自身がテヘランを訪れた1957年までに、イランにおいて教師達、施設、そして訓練を供給するための、ドイツの「職業学校」を設立するための、その首相と新たなシャーの間の同意のための舞台は整いました。⁷⁸

此処において口に出されない疑問はとても単純で:どの様にして、モサデグを転覆させ、その国における英国の石油企業の国有化を妨げるためのクーデターにも拘らず、ドイツ人達はそのクーデターの以前と以後のイラン政府の両方の中で、重度な存在力と影響力を保てたのでしょうか?その答えは既に示唆され:彼等が、イランとの彼等の長い歴史を通して、それを行うための諜報工作と秘密裡のネットワーク(人脈)を有していたためでした。イランは、端的に、国際ナチスのためのもう一つの遊び場で、そしてラパロ型板の戦後の核兵器的な変形の応用のもう一つの試験場でした。実際に、私達が既に目撃した様に、丁度、ソヴィエト連邦がした様に、間大戦の期間に正にこの立場において機能し、1920年代の間にイランにおいて、ユンカー航空企業と、クルップと Rheinmetall-Borsig の武器弾薬企業が、工場を設立しました。⁷⁹

2. The Shah and the Nuclear Fuel Cycle
2.シャーと原子力燃料サイクル


1980年代の後期、そして新たな千年(i.e. 西暦2000年以後)に成ると、その殆どがタイセン-クルップの企業によって資金援助されたそれらの「訓練プログラム」は、(原子力)発電所の建設と管理、素材(核燃料)技術開発、そして、勿論、原子力技術開発を含むまで、その規模において多大に拡張されました。⁸⁰ シャー、レーザ Pahlavi にとってその目的は鮮明で、1974年において公表され:彼は、イラン全国を通して20以上の原子力発電所を設立し、そして「その軍事的に関連している構成要素 - ウラン濃縮とプルトニウム抽出を含めた - 核燃料サイクルの全体を掌握する事」でした。⁸¹

驚くなかれ、イランの目的は、当時も現在も、米国の圧力と心配を呼び起こさせ、そして国際的な物議をかもし出しました。そのシャーは、その濃縮行程と核燃料サイクルに対するイランの操作を、国際的な監視の無い、イランの手の中に完全に入れる事を望みましたが、その間、予測可能な様にワシントンは「国立的なイランの再加工施設の建築を容認する気はありませんでした。」⁸² 其処からイランが大量のその再加工の科学技術を購入した、当時の西ドイツの首相、ヘルムット・シュミットは、ワシントンからのあらゆる圧力によって妨げられる事無く、テヘランとボンは、その科学技術の売買を行うと鮮明にしました。ボンの保証においてテヘランが比較的に安全だったのは、そうしないためのワシントンからの圧力にも拘らず、それが核燃料サイクルの全体をブラジルに対して販売する事を承認したばかりで、それがそう選択すれば直ぐに「核兵器勢力(核保有国)」に成る事の出来る国々のリストにブラジルを加えたためでした。⁸³ イランの原子力の野望のためのこの補佐が、シャーの転覆と、アヤトラ・ホメイニの革命的でイスラム主義の政権の確立の後でさえ継続したのは、イラン-イラク戦争において、米国がサダム・フセインの政権を後押しした間、西ドイツがイランを補佐したためです。

此処まで来ればそのパターンは鮮明で:南アフリカとイランの両方の場合において、それらの2つの国々の原子力(原爆)的な野望のドイツの参加と補助のレベルは、ラパロの型板に当てはまっただけでなく、両方の場合において、それを後ろ楯している企業的なインフラと人材は、大々的に、第三帝国(ナチス)において得られたものと同じ構造のままでした。人が目撃しているのは、ヨーロッパの内側と外側の両方における、国際ナチスの足跡です。この足跡の一部が、(ドイツ)皇帝の下で開始された政策に当てはまる事にも驚かされるべきでは無く:西洋の地政学的、そして金融的な関心に対する急進的なイスラム(i.e. 過激派)の使用と利用でした。

3. The Nuclear Non-Proliferation Treaty: Iran, South Africa, and Germany
3.核-非-拡散条約:イラン、南アフリカ、そしてドイツ


前述された検証全体を通して、核兵器非拡散条約に対する言及が度々成され、そして何故、とても多くの原子力(核兵器)拡散の中心にいたドイツが、その条約の信頼出来る署名国と考えられる事が出来たのかを思考する時が来ました。この思考は、その条約の重大な弱点の一つ、そして何故それが国境超越的な「ソヴリンティー(主権)」によってとても簡単に利用(悪用)される事が出来るのかを露呈させます。

マテアス・クンツエルは、その条約の第四条項、「平和的な民間の」計画を通した拡散を監視するための、国際的なメカニズムを表上は確立した条項が、巨大な抜け穴を含むと指摘します:

「第一条項における核兵器を放棄する義務は、第四条項における義務によってバランスされ:『その条約への参加国の全ては、原子力エネルギー(電力)の平和的な使用のための、道具/施設、素材(原料)、そして科学的、そして科学技術的な情報の、可能な限り完全な交換の準備を行い、参加する権利を有します。』非-核保有国と核保有国は、国際原子力エージェンシー(IAEA)に委任された平和的な利用(原子力発電所)の監視と共に、『平和的な使用のための原子力の研究、産出、そして使用』の開発に関して、同じ足場におかれます。それらのルール(条項)は - イランを含む! - 参加国に、部品を組み立てない限り、IAEA の監視の下で、核兵器に必要な構成要素(部品)の全てを得る権利を与えます。

「(非-拡散条約の)元々の目的を阻害するこの抜け穴は、現在まで続き、その条約の第十条項によって更に広げられます。これは、『異例的な出来事』によってその一歩が正当化され、国連の安全保障委員会が3カ月の(事前の)連絡を得られる限り、全ての参加国にその条約から脱退する事を許します。」⁸⁴

その抜け穴の示唆を人が見落とさない様に、クンツエルはそれを明確に綴ります:イラン、またはもっと重要な事に、ドイツの様な非-拡散条約への署名国は、「その約束を破る事無く」、(核)爆弾のための必要部品の全てを産出し、そしてその後、その条約に許された脱退に続き、それ自体を核保有国と宣言する事が出来ます。」⁸⁵

私達が検証してきたラパロ型板の原子力(核兵器)版において、これが膨大な重要性を持つのは、第二次世界大戦以来、ドイツ連邦共和国の一貫的なパターンが、南アフリカ、イラン、そして私達が目撃した様に、ブラジルの様な代理国家を通した核兵器開発の計画を行う事で、そしてそうしたのが、I.G. ファーベン社の企業的な構成要素を利用した、その同じ膨大で多国籍的な企業構造を通してであったと、もし人が思い出せば、すると、原子爆弾と水素爆弾の製造のための部品の全てが、とても文字通りに、様々な国々における幾つもの「平和的」な原子力計画の背後に隠される事が可能なのが明らかに成ります。起爆装置の反射楯が一つの国において設計され、もう一つの国において製造され;回路が一つの国において設計され、もう一つの国において組み立てられる等々です。故に、一つの国において幾つかの濃縮施設、または製造施設を持つよりもむしろ、人は製造と組み立ての能力を分散させただけでなく、その計画へと重複性を組み込む事によって、それを標的にする(攻撃する)事を更に難しくしました。正に文字通り、あらゆるその他の国の実態を遥かに超えた、ドイツの計画の(多国籍)企業化が意味したのは、あらゆる代理国家 - イラン、南アフリカ、イスラエル、ブラジル - に対するあらゆる軍事活動は、全く、または最小限のダメージしか与えないと言う事です。もしこれが不穏にも、ナチスの軍備大臣、アルバート・スピールの分散された組み立てユニット(部品)の製造方法を思い出させるなら、当然で、何故ならそれが殆ど同じものだったためで、今度は世界的な舞台へと大きく広がって描かれました。人は、ドイツ自体が、それ自体の核兵器の能力の開発のために、巨大で企業的な関心によって利用されたとさえ言えるかも知れません。

4. The French Force de Frappe and Germany, the Hidden Thermonuclear Power
4.フランスのフォース・デ・フラップとドイツ、隠れた水爆的な権力


あたかもそれらの推理を強調するかの様に、その逸話自体は報告されましたが、西洋の報道(マスゴミ)の「コメント的な段階」までは全く届かなかった話しがありました。2009年12月2日、アメリカの雑誌タイムは、「ヨーロッパの秘密裡の核兵器についてどうしましょう?」と題された記事を出版し、米国がベルギー、オランダ、イタリア、そしてドイツに横流しした原爆と水爆の数は、数百に届き、そしてそれぞれの国家の空軍は、それらを配達する(落とす)能力があると着目しました。その記事は、ロシア政府に合併されたウェブサイト、グローバル・リサーチによって取り扱われ、物議をかもし出す人物、マイケル Chossudovsky によってこうコメントされました、

「米国は、幾つもの480 B61 水素爆弾を - ベルギー、ドイツ、イタリア、オランダ、そしてトルコの - 『非-核保有国』と呼ばれる5か国に供給しました。ウィーンに基づいた国連の原子力(原爆)監視機関(IAEA)によってお気楽に無視され、米国は活発に西ヨーロッパにおける核兵器の拡散に貢献しました。」⁸⁶

ですが最も不穏な事に、これがあります:

「ドイツは、公式には核保有国として分類されない間、それは、フランスの海軍のために、核弾頭を製造します。それは、(アメリカ製の)核弾頭を蓄積し、そしてそれは核兵器を配達(発射)する能力を有します。更に加えて、ヨーロッパの航空防衛と宇宙の企業 - EADS は、フランス-ドイツ-スペインの合同事業で、ドイツ空域宇宙と、ヨーロッパで2番目に大きい軍需産業複合体である、強力なダイムラー・グループによって操作され、フランスの M51 核ミサイルを供給しています。

「ドイツは、米国から核兵器を輸入し、配備します。それはまた、フランスへと輸出される、核弾頭を産出します。ですがそれは、非-核保有国として分類されます。」⁸⁷

フランス海軍の M51 ミサイルは、潜水艦から発射される、間-大陸間の弾道弾で、それぞれが200から300キロトンの破壊力、そしてもしかすると、実際に、もっと強力かも知れない、水素爆弾の核弾頭を発射する MRVed 核弾頭と共に配備されています。言い換えると、フランスの戦略的な核兵器的な抑止力は、それにおいてドイツの企業が操作的な関心(力)を持つ、フランス-スペイン-ドイツの複合体によって造られたミサイルの上に基づいており、そしてそのミサイルのための核弾頭は、同様の企業的なアレンジメント(同意)の下で、ドイツによって製造されています。恐らくこれは、ドイツの外務大臣、フランク-ウォルター・スティンメイヤーが最近、ベルリンにおいて集まったドイツの実業家達と産工業家達に、ドイツの外交政策が、より堅固で、より軍事的なトーン(音色)を取る時が来たと言う演説を与えた理由の一つでしょう。⁸⁸

ステインメイヤー氏の明言を、人がどの様に解釈しようとも、しかしながら、一つの事が此処で鮮明な様で:丁度、それ(ドイツが、2つの)世界大戦の間に、秘密裡にドイツを武装化させ、それを再び主要な勢力にする事に成功した様に、ラパロ型板(原則/条約)は、ドイツを再び武装化させ、それを間-大陸間の配達(攻撃)システムの使用を共にした事質上の水爆保有国にしました。そしてこの行程全体を通して、人はもう一つの不穏なパターンに気付き、第二部において私達が再び出くわすもので、科学技術の譲渡(受け渡し)を指揮しているカルテル(財閥)で、それにおいてドイツの構成要素が「操作的な関心(主導力)」を握るカルテル(軍産複合体)です。このカルテル化、または「企業主義(i.e. ファシズム)」は、国際ナチスのはっきりとした足跡の一つです。

D. Postscripts and Segues: the Policy of Containment, rollback, and Disintegration of the Soviet Union
D. 後書きとセグエ:ソヴィエト連邦の囲い込み、押し戻し、そして分解の政策


2010年に、急進的なイスラム(過激派)とナチスの逸話におけるアメリカの役割を概要している、ミュンヘンにおけるモスク:ナチス、CIA、そして西洋におけるムスリム同胞団の台頭と題された、イアン・ジョンソンによる、少々注目すべき本が現れました。その中で、イスラムの急進化(過激化)のドイツの戦略の第二次世界大戦後の利用が、戦後のナチスの援助の下だけでは無く、アメリカの援助の下でも継続したと人は識別し、全ては、共産主義を打倒するための努力においてでした。⁸⁹ この本の中で、ジョンソンは、心理的な作戦を通した、ソヴィエトの社会主義の包囲と押し戻しの長期的な戦略を提案した、ジョージ・キーナンが、ベルリン大学において訓練(教育)された事を指摘します。⁹⁰

この長期的な努力における鍵の一つは、電気的なマスメディア(テレビ/ラジオ)におけるアメリカと西洋の圧倒でした。この圧倒から来たのがプロパガンダの機関の創造で、東欧へと番組を配信していたラジオ・フリー・ヨーロッパと、ソヴィエト自体を狙い撃ちしていたラジオ・フリー・リバティーで、両方がラインハルト・ゲーレン将軍の「組織」で、後の西ドイツの諜報工作機関、Bundes-nachrichtendienst (BND)の本部であるミュンヘンに基づいていたのは偶然ではありませんでした。

その押し戻しの戦略は、最終的に1936年において、ドイツの学者、ゲルハルト・ヴォン・メンデによって公表された博士論文によって提案され、彼はソヴィエト連邦内の多種多様で民族的な人口が利用可能で、それら(多民族)はソヴィエト国家から離脱するでしょうが、唯一、もし衝撃(ショック・ドクトリン)の一連がソヴィエト・ロシアに与えられればであると主張しました。それら(多民族)は、彼等自身の自力では、決して離脱する事が出来ないだろうと、彼は論説化しました。ヴォン・メンデは更に、一度離脱すれば、それらの民族的なグループが、疑わしい生活力の小国家を形成するだろうと予測しました。⁹¹ 第二次世界大戦の間に、官庁と軍部の間の「連絡事務局」の一連を通して、Wehrmacht (連邦軍)Waffen SS (親衛隊)のための軍事的な部隊へと、それらの多民族のグループを採用し、組織化する助けをしたのは、ナチス・ドイツの Ostministrium (東方統治)において働いていたヴォン・メンデでした。それらの組織は CIA のラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティーの戦後のプロパガンダの努力へと組み込まれ、その規模は「ラジオ・リバティーが重度にナチスの協力者達に頼ったために、彼等がいなければその(ラジオ)局が閉鎖されてしまう程でした。一つの推量は、ナチスのために働いていたラジオ・リバティーの従業員の割合を、75から80パーセントとしました。」⁹² 言葉を変えると、丁度、ナチスの戦時中の軍事諜報工作の、ゲーレン将軍の Fremde Heere Ost (東の国外の軍/スパイ・ネットワーク)が、全ての意図と目的のために、CIA のための、ソヴィエト・ブロック内の、実際の現場の諜報工作の人材であったのと同じく、CIA の戦後のプロパガンダの努力もまた、更にもう一つのナチスのプロパガンダ要員のグループのためのフロント(建前)でした。そして勿論、この努力における鍵は、共産主義を打倒する、彼等自身の長期的で戦略的な目的のために、急進化したイスラムを利用する事における、アメリカとナチスの両方の関心でした。

恐らく、この章の中で検証された全てが与えられると、「対テロ戦争」は実際にはとても異なった戦争のためのカバー(隠れ蓑)で、国際ナチスと、それが体現する国際的な企業の権力構造による、その上における戦争です。その権力構造は、この章の中で示唆された様に、ヨーロッパとドイツ自体に集中され、そして中心されたままで、故に、私達が今後、向かわなければならないのは、ヨーロピアン・ユニオン自体に対するその関係の検証ですが、これまでに台頭したパターンを、私達が再検証する前に、ではありません・・・
_____
1 Barbara Rogers and Zdenek Červenka, The Nuclear Axis: The Secret Collaboration Between
West Germany and South Africa
(New York: New York Times Books, 1978), p. 345.
2 Cited in T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 82.
3 Mattias Küntzel, Germany and Iran: From the Aryan Axis to the Nuclear Threshold
(Candoor, New York: Telos Press Publishing, 2014), p. 12.
4 Mattias Küntzel, Germany and Iran, p. 10.
5 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, p. 121.
6 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, p. 121.
7 Ibid.
8 Fritz Fischer, Germany’s Aims in the First World War, p. 121.
9 Peter Levenda, The Hitler Legacy: The Nazi Cult in Diaspora: How it was Organized, How
it was Funded, and Why it Remains a Threat to Global Security in the Age of Terrorism
(Lake
Worth, Florida: Ibis Press, 2014), p. 67.
10 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 11.
11 “Max von Oppenheim,” Wikipedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Max_von_Oppenheim.
12 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 13.
13 Ibid.
14 Ibid.
15 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 63.
16 Ibid., p. 64.
17 Küntzel, op. cit., p. 14.
18 Ibid, emphasis in the original.
19 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 16.
20 Ibid.
21 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 16.
22 Ibid.
23 Ibid., p. 17.
24 Ibid.
25 Ibid., pp. 17-18
26 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 66.
27 英国は、勿論、これを手放しで受け入れたのではなく、トルコの支配に対して燻っていたアラブと部族的な不満を組織化するために、オットーマン(オスマントルコ)の作戦の劇場(i.e. 戦場)に、アラビアのローレンスを送り込む事によって、ヴォン・オッペンハイムの「世界的なジハード」の概念に正反対の政策を追求しました。
この状況は、ある意味、皮肉だったとラヴェンダは観測します:「故に、私達は一方に、イングランド人の考古学者、ローレンスを有し、そしてもう一方にドイツの考古学者、オッペンハイムを有しました:それぞれが、彼等それぞれの目的の正当性をそれぞれの側に納得させようと試み、そしてそれぞれが、ヨーロッパのご主人様(王侯貴族)達への奉仕においてアラブの状況(そして信頼)を操作していて、そしてその戦後の戦略は、ヨーロッパ人達の得にしかならないものでした。」(Levenda, The Hitler Legacy, p. 67). そして、最大級の皮肉は、オッペンハイムが全くイスラム教に改宗せず、「アラブ人でもムスリムでもない、カトリックとユダヤ教の血筋のドイツ人だった事」で、(Levenda, op. cit., p. 66) 彼は最大限の偽善において、ジハードを扇動していました!(Ibid., p. 67)
28 クンツェルは、ペルシャ(イラン)との、近代ドイツとの最初の高レベルな接触は、1870-1871年のフランス-プロシア戦争において、ドイツ帝国がプロシアの下で統一される前の、シーメンス企業の創立者、ヨハン・ゲオルグ・シーメンスの、1868-1869年における訪問だったと指摘します。.(Küntzel, Germany and Iran, p. 10).
29 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. xi.
30 Ibid., p. 18.
31 Ibid., p. 19.
32 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 19.
33 Ibid., p. ix.
34 Ibid., p. x.
35 Ibid., p. 8.
36 Ibid., p. 29.
37 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 27.
38 Ibid.
39 Ibid., p. 7.
40 See my Reich of the Black Sun: Nazi Secret Weapons and the Cold War Allied Legend
(Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2004), pp. 46-48.
41 William Manchester, The Arms of Krupp, pp. 742-744, emphases added.
42 William Manchester, The Arms of Krupp, pp. 676-677, 679.
43 See my Reich of the Black Sun, pp. 53-66, and The Nazi International (Kempton, Illinois,
Adventures Unlimited Press, 2009), pp. 102-128.
44 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 27.
45 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 20.
46 Ibid., p. 21, アデナウアー首相の一方的な宣言を引用した、加えられた強調。この宣言は、プロトコル II と IV に対する付加 I を構成します。(see p. 413, n. 18.)
47 Ibid., p. 28.
48 See my The Nazi International, pp. 249-274.
49 Rogers and Červenka, op. cit., p. 28.
50 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 27.
51 Ibid.
52 読者が此処において、ロジャースと Červenka の本の中の事実の重大な間違いを通知されるのは、30ページに彼等が、「ウォルター・ゲーラック、オットー・ハーン、ヴァーナー・ヘイゼンバーガー(sic!)、そしてカール・フレデリック・ヴォン Weizäcker の様な、ヒトラーの『ウラニウム・クラブ』(Uran Verein)に属したドイツの化学者達が、1939年においてナチス・ドイツから逃げ出したと明言するためで、実際には、彼等はその様な事は全く行わず、ヘイゼンバーグは少なくともナチスの原子力(核爆弾)研究計画の一つの(公式な)要素に携わっていて、そしてゲーラックは、勿論、一時期、その核爆弾計画を指揮していて、そしてまた、ベル計画を指揮していたためです(幾らかの研究者達は、それらが一つで同じものであると考えます)。
53 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, pp. 39-41.
54 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 300: ロジャースと Červenka は、ウィナカーが、悪名高いカルテルの役員会の一員だったので、戦後のドイツの原子力産業におけるその他多くの様に、I.G. ファーベン社との直接の関係を持っていたと記述します。もう一人の I.G. ファーベンの役員、フェリックス-アレクサンダー・プレンツェル博士は、ドイツの Degussa 企業の戦後の社長に成り、その企業は核燃料サイクルの構成要素に深く拘わっていました。加えて、ドイチェ(ドイツ)銀行のハーマン・ジョセフ・アブス以外のなにものでも無い人物が、様々なドイツの原子力企業の役員会を占めていました。(See p. 301).
55 Ibid., pp. 34-45.
56 Ibid., pp. 31-33.
57 See my The Nazi International, pp. 343-346.
58 Der Spiegel 誌のドイツの原子力産業の図表は、彼等の著書、The Nuclear Axis の最初に含まれた写真として、ロジャースと Červenka によって再公表されました。
59 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 37.
60 Ibid., pp. 2-4. The general in question was Günther Rall.
61 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 4.
62 科学技術の譲渡(受け渡し)の詳細な方法でさえ、同じままで、ラパロ時代の間のドイツの科学技術的な知識は、2国間の間の外交的な封筒の中で、頻繁にソヴィエト連邦に対して譲渡され、そして、勿論、第二次世界大戦の終わりに近づくと、ナチスの科学技術的な知識と特許は、スペインを通した外交的な封筒を通して、ドイツからラテン・アメリカへと密輸されました。(See Rogers and Červenka, op. cit., p. 9.) その出来事は、ドイツと南アフリカの両方にとって公の恥でしたが、ボンにおけるプラエトリア(南アフリカ)の大使、ドナルド・ベル・ソールは、プラエトリアが彼を、その米国への大使として移動させるまで残りました。着目すべきは、彼がアメリカのために出発する際に、ソール大使が、外務省におけるドイツの国務長官、ピーター・ハームスによって「お別れ会の夕食」が主催された事で、彼(ハームス)とは、イランの原子力計画に関連して、私達は再び出会います。(Q.v. Rogers and Červenka, op. cit., p. 8.)
63 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, pp. 59-60.
64 Ibid., p. 193.
65 Ibid.
66 Ibid.
67 Ibid., p. 195.
68 Rogers and Červenka, The Nuclear Axis, p. 322.
69 Ibid., p. 325.
70 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 213, emphasis added.
71 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 57.
72 Ibid., pp. 57-58.
73 Ibid., p. 57.
74 Ibid.
75 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 58.
76 Ibid., emphasis added.
77 Matthias Küntzel, Germany and Iran, pp. 58-59. SD とは、the Sicherheitdienst で、それはウォルター・シェーレンバーグの操作の下にありました。シェーレンバーグは、思い出されるでしょうが、短波配信機の世界規模のナチスのネットワークを保有していました。 シュルツ-ホータスは Spionageabwehr のメンバーで、そして故に彼自身が、イランにおいて活動していた戦時中の対-諜報工作のエージェント(スパイ)でした。(See Küntzel, op. cit., p. 47)
78 Ibid., p. 61.
79 Ibid., p. 27.
80 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 143.
81 Ibid., p. 208.
82 Ibid., p. 69.
83 Ibid.
84 Matthias Küntzel, Germany and Iran, p. 214, emphasis added.
85 Ibid., emphasis added.
86 Michael Chossudovsky, “Belgium or Iran, where’s the Nuclear Threat? Europe’s Five
Undeclared Nuclear Weapons States,” http://www.globalresearch.ca/europe-s-five-undeclarednuclear-
weapons-states/17550
.
87 Michael Chossudovsky, “Belgium or Iran, where’s the Nuclear Threat? Europe’s Five
Undeclared Nuclear Weapons States,” http://www.globalresearch.ca/europe-s-five-undeclarednuclear-
weapons-states/17550
.
88 Johannes Stern, “German Foreign Minister Steinmeir’s Great Power Speech to Big
Business,” December 6, 2014, http://www.globalresearch.ca/german-foreign-minister-steinmeiersgreat-
power-speech-to-big-business/5418514
. See also my blog “German Foreign Minister
Steinmeir: Germany Must Take up the Mantle of being a World Power,” December 16, 2014,
http://gizadeathstar.com/2014/12/german-foreign-minister-steinmeir-germany-must-take-mantleworld-
power/
.
89 Ian Johnson, A Mosque in Munich: Nazis, the CIA, and the Rise of the Muslim Brotherhood
in the West
(Boston and New York: Houghton Mifflin Harcourt, 2010), p. xv.
90 Ibid., p. 15-16.
91 Ibid., p. 17.
92 Ian Johnson, A Mosque in Munich, p. 50.


4. Conclusions to Part One: Cartels, Compartmentalization, Rapallo Redundancy, and Radical Religion
4.第一部へのまとめ:カルテル、コンパートメント化、ラパロの余剰、そして急進的な宗教(過激派)


「1942年において、ヒトラーの『ヨーロピアン・ユニオンの下書きは、代表的なドイツの産工業家達、学者達、そして Reichswirtshaftsminister・・・ウォルター・ファンクによって提出された書類の概要の形状において公表されました。その書類は、Europäische Wirtschftsgeminschft』(ヨーロッパ経済コミュニティー/EEC) と題されていました。
- クリストファー・ストーリー¹

ヨーロピアン・ユニオンの権力の地下世界と金融的な政治へと飛び込む前に、認識可能なパターンと足跡が台頭し、(それらを)再検証し、焦点を当てるのが賢明でしょう。

1)1950年のマドリッド回覧書は、マドリッドのドイツの地政学的なセンターの産物と主張され、そして故に戦後の国際ナチスのものと主張されました。しかしながら、第一章の中で見られた様に、この筆者は、T.H. テッテンスの著書を超えて、この書類の存在への何らかの協力証言を見つける事が出来ませんでした。故に、帝国的、そしてナチス・ドイツ、そして戦後の西ドイツの外交政策の中の歴史的な前例を探し求める事によって、協力証言の方法論が発達させられなければなりませんでした。この方法で見解された時、その回覧書の政策の位置の幾つかは、応用された様に現れるだけでなく、その回覧書自体が、数十年後に起こる発展を、異例的に予測する様に現れます。それらの発展の中で、人は特に以下に注意しなければ成りません:

a) その書類は、関税の統一、または共通市場を含む、ヨーロッパのコミュニティー(EC)の創造を主張し、その連邦はドイツを(ヨーロッパにおいて)圧倒的な経済力とし、最も影響力のある位置にします。世界の舞台におけるその連邦の目的は、対立している共産主義者(ソヴィエト)と大西洋(英米)のブロックの間に「第三の道」を創造する事で、その連邦(EU)と共に、世界の舞台におけるドイツの地政学的な影響力を増大させる事で;

b) その回覧書は、米国とソ連の間の戦争の地点までも、東と西の緊張を高める政策を主張し²、その間ドイツに指導されたヨーロッパは、その様な衝突において中立を保ち、その様な衝突(戦争)の後に、明らかな指導的な権力のブロックとして台頭し;

i) ソヴィエト連邦とワイマー共和国の間の、1920年代のラパロ条約は、西ドイツの領域において利用され、大量殺害のための、特に原子爆弾、生物(化)学兵器、または化学兵器の開発に対して課せられた、あらゆる条約(ヴェルサイユ条約)を迂回するために利用されました。³ 以前のページの中で見られた様に、ラパロ・プリンジプは、南アフリカ、イスラエル、そしてイランの様な「のけ者国家)との経済的な協力のための同意として、ドイツの連邦共和国によって忠実に続かれ、代理国家を通して、核燃料サイクルの完結、そして原子爆弾と水素爆弾を得るために必要な、延長的な軍事の調整(協力)と科学技術の譲渡(受け渡し)を隠すために利用されました。この拡張的な(核)拡散の努力は、大企業とカルテル(i.e. 財閥/王侯貴族)の手の中に国境超越的な原子爆弾と水素爆弾の能力を創造する役割を果たし、ドイツの原子/水素爆弾の科学技術を利用している代理国家において、複数の層の重複性の創造を可能にし、それはヨーロッパ大陸の唯一の宣言された核保有国、フランスを含みました。

ii) その回覧書は、「我々 i.e. 国際ナチスにとって、その戦争は決して終わっていない」⁴ とはっきりと明言し、1945年のあらゆる公式な降服における、ナチス党のあらゆる公式な代表の不在において、これのための鮮明な補佐を引き出します。この主張の明らかな示唆は、ドイツとヨーロッパ自体の心臓部において、国際ナチスが生き残り、健全であると言う事で、以下に目撃される様に、アデナウアー政権に対する、ナウマンのクーデターに関する、英国の公式な報告の中で協力証言される点で:

iii) その長期的な目的は、ドイツを非-産工業化するためのモーゲンサウ計画を、成功的に脱線させる短期的な目的を通して、アメリカを孤立化させる事で、⁵ そしてその後、意図的に造られた戦争、経済危機、そして中東の不安定化を通したその「ドル外交」の、益々増大する孤立化へと、米国を操作する事で、⁶ その間、同時に、ドイツに導かれたヨーロッパ連邦が、その経済的な貿易を東(中露)へと転換する事で;⁷

iv) これが一度起こると米国は、益々「一極独裁的な態度」に益々頼る様に強要される事が、その回覧書によって正確に予測され、そしてこれが一度起こると、アメリカが好戦的な国家に成り、ヨーロッパの国々はその軍事的な冒険に参加する義務は無いので、大西洋連合(NATO)の条約は空洞化され;⁸

v) この全ては、秘密裡の作戦と - アメリカを含む - 産工業と政府における延長的な接触のネットワーク(人脈)を通して達成され、⁹ そのネットワークは、1944年7月の、ヒトラーに対する「爆弾(暗殺)計画」において、「国家反逆罪で処刑された」人材を含むとその回覧書ははっきりと明言し、その計画が、連合軍を騙すための、意図的なフォルス・フラッグ(偽旗)の出来事の策略で、ナチスの高官達を「死亡した」とする事によって更なる連合軍による調査から守る(結局の処、人は、死亡した人達を調査しないので)、または同じ目的のためにナチスのヒエラルキー(命令系統)によって利用された危機の好機のどちらかであると言う、息を奪うような主張で;¹⁰

2)ドイツに導かれたヨーロッパ連邦の、マドリッド回覧書の明言された目的は、実際に、第一次世界大戦の前と間の、ドイツの軍事的、政治的、そして金融的なエリートのメンバー達、バーンハルディ将軍と、Reichskanzler (ライヒ/帝国のカウンセラー)セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェグから、第二次世界大戦後の、2人の西ドイツの首相達、アデナウアーからヘルムット・コールまで、ゲルハルト・ショローダーからアンゲラ・メルケルまで、一貫的な目的です。この本の次の部分の主な題材に成る、ナチスと、ヨーロピアン・ユニオンのための彼等自身の明言と計画を、私達が未だ検証していない間、此処までに明らかなのはマドリッド回覧書がこのヴィジョン(先見性/計画)の正確性を反映している事で;

a) 私達が着目した様に、1943年に始まり1945年の全体的な計画を含んで、その戦争の正に終わりまで続く、ナチスの特定の書類は、その様なドイツに導かれたヨーロピアン・ユニオン(i.e. 中央集権)を主張します。加えて、私達が着目した様に、その1945年の全体的な計画は、この本の次の部分において見られる様に、政治的な連邦、経済的な統合においてこれを綴り出し、法律と(司法)管轄区の融合でした。その統合は最終的に、ヨーロッパのロシアを、その抱擁の中に含みました(i.e. 大西洋からウラジオストック/太平洋まで)。¹¹

b) それらの戦時中のナチスの書類はまた、西洋の権力(連合軍)に対する心理的な戦争の政策も主張し、そして私達が以前のページの中で示唆したのは、その責任を英国政府がはっきりと国際ナチスの足元に置いた、アデナウアー政府に対するナウマンのクーデターの試みは、その様な作戦(フォルス・フラッグ)の一つだったのは、その作戦が、それ自体のナチスと親-ナチスの同情者達は言うまでも無く、アデナウアー政府を(穏健な)中道派として見えるようにしたためです。

3)最後に、それを急進化(過激化)する方法による、イスラムの、相互関連している企業的、そしてカルテル的に推進された軍事的、そして政治的な操作のパターンを私達は目撃し、その地域における英国と米国の関心を不安定化するための、中東の不安定化におけるその利用のための(イスラム教の)兵器化を私達は観測しました。その結果は、再び、マドリッド回覧書によって予測されたものと正に同だったのは、ワシントンが益々、その地域において強引に成らなければならなかった間、それが益々、孤立化したためです。ドイツの原子力「カルテル」の場合、ドイツの原子力産業は、その歴史的な根源において I.G. ファーベン社(財閥)の子会社の構成要素に大々的に構成され、全ては統一的に働いていて、ファーベン社は、その名義においては公式に死んだかもしれませんが、名前においてのみであるとその点は示唆します。急進的なイスラムに対するドイツの政策の一貫的な関連性、そして皇帝の時代からのジハードのその推進と、第二次世界大戦から、モサデグとシャーの転覆の両方を通した、イランにおける政府の変更に絶えるその一貫的な能力、その他の急進的でイスラム的なグループへの、知られているナチスの関係が与えられると、¹² 「対テロ戦争」は、国際ナチスに対する戦争のための便利な隠れ蓑かも知れないとさえ示唆され、アメリカと彼女の同盟国が、それらの国民に対して売り込む事において多大な難しさを持つものです。

この再検証を手に取り、そして多くのヨーロッパの人々が不平を言う、それ(ヨーピアン・ユニオンの官僚制度)の中のファシズムの顔が、単なる一般大衆の不満なのか、または現実における何らかの度合に根源しているかを見るために、ヨーロピアン・ユニオンのためのナチスの計画を、より詳細に検証する時が来ました。
_____
1 Christopher Storey, The European Union Collective, Enemy of its Member States: A Study in
Russian and German Strategy to complete Lenin’s World Revolution (London and New York:
Edward Harle, 2002), p. 147.
2 p. 9. All page references in this chapter are to previous pages of this book.
3 pp. 11-12.
4 pp. 17-18.
5 p. 19.
6 pp. 25-26.
7 p. 27.
8 pp. 28-29.
9 pp. 16-17.
10 pp. 30-31.
11 pp. 62, 64-65.
12 See my Nazi International, pp. .


PART TWO:
第二部:
EUROPE FROM THE ATLANTIC TO THE URALS: CARTELS, CURRENCY, AND NAZIS
大西洋からウラル山脈までのヨーロッパ:カルテル、通貨、そしてナチス


「西洋(英米)の権力に対処する、アデナウアー博士のタイムテーブル(予定)の全体が、『ボンにおける外務省と、ドイツの主要な新聞の、彼等の元々のナチスの同僚達に、マドリッドとブエノス・アイレスから、定期的に指令を与えるそれらの Haushofer-リーベントロップの無責任な弟子達によって、慎重に準備されていたと言う、否定する事が不可能な証拠を供給している素材が大量にあります。」
- T.H. テッテンス
ドイツはクレムリンと共に共謀する(1953年)
23-24ページ。

5. Monopolium ab Chao: Buried Bullion, Treasure Trusts, Currency Cartels, and Molecule
Monopolies
5.混沌からの独占:埋蔵されたブリオン(延べ棒)、財宝の信託、通貨カルテル、そして分子独占


「ヨーロッパのための、ナチスの戦後の経済的な計画と、現在のヨーロピアン・ユニオンの間のあらゆる類似性を指摘する事は、馬鹿にされ、悪口を言われる危険を犯す事です。」
- アダム・リーボア¹

「フランス-ドイツの軸が、そのコミュニティーで、そのヨーロピアン委員会のその他の会員達の役割は、フランスとドイツの指導者達が行いたいと望む事に対して儀式的な祝福を与える事です。」
- バーナード・コノリー²

「そのカルテルは麻薬で、その信用は不死の妙薬です。」
- ヒャルマー・シャクト³

「一言で言うと、『銀行家達』を語る事は、愚かです。」
- ヒャルマー・シャクト⁴

1929年において、多少、平凡でしたが、少々娯楽的で、そして高度に重要なスリラーの小説が、少々注目すべき、そして有力な人物によって、ペンネームで出版され、特定の内輪におけるその人物の顕著さはよく知られていましたが、その悪名は、その内輪の外では、殆ど知られていませんでした。当時も今も、それらの内輪の外で一般大衆に対して彼の名前を出すと、それを知っている人も、何故彼の小説が、当時から私達自身の現在に至るまでの国際的で金融的な権力政治(闘争)への鍵の一見であると理解する人も、あまりいません。彼の専門職の内輪の外では、彼は殆ど知られていませんでしたが、しかしながら、彼が警戒して、彼の小説 - 錬金術殺人 - をペンネーム、ピーター・オールドフィールドの名の下で出版したのは、その中に、それを観測するために彼が位置していた、少々特別に良い観測の土台にいた彼の度量において、彼が正に彼の目の前で形成しているものを、疑う余地無く観測し、彼が詳細したためです。

A. Prophecy from the Pages of a Novel
A. 小説のページからの預言
1. The Prophecy Itself
1.その預言自体


それは、1920年代の後期に設定されていますが、「オールドフィールドの」小説は、1970年代からの典型的なロバート・ルドルムのスパイ-スリラーを思い起こさせます。端的に、フランスからスイスに列車で旅をしている、ある金持ちの男が殺害されます。その金持ちの男には一人の娘がいて、彼女に対して彼は、富の遺産を残しただけでなく、その小説の中盤に向かって、その殺害された金持ちの男が、彼の娘に宛てた、長文の手紙の証言(遺言)に詳細に描写されたヴィジョンを残しました。私達は、正にその小説の中に起こる文章を、此処において全面的に引用します:

「私の最愛成る娘へ、」とそれは始まり、「お前は、もし私が、今の私の人生の目標を達成する事が出来る前に、私に死が訪れた時にだけ、この手紙を受け取るだろう。それは、お前が大きな犠牲を払うお願いを含むが、私が信じるに、私達のお互いへの愛はとても大きいので、私の仕事を完結するために必要に成るであろう、私の資産全体の半分の価値までのあらゆる量を、お前は躊躇せずにつぎ込むだろう。

「私は、この人生において、永続的な善の様なものを、私が達成する事を望んだ。推進する事において私が原動力的だった会社の幾つかは、産出の効果的な単位と証明され、そしてそれらの島々において産工業的な状況を改善する手助けに成るだろう。だが私は、これよりも良い目的のために私が使いたい大きな富と共に、私は祝福された。以下にあるのが、私の計画だ。

「私達の世代の問題は戦争を廃止する事で、もしそうする事に私達が成功しないならば、戦争が私達の文明を破壊してしまう可能性が高いためだ。だが、国々は、私達がそれらから恐怖を排除した時にだけ、争いの平和的な解決策を求め、そしてそれらの武器を手放すだろう。野蛮人達は、一貫的な恐怖の人生を生き;近代国家はその市民達に、それまでに一度も得られていなかった、お互いとのそれらの扱いにおける安全の感覚を与えた。国家間の相互関係においてもそれは同じだろうか?私達の戦争の経験は、私達にそれを許すためには、鮮明過ぎる。科学の進歩が、破壊のための人の力を多大に増大させ、そして成り行きにおいて、破壊される(殺される)事に対する人の恐怖を増大させたためだ。

「2、3カ月前に、貴族院(上院議会)において、(毒)ガス戦争の幾らかの詳細がハルスブリー卿によって与えられ、彼は戦争事務局によって出版された公式なマニュアル(説明書)から引用した。化学者達は、その「マニュアル」に含まれたものよりも多くを知っているが、それらの(マニュアルの)詳細でさえ、先の戦争(第一次世界大戦)は、今日行われる事が出来る戦争(第二次世界大戦)に比較されると、子供の戯れであると証明するのに十分であろう。ハルスブリー卿は、ピカデリー・サーカス(ロンドン)に落とされた一つの爆弾が、リージェント・パークとテムズ川の間の全ての生命を破壊する事が出来ると述べた。40トンのジフェニルクロルアルシン(嘔吐剤)は、チョーク・ファーム、クラップハム、そしてロンドン埠頭の間にひかれた線の三角形の形状の中の全てのものを殺すだろう。それらの新たなガスは、液体の形状で運ばれる事が可能で、そして高い爆発物の助けと共に細かい塵へと爆発させられる事が可能で;これが意味するのは、頑丈で重い入れ物が必用では無い事で、結果的に、飛行士の仕事は大いに単純化された事だ。それらのガスは、激しく急性な苦しみを起こさせ、人々は、発狂において彼等のガスマスクを外し、そして有毒な空気の中で呼吸をする。そして思い出さなければならないのは、毎年、ほぼ毎月、破壊の方法が開発され、完璧化されている事だ。

「この脅威を目の前にして、対応出来るものは何も無いのだろうか?

最も高い権威によって推薦された一つの方法があり - 国際連盟で - 数年前にこの問題の危険性に気付き、それを研究するために、化学者達の委員会を任命したものだ。それは、国際的で化学的な複合体を確立するための提案で、それらの産工業の方向性における国際的な要素は、一つの国が、その他全ての国々に対して、その権力を確立するために、新たな発見を使用する危険性を減少させるためだ。

「私が信じるに、私はその連盟の化学的な専門家達の推薦を改善した。多くの国々における長く慎重な調査 - 私の友人であり、秘書である、キャンベル氏の助けと献身が無ければ不可能だった調査の後 - 私は今、私の計画を詳細に立てた。以下は大まかな概要だが - 彼がお前に全ての情報を与えるだろう。

「1.私の代理が、それらの役員会において選出されるために、世界の代表的で化学的な複合体において、十分な数の株式を買う事を、私は提案する。英国とドイツの化学産業は、例えば、既に大規模で国家的な提携において統一され、そして類似した関心がその他の国々において形成されている。影響力を確保するために十分な株式を買うのは簡単過ぎる事では無いが、私は長い話し合いに入り、そして私は、私が成功するであろうと考える。人々は私に、それらを何のために欲しいのかを尋ねるが、私は未だ、私の手の内を明かす事は望まない。私は恐らく、私が必要な全てを買うために十分な資金を持っていないかも知れないが、私と同様に、資金は持っているが、そのための使い道が無い、私の昔からのアメリカの事業の友人、ジョン・ガーサイトに関心を持たせるつもりだ。

「2.それらの株式を得る事に私が成功すれば、私は主要な勢力 - 英国、フランス、ドイツ、そしてイタリアに対して - そして恐らくまた、より小さい勢力にもまた、それら(株式)を同等に分配するだろう。アメリカと日本に関しては、此処で私はガーサイトの補佐に頼らなければならないだろう。

「3.故に株主に成るそれぞれの国々は、その他の国家の領土における関心のそれぞれの役員会の代理を任命する権利を持つだろう。故に一人のアメリカ人、日本人、フランス人、ドイツ人等々の代理が私達自身の提携された化学産業の役員会にはいるが、私達も、順を追って、アメリカ、日本、フランス、そしてドイツの関心において、私達の代理を有するだろう。

「4.更に加えて、私は、私達の工場において、外国人の技術開発者達が何人も働き、そして私達は、外国の工場において、英国の技術開発者達が働く事を提案する。私達の近隣諸国が何を行っているかの完全な知識を得るにおいて、恐怖を排除し、国際連盟の契約の第8条、『戦争の様な目的に対して応用される事の出来る、私達の武器弾薬と産工業についての、完全で正直な情報を交換する事』⁵ の下で、義務を行う最大の可能性を私は見つける。

その殺害された産工業家の、彼の娘への遺書の実質的な部分は其処で終わります。

2. The Pattern in the Prophecy
2.その預言におけるパターン


人は、この書簡体の熱のこもった演説について、奇妙な物事の幾つかに気付くでしょう:

1)最初に、その著者の推薦は、国際連盟によって推薦されたとされるものに基づいており、それは、それによって彼が開発/発展を観測する事が可能で、そしてそれらに対して彼の個人的な資産を通して対応出来る、土台として機能し;

2)それらの「国際連盟の認可された推薦」は、国際的で化学的な「複合体」の確立を主張する事、または更にもっと詳細に、そして端的に、その圧倒的で国際的な延長と権力が、常に不規則な国家が戦争の道に進み、そして科学技術的な進歩を悪用する事を妨げる、独占とカルテル(財閥)化で;

3)故に、カルテル化(または私達がこの章の後で、それがそう呼ばれている事を見る様に「Rehenisch corporatism」)は、国際的、そして国内的な、政治的、そして経済的な秩序を確立し、そして保つための主要な方法に成り;

4)この行程の、その小説の概要から明らかな様に、しかしながら、その集中は殆ど全体的にヨーロッパで、ヨーロッパの主要で大きな勢力 - フランス、イタリア、英国、そして勿論、ドイツの関心で - 最もはっきりとその小説の注目の中心の国々で、それはその様なカルテルの創造のその主張を支えるために、英国とドイツの化学産業は既に、その様な「提携」、またはカルテルにおいて結合していると記述します。故に、ヨーロッパを圧倒し、そして故に戦争を終わらせるための方法として、カルテル化が実際に主張され;

5)その様なカルテルの方法によってまた主張されているものは、一つの国において成された、または知られたあらゆる進歩は、その様なカルテルの国際的な延長によって、直ぐに知られる様に成り、そして他国にも利用可能に成ります。またはもっとはっきりと、そして再び詳細に言うと、カルテルが、科学技術の譲渡(移動)の方法として機能する事が可能で、そして機能し;そして最後に、

6)その小説は、示唆された様に、権力の特定の内輪においてよく知られた男によって書かれ、故に「権力のエリート」がその下で機能すると、多くの人達が推測するパターンに当てはまる、または一致し、つまり、彼等が何らかの形状、または方法で、頻繁にフィクション(架空の話し)の隠れ蓑の中に、彼等の計画を意図的に明かす事です。

ですから、現実において「ピーター・オールドフィールド」とは誰だったのでしょう?

その答えは、ハンガリー人の著者、アダム・リーボアの、国際決済銀行(the Bank of International Settlements/BIS)の類を見ない研究:世界を運営する秘密の銀行の薄暗い歴史の中に見つけられます。其処で私達は、「ピーター・オールドフィールド」が、スウェーデンの銀行家、パー・ヤコブセン(1894-1963年)以外の何ものでもない事を発見し、彼は、以下であったと私達は更に教えられ、

「・・・国際的な金融と外交の彼の知識を融合させ、2冊のスリラーを共同出筆しました。ある外交官の死は、国際連盟において設定され、8カ国語において出版され、そして映画の撮影権利はドイツの会社に売られました。錬金術殺人は、特に I.G. ファーベンの代表取締役、ハーマン・シュミッツが、その(国際決済銀行/BIS の)役員会に参加した時に、ぞっとする程、先見的でした。その本のストーリーライン(シナリオ)は、毒ガスを産出している化学的な企業に集中しました。」⁷

「ピーター・オールドフィールド、」別名、スウェーデンの銀行家、パー・ヤコブセン、1894-1963年
1 PJ

ヤコブセンが、しかしながら、先見的では無かったのは、1929年において出版された彼の小説が、1925年における Bayer 社、Hoechst 社、そして BASF (Bayrische Analin-und Soda-Fabrik)社のドイツの複合体によるファーベン・カルテル(財閥)の設立に続いたためで、その複合体は、今ではよく知られている様に、英国の帝国化学社、フランスの Kuhlmann の化学企業、そしてライセンシングと特許交換の同意の一連において、スタンダード・オイル社と、様々なその他の強力なアメリカの企業さえ飲み込み、それ以前、またはそれ以後の世界の歴史において目撃された、恐らく最も強力な企業に成ったためです。

ヤコブセンがまた、錬金術殺人の中へと彼自身を描いたのは、彼がその報告書を書いている、金融的な助言者として、国際決済銀行に参加する前に、1920年から1928年まで、国際連盟のための金融的な助言者として彼が奉仕したためでした。加えて、ヤコブセンは、「ヨーロピアン連邦と超国家主義」の主張者でした。⁸ 故に、ヨーロピアン・ユニオン(EU)の背後のエリート主義者の権力の構造の迷路に人がまず入るのは、国際決済銀行(BIS)を通ってで、それはその様な構造のタペストリー(つづれ織り/一連)でしかなく、そしてあらゆる認識可能な感覚において、民族国家ではありません。⁹

B. The Bank of International Settlements: A Sovereign Bank without Borders and Above Any Law
B. 国際決済銀行(BIS):国境無くあらゆる法を超えた、主権的な銀行
1. Prelude: Hjalmar Schacht
1.序章:ヒャルマー・シャクト
a. Reparations, Hyper-Inflation, and the Rentenmark
a. 賠償金、ハイパー-インフレ、そしてレンテンマルク


もし人が、第二次世界大戦のための原因をリハーサル(前提)している典型的な大学の歴史の教科書を読むと、最も頻繁に、そして一本調子で教えられるのは、ドイツに対するヴェルサイユ条約の(戦争)賠償金の厳しさと、罪悪感の条約で、そして益々価値が無く成って行ったライヒ・マルクの紙幣と共に、支払を行い、借金を返済するために、印刷機が起動させられ続けたために結果した、ワイマー共和国におけるハイパー・インフレーションです。¹⁰ ですがその様な教科書の衛生化された歴史を通って人が忍び足する際に、ドイツが一体どの様にして、ライヒ・マルクを再-安定化させたのかの重要な問いを、殆どの人達は尋ねません。ナチスが、その通貨を国有化し、借金の無い通貨を発行する事によって、この全てをどうにかして、彼等自身で行ったと言う印象が、通常残されます。その逸話が、それ自体において大体の処、真実ですが、それが十分な処まで説明しないのは、その通貨が、ナチスが権力に就く前に、ドイツのライヒ・マルクの「熟練の魔術師」である、ヒャルマー・ホレイス・グリーリー・シャクトと言う、一人の男の努力によって大々的に再-安定化されたためです。正にどの様にして彼がそれに対処したのかには、私達自身の時代まで、金融的、そして産工業的なエリート達によって使用された原則のための幾つかの重要な授業を含みます。

1920年代の初期に成ると、戦争賠償金によってもたらされた不足である、ドイツにおける流動性の不足を補うために、印刷機が起動させられ続けたために、ワイマー・ドイツはハイパー-インフレーションの掌握の中にありました。企業、または地方政府によって頻繁に発行された個人的な通貨が、通常のペーパー・マネー(紙幣)が国外へと逃避していたので、支払う事の出来なかった、借金返済の支払いの方法のストップ・ギャップ(臨時対応)として現れました。¹¹ その結果は、勿論、ハイパー-インフレーションで、ドイツのマネー(通貨)の全ての不安定化でした。この状況に踏み込んだのは、ヘルフェリックと言う名のドイツの政治家で、彼はペーパー・マネーでは無く物々交換(1トンの石炭、ポタシウムの100単位)において支払い可能な債券を発行する事を提案しました。¹² ヘルフェリックはこれを提案しただけでなく、それらの債券の上で商品に後ろ楯された通貨を発行する事を更に提案したと、その「熟練した魔術師(シャクト)」は述べます。¹³

政治的な論議の多くの後、レンテン・マルクと呼ばれるものの創造と共に妥協が合意され、その通貨は法律において1ゴールド・マルクに対して同等でしたが、「レンテン・マルクにおけるあらゆる与えられた合計が、担保債券における同等の合計と何時でも交換可能な様に、ドイツの不動産の全体の上の注意的な担保によって保障されました。」¹⁴ 当時彼がライヒ(帝国)銀行の総裁だったので、「実用的な方法においてその通貨の改善/健全化を行う」責任はシャクトに与えられました。¹⁵ 勿論、Reichstag (帝国議会)が通貨再建法を論議した間に、シャクトが彼の窓際に静かに座っていたと言うあらゆるアイデアは馬鹿馬鹿しく、そして人は、彼が、彼の力が及ぶ限り出来るだけ、その行程を操作したと、妥当に納得する事が出来るでしょう。その結果は、更にもっと安定的な通貨で、保証されている担保の価値の中で上下動するもので、ライヒ・マルクに対する激しい通貨の投機を終わらせ、ハイパー-インフレーションを終わらせるのに丁度十分な安定性と共に、必要だった呼吸の合間をシャクトに与えました。

この時点において、レンテン・マルクの政策の一掃的な示唆を考えるために一時停止が必用なのは、その長規定な示唆が深遠で、その他の金融的なオリガーク(オリハルヒ/財閥によって後に利用された金融的な機能の方法の様に現れるためで:

1)それは近代において、ゴールド以外の商品と共に、ペーパー・マネーを「後ろ楯する」アイデアの最初の現れで、この場合において、現物の不動産で;

2)この政策(策略)は、ロスチャイルド家が様々な「世界自然保護会議」において、世界の「自然区域」の上に基づいた、世界的な通貨のためのその様な計画を後ろ楯した様に見られるので、歴史におけるもっと後に現れました。この策略はまた、1990年代に現れ始めた、「担保に後ろ楯された株式証券の束」¹⁶ において再びその現れを成した様で、そしてそれは、2000年代中期のベイルアウト(銀行救済)のメルトダウンに繋がり;

3)レンテン・マルク計画は、その様なものとして、故にドイツ自体の上の担保化で、効能的に - 国営の Deutschereichsbahn とその鉄道の数千マイルである - その資産(不動産)が、個人的な関心(企業/財閥)によって操作される事を許しました。熱心な国家主義者であるシャクトにとって、これは容認可能な事では無く、そしてその政策は彼によって、一時的な対処法として見解され;

4)本当の資産(現物資産)によって保障化された通貨と債券発行を体現する事によって、人が目撃するのは、私が以前の著書の中で主張したアイデアの最も早期で最初の現れで、つまり、外宇宙自体で、そして其処において見つけられたものが何であれ、1947年においてハリー S. トゥルーマン(大統領)によって確立された金融の隠されたシステムの秘密裡の担保化の一部を形成するかも知れないと言う事です。¹⁷

シャクトはその後、この政策に続いて、その本質において唯一「ヴェネチア(ヴェニス)的」と表現可能なものを行い、イングランド銀行における彼の反対相手、モンターギュ・ノーマンとの対話の中で彼が述べた息を奪うような政策です。彼の回顧録(自伝)の中でこの対話を思い出し、シャクトは彼がノーマンに伝えた事を記録します:

「私の計画は、クレジット(信用貸し)を得る事だけに留まりません。私は、ライヒ銀行に加えて、ゴールドに全体的に基づいた、第二のクレジット銀行を設立するつもりです。この銀行は為替手形に対してのみローン(貸し出し)を行い、輸出貿易を再開出来るそれらのドイツの産工業に対して優先的な補佐を与えます。論議のための仮定として、私はこの銀行を Goldiskontbank (Gold Discount Bank)と呼びましょう。」¹⁸

その「ヴェニス的な方法」は此処において、シャクトの政策を人が少々展開(説明)しなければ直ぐには理解されないかも知れません。彼の原則的な問題は、思い出されるでしょうが、ドイツの経済において十分に安定的な流動性が無かったために、そして故にドイツの輸出が減少し、ドイツの産工業が閉鎖され、それが高度な失業に結果した事でした。シャクトが効果的に明言しているのは、産工業的な工場を再開し(そして新たな工場を開くため)、そして再び安定的な通貨を流通させるために、彼の Golddiskontbank (ゴールド値下げ銀行)に、商品のための注文を見せれば、その銀行がそれに対してローン(貸し出し)を行うと言う事でした。

ですがシャクトの「ヴェニス的な政策」が其処に留まらなかったのは、その銀行がそれから、その資本化に対して銀行券(banknotes/ペーパー・マネー)と、そしてそのローンが行われる為替手形(bills of exchange/ペーパー・マネー)を発行する事を彼がまたノーマンに伝え、そしてこの通貨(ペーパー・マネー)と発行されたローン(ペーパー・マネー)を英国のスターリング・ポンドにおいてデノミネート(ポンド建て)する事によってそうすると彼は提案しました!¹⁹ ノーマンが、勿論、異例的なアイデアと共に印象付けられたのは、それが実質的に、多かれ少なかれ、それによって一つの政府(英国)が、もう一つの政府(ドイツ)に、それ自体の通貨においてデノミネートされた債券と銀行券の発行を許す政策だったためです。²⁰ ノーマンがこのアイデアを長く考えられる前に、シャクトはそのイングランド銀行の総裁に「グローバリズムの始まり」をアピール(主張)し、こう説明しました:

「最初に見た時に、そのアイデアは異例的であると貴方は受け止めるかも知れません。ですがもし輸出企業が事業を行うにおいて外国の通貨を使用するなら、何故私はそれら(輸出企業)との私の拘わりにおいて、外国の通貨を使用するべきでは無いのでしょう?」

ノーマンがこれを考える間、再び沈黙が訪れました。

「そして、考えてみて下さい、総裁、」と私は続け、「英国の世界帝国とドイツの間の経済的な協力のために、その様な政策がもたらす将来性/可能性を。もし私達がヨーロッパの平和を確立する事を望むなら、私達は単なる(国際)会議の決定と(政府)議会的な宣言によって課せられた制限から、私達自身を解放しなければなりません。経済的に、ヨーロッパの国々は、もっと緊密にリンクされなければなりません。どうにかして、何処かで、私達は実用的な開始を行わなければなりません。」

ノーマンは、理解と関心の、目に見える増大と共に聞きました。

「貴方は其処に幾つかのとても注目すべきアイデアを有します、総裁(シャクト)。」彼(ノーマン)は私の計画を好意的に取り始め;私達は追加的な問いと問題の多くの全体を論議しました。²¹

シャクトの計画が、後のヨーロッパの為替レート(比率)メカニズムと、金融的な統一(またはユーロ・ゾーン)自体の様に、通貨の政策の上にあった事に着目して下さい。

ノーマンは慌てさせられず、しかしながら、彼がシャクトの提案を考える間、その日は一時中断を求めました。その Reichsbank (ドイツ帝国銀行)の総裁が次の日に戻った時、ノーマンは彼が、大規模なフランスの Banque de Paris et des Pays-Bas (パリと Pays-Bas 銀行)からの連絡を受け、それは、ドイツの Ruhr 峡谷の巨大な産工業の複合体の地元である、ラインランド(地方)における地元のドイツの銀行との連動において、ライヒ・マルクから独立的なそれ自体の銀行券を発行している地元のラインランドの中央銀行を形成しようと試みている、とシャクトに伝えました。フランスの動機が何であったのかを理解する事が容易なのは、フランスが、ラインランドとドイツの産工業の心臓部に対して、彼等(フランス)自体の操作を始める事によってドイツの通貨の再-安定化を試みていたためです。ドイツとフランスの間の、この金融的で通貨的な戦争のテーマは、私達が目撃する様に、戦後の状況の一貫的な特徴です。

ドイツの金融的な問題に対する政治的な影響力と操作の方法を得ようとするこのフランスの試みについての、ノーマンへのシャクトの返答が鮮明だったのは、短命だったストリースマン政権のドイツ政府は、この計画にその同意を与えましたが、その Reichsbank (帝国銀行)が、「ドイツ・ライヒ内の通貨の問題においてそれ自体の最高権威(i.e. 通貨発行権)を制限する事)を求めるあらゆる政策に反対すると、シャクトがノーマンに対してはっきりと明確にしたためです。²² ノーマンはフランスの政策から、英国の銀行を撤退させ、その間、シャクトの Golddiskontbank (ゴールド値下げ銀行)の提案を意欲的に後押ししました。²³ そのフランスの政策は故に Reichsbank の岩の上で壊れ、ドイツの通貨を圧倒するためのフランスの類似した試みが、同等に抜け目の無い Bundesbank (ブンデシュ銀行)の総裁の反対によって、そのフランスの政策だけでなく、彼自身の政府の政策が終わりへともたらされた時に、もっと後に繰り返される事を私達が見るものの前例でした。故に、1924年3月13日に、シャクトの Golddiskontbank は設立へと辿り着き、そして、シャクト自身の自認によると、それは、「通貨の管理とドイツの輸出の拡大のために・・・1945年におけるドイツの崩壊直前まで」続きました。²⁴

b. The Dawes and Young Plans: Schacht’s Idea for the Bank of International Settlements
b. ダウズとヤングの計画:国際決済銀行のためのシャクトのアイデア
(1) Hyper-Inflation, the Reichsbank’s Elimination of Currency Speculation, and the Dawes Plan
(1)ハイパー-インフレ、ライヒ・バンク(帝国銀行)の通貨投機の排除と、ダウズの計画


しかしながら、シャクトが多忙な人だったのは、対処されなければならないドイツの戦争賠償金のその他の問題があったためでした。そして此処においてその他の場と同様に、彼とモンターギュ・ノーマンの政策は、息を奪うもの以外の何ものでもありません。ドイツのハイパー-インフレーション(超-物価上昇)の状況の下で個人的な通貨の投機家達(為替比率取引の丁半博徒達)が、正に文字通り大儲けをし、つまり、Reichsmark (帝国マルク)と、外資準備金の蓄え(内部保留)でした。此処で、シャクトは、異例的な解決策のための彼の能力だけでなく、ルールを破るため、中央銀行のルールブックさえを破るための能力を見せました:

「通貨において、一度、一般大衆が信用を失うと、値引きの最も高い率(マイナス金利)でさえ、投機家達を怖がらせます。もし、通貨の価値が、一つの月から次の月までに、5、10、15パーセント下落するなら、人が年度毎に10、20、30パーセント(の利率)を支払わなければならないのは問題ではありません。故に、より高い金利と共に、為替取引の投機家達を攻撃する事には善(効果)が全く無く;私達は資金の供給(投資)に攻撃するべきでした。ライヒ(帝国)銀行の側として、私達は、実業コミュニティーに対するクレジット(信用貸し)の完全な停止の判断を行いました。その様な停止が、最もぎこちなく(気まずい)のは言うまでも無く、それは罪のある人と同時に、罪の無い人にも打撃すると言う事において、特定の量の不公平をそれが含んでいた事に、私達は気付いていました。私達はその停止が長く続かず、その為替取引の状況が、可能な限り最短で、通常に戻るだろうと言う考えと共に、私達自身を安堵(納得)させました。

「その機械性を起動へともたらすために、私達はその後に、政治的な世界において頻繁にコピーされた手法を用いりました。1924年4月5日の土曜日に、株式債券市場が閉じた後に、私達は4月7日の月曜日から、ライヒ銀行が、外貨準備金における蓄えの総合を増加させず、そして故に更なる(外貨)紙幣を受け入れないと発表しました。それは大衆に、その発表と共に馴染ませるための1日半を与えました。

この一歩は、中央銀行に関する伝統的なルールの全てに対する直接の矛盾においてとられました。それはまた、恐らく、経済的な歴史において、中央銀行がクレジット(信用貸し)を与える事を拒否した、最初の時でした。」²⁵

この息を奪う様な対処を - もしある意味相応しくないかも知れませんが - 少々、より的確で類推的な景色(見解)に入れてみると、それは米国の連邦準備銀行(i.e. 個人企業)が、2008年のベイルアウト(銀行救済)の直後において行われたその「量的緩和」を突然反転させ、そして突然に、それはこれ以上、ドルを除いて、借金の支払いとして、その準備金において、あらゆる外貨を受け入れないと発表する事に類似していました。その結果は予測可能で:「公表された締め切り」の前に、投機家達が外貨建てされた債券(e.g. 国債)と通貨をドルと両替するために投げ売りするので、連邦準備銀行は正にそれら(外貨建ての債券や通貨)の中で、突然と溢れさせられてしまうためです。

これが正に、57日間の短い期間に、1924年6月3日までに起こった事で、ライヒ銀行は、「それに対して、外貨取引紙幣(外貨建ての債券や通貨)において、合計8億マルク以上を回復しました。」²⁶ 投機家達と、ライヒ・マルクの安定性に対する彼等の有害な効果は、ダウズ計画が効果的に成る前に、全て排除されました。

(2) The Young Plan, Schacht’s “Supply Side” Scheme, and the Bank for International Settlements
(2)ヤングの計画、シャクトの「供給側」の策略、そして国際決済銀行


アメリカの金融資本家達によって導かれた西洋(英米)の連合国は、賠償金の支払いを確かにするために、ドイツに対してダウズ計画を強要しました。この計画の追加条項として、そのライヒ銀行はその役員会の上に、ドイツ人達に加えて同等の人数の連合国の代理人達の席を設ける事を強要されました。²⁷ 加えて、ダウズ委員会は、その任務が「賠償金の支払いが定時的に支払われる事を確かにするため」²⁸ である、「頼りがいのある秘密裡のエージェント(スパイ)達を、ライヒ銀行とその他のドイツの実業的な組織に送り込みました。」ヴェルサイユ条約とダウズ計画の条項の下で、ドイツは「国外の通貨(ドルなど)において年間、20億マルク強」を支払わなければならず」²⁹ その額は、通貨の投機家達に対するシャクトの異例的な戦略をもってしても、膨大な国外からの借り入れ無しで、ドイツは行える位置に全くおらず、故にドイツの借金の重荷を増大させ、そしてその行程においてこの借金の投資家/投機家達を儲けさせました。³⁰フーヴァー・インスティチュートの元会員で学者のアンソニー・サットンが記述した様に、

「1924年と1931年の間、ダウズ計画とヤング計画の下で、ドイツは連合国に対して、約360億マルクの賠償金を支払いました。同時にドイツは賠償金のために、国外から、主に米国において、約330億マルクを借り入れました。結果として、ドイツの連合国に対する金融的な賠償金の重荷は、ウォール街の金融的な機関によって発行されたドイツ国債に対する国外の購入者(投資家)達によって実際に運ばれ(支えられ) - 勿論、彼等(ウォール街/投資家達)にとって多大な儲けでした。そして、着目すべきは、それらの(金融)企業が、定期的に彼等の銀行家の帽子を取り、新たな帽子を被り「政治家達」に成る、同じ投資家達によって所有されていた事です。「政治家達」として彼等は、賠償金の「問題」を「解決」するために、ダウズとヤングの計画を形成しました。銀行家達として、彼等はそのローン(貸し出し)をフロート(変動為替相場に入れ)させました・・・

「それらの賠償金の委員会を形成した、ニュー・ヨークの国際的な銀行家(金融マフィア)達は誰だったのでしょう?

