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バビロンの金融マフィア達: 番外編 II

新貨条例

新貨条例(新貨條例、しんかじょうれい)は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された日本の貨幣法である。日本の貨幣単位として「圓(円)」を正式採用した。

明治8年(1875年)6月25日の改正に伴い名称も貨幣条例(貨幣條例、太政官布告第108号)に改められ、明治30年(1897年)10月1日の貨幣法施行により廃止された。

明治初年の諸課題

明治維新後も新政府は、江戸時代の貨幣制度をほぼそのまま受け継いだが、中央集権的な国家を建設するためには、各藩が独自に発行していた藩札(さらにそれを受け継いだ府県札)の整理や、東日本の金(計数貨幣)と西日本の銀(秤量貨幣)の統一なども課題として残されていた。また、1両が4分、1分が4朱という一部4進法が用いられる貨幣体系も慣れない外国人には理解しにくく、改善が求められていた。

また当時、国内外の金銀比価の差により、大量の金が国外へ流出していた上、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥っていた。大量の予算を充足する目的から、会計事務掛三岡八郎(福井藩士。のち由利公正)が導入した不換紙幣太政官札(10両、5両、1両、1分、1朱の5種)が大量に発行され、政府貨幣の信用が著しく低下していた。その価値は金正価100両に対し、太政官札120両から150両まで下落したという[1]。

新政府は慶應4年閏4月21日(1868年6月11日)に貨幣司を設けて、接収した旧金座および銀座で二分判、一分銀、一朱銀および天保通寳を製造したが、硬貨の鋳造技術も旧態依然の未熟なものであり、江戸時代以来、偽造金銀銭が多く流通しており、貿易決済にも用いられたため諸外国からの苦情が殺到。貨幣の国家管理は急務といえた。また方形の貨幣は流通に従って四隅が摩耗するなど、品質の低下が激しく、円形通貨の必要性も叫ばれた。

大隈主導の幣制改革

上記の矛盾を解決するため明治2年2月5日(1869年3月17日)、外国官判事兼会計御用掛大隈重信の建白により、造幣局が設立されることとなった。三岡失脚後は大隈が幣制改革を主導することになる。大隈は同年3月4日輔相三条実美に対し、通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白し、了承された。しかし、実際に新通貨「円」が施行されるまでは、この後2年の歳月を要することになる。明治2年11月4日(1869年12月6日)に発生した新貨幣生産を担うべき造幣局予定地の火災による設備の焼失や、市場に流通する偽金・不換紙幣の整理に時間を割かれたためである。

会計官副知事となった大隈は、とりあえず太政官札と準備中の新貨幣との交換を約束するとの布告を出して強制的に太政官札を通用させる一方、正金との引き替えを禁じる。しかし、太政官札価値の下落はなおも続き、明治2年6月には正金100両に対し185両にまで低下した[2]。さらに大蔵大輔(のち民部大輔・参議を兼任)となった大隈は、外国から苦情が殺到していた贋造の旧二分金(1両の半分)の回収を急いだ。11月には、それまで高い額面しか無かった太政官札に加え、便宜のため小額紙幣(2分、1分、2朱、1朱)を「民部省札」として発行、流通させた。これらの努力により明治3年には、太政官札はほぼ正金と同価値にまで信用を回復する。

しかし今度は偽太政官札が流通し始めており、偽造が不可能なほど精細な紙幣の発行が急がれた。大隈は北ドイツ連邦の会社に印刷を依頼し、明治通宝(新紙幣、ゲルマン札)の発行を開始した。

明治3年11月27日(1871年1月17日)には大阪に設置された造幣寮が稼働開始、明治4年2月15日(1871年4月4日)には創業式を挙行した。最新式の鋳造機を香港から購入し、贋造が難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、銀貨1種(1円)、補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された[3]。明治4年12月より、旧貨幣(万延二分判・一分銀・寛永通寳・天保通寳など)と新銭貨との交換が行われている。

紙幣に関しては、明治通宝が額面9種(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭)をもって発行された(のちに旧藩札や太政官札と交換されることになる)。