「1924年の米国からのダウズ計画の専門家達は、銀行家のチャールズ・ダウズと、ジェネラル・エレクトリック(GE/i.e. ロックフェラー)社の社長で、モーガン(i.e. ロスチャイルド)の代表だったオーウェン・ヤングでした。ダウズは、1924年において、専門家達の連合国委員会の議長でした。1929年には、モーガンのパートナーである代役の T.W. ラモントと、モーガンとの提携者で銀行家の T.N. パーキンスと共に、J.P. モーガン自身に補佐され、オーウェン・ヤングが、その専門家達の連合国委員会の議長に成りました。言葉を変えると、米国の代表達は純粋に、そして単純に・・・彼等自身の金銭上の優位性のために、金融的な計画を推薦するために、米国の権威を利用した、J.P. モーガン(ロスチャイルド)の代理達でした。」³¹

しかしながら、シャクトが、この政策の関係者として、そして正に彼自身、金融的-資本主義(i.e. 商業主義)の階級の一員として認める様に、賠償金のための連合国のエージェント、パーカー・ギルバートは、その賠償金の支払いが、「正当では無く、その国(ドイツ)は、彼女の借金を、正直な輸出の過剰(黒字)では無く、借り入れられたマネー(借金)で支払っている」と気づきました。その様な状況の下で、「ドイツが国外の通貨(外貨)で支払いを行う位置にいられなくなるのには、どれだけかかるだろうと言うのは、唯一、時間の問題」³²、またはその問題をもっと正直に言うと - 全ての行程において、コミッション(手数料)、フィーズ(手数料)、そしてインタレスト(利息/金利)をくすね取る - それらに対してドイツが返済する事の出来る、銀行家達が貸し出すためのマネーが無く成るのは時間の問題でした。その「金融的な資本」の解決策は、言い換えると、最終的にストレス(借金)の下で崩壊し、そして成り行き的に、その他の解決策が見つけられなければなりませんでした。その「解決策」は、言うなれば、1928-1929年のヤング計画の形状における「似非-供給側」の形状において、そしてその賠償金が正直に返済される事が出来るのは - 更なる借り入れと借金と共にでは無く - ドイツの産出の実際の拡張、故に輸出によってであると言う、シャクトの強調と共に訪れました。その様なものとして、連合国の様々なドイツの実質資産(不動産など)に対する「担保」と影響力は終わらなければならず:³³

「ドイツは現在、貧困化させられた国で、もう、他国にローン(貸し出し)をする事が出来ません。もし連合国が本当に、彼女(ドイツ)が彼女の賠償金の義務を支払う事を望むなら、彼等(連合国)は、発展途上の国々へのローンを許すべきで、そしてそれによって、その後者(発展途上の国々)が、ドイツにおいて彼等の産工業的な道具を購入出来る位置に入れるべきです。彼女が今までにした様に、ヨーロッパのその他の産工業的な国々(先進国)に対して、存在している世界市場において、ドイツに競争する事を許す事によって、便利(有益)な目的は何もありません。それらの領域におけるドイツの競争力は、世界平和の終わりと、そして戦争による解決の試みに貢献した主要な要素でした。その様な競争的な争いは避けられるべきで、またはその不満は少なくとも、全ての産工業的な国々(先進国)が、雇用と彼等の商品を売りさばくための機会を与えられるための、多くの新鮮な市場(後進国)を開く事を求める事によって減少させられます。全ての国々の増大された健全は、それによって平和が保たれ、未来の戦争が避けられる、原則的で経済的な原理です。」³⁴

言葉を変えると、シャクトの輸出-産出の「供給側」の計画の下で、産工業的な工場自体のドイツの輸出のために後進国の国々を発展させる事によって、連合国は、それ(ドイツ)を世界-輸出に推進された経済にする事によって、ドイツの経済を拡張しました。これの反対側は、勿論、もしドイツがそれ自体、産工業的な工場の主要な供給者(輸出国)に成るなら、するとドイツ自体の、既に存在している膨大な重工業が更に拡大される事でした。これにおいて、殆どの銀行家達が金融的な-資本(投資)だけを通した彼等の影響力を拡張する事において考えた間、シャクトはある高度に異例的な事を一人の中央銀行家に明かし、シャクトがその様な条件(投資)だけで考えたのではなく、産工業的な-資本化(工場の輸出)の条件でまた考えた事です。

これ等の活動の全てを調整するために、国際的な決済の新たなメカニズムが明らかに必要とされました。そして再び、異例的なアイデアを共にして来たのはシャクトで、それを彼は、実用的な効果へと彼のアイデアを行う何らかの実質的な方法を考え出したのかとシャクトに尋ねた、その委員会のアメリカ人の議長、オーウェン・ヤングに提案しました:

「もし私が、私の計画の現実化のための実質的な提案を提供出来ないなら、ヤングさん、私はこの全てを貴方に伝えているべきでは無いでしょう。私はヤング計画において、一方で、賠償金の支払いが分割され、そしてもう一方で、後進国の国々に対して、それらの自然資源を利用する方法を与え、それらの農業的な産出を増大させる方法を提供する、金融的な計画を行う事が信用される、銀行の共同出資のための全ての関係者のための責任を、貴方が取る事を提案します。この金融的な支援は - 特にドイツにおいて - それらの(後進国の)国々が、増大させられた産出のために必要な、産工業的な道具の全てを購入する事を可能にさせます。この種の銀行は、関心(関係)者達のコミュニティーに繋がり、それは順を追って、お互いの信頼と理解を台頭させ、そして故に平和を推進し、確かにする、敗戦国と戦勝国の間の金融的な協力を要求します。」³⁵

「経済的な関心(関係者達)のコミュニティー」を創造すれば、戦争が廃止されると言う、自信を持った資本主義-グローバリストの言語をシャクトが再び語り、シャクトの創造である、国際決済銀行(BIS)において最終的に務めたパー・ヤコブセンによって、彼の小説の中で推薦された提案と、正に同じ種類である事に着目して下さい。

ですが、シャクトのグローバリズムは - どれだけ彼がそれを切実に信じた、信じなかったは別にして - 常に(そして特に此処において)ドイツの国家的な関心の条件において根付いていたのは、彼の国際的な創造の効果が、ドイツの産工業的な工場の膨大な拡張によって、そしてその全体的な経済における、類似した大規模な輸出の拡張によって、賠償金を支払う方法だったためです。

一言で、シャクトは実際に、連合国に怪物(BIS)を創造する事を求め;その一部は既に存在していた、膨大な I.G. ファーベンのカルテル(財閥)でした。故に、シャクトの政策に対するドイツの産工業的なカルテルの反応が全く偶然的では無かったかも知れないのは - 膨大な Vereinigte Stahlwerke (統一鉄鋼)カルテルのフリッツ・タイセン - の様な産工業家達の見解において、シャクトの政策が、「米国において所有された巨大な担保のための、ドイツの現物資産の契約(保証)だったためです。」³⁶ 彼等の反応が同等に異例的だったのは、ドイツの企業が、国外(外資)のホールディング会社(親会社/株式会社)を通した「一時的な国外(外資)の所有の方法によって」、ヤング計画の条件を回避したためです。もしこれが、親しみがある様に聞こえるなら、それがそうであるためで、その生き残りと最終的なドイツの再建のために、何年も後に彼等の「戦略的な撤退」の一部として、ナチスによって応用された正に同じ方法であったためです。³⁷

全く異なった角度から見解すると、シャクトとドイツのカルテル主義者達は、最初に、アメリカのマネー(投資)の蛇口を開く事によって、そして第二に、そのマネーをドイツの商品のための市場を創造するための使用し、戦争賠償金の方法と共に、ヴェルサイユ条約において連合国の勢力が制限しようと試みた、正に産工業の工場の膨大な拡張に使用する事によって、連合国の勢力に対して、ワン-ツー・パンチを与えていました。シャクトの戦略が、言葉を変えると、そして彼自身のそれらの描写において、表面上の価値で受け取られるべきでは無いのは、それらが単純に、ワイマー・ドイツにおいて同時期に起こっていたその他の政策から分離される事が出来ないためで、つまり、その新たな銀行のための制定法を決定するために集まっていた連合国の勢力とドイツの代表達が、1929年にそのための計画が始まった、シャクトの「Bank of International Settlements (BIS/国際決済銀行)」から利益するファーベン社やタイセンの Vereinigte Stahlwerke 社の様な、膨大な信託(財閥カルテル(財閥の創造だったためです。³⁸ これは私達を、終に、国際決済銀行自体へともたらします。

左から右へ:1927年のニュー・ヨークにおけるライヒ銀行のヒャルマー・シャクト、ニュー・ヨーク連銀のベンジャミン・ストロング、イングランド銀行のモンターギュ・ノーマン、そしてフランス銀行のチャールズ・リスト
1 Lords-of-Finance

ヒャルマー・シャクト博士、左、とモンターギュ・ノーマン、右
2 0209BK1

アドルフ・ヒトラーとヒャルマー・シャクト博士
3 hitler schacht_0

2. The Ultimate Insider Trading Mechanism of the Day
2.本日の究極的なインサイダー取引のメカニズム
a. Its Sovereignty and Secrecy
a. その主権と秘密主義


国際決済銀行は、1930年1月30日に、英国、ドイツ、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、そして日本の政府が、その書類、「設立の道具(書類)」に署名した時に存在へと現れました。1930年2月27日に開行し、2,500スイス・フランの株式の塊において、出資(資金援助)していた政府の中央銀行のメンバー達に売られた、5億スイス・フランの元々の資本金(準備金)と共に、その金融的な生命(活動)を開始しました。³⁹ その「設立の道具」の第十条項は、中央(銀行)的であれ、そうでないにしろ、あらゆる銀行にとって、最も異例的な追加条項の一つを明言します:

「その銀行、その所有物と資産、そして全ての預金とそれに対して信頼されたその他全ての資金は、平和時も戦時中も、収用、接収、差し押さえ、没収のあらゆる方法から影響を受けず、ゴールド、または輸入の通貨の輸出、そしてあらゆるその他の類似した方法の禁止、または制限に影響されません。」⁴⁰

その中央銀行家達は、それぞれの中央銀行のための中央銀行を創造し、そして、効果的に、それをあらゆる法律、または政府の手の届かない処に置き;結果的に、国際決済銀行は、外交封印袋(外交的な特権)を含む、ソヴリン(主権)国家の地位が与えられ、そしてスイスのバーゼルに位置していますが、その建物は「不可侵」と考えられ、そしてスイスの権威(政府)は、それに入る前に許可を受け取らなければなりません(i.e. エリザベス女王が、シティー・オブ・ロンドンに入るのに、市長の許可がいるのと同じ/ヴァチカン市国やワシントン DC と同じく、国の中の独立区域/株式会社)。⁴¹ 加えて、その役人達と管理人達(i.e. 官僚達)の、「彼等の任務(公務)の遂行の間に行われた全ての行為は、生涯、スイスの法律の下で影響されず、」⁴² 彼等の公務が法律違反を必要とすると殆ど認めるに等しい規定です。

その銀行の中へと、スイスの権威が入る事が決して許されない事を確かにするためにそれは、最新の防火設備、掩蔽(えんぺい)壕、そして医療設備が準備されています。秘密主義と共に固執し、個人達は、彼等自身の個人的なメモを取る事は許されますが、そのあらゆる高レベルな会議の議事録も、その出席者達(i.e. 中央銀行の総裁達)のリストも存在しません。⁴³

以前の部分の中で見られた様に、シャクトはその銀行を、ドイツの産工業と輸出を拡張するための彼の政策の金融的な構成要素を供給する方法として提案し、それは、順を追って、ドイツの(戦争)賠償金を返済する方法でした。ですが、人がこの目的と、その条項化された活動、そして、加えてそれに対して禁止された活動を比較してみた時、とても異なった構図が浮上します。その銀行についての、実質的に唯一で、有名で、そしてよく調査された本を書いた、ハンガリー人の研究者、アダム・リーボアはその許可された活動を以下の様にまとめます:

・それ自体の口座のため、または各中央銀行のために、ゴールドを売買し、保管する事

債券とその他の株式を売買する事

各中央銀行からの預金を受け入れる事

各中央銀行との預金の口座を開き、管理する事

・国際的な決済との関連において、保証人、またはエージェント(仲介)として振舞う事に同意する事⁴⁴

その銀行は、しかしながら、銀行券を発行する事、個人、または企業のためにあらゆる口座を開く事、またはそれ自体の本部以外にあらゆる資産(不動産)を所有する事も、持株を購入する事、もしくはあらゆる商業的な事業において関心(株式)を操作する事も許されていません。⁴⁵

その銀行の条項化された活動の慎重な吟味は、各中央銀行から預金を受け入れ、その口座を管理する事、そして国際的な決済のための保証人、または仲介として振舞う事が出来る、その許された活動によって示唆される様に、人脈の厚いインサイダー取引のメカニズムとしてそれが機能する、潜在的な可能性を明かします。⁴⁶ しかしながら、恐らくその許された活動が最も啓示的なのは、単純に、ゴールドの売買だけでなく、それ自体、そしてその他の中央銀行のための保証人、または仲介として、株式以外の「債券」を購入する能力でした。その銀行は、言い換えると、企業、または国家のソヴリンの借金の両方の債券を直接購入する事が可能で、そしてその銀行は、「中央銀行のゴールドと、両替可能な通貨の預金を管理する」事が可能で、⁴⁷ そして更に、参加していた銀行自体を除いてあらゆる監視の目から解放されていたので、チェコスロヴァキアのゴールドの場合において直ぐに見られる様に、悪用のための効能は単純に否定する事は出来ませんでした。⁴⁸

その銀行に、その例外的な力を与えたのが、各中央銀行のために、「両替可能な通貨」の預金と共に「ゴールド」を管理するこの能力だったのは、これがそれに、様々な中央銀行において口座を保つ事を可能にしたためです。故に、実際の物理的なゴールド(ゴールドの現物)は、一つの中央銀行において保管されているかも知れない間、様々な中央銀行におけるその銀行(BIS)の口座は、様々な国々を体現する準-口座へと、準-分離され、もし一つの中央銀行が、もう一つの中央銀行へと資金を送金する事を望むなら、国際決済銀行が実際のゴールド(現物)を保管している銀行 - 実質においてイングランド銀行、またはニュー・ヨーク連銀に - 一つの口座から差し引き、もう一つの口座の加える事を支持する事が可能にされました。⁴⁹ 類似して、もし一つの国の中央銀行が、もう一つの国の通貨を売買する事を望めば、これは、そのサービスのために手数料を取らないその銀行(BIS)によって扱われる事が出来ました。これにおいて、国際決済銀行が、世界の金融と決済の舞台の上の、何らかの全く新しいものだったのは、それが帳簿の上で一つの口座からもう一つの口座に単純に資金を送金する、ヴェネチア(ヴェニス)の banco di scritta、リアルト(取引市場)の銀行の、正に最初の国際規模における拡張と応用だったためです。それは中央銀行のための banco di scritta で、それら(中央銀行)のそれぞれが、banco di scritta でした。

ですが、1939年においてドイツがボヘミア-モラヴィアを占領し、スロヴァキアとチェコ共和国の分離が達成されるとチェコスロヴァキアが発見した様に、Reichsbank (ドイツ帝国銀行)は、「殺害の脅しの下」⁵⁰ でチェコスロヴァキアの中央銀行の幹部達に対して - その23.1メトリック・トンの - チェコスロヴァキアのゴールドを、イングランド銀行におけるその口座から、イングランド銀行の Reichsbank の口座へと移動する事を、国際決済銀行に注文する事を命令しました!⁵¹

当然、チェコ人達は、その移動の注文が、脅迫の下で注文されたと見解され、関係した口座からの出し入れが起こらないだろうと期待しました。ですが、国際決済銀行が関わるに限って、書類上の不備はありませんでした。当然、英国の財務大臣、サー・ジョン・サイモンは、チェコの口座を閉鎖する事を全ての銀行に指令しましたが、チェコのゴールドが「ソヴリン」である国際決済銀行の口座において保管されていたために、チェコスロヴァキアの送金を凍結する指令は、効果を持ちませんでした。⁵² 法的な秩序と形式性の表向きに拘わらず、チェコのゴールドは実質的に、略奪されました。

ですがシャクトは、もう一つのカードを彼の袖に隠していた様で、それは恐らく彼の役割を、もっと異なって、そして更に陰質な光へと入れるものです。1930年3月6日、BIS がその「事業」の扉を開いたたった1週間程後に、シャクトは、ワイマー共和国の大統領、ポール・ヴォン・ヒンデンブルグに対して、帝国銀行からの彼の辞表を提出しました。彼の辞表のために与えられた理由?新たなドイツ政府が政権に就き、それはヤング計画の一方的な見直しを公約し、それに対してシャクトが反対したためです。新たな政府はまた、この法律に対して、帝国銀行の総裁が、国際決済銀行に参加する事を必要とする追加条項を加える事を公約しました。提案されていたヤング計画の見直しの下で、シャクトは彼の辞表を提出しました。⁵³

ですが、賠償金のためのヤング計画に対する見直しについて表面上は辞任した、この同じシャクトが、此処で、完全な支払禁止と賠償金の支払いの全ての停止のために、友好的な意見の雰囲気を創造する目的のために、様々で小規模な中立国と米国において講義のツアーを行う事が相応しいと見解し、そのツアーは、シャクトがハーバート・フーヴァー大統領と1時間会見し、その間フーヴァーが、そのアイデアを「彼自身が完全に理解する様に現した」事によって終わりました!⁵⁴ シャクトの講義のツアーが終了してたった6カ月後の、1931年6月に、フーヴァーが、「賠償金の終わりが確かにされた」と提案して時に、ドイツの戦争賠償金の支払いは停止されました。⁵⁵ 実際に、BIS の役割が高度に疑わしかったのは、それが BIS の一員、アルバート・ベネデュースに代表された賠償金の「研究委員会」を確立したためです。ベネデュースの委員会は、平和と経済的な安定性を確かにするために賠償金が「調整される」事を推薦し、それらの完全な廃止のための礼儀正しい婉曲語法でした。1932年6月において、ヨーロッパの各政府はルザーン(スイス)において会合し、最後の支払いを除いて、ドイツの戦争賠償金の全てをキャンセルする事に同意しました。⁵⁶

ですがシャクトのフランケンシュタイン的な金融の怪物、国際決済銀行は残り、そしてこの事実と、加えてそれに許された活動の異例的なリストと、そしてその銀行の「ソヴリンティー(主権)」の追加的な事実は、その創造のためにシャクトの頭には、全く異なった目的があった事を示唆し、それがドイツの重工業の拡張のための彼の計画の一部を形成した事実によって明かされます。実際に、BIS の初代総裁で、アメリカ人の銀行家、ゲーツ・マグラーが、賠償金の支払いの単なる取り扱いは、あらゆる基準的な信託会社によって扱われる事が出来たと彼が明言した時に、多くが認められたとリーボアは指摘します。⁵⁷ その示唆? BIS が、本当は、全く異なった目的のために設立されたと言う事です。

その問いは、その目的が何だったのかと言う事です。

b. The McKittrick Era: The Unpleasant Nazi Reality of the BIS
b. マクキトリック時代:BIS の不快なナチスの現実性
(1) Walter Funk, the Reichsbank, Money and Cartels
(1)ウォルター・ファンク、ライクスバンク、マネーとカルテル


この問いには2つの答えがあり、そして両方がその後の歴史によって明かされ、最初は、その銀行がその後どの様に見解され、そしてドイツによって利用されたのかで、更に2番目はそれがどの様に、もっと大規模な計画、ヨーロピアン・ユニオン自体のテンプレート(型板/枠組み)に成ったのかです。そして、それらの2つの問いは、順を追って、ナチス・ドイツとの、「マクキトリック時代」の間のその拘わりの、BIS の歴史が焦点を当てる様に、お互いと関係していています。

1940-1946年の、国際決済銀行のアメリカ人の総裁、トマス・ハリントン・マクキトリック(1889-1970年)
1 mckittrick bis

その「マクキトリック時代」は、ナチスがその銀行を見解した方法によって可能にされました。また、彼等(ナチス)の見解が、彼等に特有のものでは無かったのは、アメリカの金融的、そして産工業的な資本主義の上層部の中の多くも、同じように見解したと言う示唆があるためで、つまり、国々自体が戦争状態にある時にでさえ、金融的な資産を移動(取引)を調整するための、共通の表面(接点)としてです。ですがナチスの側の上で、その銀行の機能のこの要素でさえ、とても冷笑的に見解されました。1930年において、ヒャルマー・シャクトの弟子の一人で銀行家のカール・ブレッシングは、その銀行が実際に、地政学的、そして金融的な問題を扱うために確立されたので、その銀行の執行部と、幹部の中にいるドイツ人達は、あらゆる機会において、ドイツの見解を推進するべきであると主張しました。⁵⁸

ブレッシングは其処に留まらず、しかしながら、その銀行が、後にナチスがそれを Weltanschaugskrieg、または「戦争の世界観」と言及した様に、心理的な戦争の対象(道具)に成るべきであると言うアイデアを推進しました。此処におけるブレッシングの推薦は、その銀行を存在へと産婆するためのシャクトの動機が、部分的に、更なる全面戦争の出来事においてでさえ、その金融的で、そして商業的な関心の継続性のために、ドイツが利用出来る、国際的な「共通の表面(共通市場)」を創造する事だった可能性を強く示唆します。ブレッシングが提案した方法は、「その銀行の完全に楽園的な目的」を利用する事でした。⁵⁹ ブレッシングはこれによって何を意味したのでしょう?

シャクトが、オーウェン・ヤング(モンターギュ・ノーマン?)に対して、その銀行の目的の薔薇色の説明を最初に提案した時を思い出して下さい:より広く、そしてもっと編み込まれた「金融的な関心のコミュニティー」を創造する事によって、戦争が避けられる事が出来ると言う事でした。ですがそれらの関心の同じコミュニティーは、それらが制度化した「共通の表面」が何であれ、資本と科学技術(特許)の受け渡しのメカニズムとして同等に上手く機能する事が可能で、そして故に、何らかの未来の戦争がドイツに対して勃発しようとも、派閥的な関心、つまり、ドイツの企業的な権力と関心の継続性を確かにするメカニズムです。⁶⁰ これに関してシャクトのヴィジョンが、マドリッド回覧書の中で提出されたものに、不自然で不気味にも類似している事を思い出して下さい。

何であれ、ブレッシングがその後、彼の推薦について何かを行う地位にいたのは、1931年までに彼が、その銀行において高いレベルの地位に就いたためです。⁶¹ 西ドイツのBundesbank (ブンデシュ銀行)の総裁を務めた後に、ブレッシングは1958年に BIS に戻り、その事実は戦後の関心、人材、そして政策の継続性を示唆し、それはこの章が進むにつれ、更にもっと明らかに成ります。

ブレッシングは、しかしながら、唯一の高い地位のドイツ人では無かったのは、BIS が直ぐに、アメリカの高度な金融の右翼との親密な接触を保つための、ナチスの方法に成ったためです。

1933年に成ると、シャクトは、著名なコローンの銀行家、カート Freiherr ヴォン・ショローダーを、BIS の役員として任命しました。⁶² ヴォン・ショローダーが、ナチス党、またはその組織の党員では一度も無かった間、彼は、権力へのヒトラーの台頭を後押しした、権力の金融的な内輪において道具的(活発)で、そして常に、ナチスに対して同情的でした。実際に、ショローダー銀行のアメリカ支店は、その役員会に、後のスパイ-マスターで、サリヴァン & クロムウェル(法律事務所)アレン・ダレスを有し、ヴォン・ショローダー自身も、ヒトラーに資金を供給した、ドイツの高度な金融における「友人達の内輪」である、Freundeskreis のための口座を扱ったもう一つの銀行であり、SS (ナチス親衛隊)の Reichsfürer (全国指導者)、ハインリッヒ・ヒムラーの個人的な銀行と同じ、J.H. ステインの役員会に座っていました。⁶³

ドイツの高度な金融と高度な産工業的な資本のこの絡み合い(財閥)は、1939年において、I.G. ファーベン社の役員会の会長、ハーマン・シュミッツが、国際決済銀行の役員会に参加した時に、更にもっと直接的に体現されました。⁶⁴ その他のナチスの BIS のメンバー達は、Reichsbank (帝国銀行)の副総裁、エミール・プールを含んでいました。⁶⁵

(2) The American Component: The Sullivan and Cromwell Circle
(2)アメリカの構成要素:サリヴァン&クロムウェルの内輪


米国とナチス・ドイツの間の、相互関連した派閥的で金融的な関心を最も象徴したのは、1940-1946年にその銀行のアメリカ人の総裁だった、トマス・ハリントン・マクキトリックでした。パー・ヤコブセンの親密な同僚であったマクキトリックは、ナチス・ドイツの完全な無条件降伏のためのルーズベルト政権の呼びかけに反対した、アメリカの産工業家達と資本家達の内輪を代表し、そして彼はその国(ドイツ)の戦後の完全な非-産工業化のための、ルーズベルトの財務長官だったモーゲンサウの計画に反対していました。むしろ、マクキトリックは、ウォール街のサリヴァン & クロムウェル法律事務所のアレンジョン・フォスター・ダレスを介して、アメリカの金融的な右翼との彼の接触を通して、1944年まで後に、ナチス政権との別々の和平交渉を行っていた者達の内の一人でした。それらの秘密裡の話し合いの両側の主要な関心は、モーゲンサウ計画を反転させ、戦時中のアレン・ダレスへの電報が述べる様に、「そのライヒ(帝国)の産工業的な実質を保存する」事で、再び、その言語において、マドリッド回覧書に不気味にも類似したものでした。⁶⁷ これに関して、ドイツの戦後の非-産工業化のためのルーズベルト-モーゲンサウ計画の頓挫を効果するために、米国においてドイツに友好的な事業の接触を利用する事を、その回覧書がはっきりと言及し、その接触は国際決済銀行を通して大々的に行われた事が思い出されるでしょう。

(3) The Bank of International Settlements, the Nazis, and the European Union
(3)国際決済銀行、ナチス、そして EU


人が疑問を持つかも知れない様に、ルーズベルト政権は、マクキトリック、「サリヴァン & クロムウェルの内輪」、そしてナチスの連動に気付いていなかったわけではありませんでした。此処で私達はその逸話のもう一つの部分に入り、研究者達によって殆ど触れられないもので、つまり、戦時中と戦後の米国における共産主義者のセル(細胞/小体)と、それらの連動の全てとの関係で、第三部の中で、私達がより深く追求する題材です。

此処において、しかしながら、私達がそれに触れなければならないのは、ルーズベルトの

「財務省が、マクキトリックと BIS に対する国務省の熱意を分かち合わなかったためです。財務長官のヘンリー・モーゲンサウと、彼の同僚、ハリー・デクスター・ホワイトは、BIS を不信に思い、それを、正しく、米国におけるナチスの経済的な関心の永久化のチャンネル(人脈/制度)として見解しました。彼等はその銀行が、米国における事業を行う事において、更にもっと多くの障害にぶつかる事を確かにしました。」⁶⁸

その反対のための理由は、此処まで来れば明確なはずで、モーゲンサウの財務省は、「イタリアとドイツの企業の所有権(資産)を、スイス、またはアメリカのフロント(建前/ダミー)会社に移動するために、スイスの銀行が利用されている」と信じたためで、それらは実際にそうでした。⁶⁹ 故に、1941年の6月、米国政府は、米国において事業を行う事から、BIS を含んでいた、スイスの銀行から、ライセンス(許可)の全てを剥奪し⁷⁰、それが意味したのは、BIS の株主だった個人的な米国の銀行、例えば、J.P. モーガン(ロスチャイルド)が、彼等の配当金を受け取れない事でした。⁷¹ 驚くなかれ、マクキトリックは、BIS の資金を解放するために、米国の財務省を説得するために、サリヴァン & クロムウェルの、彼の古くからの同僚、ジョン・フォスター・ダレスに頼りました。⁷²

ヘンリー・モーゲンサウ・ジュニアとハリー・デクスター・ホワイトについて簡単に考えるために一時停止するには価値があります。モーゲンサウは、勿論、ユダヤ人で、フランクリンとエレノア・ルーズベルトの親密で個人的な友人で、そして同様にユダヤ人で、第一次世界大戦の退役軍人であり、ハーヴァード大の経済学者だったホワイトを、米国財務省に推薦したのもモーゲンサウでした。⁷³ 特定の背景から見解された時、すると、その絡み合ったナチスとアメリカの産工業的な関心の全てを共にした、BIS を代表したマクキトリックの派閥と、モーゲンサウ-ホワイトのグループの間の争いは、ナチスのプロパガンダ者達の特定の内輪が、その戦後に実際に見解した様に、ナチズム「国際シオニズム」の間の争いとして見解される事が出来ました。現実において、本当の争いは、アメリカ政府内の、共産主義とナチス主義の2つの軍事化された社会主義者の思想と彼等の派閥の間の争いでした。⁷⁴

モーゲンサウとホワイトは、勿論、世界銀行国際金融ファンド(IMF)の設立を含んだ、戦後の西洋の金融的なシステムを確立した、1944年のブレトン-ウッズ会議におけるアメリカの代表でした。其処において彼等は2人とも、国際決済銀行の廃止のために強く主張しました。⁷⁵ ハリー・デクスター・ホワイトは、BIS について言葉を濁しませんでした:

「彼等は、和平交渉の間に、ドイツの扱いにおいて、影響力を調整する(和らげる)事を望みます。それはドイツがそれを最大級のケアでそれを扱った理由です。彼女(ドイツ)は彼女が配当金を支払う事を許し;彼女は敵国の領土を渡って BIS の人々が行き来する事を許し;⁷⁶ 彼女が BIS に対して極度に慎重で好意的だったのは、和平のテーブルの周りのあらゆるその他の制度を超えて、彼女の関心を保護する便利な機関に成る事を望むにおいて、彼女がその赤子(BIS)をずっと育成したためです。」⁷⁷

BIS は、言葉を変えると、戦後の復興 - そして継続性の - ナチスの計画において、鍵の構成要素に成るとされていました。

その戦争の後に何が起こったか以上に、それらの計画と、アメリカの産工業家達とドイツのカルテル主義者達の継続している接面を明かすものはありません。マクキトリックの BIS の総裁としての任期が終わり、そして彼がチェイス・ナショナル・銀行の副総裁の成ったこの当時彼は、マーシャル(欧州救済)計画の責任者だったアヴェレル・ハリマンに、その計画を監督する事において彼(ハリマン)のために働く事を要請されました!⁷⁸ ハリマンは、勿論、ドイツの鉄鋼のカルテル主義者、フリッツ・タイセンと相互関連した銀行であり、その資産がルーズベルト政権によって、敵国との取引禁止法の下で凍結された、ユニオン信託銀行のプレスコット・ブッシュと親しい同僚でした。

更に重要な事に、ハリマンは、ヨーロピアン・ユニオンのアイデアの熱心な推薦者でした。「ヨーロッパの統合の我々の概念の全体は、それが最初に経済的な統合に貢献すると言う事です。その後、我々は、経済的-軍事的統合、そして最終的に、政治的な統合を確かにする事を望みます」と彼は記述しました。⁷⁹ 何故、アメリカ人の外交官と実業家が、バーンハルディ将軍とベットマン-ホルウェッグ首相以来の、ドイツのエリートの概念と戦争の目的をエコーしているのか、人は不思議に思うでしょう!私達が直ぐに目撃する様に、彼はまた戦時中のナチスのエリート自体の、更にもっと詳細な計画をエコーしていました。何であれ、そのマーシャル計画はまた不確定条件であり、ヨーロッパ人達が、「最終的なヨーロピアン・ユニオン」に繋がる関税の統一(撤廃)を形成する事を - そのアメリカ人達は強調しました。⁸⁰ どんな場合であれ、その様な統合は、ヨーロッパにおいて取引しているアメリカの企業に有利ですが;その様な統合はまた、私達が見た様に、第一次世界大戦以前の、ドイツの産工業的、そして軍事的なエリート達の明らかな戦争の目的でした。戦前に、I.G. ファーベン社のためのアメリカ人の弁護士で、そして戦後には、ドイツの高等弁務官(大使)だったジョン J. マクロイの役割が明かす様に、それは明らかに両方のエリート達の政治的、そして金融的な関心の連合で、ドイツの非-産工業化のためのモーゲンサウ計画を執行していたトゥルーマン政権に、それが戦略的な過ちに成ると最終的に説得したのが、マクロイだったためです。

再び、人が不思議に思わされるのは、その様な(モーゲンサウ)計画が唯一意味するのは、ドイツが共産主義者達の手に落ちる事だとする、西洋の連合国を納得させる戦法は、その運命を避けるために、その戦争末期に選択された「恐喝外交」の方法だと、マドリッド回覧書が鮮明にするためです。マクロイがドイツのためのアメリカ人の高等弁務官として就任した事実は、その場面の背後で行使された影響力が、ドイツのカルテル主義者達に好意的な影響力だった事を強く示唆します。

ドイツのカルテル主義に対する彼自身の関係を持っていたハリマンと同様に、マクロイもヨーロピアン・ユニオン主義者でした。1950年のロンドンにおいて、「統合されたヨーロッパにおけるドイツ」と題された演説の中で - 再びもう一度、I.G. ファーベン社の元弁護士で、その後、ドイツのためのアメリカ人の高等弁務官に成った - マクロイは、明確にこう明言しました:「効果的なヨーロピアン・ユニオン無しで、ドイツの問題の永続的な解決策は不可能な様に見えると私は述べましょう。」⁸¹

行われているゲーム(策略)の巧妙さと壮大さの両方のための特定の理解を人が得るのは、一方で、NATO と「統合されたヨーロッパの経済コミュニティー」が、ヨーロッパにおけるドイツの経済的、そして軍事的な力をチェックする事を保つ方法として見解され、そして売り込まれたためです。これは明らかに、彼の発言を、彼の英国の傾聴者達が理解する様に、マクロイが意味したものでした。ですが、それらを述べていたのが I.G. ファーベンの元弁護士で、そしてその様な統合が、始めからドイツの金融的で、政治的なエリートの一貫的な目的であった事実がまた意味するのは、その様な統合がドイツの国力の究極的なチェックでは無く、その一貫した野望の達成かも知れないと言う事です。

故に、1950年代のヨーロピアン支払いユニオンを通した貿易における支払いのために、西洋のヨーロッパの国々が、それぞれお互いの通貨を受け入れる事に同意した時、それぞれの口座を扱う媒体として任命されたのが国際決済銀行だったのに、驚かされるべきでは無いでしょう。それは其処で、西洋ヨーロッパ全てのための、金融的な決済の機関でした。⁸²  ナチスにとって、ヨーロピアン・ユニオンへの道に沿った様々なメカニズムは、実際にオランダの元首相、Jelle Zijlstra が疲れる事無く主張した様に、ドイツのカルテルの最高権力機関(帝国)のためのフロント(建前)でしかありませんでした。⁸³ 成行きとして、ヨーロピアン支払いユニオンの確立以来、国際決済銀行は「ヨーロッパ統合計画の心臓部で、通貨の調和化のための技術的な専門知識と金融的なメカニズムを供給していました。」⁸⁴

戦後の金融的な世界において BIS が果たす更にもう一つの役割があり、そしてそれは、その周りに渦巻く事実の全ての観点から見解された時に、興味深い推理的な可能性を浮上させるものです。これは、1961年におけるロンドン・ゴールド・プールの確立で、それに対し米国、ベルギー、オランダ、フランス、イタリア、西ドイツ、そして英国の全てが、ブレトン-ウッズの合意の価格のペッグ(固定)である、1オンス、35ドルのゴールドの価格を保つために、ゴールドにおける2億7,000万ドルを約束しました。この全ては、勿論、BIS と共に預けられ、それは様々な中央銀行との調整において、そのプールのための主要な媒体(仲介)に成りました。それは、効果的に、BIS の「ゴールド・カルテル」で、それは「完全な秘密主義の条件の上で」構築され運営されました。⁸⁵ 労働収容所の被害者達の歯から文字通り引き抜かれた事は言うまでも無く、ヨーロッパにおける三国同盟の征服から略奪された - ナチスのゴールドを受け入れた BIS の役割を与えられると、もしかすると BIS は中央銀行の公共のシステムの頂上であるだけでなく、21世紀の最初の10年のゴールドによって後ろ盾された無記名債スキャンダルの全てによって体現された、完全に隠されたシステムの頂点にあるのではないかと、人は疑うでしょう。

さて、私達は一時停止し、続きのために、深呼吸を大きく取りましょう・・・

(4) Indications of a Hidden International System of Finance
(4)金融の隠された国際的なシステムの示唆


論議のために私達が、国際決済銀行が、公共のシステムに対して完全に追跡不可能なマネーの膨大な総額の移動を体現している、隠された債券市場の主要な媒体と仮定するのは、今日の電気的な時代において、電気(デジタル)的で国際的な決済が、究極的に、電気的な監視によって、利用可能であるためだと考えてみて下さい。2000年代の早期の無記名債スキャンダルの、ゴールドに後ろ楯された無記名債の様な、担保化された無記名債の物理的な移動は、その様な追跡と監視の対象には成らず、完全に帳簿の外のシステムが存在する事を許し、それを達成するためには、知られている秘密主義と、道徳的な良心が欠如している、国際的な決済の機関である、BIS の様な銀行の拘わりを必要としています。BIS の外交的な廷臣(官僚)と特権を通したその様なシステムは、アルゼンチンにおける秘密裡の核融合研究計画(リヒター)や、アメリカの南西部における(ナチスであれ、それ以外であれ)UFO の逆-技術開発を資金援助したり、または;実際に、スイス自体の中に、世界最大の機械(セルンのハードロン衝突器)を造り、そして恐らく最終的に、中国において、そのより大きなヴァージョンを造るために、世界中の何処にでも通用する、外交的な封印袋(治外法権)の中にその様な債券を入れて物理的に移動する事が可能です。

私達は更に、その様な金融の隠されたシステムを人が望む理由が何であれ、その様なシステムによって派生させられた(資金の)流動性は、「オープンなシステム」の中で単純に地下、または地球外に消えているのでは無く、そのシステムはこの惑星の上でクローズド(閉鎖的)にされているので、そして故に、派生させられた流動性が何であれ、それはそのシステムの中で必然的に再び現れなければならないと仮定しましょう。そのシステムは、必然的に、膨大なインフレーション(物価上昇)によって、その存在を明かすでしょう。ですから、どの様にして、人はその存在を隠す事が出来るのでしょう?

(注:日銀、米連銀、ヨーロッパ中銀が幾ら量的緩和しても、インフレが起こらないのは、何処かでその分、マネーが抜き取られているため = ブラック・プロジェクトの資金。)

私達は此処で、もう一つの仮定を行い、つまり、ゴールドに後ろ楯された「無記名債スキャンダル」が、このシステムの中の債券を体現しているとしましょう。それらの無記名債は、米国のドルにおいてデノミネート(ドル建て)されているので、その様な債券は、国際的にその様な計画を資金援助するための、ドルにおけるその様な債券の地域的な両替(決済)の可能性を体現し、それに対して米国の財務省、または連邦準備銀行(i.e. 個人私有銀行)が責任を持たなければなりません。その債券が数兆ドル(数百兆円)を体現するので、これは効能的に通貨へと両替されなければならず、それはシステムの中へと流れ込み、そして膨大なインフレーションを通してその隠されたシステムの存在を警鈴するでしょう。ですから再び、人はどの様にして、その存在を隠せるのでしょう?人は最初に、正しく示唆された様に、1オンス35ドルに近い価格のペッグ(固定)を保つように、ゴールドの価格を(人工)操作する事によって、ブレトン-ウッズのシステムの制限の中でそうするでしょう。インフレーションが拡大した際に、このペッグは最終的に「ペッグが外される」様に成り、そしてゴールドの価格は上昇しますが、そのシステムの存在を隠すために、可能な限り操作され隠蔽(いんぺい)されなければなりません。

ですがそうするためには、人は、莫大な量のゴールド(麻薬)の利用が可能でなければならず、そのゴールドの量は類似して、秘密裡の口座において、帳簿の外に保たれなければなりません(その実施は、此処まで来れば明らかでしょうが、BIS が大の得意とする事です)。この高度な推理は、とても多くの人達の疑問を部分的に答えるかも知れず、つまり、IMF と世界銀行の確立と共に、何故、BIS が存続し続ける事を許されたのか?と言う事です。ヨーロピアン・ユニオンのメカニズムにおけるその役割を超えて、それは更にもっと秘密裡な目的と役割を有するかも知れません。


この秘密裏の目的と役割は、国際ナチスの戦後の作戦と計画を援助し、機能させる事だったのは、1945年3月の終盤において、その第三帝国が崩壊している際に、Reichsbank (帝国銀行)の口座の500,813キログラムのゴールドを、ブラジル銀行の口座に移動した事によって、少なくとも部分的に明かされます。研究者、ピーター・ラヴェンダが示唆する様に、「1オンス1,000ドル程度の換算の価値を使用すると、それが意味するのは、この単一の送金が今日の価値において、170億ドル(1兆7000億円)を超えた金額に成ると言う事です。」⁸⁶

これを頭に入れると共に、私達はもう一度、深呼吸をして、そして続きを考えましょう・・・

C. Buried Bullion and Treasure Trusts: The Continuing Harrowing Adventures of Hjalmar Schacht in Indonesia
C. 埋められたブリオンと財宝の信託:インドネシアにおけるヒャルマー・シャクトの継続している悲惨な冒険
1. De-Nazifying Schacht
1.シャクトの非-ナチス化


インドネシアとの関連においてヒャルマー・シャクトを単に述べる事は不釣り合いに見えるかも知れませんが、それは、私が考えるに、この逸話のとても重大な部分です。戦後の組織化された国境-超越的なナチズム(ネオ・ナチス)の現象への多くの研究家達が記述した様に、シャクトは、SS の中佐、オットー・スコルツェニーと、彼のスペインに本部を構えたナチスのグループの、親しい友人で同僚でした。⁸⁷ ラヴェンダは、しかしながら、とても重要な点に注意を引きます:

「スコルツェニー-シャクトの関係が、大袈裟に強調され過ぎる事が出来ないのは、シャクトが常に、彼自身が反-ナチスであるとわざわざ現し - 彼の誠意の証拠として、ヒトラー暗殺計画における主張された拘わりのために、彼が短期間、投獄された事を指摘したためです。しかしながら、この出来事は、そのライヒ(帝国)の崩壊の予測において、その戦争の後に、ドイツの経済を復興させるための任務を、シャクトが自由に行えるための、シャクトの非-ナチス化のための意図的な試み(i.e. フォルス・フラッグ)として見解する、研究者達によって、広く批評されました。」⁸⁸

これにおいて、シャクトは、正にマドリッド回覧書が、驚いた事に、そしてはっきりと明言した様に、アドルフ・ヒトラーに対する1944年7月20日の爆弾計画において参加したと主張されたために、ナチスの高い階級の者(幹部)達を名指しし、そして幾つかの場合、彼等を投獄する事によって、彼等(幹部)を「非-ナチス化」する作戦の一部として、「羊の皮を被らされた」可能性は大いにあるでしょう。第一章の中で明言された様に、幾らかのナチスは、特定の個人達が死亡していると、戦後の連合国のナチスの追求者達を納得させるために、「処刑され」、そして彼等のおぞましい処刑は「撮影されました。」人は、死亡した人達のための調査はしないでしょう。シャクトの様なその他の顕著な履歴の人物達は、その(フォルス・フラッグ)計画における彼等の役割のために「投獄」されました。

ですが、ナチスであった事への非難のシャクト自身の戦後の否定の真実、またはそれについての欠如が何であれ、その戦争の後の彼の活動は、以前の章において観測されたパターンとの注目すべき一貫性を見せ、そしてインドネシアの「進歩的」な大統領、スカルノとの彼の関係においてよりも、それが明らかな場所はありません。

2. Schacht and Sukarno
2.シャクトとスカルノ


インドネシアがオランダからの独立を得た後、スカルノは1945年から1967年まで、その大統領として奉仕しました。ですが、私達の関心が、シャクトとの彼の拘わりなのは、1951年にジャカルタにおいて、スカルノがその BIS の設立者で、Reichsbank の元総裁と、話し合いの一連を主催したためです。⁸⁹ それらの話し合いからスカルノは、1955年において、インドネシアの街、ブンダングにおいて「アジア-アフリカ会議」と呼ばれた会合を主催し、その会合の目的は、ソヴィエト連邦、または米国、もしくはそれらに関連した連合国のブロックのどちらとも連合する事を望まない、第三世界(後進国)の国々をまとめる(団結させる)事でした。これにおいてスカルノは、アルゼンチンのホァン・ペロン、そして後のリビアの独裁者、モハマー・カダフィー、そしてスカルノがその存在を知っていた可能性は低いですが、言ってしまえばマドリッド回覧書の「第三の道」の立ち位置に続いていました。⁹⁰ ですが、そのアイデアが何処から発芽したのかについて、人に必要な全ては、シャクトとの拘わりです。ブンダングの会議への出席者達に含まれたのは、エルサレムのグランド・ムフティ(宗教的指導者)で、PLO (パレスチナ解放運動) の指導者、ヤサー・アラファットの叔父、アル・フセイニだけでなく、その他のムスリムの国々と、ムスリム同胞団の代表達でした。⁹¹

その戦争の間のスカルノ自身の明らかな三国同盟への同情は、東京において彼が、「日本人達を称賛し、アメリカ人達と英国人達と同時に、オランダ人達に対する戦争のために呼びかけた」演説を行ったために、記録上の問題ですが⁹²、それらの同情はスカルノが、インドネシアにおけるオランダによる植民地化を追い出す最善の利用可能な方法として、日本人の勢力が体現した、単なる便利さだったのかも知れません。

ですがスカルノはもう一つのアイデアを持っていて、それはブンダングの会議を、単なる話し合い以上にするものです:

「スカルノの脳裏にはまた、彼がその両方を超大国、特に米国のパペット(操り人形)として見解した、世界銀行IMF と同等な非-連合の国々(後進国)の国際的な銀行を創造するアイデアでした。世界銀行からの独立、故に西洋の操作からの独立である - その様な金融的な制度の創造は - 多大な警鈴と共に、西洋によって見解されたでしょう。

「この活動の一連を、スカルノに提案したのは誰だったのでしょう?・・・

「スカルノのこの大胆なアイデアの背後に金融的なマスター・マインドがいたとしたら、人は、第三帝国の銀行業の構造と経済的な国力の創造を手助けし、そしてヴェルサイユ条約の制限にも拘らず、ドイツの再武装化を許した、その同じ金融的なマスター・マインド以外を探す必要は無く:ヒャルマー・シャクトでした。⁹³

ですがナチスとの関連性が、ラヴェンダによると、其処に留まらないのは、スカルノが明らかに - 少なくとも部分的に - ポルトガル銀行からジャカルタに来たゴールドと共に彼の銀行を資本化(準備金)する事を意図していたためで、其処(ポルトガル銀行)において、それ(ゴールド)が保管されていたのが、Organization der Ehemaligen SS Angehöriger、またはそのもっと悪名高き名前を上げると、悪名高い戦後のナチスの SS の組織である、オデッサの口座だったためです。⁹⁴

ブレトン-ウッズのシステムのコンテキストにおいて、スカルノが試みようとしていたのは、今日における BRICS 開発銀行と中国によるアジア・インフラ投資銀行に類似した方法において、西洋とアメリカの操作から独立的で、平行的な、国際的な銀行業と決済のシステムを確立する事でした。恐らくまた、多くのナチスと同様に、シャクトが、帝国的な日本では無く、国家主義的な中国と同盟を結ぶ事を好んだと指摘する事は、この逸話に密接な関連があるでしょう。⁹⁵

ですがシャクトが其処に留まらなかったのは、彼がまたこう述べたためで:

「中国とインドシナ(ヴェトナム)からの、共産主義の広がりに対する防衛的な一線を供給する、彼の列島の金融的で政治的なマギノット・ラインの一種を彼が創造するべきであるとスカルノを納得させる試みにおいて - 『オーストラリアから中東のアラブ諸国まで膨大でイスラム的な三日月』の延長を推薦しました。これは、後の1970年代と1980年代から現在までの、のイスラム的な原理主義者(過激派)のカリファ、またはカリフ制度の夢に現れるものの前例で:タイ南部からマレーシア、インドネシア、そしてフィリピンを通して、その様な「イスラム的な三日月」を創造したいイスラミスト(イスラム主義者)達の夢でした。始めからこれが、元のナチスの経済学者、ヒャルマー・シャクトによって提案された - または、少なくとも、早期の段階において補佐された - と考えるのは殆どシリアル(シュール)です。」⁹⁶

または、恐らく、それは、全くシュールでは無かったのは、私達が以前の章の中で見た様に、アングロ-アメリカの金融的で産工業的な関心に対する急進的なイスラム(過激派)の兵器化は、皇帝の時代から私達自身の現代までの、ドイツの金融的、軍事的、そして産工業的なエリート達の一貫的な政策で、テロに対する戦争が恐らく再び、戦後の「国際ナチス」に対する、更にもっと殺傷的で秘密裡の戦争の一般大衆に見せる顔である事を示唆します。

しかしながら、その逸話は其処に留まらず;その最も陰質な部分は未だに来ておらず、そしてラヴェンダはそれらをまとめるにおいて卓越しています。その逸話のその部分は、インターネットの陰謀論の内輪の周りで流通した情報の、より大きなつづり織り(壁掛け/背景)における構成要素を形成し、ソヴィエト連邦のゴールドの略奪、レオ・ワンタの逸話、ファーディナンドとイメルダ・マルコスのゴールド、ブラック・イーグル信託(アメリカの秘密裡の戦略を資金援助しているとされるゴールドのカルテル)、9.11の事件との関連における高度で金融的な犯罪、無記名債スキャンダル、黄金の百合作戦、または山下のゴールドとして知られる、第二次世界大戦の間の、アジアにおける()日本軍の略奪を含みます。⁹⁷

「スカルノのゴールド」の逸話のこの要素は此処において、しかしながら、親しみのある話のパターンに当てはまります。その逸話によるとスカルノは、以下を知っていた、または操作していました:

「・・・ゴールドにおける莫大な富で、その殆ど全ては日本とドイツの戦争犯罪の果実(黄金の百合)を体現し:芸術品、宝石、骨董品と同時にゴールドの略奪で、最終的な再利用のための、世界中の隠された場所におけるその保管でした。このゴールド、そして芸術的な財宝の殆どは、フィリピン諸島を通した洞窟において埋蔵され - 其処で時々実際に発見され - そしてその他は東南アジアのその他の地域、特にインドネシア列島において埋蔵されました。」⁹⁸

この財宝は、順を追って、「今日の価格において数十億ドル(数千億円)の価値の正真正銘のゴールドの証明書」の形状において担保化され「その証明書はスカルノの名義において、国外の銀行の口座において体現されました。」⁹⁹ これと共に人は、無記名債スキャンダルの、今では親しみのあるパターンが、その醜い顔を上げているのを認識します。

ですが、ラヴェンダが記述する様に、それら(の証明書)がもし単なる偽物、または偽造詐欺であったとしても、「それらの書類に直面した時の」銀行と政府の振る舞いが異常なのは、それらを提出した個人達が、時には投獄され、その直後に説明も無く釈放され、または単純に蒸発する、もしくは、幾つかの場合において「謎めいた状況の下」で死亡するためです。¹⁰⁰

あたかもこの全てだけでも、十分に奇妙だっただけで無かったかの如く、その問題全体に真実の何らかの確実で固い中核が、少なくともある様に現れるのは、1997年におけるニュー・ヨーク・タイムズ紙でさえ、約400トンのゴールドの輸送の中から、約40トンのナチスのゴールドが中国とインドネシアにどうにかして届けられた事を報告しましたが、その他の360トンがどうなったのか、何も知られていないと、ラヴェンダがまた観測するためです!¹⁰¹そしてこれが、スカルノのゴールドの、唯一のメディアにおける露出では無かったのは、シンガポールのストレイツ・タイムズ紙が1987年1月24日に、スカルノ政府が1960年において、何百万ドルも、スイスのユニオン銀行(UBS)に預金したと報道したためです。¹⁰² その記事はまた、スカルノがこれを、インドネシアのインフラを構築するための「革命的な資金」として使用される事を意図したと記述し、それが示唆したのは、彼がまたそれを、通貨のための銀行業として意図していた事です。

その逸話が其処から更にもっと奇妙な曲がり角を曲がるのは、明らかにスカルノの計画を邪魔するために、1950年代においてインドネシアへと送り込まれたアメリカ人達の内の一人が、リー・ハーヴィー・オズワルド以外の何ものでも無く(!)¹⁰³、国際ナチスとの彼自身の関係は、ダラス(テキサス)の白ロシア(ベラルーシ)からの亡命者であり、石油産業関係者で、彼自身、ドイツのラインハルト・ゲーレン将軍Bundes-nachrichtendiest (連邦諜報工作)を通した国際ナチスとの関連性が高い、ジョージ・デ・モーレンシルトを通した拘わりだったかも知れないためです。¹⁰⁴

この時点において、ラヴェンダは、スカルノ大統領の動機だけで無く、ナチスと(旧)日本軍の略奪の存在を秘密に保つ事を望む、それらの金融的なエリート達の動機の、決定的に重要な観測を行います。此処でラヴェンダは、その問題性について直接語るだけで無く、以前の章の中でまとめられた推理的な隠された構造の存在を示唆し、そして故に彼の深く浸透的な明言を長文において引用する事が必要です:

「そのゴールドの存在を明かす事は、世界の金融市場において、多大な反響の原因に成る事が出来ます。もし大量のゴールドが銀行に対して投げ売りされれば、ゴールドの価格は急下落し、そして米国とその他の国々のゴールドの準備金の価値は劇的に縮小され、世界を経済的な混沌へともたらすでしょう。そのゴールドは、その後、内密に扱われなければなりません。それは隠されたままでなければならず、そしてゴールドのシェア(所有権)は政府国債の様に売買されなければなりません。そのゴールドの幾らかは隠蔽の外に出され、保管のため、そして証明書のための担保として、国外の銀行へと輸送される事は出来ますが、銀行が信用される事が出来ないと言う問題が常に存在し、そして最終的にそのゴールドが実際に存在している事を否定される問題があります。」¹⁰⁵

簡潔に言うと、ブリオン(貴金属の延べ棒)と宝石の様なその他の現物資産のその様な量の存在は、ゴールドに後ろ楯された無記名債の構造を共にした、金融の隠されたシステムの台頭を実質的に保障し、そして銀行はその様なシステム、またはゴールド(麻薬)の量は存在しないと主張します。シンガポールのストレイツ・タイムズ紙におけるその記事は、20年弱後の無記名債スキャンダルまで、実質的にこのシステムが、一般大衆に目撃された唯一の例だったかも知れません。

更に加えて、スカルノのゴールドの逸話と、より広い無記名債スキャンダルとの間には更にもう一つの関連性があり、そしてこれは、日本の総理大臣、田中(角栄)の「(昭和)57年債」の策略との類似性です。迫りくる債券の満期(決済)に面して、そしてそれらに対して支払うためのマネー(予算)が財務省(大蔵省)に無かったために、田中は、天皇博仁の統治(昭和)の57年目の、それらの発行に因んで「57年債」と名付けられた債券を発行する事によって、公債証書所有者(債券などを所有している人)達と「書類を交換」する恥知らず(詐欺的)な策略を考えつきました。それらの債券は、しかしながら、それらのデザインにおいて完全に特有で、あらゆる以前の日本のソヴリン(主権)債券に似ておらず、そして、加えて、何者かがそれらを換金しようとするとそれらが偽物、または偽造詐欺であると日本政府が否定する事を許す、綴り違いや「間違い」の様な特徴的で意図的なデザインの誤りと共に発行された無記名債でした。そしてもし、それらが換金されたとしても、日本政府は、ある種の「同情」から唯一それ(換金)を行っているふりをする事が可能で、そしてその債券の所有者に対して凄まじい値切りにおいてそうする事が出来ました。¹⁰⁶

此処で、再び、スカルノの「ゴールドの書類」とそれらの膨大に重要な示唆の、ラヴェンダの鋭い分析を引用する事が必要です:

「その証明書(債券)は、そのデザインの実行(細工)においてとても異例的で、意図的な様に見える、とてもはっきりとした印刷的な間違いがあった事実によって、詐欺である事に対して反論する様でした。例えば、その証明書は、印と署名の一連を共にした、厚く浮き出し模様にされた紙の上に美しく印刷され - 全ては完璧で確認可能で - 同時にその証明書の価値に関する口座番号やその他の詳細がありました。ですが、奇妙にもこの働き(印刷/細工)の全ての後に、その受取人の名前は意図的に誤って綴られました。皮肉にも、これは、その証明書が本物であると言う証拠として考えられました。これが何故なら、賢い偽造詐欺師は、受取人の名前を間違える過ちを犯さないためです。その証明書の正真正銘性を保証するために、その名前は暗号システムの一種として、少々誤って綴られ、その証明書が本物である事を確認します。それは、反-直感的に見えますが、最善の暗号は頻繁にそう云うものです。」¹⁰⁷

此処において明言されたものの多大な重要性に着目してもらいたいのは、これが意図的に行われた間違いと共に、その様な債券をソヴリン(主権)政府が発行した二度目の例であるためで、そして故にそれは、それらが西洋の国際的な銀行業と金融的なシステムの中で、高度に秘密裡で秘密の段階において起こっている実質的な何かを体現している可能性を派生させるためです。

ラヴェンダは、それらが故に体現する問題の一つの要素に焦点を当てます:

「これが、その本質的な問題で:それらは無記名債でも、銀行の小切手でも、個人の小切手でさえもありません。それらは基本的に、その様な資金が存在すると言う明言で、それらは必要な口座番号を有し、そして各銀行はそれらの資金が存在する事を肯定します。本質的に、銀行はそのゴールド(麻薬)、または現金が存在する事に対する目撃証人として振舞い - そして、その口座自体が確立された当時の不可解(秘密)で複雑なルールの一式によって覆われた(操作された)、何らかの未来における取引において、仲介の一種として活動します。数字化されて匿名的で、正しいコードワード、または暗号化された数字と共に個人によって利用可能なスイスの銀行のアイデアと類似して、それらの書類(i.e. 債券など)は、その証明書に付属させられた書類においてリストされ - 一般的に「受託者(債券などの保有者)」として言及されますが、スカルノの場合、「グールー(先生)」としてでしたが - 人々、または機関によってのみ、話し合いが可能です。」¹⁰⁸

出来る限りはっきりと、そして「誰でも解る」様に言うと、その様な道具(債券など)を通したマネーの移動のための、意図的な間違いと不可思議な行程(手続き)の形状における詐欺は、そのシステムの機能的な「ビジネス(事業)のモデル」でした。ラヴェンダ自身がこれは、金融の膨大で隠された、そして全体的に秘密裡のシステムの明らかな示唆であると指摘する事によって、この全ての効果をまとめ上げます:

「数兆ドル(数百兆円)の価値のゴールドの証明書のこの逸話全体の一つの問題は、その道具(書類)自体が特徴的な事です。それらは通常的な銀行業の道具では無く、代わりに特別の目的のために創造されました:基準的な銀行業のチャンネル(流通路)の外に保たれ、そして内通者達の秘密裡のグループによって、彼等のためだけに使用される、ゴールド(麻薬)とその他の貴重品の大量の保管の移動と所有権を操作するためです。」¹⁰⁹

そして無記名債スキャンダルについての言及において、私が様々な機会に指摘した様に、もしそれらの背後に現実性が全く無いなら、極度な値切りにおいてでさえそれらの証明書(債券)を現金化出来る可能性は殆ど無いのに、何故誰かが、何度も、何度も、その様な膨大な詐欺を創造するために、多大な努力と費用を費やしたのでしょう?¹¹⁰

ラヴェンダは、正に同じ問題を認識し、そして殆ど全く同じ定義においてそれを明言します:

「更なる煙(不透明性)?更なる鏡(偽り)?それらの件については - 署名され刻印された銀行の書類の数百ページから、政府機関の公式に-見える書類、そして証明書(債券など)自体からの、利用可能な書類のとても多くが存在し - (それがもしそうなら)その詐欺は実に膨大な規模の様に見えますが、利益は殆ど無い様です。それらの書類の正真正銘性を確認する意欲のある銀行、または政府は無い様です。もしそれが詐欺なら、すると何故でしょう?誰が詐欺に騙されて、どれ程の延長においてなのでしょう?そして何故、誰かがわざわざ、美しくデザインされ、印刷された銀行の証明書を創造する手間の全てを行い、子供じみた方法において、受取人の名前を間違って綴るのでしょう?そして何故、それらの書類の所有者達は、彼等の犯罪(詐欺)とは遥かに不釣り合いな、長期的な投獄の実刑を受けるのでしょう?」¹¹¹

スカルノの「ゴールドの証明書」の逸話にまつわる高度に奇妙なこの輪を完全に閉じるために、ラヴェンダはある、最後のじれったがらせる情報の欠片を明言します。アジアと太平洋西部を通して、日本帝国がその電撃攻撃を始めた際に、その地域の植民地的な勢力(欧米)は、彼等が出来る限りのゴールドを、彼等の植民地から輸送し、そしてこれには米国も含まれ、それはゴールドをフィリピンからハワイ経由で米国へと輸送しました。この作戦の責任者だった軍事士官は、第二次世界大戦中、そしてその後にダグラス・マッカーサー将軍の諜報工作の主任だったチャールズ・ウィロウビー少将でした。¹¹²

ですが、ウィロウビーはまた、ロズウェルの明後日で有名なフィリップ・コーソー中佐と同様に - マルタのシックシニー騎士団と呼ばれた秘密結社の一員でした。¹¹³ コーソー中佐は、思い出されるでしょうが、一時期、ペーパークリップ作戦の一部として、米国へともたらされたナチスの科学者達の安全保障上の身元確認に拘わっていました。ウィロウビーも、彼自身のドイツとの関連性を持っていたのは、彼が実際にドイツ人だったためです。チャールズ・ウィロウビーは彼の本名でさえも無く、彼は1892年にヘイデルブルグにおいて、ドイツの男爵とアメリカ人の母親の息子として、アドルフ・カール・ヴォン Tscheppe-ウィーデルブルグとして生まれました。彼は、米国に移住した際に、彼の名前をチャールズ・ウィロウビーに変更しました。このドイツ人の血統のために、マッカーサーは彼を、彼の「ファシストのペット」と言及しました。¹¹⁴ マッカーサーのために、太平洋(東南アジア)における日本人の略奪の回復を監督したのはウィロウビーで、そして加えて国家主義のスペインの、フランシスコ・フランコ将軍の(ファシスト)政府と、テキサスの石油産業の大物、H.L. ハントとの、親密な結びつきを保ったのは彼でした。¹¹⁵ ハントは、順を追って - 恐らく「白ロシア人」を通して - ラインハルト・ゲーレン将軍Bundesnachrichtendienst (連邦諜報工作)と¹¹⁶、親密な関係を保ちましたが - 現実において、ロシア-ドイツ系の移民/亡命者だった、ジョージ・デ・モーレンシルトで - その事実はウィロウビーが完全に、ドイツに対する忠誠を返上したのか、または実際に彼は始めから深く潜り込んだエージェント(スパイ)だったのかという疑問を浮上させます。

ですが、ナチスが BIS を通してヨーロッパから莫大な量のマネーを送金し、成熟させ、そして非-ナチス化されたにも拘らず、戦後もその他のナチスと親密な関係を保ったシャクトを通して、彼等はヨーロッパの内部で何を行っていたのでしょう?「ヨーロッパ連邦」のための彼等の詳細な計画は一体何だったのでしょう?これが、研究者、アダム・リーボアが述べた様に、真実は居心地が悪く、語られていない処なのは、「戦後のヨーロッパの経済のための、ナチスの執行部の計画と、ヨーロッパの金融的、そして経済的な統合のその後の行程の間の平行線が本物であるためです。」¹¹⁷ 悪魔達は常に、しかしながら、詳細の中に潜み、そしてこの場合において、その詳細が悪魔達です。

D. Molecule Monopoly and the Transhumanism Tango: Uniting Europe, Patent by Patent
D. 分子独占とトランスヒューマニズムのタンゴ:特許毎にヨーロッパを統一する


第二章において発見された一貫的な目的のパターン - ヨーロッパの関税の統一(撤廃)を創造するための、両方の世界大戦の期間のドイツの戦争の目的は - その戦争の後のその様な統合の計画と実行と共に関連したナチス、またはナチスに関連した人物達の一貫的なパターンによって鏡写しされ、そして彼等の背後に、人はまた「中央集権化」の、今では親しみのあるパターンを認識します。それらの平行線が、深く成るだけでなく、高度に不穏に成るのは、その様な統合のためのナチスの計画の詳細を人が考えた時です。

例えば、その戦争の後に、ニューレンブルグの戦争犯罪の裁判によって、絞首刑が言い渡された、第二次世界大戦の間のオランダの悪名高いナチスの知事だったアーサー・セイス-Inquart は、「一度、国家的な国境が排除されれば」資本と商品の取引と移動の増大を許し、故にその大陸の繁栄を増大させる、「民族国家の概念を遥かに超える」連邦である - 勿論、ドイツの指導力の下の - ヨーロピアン連邦が存在するべきだと明言しました。¹¹⁸ 人が着目しなければならないのは、グローバリスト達の信条の親しみのある概念、「民族国家」の陳腐化のミームで、そのミームは更に加えて、ナチスの極度な国粋主義に対して正反対の様に見えるかも知れませんが、実際には、それ自体の神秘的で宗教的な存在としての、Führerprinzip (総統原則)と「人々(das Volk/ザ・民族)のナチスの信念と、とても一貫的です。それは、結局の処、ナチスの親しみのある呪文、「Ein Volk, ein Reich, ein Führer (一つの民族、一つの連邦、一人の指導者)」の一部だったのは、その概念では無く、正にその Reich (ライヒ/帝国)、その連邦、そのコモンウェルス(共通資産)、その帝国だったためです。

Reichsbank (帝国銀行)におけるシャクトの後継者、ウォルター・ファンクは、第二次世界大戦の間に、「相応しい金融的な技術」の応用が与えられると、共通通貨の創造に最終的に繋がる、「Reichsmark (帝国マルク)のゾーンのアイデアを含む、ヨーロッパの「より大きな単位の経済」の戦後の創造を主張する論文を書きました。¹¹⁹ ドイツの通貨に基づいた「経済的なゾーン」の最初の創造の後の共通の通貨のこの段階化された導入は、私達が次の章の中で目撃する様に、第二次世界大戦に続いて、予測可能な様に、西ドイツのドイツ・マルクに基づいた為替(両替)レート(比率)メカニズムの確立に続き、ユーロ・ゾーンの正に段階化された計画でした:

「ファンクの分析と予測は、戦後に続いたヨーロッパの経済的、そして歴史的な行先に対して心を乱される程、先見的でした。そのライヒ・マルクは圧倒的な通貨と成り、そして一度国外に対する借金から解放されれば、その通貨のエリアは『広げられ続けなければ』成りません。二国間の決済は、『様々な国々が、この種の決済の制度の仲介を通してお互いと共に、正しく統制された経済的な関係に入れるように、丁度、1947年の多国間決済のパリの同意と、それに続いたヨーロピアン支払い(決済)ユニオン(EPU)の様な、多国間の経済的なやり取りと決済の制度へと変格されなければなりません。』」¹²⁰

ファンクの提案の慎重な解読は、その策略全体の上に漂う BIS のモデルを示唆し、つまり、その通貨の優位的な位置を通した、ドイツによって圧倒された、国際的な支払と決済のシステムと銀行です。これは、再び、次の章において - ユーロに向かう最後の一歩である - 為替レート・メカニズムを考えるために私達が向かうと、特に明らかに成ります。

恐らく、ドイツ人達自身以外に、しかしながら、ヨーロピアン・ユニオンの構造と2つの世界大戦を通したドイツの戦時中の目的と、その構築における大規模なドイツの化学産業複合体(財閥)の役割との、その多くの平行線の類似性を理解するために、より良い位置にいるのは誰もいないでしょう。ドイツ人の医師、マテアス・ラス博士は、この題材についての人々の認識を改善しようと試みて、ドイツとポーランドにおいて、その他の現論者達と共に、数々の会議において現れましたが、そして彼自身に対する成行き無しでは無かったのは、彼の主張のために、彼が医療と化学製薬的な企業からの、様々な裁判沙汰に巻き込まれたためです。

ラスは、共同出筆者達、ポール・アンソニー・テイラー、アレクサンドラ Niedzwiecki、そしてオーガスト Kowalczyk と共に、その重要性がその少ないページによって示される重要な短い本、Die Nazi-Wurzeln der Brüsseler EU ( EU のブリュッセルのナチスの根源 )を出筆し、それは今日のヨーロピアン・ユニオンに繋がった、形成的な年月と構造における、代表的なナチスと、親-ナチスの同情者達、そして理論家達の参加を丸裸に明かしました。

ラスと、彼の共同出筆者達は2つのテーゼの提案し、それはこの本の全体を通して続かれます:

1)ニューレンブルグ裁判における連合国の調査人達とアメリカの検察の結論に続き、ラスは始めに、第二次世界大戦が、大規模なドイツの化学産業の企業、i.e. I.G. ファーベン社の化学産業カルテル(財閥)無しでは可能では無かったと考え;¹²¹ そして、

2)第一次世界大戦と第二次世界大戦は事実上、ドイツの軍事力によってヨーロッパを統合し、そして一度統合されれば世界を圧倒(支配)するための、このカルテルとそれを構成している企業(財閥)による1度目と2度目の試みでした。¹²² それらの化学的な企業とそれらを構成したファーベン・カルテルの認識から見解されると、第二次世界大戦は特に、化学産業、石油化学産業、そして化学製薬産業における何十億ドルもの市場のそのカルテルの圧倒と操作(支配)を確立するための戦争でした。¹²³

それらのテーゼに対して、ラスは3つ目を加えます:

3)ヨーロピアン・ユニオンの制度は、その同じ化学産業カルテルとナチスの人材に計画され、人員され、故にヨーロピアン・ユニオンは、ヨーロッパを、そして第三の主要な「超国家」を創造する事によって世界を圧倒する、その同じ企業的な関心による、もう一つの試みを構成します。¹²⁴ 異なった言い方をすると、ナチスの背後に有った同じ権力の構造が、ヨーロピアン・ユニオンによって仮面されています。実際に、ヨーロピアン・ユニオンと、その純粋な民主主義的な構造の欠如は偶然では無いのは、その構造と政策が、ヨーロッパ連邦のためのナチスの計画の実現、または、むしろ、EU とその官僚制度が、大規模なドイツの化学産業(財閥)的な関心のための「ポリットビューロ(旧ソ連の政治局)」以外の何ものでもないためですと、ラスは主張します。¹²⁵

1. The Patent Principle and the Molecule Monopoly
1.特許の原則と分子独占
a. Dr. Walter Hallstein
a. ウォルター・ハルステイン博士


ラスは、原則的な問題性の上に集中します:どの様にして、オランダや英国の様な、民主主義の長い歴史を持ったその様な国家が、立法的な権限の無い(ヨーロピアン)議会と呼ばれる処で、そして全ての「法律」が、そのメンバーが加盟国によって任命される、選挙で選ばれていないコミッションi.e. 官僚)によって決定される、ヨーロピアン・ユニオンを創造出来るのでしょう?¹²⁶ その答えは、先駆者達に既に示唆された様に、ヨーロピアン・ユニオンが、その加盟国による創造と言うよりも、むしろ、その他の大規模なヨーロッパの企業(財閥)と連動した、大規模な化学産業のカルテル(財閥)の創造だと言う事です。¹²⁷

此処において、しかしながら、その悪魔は再び詳細の中にあり、そしてそれらの悪魔達はナチスだけでは無く,ナチスの弁護士達で、そしてそのカルテルの関心と権力を拡張している方法は特許の法律によってでした。実際に、ニューレンブルグの戦争犯罪裁判にとって、特許は、ファーベン・カルテルとその構成要素の企業が、国家的で政治的な操作を素通りするための方法であるだけでなく、それらは、ナチスの征服の直後において、ファーベンがその権力を、それによってその(ヨーロッパ)大陸を渡って、拡張させた鍵の役割を果たし、その主要な方法でした。¹²⁸ このコンテキストにおいて、ラスが殆ど理解されていない重大な詳細を指摘するのは、「Grossdeutschland」 - 大ドイツ - と言う用語が、ナチス党とそのカルテルの後押し達のためのコードワード(暗号)に成ったためです。その用語の一般大衆的な意味合いが、十分に素朴だったのは、それが単純に、ライヒ(帝国)の Wehrmacht (連邦軍)が、近隣諸国の領土を征服した後に、一方的に合併する事を意味したためでした。ですが、ナチスとその化学産業の複合体にとって、それには追加的で、更に秘密裡で、陰険な意味を持っていました。彼等にとって Grossdeutschland が表現したのは、ライヒに対して実際に形式的に合併された領土と言うよりも、むしろ、彼等の「司法的な-突撃隊員達」が、占領された国々の特許法を、ドイツのものと共に一体化させ、調和化させる事でした。¹²⁹

この時点において、ラスと彼の共同出筆者達は、第二次世界大戦の勃発のたった9カ月前の1939年1月24日に、それらの弁護士から法律的な理論家に成った一人によって与えられた、あまり知られていませんが、多大に重要な演説の上に集中します。その演説、Grossdeutchland als Rechtsenheit - 「法的な統一としての大ドイツ」は - ロストック大学の法律の教授、ウォルター・ハルステイン博士によって与えられ、そして、直ぐに見られる様に、「ヨーロピアン制度」の戦後の創造における大重大人物で、ヨーロピアン・ユニオンの「設立の父達」の一人として相応しく考えられる程でした。¹³⁰

ウォルター・ハルステイン教授(1901-1982年)
1 publishable

この「覇権演説」の中でハルステインは、統合されたヨーロッパのためのナチス-カルテルの下書きの一部を概要し、そして実際に、このヨーロッパの化学産業の関心が、どれだけ一貫的に、その戦争の後の数十年を通して、その関心を追及したのかの、「最善の例」として見解する事が可能かも知れません。¹³¹ 人はそれらの詳細化された原則を、「法律の兵器化」、そして特に、企業と特許に関する全ての法律の兵器化として見解可能かも知れません。その演説は、「完全な計画の大きな一種」¹³² や「新たな法律の創造」¹³³ の様なフレーズに溢れ、「自然の法律」¹³⁴ の創造と共に関連していて、それは類推的な理由づけの典型的で法律的な方法に頼るのではなく、観測と変更(改良)、更に所有権に基づいた「科学的な法律」の新たな種類を見解する事で、つまり、特許と言う事でした。¹³⁵ この土台の上で法律は、「法律の全体的なエリアの一般的な徹底的な見直し」を通して、(私達が直ぐに専念させられる用語である)「より大きな空間の経済」全体まで、拡張される事が出来ます。¹³⁶

しかしながら、これが全てでは無いのは、以下を含んだ法律のこの徹底的な見直しのためにハルステインが特定的な提案を持っていたためです:

1)ヨーロッパにおける政治的な政党の再建に対する「原則的」、または憲法的な法律;

2)政党と国家の統一性の安全のための「原則的」、または憲法的な法律で、言い換えると、ナチス党による国家の全ての役職と機関の完全な従属化で;

3)新たな、i.e. ヨーロピアン・ライヒ(帝国)の構築のための「原則的」、または憲法的な法律で;

4)ライヒ、または「連邦」レベルにおいて、あらゆる役職の人員達を統制する「ライヒの国家的な役人(官僚)を統制する法律」です。

それらのドラコニアンな(厳しい) アイデアの実施を確かにするために、ハルステインは、地元と地方の政府の制度を素通りし、究極的に総統に報告する、「コミッサー」システムに相当する役職の一連を提案しました。ハルステインが行っていたのが、地元、または地方の政府の制度を廃止する提案では無く、むしろ、それらの(地方)政府が、そのライヒの統制に従う様にさせる事を確かにするシステム(i.e. 中央集権だった事に注目して下さい。立法では無く、統制が、一般的な法律に成りました。故にその政党(ナチス)は、そのカルテル(財閥)と婚姻し、「völkisch (民族)国家」の真の指導者で、そして故にそれは、法律、そしてその実施における「共通性」の方法を確かにするために、国家社会主義(ナチス)に下りました。

言葉を変えると、ドイツの指導の下のヨーロピアン・ユニオンは、ナチスの目的だっただけでなく、それを実施するための主要な方法の一つは、ハルステインの「覇権演説」において述べられた様に、政治的な政党と企業、またはカルテルの関心の間の統合i.e. ファシズム)の原則の上の法律の一体化で、それはその後、順を追って、地元、または地方の政府を廃止するのではなく、それらに対する平行において、コミッサー(監視)のシステムを実施しました。法律はそれらの「コミッサー(監視)達」によって、上から下に向けて、覆されると言うよりは、統制されました。明らかに、その様なシステムにおいて実質的な一般大衆、または民主主義的な参加が殆ど無いのは、通常の制度と政府のメカニズムが、政治的、そしてカルテル(財閥/大企業)の政党の関心の劇場的なエージェント(手先)の一種まで減少させられたためです。故に、ハルステインとナチス-ファーベンの法的な理論家達のために、通常の人間の使用から、更にもう一つの「コードワード」が創造されたのは、「母国」、または「国家」、もしくは「政府」の様なフレーズ、または言葉が、人々のソヴリンティー(国民主権)でも、(通常の感覚において)彼等(国民)を代表する政府、または国家でも無く、正に政党-カルテルの連合、または婚姻自体のソヴリンティーを意味しました。¹³⁸ 「故に」ハルステインは彼の覇権演説の中で、「大ドイツ・ライヒにとって、法的な統一¹³⁹ は、この領域の創造から結果する偶発事態では無く、その使命である」と明言しました。¹⁴⁰

ハルスタインのヴィジョンは、慎重に考えられた時にまた、目的を達成するための政治的な弁証法の応用における巧妙な研究であるとそれ自体を明かします。ハルスタインにおいて人は、その、もっとよく知られた「左翼」、またはマルクス主義に対して対峙するその「右翼」のファシストにおける、ヘーゲル的な弁証法を知覚します。ですがそのマルクス主義者の対象相手と同様に、ハルステインのヴァージョンは、(1)テーゼ、(2)アンチテーゼ、そして(3)統合の、同じ3つの主要な段階を有します。それらの3段階の、段階的な応用を考慮してみて下さい:

1)ナチスのテーゼ:ドイツ国外には広い人気のある支持が全く無い国粋主義の残忍で、圧政的で、暴君的なシステムを創造し;

2)民主主義的なアンチテーゼ:全-ヨーロッパ的な反対勢力の対処法を与えるために、その政権(ナチス)に反対する、戦時中の地下の反対勢力、そして戦後の人気の有る、社会的で民主主義的な反対勢力を創造し、故に初歩的な「ヨーロピアン」で文化的な自己意識と制度を創造し;

3)ヨーロピアン・ユニオンの統合:ハルスタイン-ナチスの原則の上にモデルされたヨーロッパの官僚制度的な超国家の創造ですが、民主主義的な制度の劇場の背後に仮面されて(隠されて)います。

人が、ハルステインの覇権演説の単なるこのまとめを考えた時、それらの段階は直ぐには鮮明では無いかも知れない間、それらは、「ヨーロピアン制度」の形成の補佐における、彼のとても顕著な戦後の活動を人が考えると、直ぐに完全に鮮明に成ります。

1957年のローマ条約署名の際のコンラッド・アデナウアー首相とウォルター・ハルスティン
1 adenauer hallstein

実際に、ハルステインは戦後の西ドイツの最も熱心な「ヨーロッパ主義者達」の一人に成り、ドイツの戦後のアデナウアー首相からブラント首相までの一貫的な助言者で、親友と成りました。彼は1957年において、ヨーロピアン・コミッション(EC)を含む様々なヨーロッパの制度を確立した、ローマ条約の署名式に出席し、アデナウアー首相と共にその道具(書類)に共同-署名し、そして1958年においてその最初の会長に就任し、その役職を彼は1967年まで、安定的に保ちました。¹⁴² この時点において着目されるべきは、1938年におけるローマ-ベルリンの(三国)同盟の結束と共に、イタリアのファシストとドイツのナチスは、ドイツとイタリアの法律、特に労働関係、企業法、そして特許法を調和へともたらすためにデザイン(計画)された事務局である、Arbeitsgemeinschaft für deutch-italienische Rechtsbeziehungen、ドイツ-イタリアの法律的な調整のための労働社会を確立した事です。¹⁴³ 故に、それらの原則が、ハルスタインの1939年の「覇権演説」の中で宣言されただけでなく、ハルスタイン自身が直ぐにそれ等の行程において関わり、1951年において、石炭と鉄鋼における最初のヨーロピアンの「共通市場」を創造した、ヨーロピアン石炭と鉄鋼のコミュニティーの、ドイツ人の署名者で代表だったと人が発見するのは驚きとしては捉えられないでしょう。¹⁴⁴ 1957年におけるローマ条約の署名者として、そして1958から1967年までのヨーロピアン・コミッション(EC)の会長として、ハルステインはまた、その関連した組織、セルンConseil Européen pour la Recherche Nucléaire)がよく知られているユーラトム(Euro-atom)の確立を監督するにおいて指導的だっただけでなく、ヨーロピアン・コミッションの会長としての彼の任期の間にその設立を指導しました。¹⁴⁵ 1939年の彼の「覇権演説」の中における「コミッサー(監視人)」システムの一種のためのハルステインの提案がまた、ヨーロピアン「コミッショナー(監視人/官僚)達」の現れと共にローマ条約によって確立されたメカニズムの中へとそれらの道を見つけた事も、驚かれるべきでは無いでしょう。

ウォルター・ハルスティンとウイリー・ブラント首相
2 hall brandt

彼のナチスの過去(履歴)を与えられると、ハルステインはどの様に、第二次世界大戦後のドイツの政府の中でその様な顕著な「ヨーロッパ主義者」に成り、そしてその後、最初のヨーロッパ規模の制度における代表的な人物に成る事が出来たのでしょう?とても単純に:彼は様々なナチスの組織における彼の会員の地位を隠し、「ヨーロッパを圧倒するための、国家社会主義のカルテルの目的の代弁者としての、彼の様々な出版物と講義を破壊したためです。」¹⁴⁶

b. Arno Sölter
b. アルノ Sölter


ハルスタイン博士は、しかしながら、ドイツに導かれたヨーロッパ規模の連邦の問題について働きかけている、唯一のナチスの法的な理論主義者ではありませんでした。実際に、その様な連邦のアイデアは、ナチスとファーベン・カルテルの戦後の計画のとても中心的で重要な構成要素だったので、戦後のヨーロッパの統合の問題を研究するために、ドレスデンにおいて「国家的で経済的な秩序と『より大きな空間の経済』¹⁴⁷ のための中央研究機関」が設立されたほどでした。¹⁴⁸ この機関の楯の下で、法律家で経済学者のアルノ Sölter は、その題名、Das Groℬraumkartell: ein Instrument der industriellen Marktordnung in einem neuen Europa、または大きな空間のカルテル:新たなヨーロッパにおける市場の産工業的な組織の道具が全てを語る本を、1941年に出版し、その研究の現代のヨーロピアン・ユニオンとの平行線を、ラスは「息を奪う様だ」と特徴化させます。¹⁴⁹ Sölter と彼のファーベン-ナチスのご主人様達にとって、その「大きな空間」、または Groℬraum は、ヨーロッパ側のロシアを含む、ヨーロッパの全てを意味し¹⁵⁰、それは、その本が最初に現れた時に、ソヴィエト連邦に対するヒトラーの侵略である、バーバロッサ作戦が丁度開始され、そして(ソ連)赤軍が、戦場において計画的に、そして作戦的に壊滅させられていたので、Wehrmacht (連邦軍)は、征服において成功的である様に見えていました。その言及された「大きな空間」は故に、「大西洋からウラル山脈までのヨーロッパ」のためのコード・ワードで、続く章の中で私達がそれと共に考える概念です。¹⁵¹

人が「ヨーロピアン・ユニオンの構造に成るもの」のための、詳細で構造的な下書きを発見するのは、人が Sölter の本を読んだ時で¹⁵²、Sölter の明言は実際に息を奪います:

私達は市場の秩序のヒエラルキー:国家-経済的な統合-カルテルを、私達が『より大きな空間のカルテル』のために確立した事を思い起こしましょう。このコンテキストにおいて、私達は一時的に、『大きな空間のカルテル』の中の経済的で政治的な『安全保障』のエリアにおける国家の責任を無視します。代わりに、私達は、カルテルの見識から、ヨーロッパの市場の組織化の問題の詳細、そしてその後、大きな空間のカルテルのエリア全体の、市場操作の原則に必然的に影響する国家の経済的な政策の問題について私達自身を集中させる事を望みます。大都市エリアのための直接の責任を持つのは「カルテル経済グループ」で、その市場を操作している機能が、「カルテル事務局」の中に含まれる事を、私達は望みます。」¹⁵³

Sölter は、その「カルテル事務局」は、中央のカルテル事務局に対して全て答えなければ(i.e. 従わなければ)ならない、地方的な事務所を持つべきで、それには反-信用(独占禁止)の監視の責任があり(!)、そしてその「大きな空間」の中で努力の重複(無駄)が無い事を確かにしなければならないと、続けて明言します。¹⁵⁴ この中央的なカルテルの事務局は「最高統制権威」で、金融的、そして経済的な政策の確立のための責任機関です。¹⁵⁵

Sölter が提案しているものがヨーロッパ全体の規模に対するファーベン-ナチス連合の拡張である事に着目してもらいたいのは、Sölter の頭の中にあるその中央の事務局が、フランクフルトにおけるそのカルテルの本部と、ベルリンにおけるナチス帝国政府の間の連絡係りとして機能した、ベルリンにおけるファーベンの事務所であったためです。この権力の構造は、3つの要素のヒエラルキーにおいて表現が可能で:(1)(最も低い段階における)国家自体で、(2)(「コモンウェルス/共通資産」の感覚におけるReich である)経済的なユニオン、または統合で、そして最後に、全ての背後に隠れているのは(3)そのカルテル自体でした。これが、このヒエラルキーの意図された秩序(順番)だった事は、Sölter が、彼の中央カルテル事務局を、ヨーロッパ規模の連邦における「最高統制権力」にする事実よって明かされます。ラスにとって、これが正にヨーロピアン・ユニオンの構造の中に鏡写しされているのは、ヨーロピアン・コミッション(官僚達)が、統制的な命令のその「永続的な名禄」を通した統制的な宣言をとして、支配するためです。この名禄の中に公表されない限り、法律に成るものは何も無いとラスは記述します。¹⁵⁶ そして再び注目してもらいたいのは、それらの統制的な命令を公表している人達が、選挙で選ばれた人気(信頼)のある人達では無く、それぞれの政府によって任命された人達であると言う事です。Sölter のヒエラルキーを思い返すと、これが意味するのは、そのコミッション(官僚達)が単純に、国際的な企業の関心の、公共的で統制的な顔(代理)であると言う事です。¹⁵⁷ 効果的に、Sölter の中央カルテル事務局は、統制的な命令を通して法律の調和化と一体化を達成し、そして効能させるために創造された体系で、故に国家的、または地方的な議会を素通りし;それは、言うなれば「法人の教義の兵器化」でした。

国家の人口(国民)を、法人の一つのグループへと、多大に格下げする「人々の人格化」をハルステインが語る、彼の「覇権演説」の中でカルテル-政党の連合のスピリット的な権力の体現として、この「兵器化」の形状において、法人の教義に人が出くわすのは、驚かれるべきでは無いでしょう。¹⁵⁸ 国家的な人口の全体まで、法人の人格の教義をその様に延長させる事によって、個人的な人格の凄まじい降格が達成され、そしてもし人が、その(法人の)教義の神学的な起源を思い出せば、企業的なグループの行いのための、個人的な人格の法的な過失が同様に確かにされました。¹⁵⁹

「大西洋からウラル山脈」までのヨーロッパは、一つの巨大なカルテルで、企業的な超-国家に成る計画でした。そしてこれは、第一次世界大戦以来、ドイツの政治的、軍事的、そして企業的なエリートの一貫的な戦争の目的であったと、私達は再び反復しましょう。戦後の西ドイツの政府の中だけでは無く、ヨーロピアン・ユニオンの中の戦後の構造の創造と制度化におけるとても多くの影響的なナチスの存在、そして第二次世界大戦時のナチス-ファーベン・カルテルの連合のアイデアとの、現在のヨーロピアン・ユニオンの構造の一貫的な平行線は、目撃するために全て其処にあります。故に、「国際ナチスは今、何処にいて、そして一体何を行っているのか」と言う問いに答えるために、人はヨーロピアン・ユニオン自体よりも遠くを見つめる必要はありません。¹⁶⁰

ですがその目的を達成するために、人は法律を調和化させ一体化させるだけでなく、一つの通貨の創造を可能にするために、その国々の通貨もまた統制しなければなりません。人は、効果的に、単一通貨へと移行するために、通貨市場の「統制と秩序化」を行う能力のある、「通貨カルテル」を創造しなければなりませんでした。私達がこれから向かうのはその逸話のその要素です。

1980年代初頭におけるキリスト教民主主義統合党(CDU)の集会におけるヘルムット・コール首相
1 Helmut Kohl

アンゲラ・メルケル首相
2 zzi4c2
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1 Adam Lebor, Tower of Basel: The Shadowy World of the Secret Bank that Runs the World
(New York: Public Affairs, 2013), p. 220.
2 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe: The Dirty War for Europe’s Money (London:
Faber and Faber: 1995), p. 10, emphasis in the original.
3 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard: The Autobiography of Hjalmar Horace
Greeley Schacht (Cambridge, Massachusetts: Houghton Mifflin Company, 1956), p. 85.
4 Ibid., p. 1.
5 “Peter Oldfield,” The Alchemy Murder (New York: Ives Washburn, Publisher, 1929), pp. 179-
183, emphases added.
6 多くの人達にとって、このアイデアは頻繁に、もう一つとの連動においてはっきりと表現され、つまり、「権力のエリート達」が、どれだけ秘密裡であっても、それらを行う前に、彼等が、彼等の意図を明かさなければ成らないと言う、何らかのルール、または「道徳的な法律」の下にある事です。
7 Adam Lebor, The Tower of Basel, p. 52. リーボアは、それらの2つのスリラーをヤコブセンが誰と「共同出筆」したのかを提示しませんが、これは恐らく単純に、全ての可能性において、ヤコブセンの観測を読みやすいフィクションへと書き換えた単なる「ゴースト・ライター(代理出筆)」でしょう。同等に可能なのは、しかしながら、ヤコブセンのゴースト・ライターがまた、彼の文章の中へと、重要、または決定的な詳細が入り込まない様にするために、企業的、銀行業的、または政治的な世界から雇われたセンサー(修正人)であった可能性もあるでしょう。
8 Adam Lebor, The Tower of Basel, p. 52.
9 ヨーロピアン・ユニオンの構造は、フランスが EU 以前の金融的な構造一般、そして特に、ヨーロピアン為替レート・メカニズム(EMR)を解釈する方法を考える時に、この章のもっと後で出くわす用語である「民族国家(state-nation)」でもありません。
10 ヒャルマー・シャクトは、結果的な超-インフレについてのドイツの法律の効果の一つを記述し:「農業が今の処、そのインフレから多大な利益を得たのは、何故なら後者(インフレ)がマルク安にされた通貨と共に彼等の借金を支払う事を農夫達に可能にしたためで、何故ならドイツの法律が、マルクはマルクに同一であると言う原則を守るためです。これが意味するのは、ゴールドのマルクにおいて派生させられた借金が、マルク安にさせられたマルク紙幣における同等の価格の量の方法によって支払う事が可能だと言う事です。加えて、その農業的なコミュニティーは、出来る限り素早く、あらゆる種類の有用な機械や家具、そして多くの無駄なものもまた購入するために、彼等の紙のマルクを使用しました。
11 Hjlamar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 169.
12 Ibid., p. 163.
13 Ibid.
14 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 164.
15 Ibid.
16 この場合において、少なくとも表向きには、通貨を後ろ楯するために、使用されませんでした。
17 See my Covert Wars and Breakaway Civilizations, pp. 36-43.
18 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 181, emphasis added.
19 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 182.
20 今現在の記述まで、私はその様な関連性の直接の証拠を見つけてはいませんが、SS の バーンハルト作戦の間の、後のナチスのスターリング・ポンド(英ポンド)の偽札への関連性が此処にあるかも知れません。
21 Schacht, op. cit., pp. 182-183.
22 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 184.
23 Ibid., pp. 186-187. 実際に、ノーマンはそれを推薦しただけでなく、英国において十分な後ろ楯を並べたので、シャクトはたった200,000,000マルクだけでは無く、5億マルクの使用可能な資本に頼る事が出来ました。(q.v. p. 186)
24 Ibid., p. 191. シャクトはまた、ライヒ・マルクの安定性のために、そのゴールド値下げ銀行が、その紙幣を発行する事が必用では無く成ったと記述しますが、彼はスターリング・ポンドにデノミ(ポンド建て)されたその様な紙幣は印刷されましたが、一度も流通へは入れられなかった事を明言しません。(see p. 191)
25 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, pp. 198-199, emphasis added.
26 Ibid., p. 200.
27 Ibid. シャクトは、そのライヒ銀行の役員会の連合国とドイツの役員達の関係が常に誠心誠意であったと、わざわざ示唆します。
28 Ibid., p. 217.
29 Ibid.
30 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 218.
31 Anthony Sutton, Wall Street and the Rise of Hitler (Seal Beach, California: ‘76 Press, 1976),
p. 24.
32 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, p. 219.
33 Ibid., p. 210.
34 Ibid., p. 231, emphasis added.
35 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, pp. 231-232, all emphases added.
36 Anthony Sutton, Wall Street and the Rise of Hitler, p. 25.
37 Ibid., p. 25, see also my The Nazi International, pp. .
38 Schacht, op. cit., p. 233: シャクトは、それらの計画の会合の主要な英国の代表が、19世紀の間の中国における英国の麻薬貿易との強い関連を共にした香港&上海銀行企業(HSBC)の会長として長年過ごした、サー・チャールズ・アディスだったと記述します。これは、BIS のために考えられた「国際決済」の少なくとも幾らかが、麻薬マネーを含んだ推理的な可能性を開きます。
39 Adam Lebor, Tower of Basel, pp. 19-21.
40 Ibid., p. 20.
41 Ibid., p. xiv.
42 Ibid., p. xv.
43 Adam Lebor, Tower of Basel, p. xv.
44 Ibid., p. 21, emphasis added.
45 Ibid.
46 Lebor implies this clear possibility on p. 41, though comes just short of stating it.
47 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 13.
48 人は、実際にどれだけのゴールドが秘密裡にその銀行のその口座(または金庫)に隠されているのかを疑います。その銀行(BIS)の「主権の地位」に加えて、その銀行のための計画委員会のサー・チャールズ・アディストの奇妙な関連性、そして香港&上海銀行(HSBC)との彼の関連性は、麻薬マネーとその他の犯罪的な資金を、その銀行(BIS)が洗濯する能力の可能性を強くします。
49 Lebor, op. cit., pp. 67-68, see also pp. 22, 39.
50 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 60.
51 Ibid.
52 Ibid., 61.
53 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, pp. 240-241.
54 Hjalmar Schacht, Confessions of the Old Wizard, pp. 253-255, especially 254.
55 Ibid., p. 254.
56 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 29. それが、勿論、連合国と関連した勢力の一部の単なる感情的、または誇張した表現だったと主張される事が出来るのは、1930年代の早期までに、ドイツ国内の急進的(過激)な左派と右派である共産主義ナチス主義は実際に、それら自体の思想的な方法において、西洋(英米ユ)の政治的、そして金融的な秩序の構造(ユーザリー)の全体に対して兆戦していました。ナチスは、勿論、賠償金、戦争罪悪感、そして武装解除の条約を共にするヴェルサイユ条約の発令を、このシステムの象徴としました。その条約の最も厄介な条項を破壊(無効化)する事によって、連合国は、ドイツ国内の急進的な政党から,彼等の政治的な土台を奪う事を望んだのかも知れません。
57 Ibid., p. 42.
58 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 27.
59 Ibid., p. 28.
60 リーボア自身がこの全く同じ観測を行い:「その国際的な舞台、銀行業のネットワーク(人脈)、そして供給された BIS の正当性は、最初にライヒ銀行、そしてその後、その後継者の各銀行の、ナチス時代から現在までの多大に強力な金融的、そして経済的な関心の継続性を確かにする手助けをしました。」(Adam Lebor, Tower of Basel, p. xix, emphasis added)
61 Adam Lebor, op. cit., p. 28.
62 Ibid., pp. 34, 35.
63 Peter Levenda, The Hitler Legacy: The Nazi Cult in Diaspora: How it was Organized, How
it was Funded, and Why it Remains a Threat to Global Security in the Age of Terrorism (Lake
Worth, Florida: Ibis Press, 2014), p. 127. リーボアはまた、アメリカの企業、ITT (国際電話&電報)がヴォン・ショローダーとの提携であった事を記述します。(Lebor, op. cit., p. 109). ITT は、勿論、オーガスト・ピノシェによって導かれたチリの軍部における右翼的な要素と、ナチスの「入植地」であったチリのパラル付近の「コロニア・ディグニダッド(ディグニダッド入植地)」によって現地において援助された、チリにおけるサルヴァトーレ・アリエンデに対する CIA のクーデターの一部である、転覆において、その後示唆されました。
64 Adam Lebor, op. cit., p. 50.
65 Ibid., p. 82. リーボアはまた、その殆どが征服された国々のゴールドの保有からの略奪であった、ライヒ銀行のゴールドの口座が「トマス・マクキトリックの仲間で、パー・ヤコブセンの昼食の同僚」だった、エミール・プールによって扱われたと記述します。(p. 85)
66 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 81.
67 Ibid., p. 120.
68 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 95, emphasis added.
69 Ibid.
70 Ibid.
71 Ibid., pp. 20-21.
72 Ibid., p. 96.
73 Adam Lebor, Tower of Basel, pp. 95-96.
74 リーボアは実際に、ホワイトが実に敏感な情報をモスクワに渡したと言う、今では知られている事実を記述しますが(p. 142)、ホワイトは単純に、共産主義者の手先と言うよりもむしろ、「ルーズベルトの国際主義者」だったと言う現代の弁解者の一線に続きます。
75 Ibid., p. 121.
76 この点について、ホワイトが絶対的に正解なのは、マクキトリックが、一人のアメリカ人として、その戦争(第二次世界大戦)の期間に、三国同盟のヨーロッパと米国を、その確立された銀行(BIS)の条項と条約に沿って、BIS の執行部の一員として彼に与えられた外交的な特権と共に旅したためです。
77 Adam Lebor, op. cit., p. 123.
78 Adam Lebor, Tower of Basel, pp. 137-138.
79 Ibid., emphasis added.
80 Ibid., p. 140.
81 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 165.
82 Ibid., pp. 166-167.
83 Ibid., pp. 171-172.
84 Adam Lebor, Tower of Basel, p. xxi.
85 Ibid., p. 188.
86 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 298, emphasis in the original. ラヴェンダはまた、「この情報が、ヴァチカン市国(一致している資料)」とラベルされた箱の中の、1945年5月15日に日付けされた米国政府の公文化された資料から得たと記述します。ブラジル銀行とヴァチカン市国へのこのゴールドの移動の間の関係が何であったのかは、人は想像する事しか出来ません。」(p. 298)
87 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 169.
88 Ibid., p. 170, emphasis added.
89 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 193.
90 See my The Nazi International, pp. .
91 Levenda, op. cit., p. 193, see also my Nazi International, pp. .
92 Levenda, op. cit., p. 195.
93 Peter Levenda, The Hitler Legacy, pp. 208-209.
94 Ibid., p. 211.
95 Ibid., p. 209. このコンテキストにおいて、恐らくそれがまた重要なのは、ドイツが、中国の AIIB (アジア・インフラ設備)銀行の設立的な一員に成った間、日本が、アメリカの圧力の下で、現在までそれに参加していない事です。
96 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 210, citing William Stevenson, The Bormann
Brotherhood (New York: Bantam, 1974), p. 174.
97 For this story and its relationship here, see my Covert Wars and Breakaway Civilizations,
pp. 71-166.
98 Levenda, op. cit., p. 271.
99 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 271.
100 Ibid.
101 Ibid., p. 272.
102 Ibid. pp. 280-281.
103 Ibid., p. 275. ラヴェンダはまた、9.11の作戦が、少なくとも部分的に、そしてその陰謀の一つの段階において、この金融の膨大で秘密裡のシステムに結び付いていたとされる、金融的な記録(第七ビル)の破壊の作戦であった事を記述しますが、彼はこの論説を疑います。
104 See my LBJ and the Conspiracy to Kill Kennedy: A Coalescence of Interests (Kempton,
Illinois: 2010), pp. 152-172.
105 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 285, emphasis added.
106 See my Covert Wars and Breakaway Civilizations, pp. 149-153.
107 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 287.
108 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 289.
109 Ibid., p. 291, all emphases added.
110 See my Covert Wars and Breakaway Civilizations, pp. 160-166, and my first presentation
at the Secret Space Conference in San Mateo, California, in June of 2014,
https://www.youtube.com/watch?v=1svGIBKaE_0, 1:16:20.
111 Peter Levenda, The Hitler Legacy, pp. 293-294.
112 Ibid., p. 273.
113 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 273.
114 Ibid., p. 185.
115 Ibid., p. 186.
116 See my LBJ and the Conspiracy to Kill Kennedy, pp. 48-53, 152-172.
117 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 220
118 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 221.
119 Ibid., pp. 221-222.
120 Adam Lebor, Tower of Basel, p. 222, emphasis added.
121 Paul Anthony Taylor, Aleksandra Niedzwiecki, Matthias Rath, and august Kowalczyk, Die
Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”: Was Sie schon immer über die “Brüsseler EU” wissen wollten,
aber Ihnen niemand zu sagen wagt! (Heerlen, The Netherlands: Dr. Rath Health Foundation, 2011),
p. 11. ラスと彼の共同出筆者達はまた、ニューレンブルグの戦争犯罪裁判が、ファーベン・カルテル、その構成要素の各企業、そしてナチス党の間の、「連合」と「婚姻」の一つとしての関係を特徴化すると記述します。(q.v. p. 102)
122 See also Rath, et al, p. 64.
123 Ibid., p. 58.
124 Rath, et al., Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 13.
125 Ibid., p. 78.
126 Ibid., p. 40.
127 Ibid., p. 52
128 Ibid., p. 40, q.v. also p. 36.
129 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Briisseler EU”, p. 104, “die juristischen
Sturmtruppen.”
130 Ibid., pp. 100-101. ラスと彼の共同出筆者達は、1939年1月24日の the Niederdeutscher Beobachter の100ページに載せられた元々の演説の記事を引用します
131 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 108. “Hallstein’s , Eroberungsrede’ is
das beste Beispiel dafür, wie das Öl- und Pharmakartell seine politischen Interessenvertreter über
Jahzhnte austauscht, jedoch seine langfristigen wirtschaftlichen und politischen Ziele weiter verfolgt.”
132 Ibid., p. 112.
133 Ibid., p. 114.
134 Ibid., p. 113.
135 Ibid., pp. 114, 118. 注目するに価値があるのは、これが政治的な強要と統合の目的のために、大きな地域的な市場の上に延長されたカルテル-の様な影響力の方法として、様々な国々の特許の法律の、調和化と一体化の利用のアイデアが、現代において現れた最初の例であったためです。その策略は GMO (遺伝子改悪)の問題におけるその応用を調査している人達にはよく知られていて、それは明らかに、人間の遺伝子(ゲノム)に対する様々な変更の特許化のために示唆を有しています。Joseph P. Farrell and Scott D. deHart, Transhumanism: A Grimoire of Alchemical Agendas, pp. 112-132, and Joseph P. Farrell, Genes, Giants, Monsters, and Men, pp. 125-158参照。加えて記述されるべきは、もう一人のカルテル-ナチスの法律家、Carl Friedrich Ophüls が、特許の弁護士としてフランクフルト-am-Main において働いただけでなく、その後のヨーロッパ・コミッション(EC)における、ハルスタインの「ブリュッセルにおける部下」だったためです。 (Q.v. pp. 48-49).
136 Ibid., p. 116, “…eine Generalüberholung ganzer Rechtsgebiete.”
137 Rath et al, Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 128.
138 Rath et al, Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU, p. 132: ハルステインは、“staatlichen Hoheit des Mutterstaates,”について語り、文字通り、「母国の国家的な崇高さ」です。ですが当時の技術的、そして法的な定義において、「Hoheit (崇高さ)は、それ自体の安全保障と利益のための存在、または効果的な調整の、法的な感覚における完全なソヴリンティー(主権)を意味します。 故に、ナチス政権はドイツの Wehrhoheit (「防衛の崇高さ」)を再建するため、i.e. ヴェルサイユ条約の制限を翻し、ドイツの自己-防衛のために十分な防衛と軍事の手段を取る必要性を語ります。
139 「法的な統一性」、 Rechtseinheit は、このコンテキストにおいて、「法律的な存在」、または「法的な統一」としても翻訳される事が出来ます。
140 Rath et al. op. cit., p. 134: “So ist es also auch für das Großdeutsche reich die rechtseinheit
night eine Tatsache, die sich aus der Schaffung dieses Reiches ohne weiterest ergibt, sondern eine
Aufgabe.” ドイツの指導の下で創造される未来のヨーロッパ的な領域、またはライヒである「領域」において、ハルステインが、この領域を、既に存在している第3帝国から区別する事に注目して下さい。
141 ヒトラーに対する「爆弾計画」のメンバーが、ヒトラー(そして故にヒトラーの「婚姻相手」ファーベン・カルテル)の反対者としての彼等の地位を「神聖化」する目的のための「操作され、工夫された」対峙(フォルス・フラッグ)であると言う、マドリッド回覧書のはっきりとした明言を思い出して下さい。
142 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Briisseler EU”, p. 80.
143 Ibid., p. 88.
144 Ibid., p. 119.
145 ナチス-カルテルの法律家/弁護士の、セルンの背景における影の存在は、第7章の中でより詳しく考えられます。現時点において、私達は単に、読者の注意をそれに引き寄せます。
146 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 46.
147 Ibid., p. 162, Zentralforschungsintitut für nationale Wirtschaftsordnung und
Großraumwirtschaft.
148 Ibid., p. 165. 「この制度は、ナチス-ファーベン連合の戦後のヨーロッパのための公式で経済的な計画局の一つであった」と、ラスは明言します。
149 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Briisseler EU”, p. 162.
150 Ibid., p. 164.
151 人が更に推理する事を誘惑されるのは、エキゾチック(珍しい)兵器と推進力のプラットフォーム(土台/科学技術)を探求する事との、ナチスの没頭を与えられると、Groℬraum と言う用語がまた、Weltraum、または「外宇宙」のためのコード(暗号)かも知れないためで、そして故に、この推理的な解読において、ナチス-ファーベンの計画は、その概念の基本において、この惑星においてだけでは無く、宇宙の商業化とカルテル化において、惑星外に埋め込まれる事を意図された計画だったのかも知れません。
152 Ibid., p. 165.
153 Ibid., pp. 165-166, 強調が加えられたドイツ語からの私の英訳です。 (“Wir erinnern an die
Hierarchie der Marktordnung: Staat—Wirtschaftseinheit—Kartell, die wir für das Großraumkartell
etabliert haben. In diesem Zusammenhang lassen wir die Staatsverantwortung in den Bereichen der
Wirtschafts- und Wahrungspolitik innerhalb des Grossraumkartells zunächts außer Acht. Stattdessen
wollen wir uns detaillierter dem Problem der Organisation eines europaischen Marktes aus Sicht des
Kartells und später dem Problem der Wirtschaftspolitik des Staates widmen, welche unweigerlich die
Principien der Marktregulierung des gesamten Bereiches des Großraumkartells betreffen. Direkt
verantwortlich für das Großraumkartell ist die Wirtschaftsgruppe, deren marktregulierende
Funktionen wir in einem Kartellbüro zusammengefürht sehen wollen.
154 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 166.
155 Ibid., p. 167, “die höchste Regulierungsbehörde”.
156 Ibid., p. 171.
157 人は、大きなアメリカの企業:AT&T、または「マ・ベル」の中の類似した「実施」を見る事によって、永続的な名禄、またはジャーナルの何らかのアイデアを得られるかも知れません。その企業の通信の独占の絶頂期の期間、それは、その企業の職員達が「ザ実施」と呼んだ、職員の机の「突出部」がどれだけ許されるかまで規定した、何が行われ、何が行えないのかの、企業的な統制と手順の全ての種類を規制した分厚い本(説明書)を出版しました。その監督者、または責任者の地位がより高ければ、更なる突起部が許されました。
158 Rath et al., Die Nazi-Wurzeln der “Brüsseler EU”, p. 136, “die Persönlichkeit des Volkes.”
159 この教義の簡単な論議のために、私の Financial Vipers of Venice, pp. 145-153を参照して下さい。
160 ラスと彼の共同出筆者達は、ヘルムット・コール元首相が、特に BASF のための化学製薬的、そして化学産業のためのロビーイストとして彼の政治的なキャリアを始めた事に着目する事によって、ファーベン・カルテルの構成要員達と生き残り達との、ヨーロッパの、特にドイツとフランスの指導者達の強い関連性を指摘します。コールは、順を追って、ドイツのキリスト教民主主義統一党(CDU)の後継者として、アンゲラ・メルケルを育成しました。フランスのサルコジは、Hoechst 社の後継会社である Sanofi 社に重度に資金援助されました。
(Q.v. Rath et al. Die Nazi-Wurzeln der“Brüsseler EU”, pp. 244, 248, 256).


6. Europe from the Atlantic to the Urals: The Currency Cartel and Secret Treaties
6.大西洋からウラル山脈までのヨーロッパ:通貨カルテルと秘密裡の条約


「・・・ファンク博士によって議長された、1941年におけるベルリンの話し合いの会議において表現された主要な題材は、EU の集合的なマーストリクト条約とその派生物のための枠組みを形成しました。特に驚きなのは、ナチスによって公表されたヨーロピアン経済コミュニティー(EEC)、ヨーロッパの為替レートの調和化、ヨーロッパの通貨システムのための下書き(計画書)です・・・」
- クリストファー・ストーリー¹

「その概念において、経済 - そして特に金融的な経済は - 国家のため、または(社会)階級のためのどちらかの、政治的な覇権の道具で;通貨は、国家、または階級の権力の表現で、そしてその通貨の領域がより広ければ、それを操作する者達の権力もより大きく成ります。」
- バーナード・コノリー²

「マネーの問題は故に、何がでも、どれだけ多くでも無く、誰がで、i.e. 誰がその発行の背後にいるのかです。」³

統合されたヨーロピアン連邦のためのナチスの計画は、とても詳細で特定的で、そして彼等の戦略のための不可欠な鍵は - これより適切な表現が無いので - 「Reichsmark (帝国マルク)ゾーン」と呼べるかもしれないものの創造で、そのゾーンの中における圧倒的な通貨はReichsmark で、その他のそれぞれの通貨が、様々な為替メカニズムと両替の可能性の調整を通した「対化(ペッグ)」を共にしました。効果的に、その戦略は、Reichsmark を統合されたヨーロッパの基準通貨にするための実際の試みで、そして故に、世界のその他に対して、その効能(キャパシテイー)における、その役割を拡張する事でした。それらの計画との、現在のヨーロピアン・ユニオンの類似性、そしてその両人が、サッチャー時代を通して生きて、そして両方が「鉄の女」と呼ばれた有名な英国の首相が、彼女自身の保守党内の親-ヨーロピアン・ユニオンの勢力によって失脚させられた事を目撃した、2人の英国人達によって、それ(ナチスの EU 計画)に繋がった推移的な段階が暴露された事は、驚きとしてとらえられるべきでは無いでしょう。それらの2人の男達は、可能な限り(お互いから)異なっていて、一人は、数世紀を通した綿密な仕上げを通して、苦難して勝ち取られた英国の憲法と慣習法(コモン・ロー)に成った基準的な自由腐敗に警戒した、典型的な英国の中産階級の個人、故クリストファー・ストーリー氏でした。もう一人は、バーナード・コノリーで、日常的な土台の上で「ユーロクラシー(ヨーロッパの官僚制度)」のメカニズムを個人的に監督し、扱ったプロ(専門)の「ユーロクラット(ヨーロッパ官僚)」でした。最終的に、コノリーもまた、英国の憲法に対する危険を認識しました。

A. The Nazi Plan for a Reichsmark-Coupled Exchange Rate Zone
A. ライヒスマルク(帝国マルク)と対化(ペッグ)された両替レート(比率)のゾーンのためのナチスの計画
1. The 1942 Funk-Farben-Reichsbank Study
1.1942年のファンク-ファーベン-帝国銀行の研究


1942年に成ると、Reichsbank (帝国銀行) とナチス・ドイツの経済大臣(Reichswirt-schaftsminister)におけるシャクトの後継者、ウォルター・ファンクは、その中にその計画の通貨の要素が初めて公開された、戦後のヨーロピアン経済統合のための、ナチス政権の詳細な計画の出版を主催しました。この本、Europäische Wirtschaftsgemainschaft (ヨーロピアン経済コミュニティー/EEC)は、代表的な産工業家、経済学者、そして学者達による論文の収集物で、そしてストーリーによると、現在のヨーロピアン・ユニオンが従う計画を概要します。⁴

その論文の題名と、その本の内容の分析的なテーブルを読むと、ファンクの本への貢献者達は、第三帝国の産工業的、そして学術的なエスタブリッシュメント(権力側)の代表格達である事を明かし、そしてそれらの論文自体が、一体どれだけナチス-ファーベンの連合の計画が詳細だったのかを示唆します:

ハインリッヒ・ハンク教授、ベルリンの実業家達と産工業家達のアソシエーションと、ドイツ経済のインスティチュートの会長:

紹介

・経済的な実施
・大陸的なヨーロピアン経済コミュニティー(kontinentaleuropäischen Wirtschaftsgemeinschaft)が面している問題

ウォルター・ファンク、帝国の経済大臣、そして帝国銀行の総裁:

新たなヨーロッパの経済的な特徴

・偽の、そして正真正銘の経済的な自由
・大陸的なヨーロッパの協力
・ヨーロッパの効能(キャパシテイー)と補足の仕方
・経済の国家の方向性と、「加盟国」の間のコミュニティーの「働き」
・「加盟国」の間の決済、そしてヨーロッパの通貨
・ヨーロッパの居住空間と経済市場の安全保障
・ヨーロピアン・コミュニティー(EC)のために働く意志

ホースト Jecht 博士、ベルリン経済学校⁵

ヨーロピアン経済コミュニティー(EEC)の発展

・ヨーロピアン経済コミュニティーとより大きなエリアの形成
・クラシカル(古代)時代後期と中世におけるヨーロッパの経済市場の問題
・単一の「ヨーロッパ的な空間」の問題における最近の変化
・国家の創造と独立的な国家経済
・海外への拡張とヨーロッパに対するその影響
・その大陸からのイングランドの分離と、「自由世界経済」の創造
・ヨーロッパの経済的な再編成:正されなければならない務め
・以前の世界経済の崩壊
・ヨーロピアン経済コミュニティーの目的と方法論

エミル・ウォールマン博士、ヘール大学教授

ヨーロッパの農業的な経済の秩序

・農業的な事業の方法の開発と、ヨーロッパの食糧経済の構造
・農業的な部門における労働の世界経済的な分類の成長
・ドイツとイタリアにおける農業的な産出の台頭
・経済的な絞殺(制裁)と変格の影響下の供給の状況
・生産の製作の条件下の成り行き
・食料のヨーロッパ的な生産を増大のための可能性

アントン Reithinger 博士、ベルリンの I.G. ファーベン社

ヨーロッパの産工業的な経済

・19世紀における産工業の発達
・科学技術的な経済の発達における段階
・社会的な政策の影響
・第一次世界大戦の間のヨーロッパの産工業的な圧倒の消失
・国家の方向性と計画の変位
・新たなヨーロッパとその共通の要素
・地域的なエリアにおける違い
・戦争をしている権力グループの比較的で産工業的な強さの再検証

バーンハルト・ベニング博士、ベルリンの Reichs-Kredit-gesellschaft, A.G.,の会長

ヨーロッパの通貨の問題

・通貨の2つの要素
・ヨーロッパの通貨の国内的で経済的な問題
・外貨マネージメントと相互的な請求
・多国間の請求の拡張
バランスを清算する(決済)の問題
ヨーロッパの為替レートの調和化
ヨーロッパの通貨システムの未来の形状
世界のその他の鍵のエリアとの、ヨーロッパの未来の通貨の関係
・ゴールドについては何でしょう?
ヨーロッパの通貨ブロック

フィリップ Beisiegel 博士、帝国労働省長官、労働の方向性についての研究の著者

ヨーロッパにおける雇用

・人口密度と雇用にある人達の人数と構造
・人々 - ヨーロッパの資産
・参加国の間の同意に基づいた労働者達の交換
・労働者交換の原則
・雇用の組織/制度の調和化
・契約者達の使用と、変化している秩序

グスタフ Koenigs、国務長官

ヨーロッパの交通の問い

マグナ・カルタとヨーロッパの内的な海運の交通
・道路とヨーロッパの交通コミュニティー
・海運部門におけるヨーロピアン・コミュニティー(EC)の働き
・航空輸送部門におけるヨーロピアン・コミュニティーの働き

カール・クロディウス博士、ベルリンの国外貿易センター所長

ヨーロッパの貿易と経済的な同意

・昔の貿易政策
・1933年以来のドイツの経済的、そして貿易的な政策
・戦争によってもたらされた貿易政策における変化
・需要と供給の法則の変化
・ヨーロッパ的な雇用の問い
・交通/移動/流通の問題
・ヨーロッパにおけるイングランドの封鎖の効果
・ヨーロッパの協力の原則
・ヨーロッパの地域的な原則⁶
・ヨーロッパの経済的な独立
・ヨーロッパと世界経済
・ヨーロピアン経済コミュニティーのための内的な必要条件
・ヨーロッパの協力の方法

ハインリッヒ・ハンク教授、ベルリンの実業家達と産工業家達のアソシエーションと、ドイツ経済インスティチュートの会長

基本的な問い:ヨーロッパ - 地理的な定義、または政治的な現実?

・教義と考え方の変化
・ヨーロッパのための責務を設定するためのスタート地点
・世界経済の特徴
・英国の世界圧倒の前提条件としての、ヨーロッパ大陸の政治的な弱さ
・英国の意見による独占化としての、現代の国家的な経済の概念
・ヨーロピアン経済コミュニティーの設立⁷

2.Some Parallels between the Funk-Farben-Reichsbank Study and Contemporary European Union Structures and Policy
2.ファンク-ファーベン-帝国銀行の研究と、現代の EU の構造と政策の間の幾つかの平行線


ヨーロッパ経済コミュイティーの問題の研究、ファンク-ファーベン-Reichsbank (帝国銀行)の上述の翻訳の彼の表しにおいて、ストーリーは、それらの政策と-そしてナチスの制度的な構造の推薦と、ヨーロピアン・ユニオンにおいて実際に得られるものとの間の平行線を指摘する説明的なコメントを頻繁に行います。それらの平行線は、テーブルの形状においてまとめられ、体現される事が出来るでしょう:

1.1942年の著者
2.論文の題名
3.現在の EU の政策、または構造的な平行線


1.ホースト Jecht 博士
2.EEC の発展
3.「大きな空間の経済」:その EC 自体

1.エミル・ウォーマン博士
2.ヨーロッパの農業的な経済の秩序
3.EU の「共通の農業的な政策」

1.アントン Rethinger 博士
2.ヨーロッパの産工業的な経済
3.EU の「産工業的な政策」と規制

1.バーンハルト・ベニング博士
2.ヨーロッパの通貨問題
3.(1)「為替のヨーロッパの比率(レート)」=為替レート・メカニズム;
(2)ヨーロッパの通貨ブロックと「ヨーロッパ決済銀行」=為替取引レート・メカニズム、そしてそれに引き続き、ユーロとヨーロッパ中央銀行

1.フィリップ Beisigel 博士
2.ヨーロッパにおける雇用
3.EU の共通労働政策と規制

1.グスタフ Koenigs
2.ヨーロッパの交通の問題
3.間ヨーロピアン・ネットワーク(道路交通設備)と人口の移動

1.カール・クロディウス博士
2.ヨーロッパの貿易と経済的な同意
3.ヨーロッパの石炭と鉄鋼のコミュニティーから台頭しているヨーロッパの「共通市場」の創造

1.ハインリッヒ・ハンク教授
2.基本的な問い:ヨーロッパ - 地理的な定義、それとも政治的な現実?
3.「教義と考え方の変化」=相応しい「全体主義」、または「ヨーロッパ中心」マインドの発達

私達の目的のために、バーンハルト・ベニング博士の提案が注目の集中なのは、ベニングが統合されたヨーロッパのための、ナチスの戦略の中の通貨の特定の問題を挙げる為です。

ファンク-ファーベン-Reichsbank の本における内容のまとめの分析的なテーブルによって示唆された、それらの提案を、一時的に思い出してみて下さい:

通貨の2つの要素
・ヨーロッパの通貨の国内的で経済的な問題
・外貨マネージメントと相互的な請求
・多国間の請求の拡張
バランスを清算する(決済)の問題
ヨーロッパの為替レートの調和化
ヨーロッパの通貨システムの未来の形状
世界のその他の鍵のエリアとの、ヨーロッパの未来の通貨の関係
・ゴールドについては何でしょう?
ヨーロッパの通貨ブロック

明らかに、ベニングと彼のスポンサー達が考えているのは、それにおいて「ヨーロッパの為替レートの調和化」のためのペッグ(固定)、またはベンチマーク(土台)としての機能を体現したReichsmark (帝国マルク)とドイツ経済の、「Reichsmark ゾーン」の一種へと組織化された「ヨーロッパの通貨ブロック」でした。言葉を変えると、ベニング、ファンク、ファーベン、ナチス、そしてその同僚達は、Reichsmark にペッグされた通貨の為替取引の操作を考えていて、そしてこれは「多国間の請求の延長」を必要とし、それは「バランス(帳簿)の決済の問題」を創造し、ヨーロッパにおける新たな決済システムを必要とし、ヨーロッパのための中央銀行として機能している、多大に拡張されたBIS (国際決済銀行)の一種、新たな「ヨーロッパ決済銀行(ECB)」を必要とします。

実際に、この新たなヨーロッパ中央銀行(ECB)と国際決済銀行の間の平行線は全く明白です。ストーリーはこう観測します:

「その銀行は、ウイーンに本部が構えられ、個々の各政府とそれぞれの中央銀行によって所有され、それは株式資本において、それらの存在している戦前の金融的な義務に対して比例的に支払います。それぞれの参加国の間の全ての支払いは、ヨーロッパ銀行を通して行われ、それはまた、輸出の活動を後ろ楯するために加盟国に対して Reichsmark (帝国マルク)のクレジット(信用貸し)を承諾する能力を有します。その銀行は「加盟国によるクレジットの拡張を操作するために」、各中央銀行から最小限の準備金を取り立てる権力を有します。これは、勿論、集合的な金融的で、そして通貨の制度の早期の下書き(計画)で、それは1998-1999年に設立され、それ以来機能的で、その開始の初日から続いて EU の集合的な通貨は米国のドルに対して価値を低下させ続け、そして深遠にユーロ安のままでした。」⁹

この「ヨーロッパ銀行」と国際決済銀行(BIS)の間の唯一の重要な違いは、とても明白に、ドイツ自体の通貨である、当時の、Reichsmark においてクレジットを承諾する能力によって、その存在(制度)のドイツの圧倒性が、その制度(条約)に書き込まれた事です。¹⁰ 実際に、もし人が提案されたものを詳細に検証すると、その提案されているものは「より大きな空間」の輸出を支える為の「加盟国の国々」の国家的な通貨のためのドイツの通貨の法貨でした。

その様な計画は、1970年代において確立された - 「金融的な統合への滑降経路(登竜門)」である - 為替レート(両替)メカニズムにとても親密に類似していて、ストーリー自身が、ヨーロッパの機関において親密に働き、その為替レート・メカニズムの働きをまじかで観測する機会があった、同僚の英国人、バーナード・コノリーを指摘する事によってその点に注意を引き、そのメカニズムの中でそれぞれの国々がそれら自体の通貨を保つ事が出来る間、ファンク-ファーベン-帝国銀行の計画の下で、それらはドイツの通貨である Reichsmark に対して、実際に台頭した1970年代における為替レート・メカニズムの同意の下で、ドイツ・マルクに「永続的に固定された為替レート」に同意したと観測しました。¹²

ファンク-ファーベン-帝国銀行のナチスの計画の本と実際に台頭したものとの間の平行線についてコノリーはこう述べます:

「私達の目的のために、全ての内で最も興味深いのは、未来の「ヨーロピアン通貨システム」についての書類でした。その書類は、帝国経済省による、1940年7月の分析の拡張で、Reichs-Kredit-Gesellshaft (帝国-クレジット-利益社会)の長官、バーンハルド・ベニング博士によって与えられたものでした。帝国経済省/ベニングの下書き(計画)の鍵の特徴は、帝国マルクがドイツの「経済的なエリア(ヨーロッパ)」において主要な通貨に成り、そしてドルと共に、世界の2つの基準通貨の一つに成る事でした。「そのドイツの経済ブロックの中で」、「通貨と関税の統合へと、後に道を譲る」ために、固定された為替レートが導入されました。ヨーロッパ銀行が設立されますが、政治的な理由のために、各国の通貨を廃止する事によって加盟国の国々の自尊心を傷つけるのは好ましくありませんでした。故に、少なくとも初段階において、個々の国々はそれら自体の通貨を保ちましたが、帝国マルクに対する永続的に固定された為替レートに同意しました。言葉を変えると、ドイツの 「Grosswirtschaftsraum」において、帝国マルク・ゾーンが存在すると言う事でした。この帝国-マルク・ゾーンの参加国は(勿論、オーストリア、そしてボヘミアとモラヴィアを含んでいた)ドイツ自体、オランダ、ベルギー(そして故に、1926年以来、ベルギーとの金融的な統合にあった仮定的なルクセンブルグ)、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、そしてハンガリーでした。三国同盟のその他2つの勢力、イタリアと日本(大東亜)もまたそれぞれの「Grosswirtschaftsarum」を指導しました(イタリアの場合には、スペイン、ギリシャ、そしてトルコが含まれました)。ロシアは(リーベントップ-モロトフ同意と供に従って)フィンランドとバルト三国の経済的な状況を圧倒しました。英国は(恐らくその植民地を含む)無定義の 「Grosswirtschaftsraum」を有し、米国は(南北)アメリカ大陸の全体を圧倒しました。「欠けている」国は、興味深い事に、フランスで、それはドイツの通貨エリアに含まれるでも無く、それ自体の「Grosswirtschaftsraum」が与えられたわけでもありませんでした。」¹³

しかしながら、為替レート・メカニズム、そしてその「金融的な統合の登竜門」としての実際の、本当の機能、そして共通の通貨、ユーロ自体の創造を私達が検証出来る前に、私達がまず、その戦時中の計画と、そして実際の為替レート・メカニズムの本質の両方を理解しなければならないのは、特定の感覚においてそれらがヨーロッパの国家的な通貨のためのドイツの通貨の法貨以外の何ものでも無く、そのそれぞれの通貨がドイツに対して、そして故にドイツの経済と金融、そして政治的な指導力に対してペッグ(固定)されたためです。

人が想像出来る様に、金融的、経済的、または政治的に圧倒される事を拒み、そしてその為替レート・メカニズムをその大陸に対して、その圧倒性を確かにする方法として見解した一つの国がその大陸にありました。故に為替レート・メカニズムの歴史はとても古い争いのミクロコズム(小宇宙)と成り、そして私達が此処でそれを詳細に検証しなければならないのは、その国が正に、ベニングの書類においてはぶかれていた一つだったためで:

・・・フランスです。

B. The Currency Cartel: The Tower of Basel Moment of History
B. 通貨カルテル:歴史におけるバビルの塔の瞬間
1. Can’t You Two Just Get Along?
1.あなた達2人は仲良く出来ないの?


元々、その為替レート・メカニズムは、ヨーロッパの小規模な国々の経済が、それらのより大きな近隣国(ドイツ)に対して緊密に結びついていたので、それらの国々のそれぞれの通貨を Deutschmark (ドイツ・マルク)にペッグする事から現れました。これは、オランダとそのギルダー(通貨)、ルクセンブルグとベルギー、そしてデンマークの、それぞれのフランとクロナーの場合でした。そのアイデアは、この形状において、恐らくそれが行われる限り妥当だったのは、それらの通貨がドイツ・マルクの特定の帯、またはマージンの中でのみ、(通貨の価値が)上下動する前提で、そしてこの上下動はそれらの(国々の)経済が、ドイツに対してとても緊密に結びついていた事を反映していて:

「この審判の日(doomsday)のマシーンにおける鍵の要素は、それ(為替レート・メカニズム)自体の鍵の要素で:それ(ドイツ・マルク)がそのシステムの中で、決して正式に価値の切り下げが行われないと言う、市場の絶対的な信用でした。全てが流動したのはこの信用からで:そのシステムの錨(いかり/土台)としてのドイツ・マルクの役割で、そのシステムに中のその他の通貨の通常のレート(比率)において、ドイツのレートよりも大規模に低く成る不可能性で、そして、究極的に、投機的な攻撃に対してそのシステムが生き残る無能さでした・・・」¹⁴

その為替レートにおいて、それらの事前-調整された(通貨の価値の)底、または天井に接近した時、ドイツの Bundesbank (ブンデシュ銀行)が介入し、それらの通貨を買う、または売る事によってそのプライムレート(最優遇金利)の調整等々を行い、その為替レートのペッグのマージン(上下動の幅/帯)を保つために、相応しい対処を行うと理解されました。

その状況が変化し始めたのは、その他の西洋の、より大きな経済、スペイン、イタリア、そして特にフランスが、その為替レート・メカニズムへと統合された時で、そしてそのメカニズムは地政学的な道具、またはコノリーが観測した様に、協力¹⁵ と外交¹⁶ の皮を被った金融的な戦争のメカニズムに成った時でした。その化けの皮を被った金融的な戦争は、その為替レート・メカニズム、そして故に、それから由来する「共通の通貨(ユーロ)」が何であれ、圧倒するための、ヨーロッパの2つの最大の勢力の間の長引かされた争いの形状において現れました。

実際に、コノリーが観測した様に、その為替レート・メカニズムは、現在のヨーロピアン・ユニオンと「ユーロ・ゾーン」を理解するための鍵であるだけでなく、それは大々的にドイツとフランスの創造でした。¹⁷ その様なものとして、その歴史は大々的に、フランスとドイツの間の3度の主要な戦いの歴史、または、むしろ、フランスと Bundesbank の間の戦い、もしくは、少々言い方を変えると、その為替レート・メカニズムは単純に、軍事的な方法よりもむしろ、経済的な方法を使った、その大陸の圧倒のための、伝統的なフランス-ドイツの争いで:「それはヨーロッパの超大国の操作のための戦いで、それにおいてフランスのテクノクラーツ(技術官僚達)がドイツの連邦主義者達(ナチス)に対峙し、両方の側がシャルルマーニュ(カール大帝/西ローマ皇帝)の旗の下で戦うと主張していました。」¹⁹ 実際に、そのメカニズムの正式な開始の直後、当時のフランスの大統領、ド・エスタングとドイツの首相、ヘルムット・シュミットは、その象徴性を繰り返し強調し、そして「その2人の指導者達は、シャルルマーニュの王座への特別な訪問と、その大聖堂における特別なサービス(ミサ)を行い」その間、ド・エスタングは『シャルルマーニュのスピリット(霊)が、私達の上に静かに覆う』と述べました。²⁰

シャルルマーニュの、Karl der Grosse (カール大帝)の象徴性の、両方の側による呼び起こしが偶然では無いのは、圧倒的なヨーロッパの勢力として、フランスとドイツが、ヨーロッパの超大国を、現代の国々(フランスとドイツ)を含んだシャルルマーニュの帝国の復活として意図していたためです。それは「フランス-ドイツの地軸で」²¹、そしてヨーロピアン・コミュニティー(EC)の委員会の公使(官僚)達の会議が、「ブリュッセル(ベルギー)のシャルルマーニュの建物」において行われたのは「偶然ではありませんでした。」²²

その為替レート・メカニズムの中の、フランス-ドイツの争いが完全に理解される前に、考慮されなければならない最後の要素があります。コノリーは、その他のヨーロッパの勢力、特にフランスの中央銀行よりも、その Bundesbank が西ドイツの政府からの遥かにより大きな距離の独立性と共に、第二次世界大戦後に創造されたと指摘します。これは、部分的に、Reichsbank (帝国銀行)とナチス政府の親密な協調性の、戦前と戦時中の経験に由来するもので、連合国が再発を妨げる事を望んだ協調性のためでした。故に、一方でその為替レート・メカニズムを、ユーロへの「登竜門」として見解したフランスとドイツのそれぞれの政府と、もう一方で、事前に確立された通貨の上下動のためのマージン(帯)のペッグが接近された時に - フランスを含む - その他の国々の通貨を支える事を必要とされた Bundesbank (ブンデシュ銀行)の間に戦線が引かれました。しかしながら、このコンテキストにおける Bundesbank の役割が一度理解されると、その2国間の、より深い地政学的な競争は、相変わらずでした。

そのメカニズムとのフランス-ドイツの争いの必然性のための理由が明らかなのは、一度それがフランスを含むまで拡張されると、「誰が指導するのか」の必然的な問いがあらわに成るためで、その問いは - 「蛇」のあだ名によって知られているドイツ、オランダ、そしてベルギーの限定的なネットワークの制限されたメカニズムの中で、その答え(ドイツ)が水晶の如く鮮明なので、決して問われる必要が無かったためです。ですが、その拡張されたメカニズムは、何を体現していたのでしょう?