新貨条例の制定

造幣寮で新貨幣鋳造が始まったことにより、新たな貨幣制度の制定の準備が整ったが、金・銀どちらを本位貨幣にするかは、結論は出ていなかった。上記のように幕末期以来大量の金が国外に流出していたため、金準備が不足しており、また横浜では、他の多くのアジア諸国と同様に「洋銀(メキシコドル)」での取引が常態化していたため、大隈としては金銀複本位制を考えていた。

明治3年11月12日(1871年1月2日)太政官裁定において、一圓銀貨を本位貨幣、金貨その他を補助貨幣とする案がまとめられ、貨幣の品位および量目は以下のように定められた[1]。当初補助銀貨の一種に25銭銀貨の案があったが明治3年5月16日(1870年6月14日)、造幣寮首長キンドルの意見を採用して20銭銀貨に改められた[4]。

・ 本位銀貨 
・ 壹圓銀貨 - 品質銀九分銅一分、径1.5インチ、量416ゲレイン
・ 補助銀貨
・ 五拾銭銀貨 - 品質銀八分銅二分、径1.2インチ、量208ゲレイン
・ 貳拾銭銀貨 - 品質銀八分銅二分、径15/16インチ、量83ゲレイン
・ 一拾銭銀貨 - 品質銀八分銅二分、径11/16インチ、量41.6ゲレイン
・ 五銭銀貨 - 品質銀八分銅二分、径(闕ク)、量20.8ゲレイン
・ 補助金貨
・ 一拾圓金貨 - 品質金九分銅一分、径1.25インチ、量248ゲレイン
・ 五圓金貨 - 品質金九分銅一分、径15/16インチ、量124ゲレイン
・ 貳圓半金貨 - 品質金九分銅一分、径13/16インチ、量62ゲレイン
・ 補助銅貨
・ 壹銭銅貨 - 品質純銅、径1・3/32インチ、量110ゲレイン
・ 半銭銅貨 - 品質純銅、径12/16インチ、量55ゲレイン

明治3年11月27日(1871年1月17日)、大阪川崎村の造幣局において新貨幣の鋳造を開始した。しかし、当時アメリカ合衆国に出張中の大蔵少輔兼民部少輔伊藤博文は明治3年12月29日(1871年2月18日)、「現在、世界の大勢は金本位に向かいつつあり」と大蔵卿に対し建言し、金本位制の採用を決定した[5]。 これにより新たに一円金貨と二十圓金貨を発行し、一円銀貨は開港場等の対外貿易に限る旨等を定めた「新貨条例」が、明治4年5月10日に太政官より布告された[6]。

法律の概要

条文は「前文論告」、「新貨幣例目」および「新貨幣通用制限」により構成され、貨幣の図面、量目、品位および直径などを記した「新貨幣品位量目表」が掲げられている。新貨条例の概要は以下の通りである[7]。

・ 貨幣の基準単位を「両」から「圓(円)」に切り替え(旧1両を新1円とする)る。
・ 旧貨幣は漸次廃止する。
・ 補助単位として「銭」「厘」を導入。100銭=1円、10厘=1銭とし、10進法とする。
・ 本位貨幣を金貨とし、1円金貨を原貨とする(金本位制)。
・ 1円金貨の含有金を純金23.15ゲレイン=1.5gとする(1アメリカドルに相当する)。

これにより、旧1両が新1円に等価となり、さらに1米ドルとも連動する分かりやすい体系となった。なお、やはり伊藤の建議により、アメリカのナショナルバンク制が導入されることになり、翌年制定の国立銀行条例により設立された「国立銀行」(名前は国立だが民営である)が紙幣の発行を担うことになった。

また、明治5年4月1日(1872年5月7日)より旧藩札・太政官札・民部省札と新紙幣(明治通宝)の交換が開始され、明治12年までにはほぼ回収が終了した。

貨幣の品位および量目は以下のように定められた。しかし一圓金貨は技術上の問題から龍図がうまく圧印できず発行されなかった。また銅貨も製造所の建設が遅れたため、この時点では少量の試鋳貨幣の製造にとどまった。

・ 本位金貨幣
・ 二十圓金貨 - 品位千分ノ内金900銅100、純金重量30グラム、貨幣全量33・1/3グラム
・ 十圓金貨 - 品位千分ノ内金900銅100、純金重量15グラム、貨幣全量16・2/3グラム
・ 五圓金貨 - 品位千分ノ内金900銅100、純金重量7.5グラム、貨幣全量8・1/3グラム
・ 二圓金貨 - 品位千分ノ内金900銅100、純金重量3グラム、貨幣全量3・1/3グラム
・ 一圓金貨 - 品位千分ノ内金900銅100、純金重量1.5グラム、貨幣全量1・2/3グラム
・ 貿易銀
・ 一圓銀貨 - 品位千分ノ内銀900銅100、純銀重量24.261グラム、貨幣全量26.957グラム
・ 定位ノ銀貨幣(補助ノ銀貨)
・ 五十銭銀貨 - 品位千分ノ内銀800銅200、純銀重量10グラム、貨幣全量12.5グラム
・ 二十銭銀貨 - 品位千分ノ内銀800銅200、純銀重量4グラム、貨幣全量5グラム
・ 十銭銀貨 - 品位千分ノ内銀800銅200、純銀重量2グラム、貨幣全量2.5グラム
・ 五銭銀貨 - 品位千分ノ内銀800銅200、純銀重量1グラム、貨幣全量1.25グラム
・ 定位ノ銅貨(補助ノ銅貨)
・ 一銭銅貨、量目110ゲレイン
・ 半銭銅貨、量目55ゲレイン
・ 一厘銅貨、量目14ゲレイン

貨幣の形式に関連して量目の単位であるガラム(グラム)、ゲレイン(グレーン)および日本の量目の単位である戔(匁)の換算表も定められた。 1ガラム = 15.432ゲレイン = 0.266204戔、日本量目では1戔 = 3.756521ガラム = 57.971ゲレインであった。

新貨幣通用制限

本位金貨は支払いに対し法貨として無制限通用と定められた。

貿易一圓銀貨は貿易取引専用とし貿易一圓銀貨100円は金貨101円と等価とする。これにより金銀比価は1:16.01と当時の国際水準に基づくものとなった。貿易一圓銀貨は国内における一般取引には用いないこととした。

補助銀貨は一回の支払いに対し法貨としての通用制限は10円とされ、補助銅貨は一回の支払いに対し通用制限は1円とされた。ただし、貿易一圓銀貨の国内における制限および補助貨幣の通用制限は、受取り、払渡しを拒否する権利があるということであり、互いの対談による合意に基づく取引はこの限りでない。

関連法令

新貨条例で定められた貨幣の形式はその後の太政官布告により幾度か改正され、補助銀貨の量目変更、貨幣の直径、模様が変更された。また貿易一圓銀貨については通用に関して重大な変更が行われた。また流通不便の五銭銀貨および二銭銅貨に代わり、五銭白銅貨が制定された。