「それは、(フランスにおいて主張された様に)ドイツに圧倒された蛇における大規模な変化、または、(ドイツにおいて主張された様に)フランスとイタリアに対するその蛇の領域の拡張を体現したのでしょうか?シャルルマーニュのその新たな帝国において、誰がシャルルマーニュを演じるのでしょう?」²³

その競争のための理由は、その為替レート・メカニズムへの参加権を得るためには、それぞれの国々が、それらの経済と国内的な政策が、その制約(束縛)の中で機能出来ると、証明しなければならなかった事を人が思い出せば、更に鮮明に成ります。²⁴

この点が十分に長く考えられ過ぎる事が出来ないのは、この正に事実が意味するのは、そのメカニズムが本当は、通貨カルテルで、i.e. 市場価格の意図的な操作で - この場合、そのメカニズムにおける特定の通貨の価格で - そのより広いカルテルとその「錨の企業と通貨」によるもので、この場合において Bundesbank とドイツ・マルクであるためです。このカルテルへの参加権は、(丁度、ファーベン・カルテルへの参加権が、その構成要素のそれぞれの企業の経済的、そして財政上の健全さによって決定された様に)その国の経済的な状態、そしてそのより広いカルテルの機能的な政策に対して、その国が従う意志の実証による上で判断されました。²⁵ つまり、各国は、そのカルテルの政策に対して、それらの国内的な経済と金融的な政策を従わせる事の、それらの意志を実証しなければならなかったと言う事です。私達が目撃する様に、その他のより大きな経済がそうしようとした様に、フランスは特に、ドイツと共にその横で、このカルテルのシステムの中の「固い中核」、または「共同の錨」に成ろうと試みました。通貨の統一の「登竜門」として、ヨーロッパのその他の地にそのメカニズムが一度拡張されると、その歴史は、その後、「試練による試験を経験する事によって、ドイツ以外の参加国が、それらの価値を証明するあわただしい努力で」²⁶ - その間、ドイツ国内では、その試験における判断を誰が決定するのかの権利のための争いが巻き起こったのは、結局の処、そのシステムの中のその他のより虚弱な経済と通貨を支えるために献身したのが、 Bundesbank で、そして究極的に、ドイツ市民だったためです。²⁷

とても分かりやすく言うと、政治家達の策略の全てに対する Bundesbank の反対は、ドイツの経済的、そして通貨の政策の上に、フランスの政治家達のあらゆる度合の影響力を有する事に対する敵対心でした。²⁸

2. The Geopolitics of the Exchange Rate Mechanism: the European Economic Community, the USA, and the Return of the Madrid Circular
2.両替比率(為替取引)のメカニズムの地政学:ヨーロッパ経済コミュニティー(EEC)、米国、そしてマドリッド回覧書の復活


しかしながら、何故、フランスの大統領、ド・エスタングとドイツの首相、シュミットが元々、その様な厄介な通貨のカルテルを確立するために、秘密裡の話し合いを行ったのでしょう?予測可能な様に、その主要な理由は、文化的と地政学的の両方でした。幾らかのフランスのエリート達にとって、「ヨーロッパ」の概念が昇進されたのは、何故なら彼等がそれを「異教のアングロ-サクソンの市場崇拝とされるものに対峙し、そして退廃的なアングロ-サクソンの文化(ユダヤ)に対抗する防波堤としての、キリスト教圏とほぼ同じである」と見解したためです。²⁹ 言い換えると、「ヨーロッパ」は、米国の金融的、そして地政学的な比重、そしてその主要な金融的で、地政学的な連合である英国に対するカウンターバランス(対抗)に成ると考えられました。フランスの政治的な右派と左派の両方にとって、「ヨーロッパ」は - このコンテキストにおいて本質的に、シャルルマーニュの帝国の復活におけるドイツとの政治的、そして金融-経済的な統合の一種を意味し - 「主に米国に対して、文化、経済的な哲学、「影響力の領域」、そして経済的な覇権についての争いの一連において国力を増大させる」主要な方法でした。³⁰ その様な考え方は、私達が目撃した様に、ドイツの考え方の中 - 再び政治的な右派と左派の - 両方にも第一次世界大戦以来、そしてナチス時代の全般を通して一貫的に存在し、マドリッド回覧書の殆ど不可避の理論の中にも反映されていました。故に、ド・エスタングの形状における政治的な右派のフランス人の大統領と、シュミットの形状における政治的な左派のドイツ人の首相が、為替レート・メカニズムの創造のために、秘密裡に話し合っていたと見つけるのは、偶然ではありません。人は、9.11の直後、そして殆ど暴走中のアメリカの「単一極主義」において、その様な勢力のブロックを保つためのフランスとドイツの上の圧力、そしてアメリカの経済的、そして軍事的な圧倒から、徐々により大きな自由を得るための戦略は、その様な概念のともしびに油を注ぐだけだったと論議出来るかも知れません。

フランスのユーロクラッツ(ヨーロッパの技術官僚達)の考え方の背後には、しかしながら、更により大きく強制的で文化的、そして地政学的な問題が存在し、そしてそれらの要素は再び、ヨーロピアンな「ライヒ(帝国)」のための一貫的なドイツの計画へと深い役割をはたしました。民族-国家が時代錯誤であると言う教義は、目撃された様に、ドイツのエリート達の概念の全体を通した黄金の糸であっただけでなく³¹、彼等のフランスの対象部分のものでもまたあるのは、「(ヨーロピアン・コミュニティー/EC の)発達への最も慎重な歴史的な研究が、そのコミュニティーが、今現在まで、リベラル派達が不愉快と見つける統制的な国家権力のそれらの特徴を保存しているためのメカニズムであると表すためです。国家的な各政府とコミッション(監視官僚)の中の、社会主義者達と企業(財閥)主義者達に対してそれを魅力的にしたのは、ヨーロッパのこの特徴でした。」³² フランスのユーロクラッツにとって、これが意味したのは、ヨーロピアン・ユニオンが - 共通の言語的、そして文化的な価値の上に基づいた国家である - 民族-国家からの移行を体現し、「それらを受け入れる選択をする者達の全てに、その原則と機能が、物質的、社会的、そしてスピリット的な優位性さえも与える、国家(EU)に対する共通の忠誠を通した、多くの異なった『部族』の中の統一の感情の創造として描かれました。」³³ その問いを更に異なった形状に入れると、ヨーロピアンなドイツ、またはドイツ的なヨーロッパが存在することだったのでしょうか?³⁴ コノリーの相応しいその問いの枠組みに再び入れると、誰がシャルルマーニュを演じるのでしょう?

3. The Election of Francois Mitterand and German Reunification
3.フランシス・ミッテランドの選出と、ドイツの再統一化
a. The Election Victory of Francois Mitterrand in 1981
a. 1981年におけるフランシス・ミッテランドの選挙での勝利
(1) The Monetary Tango 201
(1)金融的なタンゴ201


「誰がシャルルマーニュを演じるか?」の問いは、今日のフランスでは無く、むしろ「ドイツにおいて根付いた手詰まり」の制度化された中のヨーロピアン・ユニオン(EU)の未来の構造を形造る、2つの出来事によって台頭しました。それらの出来事は、1981年におけるフランスの、フランシス・ミッテランドの、社会主義政府の当選と、その10年強後のヘルムット・コールの下のドイツの再統一でした。ミッテランドの選出の後、両方の国々(ドイツとフランス)が、その他の国々を - フランスを含み - 『蛇』の中へと含む事を同意したので、その地政学的で金融的なタンゴが始まりました。フランスは、そのシステムの中で、ドイツの既に重い圧倒性、その蛇におけるオランダの参加において重複された重さにおいて、フランスの影響圏であるベルギーとルクセンブルグと共に類似した内在的なメカニズムを確立する事によって、ドイツのマルクとオランダのギルダーの対化に対応しました。³⁵

ミッテランド大統領と、彼の大臣達の行動の結果は、しかしながら、「フランスが、まず最初に、金融的なヴィシー(ナチスの傀儡政権)の恥ずかしめに苦しまなければならない事でした。³⁶ 戦時中のヴィシー政権に対する戦時中の言及を頭に入れてもらいたいのは、それが直ぐに効能的な果実を産み出すためです。実際にフランスは、「金融的なセダン」のある種に苦しみ、ナポレオン3世がプロシアの軍隊に包囲される、フランス-プロシア戦争の決定的な再元で、それはプロシアの陸軍によって囲まれた皇帝ナポレオン三世を残す事によって、最終的に彼を、ビスマルク首相の捕虜にする事でした。それは、その為替レート・メカニズムの中で、フランスに対するドイツの金融的な勝利でした。

「ドイツは此処において、フランスと相対して、昔の「蛇」に含まれた、より小さな国々(オランダやベルギーなど)と相対するよりも、より強い位置にいました。それはフランの「何時」と「どれだけ」の価値判断を行っていました。加えて、それは、フランス政府が従わなければならない国内的な政策を指示していました。フランスの側から、実際に、物事はとてもはっきりとしていました。ERM (ヨーロッパ・ライヒ・マルク)と、あからさまなミッテランド政府の社会主義の段階は、殆ど完全なフランスの金融のドイツに対する従属に繋がりました。ですが、更に悪い事が来る処でした³⁷。」

1983年の3月に成ると、その従属は完全で、ドイツはフランにおける更なる価値切り捨ての2回目の勝利を勝ち取り、フランスの敗北を必然的にし、フランスの勢力を地域において孤立化させ、それらの供給路を遮断した、(英仏)海峡の奪還、(再び)セダンの突破、そしてアーデンを通したドイツの戦車部隊の電撃作戦を思い出させ、コノリーが「金融的な1940年の一種³⁸」と特徴付けたもので、フランスの敗亡を必然的にするものでした。

(2) The Strangely Unnoticed Behavior of Mitterrand’s Government, and the Ugly Question Squatting in the Middle of It
(2)ミッテランド政府の奇妙にも気づかれていない振る舞い、そしてその真ん中に坐っている醜い問い


勿論、フランスは唯単に、何らかの抵抗も無しで、「座ってそれを受け入れる」わけでは無く、そしてミッテランド政府は、とても奇妙で異例的な「解決策」を行い、その正に概要が、ミッテランドの動機と、究極的なご主人様達についての不快な問いを台頭させます。コノリーの明言の暗示と示唆が明らかなので、此処において彼を引用するのは不可欠です:

「1983年5月の(通貨の価値の)切り下げは、現代世界の経済的な秩序において『一つの国(フランス)における社会主義』は、経済的に不可能であると言う、ミッテランドの受け入れによって印されました。代わりに、彼等は、アングロ-サクソンの世界(英米ユに対抗するために、ナチスとヴィッシーの理論家達によって見解されたものに沿って、「一つの大陸におけるコーポレティズム(企業主義/ファシズム/財閥)」の創造を目論みました。」³⁹

この「一つの大陸の上のコーポレティズム」は何だったのでしょう?フランスの理論家達はそれを「Rhenisch 資本主義」⁴⁰、「ライン(地方)の資本主義」、または言い換えると、大きなドイツに錨をされた(基づいた)複数国家のカルテル、「大きな部隊」の資本主義、産工業的な金融複合体(i.e. 財閥)、銀行業のカルテル、大きな実業の連携、労働組合でした。⁴¹

1994年におけるフランスに始まり、ミッテランドの過去を疑う本と記事の一連が出始め、そして特に、ヴィシー(傀儡)フランスにおけるペタイン元帥のナチスのパペット(操り人形)の政権における彼の役割が疑われました。その問いは直ぐに物議をかもし出し、そしてそれらの記事はアメリカの報道においてでさえ現れ、ミッテランドのヴィッシー(ナチスの傀儡)政権との怪しい関連性と同時に、フランスのレジスタンス(抵抗勢力)との援助と扇動を描写しました。⁴² この(ナチス)協力主義のペタイン派の過去を与えられると、ミッテランドがその重大な時点において、金融的にフランスを去勢するために、意図的に配置されたのではないかと言う可能性が派生します。これは、しかしながら、ミッテランドがナチスだったとか、少なくともその言葉の一般的な感覚において、裏切者だったとか言う事を意味するのでは無いのは、ドイツの占領の難しい年月の間の全てのフランス人達と同様に、彼がフランスの長期的な利益のために、どれだけの協力と、どれだけの抵抗が必用かを判断しなければならなかったためです。これを述べた上で、恐らく、ミッテランドの究極的なご主人様達と動機のために、人が何処か他の場所を探さなければならないのは、Reichsmark (帝国マルク)によって圧倒され、当時台頭していたナチスによって主催された「ヨーロッパの経済的なゾーン」の中へと融合されていた、企業(財閥/ファシスト)主義者-カルテル(財閥/ファシスト)主義者のアイデアを生き返らせる彼の意志によって示唆されます。その見解から見られると、彼(ミッテランド)の(選挙の)選出と、フランスの金融的なソヴリンティー(主権)のための、彼の金融的に大災害な政策が、偶然では無く、恐らく、意図的で長期的な計画の結果だったと言う可能性を人は拭い去る事が出来ません。

b. The German Wiedervereinigung and the Implications of Kohl’s Tender Offer for the Exchange Rate Mechanism
b. ドイツのWiedervereinigung と両替比率メカニズムのためのコールの優しい申し出の示唆


その為替レート・メカニズム戦争における最終的なドイツの勝利のその他の主要な出来事、そして、そのメカニズムと、ユーロとユーロゾーン自体の創造に対して - 恐らく意図的だった - 最終的な公開に直接繋がった勝利は、キリスト教民主主義党の首相、ヘルムット・コールの下におけるドイツの再統一でした。ベルリンの壁の倒壊が、その大陸の地政学的、そして経済的なバランスの全体に対して衝撃的で、そして更に重要な事に、ユーロクラッツ(ヨーロッパの技術官僚達)の「ヨーロッパ」のアイデアに対して衝撃的だったのは、再統一されたドイツが、あらゆる通貨(ユーロ)、または政治的な連邦(ヨーロッパ)の中で、単なる西ドイツが以前に行ったよりも、遥かにもっと金融的で地政学的な比重を占めるためでした。⁴³

西ドイツの政治家達と政策の製作者(官僚)達に立ちはだかった主要な問題は、共産主義者のブロック(東ドイツ)が崩壊した最終結果において何が起こるかと言う事でした。東ドイツのマルクは、西ドイツ(のマルク)の約10分の1の価値で、そしてその国家に支援された(国有の)産工業は単純に競争力がありませんでした。成り行きとして、ベルリンの壁が倒壊し、そして東と西のドイツの間の国境がもう軍事化され無く成ると、西ドイツは - 恐らく永続的に - 東方のゾーンを離れる人達(移民)の洪水の可能性に面し、そして故に、ドイツの経済の上に巨大な圧迫を置きました。その問題は、どの様にそれが起こる事を防ぐかと言う事でした。⁴⁴

コールは、しかしながら、怪しくも準備万端な計画を用意し、そしてそれは単純に「法貨の計画」で、それは基本的に、東ドイツのマルクを、西ドイツのマルクに、それらの市場の為替レートでは無く、同等の価値で交換するに等しく、つまり、1西ドイツ・マルクが、1東ドイツ・マルクのために(1対1で)両替されたと言う事です。⁴⁵ その結果は予測可能でした:

「東ドイツの家族達は突然、彼等の給料(または社会保障の支払い)が、彼等の以前のものよりも、西ドイツの商品とサービスの定義において7倍の価値に成った事を見つけ - 西ドイツにおいて - 消費の馬鹿騒ぎ(爆買い)を始める事が予測されました。全体的に、新たなドイツの金融的な統一の全体において、商品とサービスにための需要における更なる盛り上がりが予測されましたが、その統一の全体としての産出(GDP)は、東ドイツの企業が更にもっと競争力を失い(そして以前には保護されていた、東欧とソヴィエト連邦の市場が崩壊したので)減速するはずでした。」⁴⁶

コールの戦略が、しかしながら、機能したのは、それが東ドイツの人口の殆どを、元の場に留め(移民を防ぎ)、西ドイツの経済に活性力を与え、そして長期的に - または結果的に見ると - とても短期的に、西ドイツが単純に、以前の東方のゾーンの全体を飲み込んだので、2つのドイツの Anschluss (合併)のために道を開きました。⁴⁷

しかしながら、フランスにとっては、その問題は残り、そして「その大陸におけるドイツの圧倒に対するフランスの恐怖」をどの様になだめるかと言う事でした。⁴⁸ これは、ドイツが金融的な統合に参加する間、ドイツはその為替レート・メカニズムの中で、ドイツ・マルクに対するフランのペッグ(固定)のレート(比率)を変化させる試みを全く行わないと言う約束によって、フランスに対して行われました。⁴⁹ 言葉を変えると、ドイツの経済が当時、膨大に拡張された事実にも拘らず、そしてドイツ・マルクが実質的に、一時的な切り下げに苦しんだ事実にも拘らず、コール政権は再統一後の経済的な現実性よりもむしろ、再統一前を反映するレートのペッグを保つ事にそれ自体を献身(約束)しました。

一時的に、コールは、ミッテランドを満足させました(または、もし人が、ミッテランドとコールの両方が、ドイツに基づいたカルテルの関心において行動していたと見解するなら、両方の人達が、一時的に、その為替レート・メカニズムの中で完全にドイツに圧倒された通貨ゾーンの(表向きの)現れを妨げました。)

c. The Beginning of the End for the Exchange Rate Mechanism:
c. 両替比率メカニズムの終わりの始まり
(1) Alphandéry’s Gaffe 205
(1) Alphandéry の失言205


その状況のこの状態は、しかしながら、長く残る事が無かったのは、それが全て暴露のとても近くまで訪れたためで、少なくともフランス側の観点において - フランスの経済大臣、エドモンド・アルファンデリーによって行われた失言において - それが実際に暴露されたと言う納得的な意見が成される事が可能かも知れません。1980年代の後期の期間において、慎重な観測者達にとって、ソヴィエト-ワルシャワ条約のブロックが、経済的に、そして政治的に内破するであろう事は益々明らかに成り、そしてドイツの再統一が益々、可能性が高く成ったので、アルファンデリーは、1993年6月24日に、フランスのラジオにおいて、「たった数秒の内に」為替レート・メカニズムの「運命を閉ざした」発言を行いました。⁵⁰ その会話の中でアルファンデリー大臣は、彼が Bundesbank の総裁、ヘルムット Schelesinger を「翌日にパリに」招き、「ドイツの金利が、ドイツの国境を越えた重要性を持っていると、彼等に伝える」と示唆しました。「フランスにおいて何百万もの失業者達が存在し、そして失業者を減らすための望みはドイツの金利の切り下げにかかっています」と。⁵¹

金融的な市場におけるアルファンデリーの発言の効果は、特にヨーロッパにおいて、電撃的でした。⁵² アルファンデリーの失言は、特にライン(川)のドイツ側から見解された時に、殆ど完全的でした:

「(人々の)口が恐怖の驚きと共にポカーンと開く原因として、アルファンデリーは何を行ったのでしょう?端的に、彼は、それ(為替レート・メカニズム)についての真実を伝えた人でした。アルファンデリーが誤って行った事は、あからさまな事実を明言する事を避ける決意の上で油断して、あからさまな事実を明言してしまった事でした。更に特定的に、アルファンデリーは、一言で、トリシェットによって擁護された論議を破壊してしまいました。彼はフランスの失業が、短期的な金利のレート(率)のレベルにリンクしていると認めてしまい - トリシェットと彼の御用学者達が、「アングロ-サクソン経済学」の流出として小馬鹿にした提案でした。彼はその後、そのシステムにおいてドイツが未だに主役である事を市場に警告し:ブンデシュ銀行がその金利を最初に切り下げしなければ、フランスの短期的な金利のレートが切り下げられる余裕がもう無いと述べました。次に、そして恐らく全てにおいて最も決定的だったのは - 現実はどうであれ、フランスは言うまでも無く、ドイツ政府からの命令に従わない様に現れる事(中央政府からの独立)の公的な印象を保たなければならない、ブンデシュ銀行に対して、彼(アルファンデリー)が召集と命令を行っていると言う印象を与えた事でした。」⁵³

または、フランス-ドイツ戦争の軍事的な類推の用語に入れると、アルファンデリーは、フランス-プロシア戦争と第二次世界大戦におけるフランスのセダン(地名)の敗北を、一つの膨大な金融的-政治的な破壊へと融合する事を行いました。

当然、ヘルムット Schlesinger と Bundesbank からの公式な反応は、激怒と憤慨のものでした。ですが、内密に、その反応が大喜びのものだったのは、

「・・・フランスの経済的な位置の虚弱さが、国際的な市場に対して明かにされたためで;フランスの政治的な立ち位置の攻撃性が完全にドイツの一般市民に対して明かされたためでした。Schlesinger の立ち位置は、測り知れない程強化されました。彼は其処で、フランを支える事についての、コール(首相)との意志のあらゆる戦いにおいて、世論の指示を確かにしました。そして、疑う余地は微塵も無く、フランに対する更なる攻撃が此処で続くはずでした。」⁵⁴

フランスの政治的な立ち位置の虚弱さはもう明らかで、「信用を保つ」ための、フランスのユーロクラッツ(技術官僚達)の必死さで、ヨーロッパの通貨の統一への登竜門として、そのシステムの使用がドイツ無しでは起こりえないためで、既にもう鮮明に明らかな様に、Bindesbank とドイツ・マルクがそのシステム全体の錨(土台)で、ペッグであり、そして故に事前-確立されたそのメカニズムの中の為替のマージン(上下動の帯)の中のそれらのより虚弱な通貨(フランなど)を支える責任者だったためです。

これは、数日後の、その大陸の重度に助成金を支給された航空会社の事業を調整するための国際的な会合において、ジーン・クロード・トリシェットと Bundesbank の副総裁、ハンツ Tietmeyer の間の注目すべき話し合いに繋がりました:

「トリシェットは Tietmeyer よりも先に、その会合の部屋に到着しました。そのドイツ人(Tietmeyer)が入室するまでに、その部屋はほぼ満員に成りました。その他の参加者達は、その失言の後のフランス-ドイツの金融的な関係の、殆ど辱めの地点まで啓示的だった経験を感じました。トリシェットが Tietmeyer を見るや否や、彼(トリシェット)は「Cher Hans/ハンツさん」と息を飲み、彼(Tietmeyer)の近くに急ぎ、そして明らかに「一つとして鼓動している2つの心臓」と言う有名なフレーズに物理的な表現を与えたいかの如く、彼(トリシェット)の両腕を、彼(Tietmeyer)の周りに覆わせました。そのウエストファリアの人(Tietmeyer)の体は硬直し、彼の両腕は、彼の(体の)横で真っ直ぐに固まりました。トリシェットは眼差しを上げ、明らかにトランス(洗脳的な)状態で、Tietmeyer の何時になく動揺した顔を見つめ、彼(トリシェット)の抱擁をとても長く、そしてとても緊密に保ったので、周りにいた人達が秒数を数え始める程でした。その抱擁のどちらの側も、ましてやその部屋にいた誰も、言葉を語る事を望も、望まないもしませんでした。緊張は高まりました:トリシェットは Tietmeyer に対する彼の(抱擁の)握りを緩めるでしょうか?Tietmeyer は、力ずくで、彼自身を抜け出させるでしょうか?その瞬間、ドアが開き;遅刻者がその部屋に入室しました。彼は、彼の目の前の奇妙な光景を目の当たりにし、彼の歩みを突然止め、ほっとした周りの人達に笑う機会を与えました。その緊張は和らぎ、トリシェットと Tietmeyer は恥ずかしそうに微笑み、そしてそのフランス人の男(トリシェット)の両腕は彼の君主のご主人様(Tietmeyer)から離れて下がりました。この場面を目撃した人達の中で、その意味について何らかの疑いを持つ人はいませんでした。神聖な権利の原則が再-確立されました。その金融的な廷臣であるトリシェットは、フランスによる反乱の試みの行いのために、彼のソヴリン(主権者)の公の許しを求めていました。」⁵⁵

フラン-ドイツ・マルクのペッグは固定されたままで残ると言うフランス-ドイツ共同の発表を含む - 多くの劇場の後 - Schlesinger の Bundesbank が1993年7月30日までに難しい位置に至ったのは、フラン-ドイツ・マルクのペッグ - そしてそのメカニズムの中のフランスの立ち位置と、「より大きなヨーロッパ(EU)」の中におけるその念願が、糸一本でぶら下がっていたためです。

それは全て、Schlesinger の Bundesbank が何を行うかにかかっていました。そしてその通貨市場が週末に向かい閉ざした際に、予想が溢れていました:

「噂はあちらこちらに飛び交い:その銀行が(為替レート・メカニズム)を救わなかったので、コールがブンデシュ銀行法を変えると脅かしたとか;もしコールが圧力をかけ続けるなら、Schlesinger が辞任すると脅したとか;アルファンデリー、Juppé、Balladur、そしてミッテランドの全員が留めなくコールをおだてたとか;Tietmeyer がブンデシュ銀行の役員会の中で反乱を導く計画を行っているとか言われました。事実にしっかりと基づいていると現れた一つの報告はブンデシュ銀行が市場の最大級の参加者達に連絡し、その(為替レート・メカニズム)を無傷で保つために、その値引きのレート(率)の削減がどれだけ大きく成らなければならないかを、彼等に訪ねて回り - その週末が進む際に、大きく、より大きく成りました。土曜日の新聞は、(為替レート・メカニズム)を保つための費用を0.75%と述べました。日曜日に成ると、1%でなければ十分では無いと現れました。ブンデシュ銀行の考え方に何らかの見識がある誰しもにとって、それらの報告はその(為替レート・メカニズム)が崩壊すると言う最終的な証拠でした。Schlesinger は四月に、何が起ころうとも、ブンデシュ銀行は、ドイツの金融的な政策を、市場に決定させないと鮮明にさせなかったでしょうか?にも拘らず、その週末の終わりまでに、多くのコメンテイター(御用学者)達は、ブンデシュ銀行がコールからの政治的な圧力に妥協し、その値引きのレートを1ポイントによって切り下げると、彼等自身を納得させました。」⁵⁶

直ぐに目撃される様に、しかしながら、コールとドイツの中央銀行の間の緊張が、一般大衆の消費のための劇場(プロパガンダ)だったかも知れないと信じる幾つかの理由が存在します。

月曜日に成り、ニュー・ヨークの通貨のトレーダー達が、ドイツ・マルクを売り、ドルを買う事を彼等が出来る様に、Bundesbank からのドイツの値引き率における切り下げの発表を心配しながら待っていた間、「1ポイントの切り下げも、3/4ポイントの切り下げも、0.5ポイントの切り下げも:全くありません」と言う公表がフランクフルトから届きました。⁵⁷ 何がその後起こったかと言うと、ドイツ・マルクの予測されていた投げ売りでは無く、むしろ、そのメカニズムに埋め込まれたその他全ての通貨:ペセタ、エスクードス、ベルギー・フランク、デンマークのクロナ、そして特にフランスのフランの投げ売りで、そのメカニズムのドイツ・マルクに対するペッグ(固定)のマージン(上下動の幅)の中にフランを保つ試みにおいてフランス銀行が大々的に介入する事を強要するものでした。⁵⁸

フランスは其処で、最後のカードを切り、そしてそのメカニズムのルールに沿って Bundesbank がフランスのフランを救済(ベイル・アウト)し、防衛する事を要求しました。その問題を解決するためのその他の唯一の方法は、ドイツとフランスの両方のための - 共通の通貨である - すぐさまの金融的な統合で、それはその他の主要なヨーロッパの経済である、スペインとイタリアを「凍り付かせ」ました。⁵⁹ Tietmeyer を含むドイツ人達は、そのフランスの要求を、ドイツの金融的なソヴリンティー(主権)の放棄であるだけでなく、フランスに対して「シャルルマーニュ(カール大帝)を演じる」役割の放棄として直ぐに、正しく知覚しました。

これは、コール首相にとってでさえ行きすぎで、そして BundesbankBundeskanzlei は対応を拒みました。そのメカニズムはもう終わりで、そしてフランス-ドイツの言い争いのペーパーリング・オーヴァー(紙幣で覆う/言葉遊びは意図されています!)である、ユーロゾーンがその存在へと現れますが、ドイツ経済は未だに、ヨーロッパのその他に対してエンジンと貨物列車の両方であると同時に、その(ヨーロッパの)より小国で、そしてより競争力の無い近隣諸国の金融的な悪ふざけを救済(ベイル・アウト)しなければならない、奇妙な立ち位置にありました。

しかしながら、ヨーロッパ中央銀行が、ブリュッセル(ベルギー)でも、パリでも無く、以前のファーベン・カルテルの本拠地である、フランクフルトにあるのは、奇妙な事実です。この奇妙な事実は、その為替レート・メカニズムの下におけるフランスとドイツの間の通貨戦争の「手詰まり」の結果としてのユーロゾーンの一般大衆的な体現にも拘らず、恐らくその手詰まりの体現は、特定の関係国の傷ついた国家的な自尊心を和らげるためだけを意味したと示唆し、そしてまた、恐らく全く金融的でも、経済的な本質でも無いその他の要素がその背景に潜んでいた事を示唆します。

結局の処、Bundesbank もコールの政府も、パリからの圧力に屈しなかったためです。

(2) Kohl and the Bundesbank Present a United Front: the Kohl-Lammers CDU Paper
(2)コールとブンデシュ銀行が、統一的な表向きを現す:コール-ラメアーの CDU の書類


その「その他の何か」が何であったのかが、彼の本の中でコノリー自身が行う観測によって強く示唆されるのは、「ヨーロッパ」が、フランスの官僚達にとって一つの事を意味し、そしてドイツのエリートにとって、とても異なったものを意味するかも知れないと、明確で、深遠な観測を行うためです。「コール」は、「ドイツが『それ自体から救われる』必要があると信じる類の人でも全く無いし、そして「ヨーロッパ」は「その再統一の首相」にとって - 彼の「法貨の策略」を共にしたその再統一のために、明らかに慎重に準備しただけでなく、東ドイツにおける眠っているセル(小体/ネオ・ナチス)を明らかに活性化させる事によって、その反対側からその行程の推進を助けた⁶⁰ 首相にとって、「Frankenreich を含んだ『ドイツのヨーロッパ』だけでなく、ドイツの東の領土もまた合法化(合併)する方法だったのかも知れない」とコノリーは観測しました。⁶¹ 実際に、私が国際ナチスの中で記述した様に、コールの政府はとても素早く介入し - そして強引に - その再統一の後、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアの、ヴェルサイユ条約に創造された「国々」を分解し、そしてボヘミア-モラヴィアの上に、そして旧ユーゴスラヴィアの中の新たに認識されたクロアチアの上の、ドイツの経済的な圧倒の親密性を再確立しました。私がその本の中に記した様に、そのプレーブック(計画書)は1938-1939年、そして1941年(ナチス)のもので:「それは生きている、または Memorex (レクス=王/メモ=記憶)?」でした。⁶²

明らかに、何かがコール政府に、(i.e. 米国の反対にもかかわらず)その様な大胆な動きを行う自信を与え、そして「昔からの敵」フランスに対するあからさまな無視においてでした。

その問いは、それが何であったか?です。

一つの手掛かりは恐らく、コール首相の政党、キリスト教民主主義統一党(CDU)によって、そしてその

「・・・議長、カール・ラマースの下のヨーロピアン・アフェアーズ(ヨーロッパの状況)についての議会的な委員会において、『1994年9月に提出された』書類によって与えらます。『この書類は、明らかにコールによって承認され、フランスは「民族-国家の空っぽの殻」との固執を諦めねばならず、そして金融的、そして政治的な統合は、ドイツ、フランス、ベネルックス三国、そしてデンマークの「固い中核」を通して進められなければならないと強調しました。それはまた、生身の脅迫を含み:「中央ヨーロッパにおいて権力の不安定化している真空(空白)は決して再び、存在してはならないとしました。もしヨーロッパの統合が進行しないなら、ドイツはそれ自体の安全保障の圧迫によって、それ自体の安定化を、伝統的な方法(不快な歴史的響きに満ちた言葉/i.e. 戦争)によって効果する試みのために呼び出される、または誘惑されるかも知れません。』当然、「周りの近隣」諸国は、(述べられるべきである様に、ドイツ内の[社会民主主義党]と[自由民主党]が行った様に)その報告に対して非難的に反応しました。」⁶³

簡潔に云うと、それは新たな隠れ蓑の中の、昔の恐喝外交で:ドイツ-に導かれたヨーロピアン・ユニオン(EU)において、我々と統合する、もしくは、我々は再び、我々独自の方法(戦争)を取らなければならないと言う事でした。再統一後のドイツにとって、「ヨーロッパ」のアイデアは単純に、それ自体の過去の周りを迂回する戦略でした。

そして着目すべきは、ヨーロッパの状況についての、キリスト教民主主主義統一党からのコール-ラマーズの書類が、その様なヨーロピアン・ユニオンを、Mitteleuropa (ミドル・ヨーロッパ)の今では親しみのある用語の上に置き、オーストリア-ハンガリーの解体によって創造された真空に入れ替わるための、強力なドイツの圧倒性のための必要性を唱えた事です。その書類は単純に、そして本質的に、マドリッド回覧書の中で既に出会われたものを繰り返し、そしてそれは戦時中のナチスの研究の重要な概念を形成しました。

C. A Secret Kohl-Gorbachev Treaty?
C. コール-ゴルバチェフの密約?


ですが再び、その問いが再発します:コールの政府自体にその様な自信を与える事が出来たものは何だったのでしょう?その様な自信は政治的な強さから唯一現れる事が可能で、そして此処でコノリーは、簡単にそれが何であったかを示唆します:

「興味深い事に、ブンデシュ銀行の態度には、劇的で政治的な要素がまた、あったのかも知れません。幾つかの分析によると、コールとゴルバチェフは、1987年の秋において既に、バルト三国、ウクライナ、そしてベラルーシ(白ロシア)が、ソヴィエトの影響下に残る事を、ドイツによって仲介される事を西側が受け入れる事の報酬として、ドイツの再統一における同意に達していました。」⁶⁴

その同意は、更に加えて、ヨーロッパからのアメリカの撤退の状況まで、公にされる事は出来ませんでした。⁶⁵

論議のために、その様なモロトフ-リーベントロップ同意のヴァージョン2.0の様な「コール-ゴルバチェフのアップデート」があったと受け入れるとすると、ヨーロッパにおける最近の地政学的な出来事が新たな意味を持ち始めるのは、誰にでも表面上は気違い沙汰に見える出来事には、背後において推進している隠された要素が恐らくあるためで、ヨーロピアン・ユニオンに加盟する動きを破棄する事を示唆していた政府を転覆させた、ウクライナにおける突然のアメリカの介入と、西方ヨーロッパにおける(米軍)基地を閉鎖し、それらを(東欧に)移動し、それらの軍隊をポーランド、バルト三国、ルーマニア、そしてウクライナへと駐屯させた(米国の)行動を含めて、それらの動きは、もし米国が、ドイツに圧倒され、そして導かれたヨーロピアン・ユニオンの再台頭と、ドイツに-導かれたヨーロッパとロシアの間のあらゆる親善回復を妨げようと試みているなら、完全に理解可能に成るためです。言葉を変えると、東欧における現在のアメリカの行動は、統一されたヨーロッパのための、長期的なドイツの計画に対する反対活動として見解された時に唯一理解可能です。

此処において実際に何が主張されているかを理解するのが、故に重要なのは、思い出してもらいたいのはコノリーが、ヨーロッパの官僚制度の最上部のレベルにおいて働いていた事で、故に彼によるその様な秘密裡の条約の何らかの記述は、それに相応しい重力と重さ(重大性)の全てと共に受け取られるべきだと言う事です。彼の解読(推理)において、コールが故に、金融的な統合に応じる事によってフランスに対して「太っ腹」に成る余裕があったのは⁶⁶、勿論、それらの「容認」に対する見返りとして、ヨーロピアン中央銀行(ECB)がドイツにおいて本部を構える事が供給されたためです。

コノリーの示唆を真剣に受け取った一人は、私達が以前に出会った、同国の英国人、クリストファー・ストーリーで、ドイツの圧力が、チェコスロヴァキアを、ボヘミア-モラヴィア、そしてスロヴァキアの、より簡単に消化可能な構成要素へと分解する成功を収めた後⁶⁷、チェコ人達がプラハのメディアにおいて、この秘密裏の条約の幾らかの詳細を漏れ出させる事によって、注目を集める試みを必死に行ったと、ストーリーが追及したためです。⁶⁸ 加えて、この秘密裏の条約のヒントが、ロシアの報道にもまた現れたのは、ロシアの外交政策の専門家、イゴール・マクシミチェフが、ロシアの外務省のジャーナル、国際情勢の中で、「今日、私達は、特別な本質であるドイツとの私達の二方向的な関係を通して、統一的なヨーロッパの安全保障に直接・・・影響する好機を有します」と述べたためです。⁶⁹

しかし、これが全てでは無かったのは、ストーリーが、「レーニン派の共産党官僚の幹部」として明言したマクシミチェフがまた、彼の記事の中で幾らかの不安を更に表現したためで、それが鮮明にしたのは

「モスクワは、それ自体のものよりも、ドイツのモデルがより速い進歩を達成していると考え、つまり、ドイツは、モスクワの「統一的なヨーロッパの融合」の戦略を進めるために信頼される事が出来ず、そしてモスクワは、どの様な方法であれ、全-ドイツ的なモデルを犠牲にしてソヴィエトのレーニン主義の目的を推進するために、全-ドイツ的な戦略が、頼れる様にチャンネル(人脈/スパイ)される事を確かにしなければなりません。」⁷⁰

故に、ストーリーが記述する様に、大ユーラシア経済ユニオン、または「大西洋からウラジオストックまでのヨーロッパ」を創造する事はロシアの目的で - それ自体が、昔の皇帝達以来、ロシアの外交政策の一貫的な目的で - ドイツに-導かれた「大西洋からウラル山脈までのヨーロッパ」のためのドイツの計画との衝突にあり、その提案(ドイツの計画)は、ロシアのヨーロッパ側を、その国のその他(アジア側)から分離させる究極的なドイツの目的を示唆し、その目的は英国とアメリカの目標にも一貫的で(英国にとって同様に、19世紀以来の目標で)、そしてそれはまた、アジアのその他の2つの原動力:中国と日本の補佐を呼び起こす事によってアメリカの介入無しで達成させられる事が考えられました。

「関税の統一(撤廃)」、そして「自由貿易」の美辞麗句の全ての背後にあったのは、本質的に、その同じ、昔からの大きな勢力の地政学のゲーム(陣取り合戦)でした。唯一変化したものは、昔からの親しみのあるプレーヤー達 - フランス、英国、イタリア、ドイツ、そしてロシアが - いなくなったと言うわけでは無く、むしろ新たなプレーヤー達がそのリストに加わったと言う事で:19世紀の後期と20世紀初頭の米国と日本、そして20世紀後期の中国、インド、そしてブラジルでした。⁷¹

1. Its Alleged Protocols
1.その主張されたプロトコル


しかしながら、ストーリーが更に奥深くまで追求したのは、ストーリーが記述する様に、ドイツの圧力の下で、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアが分解される、丸々一年前の、1991年11月14-20日の週のために、チェコの新聞紙、Tydenik Politika が、その新聞の中で、その主張されたドイツ-ソヴィエトの密約の全体をまとめたためで、その事実はその密約の現実味の可能性を確認する様でした。⁷²

Tydenik Politika によって出版され、そしてストーリーによって英訳されたその密約の詳細は、背筋を凍らせる内容です:

・ドイツ連邦共和国(統一ドイツ)は、USSR (ソヴィエト連邦共和国)から、併合されたプロシア東部と、Oder-Neisse (線)の東の地域のための賠償を要求する。⁷³

・ドイツ連邦共和国は、ボヘミア-モラヴィア地方における、ソヴィエトの影響力の撤退を要求する。ソヴィエト連邦は、チェコスロヴァキアにおける Husak の政権が転覆する事を求めるソヴィエトの意向を受け入れない、チェコスロヴァキア連邦共和国政権を、それら(ソ連)の国境近辺において容認する事を認めていない。チェコスロヴァキアの社会主義連邦共和国は、USSR に対する扇動において留まる事を知らず、ソヴィエト政府とその大統領の立ち位置を更にもっと難しいものにしている。これは、ポーランドとハンガリーの政府のものからは異なった立ち位置である。

・USSR は(故に)、中央ヨーロッパにおける政治的な均整に対する不十分な補償、そしてチェコ人とスロヴァキア人達の国々の両方の政治的な指導力の欠如のために、チェコスロヴァキア社会主義連邦共和国の分解に反対しない。

・USSR は、ドイツ連邦共和国の経済的な関心の影響力の中への、ボヘミアとモラヴィアのメンバーシップの可能性、そして(1990年9月-10月時点から)12年ないし15年の内に、それらの地域がドイツへと政治的に合併される事を支持する。

・ドイツ連邦共和国は、ソヴィエト連邦に課せられた経済的な損失のために、よって USSR に対して賠償する。⁷⁴ ドイツ連邦共和国は、政治的な政党の急増の行程において明らかな(表向きな)介入をする事無く、左派の政党からさえも別々に引き出された、ドイツに対して好意的(i.e. ネオ・ナチス)で、ソヴィエト連邦にとってでも受け入れ可能なグループを準備する(スパイのスリーパー・セルを活性化させる)事によって、現在のチェコスロヴァキア社会主義連邦共和国の指導者の支持率の低下を準備する。⁷⁵

・ドナウ地域において、政治的、そして経済的な安定性を保つ事に対するハンガリーの意欲に関して、USSR とドイツ連邦共和国は、トリアノン条約によって規定された、元々の国境内の、ハンガリーの再確立に対して反対しない。ドイツ連邦共和国は、ハンガリーに合併される事がスロヴァキアにとって魅力的に成る様に、ハンガリーの生活水準がスロヴァキアにおいて蔓延しているものよりも高水準にするために、ハンガリーに対して経済的な援助を増大させる。⁷⁶

・USSR は、ボヘミアとモラヴィアの地域において、ドイツの大学と高校が確立され、ドイツによってそれらの学校が資金援助される事に対して反対しない。

USSR は、ユーゴスラヴィアの解体に反対せず、ドイツの経済的な影響力の中へと、クロアチアとスロヴェニアを移行させる事を支持する。

・USSR は、政治的な不安定性(を得るための方法)の使用に全く反対しない。⁷⁷

ドイツ連邦共和国は、ウクライナ、リトアニア、ラトヴィア、そしてエストニアに関する問題には関与せず、そしてそれら(ウクライナとバルト三国が)容認可能なレベルの上、そしてそれを超えた経済的な関心の部分であると考えない。

USSR は、ウクライナの国家主義者達(ネオ・ナチス)によって行われた活動が確立している出来事において、シスカーパシアン・ウクライナ(ウクライナ西部)の分離、そしてそのハンガリー共和国への合併に反対しない。


・USSR は、ソヴィエトとドイツによるチェコ国境付近の徐々の植民地化に反対しない。⁷⁸

(同意のメモの様に読める)この主張された密約が、ユーゴスラヴィアとチェコスロヴァキアの分解だけでなく、「国家主義者達」によって原因されたウクライナにおける現在の問題の以前に亡くなったストーリーがこの出来事を知る由も無かった事実の事の重大さに着目して下さい。⁷⁹ 故に、人はその密約の協力証言に3つ目の構成要素を加えなければならず、つまり、ウクライナにおけるつい最近の出来事です。よって、チェコの新聞が、本当に存在している文献を報告している可能性が多大に増大させられました。

故に、シスカーパシアン・ウクライナ(ウクライナ西部)のハンガリーへの合併についてその文献が述べる事が多大に重要なのは、この出来事が未だ起こっていないためで、そして実際に、その様な出来事が「西方のシスカーパシアン・ウクライナの安定性への最善の解決策」として、起こるかも知れないためです。

2. The Disturbing Questions
2.不穏な問い


読者は上述の書類の中でその他の何かに気付いたでしょうが、つまり、統一されたドイツが、ソヴィエト連邦に対して特定の事を行う様に尋ねているのでは無く、代わりに、そうする事を要求している事です。その問いは、その経済的な問題に拘わらず、実際に世界最大級の、膨大な原爆と水爆の兵器を所有したソヴィエト連邦に対して、その様な強い口調を使用するために、ドイツは何の可能なテコを持っていたのかと言う事です。ですから再び、コール首相の自信は何処から来ていたのでしょう?それは単純に「恐喝」外交の虚勢から来ていたのか、それともそれを後ろ楯した現実味があったのでしょうか?そしてもしそうなら、それは何だったのでしょう?

一つの答えは、勿論、以前の章の中でドイツのエリートが行っていたと私達が出くわした原爆と水爆の政治の中にあるかも知れず、フランスを核武装させた force de frappe において重度にそれ(ドイツ)が関わっていたので、ドイツは既に実質上原爆と水爆の勢力であると言う正に酔いを醒ます様な現実性を含んでいました。ですが再び、フランスの原爆と水爆の兵器(そしてドイツが秘密裡に蓄えたかも知れない兵器が何であれ)は、ロシア、または米国のどちらかに対して、破壊的なダメージを与える事が出来ましたが、ロシアの数千の核弾頭に対して、たった数百の核弾頭で、十分な「比重」に成らない様に見えます。

ですから、もし何かがあったとして、コールの要求を後ろ楯していた現実性は何だったのでしょう?

そのための答えのために、人は幾らかの宇宙的な推理を行わなければなりません。
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1 Christopher Storey, The European Union Collective: Enemy of its Member States: A Study in Russian and Germany Strategy to Complete Lenin’s World Revolution (London: Edward Harle, 2001), p. 160, emphasis in the original.
2 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe: The Dirty war for Europe’s Money, p. 18.
3 Joseph P. Farrell, Babylon’s Banksters: The Alchemy of Deep Physics, High Finance and Ancient Religion (Port Townsend, Washington: Feral House, 2010), p. 41.
4 Christopher Storey, The European Union Collective, p. 159.
5 This line in Storey’s reproduction and translation of the Funk book’s table of contents actually reads “Dr Horst Jecht, a Professor and leading Nazi economist from the Berlin School of Economics.” (p. 162)
6 ストーリーはこれが、国家的な中央集権を不必要とするために、地方とヨーロッパ-中央の間のリンクを育成し、加盟国を解体する策略である - 「転覆的なヨーロッパの地方的な政策と、地方についての委員会の起源である」と観測します。これは正に、EU の国々に影響している、忍び寄る革命、または『分割払いによるクーデター』の最も陰険な特徴の一つです。(Storey, The European Union Collective, p. 165).
7 Christopher Storey, The European Union Collective, pp. 162-166, bold-and-italicized fonts
added for emphasis of points for discussion in the main text.
8 Christopher Storey, The European Union Collective, pp. 162-166.
9 Christopher Storey, The European Union Collective, pp. 167-168, emphasis added.
10 この戦略は、英国のスターリング(ポンド)において帝国銀行がクレジットを発行するシャクトの計画を呼び起こしさせ、その計画は、思い出されるでしょうが、イングランド銀行のモンターギュ・ノーマンが同意したものでした。此処における要点は、法貨を通して、特定の国家的な通貨を国際化する試みが行われた事です。ナチスの策略のビザンチンもどきの悪賢さは単純に、BIS の一種を創造し、ドイツの通貨においてその様なクレジットを発行する事を許し、故にその制度における深遠なナチスのお圧倒性を確かにしました。
11 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe: The Dirty War for Europe’s Money, p. vii.
12 Storey, The European Union Collective, p. 169.
13 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, pp. 231-232.
14 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 201.
15 Ibid., p. xii.
16 Ibid., p. 240.
17 Ibid. p. xi.
18 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. xvi.
19 Ibid., emphasis added.
20 Ibid., p. 17.
21 Ibid., p. 10.
22 Ibid., pp. 16-17.
23 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 17. コノリーはまた、ヨーロピアン・ユニオンの現在の構造の創造に繋がった、マーストリクト条約の中で、この問いは意図的に答えられないままにされたと記述します。ですが、コノリー自身の ERM の検証に基づいて、私達がこの章の中で主張する様に、圧倒のためのフランスとドイツの間の戦いは手詰まり(引き分け)に終わった様に現れますが、その手詰まりは、その秤のドイツ側の方が優勢だった様です。この優越性は、以前の章のデータと融合された時、EU を圧倒するための争いに中の、戦略的なドイツの勝利の幅に成る様に現れます。
24 指摘する事にまた価値があるのは、為替レート・メカニズムが、ド・エスタングとメルムット・シュミットの間で開かれた秘密裡の会合の一連から存在へと現れた事で、そしてブンデシュ銀行がそれらの会合に反対していた事です。(q.v. Connolly, op. cit., p. 9)
25 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 167-168.
26 Ibid., p. 169.
27 ブンデシュ銀行の注目すべきドイツ政府からの独立自体が、多くの対立に繋がり、そして実際にブンデシュ銀行は、元々、為替レート・メカニズムを創造するにおいて、シュミットがド・エスタングの政府と秘密裡に話し合った事に対する対応として、シュミットの政府を解散させたと広く考えられました。この独立性は、再び、国際決済銀行(BIS)の事実上のソヴリンティー(主権)で、そして「何故、その様な重要な制度(BIS)のための説明責任の無い政治的な役割が、ドイツの民主主義において容認され、歓迎されているのかは鍵の問いである・・・」とコノリーに尋ねさせました。 (Connolly, op. cit., p. 253.)
28 Ibid., p. 13.
29 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. xiv.
30 Ibid., p. 383. 「米国と日本の形状におけるその様な敵を創造するための、特定の熱狂的なヨーロッパ主義者達の試みは、(ジョージ・オーウェルの)1984の悪臭を匂わせる」とコノリーは観測します。 (p. 384.)
31 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 379.
32 Ibid.
33 Ibid., p. 380. 特定の法的な意味を共にした封建制度の用語、「fealty (忠誠)」と言う用語の使用に注目して下さい。此処におけるコノリーによるその使用が全く偶然では無いのは、封建制度の中において、地域的な君主の、それ(忠誠)に対する呼びかけ(命令)において、人は「忠誠」の義務 – i.e. 地元の武装した軍隊を掲げる義務があるためです。このシステム(制度)の中で、個々の君主(大名)は複数のその他の君主(大名)達に対して忠誠の義務を被ります。契約的な義務のこの背景は - 『忠誠』が『契約的な義務』の制度なので - 一人の君主が、彼の部下の武将に、もう一人の君主への忠誠とは裏腹に、その武将に義務を命令する矛盾に繋がりました。故に、その様な矛盾が派生した時に、その様な義務を優先する「大君」の概念が台頭しました。故に、EU の構造は、より地域的な場合、i.e. 国家的、または地方的な争いにおける、人が究極的な行い(従い)の義務を被る、大君的な制度として見解されるでしょう。
34 Ibid., pp. 386-387.
35 Benard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 26.
36 Ibid.
37 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 28.
38 Ibid., p. 30.
39 Ibid., p. 32, emphasis added.
40 Ibid., p. 31.
41 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 76, see also p. 210.
42 See, for example, Bernard D. Kaplan, “Mitterrand Reveals his Support for Pro-Nazi Regime
During World War II,” The Baltimore Sun, Sept. 8, 1994, http://articles.baltimoresun.com/1994-09-
08/news/1994251106_1_vichy-president-francois-mitterrand-war-ii.
43 Bernard Connolly, The Rotten heart of Europe, p. 87.
44 Ibid., p. 88.
45 Ibid., p. 92.
46 Ibid., pp. 92-93.
47 記述する価値があるのは、ドイツの再統一の行程のこの期間の間とほぼ同じくして、ブンデシュ銀行はベルギーに対して類似した法貨を提供し、「新たなヨーロッパ」において誰が「シャルルマーニュを演じる」のかをとても鮮明にした事です。(See Connolly, The Rotten Heart of Europe, pp. 234-235.)
48 Ibid., p. 88.
49 Ibid.
50 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 309.
51 Ibid.
52 アルファンデリーの明言(失言)を聴いた際に、ヨーロピアン・コミッション(EC)の役人の一人が、「Alors, c’est bien foutu, le systéme,」またはコノリーが便利に翻訳する様に、「だから、そのシステムは全く FU*K されている」と述べたと、コノリーは記述します。(Connolly, op. cit., p. 309, n. 18.)
53 Ibid., p. 309.
54 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 310.
55 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, pp. 310-311.
56 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 319.
57 Ibid., p. 320.
58 Ibid.
59 Ibid., pp. 322, 324-325.
60 See my The Nazi International, pp. 209-241.
61 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 388.
62 Joseph P. Farrell, The Nazi International, pp. 232-233.
63 Bernard Connolly, op. cit., pp. 388-389, emphasis added.
64 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 41.
65 Ibid.
66 Bernard Connolly, The Rotten Heart of Europe, p. 42.
67 彼等が再び Reichprotektorat (帝国の保護下)に降格させられたと言うチェコの不平を思い出して下さい。Recall the Czech’s complaint that they had once again been reduced to a Reichprotektorat
Böhmen und Mahren, see my Nazi International, pp.
68 Christopher Storey, The European Union Collective, p. 153.
69 Ibid., pp. 153-154, emphasis Storey’s citing Igor Maksimychev, no title or page given,
International Affairs, Volume 43, Number 1, 1997.
70 Christopher Storey, The European Union Collective, p. 158, all emphases Storey’s.
71 適切な別の話しとして、ストーリーはまた、アメリカの地政学的な計画者で、国家安全保障メモ48と、その共産主義に対する「囲い込み」と最終的な「押し戻し」の政策の著者である、ジョージ F. キーナンがベルリン大学の学生で、其処で彼が、アドルフ・ヒトラーへの鍵の影響者の一人だったドイツの将軍、カール・ハウスホッファーの地政学的なアイデアを吸収したと記述します。その「囲い込み」と「押し戻し」の教義はまた、ドイツの Abwehr (防衛)であるFremde Heere Ost (東の国外の軍)の、東方の前線における、ドイツの諜報工作の戦時中の責任者、ドイツ将軍ラインハルト・ゲ―レンによって支持されたもので、何故、当時のアメリカの外交政策がその様に精神分裂的で、とても赤裸々な形状において、アメリカの関心に対して反-直感的なのかと言う問いを浮上させます。キーナンは、勿論、その多くが今日まで継続する、アメリカの戦後の外交政策の長期的なメカニズムを本質的に設定した、トゥルーマン政権への鍵の助言者でした。これに関して人は、CIANSA を考えるだけでよいでしょう。私達はこの本の次の章と最後の部分の中で、この精神分裂的で反-直感的な外交政策のためのその他の理由を探求する機会があるでしょう。
72 Christopher Storey, The European Union Collective, p. 205.
73 この時点においてストーリーは編集的なコメントを加えます:「その出来事において、ヘルムット・コール首相は、1990年において、ポーランドとの Oder-Neisse (国境)のあらゆる分離の最終的なドイツの再統一を発表します。これは、この文献の奇妙な異例性の一つですが;その中でチェコスロヴァキアの分離とユーゴスラヴィアの不安定化と分解が正確に予測されていた事を与えられると、それはその重要性を軽減しません。 (p. 202)
74 頭の中に入れておくのが重要なのは、その「賠償」が、二国間の貿易の同意、そしてドイツからロシアへの科学技術的な補佐を含む、多くの形状において来る事が出来る事です。
75 ストーリーは此処において追加的なコメントをします:「メモ:これは、チェコとスロヴァキアの「民主主義」が偽物で、ソヴィエトの「デモクラティズム(似非民主主義)」の操作された行いである事を体現します・・・」 (Storey, The
European Union Collective
, p. 203).
76 連合軍と、オーストリアとハンガリーの同盟勢力の間の第一次世界大戦を終わらせた、トリアノン条約の記述は、ハンガリーの現在の国境を規定しました。しかしながら、その二重王朝(オーストリア-ハンガリー)の中で、ハンガリー王国の国境は、現在はルーマニアの中にあるカーパシアン山脈の西の地域の、トランシルヴァニアの殆どを含み、その間、スロヴァキアは、勿論、その二重王朝のオーストリアの部分の中のガリーシア王国の中へと含まれていました。故に、その密約のこの構成要素は、本質的に、もしハンガリーがそう選択するなら、昔のガリーシアのオーストリア王国のスロヴァキアの構成要素と、加えて、現在はルーマニアにあるトランシルヴァニアの、元々はハンガリーの領土を、ハンガリーに与えました。故に、この主張された密約は恐らく、ルーマニアの上のロシア-ドイツ-ハンガリー共同のあらゆる効能に対する反対の重りとして、米国がルーマニアにおいて幾らかの軍隊を駐屯させた隠された理由でしょう。効果的に、その密約が再創造しようと試みているのは、その二重王朝のハンガリー的な構成要素で、その間、オーストリア的な構成要素は、ドイツの影響力の領域の下に納まります。これは、再び、第一次世界大戦の間に概要された、ヨーロピアン連邦のためのドイツの計画と完全に一貫的です。
77 ユーゴスラヴィアについて。この点についてのストーリーのメモは「ユーゴスラヴィアにおいてその後、体現した様に」と述べます。 (Storey, The European Union Collective, p. 203).
78 Christopher Storey, The European Union Collective, pp. 202-203, bold emphasis, and italics
emphasis, when appearing separately, are Storey’s. Bold and italics emphasis when appearing
together and combined, are my own.
79 ストーリーは、2010年に亡くなりました(暗殺説あり)。


7. ConCERNing the Cosmology Cartel: Collisions, Quarks, and Conspiracy Theories
宇宙学カルテルに関して(Con/詐欺、CERN/セルン):衝突、クアーク、そして陰謀論


何故、私達は、 J.P. モーガンがテスラを隠蔽しているのを見つけるのでしょう?・・・何故、私達は、銀行業と物理学の間の驚くべき太古の関連性を見つけるのでしょう…?・・・そして何故、私達は、太古の時代だけでなく、現代においても同じく、その様な調査の近辺の銀行家達の存在を見つけるのでしょう?」¹

「逆説(矛盾)的に、人が更に昔へと歴史を辿ると、科学、魔術(化学)、そしてマネー(錬金術)の間の関係はより親密に成ります。」²

「エンリコ・フェルミは、全ての粒子について不安を感じた極少数の人達の一人でした:「もし私がそれらの粒子の名前の全てを覚える事が出来るなら、私は植物学者に成っていたでしょう。」
- アレクサンダー Unzicker³

「・・・魚が匂うと知るために、あなたが魚類学者である必要はありません。」
- アレクサンダー Unzicker⁴

セルン(CERN)の大型ハードロン(粒子)衝突器について、量子力学のパンテオン(万神殿)における粒子(の量)よりも多くの陰謀論があります。そのパンテオンは、過去数十年において、ファーミオンズ(fermions)、ボーソンズ(bosons)、ミューオンズ(muons)、ミーソンズ(mesons)、ハードロンズ(hadrons)、グルーオンズ(gluons)、クアークス(quarks)、ストレンジレッツ(strangelts)を含む様に多大に成長し、そして、この全ての上で、全ての粒子の様に、それらの奇妙な生き物達(存在)は、多くの場合において私達は既に、その数学的な隠微(理解しにくい性質)と抽象性が口語的に「味」、そして「色」と言及される、それらの特徴、変化、質量、回転等々によって描写されます。あたかも数学自体が十分では無く、それらの特徴的な機能、そしてそれらの常に繁殖し、急速に倍増しているウサギ小屋の子供達(粒子)を共にした物理学者達の神々(粒子)の増え続ける家系図を語る事を物理学者達に許すために、普通の話し方が乗っ取られ、「魅力」、「美しさ」、「上」、「下」、そして「奇妙さ」の様な借りられた言葉が、粒子の特徴の専門用語に入りました。部外者としてその話し合いを観測する、または聴くと、それは少々、ロマンス小説、少々、芸術観賞クラス、そして少々、アイスクリームを注文している様に聞こえます。また、昔のパンテオン(万神殿)への類推に全く目的が無いわけでは無いのは、一つの論説によると、丁度古代人が、その目的が、彼が観測した自然的な機能、または行程が何であれ、新たな「神」を造り出した様に、量子力学は機能的な特徴のそれぞれのクラスター(集合体)を説明するために新たな粒子を造り出すためです。質量の性質を持つ粒子の集合体があるのでしょうか?では、その機能がその他全ての粒子(神々)に質量を分け与える、粒子(神)が存在していなければなりません。

そして故に - 単純化の歯ぎしりの多大な量と共に - それと共に物理学者達がそれを「神の粒子」とあだ名する事によって、「ヒッグス・ボーソン(Higgs boson)」の論説が現れ、親切にも私達の「粒子のパンテオン」の類推を確認しました。この「ヒッグス・ボーソン」、または「神の粒子」は、セルンの大型ハードロン衝突器が探している物事の一つとされ、そしてそれは、それが既に見つけた物事の一つであるとされました。しかしながら、これから目撃される様に、それは私達が関心を持つ、最小限の神々(粒子)です。

実際に、幾らかの科学者達にとって、本物の神はその衝突器自体で、そしてそれを描写するために使われた用語は、幾つかの場合において、宗教的な献身に接近します。カナダのレジーナ大学の天文学の教授、マーティン・ビーチにとって、その衝突器は、その「複雑ですが逆説(矛盾)的に倹約的な構造は、正にその規模と共に」、大型ハードロン衝突器に対して人は萎縮させられ、「驚く以外、何も出来ない」機械を体現します。⁵ ですがこの崇拝は - 幾らかの人達は偶像化と言いますが - 其処に留まらず、彼の言葉は、素晴らしいヴィジョンとして彼が考えるエクスタシーの一種の境界線の上に漂い:その衝突器は「ヨーロッパの原子力物理学の意気高揚の社(やしろ)で」⁶ そして、旧約聖書のイメージを少々呼び起こし、それは「今、目覚めて、雄たけびを上げ、未来のための約束に満ちた、大いなる海獣(leviathan)」です。⁷ その栄光的なターバナクル(ユダヤの移動式の神殿/幕屋)がどの様に構築されるかの詳細を分かち合うために、一時的に山の頂上から下山し、ビーチはこの機械の様な神秘と共に宇宙を分かち合える我々人間は何と幸運なのであろうと、再び崇拝を行う前に、彼のヴィジョンをより殺風景な言葉に包み;その衝突器について彼はこう述べます:

「…人類によって構築された最も複雑な機械です。それは、比較すると、今まで造られたあらゆるものを小人にします。全ては、その大きさ、技術的な複雑性、科学的な開発、そしてその構築の正確さも含めて、最大級の規模です。もしそれが(大型ハードロン衝突器)のための正しい名前なら、その様な機械が造られる事の出来る時代に生きる事を、私達は光栄に思います。」⁸

そのスペクトルの全く反対側において、基準的なモデルの彼の殆ど完全で哲学的な否定のために、幾らかの物理学者(御用学者)達が気難しい人と考える、ドイツの数学者で神経科学者、アレクサンダー Unzicker はまた、その状況の要素を「宗教的」であると知覚し、彼はその要素(科学カルト)が物理学を教義(カルト)の領域へと移動したと疑います。Unzicker にとって、基準的なモデル(一般論)が此処で、永遠に高費用過ぎる粒子の加速器と衝突器の形状におけるそれ自体の寺院を共にして、それ自体の「宗教に対する平行線」と共に完全に成るのは、

「・・・それがまた、印象的な科学技術で、その純粋な大きさ、費用、そしてその大型ハードロン衝突器において投資された努力は、基準的なモデルにおいて人々が信じる様に納得させます。今日の衝突器は、中世の大聖堂の役割を担います。その様な大きな建物(セルン)における調和的な合唱は、論説的な妄想に言及する事は出来ません。」⁹

此処において興味深いのは、基準的なモデルを正当化し、補佐するビーチと、明らかにそうしない Unzicker の両方がその事業を半-形而上学(哲学)的な用語において描写している事です。ですから、何が起こっていて、そしてその大型ハードロン衝突器は何処に当てはまるのでしょう?