・ 明治4年9月13日太政官布告第462号
・ 条文中の違算及び誤写を訂正する。
・ 明治5年2月5日太政官布告第34号
・ 貨幣の圧印作業の問題により一圓金貨の模様を龍図から「一圓」の文字に改める。
・ 明治5年3月8日太政官布告第74号
・ 貨幣の圧印作業の問題により五銭銀貨の模様を龍図から「五錢」の文字に改める。
・ 明治5年11月14日太政官布告第341号
・ 貨幣製造の技術上の問題から十圓、五圓、二圓、一圓金貨幣および五十銭、二十銭銀貨幣の直径を縮小する。また補助銀貨の量目を増加し貿易一圓銀貨に対し額面による比例とする。しかし銀貨のうち発行されたのは五十銭のみで、しかも現存する直径の変更された五十銭銀貨幣の量目は12.5グラムと変化はない[8]。
・ 明治6年2月10日太政官布告第46号
・ 国際化に配慮して五十銭、二十銭、十銭、五銭銀貨幣の模様を改め、額面を算用数字およびローマ字との併記とする。
・ 明治6年8月29日太政官布告第308号
・ 二銭銅貨を加え、銅貨を二銭、一銭、半銭、一厘の四種とし、額面表記を算用数字およびローマ字との併記とする。
・ 明治7年3月20日太政官布告第34号
・ 貿易一圓銀貨の模様を改め額面表記を算用数字およびローマ字との併記とする。
・ 明治8年2月28日太政官布告第35号
・ 貿易一圓銀貨の国際的な流通を促進するため量目を420ゲレインに増量し、額面表記を「貿易銀」に改める。
・ 明治8年6月25日太政官布告第108号
・ 新貨条例の条文を一部改正し「貨幣條例」として改めて公布された[9]。ここでは「新貨幣例目」の項目は「貨幣例目」に改められ、 江戸時代の貨幣と新貨幣との価格に関する説明が削除された。また貿易銀および量目を増加した補助銀貨が量目公差表に追加された。
・ 「新貨幣通用制限」の項目は「貨幣通用制限」に改められ、「定位ノ銀貨幣」は「補助ノ銀貨」に、「定位ノ銅貨」は「補助ノ銅貨」にそれぞれ改められた。さらに開港場貿易に使用する「一圓銀」は「貿易銀」と改められ、条文も見直された。
・ 明治9年3月4日太政官布告第27号
・ 貿易一圓銀貨100円は金貨100円と等価とする。
・ 明治11年1月19日太政官布告第2号
・ 通用貨幣の溶解又は毀損禁止を定める。
・ 明治11年5月27日太政官布告第12号
・ 貿易一圓銀貨を日本国内でも金貨と等価に無制限通用とする。
・ 明治11年11月26日太政官布告第35号
・ 「貿易銀」表記の銀貨を量目416ゲレイン、「一圓」表記の明治7年制定のものに復帰する。
・ 明治21年11月6日勅令第74号
・ 小型で流通不便の五銭銀貨に代わり五銭白銅貨を定める。白銅貨の法貨としての通用制限は1円とされた。

旧貨幣の引換および通用停止

江戸時代の小判、二分判、一分銀など定位貨幣は含有金銀量に基づいて価格が定められた上、流通高が調査され[10]、新貨幣と引換えられたが、引換えは進捗せず期限は度々延期され最終的に明治21年(1888年)12月31日に交換廃止となった。8厘通用の天保通寳は重量が嵩張り流通不便貨幣として通用停止が布告されたが、これも2度期限が延期された。

・ 定位金貨および定位銀貨
・ 明治7年9月5日太政官布告第93号により、旧貨幣の価格改正および通用停止を布告し、交換期限を明治8年12月までとする。
・ 明治8年12月28日太政官布告第202号により、交換期限を明治9年12月末までに延長。
・ 明治9年12月28日太政官布告第159号により、交換期限を明治10年12月末まで更に延長。
・ 明治10年10月11日大蔵省布達甲第26号により、交換期限を明治11年12月末まで更に延長。
・ 明治11年12月4日大蔵省布達甲第67号により、交換期限を明治12年12月末まで更に延長。
・ 明治12年12月23日大蔵省布達甲第133号により、交換期限を追って達しのあるまで延期。
・ 明治21年11月24日大蔵省令第16号により、旧貨幣は明治21年12月31日限りで交換を廃止。
・ 天保通寳
・ 明治17年10月2日太政官布告第26号により、天保通寳を明治19年12月限りで通用禁止、期限内に交換を布達。
・ 明治19年11月15日勅令第70号により、通用禁止を明治24年12月31日までに延長。
・ 明治25年1月4日大蔵省告示第1号により、国庫納入および交換期限を明治29年12月31日まで更に延長。
・ 明治29年3月18日大蔵省訓令第2号、重ねて11月19日大蔵省訓令第35号により、明治29年12月31日限りで交換を廃止。
・ 明治5年9月24日太政官布告第283号
・ 鉄銭の貨位を改正し寛永通寳鉄一文銭を1/16厘、精鉄四文銭を1/8厘とした。

事実上の金銀複本位制

伊藤の建議どおり当時欧米では金本位制が主流になりつつあったとはいえ、清をはじめアジア諸国は依然として銀主体の経済圏であり、また対外交易でも墨銀(メキシコドル銀貨)等の洋銀が通用していた。このため新貨条例では、明治政府は本位貨幣である一円金貨と貿易用に限定した一円銀貨を鋳造し、開港場での無制限使用を認めたことで金本位制をうたっていながら、実質的には金銀複本位制を採ったことになる。実際、明治6年(1873年)頃から銀価格の下落が進むにつれ、金貨の国外流出はいっそう激しくなり、明治8年(1875年)には、これまで墨銀に一致させてきた一円銀貨の品目(銀含有量)を米ドルの米国銀と一致させることとし、正式に「貿易銀」と呼称し、事実上の本位貨幣として扱われることとなった(なお、新貨条例は「貨幣条例」と改称された)。