私達がそれに答えられる前に、私達は最初にその他のウサギ小屋を扱い、分別せねばならず:大型ハードロン衝突器に関して芽生えた様々な陰謀論です。これは、セルン(CERN)のマンモス的な機械に関して疑いが全く無いと言う事でも、そのための何らかの隠された、そして秘密裡の目的があるかも知れないと言う事でもありません。しかしながら、それらの関心とそれらの目的は、それに関する様々な陰謀論の顕著な特徴を人が検証した後にのみ、それらの重要性の全貌が理解可能に成ります。これから発見される様に、それらの論説には、幾らかの科学者達が、彼等の明言においてそれらに対して言及する事を原因する、少なくとも十分な質量があります。この検証の最後に、私達は、全ての躊躇を風の中へと投げ入れ、そしてその衝突器についてと、そしてそれが何を本当に行っているかについての、私達自身の極度に仮説的で、推理的な論説を提供しましょう。それが意味を成すために、しかしながら、私達は(1)陰謀論をカタログし、(2)その衝突器とその構造を(基本的で初歩的な方法においてですが)理解し、(3)量子力学の基準的なモデルと、その批評者達の初歩的な理解を有し、そして最後に、(4)彼等の機械と、その目的について、科学者達自身が言った事を慎重に再検証しなければならないのは、それらの明言は、人が行と行の間を読んだ時、あらゆる陰謀論が出来るよりも、更にもっと異例的な逸話を伝えるためです。

A. A Catalogue of Conspiracies
A. 陰謀のカタログ
1. A Bizarre Inventory
1.奇怪な目録
a. Logos and Pictures: Grist for the Conspiracy Mill
a. ロゴと写真:陰謀の水車小屋のための穀物


それらの陰謀論自体は、「ハードロンのヒステリー」の紛れも無いカタログで、そしてそれらの殆どは、何処かの時点において、最小限でも示唆的な、その衝突器のためのセルン(CERN)のロゴに触れます:

セルンのハードロン衝突器のロゴ
1 Cern Logo

このロゴを見解している量子物理学者が、それについて二度考えない(疑わない)のは、結局の処 - もし何かが描写されているとしたら - 描写されている唯一の物事が、5つの直線的な注入の地点を共にする2つの円形の衝突器で、相応しい図式で、私達が目撃する様に、実際にその大型ハードロン衝突器が、事実、5つの加速器の一連であるためで、それらの内の1つは、ハードロン(この場合、プロトン[陽子]、または、もっと正確に言うと、クアークス)のボールを加速させる直線的な加速器であるためです。よりキリスト教的な傾向のその他の人達が、その様な簡単で容易な説明を、それ程素早く受け入れないのは、しかしながら、そのロゴがまた、その象徴の中へと大胆にも暗号化された3つの6を有していると彼等が直ぐに指摘するためで、そして666は、聖者ジョンの黙示録(ヨハネの啓示書)に親しみがある人なら誰もがあなたに伝える様に、その数字はアンチ-キリストの数字で、世界の終わりにおける大いなる獣の数字であるためです。それらの陰謀論の論説者達にとって、その大型ハードロン衝突器が、幾らかの研究者達が「ブラック・ホールの従兄弟¹⁰」と呼んだ量子力学の現象であるクアーク-グルーオンの凝縮物の世界を-破壊するストレンジレッツのために探求しているのかも知れず、または(全てよりも最悪なのは)アンチ-物質のための探求かも知れず、その全ての背後の、隠されたオカルト的でサタン的な目的の肯定的な証明であるためです。その問題は、私達がこれから見る様に、対照的に、問題を全く改善しない、セルンと様々な「心配した(conCERNed)」科学者達によって成された明言によるものです。

ヘルメス主義者、または秘儀主義者がその特徴的なロゴを見た時、しかしながら、3つの6を見るのでは無くむしろ、3つの9を見て、そして全ての存在がそれから派生した、9つの創始的なネテル、または「神々」に対する間接的で象徴的な言及をする事によって、(古代)エジプトの Enneads (9)の形状における、現代科学の台頭におけるヘルメス的な教義の影響力に対して微細に頭を下げていると結論するかも知れず;その様な人は、ビッグバンから結果した「創始的なプラズマのスープ」の状態の幾らかを再-創造する試みを含むセルンの明言された目的を、錬金術の形状であるとしてとらえる傾向にあるかも知れません。

私達は故に、1匹の象を検証している3人の盲目の人達の立ち位置にあり、彼等は、それぞれがその獣の一部分だけを感じ、彼等の個人的な少しずつの描写を鮮明な全体像として提供し、私達が目撃する様に、量子物理学に全く似ていないものではありません。

オカルト(i.e. 隠された)、そして/またはヘルメス的な陰謀論は、もう一つの奇妙な状況によって助長され扇動されており、つまり、その大型ハードロン衝突器の本部の外の、「創造と破壊」の神/女神、ヒンドゥーの神シーヴァの像の存在です:

セルンの大型ハードロン衝突器の本部の前の、ヒンドゥー教の創造と破壊の神/女神、シーヴァの像
2 Shiva dance

重いイオンの衝突は言うまでも無く - 粒子の創造と破壊は、大型ハードロン衝突器のパンとバター(朝飯前)である間、シーヴァの創造的で、破壊的な活動が宇宙的な-規模で、宇宙的な本質であり、古い宇宙の破壊の上で、新しい宇宙を導き出すのは、その問題を助けません。シーヴァは、宇宙的な創造と破壊の力の象徴で、そして故に、セルンの前のヒンドゥー教の神/女神の存在は多くの人達にとって、その衝突器を通して創造と破壊の宇宙的な力を掌握するための、その組織の意図を象徴します。

人が予測可能な様に、その衝突器が、2012年における世界の終わりを予言すると主張された、マヤのカレンダーについてのヒステリーの前にそのシーヴァ-の様な活動(実験)を始めたので、幾らかの人達がそのカレンダー自体と、端から見られた時の、大型ハードロン衝突器の「探知機」の一つの間の不安にさせられる、似すぎている類似性を見つけたのは、驚かれるべきでは無いでしょう:

マヤのカレンダー(上)と大型ハードロン衝突器の粒子探知機(下)の比較
3 Mayan-Calendar
4 largehadronc

b. A More Sober Sampling of lunacy
b. 狂気のもっと目覚ましいサンプル


それらの陰謀論を、人がより詳細に考えた時に、しかしながら、それらの創造者達と科学者達の論説の間の隙間が狭く成ります。実際に、これは、その隙間が測量可能で、異論されているのは数字では無く、それらの意味と示唆であると言う、一つの例の場合かも知れません。出回って、そしてメインストリームのメディアの報道にまでさえもその道を見つけた一つのその様な論説は、科学者達が、ビッグバン自体、そしてその出来事のコンマ数秒内における全ての知られている物質の状態を再創造しようと試みている、または彼等が「地球を、そして最終的に宇宙を飲み込む」、「ミニ・ブラック・ホール」を創造しようと試みていると言うものでした。¹¹ 更にこの論説のもう一つの変形は、セルン(CERN)の悪魔の様な科学者達がまた、それを通ってデーモン達(demons)が地球へと湧き出る事の出来る、超越-次元的な「ポータル(出入り口)」を開こうと試みていると言う事でした。¹² 少々、面食らわせる様にですが、左手で取り上げた後、その記事は、科学者達と技術開発者達が実際に「ビッグバンの要素」、この場合、「宇宙における物質の最初の形状であると信じられた、クアーク-グルーオンのプラズマ」を創造する事を試みていると記述する事によって、その右手に与え戻しました。ですが全ては大丈夫で、セルンは既にそう行い、そして「この世界は、頑固にも、破壊されないままでした。」¹³

お株を取られない様に、セルンは、世界を破壊する途中に、定休日を取り、更にもう一つの論説によると、2015年3月24日に、その衝突器の南、約125マイルの山の中へと、ジャーマンウイングス(ドイツの航空機)9525便が墜落したのとほぼ同時刻に、その(巨大な)磁石の一つにおける事故的なショート-サーキットのために、その航空便を墜落させたとされました。批評者達は、勿論、その誤作動が起こった時に、疑う余地無くその衝突器から125マイル内に、その他の航空便が存在していた事を指摘し、この論説を素早く非難し、どんな場合であれ、その機器によって派生させられたフィールド(場)は、その様な効果を産出するために、十分に強力では無いだろうとしました。¹⁴ それが最終的に再検証された様に、一時的に広まった、更なるもう一つの論説は、その航空便の中で亡くなった2人のアメリカ人達が、イヴォーン・セルケと彼女の娘、エミリーで、陰謀論者達が指摘した様に、イヴォーン・サルケは、安全保障とデータのプロセッシングとマネージメント(諜報工作)において、米国政府に対する大手の契約会社、ブーズ・アレン・ハミルトン、Inc.の社員でした。¹⁵ その狂気の全てをまとめると、その大型ハードロン衝突器とその実験を、「環境-フェミニスト」の観点から見解する試みさえありました。¹⁶

2. More Credible Cautionary Notes
2.更に信用出来る注意的なメモ


以前の部分の中で見られた様に、その陰謀論の中心にあったのは、その衝突器が - ミニ・ブラック・ホールであれ、クアーク-グルーオンのプラズマであれ、または「ストレンジレッツ」であれ - 最終的に地球を、そして恐らく世界を破壊する何かを産出すると言う非難でした。此処でその逸話が、セルンが恐らく認めるよりも、もっと複雑に成ったのは、注目された様に - ドイツの Tübingen 大学の理論的な生物化学と混沌(カオス)理論の教授、オットー・ローセラーの様な有能な科学者達が - それらの論説を発言し出し、その声がとても大きく成り、その衝突器にスイッチを入れる事を停止させるための裁判沙汰が米国とドイツにおいて実際に開始され、ドイツの裁判所が、完全に何も失敗しないと言うセルン自体の単なる大雑把な補償では無く、もっと客観的な第三者による、その計画全体の安全性の再検証のための申し立てを出す事を強要しました。¹⁸

その物議は、メインストリームのメディアの中でも報道されました。ニュー・ヨーカー・マガジンは、例えば、その物議、そしてそれがどの様に米国のブルックヘイヴン国立研究所の相対的な重いイオンの衝突器(RHIC)に起因したのかをまとめた、エリザベス・コルバートの長文の記事を載せました:

「セルンの科学的な幹部の主任、ジョス・エンゲレンはオランダの出身です。彼は、フランス出身の長官の下で、そしてドイツ出身の金融的な幹部の主任と共に働きます。私は彼のオフィスにおいてエンゲレンと話すために向かい;彼の机の後ろには、その衝突器の様々な部分が何時完成される予定かを示唆した図表がありました。それは、幾つもの線が全ての方向において放射している、複数に色分けされた塊の目まぐるしい壁掛けでした。エンゲレンは、とてもオランダ的だなと私に印象を与えた、半分-皮肉的な明るさと共に、私を歓迎しました。彼の管理責任の中にあるのは、その大型ハードロン衝突器が、世界を破壊してしまう可能性について、セルンが頻繁に受け取る連絡(電話/E-メール等々)と手紙に対処する事でした。私がこれについて尋ねた時、エンゲレンは、Bic (油性)ペンを取り上げ、私の前に置きました。

「『量子力学において、このペンが、テーブルを通り抜けて落ちてしまう可能性があります』と彼は述べました。『全く突然に、それは床の上にあるでしょう。何故なら、それはとして振舞う事が可能で、それ(ペン)はそれ(テーブル)を通り抜ける事が出来るためで;私達はこれを「トンネル効果」と呼びます。もし貴女が、これが起こる可能性を計算すると、それはゼロと同じではありません。それはとても小さな可能性です。ですがそれは決して起こりません。私はそれが起こるのを見た事がありません。貴女もそれを全く見た事がありません。ですが、一般大衆に対して、「それはゼロではありませんが、それはとても小さな可能性です」と貴女が何気ない発言をすると・・・』と彼は肩をすぼめました。

「惑星を終わらせてしまう心配は、殆ど全ての高-エネルギーの実験に付きまといました。その様な心配は、1999年において - 恐らく不注意に - サイエンティフィック・アメリカン誌によって推進力が与えられました。その夏、その雑誌は、当時、完成に近づいていた、ブルックヘイヴンの相対的な重いイオンの衝突器についての、編集者への手紙を掲載しました。その手紙はブルックヘイヴンの衝突器が、地球の中心へ向かって引き寄せられる「ミニ・ブラック・ホール」を産出し、故に「数分間の内に惑星全体を飲み込んでしまう」かも知れないと示唆しました。後にノーベル賞を受賞する物理学者、フランク・ウィルチェックは、その雑誌のための返答を書きました。ウィルチェックは、ミニ・ブラック・ホールが、地球を飲み込んでしまうアイデアを否定しましたが、新たな可能性を台頭させました:その衝突器は、中性子(ニュートロン)的な恒星の中心において存在しているかも知れないと幾らかの人達が考える物質の形状である、ストレンジレッツを産出出来るかも知れないとしました。この場合において、『人は、「ice-9」の種の変換について心配するべきかも知れず、』それにおいて(ストレンジレッツに触れている)周りの物質の全てが、ストレンジレッツへと変換され、そして私達が知る世界が消滅してしまうかもしれないと観測しました。ウィルチェックは、彼自身の提案が『可能では無い』と明言しましたが、ダメージは既に行われてしまいました。「ビッグバン・マシーンは地球を破壊する事が出来る」とロンドン・タイムズ紙の見出しは報道しました。ブルックヘイヴンは、これとその他の大災害のシナリオを検証するために、委員会を任命する事を余儀なくされました。(その委員会は、「私達は、ストレンジレッツに開始された大災害からは安全である」と結論しました。)

「『私はフランク・ウィルチェックを知っています、』とエンゲレンは私に伝えました。『彼は私よりも数段頭が切れます。ですが彼は恐らく、少々、ナイーヴでした。』セルンの幹部達は現在、L.H.C.(大型ハードロン衝突器)の世界を-破壊する効能に関して、『その可能性がとても小さいと言うのではなく、その可能性がゼロである』と言う様に指導されているとエンゲレンは述べました。」¹⁹

この端的な歴史から学ぶ、2つの重要な点があります。

最初に、その問題は「ミニ・ブラック・ホール」の創造では無く、むしろ「ストレンジレット」と相応しく命名された、ストレンジ(奇妙)なクアーク-グルーオンの凝縮物、またはプラズマである、それら(ミニ・ブラック・ホール)の「従兄弟」で、それは最終的にそれとの接触へと全ての物質を吸い込み、その全てを超越-濃密な塊、または恒星の質量を共にした物質の球体へと変換しますが、地球の大きさよりも小さい、とても小さな空間のヴォリュームへと凝縮されますが、完全なブラック・ホールでは無く、それに最も近いものです。

第二に、セルンのエンゲレン博士自身が認めた様に、その可能性は実際にゼロではありませんが、殆ど消えそうな程小さく、とても小さ過ぎるので、数百億ドルの宝くじに三連続で当たるのに類推的ですが:殆ど消えそうな程小さいのですが、それでもゼロではありません。

成行きとして、その物議が継続したのはそれらの状況下においてで、そしてその大型ハードロン衝突器の「スイッチを入れる」賢明さについて、科学的なコミュニティーの中から、時々、異議を唱える声を集めためでした。同時に、その他の人達がセルンの実際の公言を詳細に調べ始めました。彼等の内の一人はエリック・ペンローズで、彼は、もし全くの矛盾では無いにしても、セルンがその報告を「スピン(回転)」している(意図されていない言葉遊び)のを捕らえました。「セルンの安全性のページによると」とペンローズは記述し、

「(大型ハードロン衝突器)におけるストレンジレットの産出は故に、(ブルックヘイヴンの相対的な重いイオンの衝突器)よりも可能性が低く、そして(RHIC/ブルックヘイヴン)における経験は既に、ストレンジレッツは産出する事が出来ないと言う主張を確証しています。

「2008年において、(大型ハードロン衝突器の)安全確認グループ(LSAG)は:『(大型ハードロン衝突器)におけるストレンジレッツ産出に対する不可能性についての以前の主張が確認された』と主張している報告を産出しました。」²⁰

全ては大丈夫です。セルンは「ストレンジレッツ」を産出しようと試みているのではありません。此処に見るものは何もありません。お先に進んで下さい、でしょう?

大違いだったのは、ペンローズによると、その大型ハードロン衝突器が、ストレンジレッツの探知のための計画を練っていたためで、故に、それら(ストレンジレッツ)がその粒子ビームの衝突において産出されるかも知れない可能性がどれだけ小さかろうと、それ(セルン)が暗黙に(可能性を)認識していた事を示唆していたためでした:

「ですが、ストレンジレッツの非-産出性についての安全報告書の中の主張は、(大型ハードロン衝突器)のための2つの実験研究計画と、明らかな矛盾であると、今、証明される事が出来ます。ストレンジレッツの産出は(大型ハードロン衝突器)における期待、または可能性のどちらかであると明言する、(大型ハードロン衝突器)の探知機の働きに関連した理論的、または技術的な記事、プレゼン、そしてネット上の素材が確認されました・・・その議長を含む - (大型ハードロン衝突器の安全確認委員会の2人の)会員達が - その大型ハードロン衝突器委員会に関わり、そしてその委員会の会合からの議事録は、それらのセルンのストレンジレット探知の計画との、彼等の親密性を示唆していました。1996年において、その後者(大型ハードロン衝突器の安全調査グループの)議長は、それらが提案書であった当時、それらの計画に拘わっていた、ALICE 探知機を担当した審判員でした。実際に、その(大型ハードロン衝突器の安全調査グループの)最終版のための報告の著者達の、5人の内の4人は、当時、セルンの理論部門の一員達でした。

「それらの計画の一つは実際に、その(大型ハードロン衝突器の)4つの主要な探知システムの1つの一部として、現在設置され、そして機能中の自己-抑制した探知機の準システム - Compact Muon Solenoid (CMS/小さなムーオン電磁石)でした。この探知機はキャスター(CASTOR)と呼ばれ(注:双子座のキャスターとポルックス)、「Centauro And Strange Object Research (センタウルス/射手座と奇妙な物体研究)」の略でした。もう一つのストレンジレット探求計画は、ALICE 探知機と共に関連させられています。

「・・・それらの研究家達が、セルンのその他の安全保障のための土台がまた、しかしながら、幾人かの物理学者達のモデルの予測の公表された明言によって疑われる、または矛盾される危険性があると、此処において主張するわけではありません。」²¹

着目されるべきは、そのペンローズの記事が、詳細なテーブル、加えて彼の主張を文章化している展示物の画面-撮影を含む事です。

此処においてその謎が再び深まるのは、しかしながら、セルンの場所において主張された CASTOR のストレンジレット探知の調査のために人が探求した時、人が発見するのは、CASTOR の略名の計画が存在する事ですが、セルンによるとそれは「Cern Advanced STORage manager (セルンの先進的な保管管理)」の略で、それは「物理学的なデータのファイルを管理するための、セルンにおいて開発されたヒエラルキー[ピラミッド型]の保管管理システム」です。²²

明らかに、ペンローズもまたこの難しさにぶつかった様なのは、彼の記事の中で、彼が少々奇妙な明言を行うためです:

「この探知機の事前知識無しでは、それについてのセルンからの情報は、「セルンの書類サーヴァー」の大量の書類の中、または(CMS タイムズのニュース・レターのアーカイヴ(記録保管)の中の[探索の]結果 - または一つの記事から言及を与えられた CASTOR のための CMS のウェブサイトの様な)CMS (Compact Muon Solenoid/小型ムーオン電磁石)のウェブサイトの中の深くから、困難と共に唯一辿る事が可能です。」²³

私達は一時的に、論議のために、CASTOR の略語の意味の両方のヴァージョン - 「Cern Advanced STORage manager (セルンの先進的な保管管理)」と「Centauro And Strange Object Research (センタウルスと奇妙な物体の研究)」が本当で、そしてその後者が、その衝突器における Compact Muon Solenoid (CMS/小さなムーオン電磁石)の中に埋め込まれた、何らかの隠された、または秘密裡の探知システムを意味すると仮定しましょう。

一つの略語の、この二重の使用は、何を意味するのでしょう?

一つの明らかで可能な示唆は、ストレンジレッツを探知するための、隠された、そして秘密裡の一つの計画が、それによってその衝突器がそれらを産出するかも知れないとても低い(統計学的な)可能性を認め、その大型ハードロン衝突器が産出するであろう、正に膨大な量のデータを管理するためのものである、全く異なった計画の中に埋め込まれていると言う事です。データ管理と、その表向きのものの中に埋め込まれた、または偽装された秘密裡の計画の可能性の間の、この関連性を頭に入れておいてもらいたいのは、それがこの章の後において果実を結ぶためです。

現時点において、しかしながら、この可能性のその他の示唆を考えてもらいたいのは、言うなれば、探知の実験を組織化(準備)する事によって、そしてその様な実験を行い、そして観測するための、高価な道具のために出資する事によって、セルンはそれ(実験)が、それら(ストレンジレッツ)を産出するだけでなく、その秘密裡の計画の示唆と共に、それが実際にそれらを産出しようと試みていると言う事であるためです。

この分岐点において私達は、その計画全体を、より客観的な安全委員会が検証出来る前に、その大型ハードロン衝突器がオン・ライン(スイッチ・オン)に成る事を遅らせるために、ドイツの法廷の前に提訴をもたらした事と連動して私達が以前に出くわしたオットー・ローセラー博士に再び戻りましょう。結局の処、その構築、管理、そして作動において関わっている正に関係者達による唯一のその機器(衝突器)の安全性の保障は、少なくとも法理学の領域において、利益相反であるためです。

ローセラーの影響の下で、私達が見た様にそれらの中にエリック・ペンローズを含むその他の人達が、その衝突器を検証し始め、そして幾らかの人達にとって - 例えもし、統計学的な観点から、その可能性が無視出来る程小さいとしても - ストレンジレッツ、またはクアーク-グルーオンの凝縮物の産出の可能性が意味したのは、セルンの機械が、その円形の通り道が(大砲の類推を延長すると)、光速に近い「銃口速度(発射速度)」を許し、その衝突器の膨大な磁場(それについてはこの章の後の中で更に触れます)の中で旋回させられた後、凄まじいエネルギーで衝突させられるプロトン(陽子)と重いイオンを許す、「超-クアーク大砲」の一種でした。故に、その衝突器が実際に、惑星規模の効果と影響力の機械なのは、そのそれぞれがプロトン(または、もっと悪いと、重い鉛のイオン)を含む、光の速度の近くまで加速している粒子ビームの衝突によって意味されるのは、それらの理論家達によると、それらは

「本質的に - 質量の回転している光速のチャージされた輪である - カーのブラック・ホールの『単一性(singularity)』と同等でした。カーの単一性は横断的(i.e. 横波)の重力的な波を産出出来るので、その(大型ハードロン衝突器)は、地球の中心に向かって真っすぐ進む、直角的な(縦波の)波を産出するかも知れませんでした・・・もしそうであれば、探知不可能なそれらの重力的な波は、磁場に影響し、地震の波を誘発し、火山活動を活発にさせるかも知れませんでした。」²⁴

それらの陰謀論者達によると、その様な地震は、規模と量において、最終的にリヒター・スケールの(震度)8、そして更に9に届くかも知れませんでした。端的に、その計画の表向きの顔 - 粒子の物理学と量子力学における大規模な実験は - 粒子とは殆ど関係が無く、重力と正しく関係していて、世界を-破壊してしまうかもしれない物質の創造の可能性である、隠された計画を仮面していました。²⁵

この全ては、15テラ-エレクトロン-ヴォルトのエネルギーの範囲における衝突のための計画を共にして、まず、7テラ-エレクトロン-ヴォルトにおけるエネルギーの衝突と共に、その衝突器において起こっていると、その論説者達は指摘します。そしてもしこの全てが、27キロメートルの円周を伴った現在の大型ハードロン衝突器に対して真実なら、100テラ-エレクトロン-ヴォルトにおける粒子ビームの衝突を産出する、その計画された100キロメートルの円周の衝突器をセルンが建設した後、何が起こるかを想像してみて下さい!²⁶ そしてあたかもその全てが十分では無い様に、セルンの大型ハードロン衝突器の主要なメンバー国家であり、その計画への最大の金融的な貢献者であるドイツは²⁷、フランス、英国、ロシア、そしてインドからの協力を共にした、FAIR (Facility for Antiproton and Ion Resarch/反-プロトンとイオン研究のための施設)衝突器を建設する計画を公表しました。²⁸ 反-プロトンは、プロトン(陽子)の反-物質の同等で、そして物質-反物質の反応は、反応の完全な絶滅で、衝突毎に膨大な量のエネルギーを産出します。人は成行き的に、その真の、そして秘密裡の目的が、重水素とリチウムの原子核の衝突によって産出された、水素爆弾の核融合反応のエネルギー産出を遥かに超えた、究極的な爆発を産出する様にデザインされた計画を目撃しているのでしょうか?²⁹

B. Deeper Persisting Patterns and Contexts: Finance and Physics
B. より深く一貫的なパターンとコンテキスト:金融と物理学
1. The Ancient and Modern Example of a Pattern
1.パターンの太古と現代の例


この問いに答えるために、私達は、ヨーロピアン・ユニオンとその計画を共にしてだけでなく、以前の章の中で検証された金融的、そして企業的なカルテル(財閥)を共にするその衝突器のより大きなコンテキストを考えなければならず、つまり、私達はその衝突器を、太古の時代まで遥かに遡り、そしてナチスの時代の間により詳細に体現された、もっとより大きな歴史的なパターンの中にそれ(衝突器)を位置付けなければならないと言う事です。太古の時代において、高度で金融的な権力、宗教、そして科学技術的な計画の間の関連性が鮮明だったのは、幾らかの人達によると、太古の寺院は電報を送り、そして受け取る事の出来る単純なラジオのレゾナント(共振)的な空洞として機能したかも知れず、そして寺院はまた、金融的な活動の中心として機能したためです。³⁰ もっと近年に成ると、モーガン家の形状における、高度で金融的な権力と、ニコラ・テスラ無線電力送電のためのワーデンクリフの計画の形状における先進的な科学技術、そしてその効能的な兵器化の可能性の間の関連は、よく知られています。³¹

2. Working in Monstrous Areas of Physics on a Daily Basis
2.日常的に物理学の怪物的な分野で働く
a. The Nazi Context
a. ナチスのコンテキスト


しかしながら、その衝突器に対してより親密なパターンがあり、そしてそれは、大きな企業とカルテルの構造の背後の中に隠された、組織化されたネットワーク(人脈)のファシストの教義のパターンで、1944年のフランスのストラスブルグのメイソン・ルージュ・ホテルにおける、ナチス党の高い階級の高官達と、ドイツの産工業主義者達の間の秘密裡の会合において、そのネクサス(連鎖/関係)は姿を現し、そして、私達が以前の章の中で目撃した様に、戦後も継続しました。³² 見方を変えると、西洋の法律学の殆どのシステムにおいて企業に対して与えられた制限付きのソヴリンティー(主権)と地位(i.e. 法人)は、彼等自身のソヴリンティーの地位を保存する方法として、ナチス党を含む、ファシストのグループによって、それら(法人)が利用される事を許しました。それらの資本化の巨大な土台、それらの国際的な延長、そして特許とライセンシング(使用許可)の同意を通したそれらの産工業の全ての要素へのそれらの世界規模の影響力を伴った、戦時中のドイツの資本主義の巨大なカルテルは、それらのカルテルと企業を、それによってファシストの思想と政党が生き残れるだけでなく、ペロン(大統領)時代のアルゼンチンにおける、ロナルド・リヒター博士の「核融合」計画の様な、秘密裡のナチスの先進的な科学技術の研究計画の、戦後の継続の地点まで、繁栄し、成長する、完璧な母体組織にしました。³³

リヒターの計画は、孤立した現象でもありませんでした。著者で、ナチスの研究家のピーター・ラヴェンダは、チリにおける悪名高いナチスの入植地、コロニア・ディグニダッドが、サリン・ガスの様な大量破壊の化学的な兵器の研究と製造に拘わっていたと最近に成って指摘しました。³⁴ その悪名高い入植地が、その入植地に対する増え続ける世界規模の注目に対する対応において、チリの政府によって何年も前に閉鎖された間、その物理的な施設はそれでも生き残り、現在は遊園地を建築し、運営する事に拘わっている奇妙で企業的な構造として生き残っています!政党の思想、組織、そして目的の生き残りのための媒体として、企業とカルテル(財閥)を利用する「メイソン・ルージュ・ホテルのパターン」を与えられると、人は、その入植地が単純に、新たなフロント(建前会社)と新たな経営陣を装った可能性を、考えるまでも無いでしょう。

b. The Kammlerstab
b. カムラースターブ


全体的で歴史的なコンテキストの中には更なるもう一つのパターンが潜んでいて、それは恐らく初見よりも、思考されている現在の題材のために遥かにもっと重大な効能を持つものでしょう。ボヘミア-モラヴィアのナチスの合併のすぐ後に、その地方全体は Reichprotektorat (帝国の保護下)にされ、その最も悪名高い殺人者達の一つ、Obergruppenführer (親衛隊大将)、ラインハルト・ヘイドリッヒの形状における SS (ナチス親衛隊)の管轄区の下に入れられました。この SS の保護の下で、安全保障の更なる内輪が存在し、それらの全ては Kammlerstab 、「カムラーのスタッフ(人員)」と呼ばれた、超-秘密裡の組織にまつわるものでした。この組織は、世界的にも有名な、ピルセン(地名)におけるスコダ社の武器弾薬工場の、技術開発部門の中に位置づけられました。第一次世界大戦の間のドイツにとってのクルップ社は、オーストリア-ハンガリー(帝国)にとってのスコダ社でした。この特別な SS の人員は、その先進的な航空機とミサイルの計画から、ステルスの潜水艦と物質素材の研究、アコースティック(音響)の魚雷、レーザーまで、原子爆弾の原爆と水爆の研究から、真空の流動、またはゼロ・ポイント・エネルギーの技術開発から、反-重力までの全てにおいて応用可能な原子核融合反応のプラズマの研究を探求していた、ザ・ベルとして知られる更にもっと秘密裡の計画まで、その第三帝国の中の秘密裡の兵器開発の全ての要素を調整していた研究の人員でした。

この全ては、ゲシュタポの対-諜報工作の安全保障の三重のベルト(警備)の背後の一人の男、SS の Obergruppenführer、ハンツ・カムラーによって調整されました。効果的に、カムラーは、(現在の)米国の防衛先進研究計画機関(DARPA)のナチス版の超-秘密裡の兵器の「シンク・タンク」を確立しました。カムラースターブ(カムラーのスタッフ)が、戦後のアメリカのブラック(秘密裡)で、先進的な計画のシンク・タンクの組織と目標の明細において影響力を持っていたと疑う事に対して、可能性の範囲を引き延ばすのは考え過ぎではありません。この「エキゾチックな(珍しい)科学技術の秘密裡な兵器のシンク・タンク」は、全ての科学者達と技術開発者達の研究論文の、個人的で秘密裡のジャーナルさえも、お互いに対して流通させ、兵器システムの第二、第三世代まで、科学技術の(発展の)枝葉の概要を考える事を許しました。これに加えて、カムラーはまた、SS の建物と研究部門の総責任者で、そしてその様な人として、ナチス・ドイツの労働収容所のぞっとする様なネットワーク(人脈)と、それらにおいて利用可能な数百万の奴隷労働者達の膨大な集合体の中の実直な監督権を持っていました。³⁵ 私がその他の場所(本)で主張した様に、この先進的な科学技術の研究と、労働収容所の SS のシステムとの接面が、Kammlerstab について何か重要な事を私達に伝えるのは、それが実質的に、使い尽くす事の出来ない奴隷労働の供給を利用可能なためで、その役目が終わるとそれ(奴隷労働者)は、使い捨てに出来る為です。アウシュヴィッツの巨大な I.G. ファーベン社の「ブナ(表向きには合成ゴム)」の工場程、これがあからさまだった場所は無く、その工場は原子核同位体の濃縮のための工場だったかも知れないと、幾人もの人達がその他の場所で主張した工場でした。³⁶

成行き的に、もし人がこの構図を、以前の章の中で明らかに成ったパターンの観点から見ると、異例的な概要が浮上するのは、人が有するのが以下であるためで:

1)国際的に名高い武器弾薬の製造会社、スコダ社の技術開発部門の表向きのフロント(建前)の中の超-秘密裡の計画の隠れ蓑で;

2)「公共技術開発」の巨大な要素が、その同じ組織によって調整され、ナチスの-カルテル帝国の、SS の建物と研究部門の大規模な地下施設と工場を建設していました。実際に、人は Kammlerstab を、それ自体において、そしてそれ自体の中の「秘密裡の兵器カルテル」として見解出来るかも知れず;

3)Kammlerstab の中で科学者達と技術開発者達の秘密裡の論文と研究を秘密裡の「ジャーナル」、または「雑誌」が流通していて、つまり、Kammlerstab によって調整された様々な計画の中で、データの流通を操作し、指揮するメカニズムが配置されたと言う事で;そして最後に、

4)その組織全体にまつわるゲシュタポの対-諜報工作の安全保障の三重のベルト(警備体制)は、その様な対-諜報工作の安全保障の作戦と同様に、必要とあらば、その組織に対する一般大衆の知覚をスピン(扇動)し、あらゆる漏れ出したデータの解釈をスピンする(誤魔化す)ために、ディスインフォメーション(偽情報)を流すテクニックを使用したでしょう。

この構成要素を共にして、しかしながら、更に最後のもう一つのパターンがあります。

その戦争の後に、英国の諜報工作のエージェント(捜査官)は、Kammlerstab のブラック(秘密裡)の計画と、エキゾチックな科学技術の世界の中へと少しだけ侵入する事が出来ました。この人物は、ドイツ人の研究家達に、カムラーの秘密裡の兵器の帝国の中には、「怪物の様な分野において日々研究している」科学者達と技術開発者達のチームが存在し、普通の一般大衆が「考えられない、そして信じられない、更に、故に想像出来無い」として見解する分野なのは、何故ならこの怪物の様な分野が、「一般的な物理学の法則を完全に見捨てた」ものであるためだと、情報を与えました。³⁷ その「一般的な物理学の法則を完全に見捨てた」この「怪物の様な」分野が何であったにせよ、その主張の示唆はこのチームが、破壊の正に世界規模、または宇宙的な効能の何かである、(映画の)ストレンジラヴ博士の審判の日の機器を研究していたと言う事でした。結局の処、カムラーのグループは、秘密裡の兵器のグループでした。人は故に、5つ目の構成要素を加えられるかも知れず:

5)カムラーのグループの中の安全保障の最も深くにおいて、ミサイル、レーザー、原爆と水爆の研究の、その他全ての秘密裡の研究の背後に、世界的、または宇宙的な兵器化の効能の可能性を共にした何かを研究している何らかのグループがいました。

KammlerstabDARPA (ダーパ)の-様なパターンを手にすると共に、私達は此処で、最後の、高度に科学技術的な構成要素を考えなければならず、とても明らかに、戦時中と戦後の科学技術的な研究の最も高度な段階に関連する様に成ったもので:ハンガリーの電気的な技術開発の天才、ガブリエル・クロンの研究です。

c. Another Necessary Look at Gabriel Kron
c. ゲイブリエル・クロンに対するもう一度必要な検証


セルンの大型ハードロン衝突器は、量子力学の基準的なモデルの最も小さなものを調査するためにデザイン(設計)された巨大な機械で、そして、そうする事において、ビッグバンの直後に存在していたプラズマのスープである、宇宙学的なマテリア・プリマ(創始的な物質/素材)の最も早期を調査するものです。その様なものとして、それは普通の電気的な機械ではありません。

ですがそれは、そうであれ、電気的な機械で、その他のネットワーク(回路)化され、設定された電気的な機械で、全てはその明言された目標を達成するために、複雑な方法において接面(インターフェース)するために設計されています。その様なものとして、それはガブリエル(ゲイブリエル)・クロンのアイデアのための、究極の遊び場だったでしょう。本質的に、クロンは、彼が「ダイアコプティクス(diakoptics)」と呼んだ電気的な機械の分析のシステムを開発し、それによってその機械は、その構成要素と最も単純な部品へと分解され、そしてそれらの構成要素はその後、分析され、そしてそれらの方程式が派生させられました。それらが一度派生させられると、その単純な部品の接続がその後、それらの元々の状態において再融合(接続)される事が可能で、そしてそれらの接続は、テンサー分析の数学的なテクニック(技術)によって描写されました。

このテクニック(方法)がクロンの頭の中に浮かんだのが何故なら - 彼自身が指摘した様に - ネットワーク(経路)化された電気的な機械の彼の研究の結果として正に、科学者 Kirchoff がより高い秩序のトポロジー(位相数学)の数学的な言語を創造する事に導かれたためです。³⁸ つまり - そしてこの点は、十分に強調され過ぎる事は出来ませんが - 全ての電気的な機械は、例外無く、より高い次元的な現実性の現れ(体現)で、この事実を、ガブリエル・クロン以上に良く理解した人はいませんでした。

この事実のクロンの理解は、より高い次元的なトポロジーによって理解される事が可能で、そしてそれらの同じトポロジーによって操作される事が可能な、電気的な機械の膨大なクリスタルの様な-磁気的なネットワークとしての、システムズ理論からの類似した観点から、最良にアプローチ(接近)出来る、宇宙的な物理学のアイデアを含んでいた、奇妙なアイデアの宇宙を彼が発展させる事に繋がりました。³⁹ クロンは故に、「量子の特徴化されたクリスタル(水晶)のコンピューター」の分野全体が招いたものを理解し、そして彼の人生の終わりにおいて、システムズ理論とテンサー分析の彼の方法を、「一般化されたクリスタルの光学(optics)」の構築と、「自己-組織化している多角体/多面体的なのヒエラルキー」、そして更に「電気的な技術開発者達によって使用された科学⁴¹ の、複数次元的な一般化」さえも応用しようと求めていました。⁴²

この全てが何を意味したのかと言うと、特定の電気的な機械は全て、その性質が電磁の方程式によって描写された、一般化された電気的な機械の例だと言う事です。特定の電気的な機械は、数学的な分析において、「一つのユニット(単位)へと一緒に接続された様々な複数次元的な空間」の集合体でしかありませんでした・・・⁴³ この見解には2つの多大な成り行きがあります。

「最初に、それぞれの部分(部品)、またはあらゆる構造の準-システムは、それ自体の一種の空間を持つ事が可能で、例えば、異なった部分(部品)は、エネルギーの異なった種類と関係しているかも知れません。第二に、間-接続(inter-connections)は、その空間の構造全体を崩壊させる事無く、壊される事が可能で、孤立化した準-空間を残します。」⁴⁴

故に、電気的な機械に対して、より高い秩序のトポロジーを応用するクロンの方法が意味したのは、「一般化された電気的な機械」その初歩的な構成要素で、それはテンサー分析を通して、人が望む機械のあらゆる種類を融合させる事が可能で、そしてこの機械は、結果として、「本当の三次元的な世界」における電気的な機械によって接続された、接続された複数次元の空間のネットワークでした。ヴォルトやアンペア(電気的な単位) - または、その衝突器の場合 - (量子力学の数学的な描写において、極度に小さな『電気的な』機械のそれら自体の一種である)様々な粒子の衝突のエネルギーの様な、それらの構成要素の幾らかを変化させると、人は、その機械へと、そしてそれによって接続された複数次元的な空間を変化させます。この「クロン的」な方法において見解されると - 陰謀論、そしてセルン自体の明言の場合において、粒子と実験自体である - その集中が、「彼等が観測しているもの」である粒子から、「彼等がそれと共に観測している」機械に移ります。此処において、もし人が行と行の間を読みたいなら、幾つかの興味深い可能性が存在しています。

C. CERN’s Large Hadron Collider: The Machine of the Cosmology Cartel
C. セルンの大型ハードロン衝突器:宇宙学カルテルの機械
1. Preliminary Observations
1.事前的な観測


それと共に幾らかの人達が宗教的な言語で賛美し、そして幾らかが激しく非難したその衝突器は、その効能的な重要性が、誰かがその明らかな事を指摘するまで直ぐには解らない、とても明らかな物事を指標します。その明らかさは、順を追って、単純な問いの一連を尋ねる事によって明瞭にされるかも知れません:

1)その衝突器と探知機の、それぞれの構成要素(部品)を造った契約者(下請け)達の全ての全体的なリストは何処にあり、そしてそれらのそれぞれには、どれだけ費用がかかったのでしょう?

2)その計画に対して貢献した論文を書いた科学者達、またはその計画、実行、そして現在進行中の実験と分析に幾らかの要素に拘わっている人達の全体的なリストは何処にあるのでしょう?

3)その計画(作戦)の設計と計画において拘わっていた技術者達と技術開発者達の全体的なリストは何処にあるのでしょう?誰の名前が、言うなれば、その構成要素の設計図の上に現れるのでしょう?

時折、人はその衝突器のこの部品や、あの部品には、幾らかの費用がかかり、どの様に運搬され、そしてその機械へと設置されたのかの記事を発見する事は出来ます。ですが、包括的な詳細 - ましてや、包括的なまとめは - 奇妙にも希少で、そして存在しているものは奇妙にも詳細に欠けています。

最善の推量によると、その衝突器の費用は、全てが加算されると、6兆ドルから6.5兆ドル(単純計算で600兆円から650兆円)程度の費用で、そしてこの事実が更なるもう一つのあからさまな問いを浮上させるのは、その様な出費が、量子力学的な蝶々を採集し、分類学的な図表にそれらを針で刺すのと同等な、単純な計画と言うよりも、典型的な軍事計画に等しいものであるためです。その様に考えると、何故、その衝突器が、科学的なコミュニティーの中の多くによって、その様な褒め言葉で賛美されるのかを理性化させる事さえ出来るかも知れないのは、宗教の喚情的(感情的)な言語において、その衝突器の大規模な費用と、軍事的な予算の間のこの不穏な類似性を気付く事から(一般大衆の)注目を反らすより良い方法があるでしょうか?と言う事です。その衝突器は、現代における大聖堂で、更なる調査、または推測は必要ではありません。

2. The International Physics Equivalent of the Bank of International Settlements
2.BIS の国際物理学版(セルン)


どの様な資金的、そして管理的な調整が、公に利用可能かへと掘り下げると、しかしながら、特にこの本の以前の章のコンテキストにおいて考えられた時、特に啓示的です。例えば、セルンに対する最大の単一的で国家的な貢献者がドイツであるのは、驚きでは無いでしょう。⁴⁵ 英国は、同様に、もう一つの最大の貢献者で、「それらの2つの国々が操作を保つ事が出来る様に、その最大の貢献者達に更なる比重を与えるために」、2倍の過半数を必要とする様に、セルンの委員会の投票行程を変更させ、その衝突器の管理における変更を制度化させる事に成功しました。⁴⁶ 成行き的に、セルンとその衝突器に関する、国際的で科学的な協力の宗教的な賛美の美辞麗句が何であれ、その美辞麗句の背後の金融的で政治的な現実はとても異なった何かで:ヨーロッパの主要な権力、英国、フランス、ドイツ、イタリアが殆どの主導権を握っていたと言う事でした。

ですが、その衝突器の計画には、目に見えるものよりも、更にもっと奥深いものがあり、そのための隠された、または秘密裡の目的の可能性があると示唆する、その他全ての上の、ある考えるべき事がありました:

国際的な組織として、セルンは、国家的な法律の下の法治的な存在では無く、公的で国際的な法律によって統治され、その参加国は、(スイスとフランスを共にした主催国の同意と、そしてその他の参加国を共にした、特権と免除のプロトコルを通して)セルンの国際的な地位を認識しました。それらの同意は、セルンが、国家的な司法管轄区と処罰から免除される事を確かにします。故に、セルンとその供給者達や下請け会社達の間の法的な口論は、国家的な法廷では無く、国際的な裁判を通して解決されます。それらはまた、セルンが此処の参加国による介入無しで機能する事を許し、国家的な権力からの独立性を保証します。私達の論議のためにこれが意味するのは、セルンが故に、その下で部品やサービスが購入される規則の様な、それが正常に機能するための、それ自体の独自の規則を確立する権利を持つ事です。⁴⁷

これが、長く考え過ぎられる事が出来ないのは、その示唆が鮮明であるためです:

1)セルンが、国際決済銀行(BIS)の様に、国際的なソヴリン(主権)の存在なのは、その銀行の様に、それが「参加国」の国際的な同意によって設立されたためで、その(参加国の)幾らかはその他よりもそのシステムにおいて「比重」を有し;

2)国際決済銀行と同様に、セルンは、個々の国家的な監視からは免除され、特に、「その下で機器とサービスが購入される規則」に関して、「その正常な機能のために必要なそれ自体の内的な規則を確立する事」が出来ます。

a)この点が意味するのは、表向きの計画の中に隠された計画を、セルンが行う事が全く可能で、ソヴリンの地位の会得が効果的に意味するのは、誰に対しても説明責任の無い「量子力学」、または「宇宙学のカルテル(財閥)」であるためです。金融的な組織のこの種は、秘密裡の軍事計画必須条件で;

b)加えて、それらのカルテル-の様な調節の思考、更に加えてその衝突器の国際的に「ソヴリン」な地位、そして国際決済銀行との比較が意味するのは、効果的に、その衝突器の組織がそれ自体銀行で、そしてこれにおいてそれが殆ど完璧に象徴するのは、太古の時代から一貫的なパターンで、金融的な権力(金融マフィア達)と、「形而上学(精神/哲学)的」、「宗教的」、または「宇宙学的」なもの(神官階級/官僚)との連合、または共謀で;

c)故に、人が見つけるのは、その衝突器が「スイッチ・オン」にされる事を止めるためにもたらされた様々な国々における、様々な裁判沙汰が失敗(敗訴)する事が運命づけられていた理由で、国家的な法廷が、その衝突器に対して司法の管轄区の権限を全く持っていなかったためで、そして故に、それらの裁判沙汰を提訴した人(国民/市民)達に、法廷の前でそうするために立つ権利が無かったためです。⁴⁸ 実際に、国際的な法廷においても、彼等(一般市民達)のそうするための法的な権利が無いのは、それぞれの国々の市民として、その衝突器の実験自体の「市民である科学者達」では無いので、彼等(一般市民達)は再び、関連した司法の管轄区の外にいるためです。

それらの状況の下で、表向きの計画の背後の、秘密裡の計画のための可能性があるのは、明らかであるはずでしょう。

a. CERN’s Procurement Procedures
a. セルンの予算確保の手続き


「宇宙学のカルテル」そして銀行としての、その衝突器の間のこの関連性がもし、不自然な様に見えるなら、その予算確保の手続きにおける、より詳細な検証は、その銀行、またはもっと正確に言えば信託が、その計画全体の真っただ中に、慎重に隠され、座り込んで(潜んで)いる事を明かします。1990年代にその衝突器のための計画が進んだ際に、その衝突器の巨大で、そして多大に費用のかかる磁石と探知機のための予算における赤字は、ローン(借金)によって資金援助されなければならない事が直ぐに明らかに成り、そしてこれはセルンがローン出来る様にする事を必要としました。⁴⁹

通常通り、投資家達にとっての重大な要素は、その様々な構成要素(部品)を造るために契約された下請け会社達の危険を最小限化する事で⁵⁰、そしてその衝突器の様な機器と共に、鮮明で迅速な予算確保の手続きは故に、正確な計算と、正確な技術開発と同様に、その計画の成功に対して不可欠でした。その機械(衝突器)の複雑な構成要素(部品)を造っている下請け会社達にとっての鍵の危険要素は単純に、その計画の開始時点において、「重大な科学技術」、産出の方法、そして機器(道具)が未だに存在していなかった事実によるものでした。⁵¹ これに加えてその計画の予算確保はまた、国家的な関心を考慮に入れなければならず、参加国の国々に対して公平で産工業的な分配(配当金)を確かにしなければなりませんでした。⁵²

ローン(借金)を借り出し、そしてその供給者(下請け会社)達に対する危険性を最小限化する、それ自体の予算確保の手続きをするための能力が、国際的な組織としての「ソヴリン(主権)」の地位と共に対にされる事が意味するのは、効果的にセルンが、ある意味、BISと同様に、その参加国の国々の中央銀行によって後ろ楯された、それ自体の中央銀行で、信託であると言う事です。

b. The Disturbing Similarity of CERN’s Procurement Procedures to the Exchange Rate Mechanism
b. セルンの予算確保手続きと両替比率メカニズムとの不穏な類似性


供給者(下請け会社)達に対するそれらの危険性を最小限化するためにデザインされ、そしてその参加国の国々に配当金を供給するための奇妙な手続き以上に、セルンが「量子力学のための中央銀行、そして信託」の一種に成った事を強調するものはありません。1993年12月における、セルンの中の金融的な研究グループは:

「その金融(予算)的な委員会(commitee)による推薦の後、その委員会(council)によって満場一致で認証された提案の一連を共にした報告書を提出しました。新たな予算確保の手続きの、最も重要な要点は以下でした:

1.一般的な予算確保の政策は、3重であると定義され:

・入札(せり)が、科学技術的、金融的、そして配達の必要条件の必要性の全てを満たす事を確かにし:

・セルンのための全体的な費用を、可能な限り抑え;

全ての参加国の国々のために上手くバランスされた、産工業的な配当金の係数(率)を達成しなければなりません

2.全てのセルンの契約者達は、2つの別々の階級に分類され - 供給の契約者達(下請け)、そして産工業的なサービスの契約者達(下請け)です。

3.国家的な関心は、供給の契約・・・そして産工業的なサービスの契約の両方のために定義された、目標にされた配当金の係数(率)のシステムによって保護されます・・・

4.供給の契約/産工業的なサービスの契約の裁定のために、参加国は、もし供給の契約/産工業的なサービスの契約の配当金の係数がそれぞれ、0.8と0.4を下回るとみなされると、まずくバランスされていると考えられ、もしその数値に同等、またはそれよりも大きいと、上手くバランスされていると考えられます。

5.価値において200,000スイス・フランを超えた契約のために、セルンは、特定のはっきりと定義された条件の下で、(せりの)最も低い入札者のもの(価格)に対して、同額の商品/サービスの提供を入札している、まずくバランスされた参加国において起因する提供者を許し、それによって、その入札が規定された必要条件の全てを満たす再定義された価格を満たすなら、その契約が与えられる提携のルールを応用しなければなりません。⁵³

それらの手続きは、ドイツ・マルクに対するペッグ(固定)と、上下動の事前に確立された為替レート(率)を通して、ヨーロッパの国々の通貨の価値を操作した、為替レート・メカニズムに強く類似し、もしかしたら為替レート・メカニズムとその衝突器の計画が実際に、ある深く、秘密裡の段階において意図的に関連させられていて、金融と物理学の関連性のパターンの更なるもう一つの例ではないか、人は疑わずにはいられません。実際に、もし人が、為替レート・メカニズムとセルンの予算確保の手続きの間の類似性が見えないなら、すると人が行うべき唯一の事は、上述の引用における「currency (通貨)」と「currencies (複数の通貨)」と言う言葉のために「商品」と「サービス」に入れ替えるだけで、その類似性は直ぐに明らかに成るでしょう。

3. The Stated Purposes of the Large Hadron Collider
3.大型ハードロン衝突器の明言された目的


ですから、その衝突器は一体何で、そしてその表向きの目的は何なのでしょう?

その衝突器自体は、殆どの人達が知る様に、約17マイル(27キロメートル)の円周の輪で、その中で重い粒子の2つのビーム、この場合、重い粒子の分類の一種であるプロトン(陽子)が、「ハードロン」と呼ばれるニュートロン(中性子)と共に、そのトラック(通り道)の周りの2つのビームにおいて、(お互いから)反対方向に回転(旋回)させられ、そしてその後、その輪の様々な地点において衝突させられ、その地点には、その衝突からの残骸を「撮影する」とても先進的な「カメラ」、または探知機が設置されています。何故、それらの「写真」が重要なのかは、後々、論議されるでしょう。その衝突器は、しかしながら、5つの加速器の一連の最後で、それらは一緒にリンクさせられ、プロトンのビームを益々高いエネルギーへと加速させ、そして最終的な加速と、そしてその後の衝突のために、その衝突器の中へと注入されるまで加速します。それらのプロトンを囲んでいる磁石によって、この高度な加速を達成する事を可能にするのは、超伝導性の現象で、それにおいて絶対零度近くまで冷やされた媒体における、回転(旋回)している電流が、電気的な抵抗を全く受けず、そして故に電力の消失が無い為です。その衝突器の磁石は、130トンの液体ヘリウムによって冷却されています。⁵⁴ 注意を払っている人達にとって、人が此処で有するのは、ナチスのベルの実験の2つの機能的な要素で:逆回転と、超伝導性のための低温学(cryogenic)的な冷却です。⁵⁵ このエネルギーの全てを供給している磁石は、1,800個の超-伝導的な「双子(ツイン)の隙間の主要な二極(dipole)と四極(quadrupole)の磁石」で、そしてそれらの磁石はその衝突器自体の費用の「約50%」に相当します。⁵⁶

この科学技術の全てのための目的は、部分的に、「LHC (大型ハードロン衝突器)の『探知機』」における、物質-反物質のアシメトリー(不均整)を調査する事ですが、それについては後程触れます。⁵⁷ 加えて、しかしながら、認められているのは

「鉛のイオンの衝突しているビームによって、その LHC (衝突器)は、ビッグバンの数百万分の1秒後に唯一存在していた物質の状態を産出する事が出来ます。クアーク-グルーオンのプラズマと呼ばれるものの性質は、特注の ALICE 探知機(A Large Ion Collider Experiment/大型イオン衝突器の実験の略名/アリス)において、詳細に研究される事が可能です・・・」⁵⁸

クアーク-グルーオンのプラズマ、または「ストレンジレッツ」は、勿論、「陰謀論」の関心の中心にあり、ですから人が此処において興味深い構図を有するのは、その様な物事(ストレンジレッツ)のための探求は否定されたのに、それはその後、公共との関係(広報)のために、消えてしまう様な小さな可能性から、ゼロの可能性に言い換えられましたが、今度は、その衝突器の再検証において、アリス探知機による、それら(ストレンジレッツ)の創造のための実質的な調査が行われていると認められました!

ですがこれが全てではありません。

それがまた認めているのは、その衝突器が「ダーク・マター(理論的に良くわからない『仮定的な』物質)」と呼ばれる粒子、そして追加的な次元⁶⁰ を含む、基準的なモデル⁵⁹ (相対性物理学)のものを超えた新たな、または異なった物理学の証拠を探している事で、その衝突器と共に何が行われているのかの、私達自身の極度に推理的な論説に対してとても重要に成る点です。

それらの特定の目的を頭に入れると共に、するとその衝突器の全体的で表向きの目的が鮮明に成り:

「その(大型ハードロン衝突器)の原理的で科学的な目的は、物質の内部構造と、その振る舞いを統治する力を探求する事で、そしてそれによって宇宙の現在の内容と、ビッグバン以来のその進化、そして未来への可能性をもっとよく理解する事です・・・それは、あらゆる以前の衝突器よりも小さな規模の秩序の大きさの上で、物質の内部構造を探求出来る顕微鏡に成るでしょう。それらのプロトン-プロトンの衝突において関わったエネルギーは、宇宙の歴史における最初の数兆分の1秒における粒子の衝突のそれらと類似したものに成るでしょう。実験所におけるそれらの行程を研究する事によって、その LHC の実験は、ある意味、あらゆる望遠鏡を共にするよりも、時間における遥か遠く(昔)を観ている(探している)でしょう。」⁶¹

言葉を変えると、その衝突器の原理的な目的は、物質-反物質の不均整、ストレンジレッツの創造と観測、超越次元的な空間等々を含む、宇宙の構造への洞察(見識)を得る為のものです。そして洞察(理解)が来た時、操作が遅れを取らずすぐ後ろに来るでしょう。

4. The Proton Path and the Detectors
4.プロトン(陽子)の通り道と探知機
a. A Brief Summary of the Standard Model
a. 基準的なモデルの簡単なまとめ


その衝突器のそれらの表向きの目的を理解するために、人は量子力学の基準的なモデルの幾つかの要素の基本的な理解を有さなければならず、そしてその後、クロンの「ダイアコプティクス(機械を部品へと分解し、部品の問題を解決する事によって、再び組み立てられた機械全体の問題を解消する事)」に対して類似した方法において、その構成要素(部品)へとそれを分解し、その衝突器自体の様々な準-システムを把握しなければなりません。

理解するために、最初に、そして最も重要な点は、基準的なモデルの粒子 - クアークス、グルーオンズ、そしてその様なものが - 基準的な「ビリヤードのボール」的な感覚における粒子と言うよりもむしろ、それらは数学的に全て表現される、「情報」、または属性のセット(一括り)であると言う事です。それらの数学的な描写の中で、その基準的なモデルは原則的な粒子の2種類を有し、レプトンズ(leptons)とハードロンズ(hardrons)です。レプトンズは比較的に「質量の無い」粒子で、その質量はエレクトロン(電子)とエレクトロンのニュートリノ(中性微子)の様に、とても、とても小さいものです(そして、勿論、人がそれらの反物質の反対相手、ポジトロンをその構図へともたらした時、それはマイナスのチャージを持たず、プラスのチャージですが、エレクトロンと同じ質量です)。ハードロンズは、プロトン(陽子)の様に、もっとより重い粒子ですが、それらは、その基準的なモデルによると、クアークスと呼ばれる更なる「準-粒子」に構成されています。

ハードロンズが、順を追って、クアークスと呼ばれるより小さな粒子に構成されていると言う論説に対して最重要なのは、もし光の形状におけるエネルギーが、と粒子の両方として見解可能なら、すると物質自体も粒子と波の両方として見解されるかも知れないと主張した物理学者、デ・ブログリエの洞察です。加速器が、出力と複雑性において拡大化し、そして衝突が更にもっと複雑な残骸の新たな種類を産出した際に、原子物理学者達が、1960年代の後期において、哲学的な混乱の期間に入ったのは、それまでに「プロトンとニュートロンは、より小さな規模の構造を隠し持っていなければならない」と鮮明に成ったためでした。⁶² この状況に足を踏み入れたのは、ハードロンズ、i.e. プロトンとニュートロンは、それぞれ3つの「クアークス」によって構成されていると主張した物理学者、ムレー・ゲル-マンでした。それらの「クアークス」は、順を追って、「上(up)」、「下(down)」、そして「奇妙(strange)」の3種において体現されました。加えて、ゲル-マンは、それらがわずか/分数(fractional)のチャージを持っていると提案しました。「up」のクアークは2/3のチャージを有し、そして「down」と「strange」のクアークは、それぞれ -1/3のチャージを有しました。ハードロンズは常にそれぞれが3つのクアークのグループにおいて現れるので、プロトンは2つのアップのクアークと1つのダウンのクアークを持ち、2/3 + 2/3 - 1/3 = 1のチャージを有さなければならず、そしてニュートロンは1つのアップのクアークと2つのダウンのクアークを持ち、2/3 - 1/3 - 1/3 = 0のチャージを有さなければなりませんでした。⁶³ この全ては、電気力学において粒子を媒介している数値化された力であるフォトン(photon/光子)の様に機能する、原子核の中の「力を媒介している」粒子によって一緒に保たれていると、物理学者達は理由づけました。粒子を媒介しているそれらの力は「グルーオンズ」と呼ばれました。故に、その衝突器がプロトン(陽子)を衝突させている時、それが実際に衝突させているのは - その論説によると - プロトンを構成しているクアークス(quarks)とグルーオンズ(gluons)です。⁶⁴

b. The Proton Path and the Structure of the Collider
b. プロトンの通り道とその衝突器の構造


その衝突器自体は、それぞれが特定の個々の働きを行っていて、そしてそれぞれがお互いを統合する様に設計された、4つの基本的なシステムの構成です。それらは(1)私達が直ぐ後に考えるその加速器のシステム自体、(2)プロトンのビームを閉じ込め、そして集中させるシステム、i.e. その衝突器の強力な磁石、(3)粒子の衝突を「撮影」するための巨大な探知機、そして(4)膨大なデータの収集、選別、保管、そして分配のシステムです。⁶⁵

プロトンは、通常の水素の原子核における粒子でしかないので、プロトンのビームを創造するために、水素イオンが源泉として使用されます。この源泉から、それらはその後、直線の加速器(LINAC)へと通され、其処でそのビームは50メガ-エレクトロン・ヴォルツ(50MeV)のエネルギーまで加速させられます。それらはその後、プロトン・シンクロトンのブースター(PSB)として知られる「ブースター」の加速器へと通され、其処でそれは1.4ギガ-エレクトロン・ヴォルツ(GeV)のエネルギーを得ます。そのビームはその後、2.25キロメートルの直径、または約7キロメートルの円周の輪を共にするスーパー・プロトン・シンクロトロン(SPS)へと通されます。SPS からそのビームは2つの通り道を通して、その衝突器自体の中へと注入され、其処でそれは、その27キロメートルの円周の周りに設置された様々な探知機の中で衝突させられるまで、(お互いから)反対方向に旋回させられます。⁶⁶

注目する事が重要なのは、それらの加速器の全てが遥か地下に位置し、その衝突器の輪の上で、中心から傾けられた(ずれた)スーパー・プロトン・シンクロトンを共にする事です。加えて、その衝突器自体が平行上に建設されておらず、実際に(地下)45メートルから170メートルの深さの間で異なり、「そして平行からは1.4度傾いた平面にあり;そしてこれが行われたのはそのトンネルが殆ど全体的に、リーマン盆地のモラッセに納まる様にするためです。⁶⁷ 「モラッセ」はシェール(頁岩)とサンドストーン(砂岩)の沈澱的な堆積を意味する地質学的な用語で、それは頻繁にクオーツ(水晶)、または長石を含む岩です。

下部の大きな輪である、大型ハードロン衝突器の中央からずれてその上部にある薄い水色の輪である、スーパー・プロトン・シンクロトロンの関係の図表。また、目視出来るのは LHCb、CMS、ATLAS、そして ALICE の探知機です。
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その地質学的なコンテキスト、加えてその衝突器の上のスーパー・プロトン・シンクロトロンの実際の物理的な配置、そして縦の平面におけるずれは、後に私達自身のとても推理的な分析の構成要素を形成します。現時点において、それらは単純に指摘されているだけです。

c. The Detectors
c. 探知機


この全ては、もしそのビームの衝突において起こっている事を、探知し、記録する方法がないなら、しかしながら、無駄に成るでしょう。これが、その衝突器自体の周りに設置された4つの探知機の役割です。それらと共に、隠された関心、目的、そして調整(協力)のための可能性を体現する、組織的な構造によって人が出くわすのは、その衝突器自体はセルンによって運営されている間、それらの探知機は、「その役割がセルンの執行部と、そしてそれを通した委員会に対して助言を与える事」である、大型ハードロン衝突器の実験委員会の権限の下に納まるためです。⁶⁸ しかしながら、その組織的な構造のその他とは異なり、それらの探知機と共に、そしてそれらの上で働いているチームは、「多大な独立性」を与えられています。⁶⁹

このためには、完璧で論理的な説明があります。その探知の実験の幾つかは、重複している目的があるので、この独立性は、獲られている結果において客観性の度合いを保証します。一つの探知機において、特定の粒子の残骸のシグニチャー(特徴)として現れるかも知れないものは、もう一つにおいて、全く異なった形状において現れるかも知れません。それらの探知機の間の独立性の度合を保つ事は故に、その実験に同一基準の客観性を与えます。ですが、この独立性のためのもう一つの理由は、その探知機がまた、異なった物事を探すために設計されているためで、そして「世界中の」それらに協力している機関と共に調整しなければならないためです。⁷⁰

ですが同様にまた、秘密裡の計画、または目的が行われているかも知れない可能性に道を開くのは、正にその働き(研究)、チーム、そして協力している機関のこの独立性です。これから目撃される様に、この可能性は人がその計画のためのデータの濾過(分別)と管理システムを考えた時に、劇的に上昇します。

その探知機自体のそれぞれは、恐らく、衝突器のスーパー-システムの全体において、もっとも複雑なシステムです。実際に、それらの魔法をかける曼荼羅(マンダラ/呪文)の様な複雑性が意味するのは、様々な本や記事の中で人が見る写真の殆どが、その衝突器の実際の写真では無く、その様々な探知機であるためです。それらと共に人がまた出くわすのは、危険なストレンジレッツを探しているのでは無いと言うセルンの人当たりの良い(表向きの)保障に対して、明らかに矛盾する目的の明言です。例えば、「クアーク-グルーオンのプラズマを探し、そして研究するために」デザインされた「重い-イオンの実験に献身」する事を提案したアリス(ALICE)探知機は、1997年において承認を受け取りました。⁷¹ ですが、科学者達が、危険なストレンジレッツ以上の何かを探していた事の、示唆的なヒントがまた存在します:

「現在の論説の予測を超えた物理学を明かすかも知れない発見のための希望があるのは;例えば、私達が超対称性(スーパーシメトリー)、または追加的な次元のサインを観測するかも知れないためで、その後者は効能的に、テラ-エレクトロン・ヴォルト(TeV)の規模において、重力の変化を必要としています。全体的に、TeV のエネルギーの規模は、特別な重要性を持つ様に現れ;(大型ハードロン衝突器)の実験のそれぞれは、それらのエネルギーにおける物理学の研究のためにデザインされています。」⁷²

行と行の間を読むと、此処において示唆されているのは、それらのエネルギーの規模において、重力に拘わっているものである、「新たな物理学」の示唆で、そしてこれが暗示するのは、その衝突器の構築のための、隠された動機、そして背後にある目的が実際にあるかも知れない事です。

「トロイダルな大型ハードロン衝突器の機器(A Toroidal Large Hardron Collider Apparatus)」を意味する ATLAS (アトラス)と、「小規模なムーオンのソレノイド(Compact Muon Solenoid)」を意味する CMS のその衝突器の2つの探知機は、「一般的な目的の探知機」⁷³ である間、「大型ハードロン衝突器の美の実験(Large Hardron Collider Beauty Experiment)」を意味する LHCb と、「大型イオン衝突実験(A Large Ion Collider Experiment)」を意味する ALICE (アリス)は、特定的な探知機です。⁷⁴

それらの探知機はある意味、とても複雑な「カメラ」なので、それらは複数の層の「フィルム」と共にデザインされ、それぞれの層が「特定の役割を行い、そして全体としてそれらは、LHC のプロトン-プロトンの衝突において産出された粒子の全てのエネルギーの判定と正確な測定を許すために」デザインされました。⁷⁵ それらの層は、ATLAS と CMS 探知機において、衝突が誘導される処である、そのビームの通り道の周りで、シリンダー(筒)状の形状において層にされています。「小規模なムーオン・ソレノイド(CMS)探知機において、例えば、衝突から創造された粒子の残骸は、最初に細かく粒化されたシリコンのシステムを通り抜け(私達は後に、この細かい粒化のための理由を説明します)、その後、電磁的な熱量計を通り、それからハードロンの熱量計を通り、その後、超-伝導しているソレノイド(電磁石)を通り、そして最後にミューオン(μ粒子)の室を共にした鉄の交流の幾つもの層を通ります。⁷⁶

そのシリコンの「フィルム」(または様々な探知機において「フィルム」として使用されている素材が何であれ)の細かい粒化、またはピクセル化は、「ピクセル」、または「粒」の格子(グリッド)を通して残骸粒子の通り道を、三次元的に辿る事を許すために、細かく、複数層でなければなりません。その粒、または「グリッド(格子/繊維)」が細かければ細かい程、その通り道の「写真」は、より正確に成るでしょう。例えば、CMS 探知機の電磁的な熱量計の層において、その「フィルム」は鉛-タングステンのクリスタル(水晶)の四角い形のロッドの構成で、その繊維/格子の構造は、それらを通っているあらゆる粒子の最も小さなエネルギーの振動に対して反応します。その様なクリスタルの「グリッド」における設計は、エネルギーの転移が記録される事を許し、そして故にその粒子の通り道が辿られる事を可能にします。⁷⁷ 故に、その探知機のそれぞれは、巨大な「100-メガ-ピクセルの3-D カメラ」です。⁷⁸ その4つの探知機の複数層と重い構成要素を考慮すると、それらは極度に重く、高価です。小規模なミューオン・ソレノイド(μ粒子電磁石)の衝突器は14,000トンの重さで、そしてその4つの探知機のそれぞれは、毎秒4000万強のその三次元的な「粒子の通り道の写真」を撮る能力を持ちます。⁷⁹ 明らかに、これが意味するのは、その衝突器の探知機が、毎日、膨大な量のデータを派生させている事で、その保管、分別、そして分配のための新たな挑戦を体現し、私達が最終的に戻る点です。

それらの「写真」が撮られるために、それらの層を、それらの数百万の粒子の通り道が通る際に、探知機のそれぞれを通って流れる莫大なエネルギーを考慮すると、それらの中の電気機器の全ては、放射線に対して防護されなければなりません。⁸⁰ 加えて、(その衝突器自体のものは言うまでも無く!)それぞれの探知機の磁界(磁場)は膨大です。小規模なミューオン・ソレノイド(CMS)は4テスラの磁界を有し⁸¹、そしてアリス探知機は「0.7(テスラ)の強さのフィールド(場)を派生させる事が可能な」ソレノイド電磁石を有します。「比較のために、これは、地球の磁場のフィールドの強さの約15,000倍です。⁸²

(1) The ATLAS and CMS Detectors
(1)アトラスと CMS 探知機


以前にも記述された様に、ATLAS (大型トロイダル LHC 機器)と CMS (小さなミューオン・ソレノイド)は、一般的な目的の探知機で、アトラスは2テスラの全体的なフィールド(場)の強さを派生させています。⁸³ 「底辺のクアークス」の中間子(meson)の崩壊を探す事によって、アトラスと CMS の探知機に与えられた働きは、部分的に、「物質と反物質の物理学」を探求する事で⁸⁴、そして加えて、本当の追加的な次元とそれらのスーパーシメトリー(超均整)的なイミテーター(模造するもの)を分別する能力です。」⁸⁵

(2) The ALICE Detector
(2)アリス探知機


ALICE (大型イオン衝突実験)探知機は、2つの「特殊化した」探知機の一つで、「五次元において弱く-相互関係している重力的なシステムに対して、丁度、転移の温度の上で、強く-相互関係しているプラズマに関連させる、ストリング理論から借りられた」、「最も興奮的で新たな理論的なアプローチ(接近の仕方)の一つ」を使用する事によって、「創始的なプラズマの振る舞い」を試験する様にデザインされました。⁸⁶ アリスは、その衝突器の中で加速させられた、鉛のイオンの衝突を観測する事によってこれを行います。それらの衝突のエネルギーは、それらのプロトンのものよりも2桁の規模で超え、そして故に、その様な衝突を経験しているイオンは、「私達の太陽の中核における温度よりも、100,000倍高い温度」まで熱せられます。この結果として、「原子核と核子は、ビッグバン後の数千分の1秒に、ほんの一瞬だけ宇宙を満たした創始的な物質を形成するために、それらの基本的な構成要素、クアークスとグルーオンズへと溶解します。⁸⁷ この反応のゾーンはその後、光速に近い速度において拡張され、そしてそうする事において、冷却され、「普通の構成的な物質の粒子」へと合体して戻ります。⁸⁸ そうする事において、アリス探知機は、とても小さな規模の上で、「宇宙の創始的な物質」を再構築するための、錬金術の一種を行っていて、米国におけるブルックヘイヴン国立研究所において最初に始められた探求です。⁸⁹

その探知機自体が、科学技術の更なるもう一つの素晴らしい成果でした。

「アリスは通常、小さな探知機の一つとして言及されますが、「小さい」と言う意味は、LHC のコンテキストにおいてとても相対的で:その探知機は16メートルの高さで、16メートルの幅で、そして26メートルの奥行で、約10,000トンの重さです。それは、約30カ国の異なった国々における、100種を超えた機関からの、1000名を超える科学者達と技術開発者達の協力によって、ほぼ20年以上かけてデザインされ、造られたものです。その実験は、17種の異なったシステムの構成で、それぞれが、それ自体の特定的な科学技術の選択肢と設計の制限があります。

「・・・それはハードロンズ、エレクトロンズ、そしてフォトンズ(光子)を測定する、一つの中央部と、ミューオン(μ粒子)の探知に集中する、前に向けられた単一の腕のスペクトロメーター(分光計)の構成です。その中央的な「バレル」の部分は、45度から135度までのビームに対して直角の方向を覆い、そして1980年代にセルンにおける L3 (大型エレクトトン-ポジトロン)実験のために造られた、巨大な電磁石の中に位置します。温かい抵抗的な磁石として、4MW の通常の出力における最大限のフィールド(場)は、0.5(テスラ)に届きます。その中央的なバレルは追跡探知機のセットを含み、それは磁場の中のそれらのカーブさせられた通り道を測定する事によって、チャージされた粒子の推進力(運動量)を記録します。それらの通り道はその後、粒子確認の探知機のセットによって質量と粒子の種類に沿って確認され、フォトンとジェットの測定のための、電磁的な熱量測定の2種類によって続かれます。」⁹⁰

再び、そのアリス探知機は、その強力な磁場の中で起こっている衝突の莫大な数から、毎秒数百万の写真を産出します。

その他の探知機と同様に、アリスは実際に、その他の探知システムの「フィルム」の層にされたシステムです。そして奇妙にも、アリスは、創始的なスープと追加的な次元を探す事が、その機械のための唯一の目的では無い事を強く示唆する、2つの特別な探知機を含みます。それらの探知機の一つは、その目的が「重いイオンの反応における、粒子の通り道の濃密な蜘蛛の巣を解きほどく」事である、「Time Projection Chamber (時間投影室)」、またはTPC です。⁹¹

アリスの中のもう一つの特殊化された探知機のユニットは、the High Momentum Particle Identification Detector/高推進力の粒子確認探知機(HMPH)です。この機器の描写は、長文で引用するに値します:

「過去30年を超えて、多くのグループが貢献したもう一つの方法の進化は、実技の新たなレベルまで押し上げられ:チェレンコフ探知機です。もし、媒体(e.g. 気体、または液体)を横断している間に、光速を超えて粒子が動く(運動する)なら、その粒子は、この現象の発見者に因んで名づけられた、チェレンコフの光を発光させるために、その媒体を刺激します。この光は、その粒子の速度と、その媒体の屈折的なインデックス(指数)によって決定される、特定の特徴的な角度において発光させられます。とてもわずかな光とその方向を探知する事によって、その速度を判断する事が可能で、それはその質量、そして故に、その粒子の種類を推測する事を許します。」⁹²

異なった言い方に入れると、これは、その衝突器の更なるもう一つの目的の自白で、つまり、それが光速よりも速い粒子、またはタキオン(tachyons/光より速い速度を持つとされる仮説的素粒子)を探していると言う事です。

セルンのアリス(大型イオン衝突実験)探知機の断面図:左下の2人の人間の姿は規模の比較です。
1 alice

(3) The LHCb Detector and Experiment
(3) LHCb 探知機と実験


その衝突器のその他の特殊化した探知機は、LHCb、または「大型ハードロン衝突器の美の実験/Large Hardron Collider Beauty Experiment」です。この探知機とその実験のための明言された目的は、物理学における原則的な問いを解決する事で、つまり、何故、物質-反物質の関係が不均整的で、何故、「ビッグバンに続いた最初の数千分の1秒の後に、既に存在した」重量の優位性である、反物質に対する物質の重量の優位性があったのかです。⁹³

人は既に、幾つかの不穏にさせる効能的な示唆に気付いたでしょう。論議のために、LHCb の物質-反物質の不均整の実験が、何故その様な不一致(矛盾)があるのかを明かすためだったと仮定しましょう。一度人がこの推定上のメカニズムを理解すると、人はまた、現在加速器の中で産出されている、非常に小さい量よりも、もっとより多くの反物質を創造するための効能的な科学技術を開発するかも知れません。その推定上のメカニズムはまた、その場合の本質によって、どの様に、より膨大な量の反物質が、安定的な状態において創造され、そして長期間、保存されるかを明かすかも知れません。その様な物事を学ぶ事は、物質-反物質の反応器における最初の実質的な一歩で、エネルギーの莫大な量を供給し、一瞬にして、現在のエネルギー・システム(石油/原子力利権)に取って代わるでしょう。その様な物事はまた「究極的な爆発物」の創造における最初の実質的な一歩で、そして故に、私達の最も強力な水素爆弾を遥かに超えた、惑星、または恒星を爆発させる効能を共にした、究極的な爆弾でしょう。⁹⁴

言い換えると、人が此処において有するのが、一般大衆によって理解されているものよりも、その衝突器と共に更にもっと何かが行われている可能性への強力な手掛かりなのは、前述された2つの可能性 - エネルギー(電力)の問題に対する解決策、そして膨大に破壊的で軍事的な兵器化の効能は - その計画のための莫大な予算(費用)を正当化し、そして公共(表向き)のものの中に偽装された、全く隠された秘密裡の計画の可能性を示唆するためです。

実際にもし、頻繁に認められる様に、「LHCb の物理学的な目的が、『基準的なモデルの実験』から『基準的なモデルを超えた物理学のための探求』へと移行されたのなら⁹⁵、すると人が有するのはその衝突器は、あらゆる一般的な感覚において、量子力学よりも、もっと異なった何かについてのものかも知れないと言う自白です。

此処において、この主張の背後の理由づけは鮮明で、そしてその LHCb のデザイン(設計)は、それから必然的に続きます:

LHCb における「b」の文字は、beauty (美)のクアークス(そしてそれらの反物質)に対して言及し、それは B mesons (B 中間子)と言及される粒子の構成要素です。20年前に既に、LHC の高エネルギーのプロトン-プロトンの衝突が、前例の無い B 中間子を産出し、そしてそれは私達に、「基準的なモデルを超えた物理学」を、間接的に探す事を許すのは、明らかでした・・・

LHC の衝突のエネルギーは、派生させられた b と 反-b のクアークスの対の殆どを、そのビームの軸に対して、とても緊密な方向において殆ど産出し;故に、ビームの軸に対して直角な、粒子の探知のために最効率化された - アトラスや CMS の様な - 半-筒状の幾何学(立体性)を持つ代わりに、LHCb の幾何学は斜めにされたピラミッドに類似し、その天辺は衝突の地点に位置されています。LHCb の実験の4,500トンの探知機は、それらの b と 反-b のクアークスによって産出された B 中間子(mesons)を効果的に探知し、そしてそれらの崩壊の産物を研究する様にデザインされました。⁹⁶

もし此処で人が、その衝突器とその探知機の明言された、そして自白され(認められ)た全てを集めると、人はとても興味深いリストを有します:

1)その実験の幾らかは、光速よりも速い速度で動いている(運動している)粒子を探知するためにデザインされ;

2)その実験の全ては、部分的に、基準的なモデル(相対性理論)を超えた「新たな物理学」を発見する事を目的とし;

3)その衝突器の実験は、以下の2つの選択肢を含んでいる、その「新たな物理学」がどのモデルの形式を取るかの確認を探していて:

a)スーパーシメトリー(超均整);または(私達の意見においてもっと興味深い)

b)追加的、または超越-次元的な空間です。ですが、私達が既に目撃した様に、電気的なネットワーク(回路)の一般(典型)的な種類は、クロンの見解において、複雑な超越次元的な空間の集合体、またはネットワークで、機械のそれぞれの準システム(部品)は、それ自体の準空間です。電気的な機械は、その回路自体の幾何学的なパラメーター(媒介変数/限定要素)によって、既にクロンの見解上の超越-次元的な空間で、そして更にもっとそうであるものが、大型ハードロン衝突器(LHC)でしょう。言い方を変えると、超越-次元的な機械の特定の種類を造ると、人は超越-次元的な効果(粒子)の特定の種類を創造します。私達は直ぐに、この点の思考に戻るでしょう;

4)その衝突器は、クアーク-グルーオンのプラズマ、またはストレンジレッツの「創始的で錬金術的なスープ」を研究する(そして故に、恐らく創造する事)を求めていて、そして(物質-反物質の不均整についての私達の推理と同様に)その様な実験と研究は、その安定的で「産工業規模の」産出のためのメカニズムの発見に繋がるかも知れず;そして最後に、

5)その衝突器は物質-反物質の不均整の背後のメカニズムを明瞭にする事を求めていて;成行き的にエネルギーと兵器化の目的のために、このメカニズムが「産工業規模の」産出と反物質の封じ込め(i.e. 蓄積)に繋がる事が出来る可能性を台頭させます。

思考と推理のそれらの種類は、もっと受け入れられる事の出来る方法で、その実験に対して浪費された莫大な総額の資金を正当化する様です。この出費は、唯の「粒子の蝶々」を収集し、そしてそれらを粒子の分類学的な図表と系統学に、針で止める事以上のものであるのは、少なくとも可能である様に見えます。

5. The “Fifth Experiment”: Data Collection and “Filtration”
5.「5度目の実験」:データ収集と「濾過」


公共(表向き)のものの中に仮面され、隠された計画、または複数の計画の正に本当の可能性に人が出くわすのは、しかしながら、その衝突器とその4つの探知機に実験が派生させる、莫大な量のデータと共にです。それぞれの実験が、毎日1秒単位でデータの欠片を数百万派生させるのは偶然では全く無く、恐らく NSA の世界規模のスパイ(監視)計画のものを除けば、その衝突器のデータベースと管理自体は、その他全てのデータベース管理の問題とは、比較に成らない規模に成るでしょう。その衝突器とその実験のための、セルンのデータ管理システムを、「宇宙学のカルテル」によって運営されていると見解する人達がいるのは偶然では無く、それは、私達がこれから目撃する様にまた、その衝突器は派生させる情報とその解釈を操作しているカルテルです。⁹⁷

「LHC のそれぞれの実験は毎年、約10ペタバイツ(1ペタバイツ=1,000,000ギガバイツ)のデータを産出します。これは、およそ、2,000万枚の DVD に相当します。このデータの分析は、今日の最速のパソコンのプロセッサーの約100,000個分に匹敵する膨大なコンピューティング(計算)力を必要とします。協力している機関は世界中あちこちに散らばり、そのデータに対して地方からアクセスする必要があります。それらの必要性に対処するために、LHC のコンピューティングのグリッド(ネットワーク)の開発へと、膨大な量の努力が成されました。そのグリッドのインフラストラクチャ―(土台構造)は、世界中の数十万のプロセッサーを一緒に結び付けます。」⁹⁸

その様な膨大で、国際的な延長と協力は、その衝突器の表向きの顔を体現するかも知れませんが、それが同時に公のものの中に秘密裡の計画を「コンパートメント化」する完璧な方法かも知れないのは、その様な計画は、その表向きの顔に広く利用可能では無いデータにアクセスする事に完全に頼らざる負えないためです。実際に、その実験の別々の公共の顔が、何らかの隠された団体、またはグループによって調整されている、何らかの秘密裡のものの一部、または構成要素である可能性さえあります。

その衝突器のデータ管理システムを、人がより詳細に見れば見る程、これはとてもはっきりとした可能性に成ります。その衝突器が - 1秒毎に100,000枚の CD を満たすに十分なデータである - 莫大な量のデータを派生させ、そしてこのデータが素早く世界中に分散されなければならない事を、一度人が理解すれば、人は何故セルンとその衝突器が、インターネットの最大の使用者であるだけでなく、何故それらがある延長において、インターネットの創造を推進したのかを理解するでしょう。⁹⁹

明らかに、その様な膨大なデータは、しかしながら、既に存在しているとても初歩的な量子コンピューターでさえ、現在利用可能なあらゆるスーパーコンピューター、またはデータの保管システム(の脳力)を単純に超えてしまいます。故に、保管され、分析されるためのデータは、試されている理論によって予測された¹⁰⁰ 出来事の特定の種類を探すためにデザインされた「フィルター(濾過器)」、またはコンピューターのアルゴリズム(演算法)の複雑なシステム(ソフトウェア)によって選別されなければなりません。この行程は、その多くの数百万の出来事のどれが永続的に保存され、そしてどれが保存されないのかを研究者達に伝えるパラメーター(媒介変数/限定要素)の事前にプログラムされたセット(設定)である、出来事の「トリガー(引き金)」と共に始まります。¹⁰¹ 着目されるべきデータの選別、収集、保存、そして分散のシステムには、更にもう一つの要素があります:

「そのデータのシミュレーション(模擬)とプロセッシング(処理)のために必要なアルゴリズムはとても複雑で;それらは研究されている物理学の、異なった特定的な分野において研究している専門家達と同時に、異なった準探知機の素材と科学技術における専門家達によって開発されました。ですが、LHC のコンピューティングを、以前の高-エネルギーの実験、そしてその他の殆どの科学的な実験から異ならせる要素は

データ分析において活動的に参加している物理学者達と技術開発者達の膨大な数で - CMS の実験だけでも3,000人以上に達し - その大部分は、アルゴリズムとプログラムの開発において携わっていて;

・広く分散されたコンピューターの環境は;35カ国における、140か所のコンピューター・センターにおいて設置された約100,000個のプロセッサーが、LHC のコンピューティングに統合されていて;

・そのグリッドを渡って分散され、それぞれの実験の人員達の全てで分かち合わなければならない、データの莫大な量です。¹⁰²

言い換えると、このデータ管理システムは、カルテルであるだけでなく、以下による信託で:

1)データの派生の方法(i.e. その衝突器とその探知機);

2)そのデータの分析の方法(コンピューターと科学者達);そして、

3)科学者達によって分析されるデータを選別し、保存する「フィルトレーション(濾過)のアルゴリズム」のプログラミングの方法です。

このシステムによって、一つの哲学的な問いが直ぐに台頭させられるのは、全ての科学者達がノイズ(雑音)から特定のデータやシグナルを「選別」するのが真実である間、「フィルター」としてのその様なアルゴリズムのプログラミングが、特定の感覚において、復讐と共に量子力学の哲学的な謎々をもたらすのは、現象の特定の種類だけを探す事によって、現象のそれらの種類だけが効能的に発見され、故にその理論を確認しますが、その問いをまた尋ねてもいるためです!しかしながら、その衝突器が「基準的なモデル」を超えた「新たな物理学」と、その他の物事を探している事が与えられると、これが示唆するのはそれらの「データ収集のフィルター」が変更される事が可能で、またはとても異なった物事を探すためにデザインされた隠されたフィルターが設置される事さえが可能かも知れないと言う事です。

これは、その実験を行っている科学者達や技術開発者達の間にでは無く、分析と解釈のために選別されているデータの中に、その衝突器の中に存在している隠された計画が存在する、不穏な可能性を浮上させます。着目すべきは、そのシステムが描写された方法を与えられると、そのデータの幾らか - 恐らく理論に対して矛盾するデータは - その科学者達に全く届かないかも知れないと言う事です。私達は此処で、これがどの様に機能する事が可能なのかを、考えなければなりません。

D. Very Speculative Interpretations and Implications
D. とても推理的な解釈と示唆
1. The Possibilities for a Hidden Project
1.隠された計画のための可能性


どちらのデータが保たれ、そしてコンピューターのグリッドのネットワークにおいて分析されるために保存されるために、データの選択のフィルターのシステムを創造する事によって、幾らかのデータは「捨てられ」、何処にも保存されず、誰にも分析されません。その「宇宙学カルテル」の中の隠された計画のための可能性が台頭するのは、正にこの点です:

1 フィルター

2. Philosophical Problems and Speculations
2.哲学的な問題と推理


もし人が、この効能的な構造の表向きの顔だけを考えると、次の部分において続く、私達のとても推理的な再構築に対して適切では無い間、そうであれ、以前のまとめと推理から浮上する哲学的な問いの幾つかが起こります。最初に、その衝突器の実験とその探知機が、道具の同じ種類によって唯一重複作業(確認)出来る事を与えられると、セルンの「宇宙学カルテル」の操作の下では無い、独立的な観点からその実験の結果を、どの様に人は、独立的に確認出来るのか?と言う事です。第二に、人はどの様に、その著者の数が数千人に上る論文を「ピア・レヴュー(同僚検証)」し、そしてセルンの量子力学のコミュニティー自体に拘わっていない人達と共にそうする事が出来るでしょう?それらの問いは、セルンとその衝突器-探知機のシステムが、「宇宙学カルテル」であるだけでなく、「データの源泉と解釈のカルテル」であると言う不穏な事実に焦点を当てます。

恐らく、中国がそれ自体の大型ハードロン衝突器のヴァージョンを建設する事を考えていると言う、近年の公表の背後にはその様な思考があった、または、恐らく、その衝突器の明言された目的の背後に隠れているかも知れない、以前の部分の中で示唆された軍事的な応用の効能(可能性)の幾つかに関連しているのでしょう。¹⁰³

3. A “Kronian” Speculative Hypothesis
3.「クロン的」で推理的な論説


この全ては、もし人が、多大により大きな規模ですが、スコダ社の技術開発部門の中のカムラースターブの様に、秘密裡の計画、または複数の計画が、その中に隠れ蓑されていると推測するなら、その衝突器において何が行われているかも知れないのかについて、注意を風に対して投げ出し(大胆に)、私達の極度に推理的な論説を概要する事に、私達を終にもたらします。此処まで来れば明らかな様に、その衝突器とその実験の公に明言された表向きの目的と、そしてそれらの周りに形成された様々な陰謀論の両方は、量子力学の基準的なモデル(相対性理論)の土台の上で、両方とも提示され、そして故に今の処、陰謀論者達の公言と、その理論の土台の上の、その衝突器の科学的、そして技術開発的な擁護者達の公言に対して、私達はとても緊密に辿って来ました。

クロンの見解の上で、私達が目撃した様に、全ての電気的な機械、特にネットワーク(回路)化されたものは、「接面された超越-次元的な空間」の集合体で、その幾何学は、その回路のパラメーター(媒介変数/限定要素)自体によって操作されています。その衝突器は、超伝導性と膨大な磁場を利用している量子的で、電気的な機械なので、クロンの超越-次元的な機械、そしてそれ以上のものの必要性を満たす様です。言葉を変えると、もしその衝突器と供に拘わっている科学者達が、超越-次元性の証拠を探しているなら、彼等はその機械自体のパラメーターの遺物として粒子を産出しているかも知れない、彼等自身の機械以外に更に探す必要は無いかも知れません。

または、残りの注意を風に投げ入れる(更に大胆に成る)と、恐らくその衝突器は、それが探している効果の幾らかを、発見するよりはむしろ、産出する様にデザインされたのかも知れません。量子力学において、その「観測者」は、それらが始まる前に、その実験自体の結果を事前決定するので、その観測者は故に、その実験自体の行程において介入し、そして、言うなれば、彼、彼女(またはそれ)が測定する事を求めている正に効果の、共同-創造主に成ります。この見解の上で、その衝突器の先進的な探知機は、それらのデータを選別しているフィルターを共にしたコンピューターと、そのデータを解釈している科学者達と共に、観測者達と成り、そしてその延長においてまた、求められている効果の創造主達です。この見解の上で、その衝突器は、極少数の人達だけが理解する何かで:それは観測者達の複雑なシステムで、そして人間的な構成要素に限って、グループ観測者です。

私達は此処で、「注意の量子」の最後の残りを風に投げ入れ(もっと、もっと大胆に成り)、もう一つの推理を紹介し、そして更に「おとぎ話の様な科学」を味わいましょう。もし量子力学のそれらの推理が真実なら、するとどの様に人は、観測上のグループ観測者の複数の観測者達のあらゆる効果を検証出来るのでしょう?人は、最初に、莫大な数の人達が拘わる様にし、そして第二に、膨大なデータの量を記録します。人は、効果的に、一つで同時に、物理学の実験の一連を行い、そして社会的な技術開発の実験の一連を行っています。この見解の上で、その大型ハードロン衝突器は、恐らく、その参加している科学者達と技術開発者達自身に知られる事無く、彼等が構成要素の一部であり、準-システムの構成である、複雑なオープン・システムです。この見解の上で、その衝突器は、公共の「物理学の構成要素」と、隠された「社会的な技術開発の物理学」の構成要素を共にした、巨大な「超越-次元的なサイコトロニック(精神工学)の機械に成ります。その公共的(表向き)な構成要素は、更に加えて、多かれ少なかれ、更により費用のかかる輪において、更にもっと洗練され続ける理論と粒子を追い求めて、永続的に続く様に保たれる事が出来ます。故に、その機械自体は、相応しい量子力学的な感覚において、人間の「分析者達」と共に「観測者」と成りますが、唯この場合、観測されている効果 - そしてこの「クロン的な」推測の土台の上の実験の本当の目的において - その観測的な複合体、機械、探知機、そして人間達自体によって操作される事の出来る現実性に対する範囲を試験するための、(大)宇宙的でマイクロスコープ(小宇宙)的な秩序です。

4. An Alternative Analysis
4.オルタナティヴな分析


私達は、その計画の表向きの構成要素から否定された生のデータからのデータの濾過と選別の隠されたシステムのためのはっきりとした可能性に、その衝突器のデータ管理の構造は道を開くと提案しました。それらのフィルターのために必要な、膨大な量のコンピューター・コードを与えられると、超越-均整、追加的な次元、クアーク-グルーオンの凝縮物(プラズマ)、物質-反物質の不均整等々の、基準的なモデルと共に全く関連していない物理学の理論の異例的、またはオルタナティヴな種類を示唆するかも知れない拒否された流れから、データを盗む、その様な隠されたフィルターを創造するプログラムへと、コード(コンピューターの言語)の行を秘密裏に埋め込むのは、それ程難しくはないでしょう。

実際に、隠された計画の一つの可能性は、その他の物理的なシステムと現象からの、全く異なった種類のデータと、その衝突器のデータの調整かも知れません。例えば、ナチスのベルと、その衝突器の間の概念的な平行線が着目され:(1)逆回転、(2)膨大で電気的なフィールド(場)、(3)高エネルギーを達成するための低温学的な冷却と、超伝導性に頼る事で、そして(4)その衝突器の場合において、スーパー・プロトン・シンクトロンとその衝突器(LHC)自体の傾けられた設置は、それらの相互関連している磁場において「歳差的なブレ」、または「トーションのねじれ」を誘導するかも知れず、そして故にそれら自体を重力的な異常、または恐らく地震としてさえも、体現するかも知れません。同様に、それ自体の内在的なピーゾ(piezo)-電気(圧電性)を(そして探知を!)共にした、クオーツ(水晶)を含んでいるモラッセ(低湿地)に位置した、その探知機の磁気的なフィールド(磁場)の膨大な規模は、地球、または地域的な空間において、量子的(ミクロ)の規模よりもむしろ、地震、火山活動の増加、異例的な気象のパターン、そして恐らく、動物と人間の集合的な振る舞いの変化の様な、マクロ(大規模)な現象として現れるかも知れません。

その衝突器とその他のシステムの間のその様な「オープン・システム」の相互関係を探知する事は、それ自体が、その衝突器の活動と実験だけでは無く、それらの中のその様なシステムと出来事の間のあらゆる明らかな関連性を探知し、分析するための複雑なアルゴリズム(演算法)を共にした、それらのその他のシステムの、膨大なデータの収集システムを必要とします。

その様な極度に推理的な論説を幾ら人が行おうとも、しかしながら、その衝突器のためのデータ管理システムが、その中の何らかの秘密裡の計画に対して開けている可能性は、実際に、残ったままで;その衝突器自体が、物理学と金融の間の太古の連合(共謀)の象徴である事は、実際に、残ったままで、そしてそれはカルテルと戦時中のナチスの計画である「Rhenisch 資本主義」の信託の設定を真似るだけでなく、それはまたその国際的な「ソヴリン(主権)」の地位と、そのローン(借り入れ)を得る能力の両方において、国際決済銀行(BIS)の多くの特徴を複製し、加えて、それから全ての存在が派生した、錬金術的で創始的なスープである、正に物質の珍しい形状を彼等が探していると、その衝突器の擁護者達が認めた事実は残ったままで;その衝突器が、もし発見されれば、エネルギー(電力)の源泉と大量破壊の強力な兵器の源泉の両方に成り得る、大量の反物質を、創造し、蓄積する方法を明かすかも知れない、物質-反物質の均整に対する解決策を探している事実は残ったままです。

言い換えると、大型ハードロン衝突器の実験の結果は、軍事的な示唆と応用の巨大な可能性を持つ事が出来ると言う事実が、残ったままです。

セルンのアトラス実験のロゴ
1 atlasimage

「・・・私が発明したこのシステムにおいて、そのマシーン(機械)が、地球を鷲づかみにする事が必用で、そうしなければ地球を震わせる事は出来ません。それは、この世界全体が震える事が出来る様に、地球に対して鷲づかみの握りを持たなければならず、そしてそうするために、とても費用のかかる構築を行う事が必用でした・・・」
- ニコラ・テスラ
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1 Joseph P. Farrell, Babylon’s Banksters: The Alchemy of Deep Physics, High Finance and Ancient Religion, p. 207.
2 Ibid., p. 159.
3 Alexander Unzicker, The Higgs Fake: How Particle Physicists Fooled the Nobel Committee (No Publisher Given: 2013, ISBN 978-1492176244), p. 81.
4 Ibid., p. 7.
5 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe(New York: Springer, 2010) , p. viii.
6 Ibid., p. 41.
7 Ibid., p. 48.
8 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, p. 51.
9 Alexander Unzicker, The Higgs Fake: How Particle Physicists Folled the Nobel Committee,p. 55.
10 彼の考えと解釈を私と共に分かち合うだけに十分に親切だった一人の研究者はアンソニー・パッチ氏でした。私の明言は、彼の推理的な分析の科学的な構成要素を軽視するものではありません。
11 “SabreSaint,” “Need Debuking: CERN to Recreate Big Bang,” Feb. 26, 2015, https://www.metabunk.org/threads/need-debunking-cern-to-recreate-big-bang.5816/.
12 Ibid. この計画のその他の種類(アンソニー・パッチの論説)は、巨人達、タイタン達、そしてギリシャ神話の「gigantomachy (巨大-戦争)」に対する、太古の宇宙戦争の明らかで神話的な関連性を共にする惑星、土星(Saturn)へのポータル(出入り口)を開く事です。
13 Ibid.
14 John Didymus Thomas, “The Germanwings Airbus A320 Crash: the CERN LHC, NOWIlluminati Connection, According to Conspiracy Theoriests,” Inquisitr, March 26, 2016, http://www.inquisitr.com/1956653/germanwings-airbus-a320-crash-the-cern-lhc-nwo-illuminaticonnection-according-to-conspiracy-theorists/
15 David McCormack, “You were incredible’: ペンタゴンの契約者と、彼女の娘、22歳は、フランスのアルプスにおける墜落事故において死亡した3人のアメリカ人達の内の2人として確認されました。The Daily Mail, 25 March 2015, www.dailymail.co.uk/news/article-3011260/American-contractor-grown-daughter-identifiedtwo-Americans-died-French-Alps-crash.html.
16 Marguerite Thoresen, “The LHC (Large Hadron Collider) experiments: Where might equals right.” http://members.iinet.net.au/~rabbit/lhc.htm
17 Ibid.
18 「ドイツの裁判所が、セルン/LHC の安全委員会のために懇願する」を参照して下さい。 http://lhc-concern.info/wpcontent/uploads/2011/02/cern_press_release_german_court_hearing.PDF
19 Elizabeth Kolbert, “Crash Course: Can a Seventeen-mile-long Collider Unlock the
Universe?” The New Yorker, May 14, 2007, www.newyorker.com/magazine/2007/05/14/crashcourse, boldface emphasis added, italicized emphasis in the original article.
20 Eric Penrose, “How CERN’s Documents Contradict its Safety Assurances: Plans for ‘Strangelet’ Detection at the Large Hadron Collider,” http://www.heavyionalert.org/docs/CERNContradictions.pdf.
21 Eric Penrose, “How CERN’s Documents Contradict its Safety Assurances: Plans for ‘Strangelet’ Detection at the Large Hadron Collider,” http://www.heavyionalert.org/docs/CERNContradictions.pdf. There are also a number of CERNLHC safety documents collected at www.lhcsafetyreview.org/docs/background-documents.pdf
22 http://castor.web.cern.ch/
23 Eric Penrose, op. cit.
24 “CERN affirms 70% Chances of Strangelets,” https://cerntruth.wordpress.com/2011/12/27/119-terrorists-will-start-production-of-strangeletsirony-or-destiny/
25 Ibid.
26 “CERN Kicks off plans for LHC Successor,” http://physicsworld.com/Cws/article.news/2014/feb/06/cern-kicks-off-plans-for-lhc-successor.
27 Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press/Taylor and Francis Group, 2009), p. 5.
28 “Facility for Antiproton and Ion Research,” Wikipedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Facility_for_Antiproton_and_Ion_Research. See also http://www.faircenter. eu/See also http://www.faircenter.eu/
29 その様な論説に対する基準的な異論が鮮明で、単純なのは、物質と反物質が、観測可能な宇宙において、均整的な量、または多かれ少なかれ同量であると、現れないためです。物質と反物質は接触すると直ぐにお互いを消去し合い、純粋なエネルギーを産出し、i.e. その様な元々の衝突からの「残された」粒子は無いと言う事です。ですが反物質は自然的には無視できる程少量しか存在していないので、そして唯一、人間によって、無視出来る少量において算出する事が出来るので、基準的な主張は単純に、産出されるであろう、あらゆる反物質を蓄える方法は言うまでも無く、あらゆるその様な軍事的な目的は、膨大な産出の困難さによって相殺されてしまうだろうと指摘する事です。物理的な格納庫は明らかに選択肢では無く、そして故に、何らかの磁石的な格納庫が唯一の可能な選択肢です。これは、しかしながら、その様な衝突器において使用された、凄まじく強力な磁場を人が理解すると、手の遠い可能性に成ります。それらの中における時間を通した反物質の安定的な産出は、標的に対して送り込む事の出来る、十分に強力で移動可能な「磁気的なボトル」を人が開発出来る事が供給されれば、強力な爆弾のために十分に(反物質を)産出出来るかも知れません。その衝突器は、言い換えると、磁場が保たれる限り、格納庫に成ります。大量の反物質が未だに加速中にある間にそれらの電源を切ると、その質量は、その衝突器の物質と共に衝突し、そしてエネルギーの莫大な量を産出します。その様な可能性は、ある意味、ストレンジラヴ博士の審判の日の兵器です。その様な可能性はトム・ヴァン・フランダーン博士によって、彼の著書、Dark Matters, Missing Planets, and New Comets: Paradoxes Resolved, Origins Illuminated (Berkeley, California: North Atlantic Books, 1993), pp.163-164. の中でほのめかされました。
30 See my Babylon’s Banksters: The Alchemy of Deep Physics, High Finance and Ancient Religion, pp. 159-205, 251-264.
31 Ibid., pp. 130-153.
32 1944年のメイソン・ルージュ・ホテルの会合の長期的な示唆のこの解釈のために、私のThe Nazi International, pp. 69-83. を参照して下さい。
33 See my Nazi International, pp. 249-346.
34 Peter Levenda, The Hitler Legacy, pp. 171-172.
35 カムラースターブの戦時中(そして戦後!)の働きの更なる詳細のために、私のReich of the Black Sun: Nazi Secret Weapons and the Cold War Allied Legend (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2004), pp. 100-107; The SS Brotherhood of the Bell, pp. 141-191, Secrets of the Unified Field: The Philadelphia Experiment, The Nazi Bell, and the Discarded Theory (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2008), pp. 227-288, 296-312, The Philosophers’ Stone: Alchemy and the Secret Research for Exotic Matter (Port Townsend, Washington: Feral House, 2009), pp. 205-302306-311, The Nazi International: The Nazis’ Postwar Plan to Control Finance, Conflict, Physics, and Space, pp. 249-352, Roswell and the Reich: The Nazi Connection (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2010), pp. 363-436. を参照して下さい。
36 See my Reich of the Black Sun, pp. 25-52.
37 Joseph P. Farrell, The SS Brotherhood of the Bell, p. 202. See also P. 201. 指摘する事にまた価値があるのは、UFO の研究グループでシンク-タンクであると主張される、マジック-12、またはマジェスティック-12の、悪名高いクーパー-キャントウィールの書類の、幾つかの主張された書類によると、ニクソン大統領は、1969年に、その研究グループを「民営化」、または企業化したとします。もしこれが真実であれば、(1)政府に関連した(2)「ブラック(秘密裡の)計画のシンク-タンク」が(3)鍵の科学的な秘密と科学技術の独占を有し、そして故に(4)カルテルです。(SS Brotherhood of the Bell,pp. 317, 332-333, 334-344(especially p. 335)参照。)この話の金融的な要素を追及している人達のために、ブレトン-ウッズのシステム(i.e. 金本位制)を廃止するニクソンの判断は、1969年におけるその UFO の研究グループのこの主張された民営化に関連していると言うのが、この筆者の意見です。
38 Gabriel Kron, Tensor Analysis (New York: John Wiley and Sons, Inc., 1942), p. xii.
39 Edwin K. Tolan, “Foreword” H.H. Happ, ed., Gabriel Kron and Systems Theory(Schenectady, New York: Union College Press, 1973), vii-xv, p. xv.
40 Thomas J. Higgins, “Gabriel Kron and Large-Scale Systems Engineering,” in H.H. Happ, ed. Gabriel Kron and Systems Theory, 37-42, p. 37.
41 Edwin K. Tolan, “Foreword,” in H.H. Happ, Gabriel Kron and Systems Theory, vii-xv, p. xiii.
42 Ibid.
43 Philip L. Alger, “The Evolution of and Engineering Scientist,” H.H. Happ, ed. Gabriel Kron and Systems Theory, 5-17, p. 12.
44 J.W. Lynn, “Kron’s Tensor Analysis,” in H.H. Happ, ed., Gabrial Kron and Systems Theory, 65-119, p. 65.
45 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, p. 5.
46 Ibid. p. 7.
47 Anders Unnervik, “The Construction of the LHC: Lessons in Big Science Management and Contracting,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: a Marvel of Technology, 38-55, p. 41, all emphases added.
48 その裁判沙汰について、天文学者、マーティン・ビーチが、彼の著書The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe (New York: Springer, 2010), pp. 49-51.の中の長文でコメントします。ビーチは「もし、一つの実験の安全性の問題について判断出来る能力を持つ誰かがいるなら、するとそれは、間違いなく、それを設計し、それが試験するためにデザインされた高-エネルギー物理学を完全に理解している人達でしょう。」(p. 49)と明言する事によって、その裁判沙汰の彼のまとめを始めます。勿論、法学的な見解から、これが多大な利害衝突なのは、ビーチが本当に提案しているのは、裁判における被告がまた、それを裁判している裁判官と陪審員に成るべきだと言う、究極の不合理であるためです!そうする事において、ビーチはその行程全体を、科学よりも宗教に似ていて、量子物理学者達が新たな神官階級で、そして彼等の衝突器が新たな大聖堂であると見解する、大規模な科学の量子物理学の批評者達の見解を肯定しています。故に、その「衝突器の神官階級」の「市民である科学者達」が、その結果を解釈するための、唯一のアクセス、そして故に学習レベルを持って(独占して)います。
49 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, p. 7.
50 Anders Unnervik, “The Construction of the LHC: Lessons in Big Science Management and Contracting,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: a Marvel of Technology, 38-55, p. 39.
51 Ibid.
52 Ibid.
53 Anders Unnervik, “The Construction of the LHC: Lessons in Big Science Management and Contracting,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: a Marvel of Technology, 38-55, p. 42, emphases added.
54 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, p. 4.
55 See my SS Brotherhood of the Bell, pp. 171-185.
56 Anders Unnervik, “The Construction of the LHC: Lessons in Big Science Management and Contracting,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: a Marvel of Technology, 38-55, p. 44.
57 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, pp. 8-9.
58 Ibid., p. 9, emphasis added.
59 John Ellis, “The Fundamental Physics Behind the LCH,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 22-37, p. 24,
60 Peter Jenni, “ATLAS”, Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009) 182-199, p. 183.
61 John Ellis, “The Fundamental Physics Behind the LCH,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 22-37, p. 23. 興味深い事に、エリス氏はまた、その主張に明言し、その衝突器が安定したミニ・ブラック・ホール創造すると言う「審判の日の陰謀論」を根拠の無いものとし、それらは大々的にそうです(可能性はゼロでは無いが、殆ど有りえない)。(p. 34)彼がコメントしないのは、それらの理論家達の多くは、クアーク-グルーオンのプラズマ、またはストレンジレッツについて、彼等が心配するよりも、ミニ・ブラック・ホールについてはそれ程、心配していないと言う事です。
62 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, p. 29.
63 Ibid. ビーチは、彼の本の11ページから44ページまで、量子力学の台頭の素晴らしく端的な再検証を行います。
64 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, p. 57.
65 Ibid., p. 51.
66 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, p. 12. See also Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, pp. 52-53.
67 Jean-Luc Baldy, Luz Anastasia Lopez-Hernandez, and John Osborne, “The Construction of the LHC: Civil Engineering Highlights,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 56-85, pp. 59-60.
68 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” in Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 3-21, p. 15.
69 Ibid.
70 Ibid.
71 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: Particle Detection at the LHC: An Introduction,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 150-161, p. 151.
72 Ibid., p. 152, emphasis added.
73 Ibid., p. 153.
74 Ibid.
75 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: Particle Detection at the LHC: An Introduction,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 150-161, p. 154.
76 Ibid.
77 Ibid., pp. 157,see also Tejinder S. Virdee, “The Experiments: The Compac Muon Solenoid Detector at LHC,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 162-181, p. 171.
78 Ibid., p. 160.
79 Ibid.
80 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: Particle Detection at the LHC: An Introduction,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 150-161, p. 159.
81 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: The Compact Muon Solenoid Detector at LCH ,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 162-181, p. 167.
82 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, p.
113, emphasis added.
83 Peter Jenni, “The Experiments: ATLAS,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 182-199, p. 185.
84 John Ellis, “The Fundamental Physics Behind the LHC,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 22-37, p. 35
85 Ibid., p. 33.
86 John Ellis, “The Fundamental Physics Behind the LHC,” Lyndon Evans, ed., The Largehadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 22-37, p. 36.
87 Juergen Schukraft and Christain Fabjan,”The Experiments: ALICE,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 200-215, p. 201.
88 Ibid.
89 Ibid.
90 Juergen Schukraft and Christain Fabjan,”The Experiments: ALICE,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 200-215, pp. 203-204.
91 Ibid., p. 206.
92 Juergen Schukraft and Christain Fabjan,”The Experiments: ALICE,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 200-215, p. 209.
93 Tatsuya Nakada, “The Experiments: LHCb Experiments,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 216-227, p. 217.
94 反物質と共に2つの問題があり、つまり、その幾らかがその中に実際に存在する短い時間と、そしてどの様にそれを、時間を超えて蓄えるかです。故に、非均整の問題を解決する事は、その量をもっと多く産出し、そして時間を超えてそれを成功的に蓄える方法の解決策を産み出すかも知れません。
95 Tatsuya Nakada, “The Experiments: LHCb Experiments,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 216-227, p. 218.
96 Ibid., p. 217.
97 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: Particle Detection at the LHC: an Introduction,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 150-161, p. 152,
98 Lyndon Evans, “The Large Hadron Collider: An Introduction,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 2-21, pp. 20-21.
99 Martin Beech, The Large Hadron Collider: Unraveling the Mysteries of the Universe, p. 54.
100 John Harvey, Pere Mato, and Les Robertson, “The Experiments: LCH Data Analysis and the Grid,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 228-243, p. 230.
101 Tejinder S. Virdee, “The Experiments: Particle Detection at the LHC: an Introduction,”Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 150-161, p. 153.
102 John Harvey, Pere Mato, and Les Robertson, “The Experiments: LCH Data Analysis and the Grid,” Lyndon Evans, ed., The Large Hadron Collider: A Marvel of Technology (Boca Raton, Florida: EPFL Press, 2009), 228-243, p. 229, emphases added.
103 記述するに値するのは、セルンが既に、100キロメートルの円周を共にした加速器-衝突器の、更により大きく、そしてより野心的な、更に高エネルギーのための計画の公表を行った事です。


8. Conclusions to Part Two
8.第二部のまとめ


「世界規模の地下ネットワークのためのドイツの準備を話し合う際、ホームズ次官補は、こう述べ『・・・ドイツの計画の最も興味深いアングル(角度)の一つは、権力のためのその次の掌握において、ナチスの地下組織のために。最も便利に成る事が出来る処で、技術者達を配置する事です・・・特定のナチス達は、共産主義者達、社会主義者達、そして労働組合の構成員達のふりをする様に任命されています。』」
- 1945年4月7日のジュリアス C. ホームズ次官補を引用している、T.H. トッテンズ¹

人が以前の章を読み返し、そしてそれらを梗概の様に見直せば、もし悲惨では無いにしても、興味深いパターンが台頭します。それが無駄だと見解されるかも知れない間、それらのパターンの欠片を形成する多くの詳細があるので、私達は第一部のまとめを、一字一句繰り返し、そしてその後に、第二部から派生したそれらのまとめとパターンを附け加えましょう。

A. 第一部へのまとめ

1)1950年のマドリッド回覧書は、マドリッドのドイツの地政学的なセンターの産物と主張され、そして故に戦後の国際ナチスのものと主張されました。しかしながら、第一章の中で見られた様に、この筆者は、T.H. テッテンスの著書を超えて、この書類の存在への何らかの協力証言を見つける事が出来ませんでした。故に、帝国的、そしてナチス・ドイツ、そして戦後の西ドイツの外交政策の中の歴史的な前例を探し求める事によって、協力証言の方法論が発達させられなければなりませんでした。この方法で見解された時、その回覧書の政策の位置の幾つかは、応用された様に現れるだけでなく、その回覧書自体が、数十年後に起こる発展を、異例的に予測する様に現れます。それらの発展の中で、人は特に以下に注意しなければ成りません:

a) その書類は、関税の統一、または共通市場を含む、ヨーロッパのコミュニティー(EC)の創造を主張し、その連邦はドイツを(ヨーロッパにおいて)圧倒的な経済力とし、最も影響力のある位置にします。世界の舞台におけるその連邦の目的は、対立している共産主義者(ソヴィエト)と大西洋(英米)のブロックの間に「第三の道」を創造する事で、その連邦(EU)と共に、世界の舞台におけるドイツの地政学的な影響力を増大させる事で;

b) その回覧書は、米国とソ連の間の戦争の地点までも、東と西の緊張を高める政策を主張し²、その間ドイツに指導されたヨーロッパは、その様な衝突において中立を保ち、その様な衝突の後に、明らかな指導的な権力のブロックとして台頭し;

i) ソヴィエト連邦とワイマー共和国の間の、1920年代のラパロ条約は、西ドイツの領域において利用され、大量殺害のための、特に原子爆弾、生物(化)学兵器、または化学兵器の開発に対して課せられた、あらゆる条約(ヴェルサイユ条約)を迂回するために利用されました。³ 以前のページの中で見られた様に、ラパロ・プリンジプは、南アフリカ、イスラエル、そしてイランの様な「のけ者国家」との経済的な協力のための同意として、ドイツの連邦共和国によって忠実に続かれ、代理国家を通して、核燃料サイクルの完結、そして原子爆弾と水素爆弾を得るために必要な、延長的な軍事の調整(協力)と科学技術の譲渡(受け渡し)を隠すために利用されました。この拡張的な(核)拡散の努力は、大企業とカルテルの手の中に国境超越的な原子爆弾と水素爆弾の能力を創造する役割を果たし、ドイツの原子/水素爆弾の科学技術を利用している代理国家において、複数の層の重複性の創造を可能にし、それはヨーロッパ大陸の唯一の宣言された核保有国、フランスを含みました。

ii) その回覧書は、「我々 i.e. 国際ナチスにとって、その戦争は決して終わっていない」⁴ とはっきりと明言し、1945年のあらゆる公式な降服における、ナチス党のあらゆる公式な代表の不在において、これのための鮮明な補佐を引き出します。この主張の明らかな示唆は、ドイツとヨーロッパ自体の心臓部において、国際ナチスが生き残り、健全であると言う事で、以下に目撃される様に、アデナウアー政権に対する、ナウマンのクーデターに関する、英国の公式な報告の中で協力証言される点で:

iii) その長期的な目的は、ドイツを非-産工業化するためのモーゲンサウ計画を、成功的に脱線させる短期的な目的を通して、アメリカを孤立化させる事で、⁵ そしてその後、意図的に造られた戦争経済危機、そして中東の不安定化を通したその「ドル外交」の、益々増大する孤立化へと、米国を操作する事で、⁶ その間、同時に、ドイツに導かれたヨーロッパ連邦が、その経済的な貿易を東(中露)へと転換する事で;⁷

iv) これが一度起こると米国は、益々「一極独裁的な態度」に益々頼る様に強要される事が、その回覧書によって正確に予測され、そしてこれが一度起こると、アメリカが好戦的な国家に成り、ヨーロッパの国々はその軍事的な冒険に参加する義務は無いので、大西洋連合(NATO)の条約は空洞化され;⁸

v) この全ては、秘密裡の作戦と - アメリカを含む - 産工業と政府における延長的な接触のネットワーク(人脈)を通して達成され、⁹ そのネットワークは、1944年7月の、ヒトラーに対する「爆弾(暗殺)計画」において、「国家反逆罪で処刑された」人材を含むとその回覧書ははっきりと明言し、その計画が、連合軍を騙すための、意図的なフォルス・フラッグ(偽旗)の出来事の策略で、ナチスの高官達を「死亡した」とする事によって更なる連合軍による調査から守る(結局の処、人は、死亡した人達を調査しないので)、または同じ目的のためにナチスのヒエラルキー(命令系統)によって利用された危機の好機のどちらかであると言う、息を奪うような主張で;¹⁰

2)ドイツに導かれたヨーロッパ連邦(EU)の、マドリッド回覧書の明言された目的は、実際に、第一次世界大戦の前と間の、ドイツの軍事的、政治的、そして金融的なエリートのメンバー達、バーンハルディ将軍と、Reichskanzler (ライヒ/帝国のカウンセラー)セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェグから、第二次世界大戦後の、2人の西ドイツの首相達、アデナウアーからヘルムット・コールまで、ゲルハルト・ショローダーからアンゲラ・メルケルまで、一貫的な目的です。この本の次の部分の主な題材に成る、ナチスと、ヨーロピアン・ユニオンのための彼等自身の明言と計画を、私達が未だ検証していない間、此処までに明らかなのはマドリッド回覧書がこのヴィジョン(先見性/計画)の正確性を反映している事で;

a) 私達が着目した様に、1943年に始まり1945年の全体的な計画を含んで、その戦争の正に終わりまで続く、ナチスの特定の書類は、その様なドイツに導かれたヨーロピアン・ユニオン(i.e. 中央集権)を主張します。加えて、私達が着目した様に、その1945年の全体的な計画は、この本の次の部分において見られる様に、政治的な連邦、経済的な統合においてこれを綴り出し、法律と(司法)管轄区の融合でした。その統合は最終的に、ヨーロッパのロシアを、その抱擁の中に含みました(i.e. 大西洋からウラジオストック/太平洋まで)。¹¹

b) それらの戦時中のナチスの書類はまた、西洋の権力(連合軍)に対する心理的な戦争の政策も主張し、そして私達が以前のページの中で示唆したのは、その責任を英国政府がはっきりと国際ナチスの足元に置いた、アデナウアー政府に対するナウマンのクーデターの試みは、その様な作戦(フォルス・フラッグ)の一つだったのは、その作戦が、それ自体のナチスと親-ナチスの同情者達は言うまでも無く、アデナウアー政府を(穏健な)中道派として見える様にしたためです。

3)最後に、それを急進化(過激化)する方法による、イスラムの、相互関連している企業的、そしてカルテル的に推進された軍事的、そして政治的な操作のパターンを私達は目撃し、その地域における英国と米国の関心を不安定化するための、中東の不安定化におけるその利用のための(イスラム教の)兵器化を私達は観測しました。その結果は、再び、マドリッド回覧書によって予測されたものと正に同だったのは、ワシントンが益々、その地域において強引に成らなければならなかった間、それが益々、孤立化したためです。ドイツの原子力「カルテル」の場合、ドイツの原子力産業は、その歴史的な根源において I.G. ファーベン社の子会社の構成要素に大々的に構成され、全ては統一的に働いていて、ファーベン社は、その名義においては公式に死んだかもしれませんが、名前においてのみであるとその点は示唆します。急進的なイスラムに対するドイツの政策の一貫的な関連性、そして皇帝の時代からのジハードのその推進と、第二次世界大戦から、モサデグとシャーの転覆の両方を通した、イランにおける政府の変更に耐えるその一貫的な能力、その他の急進的でイスラム的なグループへの、知られているナチスの関係が与えられると、¹² 「対テロ戦争」は、国際ナチスに対する戦争のための便利な隠れ蓑かも知れないとさえ示唆され、アメリカと彼女の同盟国が、それらの国民に対して売り込む事において多大な難しさを持つものです。

B. 第二部へのまとめ

それらの洞察、まとめ、そしてパターンに、以下の詳細が此処で加えられるでしょう:

4)1980年代と1990年代の為替レート・メカニズムの構造、そして今日のヨーロピアン・ユニオンと、更に戦時中のナチスの計画の間には、以下の要素において間違いない平行線が存在し:

A)「ピーター・オールドフィールド、別名、パー・ヤコブセンの小説、錬金術殺人は、多大な権力を共にした、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の、大規模な化学企業のカルテルの構築のための国際連盟の推奨を詳細し

(i)民族-国家の戦争を行う権力に対峙するためで;

(ii)国際的な経済的秩序を確立し、保つためで;

(iii)特許とライセンシング(使用許可)を通した科学技術の譲渡のメカニズム、または媒体として機能するためで;

(iv)目撃された様に、しかしながら、その様な国際的な規模の唯一のカルテルは I.G. ファーベン社で、それはナチスの戦争のマシーンの主要な構成要素として機能し;

b)国際決済銀行(BIS)は、戦争の賠償金を扱う目的のための、表向きには独立的で「ソヴリン(主権)」の組織として、ドイツの銀行家、ヒャルマー・シャクトによって考案されましたが、特に戦時中には、ナチスのカルテルの関心のための、国際的な手先と決済機関として、実質上機能しました。BIS が、以下の方法において、金融の隠されたシステムの中央的、そして主要な構成要素として機能し、そして未だに機能しているかも知れないと言う、決定的な示唆があり:

(i)その「ソヴリン(主権)」の地位を与えられると、BIS は外交的な封筒の免除(i.e. 治外法権)を許され、そして故にあらゆる種類の無記名債と同時に通貨(為替)を全ての種類を洗濯する立場にあり、その戦争の間にそれが行った機能で;

(ii)その管理役員会における、カール・ブレッシング、カート・ヴォン・ショローダー、I.G. ファーベン社の代表取締役、ハーマン・シュミッツ、そしてシャクトに後押しされたその他の任命の形状におけるナチスは - 民族-国家の不要性のミームと共に関連した - その銀行(BIS)とその楽園的な目的(i.e. 世界統一/NWO)を、ヨーロッパの権力政治のそれ(ナチス)自体の目的のために、類似した言語(世界統一)を応用した、ナチスのカルテル政権によって利用(悪用)出来ると見解し;

(iii)ナチス-ファーベン社の共謀の、政治的、そして金融的な「ヨーロッパ-ライヒ(帝国)」の継続の見解は、戦後の西ドイツのブンデシュ銀行におけるブレッシングの存在の様に、戦後のドイツの金融的な制度における、ナチスの金融家達の顕著な地位によって、戦後も継続され

(iv)その様なものとして、BIS はまた、ドイツに対する連合軍の扱いの、戦後の刑罰の軽減のための主要な方法として見解され、そしてナチスの生き残りと、大量の資本をヨーロッパの外に移動する、その政党の戦略的な避難計画の鍵の構成要素で;

(v)BIS は、一方で、ドイツの金融カルテルのエリートと、その戦時中のアメリカ人の会長、トマス H. マクキトリックを通したサリヴァン & クロムウェルのウォール街の法律事務所を通して運営された、ダレス-ブッシュ-ハリマンの「中軸」の様な、(ナチスに)同情的なアメリカの反対相手との間の戦時中の接触の継続の主要な方法として機能し¹³;

(vi)同意書、株式債券、通貨等々の形状において、外交的な(治外法権)の封筒を通して、物理的な書類を移動させる能力を与えられると、デジタルの、現金の無い社会への移行は、公共(表向き)の金融の「透明性」を保つためで、その間、公共(一般大衆)の監視に対して、それ自体の不透明性を保つための金融的な権力のエリートの動き(策略)であると言う、推理的な提案が進められました。この見解は、金融の隠されたシステムが、国際決済銀行(BIS)によって有された「外交的な(治外法権の)封筒」の免除のシステムを通した - 無記名債やその他の無記名の道具の形状において - 物理的な書類の移動に頼り、そして正に頼っているかも知れないと言うコンテキストにおいて主張されました。その様な経路を通した、その様な「無記名の道具」と、実際の物理的な書類の移動に基づいた隠されたシステムは、あらゆる一般大衆の監視、または個々の国家的な監視に対して完全に不透明に成るでしょう。これは、隠された金融の正に国際的なシステムを創造する事を許し、国際的な規模と秩序(組織)の上で、ブラック(秘密裡)な計画の資金確保のために上手く利用される事が出来るものです。その様なシステムにおいて、BIS のような制度が不可欠なのは、BIS が本質的に、国際規模の上で、ヴェネチア(ヴェニス)の banco di scitta の一種として機能するためです。それらの事実と推理は、何故 BIS が、間世界大戦の賠償金の支払いを扱う、その表面上の目的を生き残り、長生きしているのかを説明するかも知れず、そして何故、それがシャクト-スカルノの騒動を通して、今日まで生き残っているのかは、このシステムにおいて拘わっているその他の銀行を示唆するかも知れず;

c)ナチス党と I.G. ファーベン社の「共謀」と「婚姻」の共同計画は、ドイツの中核と指導力の周りのヨーロッパ・ライヒ、または連邦の段階を踏んだ統合の上に集中しました。この段階化された発展は、2つの主要な方法、技術と分野に集中され:

(i)「ヨーロピアン・ライヒ」の計画は、ウォルター・ハルスティンの悪名高い「覇権演説」において彼によって、そして Sölter の1942年研究によって概要された様に、様々なヨーロッパの国々の調和化を最初に必要としました。それによってこれを迅速に、そして効果的に達成する事の出来る主要な方法は、「大きな空間」(i.e. ヨーロッパ)の経済と市場の異なった部分を管理するための、ヨーロッパ規模の管理的な官僚制度を確立する事によって国家的、そして地域的な立法部と議会を素通りする事によってでした。これは、目撃された様に、現在のヨーロピアン・ユニオン(EU)の官僚制度的な構造に対して見間違う事の出来ない類似性を有しており、それは、目撃された様に、その形成における全ての重要な段階における、ウォルター・ハルスティンの拘わりを表しました。セルンは、設立されたその様な機関の一つで、そして BIS の様に、「カルテル」と「信託」の様な構造と、そして制限付きのソヴリンティー(主権)が与えられた事が着目されるべきでしょう。

(ii)これに対して同時発生的に、ライヒ(ドイツ)マルクに対するゾーンの中のその他の通貨の「マージン(上下動の幅)のペッグ(固定)」のアイデアに基づいた「ライヒマルク」のゾーンが確立され、その計画は、再び、1980年代と1990年代の間の為替レート・メカニズムの確立と機能によって満たされ、その中でその他のヨーロッパの通貨は、最終的にフランスのフランとイタリアのリラを含んで、西ドイツのドイツマルクにペッグされました。

5)高度な金融と高度な科学技術と物理学の間の親密な関係のパターンは、太古の時代において始まったパターンであり、ヨーロッパのセルンにおいて継続され、それは、着目された様に、国際的な法律において「ソヴリン(主権)」の制限的な一種を有し、それを監視している単一的な民族国家が無いので、表向きのものと、裏側、または秘密裡のものの、実験の二重経路のシステムを行うための完璧な候補者です。「ヨーロピアン」の制度として、しかしながら、その中の、より大きな参加国の影響力は明白で、また目撃された様に、セルンの最大の貢献者であるドイツは特にそうです。その大型ハードロン衝突器が、クアーク-グルーオンの凝縮物(プラズマ)の創造、反物質-物質の非均整の実験等々を創造し、探知する様にデザインされたとセルンが認める事実を与えられると、それはまた、カムラースターブ(カムラーのスタッフ)の戦時中のパターンの継続として見解されるかも知れず、それは、英国の諜報工作員によると、「日常的に、物理学の化け物の様な分野」において研究していました。加えて、LHC の実験の管理構造の中の、裏側、または秘密裡の計画の可能性を示唆しているその他の要素があり:

a)セルンの大型ハードロン衝突器は、以下の上に操作を有するので、「宇宙学のカルテルと信託」を体現します:

(i)その加速器と衝突器自体の機械で、故にその実験のあらゆる実際の独立的な確認は不可能で;

(ii)その実験から派生させられた情報;そして、

(iii)それらの実験からのデータの「濾過」、または選別は、研究と解釈のためにその参加国の研究者達に伝達されます。

b)その「データの濾過のアルゴリズム(演算法)」は、しかしながら、拒否された生のデータ自体が吸い上げられ、濾過(選別)される可能性を示唆し、そして故に衝突器の活動とと、気象、地質、社会、または地球物理学的なシステムの様な、その他のシステムの間のデータの相関性の形状におけるその他の実験の可能性が台頭し;

c)最後に、私達の極度に推理的なシナリオにおいて、全ての電気的な機械が超越-次元的な空間のネットワークとする「クロン的な」観点から理解された時、その衝突器とその探知機は、関わった科学者達と共に沿って、その機械自体の遺物(産物)として、彼等が観測する効果を創造しているかも知れない可能性を私達は提案しました。これに関して、私達はまた、行われている裏側、または秘密裡の実験の一つの要素は、物理学的な実験の上のグループの観測者達の効果(もしあるなら)と限度をテストするための、社会-物理学的な技術開発かも知れないと言う、極度に推理的な考えを提案しました。もしその様な極度な推理が真実なら、それは実際に「日常的に、物理学の化け物染みた分野において研究している」もう一つの例を構成するでしょう。

ですが、此処には重大な問題があり - 彼等が戦後のナチスに集中しているのであれ、または戦時中と戦後の共産主義者達に集中しているのであれ - 殆どの研究者達が気付かないのは、フランクリン・デラノ(ルーズベルト)の「ブッシュ(藪)の中にナチス」がもしいるなら、「薔薇の畑の中に赤(共産主義者達)」がまたいるためです。実際に、第五章の中で指摘された様に、顕著なルーズベルトの助言者達、ハリー・デクスター・ホワイトと、ヘンリー・モーゲンサウは、その表向きのアメリカ人の会長、トマス・マクキトリックの下の BIS の機能とはっきりと「親-ナチス」の立ち位置を、両方の人達が知覚したので、BIS を全面的に閉鎖する事を望みました。

問題は、彼等も、特にハリー・デクスター・ホワイトも、彼等自身の「疑わしい活動と人脈」を有しており、そして彼等はウィスコンシン州からの若手の上院議員によって問われる寸前で、彼(マッカーシー)の活動は、政治へと爆発し、2つの大統領的な政権を揺るがし、そしてそれ自体の(マッカーシー)イズムを開始しました。
_____
1 T.H. Tetens, Germany Plots with the Kremlin, p. 34.
2 p. 9. All page references in this chapter are to previous pages of this book.
3 pp. 11-12.
4 pp. 17-18.
5 p. 19
6 pp. 25-26.
7 p. 27
8 pp. 28-29.
9 pp. 16-17.
10 pp. 30-31.
11 pp. 62, 64-65.
12 See my Nazi International, pp. .
13 このコンテキストにおいて見解されると、西ドイツのためのアメリカ人の高等弁務官になるための、ジョン・マクロイの任命が、全くの偶然では無いのは、マクロイが、I.G. ファーベン社のアメリカ人の弁護士として勤めていたためです。彼の任命は故に、戦後のドイツにおけるアメリカとカルテルの共通的で金融的、そして産工業的な関心を保護するためにデザインされたとして見解されるかも知れません。従って、戦後の時代において、70,000人を超えるナチスが彼に免罪された事は、幾らかの疑いと共に見解されるべきでしょう。


PART THREE:
第三部:
EUROPE FROM THE ATLANTIC TO VLADIVOSTOK: THE COMMUNIST SIDE OF THE COIN
大西洋からヴラディヴォストク(ウラジオストック)までのヨーロッパ:そのコインの共産主義者側


「解放されたロシアをもたらすために、米国がその圧倒的な影響力を発揮出来る処で、それは、中央集権された帝政ロシアも、中央集権化されたマルクス主義のロシアも受け入れる事が出来ますが、地方分権され解放されたロシアは受け入れる事が出来なかった、彼等自身の目的のための、極少数のウォール街の金融家達の野心に屈従しました。」
- アンソニー・サットン、ウォール街とボルシェヴィク(i.e. 東欧ユダヤ共産主義過激派)革命、19ページ

「私が考えるに、共通のヨーロピアンな祖国、統一されたヨーロッパの構築のアイデア、そして私が今日概要したい大ヨーロッパ、大ヨーロッパの構築、大西洋からウラル山脈まで、最も恐らく、ヨーロッパ-アジアの空間、統一された人道的な空間の全ての領土を含んでいる、大西洋からウラジオストックまでの統一された大ヨーロッパで:この計画は必然です。」
- エドワルド Shervardnadze、ソヴィエト連邦の最後の外務大臣、クリストファー・ストーリーのヨーロピアン・ユニオンの集合体、118ページに引用されました。

9. Prelude to a Problematic: Major Jordan’s Troublesome Diaries
9.問題への序章:ジョーダン少佐の心配な日記


「私達は、私達が持つ全てを、何が何でもあなたと分かち合う決心をしています・・・」
- レンド-リースのコミッショナーで、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の助言者、ハリー・ホプキンスの、1942年6月のマディソン・スクエア・ガーデンにおける、ロシア救済集会の発言¹

碑文はよく、千の言葉の価値がある、ことわざ的な絵の様に機能し、時代全体、そして人間の判断、それらの動機、そしてそれを推進した、求められていなかった成行きのスナップショット(記念写真)を与え、そしてフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の内輪のメンバー(側近)、ハリー・ホプキンスによる上述の碑文も例外では無いのは、1942年の6月において、もし真実が伝えられるなら、連合軍が必死な状況に追い込まれていたためです。ロンメル陸軍元帥のAfrikakorps (ドイツのアフリカ戦略部隊)は、アレクサンドリア、カイロ、そしてスエズ運河の目の前まで迫り、そしてもし、それらが陥落するなら、その石油の生命線を共にした、中東における英国の位置全体が、窮地に追いやられてしまう処でした。