明治10年頃には市場では銀貨の流通量が金貨を上回るようになり、大蔵卿・大隈は金銀複本位制の導入を建議するにいたる。明治11年には開港場だけでなく、国内での無制限通用も認められることとなった。これにより名目上も完全に金銀複本位制に移行した。

しかしすでに明治9年の国立(i.e. 民営)銀行条例改正により事実上不換紙幣の発行が認められるようになっており、西南戦争戦費支出増大などに伴い不換紙幣の増発が続いたため、インフレが急速に進行。金銀の流出、および退蔵化がさらに進んだため、松方デフレ政策の登場となった。明治十四年の政変により大隈が失脚した後、大蔵卿(明治17年より大蔵大臣)となった松方正義が主導した超緊縮財政、および明治15年(1882年)の日本銀行設立による紙幣発行独占により銀準備が回復し、明治18年(1885年)に事実上銀本位制に移行した。

その後も金本位制は松方主導の下に研究が進められ、紆余曲折を経て日清戦争の賠償金を正価準備として充足するなどして、明治30年(1897年)に貨幣法が制定され、ようやく導入されることになる(ただし、金平価を0.75グラム=1円という旧来の2分の1の平価とした)[11]。
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参考文献

1. ^ a b 明治財政史編纂会編 『明治財政史(第11巻)通貨』 大蔵省編纂、1905年
2. ^ 『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年
3. ^ 『造幣局六十年史』 大蔵省造幣局、1931年
4. ^ 『造幣局百年史(資料編)』 大蔵省造幣局、1974年
5. ^ 瀧澤武雄、西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年
6. ^ 塚本豊次郎 『本邦通貨の事歴』 泉友会、1928年、168頁
7. ^ 須原屋茂兵衛 『改正新貨条例』 1871年 近代デジタルライブラリー
8. ^ 日本貨幣商協同組合 『日本貨幣カタログ2008』 2007年
9. ^ 造幣寮 『貨幣条例』 1871年 近代デジタルライブラリー
10. ^ 『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 大蔵省、1875年 近代デジタルライブラリー
11. ^ 『明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金』 大蔵省編纂、1939年


日本銀行

日本銀行(にっぽんぎんこう、にほんぎんこう、英語: Bank of Japan)は、日本銀行法(平成9年6月18日法律第89号)に基づく財務省所管の認可法人(財務省設置法4条59号)であり、日本国の中央銀行である。略称は日銀(にちぎん)。日本銀行の読みは、正式な読み方は存在していないが、日本銀行内では「にっぽんぎんこう」と呼ぶ事とされており、日本銀行券でのローマ字表記もNIPPON GINKOとなっている。なお、国会では、従来の読み方である「にほんぎんこう」が使用されている。

概要

日本銀行は、日本国政府から独立した法人とされ、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円で、そのうち政府が55 % の5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を政府以外の者が出資する。出資者には一般の株式会社の株式に相当する出資口数を証した「出資証券」が発行されるが、出資証券はジャスダックに上場され、株式に準じて取引されている(ただし、一般の上場株式とは違い、一部の証券会社では日銀出資証券を取り扱っていない場合がある)。証券コードは8301。取引の1単元は100株(便宜上の呼称で、正しくは100口)。

2015年(平成27年)3月末日時点における政府以外の出資者の内訳は、個人40.1%、金融機関2.2%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.5%となっている。株式会社と異なり、出資者は経営に関与することはできず、役員選任権等の共益権はない。自益権に相当する剰余金の配当は、払込出資金額(1株の額面金額に相当、1口あたり100円)に対して年5分(5 %)以内に制限されている。もし、日本銀行が解散を決議した場合でも残余財産の分配は出資者にはなく、日本銀行法によりすべての財産は国に帰属することになっている(第9章 第60条2項)。