ですがロシアにおいて、状況は更に悪く、エリック・ヴォン・マンステイン上級大将の第11部隊が、その戦争の最大級の大砲の爆撃の下で、セヴァストポルのソヴィエトの要塞都市を月面の風景(クレーター)の様にし、そしてフレデリック・ヴォン・パウルスの第6部隊とヴォン・クレイスト上級大将の第1 Panzerarnee (戦車部隊)が、ウクライナの東方の街、カルコフの南のロシアの第6、そして第57部隊を包囲し、壊滅させたばかりでした。6月の終わりまでに、3つのロシアの部隊は単純に存在から消滅し、そして Wehrmacht (ドイツ国防軍)は、その夏の攻撃を開始し、それがヴォルガ川沿いのスターリングラードの街に向かい、コーカサスへと進軍させた際に、(ソヴィエト)赤軍を慌てて撤退させました。コーカサスの油田が単純に奪われてしまってはならなかったのは、もしそれらが奪われると、ソヴィエト・ロシアは戦争を行えなく成り、そして更に悪ければ、ドイツ軍がペルシャ(イラン)の国境を超えて進軍し、中東における連合軍の位置を完全に錯乱させてしまうためでした。ロシアは踏ん張らなければならず、そうで無ければその戦争は、アメリカが彼女の膨大な資源を活用へともたらす前に、敗北させられてしまいました。

ハリー・ホプキンスと彼の上司、フランクリン・ルーズベルト大統領は、それが起こる事を許してはいけないと決心し、そして成り行き的に、その戦争の実行のためだけで無く、それが終わった、ずっと後のアメリカの安全保障の状態のために、多大な結果を有していました。1942年3月に、ルーズベルトは武器弾薬の分配の優先を概要した命令を発令し、その中で、その他の連合国(主に国家主義中国と大英帝国)のみでは無く、その自国の軍事勢力(米軍)よりも、ソヴィエト連邦に優先権が与えられました。²

その様な優先化は、1942年初頭、そして三国同盟の勢力の「高波(勢い)」の間には意味を成したかも知れませんが、ソヴィエト連邦に対する米国のレンド-リースの補助に拘わっていた、アメリカの軍部の将校達にとって、ソヴィエト連邦が最終的にナチス・ドイツに対して勝利するのが明らかに成った時でも、その援助を緩める気配が無い様に現れ、そしてこれは疑問を浮上させました。

それらの将校達の一人は、第一次世界大戦の退役飛行士、ジョージ・レイシー・ジョーダンで、彼は第二次世界大戦の勃発において、米国陸軍の空軍(当時は陸軍属)において再び志願し、最終的に少佐の階級まで昇進させられました。ジョーダンが、ソヴィエト連邦のレンド-リースの扱いを観測するために特徴的な位置にいたのは、米国からアラスカのアンカレッジへ飛び、その後、ベーリング海峡を超え、ロシアのシベリアへと、そしてその後、モスクワとソヴィエト連邦のその他の地点への物資の輸送を監督していた、モンタナ州のグレート・フォールズにおけるレンド-リース作戦を管理した基地の指揮官だったためです。ジョーダンは故に、それらの航空輸送を行っているロシア人の飛行士達と定期的な接触にあり、そしてそれらの(輸送の)内容を観測するための特有な位置にいました。

A. The Mystery of the Black Suitcases
A. 黒いスーツケースの謎


ジョーダンは直ぐに、ソヴィエト連邦へと輸送される物資の量だけでなく、その内容に疑いを持つ様に成りました。外交的な免除(治外法権)の下で、重い黒い革のスーツケースが持ち出され、加えて物資の箱の幾つかは、私達がこれから発見する様に、実にとても奇妙な物資を含んでいました。³

その問題は、ジョーダンが観測していたものだけでなく、その背後にいたのが誰だったのかなのは、ロシアへと輸送された物資が、どう考えても「通常」では無く、その輸送を許可していた人達もまた普通では無かったためです。最終的にジョーダン少佐はまた、ソヴィエト連邦に対する航空輸送のパイプライン(経路)が米国内へと、多くのロシア人達を輸入している事に気付き、そのロシア人達はグレート・フォールズの基地において、彼等の司令官に報告した後、数日間其処に留まり、その後其処を離れ、再び目撃される事はありませんでした。⁴

あらゆる理性的な人がそうする様に、ジョーダン少佐は直ぐに疑いを持つ様になり;元々の少量のスーツケースの数が、その輸送機の貨物全体を占める黒い特許的な革のスーツケースの膨大な量に成った後、そのロシア人達の説明は、そのスーツケースが単純に、「個人的な荷物」から「外交的な免除」によって許可されている(治外法権が与えられている)と、変わらなければなりませんでした。⁵ 彼の疑心に加わったのは、それぞれの黒いスーツケースが、「白い窓枠のサッシの紐で縛られ、そして赤いワックスで封印されていた」事実でした。⁶

ある機会に、ロシアへの長い飛行を始めるために待機していた輸送機へと、物資と黒いスーツケースが積まれた時に、ジョーダンは彼の階級を利用し、はったりをかまし、その輸送機の中でスーツケースを警護しているロシア人の兵士達を通り越しました。その輸送機に、警護中のアメリカ人兵士を呼びつけ、もしロシア人の警備兵達が、そのスーツケースの彼の調査を邪魔しようと彼等が試みるなら、「射殺許可」の命令を彼(アメリカ人兵士)にジョーダンは与えました。⁷ その後、彼は3つ目毎にそのスーツケースを調べる決断をし、最終的に約18個のスーツケースを調べました。彼の制服のポケットから、未使用の長い封筒を見つけ、ジョーダン少佐はそのスーツケースの内容を走り書きし、それを基にして彼はその後、(報告の)メモを構成しました。⁹ 彼が見つけたものは、連邦の機関の共産主義者の侵入の規模への、戦後の議会的な調査の開始に対して、それ自体の小さな役割を果たしました。

1. The Contents of the Cases in Jordan’s Initial Examination
1.ジョーダンの元々の検証におけるケースの中身


ジョーダンの疑いは、そのケースが地図、鉄道の長さのテーブル、アメリカの産工業的な工場の位置の図表等々を含んでいたので、妥当でした。¹⁰

「それらの内容から判断すると、様々なスーツケースは、機械の道具、石油精製所、溶鉱炉、製鋼所、鉱物採掘所、石炭採掘所、コンクリート等々の題目の下で分類される事が出来ました。その他の入れ物は、海軍と船舶輸送の情報が詰められていました。数百冊の商業的なカタログと、科学的な雑誌がある様でした。」¹¹

これは、しかしながら、ジョーダン少佐の注意を捕らえた全てではありませんでした。

2. The Cropped Margins and a Significant Name
2.切り取られた淵と、ある重要な名前


ジョーダン少佐が検証した、そのスーツケースの中の書類の多くは明らかに、「農業、商業、そして国務省」の様な、連邦政府の様々な省庁と機関の中に起因していました。¹² それらの書類の一つの特徴は、しかしながら、それらが全て

「・・・文章のギリギリまで、白い周りの淵が切り取られていました。これは、重さを軽減するために行われた、または輸送を滞らせたかも知れない、「秘密」、「機密」、または「関係者のみ」の印を削除するため、もしくはその両方だと私は判断しました。」¹³

加えて、ジョーダンが思い出すに、そのそれぞれに対して、国務省の役人達の幾らかの苗字と共に「X から」と言うフレーズを共にした名前のタブがクリップされた「5つか6つの国務省もフォルダー」がまたありました。¹⁴

ジョーダン少佐がコピーしたタグの一つは「ヒスから」と読め、連邦政府の中の安全保障のリスクを発見するための、戦後の努力と共に、殆ど同義語に成った名前でした。¹⁵ ジョーダンは、彼は「アルジャー・ヒスの事は聞いた事が無かったけれど、走り書きをしたのは、彼の名前を記したフォルダーが、偶然その書類の束の二番目で」そしてそのフォルダーが「軍事的な報告書の様に見えた数百のフォトスタッツ(写真/統計)を含んでいたためです」と、記述しました。¹⁶

ジョージ・レイシー・ジョーダン少佐、米国陸軍の空軍
1 jordan2

B. The White House, The A-Bomb, and Famous Names
B. ホワイト・ハウス、原爆、そして有名な名前


ですが、スーツケースの一つは特に啓示的で、深遠に不安にさせられる情報の宝箱で、そして此処において、ジョーダン少佐に、彼自身の言葉で思い起こさせる事が最善でしょう:

「その調査の途中で開かれた一つのスーツケースは、技術開発と科学的な約定以外は何も含まない様に現れました。それらはフォーミュラ、計算方式、そして専門的な擁護に溢れていました。私が今までに見た事の無い書類の一種に私の眼が止まったのは、私がそのケースを閉じ、次に移行しようとしていた時でした。

「その文字は魔術の呪文で:「ワシントンのホワイト・ハウス」でした。ワシントン(州)の海岸線に沿った80エーカーの土地の将来的な所有者として、私は「D.C. (ディストリクト・オブ・コロンビア/1871年の米国株式会社法)」の大文字の威厳ある省略によって印象付けられました。懐中電灯の光の下で、私はこの書類を注意深く検証しました。それは2枚のシートの短いメモで、文章は平行では無く、右斜め上に向かい偏っていました。それが宛てられた名前、「ミコヤン」は、私には親しみが全くありませんでした。(コティコフ大佐に問いただす事によって、後に私は A.I. ミコヤンが、当時のスターリン書記長と外交のコミッサー、モロトフに続く、ロシアの第三の権力者である人だと学びました。彼は国外貿易のコミッサーで、レンド-リースのソヴィエトの責任者でした。)¹⁷

「『親愛なる私の大臣様へ』の挨拶の言葉に、幾つかのお堅い形式的な文章が続きました。2ページ目の一番最初の一行の11文字が、私の封筒の上に、私が走り書きするに十分に、私に印象を与えました。その引用は、この様に述べていました:「- グローヴスからこれらを得るのは、とても困難でした。」

「最後の2つの言葉(from Groves)は、レズリー R. グローヴス少将自身に対して言及していると受け取られるべきではありません。それらが何を意味するのかは、恐らく、「グローヴスの組織から」でしょう。後のマンハッタン計画である、マンハッタン技術開発区域の司令官(グローヴス)は、ロシアに対する彼の嫌悪と疑心のために、ワシントンのヒエラルキー(命令系統)の中でも特に特徴的でした。」

継続する前に、ジョーダン少佐が此処で明言した事を受け止めるために一旦停止するには価値があるのは、彼の明言の明らかな示唆が、最初に、ホワイト・ハウス自体の中の、ルーズベルト政権における高い地位の誰かが、ソヴィエト連邦に対して情報を供給する事において拘わっていて、そして第二に、この情報が、レズリー・グローヴス少将の指揮の下で原子爆弾を産出する、超-秘密裡の計画である、米国の「マンハッタン計画」に関係した何かであったと言う事です。続けると:

「ホワイト・ハウスのメモを見つけた際に、私が最初に行った事は、そのページを裏返して署名を探す事でした。私は、私の封筒の上に「H.H.」と走り書きしました。これは、正確な写し書きでは無かったかも知れません。どんな場合であれ、私の意図は鮮明でした。それは、その現場において、その著者がハリー・ホプキンスであるとする、私の身分確認でした。グレート・フォール(基地)とその他の場所で、ミドルネームの頭文字を排除して「ハリー・ホプキンス」として彼に言及するのは、一般的な習わしでした。」¹⁸

言葉を変えると、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領に最も近い政治的な助言者で、側近であり、個人的な友人でもあるハリー・ホプキンスが、アメリカの原子爆弾計画からの情報を、ソヴィエト連邦の手に受け渡す事において、直接拘わっていました。

フランクリン・ルーズベルト大統領とハリー・ホプキンス
1 FDR Hopkins

その資料が、唯一幾らかの困難さと共に、マンハッタン計画から得られたと言う認めを共にした、ソヴィエト連邦に渡る物資輸送の、顕著で大統領に緊密な助言者の名前を見つける事は、軍事的な士官の関心を刺激するのは当然で、そしてジョーダンも例外ではありませんでした。ハリー・ホプキンスの手紙は、その他2つの書類にクリップでとめられていました:

「一つは分厚い地図でした。広げてみた時、それは、私の両腕を伸ばした程の大きさでした。大きな文字でそれは、私が記録した:「オーク・リッジ、マンハッタン技術開発区域」の題名を記していました。

「もう一つは、報告書のそっくりそのままのコピーで、2、3ページの長さで、オーク・リッジと記名されていました。もしそれに署名があったなら、私はそれを走り書きしませんでした。その最初のページの一番上には:「ハリー・ホプキンス」の名前がゴムの印、またはタイプされ「特別副監督」、または「管理人」の役職によって続かれていました。私は、この特定的なコピーがホプキンス氏のために耳標(限定)されていると理解しました。その報告書の文章の中で、とても不可解な単語の一連に出くわし、私はそれらの意味を調べるためにメモを取りました。それらの中にあったのは「サイクロトロン(イオン加速器)」、「プロトン(陽子)」、そして「デューテロン(重陽子)」でした。それには、「核分裂によるエネルギーの産出」と「飛び散るニュートロン(中性子)を操作するための、5フィートの厚さの鉛と水の壁」の様な、奇妙なフレーズがありました。」¹⁹

直接にはそれを明言していない間、レイミー(ジョーダン?)少佐は、マンハッタン計画に関する情報と資料を、ソヴィエトの大臣、ミコヤンに、ハリー・ホプキンスが(殆どホワイト・ハウスの正式な用紙の上で!)個人的に記しただけでなく、その様な報告書の全ては、慎重に数字が付けられ、そして知られている個人達にのみ流通されたので、ホプキンスのためだけに意図された報告書である、その(マンハッタン)計画に関する、疑う余地無く最重要機密のそのまんまのコピーを、彼が供給した事を示唆していました。

ジョーダンは、国家反逆罪を訴えていて、極度に高い地位における国家反逆罪でした。

1. Hopkins to Jordan: The “Special Shipment”
1.ホプキンスからジョーダンへ:「特別な輸送」


ホプキンスの拘わりの現実性は、1943年4月に、ホプキンスがグレート・フォールズの基地に電話して、ジョーダン少佐に直接の接触を望んだ時に、ジョーダンにとって決定的に成りました。ジョーダンはその対話を思い起こしました:

「『さて、ジョーダン、私には、君に迅速に通して欲しい、特定の化学製品の輸送があるのだ。これはとても特別な物だ、』と彼は述べました。

「私は、『責任者の大佐に確認しましょうか?』と尋ねました。

「ホプキンス氏は、『私は、君がこれを誰とも話さない事を望む。そしてそれは記録されても成らない。それについて大袈裟にせず、内密に、急いで、それを通して送ってほしい。』と命令しました。

「私は、それが到着した時に、どの様に私がその輸送を確認すれば良いのかを尋ねました。彼は一旦、電話口から離れ、そして私には彼の声が聴こえました:『それが届いた時に、ジョーダンはどの様にそれを確認するのだ?』彼は、電話に戻り、こう述べました:『ロシア人の大佐が、君のために代理するだろう。君はこれを通して送り出し、そして絶対に記録を残してはいけない!』」²⁰

その奇妙な電話の会話の後、ジョーダン少佐は、彼のロシア側の反対相手で、レンド-リースの連絡士官、ソヴィエト空軍のキティコフ大佐に、それが一体何についてだったのかを尋ねました。

キティコフは「爆弾の粉」とラベルされたフォルダーを取り出し、1枚のシートを引き出し、そして「一つの記入に対して指を添えました。私の眼が『ウラニウム』と言う単語に出会ったのは、2度目でした。私は繰り返しますが、1943年において、私にとっても、殆どのアメリカ人達にとっても、それは殆ど何も意味せず、意味不明でした。」²¹ それが、ジョーダン少佐にとって意味不明だった間、しかしながら、彼の反対相手、キティコフ大佐と、そしてハリー・ホプキンスにとって、それは明らかに何かを意味していました。その緊急性にも拘らず、その輸送は5週間延期され、最終的に列車によって、グレート・フォールズに到着しました。²²

鉄道と航空便の明細の慎重な検証は、その輸送が終に、1943年6月にモンタナ州のグレート・フォールズにおいて到着した事を確認し、15箱の量でした。²³ 1949年に成ると、「戦時中に、(米)連邦の機関は、1,465パウンド、または3/4トン近くの総合する、ウラニウムの化学製品を、少なくとも3度、ロシアに対して輸送し、」²⁴、その輸送には、当時のアメリカの蓄えのほぼ半分で、そして原子爆弾²⁵ における使用には不可欠な形状の、2.2パウンドの金属化されたウラニウムを含んでいたと記録が明かしたと、ジョーダン少佐は記述します。ジョーダンは、その重要性について、以下の様にコメントします:

「ソヴィエト連邦に対して、1,465パウンドのウラニウムの塩が貢献されたと言う仮定の上で、治金学者達はそれらが、理論上、875パウンドの自然的なウラニウムに濃縮可能と計算し、それは、順を追って、6.25パウンドの核分裂可能な U-235 を産み出します。ですがその後者の4.4パウンド、または約2パウンド少ないものが、原爆の爆発を産出する事が可能です。」²⁶

米国は、言い換えると、ウラニウムと、原爆と関連したその他のものの輸送の、ホプキンスの慎重な仲介を通して、(ジョーダンの数字に基づくと)限界質量のほぼ半分を構成するに十分な金属化(濃縮化?)されたウラニウムを輸送し、そして残りの金属化するために十分な量の生のウラニウムの塩(鉱石?)を供給しました。

ロシアに対する米国のレンド-リースの物資輸送の、慎重で、秘密裡の日記を保ち、ジョーダンは米国がまた数トンのグラファイト(黒鉛)、カドミウム、そしてアルミニウムのチューブ、そして437トン以上のコバルトを輸送した事を発見し²⁷、それらの全ては、勿論、原子力的な研究と原子の反応器(原子炉)の構築において貴重な構成要素で、それは、順を追って、プルトニウムの更にもっと効率的な原爆の燃料を産出するために必要でした。更に悪い事に、核反応器における主要なモデレーター(原子炉の中性子の減速体)の一つで、そして水素爆弾における主要な燃料の一つである、酸化重水素の結晶の輸送もまたありました。²⁸

2. The “Reich of the Black Sun” Thesis
2.「黒い太陽の帝国」のテーゼ


私の以前の著書、黒い太陽のライヒ(帝国):ナチスの秘密裡の兵器と冷戦の連合側の伝説の中で私は、1944年12月において、マンハッタン計画に拘わっていたアメリカの治金学者達の最も有能な予測は、勿論、米国が1945年11月までに、原爆のための十分な金属化(濃縮化?)されたウラニウムを確保出来無かった事で、勿論、1945年8月6日の広島における原爆の使用の随分後でした、と私は指摘しました(i.e. アメリカは、ウラン型の原爆を、広島以前に一度も実験していません。広島に落とされたウラン型の原爆は『ナチス製』です)。その本の中で私は、このための理由の一部は、原爆に対する両方の道のための米国の判断が:ウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾で、その後者は「より安上がり」ですが、米国のウラニウムの備蓄の幾らかが、核反応器(原子炉)において、ニュートロン(中性子)の爆撃(衝突)を通したプルトニウムの人工的な要素への変格(濃縮化)のために、使用される事を必要とします。²⁹  ですが、私達は此処で、その不足のための更にもう一つの理由を有し:(米)連邦政府の様々な省庁の中の誰かが、ソヴィエト連邦への爆弾(原爆)と核反応器(原子炉)の輸送を統制していたと言う事です。³⁰

3. Major Jordan’s Unfruitful Attempt to Warn the U.S. Department of State
3.米国国務省を警告するためのジョーダン少佐の失敗した試み


ジョーダン少佐は、レンド-リースの下で、ソヴィエト連邦のために米国を離れた、彼が観測していた輸送の種類の全てを個人的な日記に記し、アメリカの国内へと輸入され、単純に溶け込んだロシア人達の活動を、2度に渡りそれらの活動について国務省が気付く様に摘発しました。その様な機会の一つ、1944年1月において、彼は、ホワイト・ハウスの隣の、旧国務省の建物(現在の、旧執行事務局の建物)において、レンドーリースのための国務省の連絡の役人、ジョン・ニューボルド・ハザードに会いました。

ハザードの対応は、しかしながら、ジョーダン少佐が予測していたものとは、全く異なったものでした:

「私が報告された後、彼の個人的な事務室から、若い次官が現れました。」

「『ジョーダン少佐、私達は貴方について、そして何故、貴方が此処に来たのかを把握しています。形式的に成り過ぎる士官達は、南洋の何処かの島国に彼等自身を見つける(島流しにされる)と、貴方は理解するべきかも知れないですね。』と彼は始めました。

「当然の怒りと共に私は、国務省がグレート・フォールズにおける違法行為がどれだけ頻繁か、全く理解していないと反論しました。私は、修正、移民、または関税の調査が実質的に全く無いと訴えました。私達に全く記録の無い大勢のロシア人達が、やって来ています。モスクワにおけるアメリカ人の外交員(スパイ)からの軍事的な報告のフォトスタッツ(写真/統計)は、クレムリンに返送されています。秘密裡のデータに満たされた、飛行機一杯のスーツケースが、『外交的な免除(治外法権)』の装いの下で、3週間毎に、調査も無く素通りされています。」

「ですが、私の親愛なる少佐、私達はそれについての全てを知っています。ロシア人達は、我々の知識と同意無しで、何かを行う、またはこの国の国外に何かを送る事は出来ません。彼等は、全てのために、国務省に申し出なければなりません。その(国務)省は何が実際に行われているのかを把握していると、私は貴方に保証しましょう。御機嫌よう、」と私は忠告されました」³¹

私達が次の章の中で発見する様に、国務省は、安全保障の危険性と漏洩への調査の、戦後の議会的な集中に成り、そして連邦の官僚制度の中の人達は、調査を妨害するために、直ぐに暗躍し始めました。ジョーダン少佐が明かした様に、一つの理由は、それらの活動において拘わった人達の、その秘密、そして評判を守るためだったかも知れません。

4. The Affair of the Engraving Plates
4.彫刻された原板の事件


ジョーダンの不満に拘わらず、しかしながら、ソヴィエト連邦への原爆的な機密と物資の内密な輸送は、行われている輸送の唯一の種類ではありませんでした。ジョーダンがまた学んだのは、レンド-リースの輸送に含まれていたのが、戦後の占領下のドイツにおいて印刷される「占領下マルク」のための印刷の原板であった事でした!³² 究極的に、ジョーダンが学んだのは、その原版のための輸送の認可が、更にもう一つの高い階級の、ルーズベルト政権の助言者達、米国財務省のハリー・デクスターと、ルーズベルトの財務大臣、ヘンリー・モーゲンサウ自身から起因していた事です。³³ それらの原版のためのソヴィエト達の関心のための理由は鮮明で、その占領下のマルクは完全に、為替取引可能で、そして故に、ソヴィエト達が、彼等の望むあらゆる金額を単純に印刷可能で、そしてそれらをアメリカのドルと両替出来たためで、彼等は2億5000万ドル(当時の250億円)の規模において、そう行いました。³⁴

C. Aftermath: Enter Richard Nixon
C. その後:リチャード・ニクソンの出現


ジョーダン少佐の主張は、戦後の直後の期間に、アメリカの政治的な左派によって、全体的に非難され、そして丁度、用意周到に、政治的なスペクトルの反対側(右派)によっても非難されました。その様な非難一つは、顕著な国務省の役人、アルジャー・ヒスが、共産党のセル(小体)の一員で、スパイであると言う、ウィティカー・チェバーズとエリザベス・ベントリーの戦後の有名な非難の場面において、戦後の議会の非-アメリカ的な活動の委員会のための特別調査員であり、元 FBI 捜査官のドナルド T. アペルから由来し、そしてその後、その状況の全体における、新人の上院議員、リチャード・ニクソンの拘わりは最終的にヒスが偽証のために起訴され、有罪にされる事に結果しました。アペルは、ジョーダンの「日記」とそれらの主張に関して、その委員会の前で証言しました:

ニクソン氏:あなたの調査は、まず、すると、ジョーダン少佐が少なくとも二度に渡り、グレート・フォールを通った物資の輸送に関して報告した事を表しますね?

アペル氏:はい。

ニクソン氏:私が思い出すに、チェンバース氏は、彼の責任者達が認識するまでに、5度に渡って彼の話を伝えなければならなかったと言う事でした。ですから、明らかに、ジョーダン少佐が二度以上に、彼の話を伝えたならば、彼は、政府がそれについて何らかの対応をする事を可能にしたかも知れません。ですが、それがそうであったとしても、私が認識するに、現在における問題は5つです。

「最も始めに、もし輸送が行われているなら、ジョーダン少佐は、報告をするべきだったと言う非難がされています。これに関して、彼は、少なくとも二度に渡り、報告を行いました。これは正しいですか?

アペル氏;はい。

・・・

ニクソン氏:ジョーダン少佐が主張したもう一つの点は、外交的な免除(治外法権)の下で、特定の書類がグレート・フォールを通り抜け、;彼はそれらの箱を開け、書類を調べる事などを行い、それらは通常、外交的な免除の下として考えられないものでした。

「あなたの証言から、とても鮮明だと私が思うのは、ジョーダン少佐の証言の言葉が立証されると言う事で:それは正しいですか?

アペル氏:ええ、私達は、送られた外交的な手紙と呼ばれるものの一つを準備したロシア人の購入委員会の元雇用者の一人と、目撃証人として私達は接触にあり、そしてそれが産工業と戦争の展開について、高度に秘密裡な素材を含んでいた事を知っています・・・

ニクソン氏:すると、秘密裡の物資が送られているとする、ジョーダン少佐の証言を、少なくとも部分的に協力証言する事が出来るかも知れないこの証言者(ヴィクター A. クラヴチェンコ)を、立ち会わせる事がスタッフ(関係者)の意図ですね?

アペル氏:それは正解です。³⁵

ニクソン氏:ウラニウムの輸送と呼ばれる点について・・・その輸送は行われました。それは正しいですか?

アペル氏:酸化ウラニウムと硝酸ウラニウムの、2度の特定的な輸送、そして重水の輸送が、グレート・フォールからウラニウムと重水を飛行輸送した飛行機の番号さえも含めて、完全の書類化(報告)されています。

ニクソン氏:そして最後の点は、ホプキンス氏が、その輸送を促進させようと試みた問題です。それに対するジョーダン少佐の証言は、当時記述された彼のメモが、彼が調査した物資の一つの上に「H.H.」の頭文字を表していた事でした。あなたの調査は、ホプキンス氏が「H.H.」の頭文字を使用したやり取り(手紙)を見つけなかったと言う事ですね?それは正しいですか?

アペル氏:私達が再検証したものはそうでした。

ニクソン氏:私はそれを理解します。私の主張は、あなたが行えた調査に関して限ると、あなたは未だに、ジョーダン少佐の逸話に対してその点について協力証言出来ていないと言う事で:それは正解ですか?

アペル氏:はい。

ニクソン氏:ですがあなたは、私が述べたその他の4つの点について、協力証言しましたね?

アペル氏:全般的に、そうです。

ニクソン氏:以上です。」³⁶

ジョーダン少佐の主張の大部分は故に、議会の非-アメリカ的な活動委員会自体の調査によって立証されましたが、国務省の注目へとその問題をもたらすためのジョーダンの試みの光の下で、その省自体の彼に対する対応、そしてルーズベルト政権と戦時中の協力の状況の間の、政府の省庁に対する深く普及的な安全保障の危険性と共産主義者の侵入の、戦後のワシントンの周りで匂い始めていたコンテキストと物議の不穏な問いを、これは台頭させました。その題材が爆発するまでに、更に2年かかりました。

ハリー・デクスター・ホワイト
1 99-1317

ヘンリー・モーゲンサウ Jr.
2 morgenthau

ジョーダン少佐の日記の書き出し
_____
1 George Racey Jordan with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries: The Inside Story of Soviet hend-hease—from Washington to Great Falls to Moscow (New York: Harcourt Brace and Company, 1952), p. 19.
2 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s iaries, p.123.
3 Ibid., p. 5.
4 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 66. 「私は彼等(ロシア人達)が、飛行機から飛び降り、フェンスを乗り越えて、タクシーへと走るのを目撃しました。彼等は、彼等が何処に向かっているのか、そしてどの様に其処へ行けば良いのかを、事前に熟知している様でした。それは、戦時中と戦後のために、偽の身分証明書を共にして、この国(米国)の中へとスパイ達を植え付ける理想的な設定でした、」とジョーダンは明言します。
5 Ibid. p. 69.
6 Ibid.
7 Ibid. pp. 74-75.
8 Ibid., p. 75.
9 Ibid., p. 76.
10 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 76.
11 Ibid., p. 77.
12 Ibid., emphasis added.
13 Ibid.
14 Ibid.
15 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 77.
16 Ibid., p. 78.
17 コティコフ大佐は、グレート・フォールズのレンド-リース空軍基地における、ジョーダン少佐のロシア側の反対相手でした。
18 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 78-80.
19 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 80-81.
20 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 93,
emphasis added.
21 Ibid., p. 94.
22 Ibid.
23 Ibid., p. 99.
24 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 95.
25 Ibid.
26 Ibid., p. 114.
27 Ibid., pp. 116-117.
28 Ibid., pp. 111-113.
29 See my Reich of the Black Sun: Nazi Secret Weapons and the Cold War Allied Legend (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2004), pp. 53-55.
30 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, p. 33.
31 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 193-194.
32 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 217-218.
33 Ibid., pp. 222-223, 226-227. モーゲンサウは、勿論、戦後のドイツを非-産工業化して、その人口の大部分を不妊化する、悪名高い計画の発案者で、その計画は、実際に、第一章の中で検証されたマドリッド回覧書の中で言及されました。この計画は、勿論、その戦争の少々後に、アメリカ人達によって廃案にされましたが、2、3カ月の短期間の間、戦後の占領下のドイツのための、公式な連合国の政策に成りました。ナチスは戦時中に、この計画のコピーを取得し、そしてジョセフ・ゲッペルス教授のプロパガンダ省は、その一部をドイツの一般大衆に公表し、故に連合軍が文字通りに、ドイツのライヒ(帝国)と人々を全滅させようと意図しているとする、ナチスの主張を強調し、そしてその戦争の最後の数か月においてドイツ人達の抵抗を頑なにしました。その計画は最終的に、戦後の地政学的な現実性の光の下、そして実際にマドリッド回覧書が、それらの計画を打倒する事におけるそのアメリカ側の協力者達として言及するダレス兄弟、そしてアメリカ人の高等弁務官で弁護士のジョン J. マクロイによって体現された、親-ドイツ(ナチス)のアメリカ側の事業-金融複合体の下の両方で、頓挫させられました。
34 Ibid., pp. 229-230.
35 議会の非-アメリカ的な活動委員会の前におけるクラフチェンコの証言は、ジョーダンの本の257-267ページの上に納められています。
36 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 7-9.
37 George Racey Jordan, with Richard L. Stokes, From Major Jordan’s Diaries, pp. 82-83. ジョーダンの本の中に記述されたそれらのページ上の文章はこう読めます:「常に、丁度50個の黒いスーツケースが - 通常、3週間おきに、2、3名の運び屋達を共にして運ばれました。書類は常にギリギリまで切り取られていました。四足の動物の本。タスのフォルダー-Amtorg-パナマ運河委員会の地図-セイヤー & ヒス & その他からのオーク・リッジのメモ-「機密」が切り取られた国務省の手紙-写真-報告書-機械の道具、電気的な道具 & コンクリートのデータ-溶鉱炉についての大きなフォルダー-『グローヴスからそれらを手に入れるのに凄い手間がかかった』事についての H.H. からのホワイト・ハウスのメモ-爆弾の粉-ドネッツ-デュバン-シベリアの開発-原油の機械の地図-高炉-州、農業、商業からのメモ-マクグラウ-ヒル-アイアン・エイジからの数千のカタログと冗談無しの様に見える科学的なデータ-船舶輸送のデータの凄まじいフォルダーでした。
「アバディーン・プルーヴィング・グラウンズのスーツケースのもう一つの積み荷は-メキシコ・シテイー、ブエノス・アイレス、キューバからのフォルダー-ロマキンからの封印された封筒-奇妙に印された米国の自動車会社の地図-炭鉱、鉄工所、人々の長いリスト-ロシアのための特別なフォルダーでした・・・
「オーク・リッジ-マンハッタン技術開発部門、または区域と題されたメモ & 地図上の単語を調べると、私が考えるにそれは-ウラニウム92-ニュートロン-プロトン、そしてデューテロンの-アイソトープ(同位体)の-核分裂、または分離によって産出されたエネルギーで-サイクロトロンを調べると-飛び散るニュートロンを制御するための5フィート厚さの鉛と水の壁の設計書でした。重水の水素、または重水素でした。」


10. An Interlude to Ponder the Problematic: A Secret Attendance at a Quiet Funeral
10.その問題を考えるための幕間:静かな葬式における秘密裡の出席


「・・・一人目(ボビー・ケネディー)を英雄化し、二人目(マッカーシー)を悪党化する歴史家達は、この有りえない内輪を正当化するために、さらに難しい問題を有しています。」
- M. スタントン・エヴァンズ¹

1957年5月7日、南ダコタ州のスー・フォールズにおいて、この筆者が産まれたほぼ4カ月後(その関係性が最終的に明らかに成る事実)、ウィスコンシン州のアップルトンのフォックス川を見晴らす絶壁に上において、ある若い男が、、より年配の男の静かな埋葬の葬式に出席しました。その出来事は、その関わった2人の男達の有名な名前の事実以外は、日常的な出来事で、最も胆略的な死亡記事以外において、誰にも気づかれず、過言され無かったものでした。実際に、その葬式に出席する事における、その若い男の事前注意はとても秘密裡で、それは幾分か時間が経つまで一般的な知識には成ら無かったのは、実際に、その若い男が、富と権力に対して人脈を持ち、権力の優秀な新人で、彼自身が実際に、アメリカの政治的な左派の希望の星で、それ以前のたった3年の短い年月に、アメリカの政治的な右派の権力だった男であった、その年配の男の静かなる埋葬の葬式に出席するために、秘密裡に(飛行機で)飛行しました。更に加えて、死におけるそれぞれの男達にまつわる伝説は(その年配の男の埋葬に、秘密裡に出席した、その若い方の男もまた、いまはもう死んでいるので)、一般的な意識無知)に対して少数のゲートキーパー(御用学者)達と思想警察が植え付けようと試みた歴史的な仮定(一般論/無知)に対する象徴的な挑戦なのは、その若い男が政治的な左派と右派の両方の多くによって、ある意味、最も高い道徳と希望の純粋な英雄として見解される間、彼が秘密裡に出席した葬儀の、そのより年配な男は、殆ど統一的に、政治的な左派と右派の両方によって、彼の非道徳的な権力の追求において、その全てが、彼が無尽に使用した汚いトリックの極悪な袋(手法)であり、最もどす黒く、そして最も無節操な卑怯者で、言いがかりと証拠の無い主張と、台無しにされた人生の黒い天使として誹謗された人でした。

そのより年配の男(マッカーシー)は米国上院議会の共和党議員で、そして、そのより若い方の男(ボビー・ケネディ-)は、その後、3年も経たない内に、米国の民主党の司法長官に成り、そしてその後、彼自身が米国の上院議員に成り、その若い方の男は、その年配の男の米国上院議会の委員会の補佐委員だったロバート(ボビー)F. ケネディー以外の何者でも無く、そしてそのより年配の男が、ウィスコンシン州からの悪名高い上院議員で、マッカーシーイズム(赤狩り)で有名な、ジョセフ R. マッカーシー以外の何者でも無かったためです。

私達が此処で詳しく参考にする、マッカーシー時代全体の近年における、歴史の詳しい詳細を記述した著者、M. スタントン・エヴァンズは、この人物の奇妙さと、歴史編集のためにそれが体現する難しさについてこう述べました:

「一方で、ジョン・ケネディーと彼の弟、ロバート(ボビー)の一般的なイメージと、もう一方で、ジョー(ジョセフ)・マッカーシーの印象を与えられると、これは、政治的な歴史において最も奇妙な連合の一つでした。ケネディー兄弟以上に、好意的で歴史的な報道をされた政治家達は殆ど存在せず、そしてジョー・マッカーシーよりも最悪な報道をされた人は誰もいませんでした。

「評判におけるそれらの違いにも拘らず、マッカーシーとケネディー兄弟の間の親密な関係は頑なで、故にケネディーの名前を崇拝し、マッカーシーの名前に対して発作的に非難する歴史家(御用学者)達の恥部です。1950年のマッカーシーの登場の前に、若い議員として実際に、ジャック(ジョン)・ケネディーは、反-共産主義者の強硬派のリストに載り、マッカーシー自身が非難出来ない程、オーウェン・ラティモアー、ジョン K. フェアバンク、(太平洋外交インスティチュート/CFR の太平洋版)、そして中国におけるアッチェソン政策を非難しました。

「ジョン・ケネディーの若い弟、ロバート(ボビー)は、更にもっとマッカーシーの見解に同調的で - ロバートが学生だった時に、ヴァージニア法律大学において演説する様に、その上院議員(マッカーシー)を招待し、卒業後には、マッカーシーのために働き、そして彼の長女(その後のマリーランド州の副知事、キャサリーン・ケネディー・タウンゼント)のゴッドファーザー(教父)に成る様に求めました。ボビーはマッカーシーに対してとても忠実だったので、著名な CBS(テレビ局)のアナウンサー、エドワード R. モローが、マッカーシーを激しく攻撃した発言をした際に、若いケネディーの弟は、抗議として(スタジオから)退出する程でした。

「もし、若いロバート・ケネディー(当時、27歳)が、彼と彼の父(ジョー・ケネディー)が強く望んだ様に、新たな委員会の議長、ジョー・マッカーシーの主任法律顧問に成っていたら、何が起こっていただろうと頭は混乱します。ケネディー自身の政治的なキャリアも、全く異なったものに成っていたでしょう。そして最初の人(ボビー・ケネディー)を崇拝し、2番目の人(マッカーシー)を悪役化する歴史家達は、彼等を前にして、この有り得ない様な内輪を説明する事において、更にもっと難しい仕事を有するでしょう。」²

その一人が、もう一方の葬式に出席するなど、意外な政治的象徴で、極少数の人達しか尋ねず、更により少ない人達が答える、不穏で明らかな問いを浮上させ:もし、全く何も証拠が無いのに、ウィスコンシン州からの上院議員が、それだけ長い間に渡って、共産党との彼等の拘わり、または活動について根拠の無い非難を、上院議会の委員会の公の公聴会において、人々の人生を誹謗中傷し、大無しにし、民主党と共和党の両方の大統領政権に対して終わり知らずな悲痛を与え続けられたのは、一体どうしてだったのでしょう?もし(根拠が)何も無かったのなら、その大騒ぎの全ては何故だったのでしょう?そして何故、一人のケネディーが、それ程長くそれに拘わったのでしょう?

この奇怪で政治的なケネディー-マッカーシーの関係の奇妙さは、人が当時とその人(マッカーシー)の基準的な「歴史編集」を考えた時に極度に拡大され、それは、再び、スタントン・エヴァンズによって相応しくまとめられます。「その逸話の基準的なヴァージョンにおいて」、彼はこう記します:

「・・・1950年2月における虚偽的な演説の一連と共に、マッカーシーは彼の不吉な反-赤(共産主義者)の聖戦を始め、その後、その次の月に始まったミラード・タイディングス上院議員(民主、マリーランド州)によって議長が成された上院議会の公聴会において、それら(赤狩り)を拡張させました。マッカーシーの非難の本質は、国務省(そして米国政府のその他の機関)が、ソヴィエトの工作員達、共産党の会員達、そして彼等の仲間の旅人(亡命/移民)達によって侵入され、そしてこの危険性に対して防衛しているはずの役人達が、まず最初に、それが起こる事を許し、その後、その事実について隠蔽したと言うものでした。

「それらの早期の演説の中で、マッカーシーは、共産主義者達と安全保障における容疑者達のリストを、侵入の問題の例として読み上げ - 殆どは匿名でしたが、幾らかは名指しされました。それらの明言は、その国全体を通して、タイディングスのパネルの前、報道機関、そして一般大衆のフォーラムにおいて、激しい議論の引き金を引きました。マッカーシーの非難は、トゥルーマン大統領、その他の著名な政治家達、国務省、メディアのご意見番達、学者達、市民運動の指導者達、そして批評者達の多大な数によって、酷過ぎる嘘であると非難されました。

「この最初の騒動の終わりにおいて、マッカーシーの非難は、全く根も葉も無いと証明されたと、私達は伝えられました。タイディングスによって伝達された関連データは、数多くのその他によって反復されたので、マッカーシーによる転覆の非難は間違いだっただけでなく、始めから終わりまで、彼がその他全てについて嘘をついたと表しました。彼は共産主義者達、または忠義心の容疑者達の「リスト」を全く有せず、彼の数字と彼の逸話のその他の要素を一貫的に変更し、彼が主張した様な内通者の情報源など持っておらず、そして上院議会とその国を騙しただけだとされました。その物事の全体が「詐欺で、でっち上げ」で、国務省への大規模な共産主義者の侵入は、恐怖を煽るノンセンスで、アメリカの人々は安心出来るとされました。

「その一般的な扱いにおいて、マッカーシーの戦いのこの開始は、その後に続いた全てのための型板(テンプレート)でした。この最初の論議において評判を悪くされましたが、彼は単純に、更に乱暴な非難を行い、その他の被害者達を誹謗中傷し、そして更にもっと騒動を広げる事によって突き進みました。その暴走は、1954年の陸軍-マッカーシーの公聴会まで衰えず、そしてその数か月後に、彼の同僚達の公式な行動において彼が強く非難されるまで続きました。それらの最終的な争いにおいて、マッカーシーは終に失墜させられ、彼自身のやり過ぎによって破壊させられました。ジョー・マッカーシーの気の狂ったキャリアはその様なもので、彼のみじめな終わりもその様なもので、そして彼を惜しむ人は誰もいませんでした。」³

ですがもし、出来事のこの基準的なヴァージョンの全てが真実で、そして1954年までによく知られていたなら、するとそれはジョンとロバート・ケネディー、特にその後者が、マッカーシーの狂気的で、ソシオパス的な、狂ったキャリアの「証拠」の全てにも拘らず、彼がマッカーシーの葬儀に秘密裡に出席したので、むしろ(ケネディー兄弟の)評判の上に悪く反映します。そして、上述された様に、出来事のこのヴァージンはまた、更に刺々しい問いを浮上させ:もしそれが、始めから終わりまで全て、根拠の無い嘘であったなら、実質的に国家規模の権力の土台が無い、米国の上院議会における、たった一人の上院議員が、それ程長くそれを継続する事を行えたのでしょう?もしそれに対して全く根拠が無く、そしてその全てが詐欺であり、でっち上げなら、何故その様な大騒動に成ったのでしょう?

その人と、その時代の「基準的な歴史編集」をより詳細に熟考すると、更にもう一つの問いが派生し:もしその人と、彼の主張に全く根拠が無かったのなら、何故、彼の政治的な反対相手は、それ程乏しく映ったのでしょう?エヴァンズは、アメリカの政治のその後に続いた10年半における最も著名な人物達が、「マッカーシー時代のるつぼ」と呼ばれるかも知れないものにおいて、彼等のキャリアを始めたと観測する事によって、この見逃された点に対して注意を引き:マッカーシーの政敵、タイディングス上院議員、ルーカス、そして上院議会の民主党の指導者マクファーランドは、マッカーシーの仲間、イリノイ州のエヴェレット・ダークセン、そしてタイディングスのマリーランド州のジョン・バトラーによって選挙に負け、その間、アリゾナ州のマクファーランドは、若いバリー・ゴールドウォーターに負け⁴、そして若いジャック(ジョン)ケネディーに対して、ヘンリー・カボット・ロッジのために選挙応援するための共和党の要請をマッカーシーが拒否したために、マサチューセッツ州における選挙で、ケネディーがロッジを負かし当選しました、と観測します。⁵

ロバート F. ケネディーとジョセフ・マッカーシー上院議員、そして知られざる第三の男性の、米国ニュースと世界報告の写真
1 rfk-mccarthy

左から右へ:彼の左手に彼の頭を置くバリー・ゴールドウォーター上院議員(共和、アリゾナ)、カメラに対して彼の背を向け、テーブルの上に座っているロバート F. ケネディー、眼鏡をつけて座っているジョン・マクレラン上院議員(民主、アーキンソウ)、彼の右腕をマクレランの椅子の後ろに置く、眼鏡をつけたジョセフ・マッカーシー上院議員(共和、ウィスコンシン)、マッカーシー上院議員に向かって前のめりの姿勢の、髪の毛の薄い人、カール・マンドット上院議員(共和、南ダコタ)、そして彼の背中をカメラに向け、前のめりの姿勢の、マサチューセッツからの若い上院議員、ジョン F. ケネディー
2 50405374

2人のケネディー兄弟とマッカーシー上院議員のこの奇怪で政治的な構図の奇妙さは、その内の2人がそれぞれの場合において陰謀を強く示唆する状況の下で、暗殺者達の弾丸に倒れ、そしてそのもう一人が、私達自身の現在まで永続する、政治的で、個人的な悪党化と(人格)暗殺の長期的なキャンペーンの被害者であり、その悪党化は「マッカーシーイズム(赤狩り)」についての上述の引用において、スタントン・エヴァンズによって検証された、あからさまな教科書の一般論が、詳細を明かすために解きほどかれた時、意図的な陰謀と、継続的で、政治的なスピン(扇動/プロパガンダ)の要素をまた示唆し、その3人の男達の全ての最終的な運命を人が考えた時、更にそう(奇怪に)なります。その問いは、何故だろう?です。

あたかもこの全てが、基準的な一般論を強く信じる人達を納得させるために十分では無いかの如く、考えるべき更なる詳細が幾つかあります。

CBS のクイズ番組、私の台詞は何?に彼が出演した時の、その上院議員の少々鼻づまりな声を覚えている - この筆者が子供だった時 - マンドット上院議員は未だに米国の上院議員として健在でした。実際に、マンドットは、その事実を暗記する能力において、マッカーシーに匹敵する人で - 陸軍-マッカーシーの上院議会の問題特別委員会の議長を務め、マッカーシーの上院議会の政府機能委員会に奉仕した事において、マッカーシーの逸話に対して重要な人物でした。ですが、マンドットはもう一つの奇妙な特徴を有し:彼はマッカーシーの上院議会の譴責(けんせき)決議案に反対して投票した、たった22人の米国上院議員達の内の1人でした。その対策について投票しなかった唯一の民主党の上院議員は、奇妙にも、そして都合が良い事に、マサチューセッツの民主党議員、ジョン F. ケネディーでした。その理由は?当時、ケネディー上院議員は、背中を手術して、病院に入院していたためでした。

ウィスコンシン州からの、その悪名高い上院議員とのケネディーの関係は、一晩の内に単純に静かに消滅しませんでした。CBS のアナウンサー、エドワード・モローの、マッカーシーの取り扱いに対するロバート・ケネディーの「退出」はよく知られています。注目すべきは、この出来事が、マッカーシーが政治的に失墜させられ、上院議会によって譴責(けんせき)された後の、1955年において起こった事です。殆ど知られていませんが、同等に重要なのは、その3年前に、ハーヴァード大学のもよおしの際に、その上院議員(マッカーシー)が攻撃された時の、ジョン・ケネディーの退席で、1954年における譴責決議の投票からの彼の辞退と共に、JFK が少々の誤魔化しを行う原因に成った事です:

「JFK のマッカーシーに対する親近感は、ボビー程ではありませんでしたが、彼はそれでもその3年前に、ハーヴァード大学のスプリー・クラブの夕食会の100周年記念において、マッカーシーに類似した演説を行わせる位は、十分に信頼していました。その夕食会の出席者で、後にケネディー政権において働いたロバート・アーモリーは、一人の演説者が、マッカーシーを、有罪にされたソヴィエトのスパイ、アルジャー・ヒスに比較した時に、JFK が席を立ち、「偉大なアメリカ人の愛国主義者の名前を、売国奴の名前にと比べるとは、あなたはどれだけずうずうしいのだ!」と非難し、そして室外に退席したと、JFK 図書館における口述の歴史において思い起こしました。その出来事は、其処にいた誰にも全く否定されておらず、JFK の伝記の著者達、ヘルベルト・パーメット、トマス・リーヴス、そしてクリス・マヒューズによって認められています。

・・・

「2年の後に、マッカーシーに対する援護が崩壊し、そして上院議会が譴責の採決をした時、JFK は背中の手術から回復中で、その投票からは欠席しました。彼は、表向きの記録のために彼の考えを簡単に宣言する事が出来たのに、マッカーシーに対する譴責のための賛成を公に宣言しなかった、唯一の民主党の上院議員でした。そうであれ、彼は、テッド・ソーレンソンに、とても狭い土台の上で、譴責のための賛成の明言の下書きを書かせ、その中において、シュレシンガーとリーヴスが記述した様に、市民の自由(市民権)には全く触れず、そしてマッカーシーによるロイ・コーンの雇用に強く関係するものでした。JFK は、マッカーシーの活動が、国外におけるアメリカの印象を傷付けたとする、その譴責採決の主張から、彼自身に素早く距離を取らせ、そしてまた、彼が、マッカーシーと彼の目的に対して、長い間補佐を与えた事を強調しました。

「『この問題には、ウィスコンシン州からのその上院議員の動機も、切実さのどちらも関係ありません。私は何度も、彼の委員会のため、共産主義者達と貿易している国々に対して、私達の援助を削減させるための、彼の法案のため、そしてその他の問題のために、マッカーシー上院議員と(同意して)投票してきました。私は、共産主義者の転覆行為に対する彼の調査を終わらせる事も、それらの調査の望ましさ、または継続の両方に関連した論議中の対策(譴責)も、求めませんでした。』

「JFK は、この明言を、彼の病院のベッドの上から簡単に発言する事が出来ましたが、最終的に、彼は、彼自身にそれを行わせる事が出来ませんでした。1971年において、テッド・ソーレンソンは、JFK が意図的にその問題について避けたと、彼が感じたと認めました。そして JFK は、彼のもう一人の友人、チャールズ・スパルディングに、彼の退院の直前にそれを認めました。以下は JFK が述べた事の、スパルディングの記憶です。

「『君も解る様に、私が階を降りた時に、何が起こるかを私は正確に把握している。多くのレポーター達が私のストレッチャー(移動式ベッド)に詰め寄るだろう。多大に心配そうな95人位の顔が、私の上に詰め寄り、そしてそれらの人達の全員が、「さて、上院議員、マッカーシーについて、どうお考えでしょう?」と聞くだろう。君は、私がどうすると思う?私は、私の背中に手を伸ばし、そして私は単純に「おおっ」と叫び、そしてその後私はシーツを私の頭に被せ、そして私達が其処から抜け出せる事を祈るだけだ。』

「マッカーシーの譴責を補佐する公の明言を、JFK は1956年に成るまで行わず、そしてそうであってもそれは唯一、彼の政治的な未来がそれを必要としていたためでした。『私の父でさえも、今はマッカーシーに反対している。そしてもし彼(父)がそうなら、マッカーシーには誰も残っていない、』と、彼はプライヴェートで述べました。

「JFK の事実上の反-マッカーシーイズムへの転換は、その政党のリベラル派に好印象を与えませんでした。そのリベラル派の愛された象徴、エレノア・ルーズベルトは、マッカーシーに対して立ち上がらなかったために、1956年における民主党集会において JFK を公に叱りつけ、そして1958年におけるルック・マガジンのためのインタヴューにおいて、JFK に対する彼女の不信を繰り返しました。JFK とマッカーシーの関係の長引くイメージは、1960年において JFK が左派から挑戦されたもう一つの理由でした。

「JFK は、後の歳月においてマッカーシーとの関係を後悔したかも知れませんが、1954年以前の重要な年月の間に、JFK を進歩的な主唱者で、マッカーシーとは全く親密では無く、同情者でも無かったとする主張は、JFK 自身の言葉と行動に、全く矛盾します。ニクソンとの友情と同様に、その確認は、噂を広めている保守派からでは無く、JFK 自身の友人達から由来します。」⁶

この全てによって浮上させられた疑問は繰り返されるべきで:もしその上院議員の「基準的な見解」と彼の活動が真実なら、何故、マッカーシーはそれ程長く存続する事が出来たのでしょう?そして何故、ケネディー兄弟が関わっていただけでなく、ロバートの場合、その真っただ中にいたのでしょう?

その答えは、衝撃的かも知れませんが、その基準的な見解自体が、それ自体の慎重に造りだされ、保存されたマッカーシーイズムの欠片で、それ以来、権力の地位にある者達によって、慎重に保たれたもので、実際に起こった事と、そして何故それが起こったのかには殆ど関係が無く、むしろ、JFK の暗殺において実際に起こった事として、アメリカの政府の執行部によって未だに保たれている、ウォーレン(委員会)の報告書の様なものです。ですがそれは、順を追って、もう一つの不穏な問いを派生させ:これは、戦後の国際ファシストとそのカルテルの様な活動に、一体どの様な関係があるのでしょう?私達が発見する様に、ウィスコンシンからのその悪名高い上院議員は、彼、または彼の調査人達、もしくは彼の情報源達が、存在すると想像さえ出来なかった、特定の真実に近づき過ぎたのかも知れません。此処において、通常通り、推理のための悪魔の様な可能性は、詳細の中にあります。

A. Wheeling, West Virginia: The Beginning
A. 西ヴァージニア州、ウィーリング:その始まり
1. The Numbers Wrangle
1.数字が矛盾する


1950年2月において、マッカーシー上院議員を、共和党のための演説と遊説の旅に彼を連れて行く飛行機に、彼が乗っていなかったなら、1950年代の初頭の歴史と、それ以後のアメリカの歴史は、大々的に異なっていたかも知れません。その旅は、マッカーシーをワシントン D.C. へと戻らせる前に、彼を、西ヴァージニアのウィーリングからコロラドへ、そしてネヴァダのリノへと連れて行きました。彼の旅の後に、彼がその国家的な首都に着陸した後でさえ、彼を出迎えるための、新聞、ラジオ、またはテレビのレポーター達の姿は全くありませんでした。彼が述べた事が、その国を通して衝撃を走らせるまでに数日かかりましたが、それがそうした後、1950年2月9日の木曜日に、彼の最初の訪問である、西ヴァージニアのウィーリングにおいて行われた演説の中で、彼が実際に何を述べたのかについての物議が既にありました。マッカーシーは一貫的に、彼が一つの事を述べたと主張し、そして彼の中傷者達は一貫的に、彼がもう一つの事を述べたと主張しました。彼の中傷者達が一貫的に述べた事は、基準的な話し(通説)に成りましたが、記録は、実際に、その出来事のマッカーシーのヴァージョンが現実であった事を示唆します。ですがその現実が何であったにせよ、その時代の研究者達の全ては、そのウィーリングの演説が「マッカーシー時代の全体を開始した」もので⁷、そしてアメリカの中西部からの、比較的に無名な上院議員を、国家的で政治的な人物へと変格したものだったと同意します。

その設定が、政党の遊説演説のこの種のために、それ以上典型的である事が出来なかったのは、ウィーリングの MacClure ホテルにおいて、リンカーン記念日に、西ヴァージニアのオハイオ郡の共和党女性クラブの前でマッカーシーが演説する事だったためです。恐らく人々は - その訪問している上院議員の2つの専門分野である - 住宅法と反砂糖配給制度についての演説を期待していた、または恐らく、「正直なエーブ(エイブラハム)」リンカーンと共和党の設立についての、ありきたりな演説を予想していたのかも知れませんと、スタントン・エヴァンズは皮肉を言います。⁸

人々が受け取ったものは、しかしながら、とても異なった何かで、そしてそれと共に、そのサーガ(物語)が始まりました。彼の演説の中でマッカーシーは、300人程度の彼の観客達に対して、「国務省における、共産主義者の侵入の重大な問題があり、これは相応しく対処されておらず、そしてそれを正すために強い対策が必用とされている」と伝えました。⁹ マッカーシーは、彼自身がそれらの件を調査したとは全く主張しておらず;むしろ、彼の演説の要点の全体は、知られている安全保障上の問題があり、そしてそれらは相応しく対処されなければならないと言う事だった事に着目するのは重要です。

その演説は、確かに彼の観客達の背筋を伸ばさせ、注目させた間、地元のラジオ局によって唯一報道され、その翌日には、地元の新聞、ウィーリング・インテリジェンサーの記者、フランク・デズモンドの記事を共にして現れただけで、国家的な大メディアの注意を直ぐには引き寄せませんでした。¹⁰ 彼の記事の中でデズモンドは、国務省において未だに雇用されている共産党の党員達、205名の人達のリストを彼が持っていて、それは国務長官によって知られていると主張したと、マッカーシーを引用しました。その上院議員は、しかしながら、「常に、特定的に、彼がこれを言った事を否定し、」¹¹ そして彼が明言したのは、共産党の「党員のカード(証明書)を持っている」か、その党に忠実な人達のリストを持っている事だと主張しました。¹²

故に、マッカーシー、彼の支持者達、そして彼の政敵達の間の「数字(人数)の矛盾」が始まり、今日まで続く言い争いで、その数字の問題は(国務省の内部に、知られている安全保障上の危険があり、未だに雇用されていると言う)彼の主張の実質には実際には関係ありませんが、その数字の問題は、彼の信頼度と誠実さ、そして彼の批評者達の信頼度と誠実さに影響したと着目するのは妥当でしょう。¹³ マッカーシーが、ネヴァダのリノにおける彼の遊説の最後の訪問に到着した時に成ると、しかしながら、国務省は記者会見を行う事によって対応し、そして徐々にですが、その上院議員が実際に明言した事は、国家的な注目を浴び始める様に成りました。¹⁴

その後、引き続き、国務省と、マッカーシーの上院議会の政敵、ウイリアム・ベントン(民主、コネチカット)と、タイディングス委員会と、そのウィスコンシンの新人(マッカーシー)を脱線させ様とする試みの議長を務めたミラード・タイディングスは、マッカーシーが、彼の演説の中で彼が引用した数字について、虚偽をしたと言う証明において、5つの状況証拠を産出しました。最初の証拠は、勿論、西ヴァージニアのウィーリングにおける、フランク・デズモンドの、205名と言う数字を引用した記事でした。二番目の証拠は、その新聞の役員、オースティン・ウッド大佐からの証言の手紙で、「多かれ少なかれ、デズモンドの逸話のために協力証言しました。」¹⁵ 三番目、四番目、そして五番目の証拠は、地元のウィーリング・ラジオ局の2人の局員 - ポール・マイヤーズとジェームズ・ウィタカーからの - 証言で、彼等は、彼等がマッカーシーの演説の、大まかな下書きに対して、彼が実際に行った演説を比較したと主張し、そしてその演説が実際に205と言う数字を与えたのは、マッカーシーを非難している最後の証拠がその演説自体の大まかな下書きで、それは実際に205と言う数字を与え、マイヤーズとウィタカーが、マッカーシーは、その文章から一字一句、彼の演説を読んだと主張したので、重要な点でした。¹⁶

マッカーシーの虚偽の非難の中心にあったのは、故に、その演説の彼自身の大まかな下書きで、私達が直ぐに目撃する様に、重要な点です。マッカーシーが嘘をつき、彼自身が偽誓し、事実後に彼の話を変えたと非難し、マッカーシーを上院議会から追放するために(!)、ウイリアム・ベントンが上院議会において直ぐに訴え様とする原因と成ったのは、マッカーシーの演説の大まかな下書きにおける205と言う数字のこの明らかな現れに加えて、マッカーシーがその数字を決して述べておらず、代わりに57と言う数字を使用したと言う、彼自身の強調でした。¹⁷ その訴えは、ガイ・ジレット(民主、アイオワ)によって議長が務められた委員会の前にもたらされ、それは直ぐにその問題の真実を判断するために、調査員達をウィーリングへと送り込みました。¹⁸

現代的な政治との比較において、単なる数字的な食い違いが、米国の上院議会からその一員を追放する運動にすぐさまなったのは、驚きかも知れません。結局の処、マッカーシーは、30,000通を超える E-メールを削除した(ヒラリー・クリントン)でも無く、オーヴァル・オフィス(大統領オフィス)における秘密裡の録音テープにおける、18分のギャップ(空間)が、ディクタフォーン(録音機)のフット・ペダル(スイッチ)の、単なる秘書的な誤操作と(リチャード・ニクソン)と、彼が主張していたわけでもありませんでした。ですから何故、上院議会から彼を追放しようとする突然の痛烈な批判が起こったのでしょう?その様な行動は、何かを隠すために必死な人達に、より相応しいものでしょう。ですが、もしそうだったなら、それは何だったのでしょう?