なお売買価格は株式市場における実勢価格であり、「額面の出資金額」とは異なる。売買単位は100口ではあるが、100口券を1口券100枚に分割可能であること及び、100口未満(1 - 99口)の買取請求ができないことから、単元は1口と考える。

沿革

第二次世界大戦下の旧日本銀行法では、「国家経済総力の適切なる発揮を図るため国家の政策に即し通貨の調節、金融の調節及び信用制度の保持育成に任ずる」、「専ら国家目的の達成を使命として運営せらしむる」機関とされていた。

・ 1872年(明治5年) - 国立(i.e. 民間)銀行条例制定
・ 1876年(明治9年) - 国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレーションが進行。
・ 1881年(明治14年) - 三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
・ 1882年(明治15年) - 6月、日本銀行条例公布。10月10日に開業。
・ 1884年(明治16年) - 兌換銀行券条例制定、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀行紙幣を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
・ 1885年(明治17年) - 日本銀行兌換銀券発行、銀本位制を確立する。
・ 1896年(明治29年) - 日本で初めてのエレベータ(オーチス製)を日本銀行本店に取付け
・ 1931年(昭和6年)- 金輸出再禁止にともない管理通貨制度を確立した。
・ 1932年(昭和7年)- 11月25日、新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受。12月24日から売りオペ。
・ 1942年(昭和17年)- 2月24日、日本銀行法(昭和17年法律第67号、以下「旧法」)公布。5月1日、旧法に基づく法人に改組。日本銀行条例、兌換銀行条例の廃止。
・ 1945年(昭和20年)12月27日 - インドシナ銀行(英語版、フランス語版)東京支店の業務・財産の管理人となる。
・ 1946年(昭和21年)2月 - ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に続く預金封鎖が実施された。
・ 1946年(昭和21年)7月 - 17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQ から日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金(i.e. 昭和天皇)銀行がもっていた管理権を日銀が継承した。
・ 1947年(昭和22年)3月15日 - 農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に関する件公布施行。
・ 1948年(昭和23年)12月20日 - 閉鎖機関処理部廃止。
・ 1949年(昭和24年) - 5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部にも上場。11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する計算登記および報告事務を引継いだ。また、3年前から置いていた山口事務所を大晦日に廃止。
・ 1950年(昭和25年)6月7日 - 外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行。
・ 1952年(昭和27年)6月16日 - 国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
・ 1953年(昭和28年)- 7月15日、金管理法。10月8日、世界銀行債200万ドルを買い入れ。12月18日、連邦準備制度(i.e. 個人私有銀行) に口座開設。
・ 1955年(昭和30年)4月15日 - イングランド(i.e. ロスチャイルド)銀行に口座開設。
・ 1959年(昭和34年)9月11日 - 普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度はじまる。
・ 1960年(昭和35年)5月 - 東証、大証、名証から上場廃止。
・ 1961年(昭和36年)11月24日 - 外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した。
・ 1962年(昭和37年)10月1日 - 世銀債500万ドルを引受け。1964年同月同日にも同額引受け。
・ 1963年(昭和38年)2月 - 店頭登録(現ジャスダック市場に公開)。
・ 1964年(昭和39年) - 11月25日、主要11中銀・国際決済銀行(BIS)・合衆国輸出入銀行との間に30億ドルのクレジット設定。12月4日、日本共同証券に特融。翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
・ 1965年(昭和40年)6月 - 7日、山一証券に対する日銀特融第一回。同月中に5回追加された。18日、日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付を決定。25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
・ 1968年(昭和43年)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加。1973年7月10日、倍の20億ドルとなる。1978年11月1日には50億ドルに達した。
・ 1971年(昭和46年)6月1日 - 外国為替資金特別会計の外国為替銀行に対する外貨預託による輸入関係資金の供給を日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。
・ 1973年(昭和48年)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
・ 1982年(昭和57年)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組。
・ 1985年(昭和60年)1月25日 - シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結。
・ 1988年(昭和63年)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動。1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。1992年5月26日に払込みオンライン化。1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。
・ 1992年(平成4年)4月1日 - 歳入等光学文字認識システムの処理対象官庁を拡大。
・ 1994年(平成6年)11月4日 - 東京証券取引所と当座預金取引を開始。
・ 1997年(平成9年)6月18日 - 旧法の全部を改正する日本銀行法(平成9年法律89号)公布。翌年4月1日に施行。
・ 1997年(平成9年)11月 - 日銀出身者が社長を務める徳陽シティ銀行が破綻。
・ 2001年(平成13年) - 1月4日、当座預金決済および国債決済を即時グロス決済化。同年、量的金融緩和政策。
・ 2002年(平成14年) - ペイオフ (預金保護)解禁。金融機関保有株式の買入れ。
・ 2003年(平成15年) - 自己資本比率8%割れ。史上2度目の赤字決算となる。
・ 2013年(平成25年) - 9月に提出された野村証券とユーロクリアの主張を踏まえ、10月にクリアストリームやゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェース、バークレイズ、シティバンク、および国内のメガバンクと、日本国債の流動化を協議。協議は同年8月9日の初回から2016年3月18日時点で第14回を数える。
・ 2016年(平成28年) - 3月17-18日「決済システムフォーラム」を開催。ブロックチェーンの可能性について説明と議論が行われた。参加者にはNTTデータ、国際銀行間通信協会、経済産業省、IBM、農林中央金庫、野村総合研究所、ユーロクリア、国内のメガバンク、さらに翌月立ち上がったブロックチェーン推進協会や日本ブロックチェーン協会のメンバーもいくつか含む。