少々更に詳細を掘り下げて、ジレット委員会の調査人達は、マッカーシーの大まかな下書き、デズモンドの新聞の記事、そして「マイヤーズ-ウィタカーの宣誓供述書」について、「幾つかの興味深い物事」を発見しました。¹⁹ まず初めに、デズモンドは、その委員会の調査人達に、マッカーシーの大まかな下書きから取り上げられた205と言う数字は、McClure ホテルにおいてマッカーシーが演説を行った時に、実際に明言されたものでは無いと伝えました。彼はその演説の大まかな下書きを、明らかにマッカーシー自身からそれを得た、地元のラジオ局から入手しました。(少なくともベントンとタイディングス、そしてその仲間達にとって)更に悪い事に、マイヤーズとウィタカーは、マッカーシーが、彼の演説の一部だけを読み、その他の部分は、舞台の上で自由に歩きながら、アドリブしたと、ジレット委員会に伝えた事でした。

更に悪い事に、その大まかな下書きは全く異なった本質の、とてつもない数字的な間違いを幾つか含み、つまり、ソヴィエト連邦の人口を「800億人」とリストし、そして自由世界(西洋)の人口をたった「500万人」としました。²⁰ その宣誓供述書が鮮明に、マッカーシーは彼の演説の全体を一字一句読んだと明言していたので、これが重大な問題(矛盾)を体現したのは、マッカーシーが「それ程、大胆な事を述べていた」と、思い出す事の出来る人が誰もおらず²¹、そしてこれが、エヴァンズによってでさえ見逃された、更なるもう一つの問いを体現したのは:何故、マッカーシーが、その様な数字を引用し、その様な演説を構成したのか?と言う事です。彼は、結局の処、馬鹿では無く、マーケット大学法律学校の卒業生で、ほぼ完璧な記憶力の持ち主という評判が高く²²、そして彼は、彼の委員会の公聴会の一つの間に、ロシア人の証言者に質問を尋ねるために、十分なロシア語を学びさえした人でした。²³ ですからどの様にして、その様な馬鹿げた数字が、彼の演説の中へと、それらの道を見つけたのでしょう?この問いに対する答えが何であれ、その大まかな下書きの中のそれらの存在は、マッカーシーが彼の演説を一字一句読んだと言う主張に矛盾します。

2. Disconcerting Eyewitnesses
2.狼狽させられた目撃者達


ジレット委員会の調査人達は、その大まかな下書きの歴史を再構築するにおいて、マッカーシーがその空港に到着した際に、レポーター、デズモンドに彼が供給した大まかな下書きが、彼が実際に行った演説では無いと、マッカーシーがウィーリング・インテリジェンサー紙の編集長、ハーマン Gieske に伝えていた事を発見しました。²⁴ 目撃証人、ウイリアム・キャラハンは、その上院議員(マッカーシー)が2つの数字を使用し、その大きい方の数字は205で、そしてまた、使用された、より小さい方の数字が57だったと言うのが彼のはっきりとした印象だと、その委員会の調査人達に伝えました。同様に、その当日、観客の中の一人だったエヴァ・インガーソルは、調査されていたのが205名の人達で、この数字の内の57人が共産党員だったと、はっきりと明言しました。それらの数字について、どうして彼女がはっきりと明言出来るのかを尋ねられた時、インガーソル婦人は、マッカーシーがそれを明言した時に、彼女がとても驚かされたために、彼女が電話代の請求書の上に、その数字の両方を書き留めたためだと証言しました。²⁵

マッカーシーを上院議会から追放するための、ベントン(委員会)の努力のために、更にもう一つの重大な問題が表面化し、これは、その新聞にデズモンドの記事が現れた翌日の、1950年2月11日の、その新聞の上に現れた社説を構成した、インテリジェンサー紙の編集長、ハーマン Gieske からのものでした。その中で Gieske は、その演説について、以下を明言しました:

「マッカーシー上院議員は、米国の国務省の中に、共産主義的な関係者達が、50名以上、未だに潜んでいると、彼が非難した時に、彼の観客達に衝撃を与えました。その様な非難が、共産主義者の諜報工作機関に対して米国の機密を明かした、国家反逆罪で有罪判決を受けたアルジャー・ヒスとの彼の交友関係に対する、国務長官、アッチェソンによる耳障りな公言と共に結びつけられると、その状況は、全てのアメリカの市民達にとって、最も切実な問題の一つに成ります。愛国的な土台の上の、共和党と民主党の連合の結果として、傲慢(ごうまん)で無能なアチェソンを、公職から排除する事を強く望む彼の明言において、マッカーシー氏は正直で、率直でした。」²⁶

その新聞はまた、マッカーシーの演説の翌日の朝、2月10日(12日?)に205と言う数字を含まなかった記事を載せ、その明らかな示唆は、マッカーシーが政府の中に205名の共産主義者達が含まれていると、全く主張していなかった事でした。²⁷ マッカーシーの訪問を報道したデンヴァー・ポスト紙の、1950年2月11日の記事は、57と言う数字を繰り返しました。²⁸ マッカーシー自身が、リノにおける彼の演説の間に57と言う数字を繰り返し、そして、トゥルーマン大統領に対して宛てた電報の中で「私は、現在において国務省の中にいる57名の共産主義者達のリストを、私の手の中に持っています」と、はっきりと明言しました。²⁹

マッカーシーが、彼の数字について嘘をつき、そして上院議会から追放されるべきであるとする、ベントン上院議員によってもたらされた非難(偽証罪)は、格好良く見えていませんでした。そうであれ、205と言う数字は、タイディングス委員会の最終報告書に入り、そして其処から、「それは繰り返し、そして未だに、無数の本、冷戦時代の調査、そしてあらゆる種類のメディア(マスゴミ)の番組の中で、ジョー・マッカーシーが嘘吐きだったとされています。その様な基準的な扱い(通説)と、何が実際に記録の中にあるのかの間の歴然たる矛盾は、現在、読者達に利用可能な、マッカーシー(について)の論議の、実質的に全てのためのモデル(基準/通説)に成りました。」³⁰

その神話(通説)造りのもう一つの構成要素は、マッカーシーが、そうするための彼の上院議員的な免責の背後に隠れ、公の委員会の場、または上院議会において、名指しで個人達を不必要に誹謗中傷したと言う事でした。どの様にそれが始まったのかを理解するために、マッカーシーがワシントンに戻り、彼が上院議会において詳細な演説を行い、彼の主張を鮮明にし、そしてそれらを扱うために明瞭に確立されたタイディングス委員会に置いて何が起こったのかを人は検証しなければなりません。

私達がそうする前に、しかしながら、方法論についての一言が此処で必要です。明らかに、この様な本の一冊の中で、人はマッカーシー時代についても、(そして今日まで生き残る両方の側である)彼の支持者達、または批評者達についての全ての詳細へと入る事を望む事は出来ません。私達の手法は、むしろ、その上院議員自身の演説からの特定の発言と、特定で奇怪な、そして奇妙な事実を、より大きなコンテキストへと入れるために、その時代の正に始まりを再検証し、まとめる事です。一度、そのコンテキストが検証されれば、その問題性はその巨大な示唆の全てと共に開け、推理を呼び込む示唆で、そしてそれは、この本の以前の二部のテーマへと結びつくものです。

3. The Post-Wheeling Senate Speech: February 20, 1950
3.ウィーリング後の上院議会の演説:1950年2月20日


マッカーシー上院議員は、1950年2月18日の土曜日に、「小規模な出迎え」と共に、ワシントン(D.C.)に戻りました。それに続く月曜日に、しかしながら、マッカーシーは、(議会の)議事録へと記録される様に、上院議会の床(発言台)の上で長文の演説を読むために立ち上がりました。この演説の中で、再びマッカーシーは鮮明にこう明言しました:「私は、私の手の中に、共産主義者達の党員カードを持っている、または共産党に対して特に忠実な様に現れますが、そうであれ、未だに私達の外交政策を形作る手助けをしている57名の個人達の件を持っています。」³²  この演説と共に、マッカーシー、彼の支持者達、そして、私達が見る様に - それが誰、または何であったにせよ - 彼の情報源、そして彼の政敵達の間のダンス(言い争い)が始まり、そしてこの演説、そして彼の政敵の戦術と共に、その歴史編集的なミーム(思考パターン)は、その後数十年続くように設定されました。

a. Naming Names
a. 名前を出す


それらのミームの一つは、上院議員的な免除の後ろに隠れながらマッカーシーが、上院議会において、名指しで不必要に、そしてむやみに人々を攻撃したと言う事でした。ですが、この演説の一見が、とても啓示的なのは、この件の彼の読み上げにおいて、何度も、何度も、上院議員達が彼を中断させ、名前を名指しする事を要求していたためです。それらのやり取りを読む事は、解明的です。マッカーシーは、彼のウィーリングの演説の後に、彼がトゥルーマン大統領に送った電報を議事録へと記録するために読み上げる事から始めます:

「木曜日の夜の、ウィーリングにおけるリンカーン記念日の演説の中で、私は国務省が、私達の外交政策を形作る手助けをしている、共産主義者達、または共産主義の同情者達の巣をかくまっていると明言しました。私は更に、私が、現在、国務省の中にいる、57名の共産主義者達の名前を、私が有していると明言しました。国務省の報道官は直ぐにこれを否定し、その省には共産主義者が一人もいないと主張しました。貴方(大統領)は、とても簡単に、国務省の主張の嘘を、貴方自身で見抜く事が出来ます。貴方は、貴方自身が個人的に、この国の安全保障に対して危険であると、その役員会が考えた同僚の旅人達(亡命移民など)を排除する目的のために、国務省の雇用者達を審査する役員会を任命した事を思い出せるでしょう。貴方の役員会は骨の折れる働きを行い、共産主義的な関連性のために、この国の安全保障に対して危険であるとリストされた数百名の名前を上げました。

「その記録が、私の手元にない間、私は、共産主義のために、解雇する様に国務長官に対して認定された約300名の一つのグループを、絶対的に知っています。彼(国務長官)は実際に、およそ80名しか解雇しませんでした。私が理解するに、これは、現在、国家反逆罪で有罪にされたアルジャー・ヒスとの長い相談の後に行われました。私が提案するのは、故に、大統領閣下、貴方が単純に、貴方の電話の受話器を取り、貴方の役員会が危険な共産主義者達と指定した者達のどれだけを、アチェソン氏(国務長官)が解雇出来無かったのかを、彼に尋ねる事です。議会の非-アメリカ的な活動の委員会が、国際的な共産主義者のスパイ組織における重要なリンクとして、アルジャー・ヒスを暴露した日に貴方は、国務省の内部の誰かの、この非忠誠、または共産主義者的な関連性に関して、あらゆる情報を国務省が議会に対して与える事を禁止する大統領命令に署名しました。

「この国務省の報道管制にも拘らず、私達は国務省内部の57名の共産主義者達のリストを作成する事が出来ました。このリストは、貴方にとって利用可能ですが、貴方は、貴方自身の役員会が、非-忠誠的で、そして未だに国務省内部で働いている者達としてリストしたそれらの者達のリストを貴方に与える様に、アチェソン国務長官に命令する事によって、更に長いリストを入手する事が可能です。私が信じるに、以下は、貴方がこの件において行うべき最低限の事です。

1.貴方は、貴方と、相応しい議会的な委員会に、アルジャー・ヒスによってその省において配置された全ての者達、そして貴方の役員会によって、彼等の共産主義者的な関連性のために、悪質な安全保障の危険としてリストされた、未だに国務省内部で働いている者達の全ての、名前と完全な報告を貴方に与える様に、アチェソンに要求するべきです。

2.貴方はその中で、どの様な状況下においても、議会的な委員会が、共産主義者達を暴露するにおけるあらゆる情報、または手助けを得る事を禁止した、大統領命令を今すぐ無効にするべきです。

貴方の側の上の失敗(無対応)は、共和党を、国際共産主義のお仲間であると、ラベル(レッテル)を貼るでしょう。確かにこのレッテルは、この国中の数百万人の忠誠なアメリカの民主党員達、そして上院議会と下院議会の両方における、有能で忠誠な民主党員達の大部分には、相応しく有りません。」³³

この電報は、マッカーシーの主要な心配が何かを概要します:

1)国務省の内部に、安全保障に対する危険性であると知られている人達が存在し;

2)それらの危険性は、トゥルーマン自身の忠誠検証役員会によって発見され;

3)それにも拘らず、その主張とは対照的に、それらの人達は国務省の内部に残り、そして故に、外交政策を影響する位置にあり(私達が目撃する様に、重要な点で);そして、

4)アルジャー・ヒス事件の直後において、トゥルーマン大統領が、あらゆる省庁、または連邦機関が、議会と協力する事を禁止する「口封じ命令」を制度化していた事です。³⁴

この電報を議事録の中へと読み上げた後、当時の上院議会の過半数の指導者、スコット W. ルーカス(民主、イリノイ、1892-1968年)が、マッカーシーに優先権(発言権)を譲渡する様に尋ねた時に、その挑戦は始まりました:

ルーカス氏「・・・私が(マッカーシー)上院議員が行う様に尋ねているのは - そして私は彼がそうする事を願い、そしてこの国は彼がそうする事を望んでいますが - その中で、共産党の党員達であると国務長官(アチェソン)によって知られている、200名以上の人達が、国務省の内部で働いていると明言した、彼が西ヴァージニアのウィーリングにおいて行った演説を説明する事です。もし上院議員がその明言を行ったなら - そしてそれは報告(報道)されたものですが - 私は彼がそれらの共産主義者達の名前を挙げることを望みます・・・上院議員には、上院議会において、彼等の全てを名指しする特権(免除)があり、そしてもし、それらの人達が共産主義者達では無かったとしても、彼が保護(免責)されるでしょう。それが、上院議員に私が行ってもらいたい全てです。もし、上院議員が、(党員の)カードを持っているそれらの205名の共産主義者達を名指しし、そして彼が正しかったと証明されるなら、イリノイ州からの上院議員(ルーカス)は、ウィスコンシン州からの上院議員(マッカーシー)について述べたあらゆる事のために謝罪するでしょう。」

マッカーシー氏「私は彼の見解のために、イリノイ州からの立派な上院議員に感謝する事を望みますが、私は、私が上院議会の外で言わない事を、上院議会の中で何も言わないでしょうと、彼に対して強調したいと思います。私達が上院議会の中で有している安全保障の特権(免責)を、私が利用する日が来れば、私はその日に上院議会から辞任するでしょう。上院議会の中で、あらゆる時に私が述べたあらゆる事は、上院議会の外でも繰り返し述べられるでしょう。」³⁵

言い換えると、マッカーシーは議会の中で名前を名指しする事を拒否しました。そうしたための彼の理由は、その演説の間に台頭します。

ジョセフ・マッカーシー
1 McCarthy

スコット W. ルーカス上院議員、民主-イリノイ、上院議会の過半数の指導者、1948-1950年
2 Lucas

マッカーシーはその後、(私達は、「党員カードを持っている共産主義者達」の問題には関連していなかったと目撃しましたが)彼の遊説演説の旅における演説の中でまた、彼が使用した、205名、200人以上等々の数字が何処から由来したのかを素早く説明しました:

マッカーシー氏「・・・(ルーカス)上院議員は私の注意へと何かを呼び起こし、そして私は、彼がそうした事をうれしく思うのは、そうで無ければ私がそれを見落としていたかも知れないためです。ついでながら、ネヴァダ州のリノにおける演説、そして西ヴァージニア州のウィーリングにおける演説は、録音されているので、私が言った事についての疑問は無いでしょう。私は205名と言う数字を明言していないと信じますが、私が信じるに、私は「200人以上」と言ったでしょう。大統領は、「それは唯の嘘だ。根拠は全く無い」と述べられました。

「私は、私の前に、1946年8月1日の議会議事録の記録の A4892ページの中に記録された手紙を有しています。それは、元国務長官の、ジェームズ F. Byrnes からの手紙です。それは、約3,000名の最初のグループの審査を扱います。その後に続いた数多くの審査がありました。これが始まりでした。」

マッカーシーに対して、取り下げさせようとするルーカス上院議員の再度に及ぶ試みの後、マッカーシーはその試みを拒否し、彼は続けました:

マッカーシー氏「その手紙は、審査された3,000名の最初のグループを扱います。大統領は - 私が考えるに、とても賢明に - 戦争省の様々な戦争機関から、国務省へと流入していた職員達を審査するために、役員会を設置しました。それらの戦争機関の幾つかの中には、数千名の異例的な人物達が存在していました。元国務長官の Byrnes は、議会議事録の記録の中に記録された彼の手紙の中でこう述べます:

「『行政命令に従って、OSS (後のCIA)、FEA、OWI、OIAA 等々の様な様々な戦争機関から、国務省へと、約4,000名の職員が移動されました。それらの4,000名の職員達の内、約3,000名の履歴が事前検査の対象と成り、その結果、貴方が、貴方の手紙の中で言及する、審査委員会によって、285名の件において、正規雇用をしない方針の推薦が行われました。』

「言葉を変えると、元国務長官の Byrnes は、それらの人達の285名は、安全ではない危険分子だと述べました。この人数の内、79名だけが排除されたと彼は更に述べます。私が明言した59名の内、その幾らかはこの205名のグループを形成し、そして幾らかは、審査されましたが、免職されなかった、その他のグループに属します。

「これに関連して、国務省の調査機関は、素晴らしい働きを行ったと、私は言いましょう。その書類は、彼等が共産主義者達をその様に認定するために、詳しい詳細を調査した事を表します。唯一の問題は、その調査機関が、それらの人達を共産主義者達と認定した後に、彼等を解雇する事を、国務省が拒否した事です。私はそれらの件の詳細を与えましょう。」³⁶

マッカーシーの主張の明らかな示唆が、それ自体の内部的な安全保障の調査から、彼に情報を供給している、国務省内部の誰かの、何らかの情報源を持っていて、そしてこの情報の中に含まれたのが、知られている危険分子が未だに雇用されていた事である事に着目して下さい。

この、国務省内部の何らかの情報源の示唆は、後にマッカーシーによって、何度も繰り返されます:

マッカーシー氏「『何故、貴方は国務省に伝えないのですか:何故、貴方は国務省に名前を与えないのですか?』と言う人達に対して、私が此処において有するのは、全て国務省自体からのファイル(書類)であると言いましょう。私達と共に協力する事も、一緒に働く事も意図していない国務省が、「ヒントを教えて;貴方が情報を持っている人達を教えて」と言っていた時、私はそれ(国務省)が名前を教えろと言っていたと感じました。

「案件番号1.名前は利用可能です。上院議員達は、もしそれらを知りたいなら、それらを得る事が可能です。私は、しかしながら、相応しい上院議会の委員会が、特別な会合において話し合い、それら(の名前)を吟味するまで、それらの名前を公表するのは相応しく無いと、私は考えます。私は、約81の件(名前)を持っています。私は、事実を得るための、何らかの凄く優秀な調査機関を持っているとは主張しませんが、もし私が、関わった全ての名前を公にしてしまうと、誤った印象を与えてしまうかも知れません。もし私達が、ある人が共産主義者では無いのに、その人に共産主義者のラベルを貼ってしまうと、それは悪質だと私は考えます。しかしながら、その名前は其処にあります。私はその案件を、上院議会が聞いた後の判断に、喜んで従いますが、私が行うのが無難だと考えるのは、特別な会合を開き、そしてその状況全体について相応しい委員会で吟味する事です。」³⁷

言い換えると、マッカーシーは、正に公の記録(議会)において、名指しして国務省のリストを公に議論する事を避けるために、彼が、その数字をつけられた件を議事録へと読み上げるよりもむしろ、名前毎に基づいて、特別委員会の閉ざされた扉の中で、それらを検証する事を望んでいました。

この明言の少々後に、マッカーシーは再び、彼のリスト上の最初の件を検証し始め、そして過半数の指導者、ルーカスは再び、マッカーシーが発言権を譲渡する様に尋ねます:

ルーカス氏「大統領閣下、上院議員は譲渡するでしょうか?」

マッカーシー氏「私は譲渡します。」

ルーカス氏「上院議員は、記録上でその人の名前を私達に伝えてくれますか?私達にはその人が誰なのかを知る権利があります。私はこれを、全ての真剣さと共に言います。上院議会と一般大衆は、私の友人(マッカーシー)によって成された非難の結果として、その人が誰なのかを知る権利があります。もしその人が共産主義者なら、ウィスコンシン州からの上院議員(マッカーシー)は、イリノイ州からの上院議員(ルーカス)が、ウィスコンシン州からの上院議員に協力するとご理解いただけるでしょう。」

マッカーシー氏「上院議員(ルーカス)は、私がそれらの名前を受け取り次第、直ぐに私の事務所に来る事が可能です。私は、全ての件を詳細に調べるつもりです。もし、上院議会が、上院議会内で、それらの名前を公表して欲しいと判断するなら、それはとても異例的な行程ですが、私は喜んでそれらを暴露しましょう。その問いは、イリノイ州からの上院議員、またはウィスコンシン州からの上院議員だけで判断するには、重要過ぎる問題です。」³⁸

この、マッカーシーと、民主党の過半数の指導者、ルーカスの間の重要なやり取りが重大なのは、マッカーシーが実際に行っているのが、公の場、そして故に公の記録(議事録)において「名前を名指しする」事に重荷を課す事で、その過半数の政党(民主党)がそうする可能性が低いと、彼(マッカーシー)が知っている事です。少々後に、コネチカット州のマクマホン上院議員とのやり取りにおいて、マッカーシーは再び、何らかの上院議会の委員会の特別会議において、彼の情報が話し合われるべきではないかと提案します。³⁹ このマクマホンとのやり取りにおいて、マッカーシーは、「私は、その上院議員に、私がその81名を起訴しているのではないと言いました。⁴⁰ 私が言ったのは、何か急進的におかしい事があると表すために、十分な事がそのファイルの中にあると言う事です、」と述べました。⁴¹

その少々後に、マッカーシーとメイン州の、共和党のオーウェン・ブリュースター上院議員の間で、更にもう一つの興味深いやり取りが起こりました:

ブリュースター氏「大統領、その上院議員は(発言権を)譲渡しますか?」

マッカーシー氏「私は、メイン州からの上院議員(ブリュースター)に、私がまず、コネチカット州からの上院議員(マクマホン)に答える事を許す様にお願いします。

「もし、コネチカットからの上院議員が、少々前に此処にいたなら、彼は過半数の指導者(ルーカス)が、私達が正にそれを行う様に要求していたのを聞いたでしょう。彼は、それらの人達が聞かれる機会を与えられず、この国の前で私がそれらの名前を名指しし、それらの人達を起訴する様に強く求めました。

「私は、『いいえ、上院議会がそれを要求するまで、私はそれを行いません、』と私は言いました。私は、『私はその情報を持っています。私は何らかの上院議会の委員会に対してそれを提出し、そしてそれについて、その委員会が判断を下す事を望みます、』と述べました。

「この情報は、新しいものでは全くありません。それは、長い間存在していました。もし上院議員、または関心を持ったその他の誰かが、十分な努力を行っていれば、彼はこれを上院議会の注意へともたらす事が出来たでしょう。

「私は、この問題を上院議会の前にもたらそうとする試みの、この非難の全てを全く好ましく思いません。私は、その事実の全てを与える事を意図します。私が、私の前に持つ情報から、『それらの人達は国務省の内部にいるべきでは無い、』と述べた、諜報工作機関と共に私は同意します。『それらの人達に最上級機密へのクリアレンス(利用許可)を与えてはいけない、』と述べた、諜報工作機関に、私は同意します。

「私は間違っているかも知れません。それは何故、私が彼等を名指ししないのかの理由です。ですが、私が考えるに、直ぐに - 明日にでも - 共産主義者達かも知れない人達の調査においてでは無く、国務省が共産主義者達によって溢れ返っているのか否かについて、実際に関心を持っている、相応しい委員会が、それらの問題を検証するべきでしょう。」

ブリュースター氏「大統領、その上院議員は譲渡しますか?」

マッカーシー氏「私は譲渡します。」

ブリュースター氏「一般大衆が、事実を知る事を許されていないのが、星室評議会(専断不公平な裁判所/i.e. 上院議会)の行程の本質ではないでしょうか?私達が此処で争っている政府の一種の本質は、真実を知る事を立法府(議会)の権威に許可する事を拒否する、大統領府(執行部)の一種ではないでしょうか?

「ヒスと Fuchs、そしてその他の幾つかの事件における判明の後、議会が、近年まで一度も拒否され無かった、その歴史的な権威を行使する事が許されるべきで;そして大統領府が、ワシントンにおいて何が起こっているかを知る権利を、上院議会と下院議会の議員達に許す事を拒否するのは奇妙に見えないでしょうか?

「私は、民主主義のあらゆる擁護者達がどの様に、ヒスと Fuchs の事件の見解において - 近年、繰り返し起こっている様に - その書類からの情報が、議会の委員会によって検証される許可を、政府の大統領府が拒否する権利を未だに主張出来るのか、理解に苦しみます。」

マッカーシー氏「私は上院議員に対して、憲法は、私達が幾らかの間要求してきている情報を、得る権利を議会に与えていると指摘しましょう。その憲法の下で、勿論、その議会はその情報に対する権利を有しています。どの様に私達が、議会に対してその情報を与える様に、大統領に強要出来るのか、私は知りません。」⁴²

其処で、その後、最も長く、そして注目されるべき言い合いの一つが続き、今度はケンタッキー州のギャアレット・ウィザース上院議員とマッカーシーの間で、ウィザースが上院議会の公の会議において、マッカーシーに名前を名指しさせようとするもう一つの試みを行った時で、それを、再び、もし上院議会がそうする事を望まないなら、マッカーシーはそうしないと拒みました。⁴³

その後、マッカーシーは、彼の匿名の件を記録へと読み上げ、ウィザースが再び試みます:

ウィザース氏「・・・もし私がそれらを見たなら、その上院議員(マッカーシー)は、私がその名前を明かす事に反対しますか?」

マッカーシー氏「私が考えるに、相応しい委員会が判断するべきで - 」

ウィザース氏「私が考えるに、私達はそれらの人達が誰なのか、伝えるべきです。」

マッカーシー氏「私が考えるに、それらの名前を公表するか否かは、相応しい委員会が判断するべきです。その上院議員(ウィザース)に対して私自身を鮮明にさせさせて下さい。もし上院議会の過半数(民主党)が、その様な形式において、それらを明かす事を私に臨むなら、そうします。ですが、私は、一人の上院議員の助言に従い、『上院議員、これです、それらを公表して下さい、』などと、行いません。以上です。」⁴⁴

グルグルとそれは続けられ、両方の側が彼等の馬車(主張)を旋回させ、過半数の指導者ルーカスが、議会の公の会議において、マッカーシーに名前を名指しさせる試みをもう一度行うと共に、その一つの鮮明な目的は、ルーカスによると、国務省の中でその情報を得る事が出来た諜報工作部門の人材達と共に沿って、マッカーシーに「踏み出させる」事でした。

(後の)残りは、勿論、歴史で、マッカーシーの衝撃的な非難を扱うために、タイディングス委員会が確立され、そして其処で再び、マッカーシーは、「名前を名指しする」会議の全てが、非公開の会議に成るために、2度に渡り試みました。⁴⁶

b. An All Too Brief Look at the Tydings Committee
b. タイディングス委員会について、全く簡単過ぎる検証


最終的に、勿論、上院議会は、マッカーシーの非難を吟味するために、タイディングス委員会を発足させました。M. スタントン・エヴァンズは、私達が検証したものを、こうまとめます:

「これは、単一的な問題についての多くですが、それは、マッカーシーの通常の(通説的な)イメージ(印象) - そして彼の政敵の立ち位置を検証するにおいて最重要な問題です。マッカーシーが公の場において、彼等に答える機会を供給する事無しで、共産主義者達、または安全保障の危険分子達として、人々をむやみに名指ししたと言うよりもむしろ、正にその様な公表が行われるべきだと要求したのはルーカス上院議員とウィザース上院議員で、そしてそうする事を断固として拒否したのはマカーシーでした。」⁴⁷

全ての話し合いが、公の場において行われると言う理解の下で、マッカーシーの非難を扱うためにタイディングス委員会が確立された後、マッカーシーは、彼の件、そして公の話し合いの準備を整え、そしてそれに沿って彼の件を公共に与えました。これが行われた後に唯一、その委員長、ミラード・タイディングスは、その公聴会の初日に、結局、全ての話し合いは公の場においてに成ると考え、その上院議員(マッカーシー)が公共の場にその件を与えた後に、閉ざされた特別会議へと行く事を、マッカーシーに提供しました。「それと共に、その行い(名指し)は成立され、『マッカーシーイズム』がようやくでっち上げられ、そしてマッカーシーはそれ以来、彼の容疑者達を公の場で名指しし、公共の場において彼等を誹謗中傷した責任をなすり付けられました、」と M. スタントン・エヴァンズは記述します。⁴⁸

B. Three Peculiar Episodes and Their Potential Meaning
3つの奇妙な出来事と、それらの効能的な意味

1. The Currency Plates Episode
1.通貨の原版の出来事


マッカーシー時代の全体、そして私達自身の日々まで震撼させる非難と反論を、詳細に物語る事は心をそそりますが、私達の集中は此処で、マッカーシー自身の準-委員会の前にもたらされた、3つの奇妙な件へと移行します。以前の章の中で私達が目撃した様に、ジョーダン少佐はソヴィエト連邦への通貨の原版の占領軍の輸送を暴露し、その原版は最終的に、ソヴィエト達が約250,000,000ドルのために占領下のドイツのマルクを回収する事を許しました。

言うまでも無く、1952年の共和党の大勝の後、マッカーシーは、当時、調査的な人員達と召喚令状の権力を共にした彼自身の委員会の委員長で、更により深く追求し始め、そしてそれらの件の一つは正に、「米国によって発行され、弁済可能」で、そして「(米国)財務相のネットワーク(人脈)によって、ソヴィエトの操作下に移された」戦後の占領下のマルクのための、印刷の原版でした。⁴⁹ マッカーシーの委員会の一員、カール・マンドットは、以下についてフランク・コーを尋問しました

「・・・彼が書き、ソヴィエトに渡されたメモは、占領下のマネーを印刷するために、更なる塗料を要求します・・・『貴方がそのメモを書いた当時、貴方はソヴィエト政府のために、スパイ活動を行っていましたか?』コーはこう答えました、『私は敬意と共に、(米国憲法)修正第 5 条(黙秘権)の下で、その問いに答える事を拒否します。』マンドットが更に、『貴方は現在、共産党の党員ですか?』と尋ねた時に、コーは敬意と共に、それに答える事を拒否しました。」⁵⁰

ですが其処にはもっと多大なマネーの問題が、脇に潜んでいました。

2. The China Problem: Henry Morgenthau and Chiang Kai-Shek’s Gold
2.中国問題:ヘンリー・モーゲンサウと蒋介石のゴールド


マッカーシーは、米国の下院議会と上院議会、そして両方の政党のその他多くと同様に、何故、そしてどの様に、1949年において、蒋介石の国家主義中国(台湾)が、共産主義者達によって略奪されたのかを問いただしました。これに関して、M. スタントン・エヴァンズは、一つに重要な出来事を記述します:

「特に、注目に値するのは、蒋への資金援助の流れを遮断する、ホワイトへのアルダーのメモにまつわる、1944年後期と1945年初期における場面です。それらの状況の中で、モーゲンサウは、KMT (中国/台湾国民党)の金融大臣、Kung に約束されたゴールドの貸し出しについて、彼の部下に尋ね続けました。その財務長官(モーゲンサウ)は、Kung によってガミガミ言われ、何故ゴールドが配達され無かったのかを、彼の助言者達に尋ねていました。彼等(i.e. 官僚達)は、テクニカル(技術的)な問題、船舶輸送の問題、細かな欠陥があり;そしてどうであれそのゴールドは、蒋の腐敗した政権の上において、無駄使いに成ると根気よく説明しました。その問題の極度に正直なヴァージョンはその貸し出しが意図的に妨害されたと多くの言葉で認めたホワイトによって供給されました。

「ゴールドの貸し出しの記録の、彼の驚く程に正直な話し合いの後、ホワイトはそれでも財務省はその妨害において正しかったのは「何故ならそのマネーが悪用されていた」からだと、モーゲンサウを説得する事を行いました。その他の者達も、場面、場面において、類似した形式でその問題をモーゲンサウと話し合い、そのゴールドが保留される、または極小単位毎に貸し出される事を提案しました。」⁵¹

ですが、秘密裡の戦争と離脱文明の中で私が記述した様に、中国のゴールドの多く、約1,665トンは、米国財務長官、ヘンリー・モーゲンサウの名前が記述された、連邦準備銀行(i.e. 個人所有銀行)の無記名債のための交換において、蒋介石の政府(台湾)の中の様々な中国人達によって貸し出されました。⁵²

言い換えて、2と2を足すと、蒋のゴールドは単純に盗まれ、そして彼の政府のための米国の援助が崩壊する事が許されたのは、もし彼の政府が倒れれば、ゴールドを返還する理由がなくなると言う期待においてだったと現れます。秘密裡の作戦とブラック(裏資金)の計画の金融的な隠されたシステムを創造する、1947年のトゥルーマンの判断と共に、このゴールドの窃盗と、その単純な存在は、国家安全保障の問題を体現しました。マッカーシーは、中国本土からの蒋の国家主義政府の追放のための理由への調査を彼がやり通す事によって、トゥルーマン政権が単純に、何が何でも認める事の出来ない、多大な国家安全保障の問題と秘密に、近づき過ぎていたのかも知れません。その名前が、1934年(米連銀の)「無記名債」の表面上に現れる、(財務長官の)モーゲンサウが、それらの問題の全てについて知らない様に現れるのはまた、着目するだけ興味深い事です。⁵³

3. UFOs, and Dr. Edward Condon, Security Risk
3.未確認飛行物体、そしてエドワード・コンドン博士、安全保障の危険性


マッカーシーのレーダー・スクリーン(関心)の上には確かにありましたが、彼の委員会自体から由来したものでは無い、戦後の時代全体の、最も興味深く、そして示唆的な件の一つは⁵⁴、「一時期、原子力エネルギーについての議会の共同委員会に対する科学的な助言者でした」が、FBI の調査の中心でもあった、エドワード・コンドン博士でした。⁵⁵ コンドンは、議会の非-アメリカ的な活動委員会の注目へと現れ、それはまた、商業庁によって有された、彼に関する FBI の報告書についてまた学びました。⁵⁶ レズリー・グローヴス将軍の下の、戦時中の原爆計画、マンハッタン計画の執行部は、「オッペンハイマーを受け入れ可能な危険性として考えましたが、コンドンについてはそう考えませんでした。」⁵⁷ コンドンの危険性、または人脈が何であったにせよ、それは、1966-1968年からの、米国空軍の UFO の研究と報告の議長をした、その同じコンドンでした。

C. The Crucial Problematic of the Historical Record and Some Speculations
C. 歴史的な記録の重大な問題と、幾つかの推理


コンドンの存在(そして彼を介した UFOs の題材)と共に、そして秘密裡の計画と秘密の研究を資金援助するための、金融の隠されたシステムのための、その示唆の全てと共に、人は恐らく、何故、マッカーシーに対する対峙においてだけでは無く、類似した議会的な調査においてそれがそれ程強烈だったのかの、隠された理由の前にいるかも知れず;其処には守られるための、より大きな秘密があり、そしてトゥルーマンと、その後のアイゼンハワーは、それらを守る事を意図していました。同様に、この全ては歴史的に明らかな問題性を指し示しますが、未だに気付かれていないもので、そして故に、全くコメントされる事も、推理される事も無かった事です。マッカーシーを通して、そしてそれを超えて、議会の非-アメリカ的な活動委員会における、ダイスとリーの議会委員会から、ニクソン-ウィティカー、チェンバース-アルジャー・ヒス事件まで、共産主義者のスパイ活動と、連邦政府の省庁への侵入への、政府の調査の一連の全体を人がどう捉え様とも、そしてマッカーシー上院議員と彼の活動を、人がどの様に考え様とも、歴史的な記録は鮮明で:米国政府に対する共産主義者の侵入が存在しその活動は、ルーズベルト政権の間にその絶頂期を迎え、それを排除し様とする、トゥルーマン自身の努力にも拘らず継続し、マッカーシーとその他の上院議員達、そして下院議員達の困惑の多くに対して、知られている、または認定された安全保障の危険分子達が、一つの省庁からもう一つへと移動し続けました。

この問題性は唯一人がこの現象を、様々な先進的で秘密裡の、アメリカの宇宙と軍事の計画において働くために、この国へと何百人ものナチスの科学者達をもたらした、今ではよく知られている、ペーパークリップ作戦の形状においてだけでは無く、加えて、ナチスの少将⁵⁸ ラインハルト・ゲーレンとアメリカの諜報工作機関の間の諜報工作的な同意の形状において、戦後のアメリカの諜報工作の不可欠な構成要素として - ゲーレン自身がそれを運営し続けると共に - 第二次世界大戦の後に、ゲーレンの膨大な軍事的諜報工作の組織をそっくりそのまま残したために、戦後の期間の間に、連邦政府の中に、同様なナチスの侵入と影響力があったと言う、同等に知られていて、報告されている事実と重ね合わせた時に起こります。その戦争の直後の期間における、ソヴィエトの脳力と意図の、アメリカの分析の上のこの組織の影響力は甚大で、ゲーレンの組織(ナチス)の報告書と分析が頻繁に、そして単純に、「CIA の用紙へとタイプされ直され、その機関(CIA)の早朝の諜報工作の報告において、更に解説される事無く、トゥルーマン大統領へと報告されました。」⁵⁹

どの様に、すると、それらの2つの現象を、人は調和させればよいのでしょう?それらの関連は何で、そしてどの様にその関係は、私達が此処においてまとめてきた出来事に影響したのでしょう?連邦政府内の共産主義者達、そしてナチスの存在は、その場面の背後でどの様な役割を果たしたのでしょう?人がどの様にそのパイを輪切りにしようとも、その状況においてどちらの側に集中しようとも - その可能性と示唆は全て不穏です。一つの遠くに届く橋掛け的な可能性は、しかしながら、述べられなければならず、つまり、それらの2つの思想(米ソ)、そしてアメリカの政府内のそれらのパルチザン(ゲリラ隊員/スパイ)の間の大規模な争いは恐らく、そのドラマの極少数の主役達以外には全く人知れず行われていたのかも知れません。その様な可能性を確立する必要条件は、この本の範囲を超えますが、最低限でも記述されるべきは、ウィスコンシンからの上院議員、彼の同僚達、そして彼の政敵達の頑固な一貫性は、共産主義者では無く、その他の悪魔達、ファシスト達との、秘密裡の金融の隠された調整と、手打ちの構図全体を脅かす可能性を体現していたと言う事です。共産主義者の侵入の深さを追及するための、「マッカーシー時代」の様々な議会的な委員会の努力の一連全体の周りに浮かんでいるのは、金融の隠されたシステム、ナチス、そして UFO であるのは、否定する事が不可能で、そして興味深く、それらの要素の全てを包括し、融合させている、アメリカの政治の戦後の期間の総合的な歴史は、未だに書かれていないためです。

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1 M. Stanton Evans, Blacklisted by History: The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America’s Enemies (New York: Three Rivers Press, 2007), p. 449.
2 M. Stanton Evans, Blacklisted By History: The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America’s Enemies (New York: Three Rivers Press, 2007), pp. 448-449.
3 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, pp. 17-18.
4 M. Stanton Evans, Blacklisted By History, p. 444.
5 Ibid. 着目されるべきはまた、アメリカの保守派の政治的なトーク・ショーのホストでコメンテーターだった、故ウイリアム F. バックリーがまた、アメリカのフォックス・ネットワークの頻繁なゲスト(御用学者)だった、L. ブレント・ボゼルと共に、彼等の著書、マッカーシーと彼の政敵達の中で、マッカーシーの最初の延長的な擁護を書いた時に、彼のキャリアが始まった事です。
6 John McAdams, “The Kennedys and McCarthyism,” 1995-2013 http://mcadams.posc.mu.edu/progjfk2.htm
7 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 181.
8 Ibid., p. 179.
9 N. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 179, emphasis added.
10 Ibid., p. 180.
11 Ibid.
12 Ibid.
13 Ibid., p. 181.
14 Ibid., p. 180.
15 M. Stanton Evans, Blacklisted By History, p. 181.
16 Ibid.
17 Ibid.
18 ジレットの準委員会の正式な名称は、上院議会のルールの委員会の特権と選挙で、そしてその報告書は「上院議会の案件187に関連した、ジョセフ・マッカーシー上院議員に対する、ウイリアム・ベントン上院議員の非難の事前準備的な調査報告」でした。See Evans, op. cit., p. 615, Chapter 14: Wheeling, 1950, n. 3.
19 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 182.
20 Ibid., p. 183.
21 Ibid., p. 183.
22 Ibid., p. 29.
23 Ibid., p. 33.
24 M. Stanton Evans, Blacklisted By History, p. 184.
25 Ibid., p. 185.
26 Herman Gieske, “Senator Joe McCarthy’s Visit to Valley Area,” The Wheeling Inelligencer, Saturday, February 11, 1950, cited in M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 187. Evans actually reproduces the actual editorial on this page.
27 M. Stanton Evans, Blacklisted By History, p. 188.
28 Ibid., p. 189.
29 Ibid., p. 190.
30 Ibid. p. 193.
31 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 194.
32 Ibid., p. 197.
33 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, p. 5, emphasis added.
34 トゥルーマンは、実際に、恐らく不注意でしょうが、賢明では無い言葉を選択し、ヒス事件の全体を「赤いニシン(人を惑わすような情報)」と呼びました。
35 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, p. 6.
36 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, pp. 6-7.
37 Ibid., p. 17, emphasis added.
38 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, pp. 17-18, emphasis added.
39 Ibid., p. 34.
40 マッカーシーは、彼の演説のこの時点において、国務省自体のファイルから、彼が受け取ったと主張した81件の詳細を議事録へと読み上げ始めました。マッカーシーは単純に、それらの件を番号で言及し、上院議会の公の会議場で個人の名前を名指しする事を避けました。
41 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, p. 35.
42 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, pp. 35-36.
43 Ibid., pp. 42-43
44 Joseph R. McCarthy, “Speech Delivered in the U.S. Senate, February 20, 1950, in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, p. 45
45 Ibid., pp. 46-47. The quotation is from page 47.
46 Joseph R. McCarthy, “Information on Lattimore, Jessup, Service, and Hanson Cases,” in Joseph R. McCarthy, Major Speeches and Debates of Senator Joe McCarthy Delivered in the United States Senate, 1950-1951, pp. 61-62.
47 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 203.
48 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 205. See also pp. 204-205.
49 Ibid., p. 42.
50 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, pp. 42-43.
51 Ibid., p. 106.
52 Joseph P. Farrell, Covert Wars and Breakaway Civilizations: The Secret Space Program, Celestial Psyops, and Hidden Conflicts (Kempton, Illinois: Adventures Unlimited Press, 2012), pp. 173-174.
53 記述するだけにまた興味深いのは、マッカーシーの調査において大々的に拘わるシンク・タンクである、太平洋外交関係インスティチュート(CFR の太平洋版)から、BIS (国際決済銀行)を通してスイスへと、ドイツの外交官、アダム・ヴォン・トロット zu Solz が、500(万?)ドルの送金を用意したと、アダム・リーボルが記述する事です。(See Lebor, Tower of Basel, p. 99). 第二次世界大戦の間の BIS における重度なナチスの存在を与えられると、彼等が IPR (太平洋外交関係インスティチュート)の活動の何らかの知識を有していたかも知れないと言うのは可能で、アダム・ヴォン・トロット zu Solz は、1944年7月におけるヒトラーに対する爆弾(暗殺)計画(フォルス・フラッグ?)に拘わったとして、絞首刑にされたと主張されました。
54 M. Stanton Evans, Blacklisted by History, p. 359.
55 M. Stanton Evans, Blacklisted By History, p. 132.
56 Ibid., p. 173.
57 Ibid., p. 325.
58 記述されるべきは、ドイツの国防軍において、少将(Generalmajor)は、アメリカの Brigadier General と同階級で、そして故に、2つ星では無く、1つ星の将軍だった事です。
59 Christopher Simpson, Blowback: The First Full Account of America’s Recruitment of Nazis, and Its Devastating Effect on Our Domestic and Foreign Policy (New York: Collier Books, 1988), p. 53.


11. Dangling Threads and Radioactive Speculations: A Very Brief Epilogue
11.ぶら下がっている糸(繋がり)と放射線的な推理:とても簡単なエピローグ


1989-91年において、ソヴィエト連邦においての様に、東欧全体を通した共産主義者達は:彼等の継続的で、秘密裡の共産主義者/社会主義者の傾向を仮面するための偽りの政治的なラベルの取得である、「第三の道」を応用しました。」
- クリストファー・ストーリー¹

1961年10月30日に、ソヴィエト連邦は、北極圏の離島、ノヴァヤ・ゼムリャの上で、「ツァー・ボンバ(皇帝爆弾)」と呼ばれた、それまでに大気中(地上)で実験された最大級の水素爆弾を爆発させました。50から57メガトン(幾つかの情報源は、67メガトンまで高くしますが)の間の計算予測された破壊力と共に、「ツァー・ボンバ」はそれまでに達成された最大級の人工爆発でした。基準的な説明は、今でもそのままですが、ソヴィエト連邦の(書記長)ニキータ・クルシュチェフが、その様な膨大で、破壊的な威力の、配達(攻撃)可能な兵器をそれ(ソ連)が設計出来ると実証する事によって、その水素爆弾的な筋肉(兵器)を見せつけていたと言うものでした。その実験は、約8,000マイルの飛行距離において、太平洋中部へと弾道弾を発射した実験と共に沿って、第22回共産党集会の間に起こりました。グラウンド・ゼロ(爆破地点)から34マイルの木造と煉瓦造りの建物は真っ平らにされ、遠くのノルウエーまでの窓は割られ、そしてその衝撃の振動は、リヒター・スケールにおける(震度)5で地球を駆け抜け、3度以上において測量可能な形状において惑星全体の周りに「エコー」しました。² ソヴィエトによる大規模な地上実験に続き、米国は「幾つもの小規模な地下実験を行いました。」³ それらの出来事の通説的で、基準的な説明はそれらが、ジョン F. ケネディー大統領によって話し合われ、そして核保有国の3大国、英国、米国、そしてソヴィエト連邦によって署名された、部分的核実験停止条約に署名する前の、最終実験だったと言うものでした。

ですが、もしそれらの実験が何かとても異なったもので、兵器開発の競争を装ったもので、実際には高度に秘密裡で、秘密の調整された努力を体現していたとしたらどうでしょう?北極圏内と、そして地上におけるツァー・ボンバの実験、そしてそれに続いたより小規模なアメリカの地下実験を与えられると - 少なくとも物理学的な観点から - その実験は、本当は、惑星的なレゾナンス(共振)を試験するために調整され、そして更に、恐らく、世界の「グリッド(格子/レイライン/龍脈)」の上で、その衝撃波が「増大させられる」、または「縮小させられる」ように現れるそれらの場所さえも、調べていたのかも知れません。ですが、その様な実験が調整されるためには、米ソのそれぞれの実験のスケジュールに介入でき、その実験をスケジュール出来る誰かに接触可能で、そしてその結果に介入出来る、ソヴィエト連邦と米国の両方の内部の、諜報工作の存在である、何らかの仲介役が必用でした。1960年代の早期の間に、あらゆる効能的な調整のために、実験のスケジュールを密報出来る、両国におけるその様な存在である唯一の組織は、勿論、ラインハルト・ゲーレン将軍の組織で、その当時までに、公式な西ドイツの諜報工作機関、the Bundes-nachrichtendienst (BDNに成っていました。

その様な核実験の隠された調整があったかも知れないと言う可能性が、頭を混乱させるのは、更なるもう一つの可能性を浮上させるためで、つまり、その様な実験の究極的な目的を、彼等が実験していた兵器の破壊力の様な、より平凡な事に集中していた、ソヴィエト、またはアメリカの科学者達のどちらにも知られていなかったかも知れないためです。しかしながら、この全ては最も純粋な放射能的な推理です。ツァー・ボンバが大気/地上的で、そしてそのツァー・ボンバ後のアメリカの実験が地下的で、あたかも(それらの)実験が、惑星地球と彼女の磁気圏の全体的なキャヴィティー・レゾナンス(空洞共振)のシステムの上で行われた事実を除いて、(米ソ間の)調整を示唆するものは何もありません。言い換えると、(より深い)物理学自体の可能性以外に、親密な調整を示唆するものは何もありません。

共産主義者達、ナチス、アメリカ人達、金融の隠されたシステム、水素爆弾の実験、そして惑星的なレゾナンス・・・

・・・ですがこれを超えて、心配する事は全くありません。
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1 Christopher Storey, The European Union Collective, p. xxvii, emphasis in the original.
2 “Tsar Bomba,” http://en.wikipedia.org/wiki/Tsar_Bomba
3 Storey, op. cit., p. 127.


12. Conclusions to Part Three
第三部のまとめ


・・・1914年から現在までの期間を、未来の世代が「第二の百年戦争」として言及する可能性は高いでしょう。」
- ピーター・ラヴェンダ¹

12章前に、私達が踏み込んだ迷宮の道は此処で終結し、そして故に、この本の以前の二部のまとめを再確認し、それらに対してこの本の最後の部分の洞察と示唆をそれらに加える事が必用です。私達は、加えられた示唆(第三部)が、そのコンテキストにおいて、より鮮明に成る様に、以前の部分の結論を、一字一句繰り返しましょう:

A. 第一部のまとめ

1)1950年のマドリッド回覧書は、マドリッドのドイツの地政学的なセンターの産物と主張され、そして故に戦後の国際ナチスのものと主張されました。しかしながら、第一章の中で見られた様に、この筆者は、T.H. テッテンスの著書を超えて、この書類の存在への何らかの協力証言を見つける事が出来ませんでした。故に、帝国的、そしてナチス・ドイツ、そして戦後の西ドイツの外交政策の中の歴史的な前例を探し求める事によって、協力証言の方法論が発達させられなければなりませんでした。この方法で見解された時、その回覧書の政策の位置の幾つかは、応用された様に現れるだけでなく、その回覧書自体が、数十年後に起こる発展を、異例的に予測する様に現れます。それらの発展の中で、人は特に以下に注意しなければ成りません:

a) その文献は、関税の統一、または共通市場を含む、ヨーロッパのコミュニティー(EC)の創造を主張し、その連邦はドイツを(ヨーロッパにおいて)圧倒的な経済力とし、最も影響力のある位置にします。世界の舞台におけるその連邦の目的は、対立している共産主義者(ソヴィエト)と大西洋(英米)のブロックの間に「第三の道」を創造する事で、その連邦(EU)と共に、世界の舞台におけるドイツの地政学的な影響力を増大させる事で;

b) その回覧書は、米国とソ連の間の戦争の地点までも、東と西の緊張を高める政策を主張し²、その間ドイツに指導されたヨーロッパは、その様な衝突において中立を保ち、その様な衝突(戦争)の後に、明らかな指導的な権力のブロックとして台頭し;

i) ソヴィエト連邦とワイマー共和国の間の、1920年代のラパロ条約は、西ドイツの領域において利用され、大量殺害のための、特に原子爆弾、生物(化)学兵器、または化学兵器の開発に対して課せられた、あらゆる条約(ヴェルサイユ条約)を迂回するために利用されました。³ 以前のページの中で見られた様に、ラパロ・プリンジプは、南アフリカ、イスラエル、そしてイランの様な「のけ者国家」との経済的な協力のための同意として、ドイツの連邦共和国によって忠実に続かれ、代理国家を通して、核燃料サイクルの完結、そして原子爆弾と水素爆弾を得るために必要な、延長的な軍事の調整(協力)と科学技術の譲渡(受け渡し)を隠すために利用されました。この拡張的な(核)拡散の努力は、大企業とカルテル(i.e. 財閥/王侯貴族)の手の中に国境超越的な原子爆弾と水素爆弾の能力を創造する役割を果たし、ドイツの原子/水素爆弾の科学技術を利用している代理国家において、複数の層の重複性の創造を可能にし、それはヨーロッパ大陸の唯一の宣言された核保有国、フランスを含みました。

ii) その回覧書は、「我々(i.e. 国際ナチス)にとって、その戦争は決して終わっていない」⁴ とはっきりと明言し、1945年のあらゆる公式な降服における、ナチス党のあらゆる公式な代表の不在において、これのための鮮明な補佐を引き出します。この主張の明らかな示唆は、ドイツとヨーロッパ自体の心臓部において、国際ナチスが生き残り、健全であると言う事で、以下に目撃される様に、アデナウアー政権に対する、ナウマンのクーデター(フォルス・フラッグ)に関する、英国の公式な報告の中で協力証言される点で:

iii) その長期的な目的は、ドイツを非-産工業化するためのモーゲンサウ計画を、成功的に脱線させる短期的な目的を通して、アメリカを孤立化させる事で、⁵ そしてその後、意図的に造られた戦争、経済危機、そして中東の不安定化を通したその「ドル外交」の、益々増大する孤立化へと、米国を操作する事で、⁶ その間、同時に、ドイツに導かれたヨーロッパ連邦が、その経済的な貿易を東(中露)へと転換する事で;⁷

iv) これが一度起こると米国は、「一極独裁的な態度」に益々頼る様に強要される事が、その回覧書によって正確に予測され、そしてこれが一度起こると、アメリカが好戦的な国家に成り、ヨーロッパの国々はその軍事的な冒険に参加する義務は無いので、大西洋連合(NATO)の条約は空洞化され;⁸

v) この全ては、秘密裡の作戦と - アメリカを含む - 産工業と政府における延長的な接触のネットワーク(人脈)を通して達成され、⁹ そのネットワークは、1944年7月の、ヒトラーに対する「爆弾(暗殺)計画」において、「国家反逆罪で処刑された」人材を含むとその回覧書ははっきりと明言し、その計画が、連合軍を騙すための、意図的なフォルス・フラッグ(偽旗)の出来事の策略で、ナチスの高官達を「死亡した」とする事によって更なる連合軍による調査から守る(結局の処、人は、死亡した人達を調査しないので)、または同じ目的のためにナチスのヒエラルキー(命令系統)によって利用された危機の好機のどちらかであると言う、息を奪うような主張で;¹⁰

2)ドイツに導かれたヨーロッパ連邦の、マドリッド回覧書の明言された目的は、実際に、第一次世界大戦の前と間の、ドイツの軍事的、政治的、そして金融的なエリートのメンバー達、バーンハルディ将軍と、Reichskanzler (ライヒ/帝国のカウンセラー)セオバルド・ヴォン・ベットマン-ホルウェグから、第二次世界大戦後の、2人の西ドイツの首相達、アデナウアーからヘルムット・コールまで、ゲルハルト・ショローダーからアンゲラ・メルケルまで、一貫的な目的です。この本の次の部分の主な題材に成る、ナチスと、ヨーロピアン・ユニオン(EU)のための彼等自身の明言と計画を、私達が未だ検証していない間、此処までに明らかなのはマドリッド回覧書がこのヴィジョン(先見性/計画)の正確性を反映している事で;

a) 私達が着目した様に、1943年に始まり1945年の全体的な計画を含んで、その戦争の正に終わりまで続く、ナチスの特定の書類は、その様なドイツに導かれたヨーロピアン・ユニオン(i.e. 中央集権)を主張します。加えて、私達が着目した様に、その1945年の全体的な計画は、この本の次の部分において見られる様に、政治的な連邦、経済的な統合においてこれを綴り出し、法律と(司法)管轄区の融合(i.e. 国家主権の解体)でした。その統合は最終的に、ヨーロッパのロシアを、その抱擁の中に含みました(i.e. 大西洋からウラジオストック/太平洋まで)。¹¹

b) それらの戦時中のナチスの書類はまた、西洋の権力(連合軍)に対する心理的な戦争の政策も主張し、そして私達が以前のページの中で示唆したのは、その責任を英国政府がはっきりと国際ナチスの足元に置いた、アデナウアー政府に対するナウマンのクーデターの試みが、その様な作戦(フォルス・フラッグ)の一つだったのは、その作戦が、それ自体のナチスと親-ナチスの同情者達は言うまでも無く、アデナウアー政府を(穏健な)中道派として見える様にしたためです。

3)最後に、それを急進化(過激化)する方法による、イスラムの、相互関連している企業的、そしてカルテル的に推進された軍事的、そして政治的な操作のパターンを私達は目撃し、その地域における英国と米国の関心を不安定化するための、中東の不安定化におけるその利用のための(イスラム教の)兵器化を私達は観測しました。その結果は、再び、マドリッド回覧書によって予測されたものと正に同だったのは、ワシントンが益々、その地域において強引に成らなければならなかった間、それが益々、孤立化したためです。ドイツの原子力「カルテル」の場合、ドイツの原子力産業は、その歴史的な根源において I.G. ファーベン社(財閥)の子会社の構成要素に大々的に構成され、全ては統一的に働いていて、ファーベン社は、その名義においては公式に死んだかもしれませんが、名前においてのみであるとその点は示唆します。急進的なイスラムに対するドイツの政策の一貫的な関連性、そして皇帝の時代からのジハードのその推進と、第二次世界大戦から、モサデグとシャーの転覆の両方を通した、イランにおける政府の変更に絶えるその一貫的な能力、その他の急進的でイスラム的なグループへの、知られているナチスの関係が与えられると、「対テロ戦争」は、国際ナチスに対する戦争のための便利な隠れ蓑かも知れないとさえ示唆され、アメリカと彼女の同盟国が、それらの国民に対して売り込む事において多大な難しさを持つものです。

B. 第二部のまとめ

4)1980年代と1990年代の為替レート・メカニズムの構造、そして今日のヨーロピアン・ユニオンと、更に戦時中のナチスの計画の間には、以下の要素において間違いない平行線が存在し:

A)ピーター・オールドフィールド、別名、パー・ヤコブセンの小説、錬金術殺人は、多大な権力を共にした、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の、大規模な化学企業のカルテルの構築のための国際連盟(i.e. 中央集権)の推奨を詳細し:

(i)民族-国家の戦争を行う権力に対峙するためで;

(ii)国際的な経済的秩序(中央集権)を確立し、保つためで;

(iii)特許とライセンシング(使用許可)を通した科学技術の譲渡のメカニズム(i.e. 国家主権解体)、または媒体として機能するためで;

(iv)目撃された様に、しかしながら、その様な国際的な規模の唯一のカルテルは I.G. ファーベン社で、それはナチスの戦争のマシーンの主要な構成要素として機能し;

b)国際決済銀行(BIS)は、戦争の賠償金を扱う目的のための、表向きには独立的で「ソヴリン(主権)」の組織として、ドイツの銀行家、ヒャルマー・シャクトによって考案されましたが、特に戦時中には、ナチスのカルテルの関心のための、国際的な手先と決済機関として、実質上機能しました。BIS が、以下の方法において、金融の隠されたシステムの中央的、そして主要な構成要素として機能し、そして未だに機能しているかも知れないと言う、決定的な示唆があり:

(i)その「ソヴリン(主権)」の地位を与えられると、BIS は外交的な封筒の免除(i.e. 治外法権)を許され、そして故にあらゆる種類の無記名債と同時に通貨(為替)の全ての種類を洗濯する立場にあり、その戦争の間にそれが行った機能で;

(ii)その管理役員会における、カール・ブレッシング、カート・ヴォン・ショローダー、I.G. ファーベン社の代表取締役、ハーマン・シュミッツ、そしてシャクトに後押しされたその他の任命の形状におけるナチスは - 民族-国家の不要性のミームと共に関連した - その銀行(BIS)とその楽園的な目的(i.e. 世界統一/NWO)を、ヨーロッパの権力政治のそれ(ナチス)自体の目的のために、類似した言語(世界統一)を応用した、ナチスのカルテル政権によって利用(悪用)出来ると見解し;

(iii)ナチス-ファーベン社の共謀の、政治的、そして金融的な「ヨーロッパ-ライヒ(帝国)」の継続の見解は、戦後の西ドイツのブンデシュ銀行におけるブレッシングの存在の様に、戦後のドイツの金融的な制度における、ナチスの金融家達の顕著な地位によって、戦後も継続され;

(iv)その様なものとして、BIS はまた、ドイツに対する連合軍の扱いの、戦後の刑罰の軽減のための主要な方法として見解され、そしてナチスの生き残りと、大量の資本をヨーロッパの外に移動する、その政党の戦略的な避難計画の鍵の構成要素で;

(v)BIS は、一方で、ドイツの金融カルテルのエリートと、その戦時中のアメリカ人の会長、トマス H. マクキトリックを通したサリヴァン & クロムウェルのウォール街の法律事務所を通して運営された、ダレス-ブッシュ-ハリマンの「中軸」の様な、(ナチスに)同情的なアメリカの反対相手との間の戦時中の接触の継続の主要な方法として機能し¹²;

(vi)同意書、株式債券、通貨等々の形状において、外交的な(治外法権)の封筒を通して、物理的な書類を移動させる能力を与えられると、デジタルの、現金の無い社会への移行は、公共(表向き)の金融の「透明性」を保つためで、その間、公共(一般大衆)の監視に対して、それ自体の不透明性を保つための金融的な権力のエリートの動き(策略)であると言う、推理的な提案が進められました。この見解は、金融の隠されたシステムが、国際決済銀行(BIS)によって有された「外交的な(治外法権の)封筒」の免除のシステムを通した - 無記名債やその他の無記名の道具の形状において - 物理的な書類の移動に頼り、そして正に頼っているかも知れないと言うコンテキストにおいて主張されました。その様な経路を通した、その様な「無記名の道具」と、実際の物理的な書類の移動に基づいた隠されたシステムは、あらゆる一般大衆の監視、または個々の国家的な監視に対して完全に不透明に成るでしょう。これは、隠された金融の正に国際的なシステムを創造する事を許し、国際的な規模と秩序(組織)の上で、ブラック(秘密裡)な計画の資金確保のために上手く利用される事が出来るものです。その様なシステムにおいて、BIS のような制度が不可欠なのは、BIS が本質的に、国際規模の上で、ヴェネチア(ヴェニス)の banco di scitta の一種として機能するためです。それらの事実と推理は、何故 BIS が、間世界大戦の賠償金の支払いを扱う、その表面上の目的を生き残り、長生きしているのかを説明するかも知れず、そして何故、それがシャクト-スカルノの騒動を通して、今日まで生き残っているのかは、このシステムにおいて拘わっているその他の銀行を示唆するかも知れず;

c)ナチス党と I.G. ファーベン社の「共謀」と「婚姻」の共同計画は、ドイツの中核と指導力の周りのヨーロッパ・ライヒ、または連邦の段階を踏んだ統合の上に集中しました。この段階化された発展は、2つの主要な方法、技術、そして分野に集中され:

(i)「ヨーロピアン・ライヒ」の計画は、ウォルター・ハルスティンの悪名高い「覇権演説」において彼によって、そして Sölter の1942年研究によって概要された様に、様々なヨーロッパの国々の調和化を最初に必要としました。それによってこれを迅速に、そして効果的に達成する事の出来る主要な方法は、「大きな空間」(i.e. ヨーロッパ)の経済と市場の異なった部分を管理するための、ヨーロッパ規模の管理的な官僚制度i.e. 中央集権)を確立する事によって国家的、そして地域的な立法部と議会を素通りする事によってでした。これは、目撃された様に、現在のヨーロピアン・ユニオン(EU)の官僚制度的な構造に対して見間違う事の出来ない類似性を有しており、それは、目撃された様に、その形成における全ての重要な段階における、ウォルター・ハルスティンの拘わりを表しました。セルンは、設立されたその様な機関の一つで、そして BIS の様に、「カルテル」と「信託」の様な構造と、そして制限付きのソヴリンティー(主権)が与えられた事が着目されるべきでしょう。

(ii)これに対して同時発生的に、ライヒ(ドイツ)マルクに対するゾーンの中のその他の通貨の「マージン(上下動の幅)のペッグ(固定)」のアイデアに基づいた「ライヒマルク」のゾーンが確立され、その計画は、再び、1980年代と1990年代の間の為替レート・メカニズムの確立と機能によって満たされ、その中でその他のヨーロッパの通貨は、最終的にフランスのフランとイタリアのリラを含んで、西ドイツのドイツマルクにペッグされました。

5)高度な金融と高度な科学技術と物理学の間の親密な関係のパターンは、太古の時代において始まったパターンであり、ヨーロッパのセルンにおいて継続され、それは、着目された様に、国際的な法律において「ソヴリン(主権)」の制限的な一種を有し、それを監視している単一的な民族国家が無いので、表向きのものと、裏側、または秘密裡のものの、実験の二重経路のシステムを行うための完璧な候補者です。「ヨーロピアン」の制度として、しかしながら、その中の、より大きな参加国の影響力は明白で、また目撃された様に、セルンの最大の貢献者であるドイツは特にそうです。その大型ハードロン衝突器が、クアーク-グルーオンの凝縮物(プラズマ)の創造、反物質-物質の非均整の実験等々を創造し、探知する様にデザインされたとセルンが認める事実を与えられると、それはまた、カムラースターブ(カムラーのスタッフ)の戦時中のパターンの継続として見解されるかも知れず、それは、英国の諜報工作員によると、「日常的に、物理学の化け物の様な分野」において研究していました。加えて、LHC (ハードロン衝突器)の実験の管理構造の中の、裏側、または秘密裡の計画の可能性を示唆しているその他の要素があり:

a)セルンの大型ハードロン衝突器は、以下の上に操作を有するので、「宇宙学のカルテルと信託」を体現します:

(i)その加速器と衝突器自体の機械で、故にその実験のあらゆる実際の独立的な確認は不可能で;

(ii)その実験から派生させられた情報;そして、

(iii)それらの実験からのデータの「濾過」、または選別は、研究と解釈のためにその参加国の研究者達に伝達されます。

b)その「データの濾過のアルゴリズム(演算法)」は、しかしながら、拒否された生のデータ自体が吸い上げられ、濾過(選別)される可能性を示唆し、そして故に衝突器の活動と、気象、地質、社会、または地球物理学的なシステムの様な、その他のシステムの間のデータの相関性の形状におけるその他の実験の可能性が台頭し;

c)最後に、私達の極度に推理的なシナリオにおいて、全ての電気的な機械が超越-次元的な空間のネットワークとする「クロン的な」観点から理解された時、その衝突器とその探知機は、関わった科学者達と共に沿って、その機械自体の遺物(産物)として、彼等が観測する効果を創造しているかも知れない可能性を私達は提案しました。これに関して、私達はまた、行われている裏側、または秘密裡の実験の一つの要素は、物理学的な実験の上のグループの観測者達の効果(もしあるなら)と限度をテストするための、社会-物理学的な技術開発かも知れないと言う、極度に推理的な考えを提案しました。もしその様な極度な推理が真実なら、それは実際に「日常的に、物理学の化け物染みた分野において研究している」もう一つの例を構成するでしょう。

C. 第三部のまとめと示唆

5)戦後のアメリカ国内の政治は、連邦政府の様々な省庁、そして政策への、戦時中の共産主義者の侵入、そしてそれらに対する影響力の現実性を共にして、様々な議会的な委員会の論争のるつぼにおいて起こり、最も顕著で有名だった、または人の観点が異なると、最も悪名高く体現され、そして象徴化されたのは、確かに彼に限ってではありませんでしたが、ウィスコンシン州からの上院議員、ジョセフ・マッカーシーの調査においてでした。この時代の間、以下を含む、数々の奇妙な関連性が台頭し

a)無記名債のスキャンダルに親密に関連した題材である、特に中国と、国家主義中国(台湾)のゴールドの略奪に向かった、アメリカの極東の政策と、1947年における、回復された三国同盟の略奪の上に基づいた金融の全く隠されたシステムの、トゥルーマン大統領による確立の間の関連性で;

b)第二次世界大戦の間の、レンド-リースの運搬(援助)を通した、米国からソ連への、アメリカの占領的な(ドイツ)マルクの(通貨の)原版の譲渡で;

c)ハリー・ホプキンスと言う形における、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近による、米国からソ連への、最重要な原爆の機密と構成要素(部品)の譲渡で;

d)マンハッタン(原爆開発)計画の主任、レズリー・グローヴスの判断における、「国家安全保障の危険性」としての、米国の国家安全保障の構造の中の、エドワード・コンドン博士の存在です。コンドンは、マッカーシーの委員会の調査には全く、直接には拘わっていませんでしたが、彼はその上院議員、そしてその他の議会的な安全保障の委員会に、安全保障の危険性の可能性として、間違いなく知られていました。これが、1960年代において、米国の空軍に主催された UFO の研究が題材である彼の著書、コンドン・レポート(報告書)を奇妙な光の下に位置付けるのは、その題材についてコンドン博士に「正しい」発見(i.e. UFO の全否定)をさせるために、恐喝、または強要した可能性を示唆するためです。言い方を変えると、国家安全保障の権威内における幾らかの人達の考えにおけるコンドンの疑わしい地位は、彼の委員会に対する外側からの秘密裡の影響力の効能を可能にし、そして故に、彼の UFO の調査の客観性のあらゆる主張を損なわせます。

6)戦後のアメリカの連邦の省庁と機関の中の、ナチスと共産主義者達の両方の存在は - 「マッカーシー時代の議会の非-アメリカ的な活動委員会」の様な、様々な戦後の議会的な委員会において典型される様に - 戦後の安全保障の争いの多くが、戦後の米国におけるそれらの2つの派閥(i.e. ナチスと共産主義)、そして政治的な左派と右派の彼等のアメリカ人の仲間達の間の、より深く、より隠された争いの、公共の場における体現であった可能性を示唆します。成り行き的に、戦後の米国の国家安全保障の状態、その秘密裡の作戦、(UFO の問題を含む)ブラック(裏資金)の研究計画、そしてそれらを資金援助するためにデザインされた、隠された金融のシステムの中のそれらの勢力と派閥の間の相互関係の可能性の、十分で、そして詳細な歴史的研究は、未だに存在していません。言い方を変えると、この最重要な期間のこれまでの研究は、その問題の一つの要素にだけ集中し:マッカーシーの主張だけ、またはペーパークリップ作戦におけるナチスの起用の影響だけ、もしくは UFO 現象の始まりとそれに対する対応だけ、等々でした。ですが、私が信じるに、それらの物事の全てに対して、そしてその時代の歴史編集に対して総合的な近づき方が必用であると示唆するために、此処において、そして私の以前の著書において、十分なものが体現されたでしょう。¹³

一つの事が、しかしながら、以前の章から明らかに台頭し:「国際ナチス」はいないと言うアイデアは、ヨーロッパにおける戦後の現実性、そして(2つの)世界大戦の両方におけるドイツの戦争の目的に対して酷似し過ぎている詳細だけでなく、第二次世界大戦の間のナチスの詳細な計画と、現在のヨーロピアン・ユニオンの制度の間の平行線によってもまた、矛盾している様に現れます。更に重要な事に、1950年において記述された文献である、マドリッド回覧書の薄気味悪い先見性は、当時から現在までの出来事の一連によって実証された様に現れます。そして恐らく全ての中で最も不穏なのは、新たな「ヨーロッパ」が、そのナチスとファシストの前例の様に、日常的に、化け物の様な可能性の物理学の実験に拘わっている様であるためです。

ナチスと共産主義者達の両方が、その混合の中にあり、国内的、そして国際的な場面の背後で争っている可能性と共に、金融の隠されたシステムと、それ自体の全くの国際的なソヴリンの地位の一種を有する制度(セルン)の中で、反-物質を扱い、そして「新たな物理学」を探求している大規模な科学計画と共に、20世紀の2つの大規模な社会主義の思想(ナチス/共産主義)によって体現された可能性が、背後に潜んでいるのを無視するのは、危険が大き過ぎます。
_____
1 Peter Levenda, The Hitler Legacy, p. 59.
2 p. 9. この章における全てのページの言及は、この本における以前のページに対してです。
3 pp. 11-12.
4 pp. 17-18.
5 p. 19.
6 pp. 25-26.
7 p. 27.
8 pp. 28-29.
9 pp. 16-17.
10 pp. 30-31.
11 pp. 62, 64-65.
12 このコンテキストの中で見解されると、西ドイツの高等弁務官になるための、ジョン・マクロイの任命が、全くの偶然では無いのは、マクロイが、I.G. ファーベン社のアメリカ人の弁護士として勤めたためです。彼の任命は故に、戦後のドイツにおけるアメリカとカルテルの金融的、そして産工業的な関心(利権)を守るためにデザインされたと見解出来るでしょう。従って、戦後の時代における、彼による70,000人を超えたナチスの免罪は、幾らかの疑いを持って見解されるべきでしょう。
13 あらゆる総合的で、歴史編集的な観点から検証されるべき、更なるもう一つの重要な要素は、土台の権力と影響力についてのリース委員会でしょう。


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DARK JOURNALIST & JOSEPH FARRELL - THE RISE OF THE NEW REICH & DEEP STATE AMERICA
ダーク・ジャーナリスト(ダニエル・リスト) & ジョセフ・ファレル - 新たなライヒ(帝国) & アメリカのディープ・ステート(闇の政府)

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