役割

1998年(平成10年)、日本銀行法の全面改正によって、「物価の安定」と「金融システムの安定」という二つの日本銀行の目的が明確に示された。政府からは独立して運営されるようになって戦前の国家総動員・戦時立法色は払拭されたが、日本国憲法第65条(『行政権は、内閣に属する。』)に反するのではないかという問題がしばしば論じられるようになった。また、円を基礎とした国民経済の発展に資する機関として経営政策全般の透明化が求められるようになった。

統制の問題はあるが、政府とは取引関係がある。日銀が保有する長期国債の買戻し条件付売却、政府短期証券の引受、償還期限の到来した国債等の借換のための引受である。本来、借換は累積債務を減らすために行うものであるが(預金供託金庫を参照)、実態として借換が債務を増加させている。

機能

・ 発券銀行として日本銀行券の発行(i.e. 金利付きの貸し出し)および管理を行う。
・ 政策金利(旧・公定歩合)操作、公開市場操作、支払準備率操作等の手法により金融政策を実施し、通貨流通量を調整することで物価と国民経済を安定させる。
・ 日本銀行の当座預金を使って銀行などの金融機関同士の取引の決済を行う。つまり銀行の銀行である。
・ 国庫金の出納を行う政府の銀行である。
・ 内国為替業務による円滑な資金決済や、日銀特融などの制度担保(「最後の貸し手」)により金融秩序の安定を図る「銀行の銀行」としての役割を果たす(預金や融資の取引の相手方は、日本銀行法の定めに基づき指定された金融機関等に限られる)。
・ 各国中央銀行や公的機関との間の国際関係業務(外国為替市場への介入を含む)を行う。
・ 金融経済情報の収集および研究を行う。
・ 経済統計の作成および公表を行う。
・ 全国企業短期経済観測調査(日銀短観)
・ 企業物価指数、企業向けサービス価格指数
・ マネーストック統計(旧マネーサプライ統計)
・ 資金循環統計
・ 国際収支統計(統計作成は日銀、統計公表は財務省)
・ 貸出約定平均金利
・ 預金店頭表示金利
・ 日本銀行国際商品指数
・ 実質輸出入
・ 外国為替相場状況
・ 実質実効為替レート

通常業務

・ 商業手形その他の手形の割引。
・ 手形、国債その他の有価証券を担保とする貸付け。
・ 商業手形その他の手形又は国債その他の債券の売買。
・ 金銭を担保とする国債その他の債券の貸借。
・ 預金契約に基づいて行う預金の受入れ。
・ 内国為替取引。
・ 有価証券その他の財産権に係る証券又は証書の保護預り。
・ 地金銀の売買その他前各号の業務に付随する業務。

[以下省略]

  1. バビロンの金融マフィア達: 番外編 II
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